森安孝夫
シルクロードと唐帝国
興亡の世界史 05
講談社 2007
ISBN:406280705X
編集:青柳正規・陣内秀信・杉山正明・福井憲彦 装幀:山口至剛
いま、世界は政治的にも経済的にも、
不安定きわまりない。
しかし隋唐帝国が確立したときは、
ユーラシア全域はもっと揺動に満ちていた。
それは歴史の主人公たちの軸足が大国の中になく、
「動く民」たちにあったからである。
今日の中国だって、この歴史を振り返ったほうがいい。
鮮卑、突厥、ソグド、ウイグル人たちが
かの大唐帝国を支えたのである。

 読みごたえがあった。ユーラシアについての視野が大きく、諸民族に関する視点の多くに焦点力がある。とくに隋唐王朝を建国した中核集団が漢民族中心のものではなく、突厥やソグドやウイグルとの“協業”によっていたということを、ここまでダイナミックに案内してくれた本はなかった。
 本書は『スキタイと匈奴』(1424夜)と同じ「興亡の世界史」シリーズの第5巻にあたる。前にも書いたように、このシリーズそのものが斬新な組み立てで執筆者も気鋭が揃っているのだが、なかでも本書を担当した森安孝夫はおもしろい。
 専門は仏教とアジア史の交差するところならすべてといってよく、とくにウイグル、ソグド、マニ教にめっぽう強い。いまは大阪大学の文学研究科教授で、「内陸アジア言語の研究」という学術誌の編集長も引き受けている。しかし本書は、たんにシルクロードと大唐帝国の関係を記述したものではない。これまでの世界史教科書への挑戦であり、西欧中心史観に対する憤懣やるかたない思いの吐露にもなっている。
 歴史シリーズにそういう憤懣を書きこむことはややめずらしいけれど、それほど従来のアジア史がめちゃくちゃだったということだろう。それに著者のそういう憤懣が本書をいきいきさせたともいえた。こんなふうにアジアを躍如させる歴史教科書を若いうちに読んでいたら、誰だって勇気凛々の世界観がもてたのではないかと思う。
 というわけで、本書が強調していることは、ざっとまとめると次のようなことなのである。序章にあたるところを紹介しておくが、紹介の勢いをつけるためいささかぼくの視点も加えてある。

 かつて日本にとっての中国は現在のアメリカ以上に圧倒的存在だった。とくに飛鳥・奈良・平安時代の日本にとって、大唐帝国は唯一無二の絶対的グローバリズムの淵源で、近隣には百済・新羅・渤海があったといっても、それらは漢字と律令性と仏教文化を中国から受け継いだ東アジア文明圏のミニ兄弟のようなものだった。
 そのミニ兄弟のひとつに日本もあった。そういう日本からユーラシアを前後左右に匍匐運動するごとくに動いてきた仏教を見るとは、また東アジア世界を塗り替えた世界帝国としての隋や唐を見るとは、さて、どういうことなのか。これまでの西洋史観で見てはいけない。

 ユーラシアの地図を見ると、近代以降の世界の価値観をリードしたアルプス以北の西欧諸国は、ユーラシアの西北端に位置している。小麦・大麦・粟などに依拠したエジプト・メソポタミア・インダス・黄河の四大農耕文明圏をつなぐラインより、かなり北側になる。
 一方、農耕文化と穀物文化がつくったユーラシア・アジア文明は、その生産力と食糧需給力によって大きく人口を伸ばしてきた。農業技術もかなり先頭を走りつづけていた。それに比較すると、西欧世界が北魏時代の6世紀に成立していた『斉民要術』に匹敵できる農業技術に達したのは、やっと18世紀のことだった。そのように貧しかった西欧が隋唐時代の世界の中心だったなどということはありえない。
 そもそもが紙・羅針盤・印刷術・火薬・鉄火器のどれひとつとっても、ヨーロッパで発明されたものなんてなかったのだし、キリスト教は西アジアから伝播し、ゲルマン民族の大移動は中央アジアのフン族から始まったのである。カール大帝のフランク王国ですらイスラームの勃興がトリガーを引いたことで成立したようなものだった。
 仮にその後の「ヨーロッパの誕生」が世界主人公としてのアイデンティカルな自意識を早くつくりえたのだとしても、それもまたイスラームの勢いが十字軍運動をよびさましたからだった。
 だからヨーロッパで大航海パワーが拡大して、15世紀半ばにウォーラーステイン(1364夜)のいう「世界システム」がヨーロッパに成立したなどというのは、かなりおかしな説なのだ。それを言うならモンゴル帝国の勃興と拡大が始まった13世紀のアジアにこそ、もっと早期の「世界システム」の大胆な開闢があったというべきなのである(1402夜『ヨーロッパ覇権以前』参照)。
 それだけではない。そのモンゴル帝国のずっと前に、東アジアから中央ユーラシアにかけて五胡十六国が動きまわり、そのうえで魏晋南北朝につづく陏唐帝国が成立して、陸のシルクロードとも海のシルクロードともつながって、世界最大の交易圏を形成していたのだった。さらには仏教圏がキリスト教の版図以上の領域をもってユーラシアを覆っていた。
 まさに世界帝国にふさわしい。それが証拠には、唐は儒教・仏教・道教だけでなく、回教(イスラーム)も景教(キリスト教ネストリウス派)さえその懐ろにかかえていたけれど、ローマ帝国は異教の受容はせいぜいがミトラ教やマニ教までで、それもたちまち異端扱いをしてしまった。
 おまけにローマやラテン社会は当時のユーラシア最大の宗教である仏教のことなどとんと知らなかったのである。この時期、仏教を知らないヨーロッパがどうして「世界システム」の牙城たりえようか、というのが著者が言いたかったことなのである。

中央ユーラシアと四大文明圏の位置関係

 インドからシルクロードをこえて漢代の中国に伝来した仏教は、南北朝時代に格義仏教から教相判釈を整えてようやく根付き、随唐時代においてはついに北朝仏教と南朝仏教が融合していった。
 これは本格的な中国仏教の確立だった。そこでは太宗の「貞観の治」や玄宗の「開元の治」のもと、多彩な仏教文化が花開いた。玄奘や義浄に代表される教学仏教や、曇鸞に始まって善導によって大成された浄土教が隆盛するとともに、そこにさらに不空に躍如した密教なども加わって、まさに中国仏教黄金時代が出現した。唐はたちまち古代インドに代わる仏教王国になり、長安はバグダードの国際イスラーム都市に比肩する国際仏教都市になったのである。
 しかしそうした大唐帝国といえども、国内のインサイドパワーや皇帝による上からの指導力による充実だけで繁栄したわけでもなく、そこに矛盾がなかったわけでもない。仏教がオールマイティであったこともない。

 そもそも中国はヨーロッパに1000年先駆けて官吏登用制度を採用していたけれど、その登用試験の「科挙」で求められたのはもっぱら儒学であった。儒学こそが“実学”で、仏教や道教は“虚学”とみなされたのだ。
 それゆえ仏僧や道士をのぞく多くの者が儒学の学習を余儀なくされていた。初唐の張説・陳子昂(ちんすごう)、盛唐の杜甫・王維・孟浩然(もうこうねん)、中唐の白楽天・韓愈(かんゆ)・柳宗元、晩唐の杜牧・李商隠などの名だたる詩人・文人たちも、こぞって科挙を通過した。李白(952夜)でさえ一再ならず官吏に就こうとして任官活動をした。
 それほどに儒学に国教性があったにもかかわらず、唐の仏教は充実したわけである。なぜなのか。その理由を解くにはたんなる仏教イデオロギーの分析だけでは足りない。当時の中国というステートがアジア・ユーラシアのダイナミックな動向を“活用”していたことに目を致す必要がある。それには、従来のユーロ・セントリズム(西洋中心主義)や、その逆のシノ・セントリズム(中華中心主義)に片寄った史観をぶっとばす必要がある。
 そうすれば、中国仏教にはすでにシルクロードをへたユーラシアのさまざまな特色がまじっていたことが見えてくる。

 そこで本書が注目したのは、大唐帝国の充実と変容をつねに刺激しつづけたアジア・ユーラシアを動く3つの動向だった。
 箇条書きにしておくと、①シルクロード史と表裏一体のソグド人による東方世界に対する影響を重視する、②唐の建国にかかわった突厥の動向の意味に注目する、③安史の乱前後の唐の変容をもたらしたウイグルの活動の意義を忘れない。こういうふうになる。
 ソグド人や突厥やウイグル人という日本人にはややなじみの薄いノマドが主人公になっているところが、本書の真骨頂なのである。
 かくして、世界史の視座をアジアから積極的に書き換えようという野望に満ちた著者は、本書では、この3つの動向を文字通り縦横に駆使して、6世紀から9世紀までのユーラシア・アジアの様相を実に痛快に浮き出していくことになる。
 ちなみに突厥もウイグルもモンゴリア平原に生まれて、中央ユーラシア東部に広がっていくトルコ(=チュルク)系の遊牧民集団であるが、これまでわれわれが学校で「人類はコーカソイド(白色人種=ユーロペオイド)、モンゴロイド(黄色人種)、ニグロイド(黒色人種)に大別される」などと習ってきたことを、こうしたチュルク系の歴史を追うことで変更せざるをえなくなっているのだということも、知っておく必要がある。
 かれらはペルシア語でいうなら、まさに「トルキスタン族」ともいうべき人々で、それをむりやりモンゴロイドやコーカソイドに入れることはなかったのである。
 もうひとつ、本書を読むうえであらかじめ知っておいたほうがいいことがある。おおかたの歴史ファンは中国を形成しているのは「チャイニーズ」という“中国民”であると思っているかもしれないが、またその中心は多数派の漢民族が担っていると思っているかもしれないが、その認識も訂正しておいたほうがいい。中国がチャイニーズであるのは、中国統一のしくみが口語ではなく文語(書き言葉)によって徹底的に管轄されてきたからなのだ。そのことを外して見れば、実は中国はいまのいままでずっと、変容の激しい多民族国家だったのだ。チャイナはチャイニーズによる国家ではなかったのだ。
 このことは、現在の世界の中で、実はいまだに「アメリカ民族」というものが“いない”のだということを考えてみれば、およそのことはきっと想像がつく。中国民族だって似たようなものなのだ。しかし、そのような「チャイニーズではない中国」と「アメリカンではないアメリカ」とが、これからの21世紀世界をリードしていくとなると(そうなりそうだけれど)、これはなかなか厄介なことである。

 では、ソグド人について書いておく。
 ソグド人はソグディアナを原郷とする。ソグディアナはユーラシア大陸のほぼ真ん中にあって、パミール高原から西北に流れてアラル海に注ぐアム河(オクソス)とシル河(ヤクサルテスまたはサイフーン)にかこまれている。この地域の中間地帯がトランスオクシアナ、つまりは西トルキスタンで、つまりは中国から見た「西域」だった。
 ソグディアナの最大の首邑はサマルカンドで、アケメネス朝ペルシアの時代からマラカンダの名で歴史に登場していた。サマルカンド(康国)の南にはキッシュ(史国)が、西にはクシャーニャ(何国)があって、そのもっと西にソグディアナの西の要衝にあたるブハラ(安国)があった。
 これらの都市国家の経済は当初はほとんど農業で成り立っていた。紀元前6世紀あたりから農耕が営まれていたことが考古学的にわかっている。けれどもこうしたオアシス農業には、必ずや田畑の限界がつきまとう。それゆえ人口がふえてくると、他の地域との交易に活路を見いだす者が続出した。これが有名なソグド商人たちで、シルクロードはこのソグド商人たちの「絹の道」だったのである。
 ソグド人は人種的にはコーカソイドに属するとされているが、むしろソグド語を喋るすべての民族がソグド人だった。文字もあった。最初からあったのではなく、日本人が漢字から仮名をつくったように、ソグド語をアラム文字で綴るうちにそれが草書化してソグド文字が生まれていった。ついでに言っておけば、このソグド文字が突厥やウイグルに伝播してウイグル文字となり、そのウイグル文字が13世紀ころにモンゴル文字に転化して、さらには17世紀にそこから満州文字が派生していった。
 それはともかく、ソグド人のソグド語こそはシルクロードの国際共通語だったのだ。つまりはソグドが動くところがシルクロード型グローバル・スタンダードだったのだ。ちなみにソグディアナは、いまではその大半がウズベキスタンに属する。

ソグド=ネットワーク
東西に広がるネットワークは、ゴビを越え北方のモンゴリアまで延びている

 中国側ではソグド人のことをいろいろな呼称であらわした。「胡」があやしい。商胡、賈胡(ここ)、客胡(きゃっこ)、興生胡(こうせいこ)、興胡(こうこ)‥‥。いずれもがソグドだし、胡商とか胡客といえばたいていソグト商人かもしくはイラン商人のことをさしていた。
 胡座(あぐら)、胡床(腰掛け)、胡瓶(水差し)、胡粉(おしろい)、胡椒、胡服(衣裳)なども、これらに準ずる。とくに中国の連中を狂喜させたのは胡姫(こき)によるたいそう官能的なダンスであった。胡旋舞・胡騰舞などと呼ばれた。白楽天の『新楽府』には有名な「胡旋女」という詩が入っている。
 しかしソグト人はいつまでも商人に甘んじてはいなかったようだ。本書は、李淵による唐の建国には、安興貴・安修仁という兄弟をはじめとする多くのソグド人がめざましいはたらきを見せたことを強調する。このことは、隋唐王朝の本質をどう見るかということにかかわってくる。
 これまでは漢人王朝とみなされてきたのだが、このようにソグド人やのちに見るような突厥のかかわりが中国王朝の確立に濃かったとすると、隋唐王朝はむしろ「胡漢融合王朝」というべきものであるかもしれず、もっとはっきりいえば「鮮卑択跋王朝」だったとみなすほうが当たっているかもしれなかったのである。

 現代の中国では、漢民族のほかに50あまりの少数民族が公式に認められている。ところがそこには、かつて唐代まで活躍していた匈奴、鮮卑、氐、羌、羯、柔然、高車、突厥、鉄勒、契丹などのノマドは一つも入っていない。
 なぜそうなるかというと、秦漢時代までに形成された狭義の漢民族(チャイニーズ)の中に、これらが魏晋南北朝を通してしだいに“同化”させられていったからである。かれらはその後はチャイニーズとして扱われた。それゆえ厳密にいうと、秦漢時代のチャイニーズや漢文化と、隋唐以降のチャイニーズや漢文化とは、実は別物なのである。
 そもそも唐には、東魏と西魏の分立時代から中国に巨大な経済負担をかけた突厥人もいれば、商人として縦横に活躍したソグド人やペルシア人もいたのだし(これらが胡人)、また高仙芝や慧超のような朝鮮人も阿倍仲麻呂・藤原清河・井真成(いのまなり)のように日本人もいた。かれらは漢語を自由にこなし、ときには第三言語も操っていただろうが、だからといって、そのすべてが漢語が喋れたというだけで、その大半が「漢化」したとか、唐がそういう異民族を受容したのは度量が大きかったからだとかと言うことはできない。もしそういうふうにしたとすれば、それはなんらかの政治的判断によるものか、ないしはたんなる後知恵なのだ。
 このことは、アメリカ語が喋れるのはアメリカ国民であっても、その民族的な正体がヒスパニックやイタリアンや日本人であるということにも通じることで、よくよく考えればすぐにわかることなのだが、ところが中国における中華思想というのはそこが恐ろしくも強大で、ついつい周辺国(いまでは世界中)が納得させられてきたわけだった。
 しかし、あらためて東アジアやユーラシアの実相にちゃんと分け入ってみると、その中華思想による国家確立のシナリオのいくつもの場面に、実は多くの異民族がかかわっていたことがあきらかになる。とりわけ隋唐王朝は秦漢的な意味でのチャイニーズによって用意されたというより、別の集団によって準備されていたというべきなのだ。いや、隋唐だけではなく、西魏・北周・隋・唐が一連の集団によって用意されてきたというべきなのだ。
 この一連の集団とは、北魏の武川鎮に由来する「鮮卑択跋系の集団」のことである。あまり知られていないことだろうから、少し説明する。

 大興安嶺あたりに鮮卑族がいた。中国本土に入って北魏を建てた。北魏は新たに北方に台頭した柔然や高車の力を警戒して、辺境を守るための「六鎮」をおいた。そのリーダーには国防エリートが抜擢された。
 ところが北魏の孝文帝が中原の洛陽に遷都して「漢化政策」をとるようになり、国家力学の中心が南に移るようになると、六鎮は軽視されるようになった。そこにおこったのが523年の「六鎮の乱」である。この反乱は北魏を東魏と西魏に分裂させた。東魏は山東の貴族と手を結び、西魏のほうは武川鎮の連中が関中盆地で郷兵集団を統率していた在地豪族と手を組んだ。力は西魏のほうが勝(まさ)った。やがて東魏は北斉に、西魏は北周と名前を変える。
 こうして宇文泰をリーダーとする武川鎮の集団が、西魏の中で勢力をもっていったのである。これを最近では「関隴(かんろう)集団」という。まさに鮮卑系の胡漢融合集団だった。
 胡漢融合集団の「関隴集団」が何をしたかははっきりしている。北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏を次々に政権につけていったのだ。唐を建国した李淵は関隴集団の出身なのだ。ただし、事はそうかんたんには進まない。ここには当面最大のライバルがいた。突厥(突厥第一帝国)である。隋唐はこのライバル突厥を叩く必要があった。

突厥第一帝国の最大領域
中華側で政権が分立する中、突厥は広範な領域を支配した

 突厥は6世紀の半ばに勃興した。ちょうど東魏と西魏が北斉と北周に名前を変えるころのことで、かつての匈奴・柔然などのあとを承けた中央ユーラシアを舞台に勢力を伸ばしていった。
 隋の楊堅(文帝)はまず突厥を分断させる政策をとった。次の煬帝も突厥分断策を推進した。突厥は東突厥と西突厥に分かれ、東突厥は山西北部からオルドスのほうへ転々とせざるをえなかったものの、それでも勢力を整えると中国侵略の機を窺っていた。
 そこへ煬帝の度重なる高句麗遠征が始まった。高句麗遠征は失敗だった。突厥が息を吹き返すチャンスがやってきた。
 ここで登場するのが関隴集団出身の李淵と李世民の親子だったのである。李淵(高祖)はかつての武川鎮の結束力をいかして隋を滅ぼすと、代わって長安に入城して東突厥を懐柔することで、新たな政権の座についた。次男の李世民(太宗)はこれをうけて関中十二軍を要して突厥対策にあてた。
 が、唐と突厥の関係は一進一退で、それどころか、それを続けるうちに両者が交じっていったとおぼしい。結果的には唐が突厥を内属させるのだが、それはわれわれが教科書で学んだ“立派な唐建国の成就”のようなものではなく、複雑な移民懐柔政策(降戸)によるものだったのである。
 その後、突厥は新たな編成をへて突厥第二帝国をつくっていくのだが、それについては今夜は省くことにする。いつか別の千夜千冊で補うかもしれないが、いまは約束できないということにしておこう。

 ともかくも本書には、ぼくがいまでこぼこにスキップしながらスケッチしたことの100倍以上の詳細な歴史文脈が描かれている。ぜひとも読まれるといいが、少なくとも今夜の肝に銘じておいてほしいのは、第1には世界のシステムはユーラシアの遊牧民によって実験されてきたということ、第2に隋唐帝国といえどもその中核部隊は鮮卑や択跋の系譜にいた武装集団であったこと、そして第3に、それらの経済力を内外に支えていたのがソグド・ネットワークだったということである。
 なお、著者の森安孝夫は歴史のエンジンを動かしているのは、軍事力と経済力とともに「情報収集伝達能力」であるという卓見を、本書の随所に披露している。そこも見落とさないほうがいい。情報収集伝達能力とは、いいかえれば歴史的編集力ということなのだから。

唐の最大勢力圏とシルクロード

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