才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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つなみ

被災地のこども80人の作文集

文藝春秋8月臨時増刊号

文藝春秋 2011

編集:森健・新谷学・伊藤秀倫
装幀:関口聖司

ママのくるまがながされた。
お父さんとガレキの中に立っていました。
つなみは黒くてくさかったです。
町が海にしずんでいきました。
やけた船がながされていました。
かあちゃんが「みんなでうちに帰ったら
泣こうね」と言いました。
こんな陸前高田になって、あんなにいっぱいあった松の木も
一本だけのこって、あとはがれきばかりでした。
戦争が終わったあとの町みたいでした。

 この本は被災3県の子供たちに、主に森健(1162夜)が作文と絵を依頼して収集したもので構成されている。森については以前、『グーグル・アマゾン化する社会』をとりあげた。雑誌や週刊誌で若い世代の動向についてのレポートや批評を書きつづけているジャーナリストで、3・11以降は被災地の子供たちの取材を徹底していた。

 森は岩手と宮城のいくつもの避難所をまわり、小学生から高校生たちおよび保護者に声をかけ、そこで賛同者に原稿用紙を配り、自由な感想文を依頼した。「子供にいやな記憶を思い出させたくない」という保護者もいたようだが、80人ほどから文章が寄せられた。それが6月末くらいまでのことだったから、まだ子供たちに地震や津波のショックが突き刺さったままの時期の感想だ。
 森がこのようなことを思いついたのは、吉村昭の『三陸海岸大津波』(文春文庫・1459夜)に「子供の眼」という一章が挟まれていて、そこに子供独特の感想が綴られていたからだったという。
 ざっと読んで、ぼくは子供たちの言葉づかいにしだいに浸ることになり、いつのまにか多感状態になっていた。3・11以降の体験としてちょっとめずらしい。
 少年少女の文章を読むのが久しぶりだったこともある。子供が小さな体を揺さぶる激震や町を呑み尽くす黒い波濤をどんな言葉にするのか、何かを教えられるような気持ちで読んだせいもある。けれども、それで何かを判断しようとはまったく思わなかった。

 むろんいろいろ感じたこともあるし、言ってみたいこともあるのだが、子供には、たとえこれが戦火に覆われた出来事の感想だとしても、おそらく子供の言葉の閾値をはるかに超えた体験を存分な文章にすることなど、そのこと自体が埒外なのである。
 子供に作文を書かせることは、日記を書かせる可能性にくらべて幾分疑問なところがある。とくに「素直な作文」を書かせることを教師や父兄が意図するより、はっきりと「創文」や「知文」を学んだほうがいい。それより日記の習慣をつけたほうがいい。また、読書感想文を書かせたからといって、その子たちが好ましい本の付き合いができるようになるとも思わない。
 そんなふうに感じてきたので、ぼくには子供の作文よりも感想文のほうが好ましい。この大震災文集もそのように読んだ。森健の「あとがき」によると、原稿用紙を配ったところで、感想を書くことを迷った子がかなりいたらしい。避難所では消灯時間も早い。やっと安心の日々が来たのに、「あのとき」をどうやって振り返るか、試みてみれば難しい。しかし、この文集に文章を寄せた子供たちはそれに挑んだのである。
 というわけで、諸姉諸兄にも感想文(作文とは言いたくない)を読んでもらうに如(し)くはないと思った。以下、とくに断らないが、全文のものも、途中を適宜省略したものも、ごく一部分だけを引いたものもあるけれど、ともかくもここにその一端を供することにした。
 本書では地域別になっているのだが、あえて学年順に並べなおしてみた。子供たちの直筆もけっこう掲載されているので、関心があれば、本書を入手されるといい。

 【ママの車が流された】3がつ11にちは、ようちえんのそつえんしきから、かえってきて、じしんがきた。わたしは、こわくて、ままをよんで、こたつのていぶるのしたに、かくれながら、ないていた。じしんが、よわくなってから、そとにはだしでにげた。ままだけ、じゃんばーとくるまのかぎをとりにいった。くるまで、ままとわたしで、こうみんかんに、にげたけど、いそいで、しょうがっこうに、にげた。くるまから、おりてはしって、かいだんをのぼった。すぐに、ままのくるまが、ながされた。とてもこわかった。よるは、くらくて、さむかった。(名取市閖上わかば幼稚園 玉田真菜)

 【犬もうさぎも死んだ】かなしいきもちだった。うちの犬のもかもまろもうさぎもしんだもん。いやなきもち。うちのねこのてつはいきてるけど、のらねこのよしだもいきてるもん。(仙台市若林区ろりぽっぷ幼稚園 高橋美咲)

 【うちへ帰ったら泣こうね】つなみがきたので一夜みなと小学校ですごしました。そとをみるとやけた船が川をながれていきました。ほどうきょうにのこされた人も見えました。あとひっくりかえったくるまがありました。つぎの日のあさ、こうていにくるまのガソリンが、つなみの水の、上にうかんでました。(略)かあちゃんがきたときあんしんしました。そしてかあちゃんはみんなおうちへかえったらなこうねといいました。(石巻市湊小学校1年 工藤祭)

 【パパは三日目にむかえにきた】つなみでおうちはながされてしまいました。わたしは学校のかえりみちとても大きなじしんがありました。こわくてしゃがんでいると、ちかくのひとがきて「学校にもどりなさい」といわれて学校にもどりました。それからすこしたってつなみがきました。おじいさんと5さいの男の子がながされました。こわくてないてばかりでした。次の日のおひるごろ、じえいたいの人がきて車でKうぇーぶまでつれていってくれました。
 パパがむかえにきたのは三日目でした。ママとおじいちゃんとおばあちゃんといもうとは、どうなったかととてもしんぱいでした。ママたちにあえたのは、四かめのよるでした。そのときにたべたおにぎりはとてもおいしかったです。うみを見るとつなみがきているみたいでこわくてないてしまいました。(気仙沼市南気仙沼小学校1年 佐藤礼奈)

 【津波は黒くてくさかった】つなみのせいで大切なものがながされました。まどから見てたら50メートルいじょうありました。でもがんばって学校で一日すごしました。黒っぽいつなみでした。くさかったです。(仙台市若林区東六郷小学校2年 中村まい)

 【お父さんは火葬になった】3月11日5じかんめの国語のじかんに大きな地しんがありました。そのときないた子もいました。先生がだいじょうぶだよといっていました。そのあとぜんいんでこうどうにいきました。おじいちゃんがむかえにきてくれました。ぼくとおじいちゃんがとおばあちゃんとおにいちゃんでサンファンに行こうとたら、おとうさんはかいしゃにいくといってしまいました。
 (略)つなみがきました。なんとかまにあいました。そしておばあちゃんがおてらでおにぎりくばってるみたいだよといってから、ずーとどうげいいんでとまることにしました。3日めにやっとおかあさんにあえました。4月10日におとうさんがみつかり、一週間後、おとうさんのかそうを、しました。(石巻市渡波小学校2年 鈴木智幸)

 【ゴゴゴゴと津波がきた】水門をふつうにこす津波がおそってきました。学校のフェンスをこわしながら学校におそいかかりました。ぼくはいそいでにげました。余震がつづき電信柱がたおれそうでした。それを見てすぐにげました。山の方にダッシュでにげました。津波のゴゴゴゴという音がすごかったです。三回れんぞくの津波がきてびっくりしました。家も車もめちゃくちゃで夢を見てるようでした。
 (略)自衛隊のお風呂に入れた時はとても気持ちよかったです。自分の家は見にいってなにもなかったです。そしてぼくが「夢だったらいいなー」と言いました。そしてお母さんも「そうだね」とかえしてくれました。(大槌町赤浜小学校3年 柏崎功真)

 【流れている車と人】流れてきた木材といっしょに、車もながれてきて、その車の上に人がいました。外には雪がふっているし、その人はびしょぬれで、そのうえはだしで、とても寒そうです。ロープをのばせばらくらくとどくくらい目の前にいるけど、助ける方法もなく、ただかわいそうだなと見ているしかありませんでした。でもそのうちじいちゃんが二階からロープをさがして、ベランダからその人に投げて、その人の体にロープをしばりつけ、となりにあった電柱をよじのぼって、家の二階まで来ました。その人に下着などの服以外のきれる服をやりました。その人は「ありがとうございます」と何度も言ってました。(東松島市大曲小学校3年 杉浦遥)

 【こんな陸前高田になってしまった】たかだいににげるときによこを見たらつなみがそこまできていてぜんりょくで走りました。それがこんなりくぜん高田になってあんなにいっぱいあったまつの木も一本だけのこってあとのはがれきでした。(陸前高田市高田小学校3年 及川佳紀)

 【戦争が終わったあとの町みたい】外はいつの間にか、雪がちらついていました。寒さで、目がさめたとたん体と手がふるえました。学校の時計はとまっていました。学校はたくさんの人たちで、ごちゃごちゃしていました。お父さんがむかえにきてくれました。山へにげるとちゅう、津波がきました。水はあっというまに、がれきと一緒に流れて来ました。近くのマンションに、にげました。二日後に水が引いたので、学校へひなんしました。町はたくさんのがれきでいっぱいでした。せんそうが終わったあとの町みたいでした。(石巻市釜小学校4年 鈴木彩花)

 【お母さん、ぼくは無事だよ】次の日の朝、外に出て学校側を見ると何メートルもはなれた家で何でも流れついていました。そしてところどころには、ふくやがれきなどが流れついていました。二回目ににげた場所を見るとがれきの上に車の前がささっていました。そして中にもどりばあちゃんの話を聞きました。「よく聞けよ。にいちゃんのどうきゅうせいの人とよくおせわになった畑のばあちゃんがつなみに流されてなくなったからな」。(釜石市鵜住居小学校4年 小笠原響綺)

 【ねこにあげたい】おばあちゃんの家にはねこがいた。しかし地震があった日から行方不明になってしまった。どこかで生きていてほしい。もし、ねこが見つかったら、魚のかんづめをあげたい。(南三陸町伊里前小学校4年 千葉響稀)

 【テレビは見ることができなかった】三月十一日、十四時四十六分、東日本大震災が発生した。いっしゅんにして、多くの物と命をのみこんだ。ぼくの家も学校も町も‥‥。近所の、とてもぼくをかわいがってくれたおじいちゃんおばあちゃん達の命も、そして宮古のしえん学校に通っていたお兄ちゃんとも会えなくなった。その後、何日も大きなよしんが続き、なかなかねむれなかった。ふとんの代わりに、ダンボールと新聞紙を使った。
 (略)約一週間たって、ぼくたちは甲子小学校にうつった。電気はつくし、水も流れていた。食べ物もだいぶ良くなり、おかずやみそ汁もでるようになった。テレビも見れるようになった。うれしいはずのテレビも、震災のことばかりで、三月十一日のあの日を思い出し、こわくて見ることができなかった。母に「何か買ってあげる」と言われても、今なにがほしいのか、前はほしい物がたくさんあったのに、今はなにがほしいのか、わからない。(釜石市鵜住居小学校4年 黒澤海斗)

 【一階の天井が落ちていた】最初、父が来た。でもその日は父は当直の日で、ちょっと話して、すぐ行ってしまった。その後に母が来た。母は一緒に住んでいたおばあちゃんをむかえに行くため、戻った。その後だった。津波けいほうが放送で流れたから、二階に行った。そのとき何気に見たまどから、家とのすき間から水がサーとくるのが見えた。
 (略)その日は、ごはんもなくて、うがいのために持ってきていた冷たいお茶で水分をとっていた。余震が続いていたから、こわくてずっとつくえの下にいた。ラジオできんきゅう地震速報が流れていた。新聞にくるまってねたけど、足ものばせないし、ジャンパーを来ていても寒く、このままねたら死んでしまうんじゃないのかと思うくらい寒かった。やっと朝日がのぼって来た。長い長い夜だった。
 二日目、父が来た。飲み物を持ってきてくれた。毛布らしきものも持ってきてくれた。(略)三日目、父が家に行った。その時、父がけいたいを持っていかなかったから、ひまだったから、メールの所を見ると、母からのメールでおばあちゃんが流されたという事を知った。車にのせたまま流されたらしい。(略)五日目ぐらいに震災後、初めて家に帰った。家の前には、家の屋根があった。ヘドロがはんぱなく、くさかった。一階はてんじょうが落ちていて、時計は2時46分で止まっていた。(石巻市大街道小学校5年 水越咲良)

 【お母さんはまだ見つからない】その時、わたしたちは、大槌小学校にいました。じしんが起きて、みんなつくえにかくれました。わたしは、もう、なみだがとまりませんでした。(略)そのあと、しろ山体育館の広場に集まっていたら、「ゴゴゴゴゴ」という地鳴が聞こえました。その時つなみが土けむりをまい上げおそってきました。そして、ちょう上まで走ってにげました。そしてにげるとつなみを見ました。家から家と火がつたわってついに、海にまで火がついていました。
 (略)その夜にやっとパパに会えました。お母さんは、まだ見つかりませんが、かならず見つけて、三人で仲良くくらしたいです。(大槌町大槌小学校5年 八幡千代)

 【私の家も宝物もなくなった】三月十一日の地しんが発生した日、私は教室を出てそうじをしていました。みんなが「地しんだ」と言ったとたん、強いゆれが発生し、私は急いで教室にもどりました。友達と手をつなぎずっと続いた地しんをたえていました。教室の中はいろんな物がたおれて、ぐちゃぐちゃになっていました。地しんの次は大つなみ警報が出てきました。外から走ってくる人が「つなみだ」とさけんでいる声が聞こえ、私は屋上に走ってひなんしました。車やがれきが流れてくるし、人はおぼれているしで、本当にこわくて悲しい気持ちでいっぱいでした。
 つなみは学校の二階まであがってきました。海の方を見ると火事で火がたくさんの所に広がっていました。さらに雪がふってきて、とてもこおるような寒さの中、つなみが引くのを見ていました。
 私の家はもう流されて、ありません。宝物も流されてしまいました。私が生まれ育った閖上(ゆりあげ)がこんなにも変わってしまって悲しいです。(名取市閖上小学校6年 橋浦優香)

 【お父さんとガレキの中に立っていた】お父さんと車で街を見に行きました。とてつもなく悲さんな状況でした。信じられなかったです。家が全然なく、もちろん僕の家もなかったし、おばあちゃんの家もありませんでした。ショックを受けました。これからどうしょうと思い、お父さんとガレキの中に立っていました。(陸前高田市高田小学校6年 照井匡)

 【だるさ・吐き気・へんな感覚】三月十一日と十二日で、水は私の頭位まで上がってきましたが、夜になるとちょっと水がひいた感じがしました。その次の日、私はとても気持ち悪い感じがして起きました。のどはカラカラで、口の中は臭い感覚がありました。急いで水を飲みに行きました。しかし何はい飲んでも、だるさ・吐き気・へんな感覚は残っていました。(石巻市貞山小学校6年 佐藤未夢)

 【家は半壊で家族は一緒】私の家は半壊でした。それまで大切にしていた沢山のものがなくなったことはとてもつらくて悲しいです。でも、物はなくなっても家族が皆生きてこうして一緒にいられることが、私にとって何より大切です。(南三陸町志津川小学校6年 山内瑞歩)

 【ばあちゃんが流された】次の日、朝起きて一番最初に目に入ったのは、外の景色だった。「なに、これ‥‥」。どこを見てもがれきの山だった。私たちの避難していた場所もがれきだらけだった。もし そのまま避難所に残っていたら、私たちは今ここにいないかもしれない。(略)そして夕方。じいちゃんが言った、「ばあちゃん流されだがもな‥‥」。私とお母さんは泣いた。このことが妹と弟にバレないように、こっそりと。(大槌町大槌中学校2年 黒沢菜緒佳)

 【茶色い水が不気味だった】家の周りを一周して被害がないのを確認しおえたとき、ちょうど祖母と曾祖母が帰ってきました。祖母は車から降りてくると「津波が来るぞ」と言ってきました。僕は半信半疑で南にある田畑に目をやると、茶色い水がゴォーと音をたてて、こっちへ向かっているのです。その場にいた僕、母、二人の妹、祖母、曾祖母は急いで家の二階へ逃げました。またたくまに水が家に流れ込みました。あっというまに水位が上昇してきて、二階は水没し、階段の半分まで見ずに浸かりました。窓から外を見ると、辺り一面が茶色く濁っていて、とても不気味でした。さっきまで乗っていた車が家の後ろまで流されてしまいました。(東松島市矢本第一中学校2年 尾形大輔)

 【海が嫌いになった】私が避難してから四十分くらいたったとき、あの大津波が町をおそいました。私はそれをすべて見ていました。大好きだった閖上(ゆりあげ)の町が、大好きな海に飲みこまれたのです。もうすべてがショックで、ただただ見ることしかできなくて、悔しかったです。余震がつづいているけど、だいぶ落ちついたいま、閖上に帰ってみるともう町がなくなっていて、涙があふれてきます。大好きだった海が嫌いに変わった瞬間でした。(名取市閖上中学校2年 高野葉月)

 【街を見たら私の家がなくなっていた】屋上は夜になるにつれて、だんだん寒さが増してきて、雪も降ってきました。水に濡れなかった災害用毛布を出して、おじいちゃん、おばあちゃんにかけてあげたり、雪をしのぐためにブルーシートを紐で結んで風で飛ばないように押さえたりしました。私はブルーシートを押さえながら、街を見ました。いたるところで、火が上がったり爆発したり、海は火の海になっていました。私は言葉が出ずに、ずっと街を見ていました。自分の家がある場所を見た時、涙が出てきました。私の家がなかったからです。(気仙沼市鹿折中学校3年 熊谷菜生)

 【地獄のように町内がなくなっていた】道路は車で逃げようとしている人で渋滞し、父が「車から降りて、早く逃げろ!」と車に乗っている人達にも声をかけながら、みんなで走りました。母は妹の姿が見当たらないと大きな声で「うらら!」と叫びながら、津波が向かっている家に戻ろうとしているので、父が「何考えているんだ。津波が目の前まで来ているのに、死にに行くのか。うららは先に走って逃げたはずだから、大丈夫だから早く走れ!」と母に言い聞かせ、走らせました。
 津波はすぐそこまで来ていました。母は津波に追われながら、最後尾で泣きながら、女川に仕事に行っていた兄や家で飼っていたペットの犬二匹、見当たらない妹の名を呼びながら走りました。しかし途中で母が「だめだ、もう走れない。無理だ、あきらめる。みんなのことお願いね」と行って、走るのをやめてしまったのです。俺が「何ふざけた事を言ってんだ。津波がそこまで来てるんだぞ! 走れ! がんばって走れ!」と言うと、また少し走り始めました。でも正直言うと俺は、もう間にあわないかもしれない、全員津波にのみ込まれてしまうのではと不安でたまりませんでした。
 小学校の所の歩道橋に上がり、そこで母が妹を探したのですが、いないのがわかるとまた家に戻ろうとしているので、疲れきっている母ではこれ以上無理、津波にのみ込まれて死んでしまうと思い、母に「俺が妹を見つけてくるから、大丈夫だから」と言って、小学校に向かいました。俺は人生でこんなにも全速力で走った事はないくらい無我夢中で走り続けました。小学校の体育館でやっと大泣きし、興奮状態の妹を見つけ、何があっても妹の手を離さないぞと思っていた瞬間、体育館にも津波が入ってきました。俺は妹を背中におんぶして人波をかき分け、校舎に向かったのですが、みるみるうちに波が押し寄せ、やっとの事で校舎に入り、妹を落ち着かせました。
 段々と暗くなり、そして寒くなり、真っ暗な中で家族と離れ、連絡もとれない不安で不安でたまらない一夜を過ごしました。
 次の朝早く、小学校の保健室に熱の出た妹を頼み、腰の上まで水につかりながら、家族を捜しながら、自分の家まで行ってみました。その途中、そちらこちらに逃げ遅れて死んだ人達が浮かんでいたり、車に乗ったまま死んでいる人でいっぱいでした。家にたどり着いた時、昨日まで家族みんなで住んでいた家の現状を見て、涙が止まりませんでした。俺はもしかして津波で死んでしまって地獄に突き落とされてしまったのではと思うくらい、町内がなくなっていました。(石巻市東松島高校1年 鈴木啓史)

 【子どもが元気をくれる】避難生活も2カ月経って、ある程度余裕も出てきました。最初の頃は、電気や水道もこなくてとても大変でした。それにたくさんの人がいてとても狭く、ろくに寝ることができませんでした。やっぱり日にちが経つにつれて人が減って、自分が寝るスペースができました。自分は仙翁寺でなにをしたらいいかを考えて、避難している子どもたちと遊んだりして、面倒を見ています。子どもたちはとても元気で自分も元気を貰ったりします。(気仙沼市本吉響高校2年 中澤龍)

『つなみ:被災地のこども80人の作文集』(文藝春秋8月臨時増刊号)
企画・取材・構成:森健
2011年8月1日 発行
表紙絵:佐藤春菜
表紙題字:清野大樹
表紙写真のこどもたち:小泉匠太郎、井口拳斗、廣瀬葉月、小笠原響綺、
           佐藤春菜、熊谷菜生、平塚真人
編集スタッフ:伊藤秀倫
アートディレクション:関口聖司
地図/デザイン:増田寛
作文撮影:釜谷洋史
「文藝春秋」編集長:木俣正剛
編集人:新谷学
発行人:飯窪成幸
印刷人:金子眞吾
印刷所:凸版印刷株式会社
発行所:株式会社文藝春秋

【目次情報】
はじめに
「子供の眼」が伝えるもの 森健
名取市・仙台市若林区・東松島市
石巻市・女川町
南三陸町
気仙沼市
陸前高田市
釜石市・大槌町
グラビア 被災地のこどもたち 文・塩野七生
こどもギャラリー
おわりに 笑顔の先には明日がある 森健

【著者情報】
森健(もり・けん)
ジャーナリスト。1968年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒。「文藝春秋」「週刊文春」をはじめ各誌で人物ルポ、経済記事を中心に執筆。著書に『就活って何だ』、『ぼくらの就活戦記』、『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』、『グーグル・アマゾン化する社会』、『人体改造の世紀』他。東日本大震災に際して、「文藝春秋」で被災地の子どもたちの取材を続けている。