才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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征夷大将軍

もう一つの国家主権

高橋富雄

中公新書 1987

編集:平林孝
装幀:白井晟一

平時と有事の組み合わせが、世界の歴史をつくってきた。
日本の歴史ももちろんそうだった。
ただし古代日本は、なぜか「北の有事」ばかりを重視した。
中央が北方の蝦夷(エミシ)を征圧し、
その俘囚を王民として取り込んだのである。
それでも蝦夷に反抗がおこる場合は、
征夷大将軍をもってその有事を鎮圧した。
そのうち将軍が、源頼朝から徳川慶喜にいたるまで、
「国の有事」を仕切ることになった。
天皇も関白も執権もいたにもかかわらず、
いったいどうして「北の有事」を仕切る将軍職だけが
全国を統率する大権をもつようになったのか。
ここには、日本列島にひそむ「もうひとつの歴史」が
有事の名のもとに見え隠れする。

 世界は、平時を有事が破り、有事が平時に組み込まれていくことによって多様な歴史をつくってきた。
 平時が「常」で「ふだん」、有事が「非常」で「まさか」。平時が柔らかい「日常」だとすれば、有事が激しい「異常」であった。
 東日本大震災は25000人近い死者・行方不明者を呑みこみ、津波の及ぶところすべての住宅・仕事場・公共施設をことごとく打ち砕いた。船は数千艚が瓦解あるいは陸に乗り上げて、いつもは陸をわがもの顔に自在気ままに動きまわっていた自動車たちは、数万台が木の葉のごとく揉みしだかれ、あっというまに使い物にならなくなった。生活と仕事が根こそぎ奪われたのだ。
 そこへもってきてレベル7の福島原発事故がいまだ止まらない。1号機のメルトダウンは早々におこっていたようだし、これでは2号機・3号機・4号機だって、このあとどんな“想定外”の事態が勃発してもおかしくない。
 自衛隊が出動し、大半は無言の隊員たちではあるけれど、終始、不屈で劇的な活躍をした。被災者と放射線汚染圏の住民は避難施設に移動した。こちらも無言に近い。この無言は「無念」に裏付けられている。作物は乱され、牛馬は飼糧に見放され、福島の風評被害は日本中どころか、世界をかけめぐった。
 まさに国家危急の有事。国難である。
 しかし、こうした事態のすべては、福島原発事故を含めて「北の有事」に発したものだった。普天間基地問題の「南の有事」では腑抜けになった日本政府も、この「北の有事」には驚天動地した。

 古来、有事とみなされてきたのは、戦争・自然災害・疫病流行・飢饉・財政危機・革命・クーデターなどだった。けれども有事は、それだけじゃない。ほかにもさまざまにあり、さまざまに歴史を動かしてきた。
 気候の変異、株価の暴落、通貨の変動、流民の移動、民衆の暴動のいずれもが有事だし、火事・殺人・政変・テロ・企業スキャンダル・鳥インフルエンザも、それぞれ有事なのである。そもそも世の中のニュースというニュースが「有事さがし」しかやってはこなかった。そのニュースが気になるようなら、文明というものは有事をおこしたがっていく方向にばかり、歴史をつくってきたとしかいいえない。
 それでも何をもって有事とみなすかは、時代や民族によって、地域や習慣によって、社会情勢や経済水準によって、さらには技術リスクの判断基準や為政者の資質によって、おおいに変化する。たとえばレイチェル・カーソン(593夜)が『沈黙の春』で一羽の鳥の変事を書いたときは、誰もその背景にとてつもない環境有事があるとは思っていなかった。
 一方、有事はいつまでも有事にとどまらないともいうべきである。世間を驚愕させ、危機に陥れた有事は、やがて平時の中に組み込まれ、過去を現在に縫い直していったのだし、ノアの洪水やポンペイがそうであり、原爆ドームやベルリンの壁がそうであったように、平時と有事はさまざまなかたちで歴史共存するようになってきた。

 個人の日々の中にも平時と有事がある。
 誰がいつ、どこで交通事故や火事に出会うかわからないし、いつなんどき家族や恋人に変事がおきてもおかしくはない。「まさか」の偶然事は有事の兆候で、「たまたま」は有事の予告なのである。
 だからといって、個人の有事がいつもは個人的であるとも、生活的であるとも、かぎらない。個人はしばしば、気候や環境や社会や国家の有事と無縁ではいられない。地震も公害も口蹄疫も、戦争も自爆テロも、首切りも会社の危機も失業も、個人の有事はすぐさま公共の有事にも、隣接の有事にもなっていく。
 漱石(583夜)はそれらのことをはやくも見越していて、『私の個人主義』(岩波文庫など)に、大意、次のように書いたものだった。「日本はそれほど安泰ではない。貧乏である上に、国が小さい。従っていつどんな事が起こってくるかもしれない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです」。
 漱石がそうしてきたように、国の行方を案じて、自身の脳天に有事の鶴嘴を打ちこむということは、必ずしも少ないことではなかったのである。大伴家持は「北の有事」のなかで個人の平時を狂わされていった古代人であるけれど、それでも「すめらぎ(天皇)の御代さかえむと東(あづま)なる みちのく山に金(くがね)花咲く」と詠まざるをえなかった。

 巷間で感じるかぎり、最近の日本は有事に臨んでの準備がきわめて希薄であり、有事に対する決断が恐ろしいほど緩慢であるようだ。
 拉致問題、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、イラク戦争参加、竹島問題、柏崎刈羽原発事故、リーマンショック、厚生年金問題、普天間基地移転問題、日本海天然ガス開発競争、口蹄疫流行、医者不足、尖閣諸島漁船事件‥‥。
 そのほか、安倍・福田・麻生・鳩山の短命内閣、日本航空やソニーの現状、温泉街の不振、中小書店の壊滅だって、それぞれ由々しい有事だった。現代日本はいつだって多くの有事をかかえてきたわけだ。
 けれどもどうも、その摑まえ方を日米同盟や一部政治家やマスコミのシナリオに委ねすぎてきた。
 それなら日本がずっと以前から有事に甘かったとか、有事に怠慢だったかといえば、必ずしもそうとばかりとはいえない。日本史を繙けば、白村江海戦から蒙古襲来をへて黒船来航にいたるまで、日本はシーレーンや国防には極端に甘かったけれど、列島内の辺境的有事には、むしろ異様なほどに過敏だったのだ。
 そのことを象徴的にあらわす有事の役職がある。それが「征夷大将軍」という歴史なのである。

 征夷大将軍は「征夷する大いなる将軍」という意味で、なんとも奇怪な名称であるにもかかわらず、建久3年(1192)の頼朝着任から慶応3年(1867)の慶喜の大政奉還にいたる約800年にわたって、日本の国政の中心を担うことになった。
 日本には倭国時代から天皇がいた。「治天の君」として院政を仕切る法皇もいた。関白も摂政もいた。執権や天下人も太閤もいた。けれども、鎌倉殿このかたは日本社会の実質システムの中心に、本来は有事と臨時のリーダーである将軍こそが君臨しつづけてきたわけである。将軍が「日本国王」であり、「デファクト・スタンダードの主権者」であったのは、紛れもない事実だったのだ。
 そもそも将軍という官位は「有事の大君」だった。「有事の大権」を発動できるプレジデントだった。そのことを如実にあらわしているのが征夷大将軍という格別な名称なのである。
 それが何がきっかけで「征夷する大いなる将軍」が国の大政の中心を担うのかといえば、「北の有事」が「国の有事」とみなされたからなのだ。

 本書はその「北の有事」が「国の有事」になっていった理由を、征夷大将軍の変遷を通じてさまざまな角度と背景から解読した最初の本だった。東北史研究の最もラディカルな研究者であった高橋富雄さんならではの、しばしば唸らせるような独自の分析がいろいろ詰まっていた。
 高橋さんの学問的な業績については文末を見ていただくとして、ここでは省くけれど、その研究姿勢は一貫して凄かった。東北を背負い、蝦夷(エミシ)を愛し、奥州藤原氏や平泉文化を解明しつづけた。ぼくが30代半ばに『辺境』(教育社新書)でガツーンときたことは『蝦夷』(1413夜)のところでも書いておいた。
 が、その高橋さんでも言及できなかったことは、いろいろあった。
 そこで以下では、本書のほかの高橋富雄著作とともに、高橋崇(1413夜)の『蝦夷の末裔』(中公新書)や『坂上田村麻呂』(吉川弘文館)を、新野直吉の『古代東北の覇者』(中公新書)を、また、工藤雅樹の『古代蝦夷の英雄時代』(新日本出版社・平凡社ライブラリー)や『平泉藤原氏』(無明舎出版)、たいへんよくまとまっている「戦争の日本シリーズ」の鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』や関幸彦の『東北の争乱と奥州合戦』(吉川弘文館)を、さらには安田元久の『源義家』(吉川弘文館)や大石直正・入間田宣夫ほかの『中世奥羽の世界』(東京大学出版会)などを参照しながら、「北の有事」と征夷大将軍の関係を概略的に案内する。

 征夷の「夷」は夷狄(いてき)すなわち外国の敵ということである。古代日本は中華思想を輸入して、この名称を外敵にあてがった。
 しかし本来の海外の外敵の対処にはもっぱら太宰府があてられていて、それとはべつの“国内の外敵”にのみ征夷将軍や大将軍の名がつかわれた。陸奥の蝦夷にのみ征夷の対象が向けられたのだ。
 ということは、つまりは「北の有事」に備える軍事総司令官が征夷大将軍だったのである。
 ただし、この官職は頼朝から始まったことではない。最初の征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂で、これが延暦12年(793)のことだった。『日本紀略』に「征東使を改めて征夷使となす」と説明されている。征東使や征東将軍を改めて征夷使とし、その長官に征夷将軍を、さらにそのトップに征夷大将軍が設けられたわけだった。
 二代目が坂上田村麻呂である。大伴弟麻呂が征夷大将軍になったときの征夷副使近衛少将だった田村麻呂が、4年後の延暦16年に征夷大将軍に抜擢された。その田村麻呂が新たに胆沢(いさわ)城を築き、ここに多賀城から鎮守府を移して、勇猛果敢なアテルイ・モタイらの蝦夷(エミシ)の反乱を平定したことは、前々夜(1413夜)にも書いた。
 というわけで、征夷大将軍の初登場は平安初期のことだったのである。そしてそれは、「征東使を改めて征夷使となす」と説明されていたように、その前の時代の征東使のころの役割の強力なヴァージョンアップだったのだ。

 征東使とは何かといえば、これは征夷使ともいわれ、蝦夷征討のために臨時に派遣された者をいう。その長官が征東将軍とか征夷将軍とかとよばれた。
 この名でわかるように、あくまで臨時の軍事リーダーだった。最初の征夷将軍は和銅2年(709)に任命された佐伯石湯にまでさかのぼる。
 つまりは蝦夷討伐のための臨時長官が征夷将軍であり、プレ征夷大将軍だったのである。では、蝦夷を討ったのは臨時の軍事リーダーやその一団ばかりだったかというと、そうではなかった。そこにはいくつかの前史があった。そのへんのこと、本書にもいろいろ説明がなされているが、鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』にさらに詳しい。

 そもそも日本の古代国家は、律令制にもとづいて「国・軍・里(郷)・保」という国内行政機構をもっていた。その行政機構にあわせて全国に公戸皆兵制を敷くことにより、その基盤を成立させていた。
 すべての「戸」から兵士一人を徴兵して、これをもって軍制・軍団・軍令を形成し、発令するのが原則だったのである。これを日本歴史学では軍団兵士制という。
 『令義解』などでみると、この軍団の編制は兵1万・5千・3千を単位にして、1万軍には将軍1・副将軍2・軍監2・軍曹4・録事4をおき、その上に大将軍が立つようになっていた。3軍もろともの編制であれば、大将軍の下に将軍3・副将軍4・軍監4・軍曹10・録事8がついた。
 将軍や大将軍は非常大権をもち、大毅(たいき)以下が軍令に従わなかったり軍務に怠慢であったりすれば、死罪以下の刑に処してよいとされた。大毅は千人の兵を率いるのだから、将軍・大将軍は文字通りの生殺与奪の大権を行使できたのである。
 もっとも将軍・大将軍に非常の大権があるからといって、将軍・大将軍がその地の平時の軍政に当たるわけではない。それをするのは鎮守府の鎮守将軍で、平時の管轄をするのは国府であった。平時の軍政は鎮守府の将軍・軍監・軍曹が担当した。だから将軍の官位は国司に準じ、軍監は掾(じょう)に準じ、軍曹は目(もく=さかん)に準じた。
 これで古代律令下の軍団兵士制はうまくいくはずだった。
 けれども、どうしても徴兵がゆきわたらない。数が揃わない。そのため、何度かのルール変更がなされていった。最初は陸奥・出羽・壱岐・対馬などの辺要諸国以外の全地域に健児(こんでい)をおいて、30人から100人程度の郡司の子弟を中心にした精鋭を選抜によって補完するようにした。これはいわゆる「健児制」だ。
 が、それでは不十分だった。そこで導入されたのが「編戸(へんこ)制」あるいは「柵戸(きのへ)制」だった。戸主のもとに造籍を通じて「戸」をふやすことにした。造籍とは水増しだ。とはいえ水増しにも限界がある。10年たっても各地に新しい子がふえてはこない。成長してこない。これでは軍事力強化にならない。

 かくて踏み切られたのが「俘囚(ふしゅう)制」だった。
 ヤマト朝廷の宇内の領域に入らない者たちを、まずはネゴシエーターが征圧し(この先蹤が阿部比羅夫だったろう)、それでも言うことをきかないなら軍事的に征圧し、そのうちの服属を誓った者たちを俘囚として取り込み、これを編戸や柵戸にまわすというものだ。
 王化されていない土地の民を取り込んで、これを煽(おだ)てて“王民の兵士”に仕立てていくというやりかただった。
 ここにおいて、いよいよ蝦夷の地と蝦夷の民こそが俘囚編戸の大きな対象になったのである。そのぶん陸奥東北一帯は「化外(けがい)「境外」「外蕃(げばん)」などと呼ばれ、そこは「まつろわぬ民」がいる“外国”とみなされた。
 その内域と外域を分け隔てるためにつくられたのが「柵」(城柵)である。王民化した俘囚が「和(にぎ)蝦夷」などとよばれ、それでも抵抗をつづける蝦夷たちが「荒(あら)蝦夷」とやや懼れられてよばれたことについては、1413夜でも説明した。
 古代国家はヤマト朝廷の支配にまつろわぬ者たちを制圧し、この「俘囚の民」をもって軍事組織の底辺にあて、とりわけ陸奥・出羽の蝦夷を服属させた「俘囚の民」が駆り出したのである。「和(にぎ)蝦夷」がさかんに公戸皆兵制に次々に組み込まれていったのである。

 こうして陸奥の地に国府とはべつの鎮守府がおかれるようになり、そこに将軍・副将軍以下の兵団が設置されていくようになった。
 天平宝字年間には、鎮守府の官員に国司なみの給与がわたされたとあるから、そうとうに優遇されたはずである。ちなみに大伴家持は最晩年に陸奥に赴任してそこで死んでいったのだが、それは鎮守将軍に任命されたため、その役割をはたすためだった。藤原氏による大伴一族追い落としの計略だったにちがいない。
 按察使(あぜち)という制度もあった。特別に按察使が設定されて、出羽国を含めた陸奥全体の管理を兼ねた広域行政指導府の面倒をみた。これはさしずめ3・11以降の岩手・宮城・福島3県の上に、“東北日本臨時統括府”といった上部ボード機能が置かれるようなものだろう。坂上田村麻呂のあとをうけて東北経営を任せられた藤原緒嗣は、そういう陸奥出羽の按察使だった。
 ついでにいえば鎮守府の和名は、本居宣長(992夜)の『歴朝詔詞解』によれば「えみしのまもりのつかさ」と読まれたらしい。鎮守府とはいえ、そこには北の蝦夷を統括するという意志がはたらいていたことを物語る。

 これらが平時の蝦夷管理システムだった。
 ところが、これに対して緊急有事のシステムがさらに用意されていったのである。それこそが征東使や征夷使という臨時のリーダーで、その統括長官が征夷大将軍なのである。
 征東使や征夷使は、国の非常事態に処するための有事のリーダーだった。日本の国事というものは朝廷が体現していたから、征東使や征夷使はその出征にあたっては朝廷のシンボルである天皇から節刀(せっとう)が親授された。節刀があるということは、天皇の大権が臨時委任されたことを意味した。
 そういう役割の征東使や征夷使の呼び名には、古代においては二つのジグザグとした前史があった。
 ひとつは、和銅2年には征蝦夷将軍、養老4年には持節征夷将軍、養老5年には征夷将軍、神亀1年には征夷持節将軍の名が冠せられたという前史で、もうひとつは、和銅2年に陸奥鎮東将軍が、宝亀11年のには征東大使が、宝亀12年に持節征東大使が、延暦3年に持節征東将軍が、そして延暦7年には征東大将軍という官職が発令されたという前史だ。
 実は征夷大将軍とは、これら二つの前史の名称の“統合”なのである。そして、征東使や征夷使がいよいよ征夷大将軍になったとき、「北の有事」は「日本の有事」にすっかり吸収されることになったわけである。
 高橋富雄は「ここで東北経営の歴史が切り替わった」と書いている。

 以上をまとめると、平時の軍政のトップに仮の将軍としての按察使なるものがいて、その下に陸奥守としての将軍と、副将軍格の鎮守将軍がいたということになる。位階も按察使が正五位上(のちに従四位下)、陸奥守が従五位上で、鎮守将軍は従五位下だった。
 だいたいは、そういうことだ。そしてこれが全面的に有事の臨時システムに切り替わったとき、征東使や征夷使を強化した有事のトップリーダーとしての征夷大将軍の出征が発令されたのである。
 しかしながら意外にも、この古代的な征夷大将軍の歴史は短いものにおわった。早くも延暦23年(804)、坂上田村麻呂は2度目の征夷大将軍に任命されながら、その征夷計画の実施は中止されたのだ。
 桓武天皇晩年に重大な御前会議が招集され、エミシ征討か平安教造営かの論議がされたうえで、「都の造営」が採択されたのだ。「北の有事」が「都の造営」に吸収されたのだ。いってみれば、東北大震災や福島原発問題より、東京オリンピック開催予算や東京電力の組織充実のほうが採択されたようなものだったろう。
 この中止された征夷計画は、それでも6年後の弘仁2年に文屋綿麻呂によって実行に移されている。綿麻呂は“陸奥の中の陸奥”ともいうべき、閉伊(へいい)と弍薩体(にさたい)に向かった。ここは岩手東部山岳地帯と青森南東部で、綿麻呂の軍は奥入瀬川を渡るところまで進軍した。
 ただ、このときの綿麻呂は征夷大将軍ではなく、征夷将軍だった。実際にも、その後の元慶2年(878)に秋田城下で「俘囚の大乱」があって、出羽国最大の有事となったにもかかわらず、朝廷は従5位上右中弁の藤原保則を正5位下に叙し、出羽権守に任じて鎮定にあたらせたにすぎなかった。平安王朝の征夷政策は、律令国家の支配領域をほぼ北上盆地にまで拡大したところで、一応のピリオドを打ったのだ。
 というようなことで、古代律令制下の征夷大将軍の役割は、ここでいったん途切れたわけである。高橋富雄は、このときに「古代征夷大将軍の役割が中断された」と見たわけだ。

 古代律令型の征夷大将軍が田村麻呂と綿麻呂の出征をもって中断されたのは、東北38年戦争がようやく収まったと判断されたからだった。
 ところが、ところがだ、それから80年ほどすると、源頼朝が征夷大将軍をまったく新たな制度にして蘇えらせたのだ。その前には木曾義仲がその官職を名のった。征夷大将軍が“復活”したのだ。
 なぜ、こういうことがおこったのか。
 いろいろ理由が考えられるけれど、一番に見るべきことは、そこにふたたび「北の有事」が認められたということである。そこには安倍一族や清原一族の動向が、奥州藤原4代の動向がおこっていて、それを源氏の棟梁が収拾することになったからだった。
 ざっとは次のような出来事が東北を中心におこっていた。

 古代律令制がくずれ、平安朝の“規制緩和”がすすむと、各地の支配は地方官の受領(ずりょう)に委ねられるようになり、9世紀を通して中央集権力が衰えるとともに受領の国内支配における裁量権が拡大していった。受領というのは任国に赴いた国司の長官で、多くは「守」(かみ)、あるいは「介」(すけ)の名をもった。
 これらは宇多・醍醐朝の「延喜・天暦の改革」によって大いに進行し、それにもとづいて、①中央財政の構造改革、②土地制度の改革(荘園整理令)、③富豪層と王臣家の指摘結合の分断、④受領による国衙機構の改編などに向かっていったのだが、それが一方では各地に群盗の出没や在地領主や任官たちの武装反乱を促進してしまった。
 朝廷はすぐさま令外官(りょうげのかん)として押領使などを派遣したものの、そんなことでは事態はいっこうに収まらない。もはや中央からの鎮圧では無理だったのである。平安期の貴族社会では考えられない武力勢力が台頭していたからだ。
 なかでも平将門や藤原純友などの猛者によって朝廷に対する謀反が勃発し、これが大乱の兆しをもたらすと(承平・天慶の乱)、この不穏を平定する力としては、“武力に対しては武力を”ということで、東国や西国からのしてきた「兵」(つわもの)の軍団にその解決を頼むしかなくなっていた。
 平将門は下総で決起し、常陸の国府を襲撃したのち上野・下野の国府も占領して新政権の樹立を狙った。藤原純友は伊予の日振島を根拠に瀬戸内海の海賊を率いて、伊予の国府や太宰府を襲った。どちらも、とうてい中央でも受領でも抑えられない力になっていた。
 ここに登場してくるのが、新たな勢力のイニシエーターとなった平高望(高望王)、藤原利仁、藤原秀郷(俵藤太)たちだった。なかで藤原秀郷(ひでさと)はのちのちの「奥州藤原四代」につながっていく。

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前九年合戦絵巻
源頼義が陸奥守・鎮守府将軍として派遣された。

 

 この承平・天慶の乱(935~941)のあと、頼朝が征夷大将軍を“復活”させるまでに、実は時代社会を変更させる“何か”がおこっていったのだ。
 まずは列島各地で多田源氏(源満仲)、伊勢平氏(平維衡)、武蔵七党(横山党・児玉党)などの武士団が、次々にあらわれた。
 ついで武蔵の押領使だった平忠常が房総半島一帯を巻き込んでおこした大きな反乱(1028~31)を、源頼信が平定して源氏の東国進出の橋頭堡をつくることになった。これがきっかけで兵(つわもの・もののふ)のパワーはふたたび東北に舞台を移し、いわゆる前九年・後三年の役(1051~1087)の奥州十二年合戦になっていく。
 ふたたび東北が「有事の戦場」になったのだ。
 前九年・後三年の役は、奥州安倍一族と清原一族の主導権争いに、源頼義などの源平を代表する武将が絡んだ合戦である。承平・天慶の乱とともに日本の中世の本質を見極めるにあたっても、また「兵」(もののふ)の登場という点からも、そして「北の有事」の新たな意味を知るうえでも、前九年・後三年の役はきわめて重大な経緯をもっている。
 発端は、胆沢の鎮守府を掌握した安倍氏が多賀の国府にあった中央政権の出店を侵犯したことにあった。これを「奥六群」をめぐる争いという。胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手が奥六郡である。
 奥六群のことは奥州藤原氏や平泉文化の謎を解く重要な背景になることでもあるので、次夜以降でも詳しく書きたい話題のひとつなのだが、その地がなぜ重要かというと、ここが「北の有事」を「国の有事」として引き取った頼朝を棟梁とする源氏勢力起爆の大きなトリガーになっていったからだ。

 ごくかんたんに案内しておくが、前九年の役は「北」の安倍一族と「東」の源頼義との出会いと合戦である。
 安倍頼時の祖父の時期に安倍氏の勢力が奥六群におよび、それが安倍頼時の時期に衣川の外に向かって広がり、しかも租税も収めず力役も務めないという勢力になっていた。そこで源頼義が追討将軍に任ぜられ、頼時を継いだ安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)と壮烈な合戦を交わしていった。勝敗はなかなかつかない。源頼義はここで「出羽の俘囚」のリーダーであった清原武則と連携して戦力を増強して、これをもって安倍氏を滅亡させたという戦役だ。その物語は『陸奥話記』(むつわき)がしるして、安倍一族の最期を語り、読む者を躍らせる。
 後三年の役のほうはその清原一族の内紛に発した戦役で、そこに陸奥守に赴任した源義家(八幡太郎義家)が介入して清原清衡を応援し、家衡・武衡を討ち取っていくという合戦だった。
 これが前九年・後三年の奥州十二年合戦のあらましなのだが、この結果、何がどうなったかというと、(A)源氏の戦果がめざましく全国に鳴り響き、(B)これによって陸奥の「奥六郡」と出羽の「山北(せんぼく)三郡」の支配権を得た清衡が清原姓から藤原姓に代わり、(C)新たに藤原清衡として支配地南端の平泉を拠点に奥州藤原4代の基礎をつくったわけである。

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後三年合戦絵巻(金沢柵攻略)

 

 さて、このあと時代は「西の平家」と「東の源氏」による源平争乱が続くわけで(すなわち保元・平治の乱)、それがとどのつまりは源氏の勝利になっていくのだが、その最終場面で次のことがおこったのだ。
 ①頼朝と弟の義経が対立した。②義経が平泉の藤原秀衡を頼った。③秀衡が途中で死んだ。④泰衡が義経を衣川に討った。⑤そこへ頼朝軍が攻めこんで奥州藤原一族の終焉がおとずれた。
 中世奥州最大のドラマである。いったい奥州藤原氏とは何なのか、平泉文化とは何だったのかというドラマだ。
 1週間前、平泉が世界遺産に登録されるだろうという報道があった。これは、3・11以降の岩手県の“蘇生”にとっても、奥州藤原氏の物語と中尊寺や毛越寺などの中世浄土の景観、および平泉を中心とした陸奥文化の歴史が21世紀に何をもたらすのかということを日本と世界が理解するにあたっても、すばらしい契機になると思われる。
 だからここでも、そのことをぜひとも源平の争乱のもうひとつの意味として議論していきたいところだが、それはいずれ千夜千冊するとして、ここでは頼朝がこの直後に征夷大将軍になっていったということを、おおざっぱな論点だけを追って説明しておきたい。

 頼朝が征夷大将軍を復活させた経緯の背景で、高橋富雄が最初に注目するのは、木曽義仲が征夷大将軍を名のったことである。このことはあまり歴史家のあいだで議論されてこなかったことだった。
 木曽義仲こと源義仲が征夷大将軍に任ぜられたのは寿永3年(1184)である。その直前、義仲は平氏打倒の兵を挙げ、寿永2年に倶利加羅峠で勝利を収め、京都に入って後白河法皇の治世を回復させる試みに着手した。その功で左馬頭(さまのかみ)に任ぜられ、さらに「朝日将軍」の号を下賜されると、翌年に半ば強引に征夷大将軍となった。
 このとき義仲は平氏をこれ以上は追討せず、むしろ平氏とともに頼朝に向かうことを決意していた。
 ところがその後、法皇は頼朝と連携するほうを重視した。そのため義仲は法住寺殿を襲撃して法皇を幽閉するのだが、ここから源平さまざまに入れ乱れ、ついに義経によって宇治川に追われ、近江粟津にわずか30歳で戦死した(巴御前はその後に行方を消した)。
 高橋富雄はこのとき義仲が「頼朝という東の棟梁を征夷する」としたことこそ、次にその「征夷」のシンボルを頼朝が逆転して握ることになるきっかけになったと見た。

 頼朝はどうしても征夷大将軍の官位がほしかったのだ。そのためにこそ義経をして義仲を討ったのだ。
 そこで後白河法皇に願い出るのだが、朝廷はこれを許可しなかった。なぜなら、鎌倉の地においてそこを動かぬ者が、有事の非常大権である大将軍の官位を得ることはできないと判断したからだった。
 そこで頼朝は次の手を思いつく。奥州平泉を征討したい、ついては勅許を願いたい。そういう申し入れを思いついた。文治5年(1189)のことだった。朝廷は泰衡追討使の宣下を与え、頼朝はこれを首尾よく果たし、「北の有事」に凱旋したことを誇示できた。
 こうして建久1年(1190)についに上洛すると、頼朝は権大納言を、続いて右近衛大将の任命を受ける。右大将になったことによって、「幕府」を開くことを決断し、あとは征夷大将軍の節刀を受けるだけというところまでこぎつけた。かくて建久3年(1192)に征夷大将軍の任命がくだり、頼朝にすべての軍事公権が与えられたのだった。
 しかし、ここでよくよく考えておくべきは、そこにはもはや「北の有事」はなかったということだ。征夷大将軍の名は幕府のプレジデントとしての名称になっていったのだ。そのかわり、頼朝は、新たな4つの権力の上に君臨することになる。
 この4つの権力を滝川政次郎は、①征夷大将軍としての軍事権力、②日本66カ国の総守護・総地頭としての権力、③関八州の分国主としての権力、④鎌倉御家人の封建的主従関係の棟梁としての権力、と見た。
 高橋富雄はこれを、①征夷大将軍としての幕府主権様式、②諸国総守護職・総地頭職としての諸国総追捕使の軍事警察権、③東海・東山両道に固有宗主支配を行使する東国行政権、④鎌倉御家人を従者としてコントロールする鎌倉殿の支配権、という4つの権力の支配を得たと見た。
 いずれの言い方でもいいのだろうが、これはその後の日本の武家の支配体制の根本方針になるものだった。すなわち「将軍」あるいは「将軍家」がこの4つの権力を掌握し、それをさまざまに発展させることこそ、「国の有事」を司るということになったのだ。
 それなら、「北の有事」はどうなったのか。また、鎌倉幕府以降の「将軍」はどんな変遷を遂げたのか。いずれも高橋富雄が生涯をかけて探求した問題であったけれど、今夜はこのへんまでにとどめておく。いずれ、どこかでぶり返して案内してみたい。

【参考情報】
(1)高橋富雄さんについては前々夜にもふれておいたが、『辺境』(教育社新書)を読んで以来、ずいぶん瞠目させられてきた。『奥州藤原氏四代』(吉川弘文館)は1957年の刊行で、いまでも古典的名著になっている。このほか『平泉』(教育社新書)、『古代蝦夷』『胆沢城』(学生社)、『蝦夷』『奥州藤原氏四代』『奥州藤原氏・その光と影』(吉川弘文館)、『平泉の世紀』(日本放送出版協会)、『義経伝説』(中公新書)、『徳一と最澄』(中公新書)など、著書は多い。
 最近の歴史学は高橋東北史学を必ずしも全面容認しなくなっているようだが、史実をどのように扱っているかという問題をべつにすれば、ぼくとしては高橋さんの深くも鋭い抉り方が、いまなお好きである。

(2)今夜ふれた歴史の流れだけを通して学習したいなら、「戦争の日本史」シリーズ(吉川弘文館)の、3鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』、4川原秋生『平将門の乱』、5関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』、6上杉和彦『源平の争乱』の精読をすすめる。このシリーズはかなりいい。
 そのほか鈴木靖民編『古代蝦夷と世界の交流』(名著出版)、今泉隆雄『律令国家の地方支配』(吉川弘文館)、熊谷公男『古代国家と東北』『古代城柵と蝦夷』(吉川弘文館)、関幸彦『鎌倉殿誕生』(PHP新書)なども補いたい。
 人物伝としては、定番ではあるが、やっぱり人物叢書シリーズ(吉川弘文館)の高橋崇『坂上田村麻呂』、安田元久『源義家』などに当たっておくことだ。
 ほかには亀田隆之『坂上田村麻呂』(人物往来社)、野口実『伝説の将軍・藤原秀郷』(吉川弘文館)がおもしろい。
 なお前九年・後三年の役、奥州藤原氏、保元・平治の乱については、今夜は省く。そのうち続きを書くので、その折に紹介する。