才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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気の思想

中国における自然観と人間観の展開

小野沢精一・福永光司・山井湧編

東京大学出版会 1978

編集:門倉弘
装幀:未詳

气や氣は「気」ではない。
気の思想は諸子百家をへて生まれた。
孔子と孟子が気を人間の血気に引き付け、
老子と荘子が気を自然動向のタオにつなげた。
その後、気は儒教にも道教にも採用され、
さらに仏教からも研究されて、
中国哲学全般のキーコンセプトになるほどの勢いをもった。
これらを集大成してみせたのが朱子学である。
「気」はついに「理」と結びついたのだ。
その流れをざっと眺めたい。

 あまりに東洋思想の根源にかかわるキーワードのことなので、後まわしにしようかと思っていたのだが、やはり「気」(qi)の問題を扱っておくことにした。参考書はいろいろあるが、この手の定番ともいうべき『気の思想』にしておいた。
 本書はぼくが「遊」の編集のかたわら座右においていた大冊で、30年以上も前の刊行ではあるものの、その後の気をめぐる議論がそれほど進捗していないところから見て、いまでも充実した論考集だと思える。まだBや2Bのシャープペンシルで控えめのマーキングをしていたころで、ページを繰るとその生硬な跡が端々にのこっていて、いささか懐かしい。
 もうひとつ懐かしいのは、本書の東大出版会の編集担当が門倉弘であることで、この人はぼくの早稲田大学新聞時代の3年先輩だった。いつも部室や喫茶店で眉根を寄せて煙草を喫いながら本を読み耽っていたり、カリカリと万年筆を動かして原稿用紙に向かっていた猫背の先輩だ。その姿勢や思索的探求力からはかなり影響を受けた。

 さて、中国における気の思想史をかいつまむのは、複雑すぎるし、その範囲は儒教・道教・仏教の三教にかかわるし、サマライズといったって容易ではないので、かなり乱暴に粗略していくことになる。が、今夜はそのほうがかえってわかりやすいかもしれない。
 いったい中国で「気」が俎上にのぼったのはどんな前史があるかといえば、歴史の順にいうと、まずもって甲骨・金文時代の「气」には思想的な気の意義はなかったと見たほうがいい。卜辞には「雨を气(もと)めんか」とあって、いわゆる気象的な意味合いしかもたせてはいない。気はだいたいにおいて山野を流動する雲気めいた現象のことだったのだ。許慎の『説文解字』でも気宇を雲気とし、雲を「山川の気」だと解釈している。
 一方、「气」とは別の「氣」字のほうは、もっぱら贈り物の米のこと、あるいはその米を客に贈る行為のことをさした。この点については『説文解字』にかなりの批判を寄せた白川静(987夜)も同じ見方をした。
 ところが春秋戦国期をへていくうちに、気が抱えもつ意味が大きく変化していったのである。宇宙や世界や人体にはたらくエネルギーの流動体のようなものをあらわすようになっていったのだ。これは戦国の諸子百家たち、とりわけ斉魯の思想家が好んで気を論じたためだったろう。 

気(生命エネルギー、大気など)のパターンを示す図(『道蔵』より)
『イメージの博物誌9 タオ ―悠久中国の生と造形』(平凡社 1982)より

 最初は『春秋』左伝に「陰・陽・風・雨・晦・明」を天の六気と分けてみせたように、天気にまつわる気がカテゴリー分化したあたりに、気の思想のプリミティブな芽生えがあったのだと思われる。
 それが孔子や孟子において、人間の呼吸の力のありさまや気力の形容にとりこまれていった。とくに『論語』郷党に「気を屏(ひそ)めて息をせざる者に似る」とあって、呼吸をひそめたり、強くしたりすることが気の作用として認められた。さらに『論語』季氏に「少(わか)き時は血気いまだ定まらず」とあって、ここに突然にギラギラとした「血気」が登場した
 気は体内化されたのだ。天の気の流れと体の血の流れが、まずは漠然と結びついたのである。これで気の思想がスタートした。
 とりわけ、このように人間にまつわってくる気の意義を、さらに大胆に発展させたのが孟子だった。『孟子』には総計19の「気」が登場するが、とくに次の3種の表現が注目される。「志は気の師(すい)なり、気は体の充(じゅう)なり」(公孫丑)。「平旦の気、これを梏(こく)して反復すれば、その夜気は存するに足らず」(告子)。「我は善(よ)く浩然(こうぜん)の気を養う」(公孫丑)。
 これでわかるように、気が呼吸としての気息をあらわし、呼吸をする人間にはどこかで「血気」や「浩然の気」が出入りするのだということは、気は養うことも可能になったということだ。気が養えるものならば、すなわち「養気」というものがあるのなら、そこに志気や士気も生まれうる。それが孟子の「志は気の師なり」の意味なのである。
 孟子はそこから「浩然の気」を謳い、その様態は至大至剛にもなりうると考えた。気が大きくなるとも剛毅になるとも説いたのだ。それは孟子においては道義と気とが結びつきうるものと捉えられたからだった。義が気を成長させると考えられたのだ。こうなると気は社会性をすら帯びてくる。
 しかし、気がそのような「強さ」をもつとみなされたことに対して、むしろ気は「弱さ」や「柔らかさ」の象徴ではないかと考える見方もあった。それが老子(1278夜)や荘子(726夜)の解釈である。

 老子は「沖気(ちゅうき)をもって和となす」「気を専らにして柔を致せば、よく嬰児たらんか」と語り、荘子は「静かならんと欲すれば、気を平らかにする」「人の生は気の聚(あつ)まるなり。聚まればすなわち生を為し、散ればすなわち死を為す」と語った。
 この老荘思想の登場によって、気はタオ(道)のあらわれとみなされ、タオが一を生じ、その一が陰陽の二気を生じて、その二が三となって万物が化成するという、かのタオイズムの根源思想が胚胎することになった。一元二気万物の世界生成論が萌芽していったのだ。
 以上の流れは、孔孟の説く気と老荘の説く気とが“気の二面性”をもたらしていったということでもあるが、実はこの二つの特色を巧みにまとめたアタマのいい者たちもいた。その代表が管仲である。その言説集『管子』には「一気のよく変じるを精という」「精とは気の精なるものなり」とある。気は心のあらわれであるとみなされたのだ。『管子』はまた「人は水なり。男女の精気が合えば、水流れて形となる」とも解釈をすすめた。
 この時期、管子が天と人と地をつなぐものとして水を重視したことは特筆されるが、それとともに、ここに「精気」が男女の和合をもたらすものともなっていった。これは「胎」の思想の芽生えであった。前夜(1442夜)にふれておいたことである。 

 時代は次の漢代に入る。ここで最初に気の思想群をまとめたのは『淮南子』(1440夜)だった。平岡禎吉の『淮南子にあらわれた気の研究』という格別な論考があるのだが、それによれば、『淮南子』には実に204箇所に気の用語用法が綴られているという。
 熟語にもなっている。たとえば、天気、地気、土気、水気、陰気、陽気、春気、秋気、蒸気、神気、正気、生気、煩気、偏気、賊気、人気、民気、食気、含気、吐気、合気、同気、養気、専気、懐気、望気、接気、失気‥‥。
 実に多様だが、『淮南子』はこれらをまとめて、「気とは生を之れ充たすもの」と概括してみせている。これでわかるように、『淮南子』がその後の気の思想史の開展のための“気のエンサイクロペディア”の役割を大いにはたしただろうことはあきらかだ。一元二気万物の世界生成論に「太一」というカテゴリーを前提させて、これをタオと重ねてみせたのも『淮南子』だった。
 また漢代では、『黄帝内経』や『霊枢』などの、のちの漢方経典にあたるテキストも編集され、東西南北の気や五色の気が体内活動とリンクしていくと、そこに絶妙な具合で陰陽五行説が組み込まれていったことも強調しておかなければならない。ここからは外丹や内丹も派生する。それだけではなかった。『呉子』や『孫子』が再解釈されて、気は「勇気」とも「利気」ともつながった。これは医療の気ではない。戦闘の気というものだ。気はもはや戦場においても病床においても重視されるようになったのだ。本書ではそこを“気の可変性”と言っている。

宇宙図(『天皇至道太清玉册』より)
大いなる極(太極)は陽と陰の積極-消極の二元性を産出し、
陽と陰の永続的な相互作用がこんどは五つの元素(五行)を生み、
あらゆる事象はこの五つの元素から生ずる。
この変化は、卦(三本線)によって表される。

 こうして医療から兵法にまで気が及んで、時代は多様きわまりない魏晋南北朝に移る。
 ここには天人相関説を広げた董仲舒の『春秋公羊伝』を徹底解義したテキストワークや、鄒衍(すうえん)に始まる時令説(種蒔き・豊作・収穫を想定した気のカレンダー化)による気の解釈学などが挟まれた。「玄気」や「元気」がペダンティックに練り上げられていったのだ。また竹林の七賢や王羲之らによって、文や書や絵画の特性にも気が注入されていったのだ。
 他方では、王充の『論衡』をうけた気の思想も発展した。ここには「精気」とともに「元気」が取沙汰されて、人は生まれる以前から元気の中にあって、死ねばまた元気に帰るのだという考え方が引き継がれていった。
 このあたりまでで、気に関するたいがいのカテゴリー表は出尽くした。レパートリーは満杯だ。しかし、ここからの気の思想史の流れは折からの仏教の拡張にともなって、儒教と道教が新たな思想戦線を組み立てたので、遠慮会釈ない気の思想が取り込まれていって、きわめて紆余曲折することになる。
 たとえば仏教では「気が因果応報する」というふうになり、道教では「気を修行によって養生できる」というふうになった。これでは気が仏教と道教によって股裂き状態になったというふうにしか見えないはずだった。 

 隋唐から宋代に向かって、気の思想がどうなっていったかといえば、端的にはそれまでまったくお目にかからなかった「理」と「気」とがくっついて理気哲学という新たな様相を呈していったのだ。これが朱子学というものだ。
 朱子(朱熹)や程子(程頤)によって儒学が新儒学となり、気を理で呑みこんだのだ。新儒学はのちに宋学ともよばれた。
 もともとは離れているはずの理知と気とが結託したのだから、これはそうとうにドラスティックな気の思想の新展開だった。しかし、なぜこんなふうになったかという説明は必ずしもかんたんではない。
 まずは仏教思想の側から説明するが、きわめて特徴的な宗密(しゅうみつ)の『原人論』が唐代に先行していた。宗密は華厳思想を大成した澄観の弟子で、儒教と道教を批判して仏教がそれらを勝ることを説いた。その儒道仏の比較は「古来の諸徳、皆判ずるに、儒宗は五常、道宗は自然、釈宗は因縁なり」にその言い分が象徴されている。五常は仁・義・礼・智・信をさす。
 宗密はそうした比較を通して、宗教は人間の本性を究めるべきだと説いた。それまでの儒教や道教は、①もっぱら身を修めること、②タオイズムのように自然回帰すること、あるいは③鬼神の呪法に頼ることばかりに傾いていて、人間の本性についての真実を語ろうとしていない。仏教にはそれがある。そう、宗密は言いたかったわけだ。
 ただ宗密はこれを強調するにあたって、気の思想のなかの「元気」に着目して、それを仏教の『大乗起信論』と合わせ、気を実感することは「忽生」(こっせい)であり、それによって忽然と因縁を感知するのではないかというふうに、気を仏教に取り込んだ。
 この『原人論』がひとつの鏡像デバイスとなって、宋代の仏教にも道教にも儒教にも大きな変化をもたらしたのである。
 仏教についてはここでは省くが、なんといっても禅が興隆したことが大きい。気は禅のなかでコンセントレートされる対象になっていった。道教では『雲笈七籤』(うんきゅうしちせん)などの幅広いアーカイブが編集されて気を集大成した。これによって「元気はもとは一つであって、化して生じて万物となる」とか「元気には号がなく、化して生じれば名となる」といった見方、また「元気は生命の源で、腎間の動気である」といった見方が広まっていった。 

 これらにくらべると、儒教の戦線は最初は苦労した。なにしろ『原人論』によって一番痛めつけられたのが、唐代の韓兪の儒学や柳宗元の儒詩であったからだ。儒者たちが訓詁学にあけくれていたせいだったかもしれない。
 しかし唐末に社会混乱がおこり、五代十国による民族の多様な交流をへて北宋が立ち、さらに南宋が興って、都合トータル300年にわたる宋時代を迎えてみると、儒教は新たな儒学として徹底した武装をなしとげたとみるに足るものになっていた。それが総説としての朱子学だった。

 新たな展開は王安石の新法に始まり、張載の『正蒙』『横渠易説』をへて、周敦頤(しゅうとんい)の『太極図説』に発端した。
 あまりにも有名な太極図を含む周敦頤のアイディアは、タオイズムが得意とする一元二気万物の世界生成論を儒学の理屈で説明しようとしたものであったが、その門下に程頏(程明道)・程頤(程伊川)の兄弟が出て(のちに二程と呼ばれる)、そこに「理」「心」「性」それぞれが気と組み合わさる道筋をひらき、さらにこれを胡宏が「性」(性理)を中心に組み立てていくうちに、ここについに朱子が登場してすべてをかっさらう「理気学」としての朱子学を確立したのである。
 それは気を扱ってまことに勇敢であり、いいかえれば儒の核心において仏教も道教もねじ伏せてしまうような理屈を駆使したものであった。 

「太極図」と「太極順逆図」
中野美代子『西遊記の秘密―タオと煉丹術のシンボリズム』より

 気の思想からみると、朱子学は「一気→陰陽→五行」が重層的に展開する気の集散によって骨格をつくっている。これは気の一元論に近い。
 しかし他方では、その中心コンセプトには仏教から採った「理」と道教から採った「気」とが扱われているのだから、朱子学は思想としてはすこぶる二元論的でもあった。しばしば理気二元論といわれるゆえんだ。
 ところがどっこい、朱子その人はたんなる一元論にも二元論にもとどまらなかった。そこに「心」や「性」を加えたロジックを用意して、「一気→陰陽→五行」が「気-質-物」の三位一体とも「心性」や「性理」とも対応して、ときには「性即理」のイデオロギーが唸るように組み立てた。
 理屈っぽいといえばこれほど理屈っぽい中国哲学もないが、ワーディングとロジックの組み合わせの妙からいえば、そうとう華麗なアクロバティック・エディティングでもあろう。ともかくもこうして朱子学は新儒学として、これまでの中国哲学の全般をディコンストラクションしたかのように見えるほどのもシステム理論になったのである。
 けれども、どんな理論も近隣者からこそ不満は出るもので、続く陸九淵(陸象山)は朱子による「心」の扱いに不満をもって、そこから心学を引き抜き、新たな「心即理」のテーゼを引き出した。今日、朱子学あるいは宋学と呼ばれているのは、この朱子と陸九淵を足し合わせたものをいう。 

 だいたいこれらが宋代までの気の思想の流れである。ずいぶんはしょってしまったが、大筋はつかめると思う。
 以上をふりかえって重要なことは、「気」は単独で概念の傘を広げてきたとはかぎらないということだ。たいてい組み合わせのカテゴリーと交差連携することでその意味を広げてきた。その場合、いくつか補足しておいたほうがいいことがあるので、ごく少々付け加えておくことにする。

 (1)気の思想にはたいてい「天」というカテゴリーがつきまとっている。これは周王が天からの命をうけて天下を統治したという大前提が中国史の根底に貫かれているせいによる。そこから董仲舒の天人相関説なども派生した。このことを抜いて気は考えられない。
 (2)朱子学で初めて「理」と「気」が出会ったかのような印象を与えたかもしれないが、理というカテゴリー自体はけっこう古くからあった。「理」はもともとは「剖(わ)けて割くこと」という意味をもっていた。そこから岩石や鉱物の肌理や条理を念頭に「理の哲学」が出た。
 したがって、そのような理を最初に持ち出したのは朱子ではない。ずっと以前に荀子が理と人間社会とを関係づけていた。『礼記』にも「礼は理なり」という表現がある。また『韓非子』では道と理を組み合わせて「道理」などを重視した。
 (3)その点でいえば、「性」についても朱子学以前からいろいろ思考されていた。最も有名なのは孟子の性善説と荀子の性悪説にいう性である。人間をめぐる本性のことをいう。ちなみに「性」に対応するカテゴリーは「情」になる。性は内的で、情は外的なのだ。
 (4)朱子学が後期になって重視したカテゴリーに「心」があるが、これも宋代になって躍り出たものではない。
 これはもともとは心臓の意味だった。そのため思考の中枢だと考えられた。荀子が「人心は危険だが、道心は道と心が合一したものだからそのぶん深く、それゆえに微妙だ」と言い切ったのは特筆に値する。
 仏教においても「心」はいくつも思索されてきた。たいていは「念」や「信」と同義になっている。とくに華厳の三界唯心や天台止観の一心三観が特色をもつ。
 (5)儒教・儒学は「仁・義・礼・智・信」の五常を金科玉条としていたのだが、ここに朱子学が「気」を先鋒にして「理」や「性」や「心」を次々にもちこんだのは、たいそうな概念工事だった。ぼく自身は996夜にも書いたように朱子学よりも陽明学や日本儒学のほうが好きなのだが、概念工事力という点では、朱子の理屈ばかりの果敢な編集力には脱帽せざるをえない。

「天地日月圖」(『易図明辨』より)
後の時代、清代初期の儒学者、胡渭が著した『易図明辨』によって、
朱子学が重視した宋代易学に全面的な批判が加えられる。
この著作は、漢易を復原する清代易学の先触れとなった。
 


東京大学出版会
『気の思想 ―中国における自然観と人間観の展開』
編者:小野沢精一・福永光司・山井湧

1978年3月31日 発行
発行者:加藤一郎
発行所:財団法人 東京大学出版会
装幀:未詳

【目次情報】

  序

第一部 原初的生命観と気の概念の成立 ―殷周から後漢まで
  総論 戸川芳郎
  第一章 甲骨文・金文に見える気 前川捷三
  第二章 戦国諸子における気
      第一節 斉魯の学における気の概念 ―『孟子』と『管子』 小野沢精一
      第二節 『荀子』と『呂氏春秋』における気 澤田多喜男
      第三節 易伝における陰陽と剛柔 今井宇三郎
  第三章 秦漢期の気の思想
      第一節 道家の気論と『淮南子』の気 福永光司
      第二節 兵家・黄老思想における気の役割 細川一敏
      第三節 董仲舒における気の思想 関口順
  第四章 後漢期における気論
      第一節 後漢を迎える時期の元気 戸川芳郎
      第二節 訓詁にあらわれた気の資料  戸川芳郎

第二部 儒道仏三教交渉における気の概念 ―魏晋から五代まで
  総論 福永光司
  第一章 魏晋南北朝の気の概念
      第一節 儒家思想における気と仏教 蜂屋邦夫
      第二節 道家・道教における気 麦谷邦夫
      第三節 医書に見える気論 ―中国伝統医学における病気観 加納喜光
  第二章 隋唐・五代の気の概念
      第一節 儒道仏三教における気 福井文雅
      第二節 儒・道の気と仏教 ―宗密における気 鎌田茂雄

第三部 理気哲学における気の概念 ―北宋から清代まで
  総論 山井湧
  第一章 道学の形成と気
      第一節 易学の新展開 今井宇三郎
      第二節 邵雍と張載における気の思想 大島晃
      第三節 程顥と程颐における気の概念 土田健次郎
  第二章 朱熹の思想における気 ―理気哲学の完成 山井湧
  第三章 明代の哲学における気 ―王守仁と左派王学 上田弘毅
  第四章 清代の思想における気の概念
      第一節 戴震の思想における気 ―気の哲学の完成 山井湧
      第二節 桐城派における気 ―詩文論を中心として 三石善吉

第四部 近代革新思想における気の概念 ―清末から五四まで
  総論 丸山松幸
  第一章 洋務・変法思想と道器論 丸山松幸
  第二章 変法運動期における気 有田和夫

附論 西洋文献における「気」の訳語 福井文雅
跋 山井湧
人名索引
書名索引
事項・用語索引