才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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歴史序説

イブン=ハルドゥーン

岩波文庫 2001

Ibn Khaldün
al-Muqaddima 1377~?
[訳]森本公誠
装幀:中野達彦

時は14世紀。マグリブとアンダルスのイスラーム社会を
劇的に、かつ激しく動いていた歴史哲学者がいた。
その名はイブン・ハルドゥーン。
政治家であり、歴史家であり、裁判官だった。
チュニスでもグラナダでもカイロでも知られ、
多くのスルタンたちを蕩けさせた。
イブン・ハルドゥーンは「文明の生態」と、
労働と所得と商品によって変転する
「社会の本質」を発見した。
彼は「アラビアのモンテスキュー」であり、
「イスラームのヘーゲル」だった。
いや、それ以上の「何者」かであった。

 この男はあるときは学者で、あるときは裁判官、あるときは政治家で、あるときは亡命者だった。ゲーテ(970夜)より多彩だ。幕僚となって戦闘に加わり、地下牢に幽閉され、大法官となって裁いた。モンテ・クリスト伯(1220夜)より変幻自在だ。

 あるときは砂漠の遊牧テントに暮らし、あるときはクーデターに加担し、あるときは宰相となって宮廷で政務を執った。七つや八つの王朝に仕えたといえばすぐさま夢窓疎石(187夜)を想わせるけれど、国師にくらべてこの男のその行動範囲がケタはずれだ。チュニス、フェス、グラナダ、セビーリャ、カイロ、メッカ、ダマスカス、そのいずれでもその名が知られた。
 そのうえでこの男は、一貫して歴史的現在を見つめつづけた大思想者だった。その世界読書性はたちまちヘーゲルやヴィーコ(874夜)を想わせる。
 それが14世紀のマグリブとアンダルスの波濤から「世界」を見抜いたイブン・ハルドゥーンなのである。この男、圧倒的な観察と見識で歴史のダイナミズムを洞察しつつ、深い疑惑と闘いもし、山塞に隠棲して沈思黙考もし、そして厖大な記述に向かった。
 イブン・ハルドゥーンが書き上げた『歴史序説』は、初めて「文明」というものを思想の裡に抱握した画期的な大著作だった。この男にとっては「文明」とはそのまま「人間社会」のことだったから(そのように見たのはイブン・ハルドゥーンが最初だ)、これはまさしく「人間社会についての初めての学」が成立したということだった。

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イブン=ハルドゥーン像

 はたして西洋の歴史家たちはこのことに気がつくとギョッとして、さすがにその後はイブン・ハルドゥーンを畏怖をもって読んできた。「歴史は社会変化によって変質していく」ということを世界史上初めて説明しえたのが北アフリカの一人のムスリムだったことを、悔しくとも認めざるをえなかった。
 ヨーロッパはイブン・ハルドゥーンによって、初めて歴史社会学の構想と可能性を教えられたのである。
 それでも、アーノルド・トインビー(705夜)がイブン・ハルドゥーンを「トゥキデュデスやマキャベリの著作に匹敵する大著作をものしたアラブの天才」と絶賛してから、ずいぶんの月日がたつ。ヨーロッパの多くの識者たちが「アラビアのモンテスキュー」と称賛してからもだいぶんがすぎた。
 こうしていまでは、この男のことが議論にのぼることがめっぽう少なくなったようだ。ヨーロッパは、歴史を解明するエンジンを600年も前の北アフリカのイスラームの一思想家が“発明”したことを、いまや忘れてしまったのだろうか。それともあえて口にしないようにしてきたのか。
 少なくともアメリカ社会は、当初からこの男のことをすっかり置き去りにしてきたようだ。9・11がおこってもなお‥‥。

 日本ではどうか。日本ではもっとさっぱりだ。いや、もともとがさっぱりだ。恥も外聞も気にせず、イスラームに疎(うと)いことをもって鳴る日本では、イブン・ハルドゥーンの著作のことはおろか、その74年にわたった波瀾に満ちた生涯のことも、ほとんど知られていない。
 そのことを思うと、この男の話とはべつに、このところついつい頻りに考えざるをえないのは、日本人は何かの理由によってよほどのイスラーム嫌いか、よほどの苦手か、とんでもない食わず嫌いか、そのどちらかになってきたのは、どうしてなのかということだ。
 だいたい1億人以上の人口をもつ国でこれほどにムスリムが少ない国は世界中のどこにもないと言っていい。今夜はその理由について考えたところを述べる予定はないけれど、ふと漠然とは3つのことくらいは思いあたる。

 一つは、日本とイスラームに歴史的な実際交流がなかったということだ。東南アジアを怒涛の勢いで東漸してきたイスラームは、インドネシアからマラッカ海峡を渡ってフィリピンに向かうところでキリスト教との競合に堰止められた。
 中国を覆ったモンゴル帝国(元)が高麗軍とともに日本海の九州沖で撤退しことも、イスラーム知らずの歴史として大きかった。イスラームは一度たりとも本格的に日本列島に上陸しなかったのだ。
 二つには、日本人はイスラームの律法主義がわかりにくく、また受け入れがたかったということだ。そもそも「宗教は法律である」あるいは「信仰は法である」という考え方は、日本仏教のなかですら仏教輸入時にくらべてどんどん薄くなっている。最初のうちは東大寺や比叡山の戒壇院に有名なように、つまりは鑑真や最澄に有名なように、日本仏教も戒律をもって僧尼の覚悟を問うたのだけれど、やがてはこれが薄まり、法然(1239夜)や親鸞(397夜)においてはまったく新たな様相にまで行き着いた。日本人は社会の法と仏教の法とをつなげられなかったのである。
 三つには、日本にはセム系一神教に特有な「神に対する恐怖」がきわめて薄いということがあろう。イスラームにおけるアッラーに対する畏怖は「タクワー」とも言われ、『クルアーン』(コーラン)では「神を恐れよ」という投げかけが頻繁に告げられる。これは心理学的には身が縮みあがるような絶対的な“対神恐怖”というものなのだが、これが日本人にはさっぱりわからない。あるいは、そんなふうには神を絶対視しない。とくにイスラームの「タウヒード」(神の唯一性)が実感できないままなのだ。
 言ってみれば、日本人には神や仏はなんとなく感じさえすればいいわけだ。それが初詣と仏式葬儀とクリスマスとが、なんなく共存できている理由なのである。

 まあ、ことほどさように、日本人にはイスラームの核心が届きにくいところがあるのだろうが、この度しがたい症状についてはまたあらためて考えたい。それからついでに欧米には欧米の「オリエンタリズム」という度しがたい症状があって、そのことも気になるのだが、いまはイブン・ハルドゥーンのことから離れすぎるので、またの機会に語ってみたい。

 それにしても日本はイスラームに構えすぎてもきた。特別視しすぎてきたようだ。むろん研究者はべつである。
 たとえば、ぼくが早稲田のアジア学会で影響をうけた松田寿男はいつも愉快そうにイスラームの話をしていたし、宮崎市定(626夜)の東洋史にイスラームが欠落したり軽視されたりすることは、まったくもって、ない。だからこそぼくも気になって古本屋をたずね、前嶋信次や嶋田襄平や黒田寿郎のものを買いこんだりしたものだ。大川周明までは手が届かなかったけれど。
 そこへ登場してきたのが井筒俊彦である。『コーラン』を訳出した井筒の大いなる影響のもと、その後の日本には多くのイスラーム研究者が輩出した。少なくとも1982年に東大にイスラム学科ができ、その2年後に梅棹忠夫・板垣雄三らによって日本中東学会ができてからは、ぼくのようなシロートが眺めていても、日本のイスラーム研究はかなり充実したものになっていったのだ。とくに山内昌之の活躍や1395夜に紹介した加藤博らのイスラーム経済社会論の研究、また9・11以降の中東研究者の言動には目を見張るものがある。
 今夜の主人公イブン・ハルドゥーン(イブン=ハルドゥーンと表記されているが、ナカグロで済ませてもらう)についても、日本では日本なりに研究者のあいだでは、早くからその読み取りが取り組まれてきた。
 その嚆矢は藤本勝次の述懐によると、昭和21年12月に刊行された斎藤信治の『沙漠的人間』(桜井書店)に「イブン・ハルドゥーンの歴史哲学」の一章が書かれたあたりからだった。斎藤が昭和15年に横浜からエジプトに渡り、カイロの日本公使館で外務省研修生の小高正直と出会ったことが大きなきっかけだったらしい。大戦のさなか、斎藤は小高とともに『歴史序説』を一行ずつ虫が這うように読んでいったという。
 小高という人はなかなか偉い人物だったようで、その後はカイロ日本大使館の一等書記官やシリア大使になったのだが、昭和34年にアジア経済研究所が「イスラームの経済思想」を京大の東洋史研究室に委託研究したとき、藤本勝次・田村実造・羽田明・佐藤圭四郎・森本公誠・岡崎正孝らがその調査研究にあたることになり、それならまずはイブン・ハルドゥーンの経済観をこそ勉強しようというふうになって、そのうちの藤本・森本がカイロに赴いてまたまた小高の慄然たる研究姿勢に身をただされたのだという。以前はそういう文明に対して気概のある外交官が日本にもごろごろいたわけだ。
 こうして昭和39年(1964)に、アジア経済調査研究双書として『イブン=ハルドゥーンの歴史序説』上巻が、その2年後に下巻が陽の目を見た。その後、このメンバーの一人の森本が単独で翻訳にあたり、それが岩波から「イスラーム古典叢書」の3巻本(1979~1987)として刊行され、いまはそれが今夜紹介する岩波文庫版4冊本になっているのである。

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『歴史序説』の一部の写本にしか載っていない世界地図(左)。
「イドリースィーの世界地図」(右)とほとんど変わりないといわれている。

 こういうわけなので、日本もイブン・ハルドゥーンについては研究者たちのひそかな取り組みが続いていたのだが、この30年ほどの流れのなかで注目すべきなのは、講談社が大型企画「人類の知的遺産」全80巻に「イブン=ハルドゥーン」を入れたことだろう。1980年のことだった。本書の訳者の森本公誠がわかりやすい解説と部分翻訳をしている。
 ちなみにイスラーム圏からこの「人類の知的遺産」全80巻に“入閣”した思想家は、「マホメット」と「イブン=ハルドゥーン」の二人だけで、これは「墨子」(817夜)「王陽明」(996夜)「イグナティウス・デ・ロヨラ」「黄宗羲」「バクーニン」「ラーマクリシュナ」「フランツ・ファノン」(793夜)が“入閣”したことともに、この出版企画のすばらしい快挙だったと、褒めてあげたい。

 では、そろそろイブン・ハルドゥーンの御案内をしなければならないのだが、その前に、1395夜でとりあげた加藤博の『イスラム経済論』がいくつも指摘していたことを、当夜の千夜千冊ではあえて伏せておいたことを白状しなければならない。
 1395夜の段階では、イスラームの経済思想をイブン・ハルドゥーンまで戻って語るのは難しすぎると思ったからだ。けれども加藤はそこではイブン・ハルドゥーンだけではなく、その弟子筋のマクリーズィーの貨幣論の先駆性についてもあれこれふれていたのだった。
 加藤はイスラーム経済思想の原点の大半がイブン・ハルドゥーンにあったと見たわけである。それは藤本勝次や田村実造や小高正直が推察していたところとほぼ同じこと、それをさらにラディカルに捉えなおすものになっている。加藤は他の著作、たとえば『文明としてのイスラム』(東京大学出版会)でもくりかえし、このことを述べていた。
 ただし、そのことをうまく先取りして説明するのは、やっぱり難しい。そう、思えた。実はいまや、イブン・ハルドゥーンは今日の資本主義的な市場社会論とその偏向とをそうとう早くに先取りするものでもあったとも見られるようになっているからだ。
 それは、イブン・ハルドゥーンにはその国家論や社会論の基核として、連帯意識「アサビーヤ」や協業論「シャリカ」のことが、さらには社会分業論や剰余価値論が萌芽しているとみなされているからで(このことは以下で説明する)、とくに、連帯あるいは連結の意識が歴史のもっと重要な動因だと見抜いていたことは、イスラーム思想を歴史的現在に引き当てて語ろうとすると、現代社会思想の最前線に躍り出るほどのものであるからだった。
 ということで、ぼくもいささか弁解がましくなってしまったが、今夜はイブン・ハルドゥーンの現代的再解釈については突っ込みすぎないことにする。以下はその「人類の知的遺産」というかぎりにおいてのイブン・ハルドゥーンの御案内だ。

 では、この男の到達した歴史思想を概観しておこう。イブン・ハルドゥーンが到達した歴史観とそこから派生する国家観・経済観・社会観とは、次のようなものである。
 そもそもこの男が登場してきたのは、イスラーム世界が歴史にあらわれて700年後のことだった。だからそこには当然、700年間の前史が踏まえられている。それを一言でいうと、それまでにイスラーム思想はウマイア朝を通して法学・哲学・帝王学の3つの領域でそれなりの成果をもたらし、次の方向を模索していたのである。
 次の方向とは、①イスラーム共同体「ウンマ」が構成していくイスラーム社会にとって、どのような法が必要かということ(シャリーアの問題)、②指導者にはどういう資質の者がなるべきかということ(カリフの問題)、③イスラームにおける聖俗の一体性をどのように説明するかということ(神学の問題)、この3方に広がるものだった。
 ところが、アッバース朝(750~1258)の半ばあたりから変化があらわれたのだ。イラクにシーア派のブワイフ朝(946~1055)が成立し、続いてトルコ人のスンニー派によるセルジューク朝(1038~1194)がカリフからスルタンの称号を授与されるようになると、カリフの実際政治の権限がゆらぐようになり、世俗的な行政権が軍事支配力の持ち主の手に握られるようになってきた。
 こうしてシャリーア(イスラーム法)を現実の国家に適用するには、どのような政治制度が必要なのかということが議論の俎上にのぼってきた。あいかわらず法理論に耽るもの、ファーラビーのように理想都市国家を説くもの、アッバース朝期に入っていたプラトンやアリストレスの政治学を検討してみるもの、「君主の鑑」を議論するもの、いろいろの説が出たのだが、どれも全般に及ぶものがなかった。
 他方、すでにイスラーム世界がマグリブ(北アフリカ)やアンダルス(イベリア半島=いわゆるアンダルシア)にまで拡大して、まことにさまざまな政権と民族が交じるようになっていたという事情もあった。いったいイスラーム社会を律する政治や経済がどういうものであるべきか、事態はますます混沌としていったのだ。
 このような混乱する事態のなかで、新たな総合をもたらしたのがイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』だったのである。

 論旨ははなはだ明快である。まず5つほどの前提が説かれる。
 第1に、歴史がたんなる出来事の羅列なのではなく、そこには「社会」が組み立てられ、壊され、変更されていることを直視するべきだと言う。これをイブン・ハルドゥーンは「社会的な結合」の変化だと見た。
 なぜ「社会的な結合」に着目することがこの男にとって重要かというと、「人間」は結合と連帯と対立によって社会を生きていると見えたからだ。このことがなくてはパンひとつも得られない。そこには本来の相互扶助が生きている。
 ところが第2に、人間はこのような社会的結合を必要としているにもかかわらず、相手と闘い、相手を屈服させ、ひとり占めしたくなる。すなわち社会はつねに「競争」にさらされる。歴史を見るには、この「競争としての社会」というものを前提に考えなければならない。
 しかし競争は放置はできない。ほったらかしにすれば、度が過ぎたことがおこりうる。犯罪も多くなる。そこで第3に、競争社会において互いを守る仲裁者や抑制者が必要になる。イブン・ハルドゥーンはその仲裁者や抑制者の象徴を「王権」に見た。王権、すなわち支配権である。歴史はこの王権に象徴される権力と、さまざまな社会的結合と社会的競争との関係に立ち現れるはずのものなのである。
 他方、第4に、人間が住む環境にはさまざまな特色がある。気候、風物、産物、交通地理、生活様式は人間にも社会にも大きな影響を与える。社会の集団もこの地理的環境によってその特徴を変えていく。歴史はその環境特性と社会特性が交じり合った相克の描出なのだ。このことも前提にしなければならない。
 第5に、とはいえ人間には、そもそも理性的判断をこえた超自然的な知覚能力というものに左右されるところがある。そこには必ずや「神」が存在し、そのもとに人間と社会の組み立てができあがる。このことを無視しては歴史はまったく語れない。
 これらが『歴史序説』の基層観にあたるこの男の議論の前提だ。まことに堂々たる社会的歴史論である。

 さて、おおむね以上のような前提をバネに、ついでイブン・ハルドゥーンは人間社会の存在的領域を「バドウ」と「ハダル」に分けた。バドウは「田舎的なるもの」を、ハダルは「都会的なるもの」を意味する。
 バドウ(田舎)とは、この男が生きた北アフリカや西アジアでは砂漠や草原そのもののことであり、そこにおける人間はずばり遊牧民や牧畜民のことである。加えてしばしば農地と農耕民がいて、それらがバドウの特徴になる。これに対してハダル(都会)は都市定住性を特質とする。
 バドウとハダルには生計のちがいがある。これは「経済」のちがいである。バドウでは生活は遊牧的に動くので、集団を組んだり協同作業をするといっても、流動的になる。人口密度もめったに集中しない。一方、都会的なハダルでは商工業が中心となるから、定住が組みやすく、協同作業が継続しやすく、したがって人口が過密になっていく。
 歴史はまずバドウに始まってハダルに向かう。バドウが生活と社会の必需品をあらかた産み出し、ハダルはこれを加工したり消費したりする。こうしてバドウとハダルのあいだには「自然法」のようなものが生まれ、社会はこの二つのダイナミズムのなかで動いていく。
 ここで重要になるのは遊牧的なバドウにも、定住的なハダルにも、同様の連帯意識のようなものが生じていくということである。これをイブン・ハルドゥーンは「アサビーヤ」と名付け、最初は血縁集団に芽生え、やがては主従関係や盟約関係に発展して、これらが王朝あるいは王権としての歴史国家の「絆」となっていくのだと説明した。
 アサビーヤは単調なものでも、単純なものでもない。その逆だ。この男は早くもその「絆」は複合的であると喝破した。部族、氏族、親族、姓族がまじりあい、さらにそこに上下左右の結合関係がかぶさっていくとみなした。

 次に『歴史序説』の第3章で国家観が述べられる。ここではカリフ制についてだけではなく、イスラーム圏外の君主制を含め、かなり多くの政治体制にもとづく国家観が検討されている。
 きわめて啓発的なのは、国家は連帯意識アサビーヤが薄れてきても存続しうるシステムになっているという指摘だ。だからこそ王権国家は既存のアサビーヤからあたかも地上から浮上するように構築できるのだが、だからといってそこに宗教的要素を強く加えようとすると、かえって地上のアサビーヤが動きだし、必ずしも王権の安定をもたらさないと指摘した。なんとも鋭い。
 もうひとつこの男が鋭いのは、国家は必ず領土の拡張をめざすようになるものだが、ここには連帯の絆がどこかで切れてしまう臨界点が必ずあって、それをこえて領土を拡張しようとすると、ほぼてきめんに失敗すると予告されていることだ。国家とアサビーヤとが、つまり国家と社会との関係がみごとにデュアル・スタンダードに、ないしはミューチュアル・スタンダード捉えられているのである。
 こうしてイブン・ハルドゥーンは国家が仮にこれらのことを首尾よくコントロールできたとしても、いずれは専制化するか、あるいは奢侈や安逸を貪るはずだから、どんな王権国家も永遠ではなく、それどころかせいぜいのところ3世代で、いくつもの限界をかかえることになると指摘した。王朝1世代を約40年ほどと見たようなので、一つの王権は120年程度の寿命だと言い放つのだ。
 それを端的に、①王朝の樹立、②人民にたいする支配権の確立、③王権の安泰、④伝統主義への満足、⑤浪費と荒廃、⑥滅亡、というふうに図式にまでしてみせた。

 次にイブン・ハルドゥーンは、政治にはなんらかの拘束条件がなければならないと考えていく。「本性としての王権」はいかに純粋なものでも、そこには政治的規範がなさすぎる。その逆の自由放縦の王権はどんなオーダーも生みえない。このいずれでもダメだと言う。
 そこで、そもそも政治には、「宗教にもとづくもの」と「知性にもとづくもの」とがあると考えたほうがいいのではないか。そう推理して、「宗教にもとづく政治」では現世観と来世観が利用され、「知性にもとづく政治」は現世観のみによってその方針を徹するようになっているのではないかとみなしたのだ。
 前者の政治形態はイスラームのカリフ制に顕著であろう。後者の政治には二つの方向があって、ひとつは(A)支配者の利益が民衆にまで及ぶばあいで、古代ペルシア帝国や古代ギリシア政治がその例になる。もうひとつは(B)民衆の利益を一般化していくことによって政治が誕生していくばあいで、これはまだ歴史的には見られない。そうなっているのではないかと、見たのだ。
 ここまででもけっこう驚くべき洞察だが、そのうえでこの男は「宗教にもとづくもの」と「知性にもとづくもの」は統合できるのではないか、また(A)と(B)も統合できるのではないかと見て、ついには「シャリーアによる政治」を最もすぐれたものだとみなしていったのだ。成文化されきっていないイスラーム法がさまざまな政治形態を巧みに有効なものへ誘導していくだろうと見たのだ。

 概観するにしてはやや詳しくなりすぎたかもしれないが、話はこれではまだおわらない。『歴史序説』は第5章では経済論に、第6章では学問・教育論に入っていく。「富」や「知」のしくみに分け入った。
 すでにイブン・ハルドゥーンはバトウ(田舎)とハドル(都会)との格差が「富」をつくりだしているとみなしていたので、その格差にひそむものがどのようになっているかに関心を示したのだ。そこで発見するのは「協業性」「分業性」「剰余労働性」というものだった。ほとんどアダム・スミスやマルクス(789夜)に近いと言いたくなるほどだ。
 話はこういうことだ。人間は一人で生計に必要なものを得ることはできないから、互いに協業をする。そのような協業で得られた必需物資は、たんに各人が持ち寄ったものよりも数倍の需要を満たす。しかし、そこには剰余労働が関与せざるをえず、それにはバトウの労働がどこかで価値のかたちを変えてハダルに集中する必要がある。そうすると、そこではさらに徹底した分業がおこり、そこに富が生み出されていく。
 この流れは、ハダルにおいては「所得」をつくり、その価値に向かってバトウの生産が組み立てられていく。となると、バトウの「生産」とハダルの「所得」とをつなげる何かの活動や存在がそこに浮上するはずだ。
 ひとつは「労働」である。が、ほかにもある。イブン・ハルドゥーンはそれが「商品」であると見破った。のみならず商品にくっついている「価格」の役割にも注目したのだ。
 うーん、よくぞそこまで洞察が進むものである。おそれ、いる。加藤博が『イスラム経済論』(1395夜)で、イブン・ハルドゥーンとその弟子のマクリーズィーをことのほか強調したのも頷ける。
 しかしこの男は「富」の秘密に言及できたことなどに溺れていない。国家が過度の財産権を侵害すること、強制労働を強いること、労働力を売買しすぎること、国家が専売制に加担しすぎることを、ちゃんと咎めもした。

 最後に「知」についての歴史哲学が述べられる。その一端だけを紹介しておきたい。ぼくはここでも何度か膝を打った。
 イブン・ハルドゥーンが学問と教育の基礎とみなしたのはまずもっては「思考力」である。思考力こそが動物と人間を分け、社会に生計を発生させ、そこに協業や分業を発達させた。その思考力は真実を求めたいという衝動にもとづいている。
 けれども思考力は漠然としたものではない。思考にはいくつもの段階や特性がある。それを概括すれば「識別の知」「経験の知」「思索の知」というものだろう。識別知は「表象」を、経験知は「確認」を、思索知とは「識別と経験とを総合するもの」を、それぞれ担う。
 しかしこのような思考力を磨くだけでは人間は十分な「知」を統御できない。「感覚力」「思考力」「精神力」の3つがそろわなければならない。とくに精神力はさしずめ「天使の世界」につながるものだから、ときに人間と隔絶しているものたちへの敬意が必要である。これは論理では説明できない。信仰が介在する。
 こうしたことを前提したうえで、学問や教育には、一方では「哲学的な叡知のための学」と他方では「伝統と因習のための学」とが必要だと見た。またまたもって、まったくもって申し分ない。
 かくてイブン・ハルドゥーンは自分の研究を、かつて歴史にあらわれたことのない「新しい学」だとみなした。また自分こそが「文明の学問」を確立したと自負もしたのである。この自負、すばらしい。むしろ世界史がイブン・ハルドゥーンによって初めて「文明」(ウムラーン)を知ったと言ってみたいほどなのだ。

 以上が、『歴史序説』の概観である。さて、ここからはイブン・ハルドゥーンの波乱万丈・有為転変の生涯をスケッチしておくことにする。
 冒頭にゲーテもモンテ・クリスト伯もこれほどではなかったと書いておいたけれど、まったくこの男の人生はただならない。まあ、以下の人生をとくと眺めてみてほしい。

 イブン・ハルドゥーンは1332年、北アフリカのチュニスに生まれた。この年はダンテ(913夜)が満を持して『神曲』を発表した翌年で、日本では鎌倉幕府が滅亡する1年前にあたる。ヨーロッパでは7年後にかの不毛な百年戦争が始まった。
 14世紀のイスラーム世界は8世紀のアッバース朝時代にくらべれば、ずっと拡大していた。十字軍は全世紀にシリアの海岸から追い払われ、小アジアやバルカン半島では新興のオスマン帝国がビザンティン帝国を着々と侵食していて、かつてはイスラーム外周圏だったスーダン、インド、インドネシア、中央アジアでも次々にイスラーム改宗がおこっていた。
 しかし、そのぶん王朝も政権も安定はしていない。当時の北アフリカ(すなわちマグリブ)は、3つの王朝、マリーン朝・ザイヤーン朝・ハフス朝が鎬を削っていた時期で、それぞれにスルタンやカリフがいた。そのなかのハフス朝は13世紀前半にムワヒット朝から独立したイスラーム王朝で、その首都がこの男が生まれたチュニスなのである。

 チュニスに生まれたのではあるけれど、イブン・ハルドゥーンの家系は8世紀にアラブ大征服時代にスペイン(アンダルス)遠征に参加した一族だったので、その子孫の多くはもともとセビーリャに住んでいた。
 しかしながら、イベリア半島にヨーロッパ人とキリスト教徒によるレコンキスタ(イスラーム排斥運動)が激しくなると、一族はセビーリャ陥落を前に北アフリカ(マグリブ)に移住してきた。
 イブン・ハルドゥーンがその一族ともども、チュニスに生まれたのはそのためだった。けれどもこの男には、どこかイベリア半島をこそ自分の原郷とみなしているようなところがずっとあったようだ。

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イブン=ハルドゥーン家のものといわれている中庭。

 1347年、マリーン朝スルタンのアブルハサンがハフス朝の領土に侵入した。チュニスは動揺するのだが、子供時代のイブン・ハルドゥーンにとって幸運だったのは、このときスルタンが多くの高名な学者たちをモロッコから連れてきて、側近に加えていたことだ。
 父親がその学者と交流したこともあり、そのうちの一人の哲学者アービリーがハルドゥーンの家に寄宿、頻繁に読書会を開いたようで、そこで数学・論理学・自然学・形而上学の香りが少年に植え付けられた。
 しかし、チュニス自体は歴史の揺動する運命にさらされつづけていった。スルタンがチュニス占領をしたのち、アラブ遊牧民がカイラワーンで反乱をおこし、スルタンがその鎮圧に向かったあとにはチュニス市民が暴徒化するのだが、そこへ黒死病(ペスト)が襲ったのである。ハルドゥーンの両親もこれで死んだ。16歳のころだった。
 マリーン朝のほうも安定はしていない。首都フェスでクーデターがおこり、スルタンは帰っていった。両親を失って悲嘆にくれながらも、かえって勉学に励んでいた。イブン・ハルドゥーンは、やがてその学識を認められ、ハフス朝の国璽書記官についた。それでも、まだ勉学への憧憬やみがたく、フェスに赴いてマリーン朝の新たなスルタン(アブー・イナーン)に迎えられ、公文書の書記官を担当した。
 ともかくも、この時期のマグリブは不安定きわまりなかったのである。誰もが権力をもてるともいえた。これがこの男の生涯をゆさぶっていく。
 イブン・ハルドゥーンもついつい密議に参画し、それが露呈して投獄されるようにもなったのである。この男、プラトン的な意味で、政治にめっぽう関心があったのだ。おかげで失敗も多く、獄中では1年9カ月の日々をおくっている。
 釈放後も政変劇にかかわった。マリーン朝のスルタンの弟アブー・サリームを即位させる陰謀にからんで、これを成功させた。国璽尚書についたのがこのときだ。
 けれども、こういう軽挙妄動が長続きするわけはない。何度も二重三重の喝采と失意を味わうことになり、このような経験がやがて『歴史序説』のなかの王朝論や政権論になっていったわけである。

 1362年、この男はグラナダへ行く。憧れの父祖の地への待望の帰還であったが、ナスル朝スルタンのムハンマド5世との親交が深まったからでもあった。ムハンマド5世がグラナダ入城をはたすべく戦っているあいだ、その留守家族の面倒を見たという間柄になっていたせいである。
 以降、ムハンマド5世はグラナダ王国の君主としてイブン・ハルドゥーンを重用し、当時はセビーリャを治めていたカスティリア王ペドロ1世の修好使節に抜擢されたりもしている。このときペドロ30歳、ハルドゥーン31歳だった。
 このようなことはこの男の政治的理想をいっそう滾(たぎ)らせたようだ。自分の原郷とおぼしいスペインの地にイスラーム政権を永続的に定着させたい、それにはムハンマド5世を英明な王に仕立てなければならない、そういう思いが募ってきたのだ。
 こうしてムハンマド5世に自分のもつありったけの知識を投下するという、いわば帝王学のための日々が費やされた。スルタンのための論理学のテキストさえ書いた。
 むろん、こんなことが容易に実行できるわけはない。北畠親房(815夜)や吉岡松陰(553夜)も、この手のことは失敗する。案の定、ムハンマド5世の宰相として君臨しつづけていたイブン・アルハティーブがこの計画を外しにかかった。
 やむなく歩調をゆるめているところへ、耳寄りな一通の手紙が届いた。ハフス朝の王族アブー・アブドッラーからのもので、ペジャーヤの主権を回復することができたから、イブン・ハルドゥーンを国政の最高責任者たる「ハージブ」(執権)に迎えたいというのだ。
 ペジャーヤは小国とはいえ一個の独立国である。この男の理想を実現するにはもってこいのサイズだ。ところが、スルタンに支配者としての資質が欠けていた。ハルドゥーンの懸命の努力にもかかわらず、住民からの支持は失われ、そこへ隣国コンスタンチーヌが戦いを挑んできて、敗北。スルタンは殺された。 

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ペジャーヤ(16世紀頃の銅版画)

 最悪の失敗である。さすがのこの男も打ちのめされる。苦悩する。事は哲学の教科書通りにはとうてい進まない。プラトン(799夜)やアリストテレス(291夜)ではままならない。
 現実の国家や社会というものは実に変転きわまりないものなのだ。それが歴史というものなのだ。これは根本から考えなおさなければならない。まずは神の偉大を自覚しなければならない。そのうえで、新たな知識の探求に向かわなければならない。
 こうしてこのあと、イブン・ハルドゥーンは約9年にわたる転身と放浪と旅路についた。これはあえて引きかぶるイニシエーションであったろう。
 途中、トレムセン、フェス、グラナダなどを巡り、野宿も投獄も逃亡も、疲労も思索も解放感も焦燥感も体験しながら、1375年にアルジェリアの町フレンタセ近くの山塞イブ・サラーマの寓居に辿り着くと、ここで一念発起、一気に『歴史序説』のあらかたを書き上げるのである。1377年11月のこと、45歳になっていた。
 このあと『歴史序説』の序論「イバルの書」を書き、さらに概論から本論に移ろうとして、ついに倒れた。過労が重なったのである。1年ほど病床に臥せると、さすがに生まれ故郷のチュニスに帰りたくなっていた。すでにハフス朝は再興されていて、スルタンも新たになっていた。
 ペジャーヤを征服した隣国コンスタンチーヌの太守アブルアッバースが新スルタンになっていたのだ。イブン・ハルドゥーンからすればかつて反目していた相手ではあったが、アブルアッバースは快く帰国を認めた。こうして26年ぶりにチュニスに戻る日がやってきた。

 実はこのようなイブン・ハルドゥーンの詳細な足跡は、彼自身が記した『自伝・東と西』(未訳)に詳しい。
 ぼくはこの概略を森本公誠の『イブン・ハルドゥーン』(人類の知的遺産)で追っているにすぎないのだが、それでもその毀誉褒貶いりまじり、雄弁と果敢と失態がくりかえされる劇的な人生を読んでいると、ときどきギリシア悲劇の劇的なシーンを何度も思い出した。また、誰かがソフォクレス(657夜)やアイスキュロスのように、イブン・ハルドゥーンの時代を物語や戯曲にするといいのではないかと、何度も思った。そうでなければ、デビッド・リーンの『アラビアのロレンス』に匹敵する映画にこそするべきだろう。
 それほどこの男の生涯はすさまじく、矛盾と葛藤に富み、また周辺の出来事はたえず世界史的で普遍的なのである。

 チュニスに戻ったイブン・ハルドゥーンは新たなスルタンのアブルアッバースに、『歴史序説』で書きあげつつあった「新たな学」を惜しみなく提供する。講義もいろいろな場所で開いた。
 その内容はたちまち評判になり、名声は一挙に広がることになるのだが、ところが今度はやっかみが出た。嫉妬が沸いた。やっかみや嫉妬だけではなく、その言説があまりにも現実味をおびていたため、危険視されるようにもなり、陰謀家とももくされた。それだけ「新しい学」が人心を刺すアクチュアリティに富んでいたということなのだが、これらのことはイブン・ハルドゥーンをまたまた悩ませた。
 1382年、ついにチュニスを離れ、メッカ巡礼を口実にエジプトに向かうとアレクサンドリアに、またカイロに赴いたのである。
 カイロでは新たにバルクークがスルタンに就いて、後期マムルーク朝が栄えていた。そのカイロを見てイブン・ハルドゥーンは腰を抜かして驚いた。殷賑、きらびやかさ、人口の集中力、富のあらわれ、いずれをとっても圧倒的なのだ。まさにハダルの輝きだ。カイロは「世界の都」であり、「文明の頂点」をあらわしていた。
 もっともしばらく滞在していると、信仰や道徳の面ではそうとうに堕落していることも見えてきた。この男、こういうところは見逃さない。文明とはそういう二面性をもつことが深く実感された。
 名声のほうは存分なものだった。請われてアズハル大学(宗教と学門の殿堂)で講義をもち、スルタンに謁見し、カムヒーヤ学院の教授に任命され、マドラサというマドラサにその名が知られると、さらにはマリーク派の大法官に推された。裁判官トップとしての日々が始まったのである。
 けれどもそこまで上りつめれば、またまた当然、反発は免れない。司法関係者は批判と攻撃を開始し、高官たちはイブン・ハルドゥーンにシャリーア(イスラーム法)の知識が片寄っていることを指摘した。それでもスルタン・バルクークはこの男を擁護したようだが、そこへ不幸なニュースが届いた。彼の家族を乗せてチュニスを出た船がアレクサンドリアの近くで嵐にあって難破し、バルクークに贈られるはずだった数頭の駿馬とともに海の藻くずと消えてしまったのだ。
 ハルドゥーンの不運に同情したバルクークは、彼をザーヒリーヤ学院のマーリク派法学の教授に任命するのだが、本人はここで何かを精神転換(コンバージョン)する必要があったので、いよいよメッカ巡礼に向かうことにした。およそ8カ月の旅であるが、ムスリムが生涯に一度は体験すべきものだった。

 メッカから帰ったイブン・ハルドゥーンは、スルガトミシーヤ学院の伝承学の教授に、ついではバイバルス修道院の院長のポストが与えられた。かなりの優遇だったが、またまた、またまた、うっかり奢ったようだ。スルタンはその姿勢が気にいらず、以降、9年にわたって公職を解かれた。
 やがてスルタンは食中毒で病没、長子ファラジュが10歳で即位したものの、これでは政権がおさまるはずはなく、まずはダマスクス太守が反乱をおこした。1400年、この鎮圧のために組まれた軍隊には、60歳半ばにさしかかっていたイブン・ハルドゥーンも同行させられた。
 行きたくもなかったダマスクスであったけれど、エルサレム、ベツレヘム、ヘプロンを訪れて、かえって「聖なる歴史」を遠望できた。
 それだけではなかった。歴史は何を結び目にするかははかりしれない。モンゴル軍の猛将ティムールがダマスクスに馬を蹴立てて進軍してきたのだ。これはマムルーク朝としても迎撃しなければならない。またしてもイブン・ハルドゥーンは同行させられた。

 ティムールはあっというまにダマスクスを落とした。ところがここで意外にも、ティムールがイブン・ハルドゥーンの消息を尋ねたのだ。それほどその名声が知られていたか、側近が耳打ちをしたのであろう。
 この男のほうもティムールが「世界の征服者」と呼ばれつつあったことに興味をもった。かくて、ここに64歳のティムールと68歳のイブン・ハルドゥーンとが陣中で会見する。まことに歴史的な会見だ。
 ティムールはこの老人の出身やカイロにに来た理由やマグリブの地理や情勢を聞いた。対してイブン・ハルドゥーンはネブカドネザル、ホスロー、アレクサンダー、カエサル(365夜)などの古今東西の英雄を持ち出して、持論の王権論を滔々と話したらしい。感心したティムールはさっそく著作を依頼、それが『マグリブ事情』となった。
 このイブン・ハルドゥーン最晩年におけるティムールとの出会いは、この希有な人物の生涯の最後をさらに劇的に染め上げている。もしもさらに寿命が10年のびていれば、きっとティムール帝国にそひむ王権や国家や経済の秘密を書き上げたことだろう。
 しかし、ようやくカイロに戻ったイブン・ハルドゥーンは都合6度目のマーリク派の大法官に任命されたのち、1406年3月16日に波瀾に満ちた生涯を了えたのである。73歳だった。

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ティムールの像

 どうだったろうか。これでイブン・ハルドゥーンについての御案内はおしまいだ。以上のことを現代に引っ張ってくるのは、またべつの機会にしてみたい。ひょっとして、ぼくが未見の欧米のイブン・ハルドゥーン論があるのかもしれないし、もしそうだとしたら、それらを読んでからのことになる。
 ともかくも、これで1394夜のフランク『リオリエント』に始めて、イスラームの歴史やその社会の変遷を見て、『クルアーン』とイブン・ハルドゥーンの紹介までを済ませたことになる。できれば井筒さんのイスラーム哲学史をまぜておきたかったが、井筒さんについては大乗起信論のほうをとりあげたかったので、割愛した。
 というところで、ちょうど次の夜が「千夜千冊」1400夜目にあたる。何を選ぶかはおたのしみにしてほしい。明日の夜半はぼくの67歳でもある。なんだか符牒があいすぎるみたいだが、イスラームとアラブに因んだ67歳の砂時計をひっくりかえした一夜に、多少はふさわしくしてみたいと思っている。老将ティムールとは出会えないだろうけれど……。