尾形勇
東アジアの世界帝国
ビジュアル版「世界の歴史」8
講談社 1985
ISBN:4061885081
編集:講談社出版研究所 装幀:蟹江征二
7世紀から9世紀の東アジアには、
隋唐帝国という独特の中華世界が君臨した。
ここに突厥・イスラーム・ソグドから
高句麗・新羅・渤海・日本までが接地した。
すべての外交と経済と価値観が、
中国的なるものによって包括されたのである。
いま、TPPやEPAをかかえて呻吟する日本は、
この時代の価値観や歴史観のことなど、いまさらまったく関係ないと言い切れるだろうか。
ぼくは決してそうは思わない。

 いささか懐かしい。本書はビジュアル版「世界の歴史」全20巻の8巻目にあたる。ぼくがほぼ10年単位で世界史を編集的に鳥瞰するにあたって便覧させてもらったシリーズの一冊だった。25年ほど前のことになる。
 編集屋にとって、写真・図版・地図・年表が多い本はありがたい。それでいろいろ入手するのだが、そのうち歴史をもっと鳥瞰したくなる。そこでこういうシリーズを入手する。そうすると歴史のデコとボコ、鍵と鍵穴、人物と背景、分母と分子、枝葉と末節がこちらの目や体になじんでくる。鳥瞰とはそういうものだ。このシリーズでは、1「文明の誕生」(江坂輝彌・大貫良夫)、5「中国文明の成立」(松丸道雄・永田英正)、6「イスラム世界の発展」(本田實信)、7「ヨーロッパの出現」(樺山紘一)、本書、9「ビザンツとロシア・東欧」(森安達也)、10「草原とオアシス」(山田信夫)、11「東アジアの変貌」(小山正明)、13「大航海時代」(増田義郎)、17「東アジアの近代」(加藤祐三)、18「帝国主義の時代」(西川正雄・南塚信吾)などのお世話になった。

 ふりかえってみると、ぼくが世界史というものを“実感”できたのは、高校のくそまじめだった先生の板書授業を除くと、最初がH・G・ウェルズの『世界史叙説』やジュール・ミシュレ(78夜)の歴史もので、次が中央公論社の有名なロングセラー「世界の歴史」全30巻やJ・D・バナールの『歴史における科学』全4冊(みすず書房)あたりだった。
 これで、そうか「history は story の換骨奪胎なんだ」という合点や得心がいったのだが、他方では、だんだん世界史と日本史の接点や接面が見えてこないことに不満をもつようになっていた。
 そこへ学研のグローバル・ヒストリー「日本と世界の歴史」全22巻というシリーズが出現した。1970年から翌年にかけての刊行で、「遊」創刊前後のことだった。これはきわめて画期的な巻立て構成で、世界史とアジア史と日本史が一巻ずつの中に対同されたり、三幅対になったりしていた。本書にほぼ相当するところでいえば、4「6・7世紀:大化改新・隋・ビザンツ帝国」、5「8世紀:平城京・唐とイスラム・フランク王国」、6「9世紀:平安の新政・唐の衰亡・カール大帝」というふうなのだ。5巻・6巻の企画構成が坂本太郎・前嶋信次・増田四郎で、各巻の執筆者も東西の歴史学者・文学者・美術学者をずらりと揃えていた。
 これは救いだった。歴史学というものは日進月歩なので、40年前のシリーズを必読せよとは言わないが、歴史は好きなのにあまり得意になれないという諸君がいるのなら、また歴史というものを観音開きのような構成を見ながら鳥瞰したいのなら、このシリーズからはいまなお有効な視野が得られるにちがいないと、ぼくは太鼓判を捺しておきたい。日下弘と杉浦範茂のエディトリアル・デザイン(とりわけヘッドラインの色重ね)もよかった。

「日本と世界の歴史」全22巻+総目次(学研 1970)

日本史・アジア史・西欧史を鳥瞰して読み取れる構成

 むろん歴史に親しむには各国史や個別史の渉猟も欠かせない。高校の世界史の授業より、そのあいまに読んだクセジュ文庫や岩波新書の『十字軍』や『ナポレオン』がずっといきいきした歴史を伝えてくれるのは、当然なのだ。
 しかし、高校授業が叩きこんだ「世界史」と「日本史」という離ればなれの感覚は、なんとも抜けがたい。それなら、世界知とアジア知と日本知が体の中で分断されてしまったものを回復するには、どうするか。ぼくは学研のシリーズ以降は、歴史の飛沫(しぶき)や滲(にじ)みが染み出していく方向を記述しているような一群の本たち、たとえばアーノルド・トインビー(705夜)の一連の『歴史の研究』もの、ジェフリー・バラクラフのタイムズ版『同時代的図解世界史』(帝国書院)、アナール派のあれこれ、司馬遷の『史記』、ミルチア・エリアーデ(1002夜)の宗教歴史もの、徳富蘇峰(885夜)の『近世日本国民史』などをちょくちょく読み見るようになった。
 が、これらは読むたびにそのストリームを、自分で針と糸をもって縫い合わせる必要があったのである。かくて、このころからはもっともっと自分なりの鳥瞰や虫観もしたくなって、クロニクル・ノートをつくるようになっていく。これは何かの本を読むたびに、気になる歴象(歴史的事項のこと)をいちいちノートに書きこんでいくというもので、ノートは6冊ほどに独特に分類されていて、そこへ書きこんでいったのだ。
 やがてノートばかりが空欄のまま次々にふえるので、この作業を中断すると、そのフラストレーションが一気に爆発して『情報の歴史』(NTT出版)という世界同時表象年表になったわけだった。

『情報の歴史』(NTT出版 1996)
構成:編集工学研究所 監修:松岡正剛

 さて、今夜は『東アジアの世界帝国』である。いま日本は日米同盟のもと、TPPやEPAやFTAの問題をかかえながら、韓国とも中国ともなんとか戦略的互恵関係を進捗させようとしているのだが、傍目(はため)ながらもなかなかうまくいかないようだ。
 野田首相や大臣たちがオバマやイ・ミョンパクとどんな会話をしているのか見当もつかないが、おそらくは日本のことを話すときも相手国のことを話すときも、愉快でも痛快でもなく、滋味溢れることでも歴史的現在に立つようなことでもないような会話をかわしているのではないかと、心配する。ちょっと不憫にも見えてくる。
 しかし仮に中国がお相手なら、そもそも中国の歴史社会や現実社会を見るにあたっての、いくつもの対比に耐えられる歴史眼をもっている必要がある。そこは大丈夫なのか。
 中国は、理念においても現世的で、論理においても徳治的なのである。このへんのことは、大丈夫なのか。また、儒教が中国の底辺にあることは日本人なら誰でも知ってはいようけれど、その内実は「儒教的合理主義」というもので、日本人が好きな建前と本音の例でいえば、中国では「建前も本音も両方とも立てる」のだが、そこはどうか。日本では建前を立てて、本音を別のところで洩らすようだけれど、そんなことは儒教では通らない。日本では「両天秤」といえば汚い手か、日和見主義と受け取られるけれど、中国では両天秤こそ哲学なのである。
 あるいはまた、中国はずっと世界帝国であったことを心の底から誇ってきた国だった。チャイニーズ・エンパイアの歴史こそ、中国なのである。その矜持の背景はアプリシエートできているのか。そんなことは北京オリンピックの開会式でも如実であったはずなのだ。
 もっとも実際には、すでに千夜千冊してきたように、中国は匈奴や鮮卑や突厥をはじめ、何度も何度も遊牧的異民族に悩まされ、それにほとほと閉口していたのだが、だからといってそれでへこたれてはいなかった。それらの動向や人材をいつしか平気で採り入れて、そのうえで何度かの強大なチャイニーズ・エンパイアを演じてきたわけである。

 中国では興亡は世の常、王朝交替も世の常である。本書にも後漢の滅亡、三国の交代、西晋の南遷、五胡十六国の上げ潮引き潮、魏晋南北朝と鮮卑拓跋の綱引きをへて、やっと隋唐の世界帝国時代がやってくるところまでが叙景されている。そんなことはしょっちゅうなのだ。
 つまりは中国は、南北では気候も言葉も気質もちがうほどの巨大な大陸に、信じがたいほどの膨大な人民を擁していることもあって、いちいちの成功や心配に一喜一憂をしていられない。そのかわりそうとうに強靭な「上からの管理力」を網打っていないかぎり、個々のガバナンスも狂ってくる。そういう中国にいれば、楽観と悲観を一緒に処理できる能力が、すぐさま問われてしまうのだ。
 わかりやすい例を出す。「人間万事、塞翁が馬」という諺がある。『准南子(えなんじ)』に出てくる話だが、これを日本では「人生の幸福や不幸なんて予測がつかないものだ、まあ、人生いろいろ」というふうに解釈する。青島幸男や小泉純一郎はそう言って当選し、国政や都政の上にアグラをかいた。岩波の広辞苑でも角川の漢和中辞典でも、そういう解釈になっている。
 ところが中国の辞書では「塞翁失馬」となっていて、塞翁が馬を失ったと出ている。「しばらく損害を受けても、またそれでいいことがあるという譬え」と説明されるのだ。日本では「世の中アテにならないことが多い。人の努力には限界がある。だから気にするな」となるところが、中国では「失敗したって挫けるな」となるわけなのだ。ちなみに「人間万事」はニンゲン万事ではなく、ジンカン万事と読む。ジンカンとは社会のことなのである。
 中国とは、こういう思いがけない並列多様な合理主義をバックに、事態がどんなに矛盾をかかえていようとも、それで平然と世界帝国を維持しているグレート・システムだったのだ。
 では、以下ではそういう中国の巨きな中国的対比軸の見方だけを、少々ながらお目にかけておきたいと思う。

 第1に、中国では北と南がまったくちがう。西域と海岸部、東と西もまったくちがうが、まずは南北である。これは前提にしておきたい。
 南北を分ける大きなラインは、淮河から秦嶺山脈にかけてのベルト地帯にある。その北には5400キロの黄河が、南には6300キロの長江(揚子江)が流れて、南北の特色を「南稲北麦」「南粒北粉」「南船北馬」というふうに分ける。
 北側の大黄土地帯は昔から雨量が少なく、春風には黄塵・黄砂が舞って目も口も鼻も容易にはあけられない。そういう風土だから、ムギ・アワ・キビの雑穀が強い。そのため雑穀をいかした「粉食」が中心になってきた。これは、北の中国には堅い殻を取り去ってそれを粉にして加工する巧みな技術と、そういう生活の知恵がいろいろあったということでもあって、それゆえ饅頭(マントウ)、包子(パオズ)、餃子(ジャオズ)、油条(ヨワティヤオ)、麺類(ミェン)が発達した。
 日本人が華北を旅して最初に感じるのが強烈な喉の渇きと真冬の寒さであるように、その強烈な風土が北の歴史と文化をつくってきたわけである。これに対して南の江南は、高温多雨でコメの水稲や野菜が唸っている。南は水と水運に恵まれ、茶やハーブが発達して漢方薬の宝庫になる。

中国南北の気温差

 しかし第2に、中国の歴史は、全体としては「北の文明力が南の文化に及んでいく」というふうに推移した。北から南へ、であって、南が北を制したことはない。これが中国史というものだ。
 その北の文明力がもともとどのようにできあがったかといえば、黄河流域の関中・中原・関東の洪水や旱魃を克服するための、治水と潅漑の能力に長けた者がつくりあげた。禹や舜はそれをなしとげた伝説的な王だった。その伝説的な王を現実の巨大な中国社会において実現させようというのが、中国的なリアル・ポリティクスなのである。中国的合理なのだ。
 それには、まさに巨大な大地を組織統率できる者が伝説を超えてみせなければならない。そして、その確立をなしとげた者がいた。それが秦の始皇帝であり、漢の武帝だったのだ。これこそ秦漢帝国とよばれてきた最初のチャイニーズ・エンパイアとしての中華帝国である。
 もっとも後漢の解体ののちは、三国時代、五胡十六国、魏晋南北朝というふうに遊牧的異民族の交代が続いたので、次に中華帝国が確立するのは隋唐帝国まで待つことになる。が、それはそれで平気の平坐だったのである。

 第3に、中華帝国は天子(王)のもとに、周囲を圧する強力な華夷秩序を発動する。この華夷秩序のオーダーがものすごい。有無を言わせない。中華帝国はそのような強力なアーキタイプをつねに「周」に求めてきた。
 周の天子は周王だった。文王→武王→周公旦と続いて、ここで周王は中国最高の宗家(そうけ)として諸侯とのあいだに宗法(そうほう=大家族原理)を結んで、諸侯を各地に派遣する作邑(封建制)をつくりあげた。このとき諸侯・卿(けい)・大夫(たいふ)・士・庶人という階層ができた。
 それとともにその後のチャイニーズ・エンパイアを俯瞰すべき世界観もできた。これがその後の一貫した中国的世界模型のモデルになる。『周礼』には、世界を天円地方とみなし、中央に王城(首都)を築いてその中心に王宮を構えると、前後に朝堂と市場を、左右に宗廟と社禝(しゃしょく)を設けることが謳われている。また、王城の周辺1000里四方は「王畿」となり、その周辺の500里ごとに「侯服」から「藩服」にいたる9つの地域社会(九服)が分割された。九州ともいう。
 この九服・九州までが「中華の地」で、その外側は困った「夷狄の地」なのである。夷狄の地は北狄・南蛮・東夷・西戎に分けられ、いずれも蛮族として蔑視された。こういうインサイドとアウトサイドを截然と分けるレギュレーションが、すでに紀元前10世紀以前の周王朝期にできあがっていたわけである。
 その後、中国史は東周から春秋戦国時代に入るのだが、これは周王と諸侯の紐帯がゆるんだせいで、そのため各地の諸侯は地域的な同盟を結んで、勢力を競った。この同盟を結成する儀式がいわゆる「会盟」で、その主宰者が「覇者」である。会盟も覇者も、中国人は大好きだ。というよりも、混乱期には混乱期なりの英雄をつくれるのが、中国の特色なのである。
 その戦国時代の諸侯や覇者のあいだで合従や連衡が進むと、そこに秦の始皇帝が登場して初めて中国に「皇帝」の称号をもちこみ、徹底した郡県制による中央集権国家を築いた。もっとも秦の絶頂はたった15年とまことに短く、まもなく項羽を倒した劉邦(高祖)によって漢が建国され、ここに秦漢帝国が連続することになったのだが、だからといって15年で世界帝国がつくれることを始皇帝は示したのである。このこと、毛沢東も江沢民も存分に知っていた。

 第4に、中国の異民族に対しての外交政策は、基本が「郡県」方式か「冊封」方式かだった。郡県方式は諸民族の勢力を武力で制して、そこに国内同様の郡県をおくことで、漢の武帝が南越を制して9つの郡をおいたり、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡や帯方郡をおいたのが先例である。
 冊封(さくほう)は、周辺民族の首長を国内の序列に準じた王侯に任命(冊封)して、その勢力圏の統治をまかせるというもので、冊封された首長は中国の天子の「臣」となり、その国は中国の外藩(いわば衛星国)になるように仕向けることをいう。
 古代日本も好んで冊封関係を求めた。239年、倭の女王の卑弥呼が魏に入貢して「親魏倭王」の称号をもらったことや、倭の五王の一人として知られる珍が魏晋南北朝の宋から「安東大将軍、倭国王」の称号をもらったことが、その中国からの冊封にあたる。中国のガバナンスはどんな小さなところでも、周囲との関係をいつも郡県的にか冊封的に見る。気をつけなければいけない。

 第5に、中国には「易姓革命論」というものが底辺で流れているため、このロジックによる王朝交替がつねに正当化されてきた。
 この思想を提供したのは孟子である。孟子は、天命を失った天子は新たな天命を受けた天子に交替しなければならず、それには平和的な「禅譲」と武力による「放伐」とがあるとした。湯王が桀を追放し、武王が紂を討伐したのが放伐の先例で、孟子はこれを正当な革命とみなしたのである。革命があれば易姓が変わる。湯武放伐論として名高い。
 日本ではこの湯武放伐論が日本的に絞られて、吉田松陰(553夜)のラディカルきわまりない『講孟余話』がそういうふうになっているのだが、君子を諌めて三度受けいられないようなら、あえて放伐を辞さないというふうになった。しかし中国ではそこまでクリティカルには解釈しない。孟子は君主と臣下の関係を双務的なものだと見抜いたと解釈する。つまり「禅譲」も「放伐」も、実は中国的な“契約”なのである。しかもその契約は双務的なのだ。
 この双務的契約観念は、中国史の多くの場面にあらわれる。以上のことは、中国人が超越的な世界や抽象的な価値をあまり認めてこなかったことと深い関係がある。

 第6に、中華帝国は儒教を重んじた。そんなことは誰もが知っているだろうけれど、ところが日本人には儒教と国家の関係がなかなか見えにくい。これは端的には、(a)儒学が儒教になった、(b)儒教を国教にする戦略をとった、(c)儒教を修めた者が官吏になった、ということを意味する。そう見るといい。
 (a)儒学が儒教になったのは漢代である。漢の武帝に仕えた董仲舒(とうちゅうじょ)の進言が大きい。武帝は諸子百家の一つの法家をとくに好んだので、董仲舒は「天人相関説」を構想して、天と天子と皇帝の関係を明確にした。それまでの皇帝の称号は異民族の王たちとのあいだに軋轢を生じていた。たとえば匈奴の冒頓単于の単于(ぜんう)は「天に支配を認められた君主」という意味なので、中国皇帝とはバッティングする。
 そこで董仲舒は、皇帝は祖先を祭祀するときは君主の自称であってよく、天子は天地を祀るときも君主の自称であってよいとして、皇帝と天子を併用させた。異民族を含むすべての君臣関係は天によるレジティマシーにもとづくことになったのである。
 ただしこの天子の理念は、そこに天命が関与するかぎりは天命が尽きれば王朝が断絶することにもなることを意味していたので、中国はこのあと“天子≒皇帝の二重性”の発動とともに「革命」を内包することになる。

 (b)儒学は春秋戦国時代の経書にもとづいて発生した。董仲舒は経書のなかでは孔子の『春秋』、とりわけ公羊学を重んじた。しかし天人相関説は天子と皇帝のレジティマシーを正当化したわけで、特定の王朝のレジティマシーを説明するものではなかった。これでは漢王朝は万全ではない。そこで経書に対して緯書というものが著されるようになった。孔子は漢の成立をよろこんでいるといった予言的な内容だ。この予言的な内容のことを「讖」(しん)というので、公羊学派の思想を讖緯(しんい)思想ともいう。孔子は未来をも見通す神と位置づけられて、こうして儒学は儒教に変容した。
 讖緯思想を発展させたのは、前漢のあとに新を建国した王奔(おうもう)である。太学(たいがく)を拡張して儒教を振興し、儒教国家的な天地祭祀のレギュレーションを定めた。天子は首都の南の郊外で、地は北の郊外で祀り(二つまとめて郊祀という)、そこに役人たちが有司摂事としてかかわるというもので、この祭祀法は20世紀末の清朝末期まで続いた。現在の北京の天壇・地壇はその跡地になる。

「祈年殿」(無梁殿)
天壇の中心に位置するランドマーク
明代(永楽年間)に建立され、毎年正月に五穀豊穣の式典が行われた

 (c)新が倒れて光武帝の後漢ができると、緯書が天下に公然と示されて、ますます儒教が国教化していった。ここでは鄭玄(じょうげん)による提言が大きい。その国教としての儒教には明確なコンセプトがあった。「寛治」(かんち)である。儒教の徳目の「仁・清・廉」などを官僚登用の「郷挙里選」の評価基準に積極的に使った。
 しかし、儒教的選抜方法に反発する者もいた。これが外戚や宦官(かんがん=後宮に仕える去勢者)たちで、とくに宦官は儒教的官僚の追い出しにかかる。この追い出し作戦を後漢の「党錮の禁」というのだが、こんなふうに排斥された地方の実力者たちは、そのまま引き下ったわけではない。やがて「名士」とよばれる豪族となって郷里社会で実力をつけていく。後漢のあとの三国時代とは、実はこのような名士としての豪族グループの競争だったのである。
 とはいえ儒教と官僚の結び付きはその後もずっと続き、結局は魏の九品中正制度をへて隋の「貢挙」や唐の「科挙」になって、儒教的官僚の力は全面化していった。以降、“儒教=官僚”が中国社会の特色になる。

 第7に、これはいうまでもないだろうが、中国では儒教とともに、つねに仏教と道教が拮抗し、ときに排斥され、ときに重用されてきた。この三教の関係を知ることが中国理解のカギになる。儒学・玄学・史学・文学の四学とあわせて、しばしば「四学三教」という。
 「党錮の禁」で官僚を追い出した宦官に掌握された後漢は、農民の税負担の過剰が原因で社会不安をもたらした。ここに登場してきたのが張角による「太平道」や張陵・張魯による「五斗米道」だった。いずれもその後の道教教団のハシリ(原始道教)となって、一部は黄色い頭巾をつけて挙兵するにいたった。黄巾の乱である。
 時代が三国時代から五胡十六国をへて魏晋南北朝になっていくと、シルクロードからどっと仏典が入ってきて「格義仏教」がさかんになり、いったんは王法と仏法が大いに近づいた。それで、北魏の道武帝(太祖)の時代社会のような仏教興隆となるのだが、同時に道教も力をもつようになっていった。
 たとえば、道武帝を継いだ北魏の太武帝は、寇謙之(こうけんし)が唱えた「新天師道」にはまって道教を国教と認めたし、北周の武帝は仏教を排して儒教的な色彩の強い道教を国家宗教化しようとした。一方、梁の武帝のように自身で「三宝の奴」を称して全面的に仏教を重視した皇帝もいた。
 こうしたジグザグな変遷のあと、儒・仏・道の三教をバランスよくコントロールして、全体を仏教理念でくるんでいったのが隋の文帝であり、それを儒教で大きくくるんでいったのが唐の太宗(李世民)だった。隋唐帝国はこうした三教のいずれにも花を咲かせたのである。いいかえれば隋唐帝国はジグザグを内包したまま世界帝国になりえたわけである。

 こんなところが中国理解のための、とりあえずの大々前提である。そのうちもっと詳しい中国思想の説明もしたい。
 それでは、こうしてできあがった隋唐帝国は、アジアなかんずく東アジアの中ではいったいどんなコンフィギュレーションをつくりだしたのかということだ。楊堅(文帝)が隋を建国したのが581年で、李淵(高祖)が唐を建国したのが618年、唐の滅亡が907年だから、この世界帝国は7世紀から9世紀までの東ユーラシアの動向と重なることになる。

 日本の話からしたほうがわかりやすいだろうから、そこからスケッチするが、7世紀の日本というのは601年に聖徳太子が斑鳩に拠点を移したときから始まっている。
 これは隋が建国されて20年後のことで、中国は文帝から煬帝の時代に入っていく。煬帝は中国懸案の南北の落差を大運河でつないだ。この大工事の敢行は『斉民要術』に象徴される東アジア独自の農法(作物交代による輪栽農法)が中国の南北に広まって、これを水路でつなげる必要があったからでもあった。煬帝はそこを開発させた。小野妹子が隋に入って裴世清とともに帰ってきたときは、その煬帝の代だった。
 しかし久々に中国に登場した世界帝国の威力は、周辺を圧するものがあったとともに、周辺諸国を警戒させた。とくに隋と突厥、隋と高句麗とのあいだが緊張した。突厥のほうは東西に分裂したので勢力が落ちてきたが、高句麗は文帝時代に朝貢をして冊封関係に入っていたのに、それ以上には近づいてこない。そこで文帝はちょっかいを出すのだが、びくともしない。
 続く煬帝は、高句麗に攻めたてられた百済から援護を頼まれたのをきっかけに、ついに高句麗を潰すことを決断したけれど、この遠征は3度にわたって失敗した。この失敗が響いて隋は潰えた。
 こうして唐がこの世界帝国を継承した。李世民(太宗)が高祖を引退させて帝位についたのは626年である。「貞観の治」が始まった。数年後、日本からは第一次遣唐使の犬上君御田鋤が中国に向かい、玄奘がインドに向かって出発した。
 そのインドでは7世紀のハルシャ・ヴァルダナ王の時世のときに栄華を誇ったグプタ朝が陰って瓦解して、分立時代に入っていた。なかでベンガルのパーラ朝が8世紀の半ばから勢力が広がってパートリプトラに独特の仏教美術文化をのこしている。

7世紀の世界
「日本と世界の歴史―4」(学研 1970)より

 目を転じると、西南アジアの7世紀はまさにイスラーム勃興期になっていた。ウマイア朝が領土を広げて唐の領土と接触するまでに至り、西はアフリカ北岸がマグリブ化していった。673年からはイスラーム軍はコンスタンティノープルをさえ完全包囲した。この年は新羅の英雄の金臾信が死んだ年でもあったが、唐の高宗は新羅に半島の領有を認めた。
 そのころの660年、やっと高宗が高句麗を討った。新羅と組んで百済も討った。続いて唐・新羅の連合軍は白村江で斉明・天智の日本を討った。日本の敗北はこういうチャイニーズ・グローバリズムの裾を踏んだためだったのだ。それはともかく、こうして高句麗を駆逐して極東の後顧の憂いをはらした唐朝は、今度は西に向かっていく。高昌、トルファン、クチャがたちまち支配領域に入っていく。それとともにソグド人が運んできた胡風の文化が長安に入ってきた。
 ところがここで、中国史上稀にみることがおこった。則天武后が女帝として立って、国名を「武周」としてしまったのだ。これで、それまでの「道先仏後」(道教優先)の方針を転じて「仏先道後」(仏教優先)になった。則天武后は、天下諸州に命じて大雲寺を建てて妖僧たちを抱きこみ、弥勒下生のイデオロギーを採り入れるままに“世界帝国内帝国”とでもいうべきシステムに熱中してしまったのである。
 この中国7世紀の異様は則天武后の病没まで続く。やっと中宗が復位して唐朝が再興されると、712年からは玄宗皇帝による実に45年におよぶ「開元・天宝の治」が開花した。そのくせ玄宗は楊貴妃の傾国の美貌にのめりこんでいく。白楽天は長恨歌をつくって、「漢皇、色を重んじて傾国を思う」と歌った。玄宗56歳、楊貴妃21歳のときである。
 イスラーム圏では8世紀半ばでアッバース朝が主役をとって新都バグダードが大いに栄え、ハルン・アル・ラシードのアラビアン・ナイト文化が絶好調である。すでに千夜千冊してきたことだ。
 その751年のこと、中央アジアのタラス河畔では、唐の安西節度使の高仙之の軍とアッバース朝ホラサーンの武将ズイヤード・ビン・サーリフの軍がぶつかって、唐が敗北した。唐軍の捕虜に製紙工がいたため、このとき中国の製紙法が西に伝わったという世界技術文化史上の見逃せない出来事がおこる。
 まあ、このくらいにしておくが、このように隋唐帝国を見ていくことは、そのままユーラシアから東アジアに及ぶ「鍵と鍵穴」を連続的に発見していくことになるはずなのである。

8世紀の世界
「日本と世界の歴史―5」(学研 1970)より

 ところで、このようなアジア・ユーラシアの流れのなかで、ぼくが最近気になっているのが渤海である。713年に大祚栄(だいそえい)が玄宗から渤海郡王に封ぜられたときから、その歴史が始まる。
 渤海が国の様相を呈したのは、高句麗が滅んだからだった。唐が大軍を高句麗に送りこんできたとき、この国の前身は中国東北地方から朝鮮半島北部にまたがっていた。ここを唐の遠征軍が高句麗を討っているあいだ、大祚栄が必死に守っていた。牡丹江上流の間島(かんとう)を拠点に、高句麗人や靺鞨(まつかつ)人といったツングース系を統合していたのである。そのときこの国は「震」とか「大震」といっていた。“東方の国”という意味だ。
 唐はこの国までは打倒できないと見て、冊封方式による政策管理にすると決め、大祚栄を渤海郡王とした。これで国名が渤海になる。
 その渤海が聖武天皇の727年に、突如として日本に使節を送ってきた。高斉徳らの8人だった。「われわれは高句麗の旧居を復し、扶余・百済の遺俗を大事にしている」と自己紹介し、意外なことに自主的に交流を求めてきたのである。その後、渤海は醍醐天皇の時代までなんと34回にわたって使者を送り、日本は13回の使者を送っている。
 なぜこんなふうな自主ルートが渤海と日本のあいだに開かれたのか。いろいろ推理できるのだが、ひとつには新羅を憎むであろう日本と手を結んで新羅を牽制しようとしたのであろうし、ひとつには満州特産の貂の皮、蜂蜜、人参を、日本の絹・麻布・漆器などと交換して交易上の利益を求めたのでもあったろう。実際にも渤海五京の一つ上京龍泉府の遺跡からは和同開珎が出土した。上京龍泉府は東京城ともいわれて、条坊制のととのったミニ長安城のような趣があったところだと言われる。
 興味深いのは、日本はこのような渤海に対してなんらの政治的な工作もしていないし、また特別の援助もしていなかったということだ。渤海に手を出して唐の関心をひきおこすことを避けたかったからだとも考えられるが、ぼくは日本海を挟んだ独自の交流が、この時期の「東アジアのひとときの安寧」に大きく寄与していたとも感じている。
 そこで、今夜の一言。東アジアの新たな展望は、いまなお日本海をまたぐ両側の“伏線”にこそ眠っているのではあるまいか。

8世紀の東アジア
「日本と世界の歴史―5」(学研 1970)より
 

《ビジュアル版》世界の歴史
『東アジアの世界帝国』
著者:尾形勇
1985年5月10日 発行
発行者:野間惟道
発行所:株式会社講談社

【目次情報】
はじめに 東アジア世界とは
東アジアの世界帝国●中国の風土と文化
第一章 分裂と模索 ―三国時代
    1 瓦解する統一国家/2 群雄の登場/3 東アジア世界の開幕/
    4 家柄コンプレックス(曹操の唯一の弱点)/
第二章 江南の胎動 ―西晋と五胡
    1 つかのまの統一/2 矛盾をはらむ支配体制/3 晋朝の南遷/
    4 南北あい競う/
第三章 華北の新風 ―北朝史の展開
    1 北魏の建国と発展/2 北朝の新しい動き/3 二分する北朝/
    4 鮮卑拓跋氏の故郷/
特集●九朝の古都・洛陽
第四章 統一への道 ―南北朝と東アジア
    1 南朝史の展開/2 南都「金陵」の盛衰/3 南北朝期の東アジア/
第五章 昇りつめた古代帝国 ―隋から唐へ
    1 統一国家の復興/2 隋帝国と東アジア/3 大唐帝国の成立/
第六章 爛熟の季節 ―唐代
    1 大唐帝国の興亡/2 皇帝陵の威容/3 最後の古代帝国と東アジア/
付録●年表 参考文献 地図

【著者情報】
尾形勇[おがた いさむ]
1938年愛媛県に生まれる。東京大学文学部東洋史学科卒。北海道大学助手、山梨大学教授を経て、東京大学文学部教授。文学博士。高校時代、故内山完造氏の講演を聴き、中国に興味をいだく。以来、中国古代国家の特質を求めての研究に従事している。著書に『中国古代の「家」と国家』(岩波書店 1979)、訳書(共訳)に楊寛『中国皇帝陵の起源と変遷』(学制社 1981)がある。

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