才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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遊牧民から見た世界史

民族も国境もこえて

杉山正明

日本経済新聞社 1997

編集:大谷潔・桜井保幸

パストラル・ノマドなユーラシア。
スキタイ、匈奴、月氏、フン、戦国七雄。
鮮卑、拓跋、柔然、エフタル、高車、五湖十六国。
北魏、突厥、鉄勒、女真、五代十国。
隋唐、ウイグル、キタイ、契丹、遼、西夏。
多民族が出入りするユーラシアを東西に動き、
南北に渡った遊牧民の集合国家群。
そこに加わってきたイスラーム・ネットワーク。
そこには、テュルク・モンゴル系による
ユーラシア大編成時代が待っていた。

 校長は1971年に「遊」という雑誌名を考えたとき、すでにノーマッドで遊牧的なことを考えていたんですか。

校長 まあ、そうだね。遊星・遊撃・遊牧民・遊園地・遊覧船・遊郭・遊女・遊民‥‥とか、いろいろ「遊」のつく文字を紙に書いてね、それを眺めていた。「遊」という文字がそもそも出遊的なので、遊のつく言葉はどれもどこかノーマッドなんだよね。のちに白川静(987夜)さんに教わるほどは詳しくなかったけれど。

学衆 遊牧的な文化や歴史に関心をもったのはいつごろですか。

校長 早稲田の「アジア学会」というサークルに入って、松田寿男さんの影響を受けたころかな。松田さんはすでに『中央アジア史』(弘文堂アテネ文庫)や『砂漠の文化』(中公新書)を書いておられて、それを読んでいろいろ私淑した。

学衆 私淑というのは?

校長 勝手に一人の先生や親方にテッテー的に薫陶を受けようとすることだね。ぼくは文学部の仏文で、松田さんの授業は受けられなかった。だから私淑することにした。白川さんが内藤湖南(1245夜)に私淑したようにね。ぼくのベンキョーはつねに読書と私淑によっているんです。

学衆 遊牧的な世界観もそうやって身につけていったんですか。

校長 身についたかどうかはわからないけれど、「遊」を一緒にやった高橋君が東洋史学に強かったのも大きいね。

学衆 バジラ高橋秀元さん?

校長 うん、高橋君は中国史とウイグルや突厥などの周辺民族の事情に詳しかったから、いつもそんな話をしてきた。

 ヨーロッパとアジアを併せてユーラシア、これにアフリカを加えてアフロユーラシア(アフロージア)、ついでに奈良を加えればNARASIAナレーシア(ナラジア)だ。中央は森と草原と砂漠と山地が横たわり、その両端にブリテン諸島の極西と日本列島の極東がある。
 西洋史観はユーラシアを西の世界(ヨーロッパ)と中東(ミドルイースト)と東方世界(オリエント)に分けたがるけれど、実際には南北ベルトで切れば、北から南へ向かって森林・森林草原・草原・半砂漠・砂漠の気候が連なっていて、その中心地帯の大きな部分を「乾燥」が占めて、そのところどころをオアシス都市がつないできた。
 ユーラシアは西洋・中洋・東洋などには決して分けられない。たとえそのうちの「陸のアジア」といっても、北アジア・中央アジア・南アジア・西アジアがあって、それとはべつに乾燥アジアとか内陸アジアとか高原アジアとか草原アジアといった呼び方があり、そこをさまざまな部族や種族が遊牧的に交差し、入り乱れてきたわけだ。
 そもそもユーラシアの大きな地域には、古代より狩猟と農耕と牧畜が組み合わさり、そこを「草原の民」と「オアシスの民」が動きまわって、総じて「面」としての遊牧世界と「点」としての都市社会を構成するようになっている。その主たる活動者はパストラル・ノマドたちである。牧畜農耕的的移動民、すなわち遊牧民たちだ。
 パストラル・ノマドはたえず動きながらサマー・クォータース(夏営地)とウィンター・クォータース(冬営地)を切り替えつつ、東西南北に自在に移動して、それぞれの地に群居性や集団居住地や、また都市や王国や帝国をつくってきた。そのルーツのひとつにスキタイがいた。

 紀元前18世紀から1000年ほどにわたり、中央アジアの草原地帯にはアンドロノヴォ文化という青銅器文化が続いていた。アンドロノヴォ文化はふつう4期に区分されるのだが、その第3期に羊の飼育と乗用の馬をもつ遊牧民の活動がおこり、つづく第4期の紀元前9世紀くらいからいくつかの遊牧社会が成立した。
 この中央アジアの遊牧民は、やがて西にも動いて古代オリエントから青銅器文化や鉄器文化を吸収し、黒海北岸に強力な遊牧国家を形成した。これがスキタイ(スキュタイ)だ。スキト・シベリア文化とも言われる。
 スキタイについて最初に記録をのこしたのは、古代ギリシアのヘロドトスの『歴史』である。まだ千夜千冊していないけれど、ヘロドトスはペルシア戦争を“現在史”として綴ろうと決意して、それをやってのけた。その視点と視野はギリシアとペルシアの背景史にも及び、各地の伝説時代にまでさかのぼる著述をするほどの熱の入りようだった。驚くべき才能だ。キケロが「歴史の父」と賛嘆したのも当然のこと、実に浩瀚な歴史記述になっている。松平千秋の名訳によって読める。
 そのヘロドトスが、「アケネメス朝ペルシアの大王ダレイオスが紀元前514年に大がかりな北進を敢行して、スキタイなる者たちを討った」と書いた。
 そのころのギリシア人の地理観念では、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の北側に広がる土地が「世界」(ヨーロッパ)というもので、その南側の東方が「アシア」(アジア)、西方が「リュビア」になっていて、スキタイは「世界」の北側に攻めこんでいたのだ。そこでダレイオスは70万の軍勢をもって、その子のクセルクセスは100万の軍勢をもって黒海沿岸を北上し、ドナウ川も渡ってスキタイに進攻していった。
 しかし、遠征は失敗した。スキタイの軍勢が嵐の中の蜂のように襲ってきて、ペルシア帝国はユーラシアの北にも東にも帝国を広げるチャンスを逃した。もし成功していたら、とてつもない古代ペルシア帝国がユーラシアに広がっていただろう。けれどそうはならなかった。ペルシアはおまけにギリシアにも負けた。
 かくてアケメネス朝は次のササン朝ペルシアに移っていくのだが、このスキタイこそはその後の中央アジアを席巻する遊牧国家群の母型のひとつだったのである。アンドロノヴォ文化とスキト・シベリア文化の再来とでも言ったらいいだろうか。

 

学衆 今夜の『遊牧民から見た世界史』は、そのスキタイに始まるユーラシアの歴史ですか。

校長 うん、この本は今日のモンゴル研究や大元ウルス(=モンゴル元朝)研究のトップを走る杉山正明さんが、『大モンゴルの世界』(角川選書)や『モンゴル帝国の興亡』2冊組(講談社現代新書)を書いたあとに発表したもので、発売当初からたいへん話題になった本だよね。

学衆 いまネットで引いたら、日経ビジネス人文庫になったそうです。

校長 ああ、そうなんだ。じゃ、みんなが読みやすくなったね。

学衆 いい本なんですか。

校長 そりゃ愚問だ。ぼくが千夜千冊をして、いい本ではないというのはないよ(笑)。いろいろ読みなさい。

学衆 はあ、そうですね。

校長 この本は「あとがき」によると、遊牧民のユーラシア史を構想して3年ほどかけて書いたらしい。で、ぼくがそのころ一読してたちまち伝わってきたことはね、遊牧的ユーラシアの世界を語るには、既存の国や王朝や民族の枠組みにとらわれない見方によって、かれらの結束や連合の要諦が強くなったり弱くなったりするその“具合”を観察することが、きわめて重要になるということだった。その“具合”のルーツがスキタイにあったんだんね。

学衆 具合というのは何ですか。

校長 “しくみ”だね。

学衆 スキタイって騎馬民族ですよね。

校長 遊牧民はみんな馬かラクダに乗って移動するからね。ただ騎馬民族というふうに言うのはどうかな。なんだか攻めてばっかりのイメージだよね。そうではなくて、杉山さんはスキタイについて考えるべきことは、今日の国家や民族でしか歴史を見ない現代人に対して、きわめて重要な反証になっているということじゃないかと書いている。つまり、スキタイは国家にも民族にも融通無碍で(むろん国境にも)、たとえばギリシア系スキタイにもペルシア系スキタイにもなりうるのであって、それでいて国家や民族をこえた大型で広域の政治連合体のようなものを形成しえたわけですよ。そこを杉山さんは「かぎりなくコンフェデレーションでありうること」というふうに言っている。

学衆 連結的で、連合的なんですね。

校長 古代ペルシア帝国だってそうした遊牧性をもっていただろうね。

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黒海周辺のスキタイ遺跡分布図

 スキタイは紀元前8世紀ころに、サルマタイ(サルマート)とよばれる遊牧民と争って黒海北岸のほうに移動してきたと見られる。
 サルマタイもスキタイものちのイラン語を話す遊牧民として知られるのだが、その場合はまとめてイラン系遊牧民と呼ばれる。ペルシア人たちはこれを「サカ」と汎称した。サカは中国文献では「塞」になる。
 こうして紀元前4世紀くらいまで、ユーラシアの西半では「北のスキタイ」と「南のペルシア」がカフカス・黒海・カスピ海をへだてて南北に並び立っていたというふうになる。古代ギリシアはその付け根にくっついていた小屋のようなものだった。しかしスキタイの正体はまだよくわかっていない。
 スキタイは民族名とも人種名とも王国名とも語族名ともいえない。広くいえば種族名だろうけれど、そこには西から順にいえば、農耕スキタイ(穀物を転売して通商する)、農民スキタイ(土地を決めて生産に従事する)、遊牧スキタイ(草原を遊牧する)、王領スキタイ(スキタイたちのリーダーをとる)などがいて、おそらくは地域・生業・居住の区別をこえた“かたまりとしてのスキタイ”や“しくみとしてのスキタイ”が多様にいたのだと思われる。
 そうしたスキタイに代わって勢力をのばしたのがサルマタイだった。黒海北岸から南ロシア平原をしばらく制圧したようだ。ときにはローマ帝国領内にも姿をあらわした。サルマタイもまたスキタイ型の遊牧国家のようなものだったのである。
 そのサルマタイもやがて瓦解した。なぜそうなったのか。紀元前3世紀末ごろに、中央アジアの草原の東に突如としてあらわれた「匈奴」が勢力を増して、これがどこかで「フン」となって、サルマタイの緩やかな組織的な要諦を吸収してしまったからだった。

 匈奴とフンとの関係はよくわかっていない。フンが南ロシアからヴォルガとドン川を渡り、ドニエプル川を越えてドナウ川を沿うようにヨーロッパに侵入していったこと、それに玉突き的に巻き込まれるかのごとくスラブ諸族やバルト諸族が南下して、いわゆるゲルマン系諸族の大移動になっていったことなどは、わかっている。
 そのリーダーとなった大王アッティラのこともよく知られている。けれどもそれらは4世紀から5世紀にかけてのことで、匈奴がユーラシアを東から西へ動き出したのはもっとずっとずっと前の、数百年前の、紀元前3世紀前後のことなのだ。
 だから、この時期のことは西から見ていたのでは何も見えてはこない。匈奴の動向が記録にのこるのは、中国でいえば春秋戦国期であって、その匈奴を迎撃あるいは追撃しようとしたのは秦や漢なのである。

 よく知られるように、古代中国では周辺の東西南北に屯するノンチャイニーズたちのことを「夷」「蛮」「戎」「狄」と言っていた。「東夷・南蛮・西戎・北狄」だ。
 岡田英弘の説によると、東夷は黄河・淮河下流域の大デルタ地帯の連中、南蛮は河南省西部・陝西省南部・四川省東部・湖北省西部・湖南省西部の山地の焼畑農耕民の連中、西戎は陝西省や甘粛省南部の草原遊牧民の連中を、そして北狄は山西高原・南モンゴル平原・大興安嶺あたりの遊牧狩猟民の連中をさしていただろうという。
 のみならず岡田は、「夷」とは尭・鯀・禹の三帝を輩出した「夏」王朝であり、これを「狄」の出身の湯王らの「殷」が襲い、そこへ「犬戎」に押された者たちの一群が陝西省西部の渭河の上流の岐山あたりに「周」を立て、その中から「秦」が勢いを増してきたのではないか。また、そのほかの戦国七雄(燕・趙・斉・魏・秦・韓・楚)のうちの「楚」は「南蛮」の蛮族にあたるのだろうなどとみなした。ぼくはこれが当たっているのかどうかはわからない。
 しかしたしかに、たとえば春秋時代の覇者となった重耳は、43歳のときに刺客の手を逃れて「狄」に出奔していたのである。狄は重耳の母親が出身していたところで、重耳はそこに12年を過ごし、そこから斉、楚をへて秦に赴き、そこで帰国をはたしたわけである。

 東夷・南蛮・西戎・北狄のすべてを遊牧民と言えるわけではない。そこにはたとえば羌(きょう)族のように、谷ごとに分散して小集団をいとなむ種族たちもまじっていた。
 けれどもそうした差異はともかくとして(差異があるのはあたりまえだ)、こうして春秋戦国の周辺を押さえたはずの秦にとって、それでもなお外辺の脅威となっていったのが匈奴だったのである。匈奴は東夷・南蛮・西戎・北狄を超える動きを見せたのだ。
 そこで紀元前221年、秦の始皇帝は蒙恬に大軍をまかせてオルドス地方の匈奴集団を討ちに行かせた。これで匈奴はゴビの北のほうへ動いた。ユーラシア・ノマドが東からゆっくり動きだしたのである。

 匈奴についての詳しい記事を書いたのは、ほかならぬ司馬遷の『史記』匈奴伝だった。ヘロドトスに匹敵するとも、それを上回る瞠目すべきアジア的歴史記述ともいえるが、その司馬遷によると、当時、匈奴のリーダーを單干(ぜんう)と言った。匈奴王のことだ。
 その匈奴王が頭曼のとき、その子に冒頓(ぼくとつ)がいた。ところが後添いが末の子を生んだので、頭曼は冒頓を廃嫡してこの末子を後釜にしようとして、冒頓を月氏のもとに行かせたのだが、冒頓は月氏の善馬を奪って逃げ帰り、万騎を率いて鳴鏑(めいてき=音を発して飛ぶ鏑矢)を用いて父の頭曼とその即金を誅戮した。
 有名な「鳴鏑」の話だ。かくて冒頓が匈奴王單干の地位についたのが紀元前209年のこと、始皇帝が没した前後のことになる。
 時あたかも漢の劉邦が楚の項羽と互いに鎬を削りあっていたときで、その後は劉邦が高祖となって漢帝国(前漢)をつくるのだが(202)、これを東方ユーラシアの構図で見ると、項羽と劉邦と冒頓が草原と中華をまたいで互いに相い並んでいたことになる。
 それというのも冒頓が匈奴王となったとき、周辺では東湖が勢いをつけていた。冒頓はこれを平定し、さらに月氏を討った。秦の蒙恬が奪取した匈奴の地はことごとく回復され、漢帝国としては匈奴との和平をはからずには帝国を安定させることができないところにきていたからだった。
 その和平を余儀なくされたのが「白登山の戦い」で、杉山さんはこの白登山での一件を「なによりも統一遊牧国家と統一農耕国家との、創業者どうしによる世界史上まれにみる戦い」と説明した。秦漢中華帝国の誕生は、ヒットエンドランをくりかえす匈奴の遊牧国家の誕生によって引き金を引かれていたいたのである。

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匈奴国家のモンゴル高原を中央部として扇状に展開する壮大なかまえは印象ぶかい

学衆 ふーん、匈奴ってそんなにすごいんですか。

校長 うん、このあと陸続と出現してくる東方ユーラシアの遊牧国家群の実践的なプロトタイプをつくったね。まず組織のすべてが左右対称的で、左右に賢王、大将、大都尉、大当戸なんてのがおかれるんだけれど、それぞれが分地をもって、千長・百長・什長・当戸というふうに十進法で軍備システムをつくっている。それがところが南面して進攻するときは、きれいに左・中・右という三大分割体勢になる。まるでサッカーやラグビーの動的フォーメーションだよね。

学衆 コンフェデレーション!

校長 そう、そう。

学衆 匈奴の動的なしくみがプロトタイプになったというのは、その後の遊牧国家や遊牧帝国もそのシステムを踏襲したということですか。

校長 匈奴の勢力は2世紀の後半に衰えていくんだけれど、そのシステムを継いだのは鮮卑です。それが鮮卑の拓跋部に移行し、やがてはモンゴル帝国に受け継がれていく。

学衆 漢はそうした匈奴のシステムの前に敗退するんですか。

校長 反撃に出たのは、やっと第7代の武帝のときだよね(武帝は紀元前141年即位)。それが北東アジア史上屈指の50年におよんだ「匈奴・漢戦争」というものです。

学衆 へえーっ、漢と匈奴の闘いは史上屈指の戦争ですか。

校長 匈奴は冒頓のあと天山の南のタリム盆地のほうへ勢力をのばすんだけれど、ここは小規模のオアシス都市があったところで、漢からするとここを抑えられるとシルクロード交易ができなくなる。漢からすれば「西域経営」ができなくなるわけです。だったらこれはまさしく天下分け目だよね。そこで武帝は張騫(ちょうけん)を大月氏に派遣して西域情勢を調査させ、それから衛青と霍去病(かっきょへい)に匈奴を討たせることにした。こうして約半世紀におよぶ戦いが継続されたんですが、結局は痛み分けでおわった。そのうち前漢が滅んで王奔の新がおこるんだけれど、この王奔が20万の大軍で匈奴と戦争をして、これまた失敗します。

学衆 なかなか中華帝国が遊牧民を牛耳れない。

校長 そうとも言えるし、匈奴のほうが一枚も二枚も上で、漢と同盟関係を保とうという連中と、中国なんてほっといてさらに西のほうへ進もうという連中とに軍団を分けてしまうんです。これを杓子定規でいえばいわゆる「匈奴の東西分裂」というふうになる。

学衆 日本も北方領土や竹島や尖閣諸島の問題に対して、匈奴システムでいけばいいんじゃないですか(笑)。

校長 自民党と民主党が前後して? そりゃまあ、ムリだな(笑)。

 匈奴が東西に分裂したというのはあくまで漢の歴史観によるものだが、ともかく匈奴はまずは東西に分かれ、ついで東匈奴のほうが南北に分かれた。南匈奴と北匈奴だった。
 これを機会に、後漢はやっと「西域経営」をコントロールできた。班超によるパミール以東のオアシス地域を掌握できたのである。南匈奴もいったんは後漢に臣属することにした。一方の北匈奴のほうは残ってモンゴル平原から西へ移動した。2世紀にはシル河を渡り、カザフの草原を動いているうちに、歴史文献からその姿を消している。
 しかし、そこにあらわれたのがフン族だったのである。フンがこのあと南ロシアからヴォルガ・ドン・ドニエプル川を渡っていったことは、さっきも書いた。5世紀になるとフーナと呼ばれる軍事集団が北インドのほうにもあらわれた。これはその後にエフタルと呼ばれた。
 はたして北匈奴とフンとフーナとエフタルが同一系の種族たちなのかどうかは、いまのところはわかっていない。そこはわからないのだが、すべてがユーラシア・サイズでおこっていることははっきりしていた。それだけでなく、後漢のあとの中国はその後に魏・蜀・呉のいわゆる「三国志の時代」をへて「八王の乱」 (290~306)に突入するのだが、ここに浮上したのがかつての南匈奴の後裔の劉淵だったのである。
 劉淵はくだんの冒頓の末裔で、單干王家の流れの者、その劉淵こそが晋の司馬炎や司馬哀を山西匈奴集団を操って助けていたのだった。このあたりのこと、古くは『晋書』劉淵伝に、新しくは福原啓郎の『西晋の武帝』(白帝社)に詳しい。
 さらに4世紀には「五胡十六国」が乱れあうのだけれど、ここに登場する羯(けつ)や羌(きょう)や鮮卑たちもいずれも遊牧種族たちで、どこかに匈奴の名残りを感じさせていていた。
 こうしてこの混乱期に、するすると力強く頭角をあらわしてきたのが鮮卑の拓跋部だったのである。このあと東ユーラシアの主権を握るのは、この鮮卑拓跋であり、その連合体だった。

 スキタイやサルマタイやサカ(塞)は、イラン系の言語を話す遊牧民の一群である。古代ペルシア語に発する言葉を話した。おそらく月氏もこの遊牧言語系に近い。
 これに対して匈奴はアルタイ系の言語で、のちのモンゴル語やトルコ語を形成した。まとめて「テュルク・モンゴル系」という。テュルクとはトルコ系である。鮮卑はこのテュルク・モンゴル系だった。五胡の多くがここに属し(「胡」はノーマッド・クラスターのこと)、その鮮卑拓跋の連合体の一部が北中国に入って北魏を建国した。
 北魏はそのあと東魏・西魏になり、さらに北斉・北周と名前をかえて魏晋南北朝時代をつくり、ついではその一部が隋と唐というふうにすりかわっていった。これらは言ってみれば、いずれも鮮卑拓跋連合体の“替り身”なのである。
 このテュルク・モンゴル系の鮮卑拓跋連合体こそが隋唐帝国の本来の特質であって、唐朝がそのことを薄め、また半ば隠して『晋書』などの正史を巧みに粉飾したというあたりは、本書の最もドラスティックな指摘になっている。

 さて、鮮卑諸族が南下して北魏などをつくったことでガラ空きになったのがモンゴル高原だった。ここにテュルク・モンゴル系の柔然(蠕蠕)という遊牧集団が登場し、5世紀の初頭にそのリーダーの一人の社崙(しゃろん)という族長がゴビを北へ渡って外モンゴリアに進出して、そこの高車の一族を侵して草原統一をはたした。
 社崙は匈奴以来の十進法の組織システムを踏襲し、自身で中国読みで「丘豆伐可汗」を名のった。現地語読みではキュテレブリ・カガンという。これがカンあるいはカーンあるいはハーンの初出だった。
 柔然が草原を統一したころの5世紀から6世紀半ばに、アフガン・トルキスタンを本拠とするエフタルが中央アジアでも勢力を強め、ヒンドゥークシュの南側のほうにも進出した。これはイラン系の言葉を話した。エフタルはパンジャーブ地方のインド領まで統括して、このときガンダーラの諸仏が壊された。いわゆる「エフタルの破仏」だ。

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東西民族移動の図『ビジュアルワイド図説世界史』東京書籍
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北アジア諸民族の勃興地『ビジュアルワイド図説世界史』東京書籍

 これらの複合的な動向のスケッチでわかるように、「隋唐と東西ローマの時代」とはいえ、ユーラシアの中央部には東からテュルク・モンゴル系の柔然、高車、イラン系のエフタルが並び立っていたのだった。なんとしてでも、そう見るべきなのである。
 もっともここまで広域になった三者鼎立となると、その外周勢力との綱引きが頻繁になる。ちょっとしたことで均衡も連結も変化する。案の定、東では拓跋連合体系の北魏が、西ではイラン高原のササン朝ペルシアが、この三者をゆさぶった。
 この不安定に乗じて新たに出現したのが突厥(とっけつ)だった。突厥とはテュルク(トルコ)の漢字読みである。突厥は柔然や高車を治め、西に進んでササン朝と結んでウフタルを撃退すると、たちまちシル河とアム河の大オアシス地帯とヒンドゥークシュにおよぶ領域を影響下におき、さらに西北ユーラシアに入ってカスピ海の北側からかつてのスキタイの領域にいたアヴァールを駆逐した。
 ちなみに、このアヴァールが押されて東欧に入ったのが、ハンガリー草原に本拠をとったマジャールである。

 突厥はわずか20年あまりで、東は満州地方から西はビザンツ帝国の北側まで、南はヒンドゥークシュにいたる大版図を形成し、世界史上初めてユーラシアの東西と南北をまたいだ。
 これに北魏・北斉・北周などの拓跋連合体を加えれば、ここにテュルク・モンゴル系の「拓跋世界帝国」が萌芽したということになる。
 が、その突厥も6世紀末には東西に分裂し(583)、東突厥はモンゴル高原を本拠として最初は唐と緊張関係を保つのだが、やがて唐の北アジア製作の中にまみれていった。西突厥は天山山地を根拠地にして中央アジアと西北ユーラシアをおさえたが、7世紀半をすぎると折からのイスラーム・ネットワークの中にとりこまれていった。

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アラブ帝国の東西への拡大『ビジュアルワイド図説世界史』東京書籍
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 この両突厥の消長に代わったのは、744年に東突厥の所領に侵入したウイグルである。そのもとは鉄勒(てつろく)と言われた部族たちの連合だったようで、この勢力はトクズ・オグズ(九姓鉄勒)とも呼ばれた。突厥もテュルクの漢字読みだったが、鉄勒もテュルクの漢字読みである。
 ウイグル連合国家群にはひょっとするとユーラシアを統一する可能性があった。唐朝とも「絹馬交易」(馬を運んで絹を持ち帰る)などを通してうまい関係を保っていたのだが、いかにも時期が悪かった。前夜にのべたアッバース朝のイスラーム・ネットワークがしだいに中央アジアに及びはじめていたし、ウイグルには強力なリーダーがいなかった。西北モンゴリアのキルギス連合が動いてくると、もろくも瓦解していったのである。

 

学衆 うーん、ずいぶんめまぐるしいですね。

校長 そう見えるかもしれないけれど、これはユーラシア一帯にテュルク・モンゴル系の大きなうねりが、さっきの拓跋連合体を含めて、次々に続いているとも言えるんだね。それが隋唐帝国との力関係でフラクチュエートしているだけなんです。

学衆 中国史は遊牧帝国群によって動かされてきたということですか。

校長 あえて言うと、そうなるね。

学衆 でも突厥もウイグルも大きなコンフェデレーションのエンジンをもっていたようですが、中央アジアの統一はムリだったんですね。

校長 それはモンゴル帝国の登場までおあずけだね。それでも突厥とウイグルは突厥文字とウイグル文字をつくって、けっこう新しい時代を告げていたと思うけどね。だからこのあとは、ウイグル瓦解をきっかけに、ユーラシア中央は次の大変化に備えての新たな胎動期に入ります。

学衆 新たな胎動というと?

校長 一言でいえば「テュルク・イスラーム時代の開幕」と「大モンゴル帝国時代の準備」ということでしょう。

 9世紀にアム川の南北に、ブハラを首都としたサーマーン朝ができる。アッバース朝の承認を得たイスラーム王朝である。続いてその隣りにカラ・ハン朝ができてイスラームに改宗し、サーマーン朝を呑みこんだ。
 サマーンとカラ・ハンはイスラーム化したテュルク族(トルコ系)の動向として、しだいに広まっていく。ヒンドゥークシュ南方の司令官となったセブュク・テギンが立ち上げたガズナ朝も、アフガニスタン・北西インド・西インドにその支配権を広げていった。テュルク・イスラーム時代が始まっていったのである。
 こうしてシル河の東におこったテュルク系のセルジューク朝がこれらを傘下におさめるように南下し、1055年にアッバース朝のバクダードに入って西アジアを支配すると、ここに匈奴以来の組織体制がついに中東イスラーム社会と交じり合うに至ったのだった。このあたり、前夜の『世界史の誕生とイスラーム』(1403夜)と併せ鏡にしながら理解するといい。
 似たようなことは北東アジアのほうにもおこっていた。モンゴル系のキタイ族とテュルク系の沙陀(サダ)族が二つの勢力となって、黄巣の乱で不安定になっていた唐をゆるがし、後梁・後唐・後晋・後漢といったトルコ系の王朝を華北につくってしまったのだ。これが五代十国である。
 キタイ族には強力なリーダーがいた。907年に契丹国を建てた耶律阿保機である。耶律阿保機についてはいろいろ興味深いことが多いのだが、ここではキタイが契丹国となり、その契丹が遼や西遼になっていったということ、そのうちの一部がツングース系の女真族と組み合わさって、結局は金から宋への中国史の舵を切ったということ、これらのことに注目しておきたい。
 女真の完顔部族の族長だった阿骨打(アグダ)が1114年に契丹と戦って金の太祖となり、契丹の皇族の耶律大石が北モンゴルに入ってモンゴル高原の7州の契丹人と18部族の遊牧民を代表して王となり、つづく1124年にサマルカンドにを占領して西遼の徳宗となったのである。いよいよ複数のリーダーたちが並び立つ。
 かくて12世紀、東には女真の金帝国、中央アジアにキタイの西遼国、その中間に西夏、江南に南宋、西アジアにはセルジューク朝の諸国家が並ぶということになったのだが、それはそれで「統一を欠いたユーラシア複合体」でもあったのである。
 これをまとめていえば、9世紀を境いとして、ユーラシア中央にトルコ化とイスラーム化がおこっていったということだ。その端緒はウイグル人のタリム盆地オアシス帯への移住にあったのだが、その完成は、次の13世紀のチンギス・ハーンの登場を待つことになる。
 すべてはチンギス・ハーンとその4人の息子たちによる大モンゴル・ネットワークに委ねられていく……。

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大元ウルスを中心に東西が呼応する「ユーラシア大交易圏」

 

校長 ということで、はい、今夜はここまでです。

学衆 あれっ、モンゴルの登場は話してくれないんですか。

校長 杉山さんの本書にはもちろんそのことが続けて書いてあるんだけど、これは次夜以降にまわそうよ。別の本をとりあげてね。なにしろチンギス・ハーンの登場は13世紀ユーラシア世界システムの最大の大事件だから、できればじっくり話したい。

学衆 それにしてもぼくたちは、フン族とゲルマン民族の大移動からローマ帝国が東西に分裂して、そのあとフランク王国の分割から「国王と教会のヨーロッパ史」がおこっていったというふうに習ってしまったので、フンの前のスキタイとか東の匈奴軍団のことなんて、まったく視野に入ってこなかったですよね。これって、高校歴史の大犯罪なんじゃないですか。

校長 日本の歴史もヨーロッパ中心史観に埋没しきっているということだろうね。東洋史なんてほとんど教えないからね。でもその西洋史だって、ギリシアとアケメネス朝ペルシアのペルシア戦争の背後にスキタイがいたことが抜けているよね。

学衆 ダレイオス大王とかのことも習ったんですが、その背景の広大なユーラシアのことは誰も教えてくれなかった。

校長 背景じゃなくて、そっちが主要な舞台です。

学衆 あっ、そうか。ま、ともかく世界史はやりなおし。

校長 イスラーム・ネットワークの歴史もね。ほんとうはイスラームと十字軍の関係の歴史をやらないと、ヨーロッパ史も見えてこないんだけれどね。とくにイスラームとヨーロッパの両方から見たアンダルス(イベリア半島)の歴史がわからないと、そのあとのコロンブスたちによる大航海時代の問題がわからないよね。なにしろ西洋中心史観というのは大航海時代で世界をヨーロッパが握ったということばかりを根拠にしているんだから、そこを崩さないとダメなんですよ。

学衆 それから、匈奴や鮮卑拓跋や突厥の連結型の連合体が中国史の大半のシナリオを握っていたというのは、ショックですね。どっちが主人公かわからないですよね。

校長 中国史で純粋なチャイニーズの王朝なんて、漢と宋と明くらいだよ。あとはみんな異民族とのフュージョン。それもたいてい遊牧帝国の一群のどこかが噛んでいます。

学衆 これまで、どうして遊牧民から見た世界史がなかったんですか。

校長 それはね、中国がそういう書き方を許容してこなかったからだよ。西洋中心史観があるように、中国は中国で、華夷秩序による中華中心史観で歴史をつくってきたからね。それが中国の正史なんですね。これも壊さないと、何も見えてこないでしょう。

学衆 なるほど、そういうことですか。そこに加えてイスラーム史とモンゴル史ですか。

校長 近現代の世界を見るには、そこにさらにオスマントルコ史が必要だよね。そのへんは、いつ千夜千冊できるかなあ。

【参考情報】
(1)杉山正明さんは静岡生まれで、京都大学文学部出身。現在は京都大学大学院文学研究科の教授。主な著書には『大モンゴルの世界』(角川書店)、『クビライの挑戦』(朝日新聞社・講談社学術文庫)、『モンゴル帝国の興亡』上下(講談社現代新書)、興亡の世界史09『モンゴル帝国と長いその後』(講談社)、中国の歴史09『疾駆する草原の征服者』(講談社)、『耶律楚材とその時代』(白帝社)、そして大胆かつ精緻な最新の『ユーラシア東西』(日本経済新聞出版社)などがある。
(2)遊牧民についての議論を素材にした本はけっこうあるのだが、その3分の2以上はそれこそゲルマン民族の大移動型のもので、残りもジプシーやオスマントルコものが多い。しかし、最近になってイスラーム世界やモンゴル時代を取り扱うものがふえてきた。日本では岡田英弘や杉山正明の影響も大きいのだと思われる。
 ぼくがユーラシア遊牧帝国の歴史に最初に入っていったのは、山川出版社の各国史や松田寿男『中央アジア史』(弘文堂)・『砂漠の文化』(中公新書)、護雅夫『古代遊牧帝国』(中公新書)などの初期遊覧期をべつにすると、1970年の『東西文明の交流』(平凡社)のシリーズに出会ったのが大きく、ついで1970年代後半の全11冊の「新書東洋史」シリーズ(講談社現代新書)で、間野英二『中央アジアの歴史』や小玉新次郎『西アジアの歴史』にわくわくしたのが忘れられないものとなった。
 最近のものではJ・M・ロバーツの「世界の歴史」2『古代ギリシアと文明』、5『東アジアと中世ヨーロッパ』(創元社)や、森安考夫『シルクロードと唐帝国』(講談社「興亡の世界史」05)が、かなりおもしろかった。どこかで取り上げたい。
(3)匈奴やフン族のことについては、まだ読みこめていないけれど、昔のものではルイ・アンビスの『アッチラとフン族』(文庫クセジュ)や、最近のものでは沢田勲の『匈奴:古代遊牧国家の興亡』(東方書店)などがヒントになろう。
 なお、ユーラシア全域の遊牧民族群の入れ替り立ち替りする変転は、かなり複雑でわかりにくいだろうから、たいへんよくできた歴史地図を『ビジュアルワイド 図説世界史』(東京書籍)から借りて入れておくことにした。参考に供されたい。