才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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悪貨

島田雅彦

講談社 2010

装幀:坂野公一

この物語は偽札をめぐっている。
その実、マネー帝国主義の本質を暴いている。
前作『徒然王子』と今回作『悪貨』は一対なのだ。
ここから島田文学の評判が、もっと立つといい。
ゲーテやジッドや泰淳を継ぐものだ。
話はめちゃくちゃおもしろい。
仕事をしている者は、みんな読むといい。
映画にすべきだし、精密なマンガにもしたい。
充分にエンタメもしているので、3時間で読めるけれど、
その印象は忘れがたいものになるだろう。

 公園に住むホームレスが100万円を拾ってコンビニのビニール袋に入れ、この「神からの授かりもの」をどのように使おうかとしていた。どこかキリストの風貌をもつその男がまずは理髪店で身だしなみを整えているうち、若い理髪師ジュンは男が大金を所持していることを盗み見した。

 悪童ジュンはトシキに連絡をしてこのコンビニ袋をひったくらせると、二人でキャバクラで豪遊をする。ホームレスの男はすっかり落胆して、もともと手持ちのポケットの4360円でマンガや菓子を買って子供たちにそれらを郵送し、残った140円でライターを買うと近くのガソリンスタンドにふらふらと行き、油をまいて爆発とともに焼け死んだ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、カネは人の上に人を造り、人の下に人を造る」。
 金融犯罪を取り締まっている警視庁捜査二課の日笠警部は、このところずっと宝石店オーナーの張燕燕をマークしていた。祖父は有名な書家、父親は作家協会の重鎮。彼女はその毛並みにものいわせ、瀋陽に本店のある遼寧飛躍銀行を拠点にマネーロンダリングを手広く展開しているらしい。その手口は「銭洗い弁天」の異名をもっていた。

 遼寧飛躍銀行は外国人向けの個人口座を事実上のタックスヘイブンにするため、1秒間に150回もの為替取引が可能なソフトを活用して人民元建てにし、高い運用実績を出している。
 人民元は中国国外では使えないことになっているが、遼寧飛躍銀行が発行するデビットカードがあれば、そのつど外貨に両替できる。顧客は資金洗浄や節税のために次々に利用する。日本でも食肉加工業者、外食チェーンのオーナー、無農薬野菜生産者、美容整形外科医、ラブホテル経営者らがこの恩恵に浴している。
 張燕燕の周辺では巧妙な手口のアングラ金融が動いていた。たとえばホームレスなどから戸籍を買い、その男を社長に仕立てて会社を興し、通帳記録や納税証明などをあらかた偽造すると、政府系の金融金庫からセーフティネット貸付けで1億円ほどの単位を借りる。そのうえで半年後に会社を倒産させ、その資金を海外に運ぶ。これを何通りも仕組んで海外の銀行で運用するのである。
 しかし警察はいっこうにその実態がつかめない。日笠警部は張燕燕の宝石店「シェヘラザード」に女性刑事を潜入させることにした。選ばれたのは本名からして源氏名のような宮園エリカだった。派手好きで、署内でも浮いている。ここにようやく、この物語の主人公の一人が登場する。

 ジュンとトシキがキャバクラで散在した25万円ほどの現金は、やがてそのホステスのモネの手からモネの父親に渡った。モネとはフランス語のマネーでもあった。
 そのモネの父親が当座預金の口座に入金手続きをしていると、意外なことが発覚した。偽札(にせさつ)が交じっているというのだ。女子行員がモネの父親が預けた札束を偽札鑑定機を通して見ているうち、その紙幣番号が25枚にわたって同じであることに気がついた。すべて「RM990331G」になっている。
 たちまち関係者のあいだで“大きな疑問”が噴き出てきた。発見された偽札はこれまで例を見ないほどにきわめて精巧であったこと、それにもかかわらず、なぜわざわざすぐバレるような同一紙幣番号を刷ったのかということ。警視庁も日本銀行も、また政府筋も、その魂胆がまったく推察がつかなかった。
 物語はこの“大きな疑問”をめぐって、しだいに背後で動いていたとんでもない計画と策略をあきらかにしていく‥‥。

 島田雅彦は本作品『悪貨』の直前に、『徒然王子』(朝日新聞出版)という傑作を発表していた。
 朝日の朝刊に連載されていたもので、ぼくもちらちら読んでいて、島田の新たな力量を感じていたが、上下2冊の単行本になってあらためて読んで、島田の“世界読書癖”が日本に向かって惜しみなく投入されたユニバーサル・ファンタジーになったなと感心した。
 ほぼ同じころに書かれた『徒然草 in USA――自滅するアメリカ 堕落する日本』(新潮選書)も、島田の現在の社会価値観がよくあらわれていた。そのころ島田はニューヨークで暮らしていたので、リーマンショックの有為転変を間近に実感していたらしい。一言でいえば、「このぶんではおっつけ通貨システムが破綻するだろう」という予感である。この実感が『悪貨』で物語になった。
 島田が1992年の泉鏡花文学賞を受賞した『彼岸先生』(新潮文庫)あたりで、抜群の総合力を小説に封じ込め始めたことは、うすうす知っていた。それ以前、島田は「自分の脳や舌にべっとりこびりついた日本語を非母国語化しよう」として、ずいぶん苦労していた。ぼくは、そんなことはとっくに大江健三郎たちが試みてつまらない小説を量産していたのだから、また島田よりずっと若い世代の作家たちはそもそも日本語の彫琢なんて眼中にすらないのだから、なぜ島田がそんなことを気にしているのだろうと思っていた。「左翼」を「サヨク」と綴らざるをえなかった世代の宿命なのか。
 やがて「文体を彫琢しない」という島田の奇妙な意志は、蓮實重彦によって「エアロビックス的」とか「1フレーズ=1呼吸的」とも言われるようになったが、ぼくからするとそれは文体の問題ではなくて、思想の問題だと受け取れた。きっと島田は「日本」を書きたいのである。その「方法」を模索しつづけてきたのだ。
 それが『彼岸先生』あたりから少しずつ起爆しつづけ、皇室に取材して血族4代を描いた『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』(いずれも新潮文庫)の「無限カノン」三部作に至り、ついには最近作の『徒然王子』に結実したのだった。
 『徒然王子』は傑作だった。ぼくなりの言い方でいえば「おもかげの国・うつろいの国」としての日本に失われたものを、島田得意の主人公設定術による不眠症の王子がタイムトラベルすることで拾い集めるという手法だが、小説としてみごとに組み立てを完了しきって、これまでの島田の迷妄を払っていた。

 こうして『悪貨』が書かれた。きっと『徒然王子』で、それまで気分が悪くなるほどに押し詰まった社会意識と表現活動とを邪魔していた開放弁がきれいに空いたのであろうと思う。『悪貨』の書きっぷりは実にのびのびとエンタテイメントできている。
 メタフィクショナルな筋書きが好きな島田にしては軽い仕立てだが、ぼくはこの方向はけっこうおもしろいと思う。もっと試みてほしい。アレクサンドル・デュマ(1220夜)にもなれるし、山本周五郎(28夜)にもなれる。願うらくは『大菩薩峠』(688夜)にも向かってほしい。ニヒリズムと無差別テロと大乗仏教と技術革新の葛藤を描いた中里介山の社会意識は、島田にもひそんでいるだろうからだ。

 言うまでもないことだが、『悪貨』の筋立ての背景にあるのは、グローバル資本主義がもたらした金融危機である。とくに日本の惨憺たる現状を揶揄している。
 ここに、中国を舞台にした偽札造りの一団が絡み、さらに日本の「彼岸コミューン」と自称する地域通貨アガペーを発行する集団が暗躍する。二つをつなぐのは「ノノくん」こと野々宮冬彦だった。筋立てでは、このノノくんが主人公になる。
 野々宮には先生がいた。「イケさん」こと池尻陸郎だ。池尻は大学の経済史の恩師が定年退職をしたのちに始めた耕作放棄地での野菜作りが、恩師の癌によって中断したのを、譲り受けた。ノノくんは大学院でカント、マルクス、プルードン、ゲゼル、ポランニーを研究してみたのだが、それらが今日の社会に通じない机上の空論にも感じていたところなので、恩師の土地で農業体験もなく野菜づくりを始めたのだ。やがてその場は農業共同体のような赴きを呈しはじめ、池尻はこれを「彼岸コミューン」と名付けた。島田の好きな「彼岸」コンセプトが躍る。
 そのうち「彼岸コミューン」に、環境保護グループや食の安全管理運動をしているグループが加わり、さらに過疎村やゴルフ場や廃園になったテーマパークを買い取ったり、借り受けたりするようになった。
 そこへ折りからの金融危機をきっかけに、失業者や路上生活者が参加するようになると、「彼岸コミューン」は公共の福祉の手がまわらない活動として注目を浴びるようになった。しかしこんな自由な活動を既存社会や既存経済システムが許すはずはない。

 野々宮は高校2年のときに父を失い、池尻が始めたばかりのフリースクールに通うようになり、そこで「彼岸コミューン」の構想を聞かされた。
 池尻は18歳になった野々宮を大学資格検定を受けるように勧め、大学での学費と生活費を「彼岸コミューン」で負担した。池尻は野々宮の先生であり、養父のような存在だったのである。
 野々宮は大学を出ると「彼岸コミューン」の海外支部の設立に奔走し、とくに農村共同体の残る東南アジアに入った。カンボジア東北部のラタナキリ、ベトナムの州都バンルン、さらにはラオ族のゴム園経営者と華僑の宝石ブローカーを通じてタイにも入った。その後の野々宮の活動は杳として知られなくなるのだが、「彼岸コミューン」が資金難に陥ったころ、高額の寄付が届くようになった。池尻はこれはてっきり野々宮の好意だろうと直感したが、まだその真意も経緯もわからない。
 こうして宮園エリカが張燕燕の中国での大きなお得意であるらしい日本人と接触することになっていく。それが野々宮だった。エリカは野々宮の不思議な魅力に魅かれていく。

 この物語に「偽札」(にせさつ)が動きまわっていることが、この作品をおもしろくも、また普遍的にもさせていることも、言うまでもない。すでに千夜千冊してきたように、偽札を扱う物語はゲーテ(970夜)の『ファウスト』からアンドレ・ジッド(865夜)の『贋札つくり』をはじめ、武田泰淳(71夜)にも及んでいる。
 そこには「イコテーション」(等価計算)という近代社会が深々と抱えこんでしまった本質的なテーマが蠢いている。ウィリアム・ペティの『アイルランドの政治的解剖』は、イコテーションこそが「政治的算術による人民支配の根幹である」という悪魔のような方程式を早々に見抜いていたものだ。ペティの論理にくらべればアダム・スミスの経済論など、寄宿学校の教科書のようなものだった。
 紙幣(ペーパーマネー)を刷るということがどんな意味をもっているかは、国家を相手に大博打を打ったジョン・ローの“ザ・システム”による一連の事件がほぼ物語っている(1293夜『株式会社』参照)。それは資本主義の宿命とも本質とも矛盾ともなった。
 こうして「通貨」という化け物が世界を支配するようになっていくのだが、しかし、その発行流通行為がいまやどんな国民国家でもどんな国際金融機関でも正当化されている現在史では、お金が流通すること、マネーパワーが猛威をふるうことは、それ自体は何の欺瞞でもなくなった。むしろそうしたマネーパワーを制御する政治や金融機関の手腕だけが問題にされるだけなのだ。
 では、化け物をほったらかしにしておいていいものなのか。どこからこの巨怪な欺瞞を崩していけるのか。こうした現状では、偽札(贋札)を持ち出すことこそが資本主義の悪夢のティピカルきわまりない象徴を打撃しうるのである。

 『悪貨』では、大量の贋札を偽造しているのは中国の瀋陽にある偽造センターになっている。瀋陽は大連などともに、今日の北京や上海に代わって次の中国資本主義のハブになりそうな地区を代表している。島田はそのため瀋陽を選んだのだろうけれど、そこはまた満州帝国時代の擬似帝国日本のキャピタル奉天でもあった。
 偽札偽造センターを仕切っているのは郭解という中国人である。この名前は司馬遷の『史記』の侠客列伝に出てくる(こうした人名ブラウジングは島田の常套手段)。郭解は表向きは建設会社の会長で、政府高官とも太いパイプをもっていて、急激な資本主義経済の導入によって中国に貧富の格差が増大し、農村共同体が崩壊していることを苦々しく思っている。
 その郭解がタイで鉱山開発などを通して勢力をのばしているとき、悪戦苦闘している野々宮を助けた。郭解は中国や東南アジアの印刷技術の工場には日本の技術が必要だと考えていた。中国や東南アジアの紙幣は粗悪だったので、このままでは通貨の信用が確立しないこともわかっていた。そこで野々宮に日本の印刷技術、とりわけ紙幣印刷力を高めるほどの技術の導入を依頼した。野々宮は世界最高水準の原版制作者を見いだし、ついでに偽札鑑定機の輸入代理を引き受けた。
 原版制作者は“ゴトウ・ハンド”の異名をとるゴトウという男で、早々に瀋陽の偽造センターに匿われた。郭解はおおいに気に入り、しかし悪魔のような計画を思いついていく。ゴトウは自身の境遇を知らせるため、偽造紙幣に暗号を仕込むことを思いつく。それが「RM990331G」という紙幣番号だったのである。
 郭解の計画は日銀紙幣の偽札を大量に印刷し、これを日本に流して日本政府と日本銀行がつくりあげている信用制度を機能不全に陥らせようというものだった。すでに日本はスタグフレーションになっている。そこへ日本円が暴落し、インフレがおきれば、経済は制御不可能になる。そこで郭解は「日本をまるごと買収してしまおう」と考える。郭解はこれを“徐福計画”とも名付けていた。このあたり、島田は冴えに冴えている。
 結局、野々宮はその片棒を担いだわけである。だが野々宮としては、それは日本の政治経済社会にうんざりしていたからだった。大鉈をふるうには郭解の徐福計画も悪くない。また、そのことによって「彼岸コミューン」が蘇生して、新日本建設の土台になれるのではないかとも夢想した。

 池尻の構想「彼岸コミューン」は、このコミューンを政令指定都市かトヨタくらいの規模にして、全国の耕作放棄地をネットワークしてつないでいくというものだった。のみならず、後継者のいない寺院を買い取って宗教法人活動を併動させ、さらに金利をとらない「友愛銀行」をつくって、この独自金融活動を拡大していくというものでもあった。
 このような構想は、もはや国家には「信用の社会」を制御する能力が失われているという判断にもとづいていた。税金や年金は国民の寄付であって、それが国民生活に正当に還元されるはずはない。そこへもってきて国家は負債をかかえて紙幣発行や国債に頼らざるをえなくなっていく。「彼岸コミューン」はこれらに代わって新たな「信用の社会」をつくりあげるべきである。池尻はそう確信していた。
 こうして地域通貨アガペーが導入され、運よくコミューン・ネットワークとともに広がりつつあったのだが、時代がそれを許さなかった。ちょうど新自由主義が波及して、政府が率先してマネー錬金術を奨励しはじめたのだ。
 野々宮が偽札を含めた大量の資金を「彼岸コミューン」にこっそり流していったのは、このときである。その一端がホームレスからジュンとトシキのひったくりでめくれあがり、野々宮の野望は日笠警部とエリカの潜入調査でしだいに露呈してくることになった。
 池尻もかつての“生徒”の野々宮がとんでもない方向に向かっていることを知って、瀋陽を訪れる。待っていたのは郭解一味による妨害と、暗殺指令だった。窮地に陥る池尻と野々宮と、そして野々宮に惚れてしまっていたエリカ。物語はいよいよ意外な結末に向かっていく‥‥。

 『悪貨』は「貨幣の彼岸」を描いた作品だった。「Voice」8月号で、仲俣暁生のインタヴューを受けて、島田は『悪貨』の意図を、だいたい次のように語っている。
 リーマンショックのとき、間近でその様子を見ていて、「ドルに未来はないな」という思いを抱いた。国家の借金である国債の発行は天文学的になっていて、返済不能なのは自明だ。そこでアメリカはドルを大量発行するしかない。しかしそのアメリカを支えているのはアメリカ国債を大量に買っている中国と日本である。それでもアメリカのFRBは特定国際金融機関の思惑にもとづいた動きしかしない。このままでは通貨システムは数年のうちに破綻する。
 作家として、このような現状に何を投じられるかといえば、世界をインサイダーとアウトサイダーに分けている状況をひっくりかえすことである。もはや「国破れて山河あり」というのも幻想だろう。そのうち日本の山河さえ中国マネーに買収されていくのではないか。すでに「おいしい水」の土地が中国人によって買い占められつつある現状だ。
 しかし、それが21世紀の帝国主義の現実であり、マネー資本主義の実態なのである。中国だって、このままですむはずがない。5つくらいに分裂するかもしれない。それでも世界帝国主義とマネー資本主義は崩れない。日本もベトナムあたりと組んで、この事態を壊さないといけない。さもなくば「彼岸コミューン」や「偽札」をぶつけるしかない。

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 実は本書にはとんでもない“付録”が付いている。松丸本舗で実物を買わないとわからないのだが(笑)、本書のページには“偽札”が挟まっているのだ(→写真を見てほしい)。
 弥勒菩薩をあしらった「零円」札で、ちゃんと日本銀行券になっている。なぜか「RM9903316」という紙幣番号も入っている。さすがにホログラフィックな透かし刷りはないけれど、裏は「悪貨」と銘打たれている。島田によれば、これは“使える偽札”なのである。
 ゼロ円札なのだから、何かを買ったときに額面のお金に加えてこのゼロ円札を加えればいい。何枚加えても額面の上昇にもならないのだから、“無実”なのである。そこが赤瀬川原平の“芸術”とは異なるらしい。おもしろいことをしたものだ。
 それにしても島田雅彦、健在である。いやいや、これからますます他の追随を許さなくなるのではないか。
 ぼくは島田とは『色っぽい人々』(淡交社)で対談をして以来の“薄い友人”にすぎないが、その対談のとき(1996年3月)、グリーンが好きだと言っていたのが印象的だった。お母さんが洋裁をやっていて、グリーンのジャケットを作ってくれたのが気にいったせいだろうというのだが、それならこれはまさにピーター・パンである。
 しかしその後、このピーター・パンは文学を揺さぶり続けることになる。それがすばらしい。文学界にとって一番手ごわい作家になるだろうことを、あえて期待してやまない。ちなみに『悪貨』は誰かが映画にするといい。オーソン・ウェルズ並みの若手が監督で。

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島田雅彦とセイゴオ
『同色対談 色っぽい人々』(淡交社)より

【参考情報】
(1)島田雅彦(1961年生まれ)の略歴で注目すべきなのは、父親が日本共産党の機関紙の記者だったということだが、それ以上に作家島田雅彦を形成したのは、川崎の読売ランドが見える「郊外」に引っ越し、そこで少年期を過ごしたことにある。読売ランドはヴァーチャルな幻想、自分の日々はリアルな現実、そのあいだに「郊外」があったのである。
 もうひとつ島田に特徴的なのは、東京外語大のロシア語科を出たことだ。冷戦中の世界のなかでロシア語を選んだことは、その後の島田の世界読書の原点になっているにちがいない。オペラに詳しく、三枝成彰と組んで『忠臣蔵』や『ジュニア・バタフライ』の台本も書いた。村上春樹を「くだらないファンタジー」と全面否定していることでも有名だ。
(2)島田雅彦の主な作品は、発表順に次の通り。版元名は現在入手しやすいものにしておいた。『優しいサヨクのための嬉遊曲』(新潮文庫)、『夢遊王国のための音楽』『天国が降ってくる』(講談社文芸文庫)、『僕は模造人間』(新潮文庫)、『未確認尾行物体』(文春文庫)、『ロココ町』(集英社文庫)、『アルマジロ王』『預言者の名前』『彼岸先生』『忘れられた帝国』(新潮文庫)、『浮く女、沈む男』『内乱の予感』(朝日文庫)、『君が壊れてしまう前に』(角川文庫)、『子どもを救え!』『自由死刑』(集英社文庫)、『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』(新潮文庫)、『フランシスコ・X』(講談社文庫)、『溺れる市民』(河出文庫)、『退廃姉妹』(文春文庫)、『カオスの娘』(集英社)、『徒然王子』(朝日新聞出版)。
 エッセイもかなり多いが、ぜひ読むといいのは、『漱石を書く』(岩波新書)、『彼岸先生の寝室哲学』(朝日文庫)、『感情教育』(朝日出版社)、『ヒコクミン入門』(集英社文庫)、『楽しいナショナリズム』『妄想人生』(毎日新聞社)、『徒然草 in USA』(新潮選書)など。
(3)池尻が大学院で学んだゲゼルとは、シルヴィオ・ゲゼルのことで、ケインズ(1372夜)のところでも触れておいたように「スタンプ付き貨幣」を構想した。ゲゼルについてはほとんど知られていないが、実はミヒャエル・エンデが早くから注目していた。エンデは貨幣の悪魔性にずうっと挑戦してきたファンタジー作家だった。島田雅彦のファンタジーとはまったく異なるものの、エンデの思想もときには思い出したい。