才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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シルクロードの宗教

リチャード・C・フォルツ

教文館 2003

Richard C.Foltz
Religions of the Silk Road 1999
[訳]常塚聴
装幀:熊谷博人

ユーラシアの歴史を語るには、
シルクロードの歴史が欠かせない。
ローマとガンダーラとホータンと長安と平城京は、
何本かのシルクロードでつながっていた。
そこには、民族の交錯と文物の往来と
宗教の東漸とが重なっている。
北魏仏教や六朝仏教や隋唐仏教は
クチャ仏教や敦煌仏教をこそ背景にした。
しかし、仏教だけがシルクロードを動いたのではない。
ゾロアスター教もユダヤ教も異端キリスト教も、
またマニ教もイスラームも躍如した。
東アジアの民であるわれわれは、
シルクロードを渡ってきた東西信仰のネクサスを
ときどきは思い出すべきなのである。
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 何度か書いてきたことだが、ぼくは昭和38年(1963)入学の早稲田大学で、互いに関連がなさそうな3つのサークルに属した。早稲田大学新聞会、劇団素描座、そしてアジア学会である。
 新聞会では学生左翼活動にまみれ、素描座ではゼラチン番号をおぼえる照明屋たらんとし、アジア学会では松田壽男さんのアジア観を学ぶつもりだった。どれも中途半端だったけれど、それなりの体験をした。少なくともつまらない授業よりはずっと刺戟的だった。
 当時のアジア学会の仲間たちのあいだでは、ぼくが関心をもったアジア仏教史やタオイズムや古代朱問題やモンゴル帝国の秘密などは人気がさっぱりで、もっぱらシルクロードが脚光を浴びていた。例の喜多郎のシンセサイザー音楽に乗せたNHKスペシャル『シルクロード第1集』が始まるのが昭和55年(1980)で、日本人にシルクロード・ブームがおこるのはそれからだから、これはけっこう先駆的なことだったのだろう。
 先駆する理由があった。そのころの早稲田にはなんといっても長澤和俊センセーがいて、当時のシルクロード研究を一手に引き受けている台風の目だったからだ。アジア学会もその勢いに乗っていた。ぼくものちのちには『シルクロード史研究』(国書刊行会)や『楼蘭王国』(徳間文庫)や『張騫とシルクロード』(清水新書)などのお世話になったけれど、そのころは松田センセー一辺倒だったのだ。

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シルクロード全図
(クリックで拡大)

 古代シルクロードは「絹の道」とはかぎらない。絹馬の道であり、民族の交差路であり、大乗仏教の道であり、ソグド人やウイグル人の道でもある。
 シルクロードは1本でもない。何本もの道の平行と交錯がシルクロードであった。北方ユーラシアのステップ地帯を北緯50度あたりで横断する「草原の道」から、中央アジアのオアシス・ルートを北緯40度あたりで点綴(てんてつ)する「熱砂の道」まで、シルクロードはかなりの幅と複合的な支線とをもって、時代ごとに躍動してきた。紅海・ペルシア湾からインド洋・東南アジアをへて華南に達する「海のシルクロード」もあった。

 シルクロードがこんなに話題になったのは、ベルリン大学の地質学者で地理学者でもあったフェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(18331905)が、ユーラシアにまたがる東西交渉路を「ザイデンシュトラーセン」(Seidenserassen)と名付けてからである。リヒトホーフェンは7度にわたって中国各地や中央アジアや西域各地を踏査して、その成果を1877年から続けざまに『支那(ヒーナ)』全5巻として発表した。
 それがオーレル・スタインによってただちに英訳されて「シルクロード」になり、スウェン・ヘディンが『シルクロード』(西域冒険記)を書いたのが、アルベルト・フォン・ル・コック、大谷光瑞、ポール・ペリオ、ラングドン・ウォーナーらの研究欲や探検欲を駆り立てた。
 ちなみにこのなかのウォーナーというのは、映画『インディ・ジョーンズ』のモデルになったハーバード大学の教授である。日本もこういう冒険的な学者や研究者を映画にしてみるくらいの茶目っ気がほしいけれど(たとえば狩野亨吉杉山茂丸権藤成卿・本田宗一郎・大森荘蔵などをモデルにして)、どうもそういう映画は少ない。だからマンガ家たちががんばれるのだが‥‥
 ともかくも、リヒトホーフェンのこの「ザイデンシュトラーセン」という創発的なネーミングがなければ、「シルクロードの遊牧文化」も「シルクロード・ロマン」も「シルクロードから平城京へ」もなかっただろう。ペルシアと敦煌と正倉院をつなぐ楽器の道もなかったろう。

 とはいえ、シルクロードはたんなる「絹の道」ではないと、やっぱり言うべきなのである。
 匈奴が跋扈し、張騫(ちょうけん)が大月氏に向かい、マニ教が動き、隊商宿キャラバン・サライ(ペルシア語のカールバーン・サラーユ)が点々と連なり、ホータンやクチャに西域文化が花開き、仏教が東漸して敦煌に千仏洞をつくらせ、数々の貨幣が飛び交った文明路なのである。
 最近(2011年2月)になってやっと東洋文庫に入った『トルキスタン文化史』(平凡社)をものしたロシアの最も偉大な東洋学者ヴァシリー・バルトリドは、「シルクロードは草原と播種の共生文明路だった」「遊牧民と定住民のあいだにはたらいた民間の文明の力学だった」と喝破した。
 本書もそのような立場で書かれている。ただし著者のフォルツはハーバード出身で、いまはフロリダ州立大学にいる気鋭の東洋宗教学者なので、本書ではシルクロードを東西南北に移動しつづけた諸宗教だけを扱った。ゾロアスター教、東アジア型ユダヤ教、大乗から密教や禅にまで及んだ仏教諸派、東方ネストリウス派、マニ教、そしてイスラーム各派である。
 訳者の紹介によると、フォルツという研究者もおもしろそうな人物だ。イラン宗教とイスラームの専門家であるが、かつプロの音楽家としてCDを制作したり、未発表ながら小説も書くような異能研究者であるらしい。ネットで写真を見ると、うーん、なるほどオタクっぽい(笑)。アフロディテ・デゼネ・ネバブという夫人も写真家で、夫のフォルツが2000年から勤務しているフロリダ州立大学の芸術学部の助教授をしている。日本のドキュメンタリー・テレビ屋たちは、こういう夫妻をこそ取材するといい。
 ついでながら、本書の訳者も若い。1973年生まれで、東大の人文社会系研究科を修めたのち、真宗大谷派の親鸞仏教センター(ここはたいへん精力的な研究とメディア発信をしているところ)や、東大の博士課程をへて、主に中国における外来宗教思想を研究しているようだ。

 では、本書が扱っているシルクロードの諸宗教を、ごくかんたんに集約して見ておきたい。
 かんたんに紹介するけれど、ユーラシア宗教史の中の内容はけっこう複雑である。多神多仏と一神教が交じりあっているのだし、諸言語が入り乱れつつ、仏教でいうならその諸言語と諸信仰がしだいに漢訳され、シノワズリーな様相に覆われて、そのまま儒教や道教をともなって日本にやってきたわけである。
 そのようなシルクロード諸宗教を欧米人が扱うには、ちょっとした覚悟がいる。西欧史観を脱いでかからないといけない。そういう意味では、本書は西欧史観の転倒を試みたアンドレ・フランクの『リオリエント』(1394夜)などの主旨を受け継ぎ、それを古代に展開しているものでもあった。今後は少しずつかもしれないけれど、きっと注目を浴びていくにちがいない方向を示している。ただし、残念ながら仏教にはあまり詳しくない。

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ユーラシア大陸全図
(クリックで拡大)

 で、まずゾロアスター教である。
 シルクロードを越えて南北朝の周や斉で王族・貴族に広がり、唐ではケン教(示ヘンに天)とも拝火教ともよばれ、いくつもの拝火殿堂の営みさえあった、あのゾロアスター教だ。松本清張(289夜)が『火の回路』(火の路)で幾多の謎を追いかけた、あのゾロアスター教である。
 宗祖ゾロアスター、すなわちザラトゥシュトラ=ツァラトゥストラは、世界の天啓宗教の創唱者のなかでもかなり古く、紀元前1200年ころの(前7世紀〜6世紀という説もある)イラン東北の、現在はカザフスタンにあたる地方に生まれた(メアリー・ボイス『ゾロアスター教』376夜参照)。その教えはおそらく自分たちのことを好んで「アイルヤ」(アーリア人)と呼称していただろう部族(民族)のあいだに広まったと思われる(青木健『アーリア人』1421夜参照)。
 それゆえ一般的には、ゾロアスター教は「大イラン」に広まっただろうと思われているだろうけれど、最初のイラン人の王国メディアやアケメネス朝ペルシアにおいても、“ゾロアスター化”とはいまだ、イコール“イラン化”ということでもあって、宗教として確立していたのではなかった。ゾロアスター教が確立するのは、実質的にはやっと紀元前後が活動集約期になってからのことなのだ。経典『アヴェスター』や『ガーサー』によるその体系化も、3世紀にササン朝ペルシアが国教にしてからだった。マギ(ゾロアスター教の司祭)たちの位置付けもやっとこのころに確定した。

 しかしゾロアスターっぽいものがまじったイラン的宗教性となると、たとえば「アフラ・マズダ」はアッシリア語では「アサラー・マザズ」に、サカ語では「ウルマイスデ」となっていて、急に広がりをもつ。紀元以前からそういう裾野の広がりがあった。シルクロードを東漸できたのも、その柔らかさのせいだった。
 それでもアケメネス朝ペルシアのダレイオス大王がサカ族やエラム族の信仰を、「かれらはアフラ・マズダをちゃんと崇拝していない」と文句をつけたように、アフラ・マズダのことは知られていた。ただしそれらは、まだゾロアスター教ではなかったのだ。

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ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダ
翼のある半獣身の姿で表される

 次にユダヤ教。ユダヤ教がシルクロードに浸透していなかったかといえば、やっぱり染み出していた。
 すでに『列王紀』に、イスラエルの10支族が「ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に追放された」とあるけれど、これはアッシリア帝国が紀元前722年に北イスラエル王国を破壊して、居住者たちをアッシリアの各地に移住させたことにあたる出来事だろうから、ホラサーンあたりの中央アジアにはイスラエルの民がいろいろ散っていたはずなのだ。
 そのあとの南ユダ王国だって150年ほどはもちこたえたが、やがて前587年に新興のバビロニアによってエルサレムの神殿が破壊されたのだから、このとき以来、ユダヤの民がメソポタミア方面に散ったのである。しかもこのディアスポラ(離散)のあと、ペルシアのキュロス大王はバビロニアを征服してユダヤ人や奴隷を解放すると、さらにバクトリアやソグディアナにまで攻め込んだのだから、ここでまたブハラやサマルカンドのユダヤ人共同体の前身が残っていったと想像もできるはずなのである。
 のみならず本書は、古代ペルシアに始まってヘレニズムとパルティア王国時代をへたイラン的信仰は、かなりユダヤ的信仰と共振をおこしていっただろうとしている。それどころか、ユダヤ教に終末論やメシアの概念や最期の審判の観念が確立するにあたっては、イラン的なるものの影響が大きかったのではないかと推測もする。

 さらに、これにはぼくも驚いたのだけれど、『ヨブ記』(487夜)に登場する天使と悪魔の概念や「告発する者」(ha-satan)という言葉も、イラン信仰におけるアングラ・マインユ(悪霊)やアーリマン(闇の支配者)の影響だろうというのだ。
 いまはチェンマイにいて、ネパールやモロッコを飛び歩いている、イシス編集学校「6離」の花形だった花岡安佐枝は、少女のころに『ヨブ記』を読んで“世界”にめざめたようだけれど、この話を知ったらびっくりするだろう。

 キリスト教はシルクロードに関係したのだろうか。むろん大いに関係した。その代表が東方教会であり、ネストリウス派だ。
 西アジアでのリンガ・フランカ(共通語)であったシリア語は、実は東方教会の典礼言語になっていた。そのシリアでの428年、シリア人の司祭ネストリウスがコンスタンティノープルの総主教に任命された。就任まもなくネストリウスはアンティオキア派の立場に立って、「神を小さな少年であるかのように扱ってはならない」と主張した。アレクサンドリアの総主教のキュリロスがこれに猛烈に反対した。
 初期キリスト教というもの、勢力を増すにしたがって、しだいに二つの立場が対立するようになっていた。対立した二説は、キリストは二つの異なったペルソナ(位格)をもつという「キリスト両性説」(アンティオキア学派)と、いや、キリストは永遠の神聖なロゴスであるとする「キリスト単性説」(アレクサンドリア学派)だ。
 アンティオキア学派は「キリストには神としてのキリストと人としてのキリストがあるのだ」と言い、アレクサンドリア学派は「キリストは人であって神である」とした。マリアの性格を決めるにあたっても、アンティオキア派は「キリストを生んだもの」(クリストトコス)としてのストレート・マリアを、アレクサンドリア派は「神の母たるもの」(テオトコス)としてのジェネラル・マリアを重視した(シュライナー『マリア』359夜参照)。
 ビザンティン帝国の皇帝テオドシウス2世は、アンティオキア派のネストリウスに少なからぬ好意をもっていたようだが、実力者の姉のプルケリアはあからさまな反感をもっていた。そこでキュリロスはプルケリアを立ててネストリウス批判に乗り出した。431年、皇帝はエフェソスで公会議を開くように指示し、マリアの呼称の確定を求めた。
 議長となったキュリロスがアンティオキア派をまんまと異端としたのは驚くにあたらない。いつの世でも、こんな近親者や取り巻きの進言くらいのことで未来の方針が決まっていくものなのだ(毛沢東の四人組問題もブッシュの戦争も原発問題の次代決定なども‥‥)。
 こうしてアンティオキア派、別名「ネストリウス派」はローマ教会の支配を離れ、ササン朝ペルシアの首都であったクテシフォン(現在のバクダード付近)に首座をおくことになる。これが「東方教会」の始まりである。

 ネストリウス派はすぐさまソグド人のあいだに広まった。ソグド人はシルクロードの実際的な動く主人公で、ソグド語はシルクロードのリンガ・フランカ(共通語)であったから、ネストリウス派キリスト教はたちまち拡張し、いくつもの拠点をもつようになった。
 ソグディアナの中心都市サマルカンドに総主教座ができ、カシュガルにもその出店ができた。シル河(オクサス)の東側だけでも20ものネストリウス派の司教区があったという。
 パウル・ペリオによれば、こうして8世紀末までに少なくとも30点のネストリウス派の文献が敦煌で中国語訳されて、そのままその教えが中国センター部に流れこんだのである。これが「景教」だった。781年に唐の長安に建立された「大秦景教流行中国碑」が、以上のすべてを物語っている。

 マニ教はペルシア系・イラン系の宗教である。
 創唱者のマニ(マーニー)は216年にバビロニアで生まれ育ち(パルティアの王家の血を引くとも言われる)、ササン朝のシャープール1世が即位した前後に決定的な精霊の啓示を受けて、伝道を開始した。
 早々にシャープール1世の王子二人が帰依したため、その推薦でクテシフォンの王宮に招かれたマニは、教義書『シャープラカーン』を綴り、その後はアラム語による教義書を執筆した。シャープール1世もマニを寵愛し、しばしば遠征に同行させたが、これはマニに医術の心得があったからだとされている。絵の技量もあったようだ。
 244年、マニは高弟のアッダーとパテーグを東方シリアに送り、伝導を広げさせたのだが、やがてゾロアスター教のマギたちの反発を招き、迫害や弾圧を受けた。やむなくシャープール1世のあとの皇帝バフラーム1世に迫害の中止を訴えたのだが、かえって捕らえられて投獄されると、ほどなくして獄死した(あるいは処刑された)。
 それでもすでにマニ教の勢いは広がっていて、西はシリアからエジプト、北アフリカに(4世紀以降はさらにアンダルス、スペイン、南フランス、イタリアに)、東は西トルキスタンからシルクロードを進んで、7世紀末には唐に達した。
 とくにウイグル人はマニ教を好み、突厥第二帝国のあとのウイグル帝国(740年代から840年代まで)では国教にされた。マニ教を国教にしたのは世界史上ウイグルだけである。
マニ教の特徴はそのヘレニズムっぽいグノーシス的な折衷力にあるが、マニが啓示を受けて最初に向かったのがクシャーン(クシャーナ)朝であったことを考えると、マニの教義には多分に仏教の影響がまじっただろうと推測できる。マニは知識や言葉を尊んだので、クシャーン朝(カニシカ王時代)に勢いをもっていた仏教の魅力にも寛容であったのだと思われる。
 こうして、ソグド人とウイグル人と仏教徒によって、マニ教はシルクロードをなんなく東漸していったのである。中国では「明教」(光の宗教)と名付けられ、その教団の拠点を築いていった。ずっとあとのことにはなるが、マルコ・ポーロ(1401夜)もシルクロード旅行中にマニ教の教団に出会っている。ちなみに、あのアウグスティヌス(733夜)も、最初はマニ教信者だったのである。

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予言者マニ(?)とマニ教聖職者。
ホジョ壁画10世紀(インド美術博物館)

 以上のようにシルクロードには、さまざまな宗教が人種や文物とともに混交しながら動いていた。しかし、シルクロードを東に進んだ宗教のなかで最も大きな流れとなったのは、なんといっても仏教だった。ふつう、まとめて「シルクロード仏教」と言われる。
 シルクロード仏教といっても、一筋縄ではない。ガンダーラの仏教、アショーカ王の仏教、カニシカ王の仏教、マトゥラーの仏像、ホータンなどの西域南道の仏教、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を生んだクチャの西域北道の仏教、トルファンの仏教、浄土思想にめざめた敦煌の仏教、ウイグルの仏教、五胡十六国の仏教、北魏に流入していった仏教、イスラームと交じった仏教‥‥いろいろなのである。
 ただし本書はさきほども指摘しておいたように、仏教についてはあまり詳しくはない。それでシルクロード仏教については改めて千夜千冊しようと思うのだが、それでは今夜の愛想がないだろうし、本書の著者もいくつかのユニークな視点を加えているので、とりあえずそのサワリだけ紹介しておくことにする。ざっとは次のようになっている。

 仏教がインド全域に広まる原動力をもつのは、マウリヤ朝の第3代アショーカ王の在位の頃からである。紀元前3世紀のことだ。
 これは前244年に、アショーカ王がパータリプトラに僧侶1000人を集めて、仏典結集をおこなったことが機縁になっている。ブッダ入滅後から数えると第3回の結集になる。大編集時代だった。サーンチーの大塔をはじめ、舎利塔(仏塔)も各地につくられた。
 けれどもアショーカ王が亡くなると、新たな仏教勢力の勃興を快く思っていなかった旧バラモン勢力(ヒンドゥー教徒)が仏教的活動の抑圧に乗り出して、紀元前180年前後にマウリヤ朝に代わってシュンガ朝が王権を握ったのちは、歴代の王たちはバラモン教にばかり熱をあげた。
 これでいったん仏教は四散するのだが、それがかえって仏教を根太いものにも、信仰しやすいものにも変えていった。とくにシュンガ朝を逃れた仏教徒たちが、すでにアレキサンダー大王のインダス流域進出の影響を受けてヘレニックな造像感覚が定着しつつあったガンダーラ地方やタキシラ地方に入ったことが大きかった。ここで「アショーカ時代の仏塔仏教」に「ガンダーラの仏像仏教」が加わったのだ。
 ぼくは学生時代に、ギリシア的な知性の持ち主のミリンダ王が仏教的な長老ナーガセーナと論戦をしている『ミリンダ王の問い』という説話のようなものに熱中したことがあるのだが、このミリンダ王が漢訳仏典『那先比丘経(なせんびくきょう)』にいう弥蘭のことで、実名はメナンドロス王だと知ったのは、ずっとあとになってのことだった。メナンドロス王こそカーブルやガンダーラを治めた王であり、『ミリンダ王の問い』ではギリシア知性が仏教に兜を脱ぐということになっていたのは、のちに仏教徒がヘレニズムの仏教化を試みたせいだったと知ったのも、だいぶんたってからのことだった。
 つまりは、ガンダーラには「ギリシアと仏教のヘレニズム」が生まれただけではなく、「グレコ・ローマンの仏教化」がおこっていたということなのである。が、これだけで仏教がシルクロードを上っていったのではない。事情はもう少し複雑だった。

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サーンチーの仏教遺跡
(インド:マディヤ・プラデーシュ州)
アショーカ王によって建立された、
ストゥーパ(仏塔)や僧院跡などが遺される。
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サーンチーの仏教遺跡
トーラナ(仏塔)に施された彫刻
ブッダの生涯が象徴的に描かれている。

 そもそもガンジス流域の農耕社会に生まれ育った初期の仏教は、端的にいうのなら、思索・瞑想・持戒などによって「欲望を断ち切る」あるいは「苦悩から脱出する」という方針で確立していったものである。
 しかしとはいえ、煩悩と苦悩からの脱出(解脱)を完遂しようとするのはあくまでプロの出家修行者であって、その出家集団を支えるのはそんな修行に至らないアマチュアの一般在家信者たちだった。ということは、初期仏教というもの、いってみれば信仰と修行の専門家たちと、専門的な訓練など必要のない布施や礼拝で信仰を支える大衆という、互いに異なる二つの組み合わせによってスタートを切ったものなのである。
 このためアショーカ王登場以前、すでに仏教教派は信仰的存在のすべてを懸ける立場の「説一切有部」と、信仰のきっかけはもっているものの存在のすべてを懸けるにはいたらない「大衆部」とに分かれていたのだった。
 そこへアショーカ王とガンダーラ造像感覚が登場して、誰もが親しめる「大衆部」めいた“広がりの可能性”を準備した。これを逆にいえば、このとき「説一切有部」的なる考え方のほうがはじかれて、それがまずシルクロード方面に上がっていったということになるのだが、それとともに「大衆部」的なるものはシルクロードを動く商人にとっても仏教ポータビリティが高いものになったわけでもあって、ここにシルクロードを「理論的なもの」(悟り)と「救済的なもの」(救い)という二つの仏教性が動くことになったのである。

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アショーカ王柱
紀元前250年頃に建立
(インド:ヴァイシャリー)
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アショーカ王柱の碑文
(サールナート博物館)

 そこに加えて重なってきたのが、バクトリアを支配することになった大月氏の動向だった(1425夜)。大月氏は紀元後の127年前後にガンダーラを含む北インドにクシャーン(クシャーナ)朝を興し、その3代のカニシカ王のとき、改めて仏教充実を図っていった。仏伝が意識され、ブッダの誕生・出家・成道・初説法・涅槃といった重大場面が編集されて、仏弟子たちのアヴァダーナ(因縁譚)も揃ってきた。総じて、ここに大乗仏教が芽生えていったのだ。
 参考までに言っておくと、それまでガンダーリー・プラクリット(ガンダーラ地方で習合したインド語)で書かれていた経典が正典用のサンスクリット語に書き替えられたのも、中インドのマトゥラーでブッダ(釈尊)が人間の姿で描かれるようになったのも、弥勒(マイトレーヤ)が未来仏として浮上していったのも、いずれもクシャーン朝でのことである。
 ちなみに本書の著者フォルツは、マニ教では弥勒はミトラ神ともキリスト教のイエスとも習合していたという。

 クシャーン朝は3世紀後半に衰退した。デカンを支配していたサータヴァーハナ朝も3世紀にイクシュヴァーク朝に滅ぼされ、そのイクシュヴァーク朝も4世紀に衰微した。
 代わってこれらの混乱を統一したのがチャンドラグプタ1世が開いたグプタ朝である。パータリプトラが都になった。とくにチャンドラグプタ2世(在位375414)の時代には、これは5世紀の初めにパータリプトラに入った法顕(ほっけん)が報告していることなのだが、都には大乗の寺と小乗の寺とが並んで栄えていて、僧侶も700人くらいが修行していたという。グプタ仏教は僧侶が大いに寄進を受けていた時代だったのだ。
 ま、ざっとはこんなふうにして各時期の仏教のさまざまな側面が、多面・多様・多彩・多時間をもってシルクロードに流れこんでいったのである。
 これをむりやり整理すれば、ごく一般的には、第1期が2~5世紀のガンダーラの影響を強く受けた流れ、第2期が5世紀以降のシルクロード・オアシスの各都市で独自になっていく流れ、第3期がそれらが西域から中国につながって敦煌の莫高窟などが栄える6世紀以降の浄土的な仏教の流れ、というふうになる。
 これらが、シルクロードのオアシス都市上にホータン仏教、クチャ仏教、敦煌仏教などとして連続的に起爆していったのだ。
 そこにはすでに中国からの訪問者や旅行者たちもいたので(そうしたなかに張騫などもいた)、また西域から中国に招かれていった仏教僧も少なくなかったので(そうしたなかに安世高や支謙や鳩摩羅什がいた)、やがて西域全体のシルクロード仏教が中国仏教へと結実していったのである。
 これを仏教史学ではまとめて「仏教東伝」という。いわば、みんな中国化していったのだ。
 では、東に流れこんでいった仏教のあとには、シルクロードに何がのこったのであろうか。本書は後半の4分の1でそのことを書いているのだが、仏教が中国に吸い寄せられていったあとのシルクロードは、ほとんどイスラームによって埋められたのだ。そのことについては、しばらくあとのモンゴル時代のユーラシアを千夜千冊するときに、あらためて案内したい。
 また、シルクロード仏教が中国化していったのとはべつに、インドからスリランカをへて東南アジアに定着したテラヴァーダ仏教のことや、チベットに入って“ラマ教”化した仏教、いまでもブータンに純粋にのこる本格的なチベット仏教のすばらしさについても、そのうち書いてみたいと思う。