才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ソクラテスと朝食を

日常生活を哲学する

ロバート・ロウランド・スミス

講談社 2012

Robert Rowland Smith
Breakfast with Socrates-The Philosophy of Everyday Life 2009
[訳]鈴木晶
編集:柿島一暢
装幀:大野リサ

迎春、いや試春。
明けましておめでとうございます。
新年第1弾の千夜千冊は、
お雑煮・お節に代わって、『ソクラテスと朝食を』です。
この一冊は、われわれが朝起きて床に就くまでを
ソクラテスにかこつけて古今の思惟の意匠を借りつつ、
けっこう突っ込んで日常哲学したものです。
ときどき、ぼくの暮らし方や過ごし方をまじえ、
ごくごく気楽に、でも幾分は新年のスタートにふさわしく、
いつもご愛顧の千夜千冊の読者諸君の知性を
ちょっぴり揺さぶるべく、書いてみます。

 西暦2013年、平成25年の癸巳。ニッポンが本気で試される年になる。迎春・頌春ならぬ試春か。ぼくの今年は初詣以外はあいかわらずの寝正月。2日に書初めで「面影」を書き、4日の今日が千夜千冊の事始め。
 このところぼくの新年は、その年第1弾の千夜千冊をどうするか、これかな・あれかな・ちがうな・これだなという一冊を選び、それについて何かを書くことが例年の個人仕事始めだった。
 この12年間ずっと、そういうふうに新年最初の千夜千冊を選んできた。あらためて一覧してみると以下の通りだった。いささか懐かしい。2000年2月が第1夜の中谷宇吉郎『雪』なので、翌年からになる。

  2001 保田與重郎『後鳥羽院』
  2002 大林太良『正月の来た道』
  2003 アルチュール・ランボー『イリュミナシオン』
  2004 司馬遼太郎『この国のかたち』
  2005 ミルチャ・エリアーデ『聖なる空間と時間』
  2006 周士心『八大山人』
  2007 ヴァレリー・ラルボー『幼な心』
  2008 土橋寛『日本語に探る古代信仰』
  2009 老子ほか『老子』
  2010 マンデルブロ&ハドソン『禁断の市場』
  2011 ジョン・エスポジット『イスラームの歴史』
  2012 高行健『霊山』

 こう並べてみると、我ながらなかなか面白い選本になっている。よくぞ毎年“一人ブックウェア”してきたものだ。
 今回も師走に入って引っ越し作業に揉まれながらも「行く年来る年の本」を何にしようかなと思い、柿本人麻呂の歌集でいこうと思って少しずつテキストファイルをつくっていたのだが、年末の一冊をすこぶるリオリエントな『神なるオオカミ』(1494夜)にしたので、がらっと変えたくなった。
 そういえば、新年の「さんまのまんま」にゲストで出てきた横綱白鵬が『神なるオオカミ』を持参していて、さんまに「この本、いいっすよ」と勧めていた。さすがモンゴルのオオカミだ。
 で、人麻呂をあとまわしにし、振り子をヨーロッパに振って、かつ「一年の計は元朝にあり」というとても古くさい日本の諺にあえて従って、「われわれのごくフツーな一日」を少々考えなおしてもらおうと決めた。『ソクラテスと朝食を』だ。
 帯の売り文句やネット書評では「ミリオンセラー『ソフィーの世界』の再来」という触れ込みだが、あれよりはイキがいい。それにちょっぴりポストモダンになっている。
 しかしぼくはもともと「フツーが一番」という考え方が大嫌いで、フツーにこそ亀裂も深淵もあり、打算との闘いがあると思ってきた。だからソフィーの作家のヨースタイン・ゴルデルがバークリーの相対論への愛着を除いて、「私はだれ?」といったフツーを意図しすぎているのは嫌いだった。
 この本も【目覚める】【通勤する】【仕事する】【テレビを見る】【スポーツジムに行く】【風呂に入る】といった、ごくごくフツーの日常を18項目にわたって取り上げているのだが、一見穏やかにフツーの事態を見つめているように見せてはいるものの、ところとごろに亀裂や深淵を窺わさせているのが、ちょっとばかりイキがよかったのである。

 最初に、こういう本がアマゾンの2009年「キンドル・ベストセラー」の第1位だったということを言っておく。ぼくは原則として電子書籍は読まないことにしているのだが(見るけれど、読まないのだ)、こういう本がベスト1になるとは、ふーん、キンドルも侮れない。
 書籍のほうの『ソクラテスと朝食を』は、すでに17カ国語に翻訳されたようだ。著者のロバート・ロウランド・スミスは1995年の『デリダと自伝』で話題になった著述家で、晩年のデリダがこれを読んでニヤリと「こいつは逸材だ」と驚いたという。その後、この著者は本書に味をしめて『プラトンとドライブを』を続刊した。そこそこ当たっているらしい。どんなところにも二匹目のドジョウがいるんだね。
 では、さっそく本書のツボだけを案内しておくが、諸君は諸君なりに日々の一日をなんとなく想定していてほしい。一日の出来事やかかわりを思い返すことは編集稽古の基本の基本にもなるもので、どんなインデックスで一日を振り返れるかということが、諸君のエディティング・セルフの基本像をあらわしているのだから、一日のことだからといってあまり軽視しないほうがいい。
 以下、ときどきぼくの暮らし方や過ごし方を合いの手に入れるので、あしからず。むろん著者とは見方が異なるところが少なくない。

 話は朝からなので、まずは【目覚める】だ。誰もが今日も眠りから覚めて一日を始める。目覚めて何がおこるかといえば、意識が作動する。だから、目覚めは哲学の開始でもある。
 それは一言でいえば「世界はまだあった」「やはり何かが続行している」ということを自分なりにコンファームすることだ。それとともに「私は生きている」という“生の事実”を継承したということだ。
 このように、自分の「存在の継続」を問うにあたって、毎朝起きるたびにコンファームするのではなく、普遍的にこのことを問うにはどうすればいいかを哲学者として最初にまっとうに考えたのが、言わずとしれた「我思う、ゆえに我あり」のルネ・デカルトである。デカルトは目覚めの哲学を大掛かりに集約したかったといっていい。
 というわけで【目覚める】は、哲学者にとっては「私はだれ?」ではなくて「自分がいる」ということを考えるための不断の再開なのである。哲学にとっては、このことは自分につながる「真理」に近づくことを意味していた。そう、著者は解説するのだが、ぼくは必ずしもそう見ていない。
 ぼくにとっての「真理」はちょこちょこ動きまわるもので、じっとしていない。動的で多義的なものだと思っている。真理は忘れっぽい人間がナイフを太ももにときどき突き刺したくて定言したものなのだ。
 古代ギリシア語の「真理」を意味する「アレーティア」は、「眠る・忘れる」を意味するレーティアの否定形である。「眠りを忘れる」ほうが真理に近づく方法なのだ。伏せられたものをいろいろな角度で布をめくってみること、そちらのほうが真理っぽい。
 ちなみにぼくは長年にわたって「起きた時が朝」であって、朝だから起きるというふうにはしてこなかった。そういうジンセーを、あれこれ手を打ちながら貫いてきた。これは、ガウンとナイトキャップをつけたまま一晩中起きていたイマニュエル・カント先生に似て、ぼくがカントそっくりの不眠症の夜型ニンゲンであるからなのだが、そのわりにカント先生よりも仲間やスタッフに恵まれていたこと、さらにはカントのいう「純粋理性」、つまり「誰にとってもちゃんとそこにある普遍性」などに囚われていないせいだろう。

 目が覚めると、われわれは顔を洗い、パジャマを脱いでアンダーシャツを着て、靴下をはく。女性たちは化粧をしてアイラインを入れる。まとめていえば【身支度する】。
 なぜ【身支度する】のだろうか。着たきり雀ではなぜダメなのか。目が覚めて出会うのが「外界」であって、その外界がもたらす出来事に、それなりに対処したいからだ。外界とは家庭をふくむ「社会」のことである。【身支度】は社会に対してのいつも通りの戦闘準備なのである。ただし有事ではなくて、平時の戦闘準備だ。
 有事のための軍人がいつも平時の武装を心するように、ビジネスマンが毎朝決まった身支度をするように、ぼくの母が毎朝口紅を付けていたように、なぜかわれわれには「いつも通り」の準備をすることが最も合理的なスタンバイだというふうに思うところがあったわけである。
 だから【身支度する】は日常哲学にとっておろそかににすべきではない。そこにはオントロジックな規定信号が発せられている。
 しかしジョン・ミルトンが『失楽園』で描いたように、われわれはどんな身支度しようとも必ずしも「準備を了えてはいない」とも言うべきだ。ミルトンはそのことをイヴの姿に象徴させた。イヴは準備が了えられなかったので、楽園を追放されたのだ。
 だいたい一日でおこるいろいろな出来事を、出掛けのお決まりの身支度ですましたところで、十分なはずがない。そこで逆に、多くの学校や企業や工場や店舗ではユニフォーム(制服)を定めるようにした。身支度がもたらす個人差を解消し、平時をできるかぎり外見で決めないようにするためだ。
 けれども、どうか。外見こそはコンテンツでもあるはずである。ユニフォームにネームプレートを付けるくらいなら、当人が選んだ衣裳にIDを感じられるようにしたほうが、よほどいい。

 ぼくは長らく仕事場に小さなクローゼット・スペースをつくって、そこに着替えをいろいろ置いてきた。
 理由はいくつかある。ひとつには出掛けるときにその日一日ぶんのアピアランスが決められないということで、もうひとつは仕事や仕事相手に応じて何度も身支度したいからだ。必要あらば何度でも着替えたい。これはゼイタクでしているのではない。編集変化的な身支度をするためだ。
 一方、われわれは朝の身支度によって一日ずつの「自己浄化」をしているのだと見ることもできる。昨日は昨日、今日は今日。まさに「よーし、今日も一日張り切っていこう」ということで、リポビダンDやウコンの力をぐいっと呑むように身支度をしているわけだ。これはちょっと難しくいうと、アスピレーション(向上)を喚起することに当たる。リポビタンDに頼らなくてもいい。朝の珈琲や生ジュースがアスピレーションになることもある。
 アスピレーションとは何か。レスピレーション(呼吸)やインスピレーション(霊感)と同様に、スピリット(魂)を綴りの中に含む言葉だから、つまりはレ・スピリット、イン・スピリットするように、多くの生命力を吸い込むということである。日本語なら「息吹」(いぶき)とか「言吹き・言ほぐ・言向ける」とでもいいたい。

 【身支度】ができたら、次は【通勤する】。【通学する】でもいいが、都市社会における通勤や通学は、社会での自分のアイデンティカルな行動を正当化するための大事なイニシエーション(通過儀礼)になっている。ここで気が萎えるようでは、その一日はかなりいいかげんになる。
 そこで、そこそこの通勤(通学)意志によって、われわれは自分自身を奮起させる。それだけでなく、社会的人格として一日を乗り切ることをイニシエートする。そのためなら満員電車も辞さないし、自転車通勤だって厭わない。クルマで行くときは好きなジャズピアノをかけもする。
 こんなふうにするのは、いわばフリードリッヒ・ニーチェ(1023夜)の言う「自己証明」ないしは「超人」をめざすわけなのである。さあ、これから何でもできるかもしれないという仮説を成立させるのだ。
 そこをジャック・デリダはいささか洒落て、「誤配からの調整」と言った。われわれは自分という存在がどこから来ているのかしばしば見失うのだが、それを通勤や通学によって、「今日も自分が配信されてきた」という実感をもつわけだ。「私は誤配なのではない」「仮に誤配ならそれを今日訂正できる」という自信をもつわけなのだと、デリダは説明した。
 たしかに質疑容赦でないかぎり、毎日、自分がどこへ行けばいいのか決まっていなかったなら、だんだん自己意識はおかしくなっていくだろう。26歳にしてデリダ読みの第一人者だった東浩紀の『存在論的、郵便的』(新潮社 1998)は、この誤配を訂正する自己について、たくみに解説してみせた。

 通勤がすめば、いよいよ【仕事する】である。仕事というのは、その原理は何を自分のほうから“give”にして、何を外から“take”してくるかということである。それゆえ仕事に向かったとたん、諸君はさまざまな“give”と“take”の損得勘定に立ち向かうことになる。
 けれどもこのとき、会社のBSやPL通りの活動しかできなくなれば、諸君の活動は決してヴァイタルにはならない。何か別の「やる気」が作動させる必要がある。そのくせ、その活動の数字的成果はBSとPLにしかならないのだから、【仕事する】とはその不合理な矛盾に敢然と立ち向かうということなのだ。ゴートクジに引っ越してきて最初にみんなが集まって話しあったとき、太田香保が「私はここでは不合理に向かう覚悟をしたいと思っている」と言っていたが、まさにそれが【仕事する】ということの本来なのである。
 が、とはいえ仕事にはロール・ルール・ツールのルル3条による階梯のばらつきがつきもので、外界としての社会で仕事をするには、そのルル3条がもたらすさまざまな上下関係などの人間関係のばらつきをクリアしていかなければならない。得意先もいるし、外注先もある。それをうまくもっていくためのチーム仲間もある。【仕事する】とはそういうニンゲン関係のばらつきに疲れぬ意義を発見できるようにすることなのだ。このようなことはサッカーチームのメンバーにもあてはまる。
 著者は、それにあたって一つだけ考えるとすれば、諸君の周辺にとって「何がリーダーシップなのか」ということを見極めるのがいいと書いている。誰がではなく、何がリーダーシップなのかということを。

 ところで困ったことに、どんな仕事も同じ濃度や同じ速度では進まない。かなりの深浅遅速がおこる。そこでついつい仕事をしているフリをするとか、手を抜くとか、ずる休みするとか、だらだらしたくなる。これは【サボる】ということだ。
 サボりたくなったからといって、おかしいと思う必要はない。サボタージュというのは、カール・マルクス(789夜)によれば労働運動の自覚的抵抗活動である。そのためサボタージュやストライキは働く者たちの「自由」を主張するということになるのだけれど、一人で仕事を【サボる】のもやはり自由に関係しているのかというと、そこはどうか。
 むろんちょっと喫茶店で時間をすごすとか、ネイルサロンに行ってみるというのはアリだとしても、マルクスも、『社会分業論』を書いたエミール・デュルケムも、社会人がいつもサボりたくなるのは、それは「自由からの疎外」の反映だというふうに見た。自分が仕事に従事していることが自由だと感じられないのではなく、その仕事場から疎外されていると感じているからなのだと解釈した。ということは【サボる】とはいわゆる「アノミー」なのだ。何かに急に無関心になったということなのだ。
 それなら、サボらないようにするにはどうすればいいか。ひとつは仕事が面白くなることで、もうひとつはジョン・スチュアート・ミルが勧めているのだが、「自分のこと以外に夢中になれる」ようにすることだ。
 著者のロバート・スミスは念のため別のヒントも出している。サボリたくなるのは、諸君の「移行対象」がぶれているからだと言う。この「移行対象」というのは小児科の医者で精神分析学者でもあるドナルド・ウィニコットの得意の用語で、女の子にとっての人形にあたる。
 少女たちは仕事をするわけではないけれど、人形が大好きになることによって、その人形のための衣裳選びやドールハウスづくりなどに熱心になる。また人形のおかげでたくさんの「喋りかけ」がふえていく。つまり少女たちは大好きな人形を「移行対象」にして“仕事”をするようになる。
 スミスによると、社会人が仕事中に【サボる】のは、この「移行対象」が希薄になったり喪失しているからなのである。そうでもあろう。人形を抱かなくなってしまうのだ。しかしぼくは、こうも思うのだ。それにしてはPCはあまりに出来過ぎた「移行対象人形」になりすぎているのではないか。そこには人形がいすぎるのではないか、と。

 一日には、仕事以外にもいろいろなことが目白押しに詰まっている。帰りがけには【ショッピングする】だろうし、土日には【スポーツジムに行く】かもしれず、休暇の一日のためにはいろいろいろ【予約する】。
 本書はそれらをいちいち取り上げている。よくまあガマンして取り上げたと思うけれど、ごくごく要約していうと、【ショッピングする】には諸君とお店の信用と信頼とがトレードオフされているということ、つまり市場が用意した信用価値と信頼価値に諸君が抉(えぐ)られつつあること、【スポーツジムに行く】には身体の個人主義的モデル化がかなり過剰になっていること、それぞれのスポーツに応じた体型が強いられるボディファシズムが横行していること、レストランや劇場や旅先の旅館を【予約する】ことについては、本来のレジャーやバケーションの本来であった「その都度の選択力」が失われていくだろうことを、それぞれ警告している。
 つまりは、ヴァルター・ベンヤミン(908夜)の言う「ぶらりとパッサージュする」ということや、ミハイル・バフチンが言う放埒な「カーニバル性」がどんどん失われていくのではないかと、そこを警告しているのだ。
 すでに世の中は欲望社会と監視社会を完成しつつある。そにつれてジャン・ボードリヤール(639夜)の言う「欲望社会のシミュラークルとしての自己像」やミシェル・フーコー(545夜)の言う「柔順な身体」が、われわれを侵犯している。
 われわれはすっかり予約ボタンと既約ボタンを骨の髄まで装着してしまったのだ。いまでは、そこにさらに大量のウェブセルフが覆いかぶさって、買い物から予約までをあっというまにできるようにした。

 ベンヤミンやバフチンは、ぶらぶらしたり好きに宴を開いたりすることを勧めた。けれどもいまや、そんなことをしたらたちまち監視のチェックにかかるか、多くのウェブセルフがそうだろうように、「情報」のないところには行くことすらできなくなっている。
 宴やカーニバルを自分なりに開くなんて、思い付きもしない。やむなく魚民や白木屋で盛り上がるしかなくなっている。
 すべては予約と既約のうちで進むのだ。これは欲望社会であって監視社会であって、賞味期限社会が行きわたりすぎたのである。そこで著者が控えめに提案しているのは、たとえば【スポーツジムに行く】に抵抗してみることだった。スミスはジムを「反ジム」にするべく、あの中でちょっとばかりふしだらにすることを勧めるのだ。この提案は本書のなかの白眉になっている。でも、それならアルフレッド・ジャリ(34夜)をこそ、すぐ読むべきだ。

 われわれの一日は家庭の日々とも重なっている。とくに男たちは、【夕食する】【テレビを見る】【風呂に入る】の3つによって急に“住宅的”になる。
 女たちにとっては、夫が牛耳るこれらの負荷をどう軽減するか もっとはっきりいえばこの住宅的な日々からの脱出をどうするかのほうが、気になる。外界で闘っていると思いこむ男たちは家庭に「くつろぎ」を強請するのだが、女はそんな男の「くつろぎ」のためばかりの日々なんて退屈なのだ。
 けれども、【夕食する】【テレビを見る】【風呂に入る】なんて、いずれもあまりに日常フツーの出来事なので、こんなことを誰も改善しようとは思わない。そこで著者は、諸君がこれらにひそむ“二律背反”にどんどん鈍感になっていることを惧れる。
 【夕食する】すなわち【食事する】にひそむ二律背反は、詮じつめれば野蛮と文明というものだ。すべての食材は野蛮が生んできたものだが、文明はそれを加工して飾り付けるほうに向かっていった。現代生活では、食事はできるかぎり野蛮とは縁遠いと思える調理性とテーブルセッティングで成立している。肉を焼き、鳥を蒸し、それなりの皿に盛ってマスタードを添え、生野菜はドレッシングをかけてサラダにする。肉や魚をナマで食べるときだって、できるかぎり美しくスライスする。寿司がその典型だ。
 レヴィ=ストロース(317夜)は文化の本質が「野生と文明の両義性」にあると指摘した。食事だけでなく、どんな文化も両義的なのだ。
 せめて【風呂に入る】ときくらいは、たんにお湯に入るのだから五右衛門風呂がいいとは言わないが、野蛮でも適当でもいいはずだが、美しいバスタブからありとあらゆる入浴用品まで、いまやわれわれは無数のバス・トイレタリー商品とともに風呂を愉しむようになった。
 ことほどさように、われわれはもはや野性には戻れない。せいぜい擬似野性がほしくてロハスする。そういう意味では、3・11以降の被災地に自衛隊の仮設風呂タンクが次々に供給されていた光景は象徴的だった。われわれは有事によって初めて文化の本質に出会うのだ。

 ちなみにぼくが“住宅的”な日々にギモンをおぼえ、若い仕事仲間たちと簡便な共同生活を始めたのは30代前半のことだった。試みてすぐにわかったのは、誰もが一合焚きの炊飯器、簡単な食器一組、小さなオーディオコンポ、一棹の本棚、幾つかの衣裳箱と化粧バッグといった、同じ生活用品を買わされていたということだった。
 滑稽だった。同じものが持ち寄られても、それらの生活用品はちっとも共働的にはならなかったのだ。ぼくが自分の蔵書をみんなに供するようになったのは、このときからだった。
 【テレビを見る】については、本書はジル・ドゥルーズ(1082夜)とほぼ同じ解釈を扱っている。「他人によってつくられた表象を住人の気分で侵略される歓楽にする」というものだ。
 この「住人の気分で」というところが見逃せない。豪邸からホームレスの簡易ハウスまで、誰もが「住人の気分」をもつものなのである。このあたり坂口恭平君の『0円ハウス』(リトルモア)や『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)が参考になる。

 というわけで、結局、問題はピエール・ブルデュー(1115夜)の「ハビトゥス」とは何かということなのである。つまり、われわれは何をもって「スタイル」や「テイスト」にしたいのかということなのだ。
 スタイルやテイストとは、日本語でいえば「趣向」「数寄」、少しわかりやすくいえば「何かをするときの創発的ルール」ということだ。
 かつてこんなワークショップをしたことがある。30人ほどの企業の諸君に自分の自宅や住居をカメラで撮ってきてもらう。それぞれ10カット以上。家人の了解はとっておく。それらをPCに入れ、ゲストとして呼んだ建築家の隅研吾(1107夜)がこれを片っ端から見て、即座に応答していくというものだ。隅ちゃんは、あまりにフツーの住まいの組み立てに愕然とした。そこには「ハビトゥス」の選択や創意がほとんど見られなかったからだ。
 われわれはいつしか「住人の気分」の90パーセント以上を世の中の購買可能な商品でびっしり埋め尽くすようになったのである。これを転倒させることは容易でないだろう。
 ぼくはどうかといえば、生活からスタイルやテイストをつくろうとはしてこなかった。逆にスタイルやテイストの一部を、すなわち「好み」(数寄)の一部を生活にあててきた。長らく職住一帯の日々をしてきたのは、そのためだ。これ、ちょっとばかり自慢できることだった。
 ついでながら、ぼくの周辺でこれに近いことをとっくに断行していたのが稲垣足穂(879夜)で、最近このことを重視しているんだろうなとわかったのは「晩年のスタイル」を重視したエドワード・サイード(902夜)だ。

執筆中の稲垣足穂。(桃山婦人寮時代)
『遊』野尻抱影・稲垣足穂 追悼臨時増刊号(1977)より転載。

晩年のエドワード・サイード。

 本書は丁寧にも【セックスする】【夫婦ゲンカする】なども日常哲学18項目のひとつにあげている。そのわりにちっともギクリとするようなことを書いていないのだが、これはアメリカの人気テレビ番組「セックス・アンド・ザ・シティ」を相手にしすぎたためだろう。あんなものを分析したくなるなんて、哲学者や社会学者もご苦労なことだ。
 ロバート・スミスは20世紀のアメリカに始まった消費第一主義の生活を、根底的に批判したいのだ。それが家族の関係にも深く影を落としていて、夫婦の大半がその肥大化した消費社会をごくごくちっぽけな家庭空間にそれぞれどんどこ導入しているのだから、どんな小さなも差異も夫婦のあいだで増幅されてしまう。そこへ子供が育っていく。そんななかで【セックスする】も【夫婦ゲンカする】もおこるのだから、うまくいくはずがない。そう批判したいわけなのである。
 ようするにセックスも夫婦ゲンカも「消費されている」と言いたいわけだ。そこまでアメリカ的消費社会が垂れ流したものを批判したいのは大いに結構だが、他方、それを覆すものを挙げる必要もある。
 しかし消費と意識のカンケーから離れることは、今日ではほとんど無理がある。われわれの意識はとっくに“商品化”していると言うべきなのだ。どうしてもというなら古代にさかのぼり、タオイズムやオウィディウスの『アルス・アマトリア』やヨーガを持ち出すしかないだろう。ただしスミスはそちらにはあまり感心がないらしい。それも当然だろう。アメリカを古代で批判したところで、何の武器にもなろうはずがない。
 そこで著者は、ジョルジュ・バタイユ(145夜)の蕩尽的なエロティシズム、ピーター・グリーナウェイやヴィム・ベンダースの生活を逆襲する映像感覚、それにジュリア・クリステヴァ(1028夜)やリュス・イリガライ(1127夜)のジェンダー論によるフェミニズム批判などをヒントに持ち出そうとするのだが、こちらはあまりに言葉足らずで、残念ながら日常哲学の深化になっていなかった。
 ぼくから見ると、スミスはやっぱり古代を持ち出したいのに、それを隠していたのである。すなわちギリシア以来の、つまりはソクラテス以来の「アガペー」(恋愛)と「エロス」(性愛)と「フィリア」(友愛)によって現代のセックスと夫婦離反を問題にしたいのだ。もっと直裁にソクラテスを持ち出せばよかったのだ。池田晶子の『帰ってきたソクラテス』(新潮社)や『考える日々』(毎日新聞社)のように。でも、そんなことは「セックス・アンド・ザ・シティ」の国には届かない。
 それより気になるのは、最近の日本で【エロス】がほとんどまっとうな議論になっていないことである。バタイユやクリステヴァどころか、与謝野晶子(20夜)や水上勉(674夜)すら漂わなくなっている。壇蜜にがんばってもらわなくちゃねえ。

 これで一応だいたいのところを案内したが、ほかに【医者にかかる】【パーティする】【本を読む】なども検討されている。この著者、こういうところはけっこう執拗なのだ。
 【医者にかかる】というのは病気との付き合いをどうするかということだ。本書ではこれについてはイヴァン・イリイチ(436夜)に加担する。われわれは過剰な病名と不要な医薬品を引き取りすぎたという見方だ。これは病者すらゴッド・シンドローム(自己神格化症候群)にかかっているという話だった。まあ、当たっているだろう。
 【パーティする】については欧米人が得意とする交際術で、そんなことの長所短所を教えられても、ぼくには何の参考にもならなかった。ぼくには川喜田二郎の『パーティー学』(現代教養文庫)すらつまらない。殻を破らないパーティなんて、したくない。まして新年の新聞広告に出ていたような児玉教仁の『ハーバード流宴会術』(大和書房)といった、読みたくもない日本人向けの本が売れるようでは、困ったものなのだ。そんな本を漁る必要はない。日本人の【パーティする】はどうであろうとも、一座建立・一味同心・一客一亭の寄合(よりあい)なのである。

 【本を読む】も参考にはならなかった。著者はお世辞のようにソシュールやヴィトゲンシュタイン(833夜)を引いて、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』(161夜)やガルシア・マルケスの『百年の孤独』(765夜)を読むことを勧めているのだが、それはそうだとしても日常生活の中で【本を読む】ということが、実は何かのコンプレックスになっていることを解明するべきだった。
 今日、読書は「読み方」こそ重要なのである。義務や理想から読書力は生じない。なんらかの数冊の本にもとづく「読み方」の実感が会得されるべきなのだ。『松丸本舗主義』(青幻舎)にも縷々書いておいたことだ。
 それには、リーディング・コンプレックス克服のために、ごく少なめの本をしっかり読んでみるのがいい。一般的にどの本がいいとは勧められる本はないけれど、ぼくなら、たとえばモンテーニュ(886夜)の『エセー』、鴨長明(42夜)の『方丈記』(現代語訳も)、ポール・ヴァレリー(12夜)の『テスト氏』、寺田寅彦(660夜)の随筆集、グレゴリー・ベイトソン(446夜)の『精神の生態学』あたりを勧めたい。これらは「内容」と「方法」がほぼ合致している例なのである。

 こうして本書は、最後の【眠って、夢を見る】で結ばれる。判で捺したようにフロイト(895夜)とユング(830夜)が登場するのは退屈だが、眠るとは【肩の荷を下ろす】ということだという指摘は頷ける。
 ちなみにぼくは眠るのがめっぽうへたくそだ。カント先生に似た不眠症かもしれないが、自分ではそう思わないようにしてきた。眠りたくないのだから、もっと起きていようと決めて生きてきたのだ。だからこの15年ほどは自分で起きるのではなく、松岡正剛事務所専用の電話がベットサイドに置いてあって、これが鳴れば必ず起きるというふうにしてきた。広本君、ご参考に。

 それにしても、一日というのはやっぱりけっこうたいへんな人生モデルなのである。おさおさ手抜かりなんてできるはずがない。
 ソクラテスは「吟味されない人生なんて一日もおくるべきではない」と言ったけれど、一日を吟味することが、けっこうな難問だったのだ。もっともソクラテスはそのために何をすればいいかということにも、ちゃんと答えていた。それは「自分の思い込みを捨てなさい」というものだ。
 ぼくには「一日としての人生」という確固たるモデルなどなかったのだけれど、いいかえればいつも一日を多様に過ごしたいと思ってきたのだけれど、それでも30~40代を通じて一日の終わりにしてきたエクササイズがあった。最後にそのことを書いておく。それはその日一日のことを朝から順に思い出し、その直後にその逆に並べなおせるかどうかをしてみるということだ。これでずいぶんストレスや意図の捩れをほぐしてきたように思う。頭の中に去来するイメージを、どのようにマネージするかという編集力のエクササイズとしても有効だった。ルドルフ・シュタイナー(33夜)に学んだエクササイズだった。気が向けば試してみられるといい。
 というわけで、今夜もそろそろ眠ることにする。眠れなければ、せめてアンリ・ミショー(977夜)やフランシス・ポンジュの詩でも読んで。

主題や領域にこだわらない、有利と不利とを天秤にかけないのが、
セイゴオ流「編集数寄」である。

The Philosophy of Everyday Life
『ソクラテスと朝食を-日常生活を哲学する-』

著者:ロバート・ロウランド・スミス
訳者:鈴木晶(すずき・しょう)
発行者:鈴木哲
発行所:株式会社講談社
2012年9月20日 第1刷発行
装幀:大野リサ
装画・本文イラスト:阿部千香子
本文レイアウト:山中央
印刷所:慶昌堂印刷株式会社
製本所:黒柳製本株式会社
本文データ制作:講談社デジタル制作部

【目次情報】
はじめに
1 目覚める Wake up
デカルト/カント/ヘーゲル
2 身支度をする Getting ready
ルクレティウス/ミルトン/フロイト/オッカムのウィリアム
3 通勤をする Travelling to work
ニーチェ/ホッブス
4 仕事をする Being at work
マルクス/ヴェーバー/ジャックス
5 医者にかかる Going to the doctor
イリイチ/ブレイク/ソンタグ
6 両親と昼食を食べる Having lunch with your parents
マズロー/ヘリンガー/マルサス
7 サボる Bunking off
ミル/アリストテレス/デュルケム/ウィニコット
8 ショッピング Shopping
ラカン/ベンヤミン
9 休暇の予約をする Booking a holiday
ボードリヤール/デリダ/プルースト/エマソン
10 スポーツジムに行く Going to the gym
ハイデガー/フーコー/バフチン
11 風呂に入る Taking a bath
アルキメデス/サルトル/ボーヴォワール/アナクシマンドロス/モーガン
12 本を読む Reading a book
聖アウグスティヌス/ウィトゲンシュタイン/プラトン/ソシュール/ナボコフ/ショーペンハウアー/アクロイド/マルケス/シュレディンガー/バルト
13 テレビを見る Watching TV
ドゥルーズ/ウィリアムズ/マクルーハン/オーウェル
14 夕食を作って食べる Cooking and eating dinner
レヴィ=ストロース/ブルデュー/サイード/シェリー/サヴァラン
15 パーティに行く Going to a party
マキャヴェッリ/モンテーニュ/ワイルド
16 同居人と喧嘩する Arguing with your partner
クリステヴァ/シクスー/イリガライ/シュミット
17 セックスをする Having sex
アリストパネス/アドルノ/オヴィディウス/アビラの聖テレサ/バタイユ
18 眠って、夢を見る Falling asleep and dreaming
オーデン/ユング
あとがき
読書ガイド
訳者あとがき

【著者情報】
ロバート・ロウランド・スミス(Robert Rowland Smith)
成績優秀な学生にのみ与えられる特別奨学金を受け10年間にわたりオックスフォード大学で学究生活を送った後、経営コンサルタントとして10年以上の実績を積んできた。象牙の塔から現実社会まで、錯綜する物事を完結に描写する技術には定評がある。哲学、文学、精神分析などに関する学術論文多数。英国、フランス、ノルウェー、米国などの大学の教壇に立ち、ジャック・デリダをして「俊逸!」と言わしめた注目の星。

【訳者情報】
鈴木晶(すずき・しょう)
1952年東京生まれ。東京大学文学部卒。現在、法政大学国際文化学部教授。著書に『フロイト以後』(講談社現代新書)、『図説 フロイト 精神の考古学者』(河出書房新社)、『フロイトからユングへ』(NHKライブラリー)、『バレエとダンスの歴史』(平凡社)他多数。訳書にS・スヘイエン『ディアギレフ』(みすず書房)、D・ドラーイスマ『なぜ年をとると時間の経つのが早くなるのか』(講談社)、J・コット『奪われた記憶』(求龍堂)、A・ストー『フロイト』(講談社選書メチエ)、P・ゲイ『フロイト』(みすず書房)、S・ジジェク『ラカンはこう読め!』(紀伊国屋書店)他多数。