才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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なにがケインズを復活させたのか?

ポスト市場原理主義の経済学

ロバート・スキデルスキー

日本経済新聞出版社 2010

Robert Skidelsky
Keyns ―― The Return of The Master 2009
[訳]山岡洋一
装幀:間村俊一

70年代後半から新自由主義が吹き荒れて、
フリードマンらのシカゴ学派が経済学の主流を占めた。
ケインズ経済学は「大きな政府」論だと批判され、
ほとんど死に体になったかに見えた。
しかし、事態がグローバリズムと
金融資本主義に向かうなか、
その結末がリーマンショックだとわかると、
ケインズの復活が叫ばれはじめたのである。
いったい、これは何なのか。
本当にケインズの理論が再解釈されたのか、
それとも経済学がただただ混乱しているだけなのか。

 前夜に続いてケインズ(1372夜)をめぐりたい。ただし、今夜は新ケインズ派やポスト・ケインジアンの窓際からケインズ思想の真骨頂と意外性の両方を眺める。

 とりあげる本は原著が昨年出たばかりのもの、日本語訳は今年のものだ。著者のスキデルスキーは切れ者だ。経済学者ではなく歴史学者であるところも、いい。

 話をナシーム・タレブの『ブラック・スワン』(1331夜)から始めると、2008年に向かって起爆していった金融危機と、それにともなうマネタリズムの極度の歪曲と失墜は、数羽のブラック・スワンの構造を解剖すれば見えることだった。
 ブラック・スワンは投資組織と商業銀行のあいだに遊弋していて、その時期は、アラン・グリーンスパンの言葉でいえば「リスクが割安に振れすぎていた」。そこへアメリカのサブプライム・モーゲージ市場が有毒資産をくっつけた。
 この思いもよらぬ“信用収縮”という情勢の悪化に、凡百の理論家や評論家が原因分析に乗り出して、主には「流動性過剰論」と「貯蓄過剰論」の二つの症例をカルテに書いた。
 住宅ブームを支えたのは証券化(セキュリタイゼーション)で、サブプライム・モーゲージが世界中の銀行に浸水したのは金融商品と派生群のせいだった。これにCDS(信用デフォルトスワップ)で味付け保険をつければ、毒入りソーセージはとてもおいしそうだったので、投資家は気楽にサンドイッチを食むようなつもりでこれを買った。
 流動性過剰と貯蓄過剰の背後で動いていたのは、悪名高い「規制緩和」である。3段階に進んだ。1999年にグラス・スティーガル法が廃止され、商業銀行が証券の引き受けと販売などの投資業務をできるようになり、ついでクリントン政権がCDSを規制しないことを決め、2004年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が大手投資銀行のレバレッジ比率の上限を10倍から30倍以上に引き上げた。
 これで、あとはめちゃくちゃだ。ウォーレン・バフェットが心底呆れたように、世界中がこの「金融の大量破壊兵器」でおかしくなった。そこにはブラック・スワンの黒い笑いが谺(こだま)するだけ‥‥。

 ちょっとおおげさに言うなら、歴史上、世界金融同時危機ほど“奇妙な考え方”に世界の金融関係者が麻痺させられた例はない。スキデルスキーは、その原因は「経済学の理論的な失敗」にもとづいていたとはっきり指摘する。経済学の考え方がまちがっていたから、金融自由化が正当化され、金融自由化をすすめたから信用が爆発的に拡張し、それが崩壊したから信用が収縮して事態が逼迫したのである。
 ケインズは「世界を支配しているのは考え方以外のものではない」と何度も書いていたけれど、まさかここまでエコノミストたちの“考え方”が挙(こぞ)って最悪になるとまでは予想していなかったろう。とくに市場の参加者がここまで同じ価値観にふりまわされたのは、めずらしい。
 それでもこれで、新ケインズ派の経済学者たちが本腰を入れて「不確実性」と「リスク」と「政府の役割」についての考え方を根本からたてなおすようになればいいのだが、おっとっとっと、まだまだなかなかそこまではいっていない。ということは、ケインズの真骨頂もいまだに十分には掴まれていないのだ。

 このところの経済学がどんなところにさしかかっているかというと、たとえばアメリカでは淡水派と海水派に分かれたままにある。淡水派がシカゴあたりにいて、海水派が東海岸と西海岸にいる。
 淡水派は完全市場と対称的情報を想定した一般均衡モデルを使い、市場効果をパレート効率的に見る。海水派は不完全市場・非対称的情報・不完全競争によるモデルをつくる。もっともこれはロバート・ワルドマン(ローマ大学)のあまりに単純すぎる分類で、実際にはもっと交錯もし、錯乱もしつつあるというのが現状だ。
 おそらくは新古典派も新ケインズ派も、いわゆる“完全市場パラダイム”なるものに引っ張られ、いまなお合理的予想仮説(REH)、実物的景気循環(RBC)理論、効率的金融市場理論(EFMT)という大きな3つの前提を降ろせず、それが胸のつかえになっているのであろう。

 3つの前提についてちょっとだけ説明しておくが、新古典派経済学が「合理的予想仮説」(REH)を提唱したのは、政府が市場に介入するのは無益であるばかりか、むしろ有害だということを証明するためだった。
 その出発点は、自分たちには将来の動きについての広範で正確な知識があるという、思い上がった想定にある。そのうえで、市場参加者の無知や無能をカバーする確率誤差をモデルに加えさえすれば、各人が市場予測に使うモデルはかぎりなく正しくなるはずだと考えた。だからこの連中は、不況の到来も景気循環も、そのうち市場が自動調整すると推定する。
 これはいかにも、「群衆の英知」を信頼しようとするアメリカ資本民主主義らしい仮説だった。
 次の「実物的景気循環理論」には、市場がつねに均衡して、需要はつねに供給に等しくなるはずだという妄信があるのだが、適度に合理的予想仮説はとりいれて、修正をしてきた。そのうえで最近は、景気循環がおこる理由の説明を変えつつあるようだ。景気循環は生産が最適水準から一時的に乖離するせいでおこるのではなく、生産の潜在的な水準自体が変動するからだと見るようになったのだ。変動するのは、たとえば原油価格・規制・気象条件などのことをいう。
 3つ目の「効率的金融市場理論」(EFMT)は、市場における知識のありかたに手を加え、何が確実におこるかなのではなく、何かがおこるリスクを計算するモデルのほうに走った。そのため金融市場のさまざまなリスク特性を、取引リスクに関する“頑丈”な数量的指標として算出するようにした。それがブラック・ショールズ公式に始まるオプション評価モデルだが、あまりにこの策に溺れて正規分布ばかりを過大視することになっていったこと、いまさら言うまでもない。何羽目かの大きなブラック・スワンがここにいた。
 こんなぐあいなのだから、いったん国が不況に陥ったとたん、いくつもの学派が稔りのない論争をつづけていたばかりだったということになる。その争点はあいかわらずの「政府の失敗」か「市場の失敗」で、こんな二者択一では結論など出てこない。
 そこで、ちょっと待てよ。ここはいったんケインズに戻ってみたらどうなのかという気運がまきおこってきたわけだ。

 スキデルスキーはケインズの詳細な伝記に、30年をかけた歴史家である。『ジョン・メイナード・ケインズ――裏切られた期待』全2巻(東洋経済新報社)と『ケインズ』(岩波書店)があり、さらに『共産主義後の世界――ケインズの予言と我らの時代』(柏書房)などを書いてきた。ケインズを語らせたらロイ・ハロッドに並ぶ。しかし、本書が最も切れ味がある。
 そのスキデルスキーのケインズ評は、一言でいえば「経済学に収まらない学知と人生」というものだ。ラッセルやヴィトゲンシュタイン(833夜)と交わり、E・M・フォースター(1268夜)を読み耽り、ムーアの影響のもとでは妖しいブルームズベリー・グループに所属してリットン・ストレイチーやヴァージニア・ウルフと日夜遊び、教会や宗教権力には見向きもしなかったのだからさもありなんだが、他方ケインズには「公僕として公共に資する」と任じていたところもあった。それゆえその経済的資質は「どちらかといえばジョージ・ソロス(1332夜)やバフェットに似ているのではないか」とスキデルスキーは評した。
 ケインズ自身も、「経済学の才能はめったにない組み合わせをもっていなければならない」「数学者であって歴史家で、政治家であって哲学者でなければならない」「芸術家のように超然としていて、政治家のように現実的でなければならない」と言っている。
 美術史家のケネス・クラークは「ヘッドライトを消したことがない男」と喩え、友人のオズワルド・フォークは「間違った手掛りがあっても、誰よりも早く物事の動きに追いつく」と評した。スキデルスキーは『ケインズ』で何度も「異例の経済学者」という形容を用いた。
 きっと直観力と観察力と連想力が図抜けていて、どんな出来事のカケラをも未知の総合のための鍵か鍵穴にする編集力に富んでいたのだと思われる。ケインズと同時代人のクルト・ジンガーは「鳥のようだった」と言っている。天空を飛んでいるくせに、突然、地上の獲物を見つけて襲いかかっているというのだ。
 そういう風変わりで天才的だったケインズの、経済学なのである。当然、読み方や理解の仕方にはそれなりの天空アンテナが必要になる。地デジでは無理だ。

 ケインズの経済学は、まとめれば「不確実性のもとでの選択」によって構成されていると考えていい。これは「稀少性のもとでの選択」を重視した古典派経済学とはまったくちがっていた。
 アダム・スミスに始まる古典派から新古典派までは、①稀少性、②通貨の中立性、③均衡の重視、④想定の非現実性、という4つを金科玉条にしてきた。いまでもこの4つは一般的な経済学のジョーシキにされている。
 ①の「稀少性の経済学」は、資源は必要を満たすにはつねに不足しているのだから、勤労によってつくられた生産物に対する需要が不足するはずがない、というリクツをつくった。リカードが言ったように「需要を制約する要因は生産だけ」なのである。ジャン・バティスト・セイ(1767~1832)ならば「供給はそれ自体の需要を生み出す」ということになる。
 この「セイの法則」ではモノを十分に生産するかどうかこそが最大の課題で、需要不足にどう対処するかは問題にはなっていない。となれば、当初の経済学は、大筋、生産を各種の用途にどう配分するかという法則の研究になったわけである。ライオネル・ロビンズは「経済学は、目的と用途をもつ稀少な手段の関係に鑑みて、人間の行動を研究する学問」だと規定した(1932)。

 もともと古典派の経済学は「実物交換経済」のモデルにもとづいていた。価格は財と財とが交換されるときの数量の比率なのだ。だからこの連中は、そうした価格が需要と供給のあいだでどのように決まるか、その全体系はどのようになっているかを研究する。
 しかし、こういう経済学では通貨は交換を容易にする手段にすぎないということになる。そこに、②の「通貨の中立性」というリクツが出てくる。これに対してケインズは、通貨はあくまで価値を保蔵することによって「現在と将来を結びつけている」と考えた。これまた言うまでもないことだろうが、古典派経済学には、ニュートン力学を勝手に換骨奪胎したようなところが、用語使いだけではなくて、かなりある。経済的活動をそれぞれが独立した原子としての人間で構成されるものとみなし、そこに作用と反作用がおこると見たからだ。

 19世紀のレオン・ワルラスは大半の経済現象が連立方程式で解けると考えたし、20世紀半ばのブノワ・マンデルブロ(1339夜)も、経済理論の大半は物理学で説明できると断言した。だからマンデルブロは市場予測の研究からフラクタル理論を見いだしたのだ。ふーん、そうかと思って、千夜千冊するかどうか決めてはいないが、ぼくも半年ほど前はしきりに「経済物理学」に関する本をあれこれ読んだものだった。
 この運動力学的に経済を見るという観点から、③の「均衡の重視」というリクツが出てくる。経済学はしだいに「均衡」を求める学問になっていったのだ。これって、あきらかに機械論的なのである。ケインズはこのことにも反対して、「経済学は社会科学(モラル・サイエンス)です。内省と価値を扱います」と手紙に書いた。
 結局、古典派は「効用」にとらわれた経済学なのである。どんな経済行為も理想的な効用を求めて動き、そこには平均的な「ホモ・エコノミクス」像が仮想されうると考えた。けれども、そこにこそ④の「想定の非現実性」というリクツが出すぎていると、ケインズは見抜いたのだ。

 ケインズの経済学には、アダム・スミスの「市場の見えざる手」ではなく、「慣行の見えざる糸」が観察されているとスキデルスキーは言う。「慣行の見えざる糸」というのは、不確実性な社会や経済のなかを動く「たまたま」のことをいう。
 それゆえケインズは「経済の進歩は意外にも遅いものだ」という見方を、一貫して採っていた。マルセル・デュシャン(57夜)が「芸術は遅延する」と言ったけれど、それに近い。またそのため、均衡の概念を放棄はしなかったものの、経済社会には“複数の均衡”があるとみて、それぞれがちょっとずつ「自前の均衡」をもとうとしていると見た。これもデュシャンっぽい。
 ケインズが確率論や蓋然性について興味をもったのは学生時代からのことであるが、そのなかで注目していいのは、確率や蓋然性を統計的に捉えることよりも、論理的もしくは言語的に捉えようとしていることである。「おそらく」「たぶん」「たまには」「ひょっとすると」といった言葉が人間の口をついて出ているかぎり、そんなことを統計的平均像にしてもしようがないだろうと喝破していたのだ。『たまたま』(1330夜)も『ブラック・スワン』(1331夜)も、ケインズが生きていたら真っ先に書いた本だったろう。
 ただしケインズは、なにもかもを不確実だと見たわけではなかった。経済学で不確実性が重要になるのは、収入や繁栄に対する観念や予測が「将来についての見方に依存しようとする」からだと解釈していた。
 しかしこのことは、いまや資本主義のすべてが将来の予測に向かって動くようになってしまったのだから、実は経済システムの全貌があまりにも頑固な不確実性に覆われすぎることになってしまった、というふうにもなるわけである。ここに、ケインズがその生涯を通して、資本主義に好感をもてなかった本当の理由が見えてくる。

 前夜にも書いておいたことだが、実はケインズは投資家でもあった。それも製造関係ではなく金融投資一点ばりだった。
 第一次世界大戦勃発直後のイギリスの“信用収縮”を実際に体験したことが大きい。大戦後の一時的な変動為替相場制のときは、アルフレッド・ジョーンズが考案したヘッジファンドを、数十年も早く試みてもいた。最晩年にはイングランド銀行の理事にもなった。
 むろん儲かりもしたが、失敗もした。通貨か、商品か。投資対象としてはどちらがいいか。ケインズはその比較にたえず迫っていて、そのいずれでもない「信用」という本質を見いだしたのだ。1923年の『貨幣改革論』にはそうした経験も生きている。友人で金融業者でもあったニコラス・ダヴェンポートは「ケインズが偉大な経済学者になったのは、投機の本能がわかっていたからだ」と語った。
 加えてケインズは、実務家にも事業家にもなっている。ケンブリッジ大学キングス・カレッジの会計係をして資金運用に従事したし、ナショナル相互生命保険会社の会長にもなった。しかし、これらのいずれかが大恐慌によって覆され、ケインズの思想を深めることになったのである。それが『貨幣論』や『雇用、利子および貨幣の一般理論』に結実した。

 世間ではしばしば、「ケインズは大恐慌を予想できなかった」と言われてきた。それは事実ではないとスキデルスキーは言う。ケインズも、そしてフリードリヒ・ハイエク(1337夜)も、1928年か29年には大規模な暴落がおこると見ていたのだ。
 ただ、その理由が二人は正反対だった。ケインズは金利が高すぎるから恐慌がおこるとみなし、ハイエクは金利が低すぎるから極度の不況になると見た。
 1927年にインフレの危険などなかったはずなのである。それがまたたくまに大規模な恐慌になった。なぜなのか。ケインズは1928年7月にウォール街の投機を抑えるために3・5パーセントから5パーセントへの金利引上げをしたことが問題だと判断した。物価指数が安定していたため、「利益インフレ」が隠れていたのだという見方だ。
 ハイエクはそうではなく、FRBが政策金利を低くしすぎたせいだと判断した。そして、そういう時期には銀行システムは“信用注入”をすべきではないという結論を導いた。これこそはその後、ミルトン・フリードマン(1338夜)らのマネタリストによって拡張されるにいたった見方だ。
 いまからふりかえれば、この大恐慌をめぐるケインズとハイエクの見方の相違が、1970年代以降の経済学がどういうイニシアティブになったのかを予告していた。フリードマンらのマネタリストの経済学が一方的に凱歌を挙げ、そのぶんケインズ主義は排斥されたのである。

 それでも、第二次大戦後の経済世界に君臨していたのはケインズ主義だった。戦後の世界では、誰も1930年代に戻りたいとは思わなかった。前夜に紹介したケインズの国際清算同盟案や超国民銀行(SNB)案や国際通貨SBM案は、反対もしくは歪められて、結局はIMFや世界銀行になったけれど、それでも戦後経済は「ブレトンウッズ体制」と総称されて、ケインズ経済学の大流行となったのである。
 しかしながら、栄光は長くは続かない。60年代後半になってケインズ主義の政策に綻びが見えはじめ、70年代後半にサッチャーが、80年代初頭にレーガンが登場すると、経済理論と経済政策の多くがあっけないほどに“ケインズ以前”に戻っていた。ブレトンウッズ体制に代わって「ワシントン・コンセンサス体制」になったのだ。
 こうして固定為替相場制が葬られ、完全雇用の目標は放棄され、資本取引をめぐる規制が次々に取り除かれていった。
 周知の通りの新自由主義の大流行だ。変動為替相場制、自由貿易、民営化、規制緩和、財政均衡、インフレ・ターゲット政策、それに個人主義が組み合わされ、金融派生商品が世界中にあふれていった。しかし、ここでブラック・スワンが笑いだしたのだ。
 この経済的世界観は、どうみても市場効率と自動調整機能を信じる古典派経済学そのものでもあった。これではケインズが打倒されたというより、ケインズの藁人形が燃やされたようなものだった。

 藁人形に火をつけたのはフリードマンである。フリードマンは通貨的不均衡理論の伝統にもとづいて、マネーストックが変化したときは、長期的にみれば生産の水準ではなく物価の水準に影響があるものの、短期的には「マネーストックの伸び率の変化は生産の伸び率にもかなりの影響を与えうるはずだ」と主張した。
 シカゴ学派による金融政策はマネーサプライの果敢な制御が要であると結論づけたのだ。
 これでフリードマンは60年代後半から70年代におこることになった「スタグフレーション」をみごとに予想した。インフレが加速すると失業率が上昇するという“謎”を言いあてたのだ。資本主義先進国がいっせいにフリードマンの提言に耳を傾けるようになった。フリードマンが「どんなときでも可能であるときは、減税をすべきだ」と言えば減税政策が流行し、政府は市場を規制緩和と民営化に託すべきだと言えば、そうした。
 小泉劇場のシナリオは竹中平蔵でも木村剛でもなく、早くにフリードマンが書いていたのだ。そこにはケインズ主義がすっかり一掃されていた。

 こうして経済学は「乱世」に向かっていったのである。なんとか対策を練りはじめたのは、またまた新古典派経済学の連中である。
 フリードマン理論は、経済主体が市場のシグナルの変化を学んで行動を適合していくというモデルによってできていて、それを「適合予想理論」ともいうのだが、そこには市場の動きに結果が出るまではタイムラグがあった。そこで弟子のロバート・ルーカスはもっと合理的な経済主体ならダイレクトに市場を対応させられるとみて、「合理的予想仮設」を提案した。
 またたとえば、新自由主義が「小さな政府」を提唱していても、政府の介入にはいくらでもそれを正当化するリクツが残っているだろうから、その抜け穴をすべてふさいでしまう「実物的景気循環(RBC)理論」などという化け物も出てきた。これは「ワシントンの介入をやめさせろ」とすぐに言いたがる業界大物たちにとっては、まことに便利な代物になった。
 ケインズ主義者も黙っていたわけではない。新ケインズ派はルーカスらのシカゴ派の精緻化に挑んで、「市場は不完全である」という論点をいまさらながら強調し、グローバリズム批判を展開するようになった。ジェームズ・トービン、フランコ・モディリアーニ、ジョセフ・スティグリッツらが代表した。ケインズ流にポートフォリオを読み替え、消費関数や投資関数の最適化の原則を求める研究に向かったのだ。
 別のケインズ主義者は、そのくらいでは手ぬるいと批判した。ポール・デービッドソンらはケインズが重視した「不確実性の議論」にこそ戻るべきだと言い出し、ポスト・ケインジアンを自称した。しかしこれでは“ケインズの復活”は複雑になるばかりで、その後は「新・新古典派総合」などと揶揄されているように、いささかおたおたと不完全競争をめぐる議論に右往左往するようになっていった。
 新たな火の手も上がった。「公共選択理論」である。これまで政策当局としての政府や自治体は「社会の計画者」だとみなされてきた。それをこの理論では、政府や自治体もまた経済活動をおこなう主体のひとつだとみなした。これは従来の公共政策や公共投資のやりすぎを批判するもので、いわゆる「政府の失敗」議論に火をつけた。このリクツには、合理的予想仮設と共通する「個人の効用化最大化」が唯一の解になっているだけという憾みがあった。

 いったいケインズ経済学とその後の経済学とのドタバタ議論のあいだで、何がおこったのだろうか。スキデルスキーは次のようにまとめる。ぼくなりに少々言い換えておく。
 (1)総じては、ケインズによる「不確実性」と「リスク」の区別が放棄されたのだ。将来に関する不確実性がすべて確率計算に換言できると思いすぎたのだ。つまりは、過去と現在の確率分布が将来でも有効だとしすぎたのだ。
 (2)ということは、新古典派経済学のすべてに特徴的なことは、つまるところは「時間」という要因を考えなくなったということなのだ。ということは、出来事はそれなりの順序でおこっているのではなく、同時におこると考えたのだ。経済学は瞬間湯沸かし器になり、“物語”が消されたのである。これは新ケインズ派でも同断だ。
 (3)結局、ケインズのマクロ経済という見方はもはや見失われたわけである。今日のマクロ経済学は、企業と消費者の最適化行動にもとづくモデルに収斂してしまったのである。しかしケインズ自身はそうは考えていなかった。将来に関する不確実性があるからこそ、そこに「性向」「状態」「流動性」があると見た。
 (4)いいかえれば、今日の経済学では「供給が需要をつくりだす」という「セイの法則」が復元されてしまったのだ。サプライサイドの経済学になったのだ。これでは失業給付と福祉給付を厳格化する以外には対策がなくなっていく。ケインズはまったく逆だった。むしろ、「有効需要がその産出量を決めるかもしれない」という、デマンドサイドの経済学がもっと検討されていいはずなのである。
 (5)今日の経済学は総じて通貨数量説である。マネーサプライの伸び率がインフレ率を決めるというふうになった。まさにフリードマン理論の勝利だが、ケインズはそうなるには完全雇用状態が必要になると考えていた。しかし、そんなことはおこりえないから、マネーサプライだけでは経済社会は先に行けない。そこをどうするか。ここで経済学は座礁したままなのだ。
 (6)みんな、経済モデルの中に「想定の非現実性」を入れすぎたのである。イデアリズムになったのだ。これがケインズのリアリズムを駆逐した。これに対するケインズ理論の逆襲は、残念ながらまだ用意されていない。
 (7)新自由主義が、政府は景気の微調整すらしないほうがいいというふうに言いすぎたことは責められていい。政府は景気の安定策においても、せいぜい物価を安定させる程度の手を打って、あとは市場に任せればいいというふうになったのだ。
 ではケインズは「大きな政府」ばかりを期待しつづけたのかといえば、むろんそうではないのだが、とはいえこれを凌駕する経済政策論を国内的には提案しなかった。ケインズはむしろニューグローバルな国際経済政策のほうを考えていた。
 (8)今日の経済社会では、政府から企業までがいくつかの戦略ゲームにはまってしまった。となると、ガバナンスの責任とルールの明確化とコンプライアンスばかりを問う政治と経済がまかり通ることになる。ケインズはこれらのことを予想もしなかったし、批判もできていないけれど、ポスト・ケインジアンならここから問題をおこすべきだったのである。

 ケインズは資本主義を賛美しなかった。キリスト教に参ったわけでもなく、また社会主義に注目したわけでもなかった。ケインズは骨の髄まで自分の心と意味の動向だけに殉じた「変な男」なのである。
 そういうケインズが考えた経済学に、これほど世界の経済がまるごと乗っかったということは、考えてみればそれ自体がかなり異様なことだった。ケインズに賛成するのであれ、批判するのであれ、そこまでケインズ経済学が絶対視されたことのほうが、かなりおかしなことだったのだ。
 そもそもケインズはジョン・ロールズやマイケル・サンデルが重視しているような「正義」などということより、「心の状態」の不確かな「ゆらぎ」のほうに関心をもっていたのではないか。ぼくはケインズを読んでも、本書を読んでも、つくづくそういうことを実感した。だから、ケインズはしょせんは契約社会の改善などを構想していないと言うべきなのである。

 ふたたびナシーム・タレブの『ブラック・スワン』に話を戻していえば、タレブは経済社会に従事する連中の問題として、大意、次のようなことを言ったのだった。
 今日、ITウェブ時代が地球を覆っているなか、仕事は二つのものに割れてしまったのではないか。その二つというのは、ひとつは「重力の影響に携わっていたい」ということ、もうひとつは「貸借対照表のゼロの数をいじりたい」ということ。その二つだけだろうと言うのだ。
 前者の仕事には、農業や身体的なものや医療的なものがすべて入る。後者の仕事は、経営戦略や金融や電子ゲームやソフト制作のすべてにまたがっている。タレブは、ねえ、これでホントにいいんですかと問うたのだ。なかなか穿った問いだった。
 しかし、話をここで終えるわけにはいかないだろう。ケインズに戻っていえば、この二つに社会の仕事の事態が割れてしまったのは、その「あいだ」にひそむ「貨幣というお化け」の正体を、世界中の諸君が見ないようにしているからだということになる。そうも言っておかなければならない。
 もっと端的にいうのなら、ファウストに仕掛けられたメフィストフェレスの魂胆が忘れられているということなのである。これはケインズも、答えを出さなかったことだった。
 というところで、ケインズの次の言葉で今夜を結んでおくことにしよう。「資本主義は現在の視界に存在するいかなる代替的システムよりも、経済目的を達成するのには、おそらくより効率的なものにすることができるであろう。しかし私は、それが本質的に多くの点できわめて不快なものであるとも考えている」(自由放任の終焉)。

【参考情報】
(1) ロバート・スキデルスキーのことはよく知らない。けれどもわずかなプロフィール資料を見たかぎり、もっと知りたくなるようなコンティンジェントな人物だ。
 スキデルスキーは1939年に満州のハルビンに生まれている。父親はロシア系ユダヤ人で、母親は白系ロシア人。曾祖父がシベリア鉄道の工事の一部を請け負って極東ロシアに移住して、林業や鉱業などを幅広く手掛ける実業家になったようだ。
 その後、ロシア革命でいっさいのロシア国内の事業を失ったらしいのだが、その後にハルビンで事業を復活させた。だからスキデルスキーが生まれたころはそれなりに裕福だった。ただ、この一族は全員が“無国籍”だったようで、父親は1930年になってやっとイギリス国籍を“取得”した。
 そのため、スキデルスキーは数奇な少年時代を送った。1941年に日本が日中戦争および太平洋戦争をおこしたとき、スキデルスキー一家は最初には満州帝国によって拘束され、次には日本によって拘留されたのだ。J・G・バラード(80夜)の少年時代を想わせる(バラードの少年時代はのちにスピルバーグが映画化した『太陽の帝国』に詳しい)。だからスキデルスキーがイギリスに渡ったのは、やっと在英日本人との”捕虜交換”が成立したときだったのである。
 戦後は、父親がまたまた中国に戻って事業を再開しようとしたため、スキデルスキーも1947年から中国で暮らしている。天津に1年ほどいて、インターナショナル・スクールに通った。けれども、ここでも波乱が待っていた。共産党軍が天津占領をめざしたのだ。一家はこれで香港に逃れ、スキデルスキーがオックスフォード大学のジーザス・カレッジに入ったのは1950年代末のことだったのである。
 上にも書いたように、専攻は歴史学である。1967年には『政治家と不況』を書いている。その後はジョンズ・ホプキンス大学などをへて、1978年にウォーリック大学教授になった。なぜか1991年に一代貴族に選ばれ、イギリス上院議員になっている。うーん、おもしろい。
(2)邦訳されたスキデルスキーの著書は次の通り。『ジョン・メイナード・ケインズ――裏切られた期待』(東洋経済新報社)、『ケインズ』(岩波書店)、『共産主義後の世界――ケインズの予言と我らの時代』(柏書房)。なんだか、もっといろいろのものを書いているような気がする。
(3)経済学というものは、ほとほとわかりにくいものだ。ぼくは学生時代にマルクス(789夜)や宇野弘蔵から入ったので、まったく正統な学習をしてこなかった。読書もいつだってランダムで、いまさらそんなぼくに何が言えるのかと思うのだが、ハイエクやフリードマンの流行を見て、ちょっと待ったという気になった。
 いまでは少々落ち着いて考えられるようになった。ぼくが思うに、経済学を一つの体系のなかに収めてはいけないということだ。学生やMBAや企業人は、まずもって広い視野をもつべきだ。せめては、「生産の経済学」「消費の経済学」「景気の経済学」「政策の経済学」「金融の経済学」「家政の経済学」、そして「情報の経済学」を、それぞれ別々に話せるようになったほうがいい。そのうえで、貨幣・通貨・日本経済、国際経済、グローバリゼーションを云々するべきだ。
 しかし、そうなるには、経済と社会と文化と情報を切り離さないで語れないといけない。けれども、まったくそうはなっていない。だから菅直人の「消費税10パーセント」発言程度で、一国の選挙の趨勢があっけなく決まってしまうのだ。