才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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マネーの進化史

ニーアル・ファーガソン

早川書房 2009

Niall Ferguson
The Ascent of Money 2008
[訳]仙名紀
装幀:渡邊民人

カネ、懐ろぐあい、食いぶち、現金、
水上げ、おあし、手持ち、元手、資金、日銭。
マネーとは何か。なぜマネーは自分自身を増やすのか。
なぜ銀行や債券や保険がマネーの代行をするのか。
世界資本主義とかグローバリゼーションといったって、
結局はマネーと金融のドラマなのか。
しょせんはリーマンショックの繰り返しだけなのか。
新鋭ヒストリアンのファーガソンが
得意の「反事実歴史学」の手法をひっさげて、
満を持してマネーの謎解きを問うた。
しばらく貨幣をめぐる話を、千夜千冊してみたい。

 ニーアール・ファーガソンはまだ46歳そこそこの歴史学者である。なかなか切れ味がいい。旧来の見方にとらわれてもいない。ふつう歴史学は「もし、何々がこうだったら歴史はこういうふうに変わっただろう」などということ、ようするに「クレオパトラの鼻が低かったら歴史は変わっていただろう」などという“if-then”公式はゼッタイニ用いないし、メッタニ書かないのだが、ファーガソンはその手法をあえて取り入れた。

 タブーを破ったのだ。これは「反事実歴史学」(counter factual history)と名付けられた手法で、あやしげな歴史もの以外には本格的な著述ではまずお目にかかれない。ファーガソンはその手法をテストして、驚くべき快著『憎悪の世紀』(早川書房)を本書に先行して書いた。歴史学界が唖然とした大冊だった。
 『憎悪の世紀』は20世紀の戦争の歴史についての詳細な告発ともいうべき一書で、文明の先端に宿命的に亀裂する憎悪の正体を暴こうとした。かなり説得力がある。どこかで千夜千冊しようと思っているうちに書きそびれたが、ナチス帝国と大日本帝国とアメリカ帝国の殺戮の進撃がなぜおこったのかを、カウンターファクチュアルな視点をところどころに挟んで、大胆かつ克明に掴まえていた。文明と戦争の悪しき関係に目を向けたい賢明な諸君はぜひ手に取ってもらいたい。

 そのファーガソンが『マネーの進化史』を書いた。進化史とはタイトリングされているものの、中身は必ずしもマネーの歴史を順に追ったものではない。古代・中世・近世もあまり扱っていない。近代、とりわけ現代のマネーの変貌を扱った。
 原題は“The Ascent of Money”だから、歴史というより進化そのもので、正確には「マネーの急進化」といったところ。これはジェイコブ・ブロノフスキーの有名なBBCドキュメンタリー番組「アセント・オブ・マン」(人間の進歩)をもじったもので、人類の進化にどうしてマネーの進化や変貌が必要だったのか、それでよかったのかを問うた本なのである。マネーの暴走は止められたはずだというファーガソン流の歴史観にもなっている。
 ユーチューブの“Conversations with History”にも、ほぼ1時間ほどにわたるファーガソンの動画インタヴューがあった。そこではファーガソンが全米の名だたる経営者たちを相手に本書のテーマの一部を何度話しても、かれらの反応が悪かったということが語られていて、結局、アメリカ企業はまだまだ自分たちの10年か20年だかの動向にしか関心をもっていないのだということを慨嘆していた。かれらはマネーそのものにしか興味がなくて、そのためマネー社会の本質をほとんど理解していないのではないかというのだ。

 ファーガソンが本書を書いたのは、サブプライム住宅ローンの歪みが世界金融危機をもたらした現象にいちゃもんをつけたかったからである。しかし、ファーガソンが調べてみてすぐに愕然としたのは、アメリカでは国民の7割から8割は、マネーや金融のことつについてほとんど何も知っちゃいないということだったようだ。これでは経営者がマネー教徒になっていても、誰もそういう連中を“裸の王様”だとは言わない。
 たとえば2008年の調査でも、アメリカ人の3分の2は「複利」とはどういうものかをまったく知らなかったし、ニューヨーク州立大学経営学部が高校3年生を対象に行なった調査では、アメリカで株を18年間保有していればアメリカ国債をもっているより高い見返りがあることも、高額所得者が銀行預金の利子で利益を得ようとすると所得課税が累進的に高くなることも、オヨビでなかった。だいたいアメリカ人の多くは会社の年金と社会保障と401(K)プランを区別できないのである。むろん日本人も似たようなものだろう。
 こういう国民をマッド・マネーが愚弄するのは手もないことではあるのだが、それとはべつに、一方の銀行や証券会社や保険会社はそのころ何をしていたかといえば、必ずしもあくどい商売をしようとしていたというのではなく、実はつまらない規制(コンプライアンス)の中でがんじがらめになっていた。それゆえ実にくだらない資金計画を案出するという体たらくに陥っていた。そう見るべきなのだ。
 アメリカは銀行と経営者と国民ぐるみで、マネー社会の実態から目をそむけているわけだ。ファーガソンはそうした現状を7つの疑問にし、それを「7つの封印破り」としてあからさまにしたいと思ったようだ。

①欧米や日本の銀行は、まるで夜中の道路工事のように、どうしてこれほどまでにバランスシートにテコ入ればかりしなければいけないのか。

②いいかえれば、なぜ資本金に不釣り合いなほど大きな資金を手に入れて貸し出す必要があるのか。

③クレジットカードや住宅ローンなどの負債を証券化して、それを何度も分割再構成して別の債券にする必要が、はたしていったいどこにあったのか。

④FRBや日銀などの中央銀行は、どうしてまた狭義のインフレ政策にこだわり、いつも世間がギャフンと言うことになる株価バブルを気にしないのか。

⑤金融機関はどうしてリスクの本来の動向の研究に乗り出さないで、保険会社がいちばん変なことをしているのだが、リスクとは関係ない金融商品に手を出すのか。

⑥欧米や日本の政治家はなぜ、国民の住宅普及率などを政策に掲げて、とうてい実現できない「格差の撤廃」をむりやり法制化しようとするのか。

⑦これはアメリカにかぎる話だが、なぜアメリカは日本・韓国などのアジア諸国にはたらきかけ、とりわけ中国にさえはたらきかけてアメリカの赤字を補填させるために何兆ドルも動員させようとするのか。

 人類はさまざまな交換手段や決済手段を工夫してきた。そのために貨幣がつくられ、手形が発達し、銀行や債権市場が用意され、保険・抵当権・住宅ローン金融・カード決済など、実に多くのしくみが開発されてきた。
 これらはすべてマネーであり、マネーまがいであり、擬似通貨であり、つまりはマネーの多様性なのである。
 もともとマネーの本質には、説明の仕方はいろいろあるのだが、基本的にはマネーは「①交換力、②価値尺度、③価値保蔵力」という3つの機能をもっていると考えられてきた。これはちょっと考えてみるとわかるように、「情報」に似ているし、「言語」にも似ている。そういう議論はけっこうあった(いずれ千夜千冊する)。
 ただし似てはいるのだが、情報や言語は支払い手段にはならないし、貸し借りもない。預けておくと利子がふえるということもない。ところがマネーはいくらでも擬似的な代替性を発揮して、人類の社会と歴史を律してきた。
 そのようなマネーの多様性に、いつしか「お金ばかりが好き」という狂想曲がおこり、「狂ったゼニ」がまじっていった。マッド・マネー(1352夜)が跋扈していった。2006年の数字だが、世界中の株式市場の額面総額は50兆6000億ドルで、その年の世界中の生産高の累計48兆6000億ドルを上回ってしまった。それだけではなく、債権の総額は67兆9000億ドルになり、生産高を40パーセントも上回った。
 いま、外国為替市場では毎日、4兆ドル以上が取引され、株式市場では毎月6兆ドルが売買される。なぜここまで膨れ上がったかといえば、むろん金融のグローバリゼーションが進んだからだ。
 それで多くの金融機関が大やけどをしたにもかかわらず、まだ人類はマネーの狂想曲から耳を離さない。おいおい、それでいいのかよ。なぜそんなにもマネーにこだわるのかよ。それがファーガソンのメッセージだ。

 マネーの呼び名は民族によっても時代によっても異なってきた。
 お金、懐ろぐあい、収入、食いぶち、現金、ゼニ、余禄、上がり、おあし、天下のまわりもの、手持ち、元手、資金、ゲンナマ、日銭、持ち合わせ、水上げ、貨幣、通貨などなど‥‥。
 英語でも「食いぶち」はブレッド、「現金」はキャッシュ、「ゼニ」はドッシュなどとジャーゴンを使い分ける。
 そもそもマネーの主たる役割は、「手に入るもの」と「手から出るもの」のあいだをつなぎ、貸し手と借り手のアンバランスな関係をとりもつことにある。大昔からそうだった。
 このことを雄弁に語るのは、すでに古代バビロニアにおいて、借金は誰かが肩代わりでき、借り手は当初の貸し手に返済しなくとも貸し借りの証しを示した粘土版の持ち主に返せばいいことになっていたことである。ついでにいえばハムラビ王の時代には「複利」すら芽生えていた。
 ということは、通貨とはそもそもが“約束通貨”だったのである。そこで前提になっているのはただひとつ、その社会における「信用」(credit)というものだ。これは「信頼」(trust)より発信性が強い。また流通力がある。だいたい“credit”の語源がラテン語の“credo”で、「私は信じる」に由来していたのだし、そのクレドは何人もの手をわたるうちに強化もされる。
 そういう本質をもつマネーが時代のなかで大きな変化をおこしはじめるのは、利子と銀行が発達するようになってからだった。

 利子(利息)の発達はおそらく利子が計算できるようになって以来のことだろうから、正確には13世紀にフィボナッチが『算盤の書』を著してフィボナッチ数列を発見し、これが一般化してからだったと推定できる。
 フィボナッチはもともとがピサの貿易商人の息子だった。ここから高利貸しの思想が生まれ、ダンテ(913夜)が『神曲』地獄篇の地獄第7圏に“高利地獄”を描写したような守銭奴的な社会事情が派生していった。
 銀行のほうは、14世紀フィレンツェのバルディ、ペルッツィ、アッチャイウォーリが王家に対する貸し倒れにあってのち、メディチ家が登場して銀行のしくみを徹底的に(ギャング的にと言ってもいいけれど)整えたあたりから、それこそ急速に伸(の)していった。このあたりのことは多くの経済史学があきらかにしているし、もっと詳しいことはフェルナン・ブローデル(1363夜)を嚆矢にアナール派が微細なところまで描きだしているから、説明はいらないだろう。
 というわけで、銀行の確立と台頭に利息計算と複式簿記とが加わって、1340年代くらいには、「マネー、利子、銀行」という三位一体のマネタリー基本方程式ができたのである。それこそボッティチェリの『東方の三博士の礼拝』に描かれているメディチ家の面々の語るところだった。

 イタリアの銀行制度は北ヨーロッパのモデルになり、そのまま数世紀のマネーのしくみの基本になった。それがアムステルダムからロンドンに移行して、「史的システムとしての世界資本主義」を地球中にばらまく「アングロサクソン・モデル」の原型をつくってきたことについては、この数夜の千夜千冊で説明しておいた。
 ちょっとだけ補足をしておくと、1609年に創業されたアムステルダム外国為替銀行(ヴィッセルバンク)はそのころ結成されていたユトレヒト同盟の北部7州の14種類の通貨を「グルテン・バンコ」という預金単位に換算処理管轄することで、世界資本主義のエンジンのひとつをつくった。このとき、小切手、直接借方記入、振替の3つの機能が新たな銀行業務に組み入れられた。

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1606年、オランダ東インド会社の6番目の株式。最古の株式証書。

 ついで1657年創立のスウェーデンのストックホルム銀行で、融資や商業支払いの業務が始まって、借り手の貴金属の保有量を超える融資がおこなえるようになって、のちの部分準備金銀行制度にあたるエンジンが動きだした。預金として残っているぶんも貸し出しにまわして利益を得ようという銀行モデルができたのだ。
 これらを引き継いだのが1694年に設立されたイングランド銀行である。当初は政府の借金の一部を銀行で株に転換して戦時経費をまかなう機関だったのだが、それが転じて1709年からは株式会社としての銀行になり、ついには1742年にほぼ独占的に紙幣発行の権利をもつようになって、ここに3つ目のエンジンが駆動していったわけである。
 ハーバード・ビジネススクールのMBAコースでは、いまでもこの3つのエンジンをネタにしたマネーゲームに取り組むことになっている。ハイパワード・マネー(強権通貨)、ナロー・マネー(狭義のマネー)、マネーサプライ(通貨供給量)の関係を公式的に学ぶのだ。これでMBAの卵たちが知ることになるのは、マネーというものは銀行によって作られたある種の負債(預貯金)だということ、そして、「信用」は銀行の資産(ローン)になるということである。

 銀行が「信用」を媒介にマネーの増殖のしくみを確立したのち、次にマネーの著しい進化をもたらしたのは、「債券」(ボンド)によってマネーのパワーを強化するようになったからだった。
 日本政府が発行する国債には10年債というものがある。この10年債の額面は10万円で、たとえば1・5パーセントの固定金利あるいは利札(クーポン)が付いているとする。日本政府は次の10年間にわたって10万円の1・5パーセントを払い続けることが義務づけられている。国債の購入者は自分の好きなときに市場の趨勢を見て時価で債券を売ることができる。

 こういうしくみが保証できるのは、日本国家が積み上げてきた強大な債券市場が支えているからなのだが、これはむろん国の負債なのである。だからいつなんどき崩れてきてもおかしくはない。なぜこんな奇っ怪なものが歴史のなかに登場し、かつ一国の財政を危うく支えるようになったのかといえば、もともとは戦争の費用を生み出すためだった。

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利札「クーポン」付の日本の10年債

 債券市場そのものの原型は、13世紀の北イタリアでささやかに芽生えていた。そこへ14世紀から100年ほどのあいだに、フィレンツェ、ピサ、シエナなどの都市国家が交戦状態を続けることになった。ダンテもそのような時代の最初期に生まれ、早くもその惨状を『神曲』に描いたわけである。
 そこで何がおこったかといえば、各都市国家が傭兵を雇った。傭兵は相手の都市を襲って金銀財宝を略奪するのがお仕事だ。当然、やったりやられたりで、あげくに各都市国家は財政危機に陥り、税金を倍増しても追いつかなくなっていく。たまに傭兵グループにジョン・ホークウッドなどという強靭なリーダーが登場すると、その功績に城や金銀を褒賞としてあげていくうちに、この男の“持ち価値”のほうがそこいらの都市国家より大きくなることもある。
 かくして都市国家のなかには、そうした功績者に対する負債がヤマほど増えていくということが次々におこっていった。そこでフィレンツェなどはやむなく強制貸付(フレスタンツェ)をすることになった。富裕な市民たちから資金を強制的に貸付けさせるのである。そのかわり市政府は利子(インテレッセ)を払う。
 これは当時のキリスト教社会が高利貸しを禁止していたことの網の目をくぐる方法で、教会法には抵触しなかった。こうしてフィレンツェは自国の市民を投資家に仕立てて戦時費用をまかなうようになったわけなのだ。そしてここに、債券の原型が発生していくようになる。これが国債の起源である。

 債券の歴史は戦争の歴史であり、戦争の歴史は債券の歴史であり、それがマネー・パワーの強化の歴史だったのである。
 ロスチャイルド家など、その時代ごとの政府の頭目たちに戦争をおこさせては債券市場を操作して、どんどん膨れあがったようなものだった。そこまでいかずとも、債券市場によってしこたま儲ける連中は、いつの時代もいわゆる「ランティエ」(利子生活者)として、世の中を賑わしてきた。
 こうした「債券としてのマネー」がしだいに化け物のような様相を呈することになったのは、とりわけ第一次世界大戦のときに、各国によって厖大な戦時国債が発行されたこと、敗戦したドイツにさらに厖大な債務を生じさせたことによっている。それとともに現代史は初めての大型インフレ(ハイパーインフレーション)をおこすことになる。同じことがドイツだけでなく、オーストリア、ハンガリー、ポーランドでもおきた。ミルトン・フリードマン(1338夜)が言うように、インフレは通貨がおこす不完全現象になったのである。
 以降、債券市場の乱高下と戦争の勃発と終結とインフレの動向は、つねに三つ巴で動きまわる。1989年のアルゼンチンの財政危機と金融危機は、本書のみならず多くの経済書がその詳細を再現してきたが、ここまでのマネーの進化には、決定的なデボルーションがありうることを物語る、最も深刻で、わかりやすい例だった。

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超インフレの証明。1923年に発行された10億ドイツ・マルク紙幣。

 銀行と債券。マネーは当初はこの二つを両輪にして、しだいに怪しげなアクティビティをもってきたのだが、ここに拍車をかけ、そのしくみをさらに複雑にも予測不能のものにもしていったのが、ひとつには「企業の隆盛」と「株式マネー」(株式上場のしくみ)の膨張である。本書にはその長所と短所も手際よく述べられているけれど、とくに解説を加えるほどのものではないから、ここでは省く。
 だが、もうひとつ、そこに加わった重大なものがあった。何が加わったのか。わかるだろうか。銀行、債券、株式についでマネーを狂ったほどに変幻させていったもの、それは保険だ。

 保険のルーツは、これまたイタリアになるのだが、14世紀初めにヴェネツィアやジェノヴァなどの海港都市で生まれた「ボトムリー」と呼ばれた船舶抵当貸借だった。商船のボトム(船体)に対しての保険である。この時期に「セキュリタス」(証券)についての記述もあらわれている。『ヴェニスの商人』でアントニオが苦境に立ってシャイロックに苦しめられたのは、自分の商船に保険をかけていなかったからなのである。
 保険の出現とともに、そこに保険料が付随した。1350年代の保険料は保険金額の15~20パーセントくらいで、15世紀になると10パーセントに下がった。ここに「リスク」に対するマネーのかかわりが発生する。
 17世紀の後半には専門の保険市場がロンドンにあらわれた。1666年のロンドン大火がきっかけで、家を焼かれるならその損失をカバーするべくあらかじめ保険金をかけておくのを厭わないという風潮が、ロンドンの富裕市民に広まったからだった。その14年後にニコラス・バーボンが最初の火災保険会社を設立した。
 ほぼ時期を同じくして、エドワード・ロイドのロイズ・コーヒーハウスで海上保険会社が生まれ、ここから海上保険市場が始まった。1774年には王立証券取引所の中にロイズ協会が設立されている。保険会社こそ、アングロサクソン・モデルの雛型だったのだ。

 ロイズの保険のしくみは、会員制から始まった。その会員が今日でいう市場形成者なのである。
 保険契約には署名が必要で、そこからアンダーライター(証券引受人)というルールが派生した。保険取引は、財源を確保してから拠出するという方式で、いまでも「ペイゴー方式」(pay as you go)という。保険会社がその年の支払いを完済し、そのうえ利鞘を稼いでおくためだった。
 生命保険もヨーロッパでは中世から試みられている。教皇や総督や国王にかけた保険が最初だが、それがしだいに広まって疾病や死をリスクと認識する一族の意識が高まった。こういう風潮を背景に「保険の思想」や「保険の数学」が追求されたのは、1660年以降のことで、それはまるで熱病のような知識人たちによる推理合戦を示した。
 金融工学の前哨戦はそのころから始まっていたというべきなのだ。
 その中身をファーガソンは6項目に分けて説明している。

①「確率」‥

当時の確率はブレーズ・パスカル(762夜)と、パスカルの友人ピエール・ド・フェルマーによって考察され、保険概念の確立の基礎を与えた。

②「余命」‥

1662年にジョン・グラントが『死亡調書の自然的および政治的観察』を出版し、これがロンドンの公式死亡統計を充実させ、ついでエドマンド・ハリー(ハレー彗星の発見者のあのハリー)がさらに分析を加えて、生命保険の基礎を提供した。

③「確実性」‥

1705年、ヤコブ・ベルヌーイが「大数の法則」を発見し、ここに、「同様の条件のもとでなら、将来におけるある事象の生起(あるいは不生起)は、過去に観察された同一のパターンに従う」という推論法則が知られるようになった。

④「正規分布」‥

1733年、アブラーム・ド・モアーヴルが「どんな種類の反復プロセスも、平均の周辺や標準偏差の範囲では、ある曲線に沿っての分布がある」ことを突き止めた。これがのちに「正規分布」とか「ベルカーブ」とよばれた。

⑤「効用」‥

1738年、ヤコブの甥のダニエル・ベルヌーイが「あるものの価値(value)はそれについた値段(price)によって決まるのではなく、そのものがもたらす効用(utility)によって決まる」と断じ、さらに「富の微量な増加から得られる効用は、それ以前にその人物が保有していた財の量に反比例する」と論じた。

⑥「推測」‥

1763年、トマス・ベイズは論文『偶然論の問題解決に向けて』で、「どんな事象の確率も、事象の生起に応じた期待値を計算すべき値と、その生起に期待されることの可能性との比である」ということを記し、のちに「ベイズの定理」として金融確率世界やデジタル・インターフェースの世界を席巻する公式を提唱した。

 そもそも保険は「リスクの先取り」である。ということは、これを「社会のリスク」に適用することもできた。このことを早期に発想したのはプロイセンのオットー・フォン・ビスマルクで、それが社会保険法になった。こうして何が生まれたかといえば、「年金」である。
 ビスマルクが社会保険を実施する気になったのは、多数の無産階層に、自分は年金を受給する資格があるのだと思いこませることによって、ドイツ全域に保守的な愛国心を生み出すためだった。国家社会主義の政治思想は社会保険や年金とともに生まれたと言っていい。
 これをずっとのちの1908年に真似て、イギリス自由党の蔵相ロイド・ジョージが導入することにしたのが老齢年金制度で、1911年には「国民保険法」も成立した。これらを突っ先に、イギリスは福祉国家構想に走り、1920年代には失業保険を発動させ、さらに1940年代にはチャーチルの「ゆりかごから墓場まで」の演説に象徴されるような、総合国民強制保険国家のほうに大きく舵を切ったわけである。
 しかし、実はこのような福祉国家の実験に最初にとりくんだのは日本だったというのが、ファーガソンの見方だ。関東大震災が日本をして世界最初の保険国家に仕立てたというのだ。
 実際にも日本人は大震災の起きた1923年に、約7億円の生命保険新規加入をはたしている。それ以前にすでに、海難・死亡・火災・徴兵・交通事故・盗難などに対する補償の提供に、明治大正の日本人は熱心で、併せて13種類の保険が30あまりの保険会社によって販売されていた。
 それはそうなのだが、しかし日本は太平洋戦争にも日中戦争にもひどい失敗をして、国土を焼け爛れさせただけでなく、国家の資本ストックの大半をアメリカの爆撃とともに失った。こうして日本は、これからは民間の保険市場だけで国民を危険から守るのは難しいと判断するようになる。そこで一方では日米安保同盟への道を採り、他方で国民皆保険による福祉国家をめざすことになった。そう、見るとよい。
 この見方には説得力があるはずだ。そうなのだ、日米安保と国民年金は一対なのである。このこと、民主党政権はほとんど理解していない。ちなみにこの制度の実施リーダーとなった近藤文二の言動に当たってみると、このような日本の保険制度思想は、大日本帝国時代の「国民皆兵」を「国民皆保険」に移行させていたことがわかる。このことも、もう少し理解されていい。

 さて、ところで、将来の災難にあらかじめ準備しておく方法は、保険や福祉だけではなかった。そこにはマネーそのものこそが関与するべきだった。
 なぜなら、将来の災難を予測してその準備をするには資金がかかる。その資金を国の保険制度や福祉制度に頼るだけでは、個人の不安はなくならないし、企業の危険も減退しない。
 そこで、その資金を個人や企業が掛け金の形にして分散させ、リスクをヘッジ(回避)することが可能なはずだという考え方が浮上して、広まっていった。そのような発想で組み立てられたのが、リスク・ヘッジのマネタリー・モデルであり、そこから生み出されたのが金融商品や金融派生商品だった。先物市場の拡張である。
 ところが、ここにはマネーがマネーを生むという思想がまじりこんでいた。とくにデリバティブによる金融契約には、オプションというお釣りがついていた。このしくみはきわめて巧妙であったため、それゆえ誰もが「イン・ザ・マネー」(金持ち)の状態に入れるという幻想をもたらした。
 これが、のちに悪魔の手法だとも言われたデリバティブをめぐる驚くべきマネーチェーンをつくっていった。
 たとえばコール・オプション(選択買付け取引)の買い手は、オプションの売り手(ライターとよばれる権利者)から、特定の商品または金融資産のあらかじめ同意した量を、一定期間の権利行使期限のなかで特定の行使価格で購入する権利をもてる。買い手はむろん、金融商品の価格が上がることを期待する。ということは、うまいぐあいに時価がもともとの行使価格を超えることになると、その段階で、オプションはただちに「イン・ザ・マネー」の状態になり、次にこのオプションを買った連中も「イン・ザ・マネー」になっていく。その連鎖がおこるのだ。
 逆に、権利行使価格で売るオプションも用意されている。コール・オプションに対して、プット・オプション(選択売付け取引)とされているものだ。
 3つ目のデリバティブのスワップ(交換)では、金利の先行きに関する二者のあいだの“賭け”が認められたようなもので、大相撲の力士たちの野球賭博どころではない。純粋利子率のスワップでは、金利の支払いをすでに受けている二者でこれを交換できるようにしたのだから、変動金利の支払いを受けている者が、金利が低下するときに固定金利と交換してしまうことができた。これらにも「イン・ザ・マネー」が巧妙に保証されているかのようになっていた。

 デリバティブをめぐるしくみが、悪魔的だといえばまさにその通りだが、徹底してリスクヘッジの可能性を読んで組み立てられていたことは、呆れるほどに理論的である。そうとうにアタマがいいと言わざるをえない。
 AとBの状態を予測してリスクヘッジをするだけなのではなく、AがAでなく、BがBでない場合のデフォルトも組みこんだ。クレジット・デフォルト・スワップでは、企業が自社発行の債券を債務不履行(デフォルト)とするリスクを保護するという説明名目だし、『インターネット資本論』(1126夜)のときにも書いたことだが、自然災害債券にあたるCATボンドのようなカタストロフィ債では、天候の変動をも「イン・ザ・マネー」にもちこんだ。
 もともとは保険会社が気温の変動や自然災害の危険を分散するための工夫なのだが、これを生活者や利用者のほうから見ると、CATボンドの買い手が保険を売っていることになるわけである。
 ウォーレン・バフェットがこれらを「金融の大量破壊兵器」と呼んだのは、バフェットのように大儲けした男から言われるのは勘弁してもらいたいことではあるけれど、まあ、当然だったのだ。

 ともかくも、こうした金融革命が13世紀このかた長きにわたったマネーの歴史を一変させてしまったことはあきらかだ。
 なぜなら、金融工学ではリスクをヘッジ(回避)できる者とできない者とが確実に二分されていくわけで、これではどこかで事態がひどいものになっていっても止められない。
 かくて本書は後半3分の2以降で、サブプライムローンのしくみを暴くというふうになっていく。ファーガソンはこれを「ストラクチャード・プロダクツ」と名付け、その最も根本が「金融の証券化」に集中していることをあげ、そこにあまりに勝手なマネー幻想が振り当てられていたことを論じた。
 一言でいえば、金融の証券化は、もともと「リスクへの耐性が強い者」に向けられたものにすぎず、それも「リスクに弱い者」へのリスクの押し当てによって成立しているにすぎないということだったのである。マネーの進化といったって、いまのところはしょせん、そんな体たらくの現状に達したということなのである。

【参考情報】
(1)ニーアル・ファーガソンは1964年、スコットランドのグラスゴー生まれ。オックスフォード大学からドイツ留学後にケンブリッジ大学などで講師をし、2000年からオックスフォード大学の歴史学教授になり、その後はハーヴァード・ビジネススクールやスタンフォード大学フーバー研究所などでもあれこれの活動をして、いまはハーヴァード大学に落ち着いたようだ。
 ファーガソンが依拠しようとする、歴史記述としても歴史学としても珍しい「カウンターファクチュアル・ヒストリー」(反事実歴史学 counter-factual history)は、史料や歴史データを再構成することによってそれを自ら検証しようとする手法で、いわばリヴィジョニズムとも、もっとわかりやすくいえば“編集歴史学”のようなものだともいえる。その手法を導入した『憎悪の世紀』(早川書房)は、さすがに読ませた。編集工学に関心のある者が「歴史」を学ぶにはふさわしいテキストになるのではないかと思う。
(2)本書の後半は、サブプライムローンの解明のあとから、俄然、仮説的になっていく。得意の「反事実歴史学」が躍如する。なかで、エルナンド・デ・ソトの「資本の神秘」に挑みつつの1980年代後半のアルゼンチン貧民街での活動と思想、およびムハマド・ユヌスのバングラデシュでの貧窮女性たちに対するグラミン銀行のマイクロファイナンスの思想と活動についての記述は、さすがにファーガソンがこういう特例を見逃さないという姿勢が貫かれていて、感じさせた。
 もうひとつ、第6章で「チャイメリカ」論の一端を披露しているのは、まだサワリだけではあるが、今後のファーガソンの近未来史的歴史研究の予告であるようで、ぼくはしっかり読ませてもらった。NARASIAにもこういう見方が必要なのだろう。
(3)終章「マネーの系譜と退歩」で、ファーガソンは次のように生物学的な見方と経済・金融・マネー史の特色とを比較している。当たらずとも遠からずもある。参考に。

①ある種のビジネス習慣は、生物学でいう「遺伝子」と同じはたらきをし、「組織のメモリー」に情報を蓄積し、個人から個人へ、あるいは新しい企業ができれば企業から企業へと伝え残されるのであろう。

②マネーの歴史では、ある種の属性が自発的に突然変異をする可能性がある。たとえば金融工学だ。経済界ではこれをイノベーションと呼ぶが、技術革新ばかりがイノベーションとはかぎらない。

③同業種内で資源をめぐる競合があり、その結果が寿命や増殖の度合いのマイナス要因としてはたらき、どの企業が生き残るかが決まる。

④資本と人的資本を市場がどう配分するかという問題は、業績が悪いと消滅する可能性がある「残存率」を通じて、適者生存的な自然淘汰のメカニズムがはたらいているのかもしれない。

⑤種が分化して、新たに形成される余地がある。ひょっとすると、まったく新しい金融機関を創設することで、新たな多様性が維持できるかもしれない。

⑥どんな場合も、生物にも金融にも絶滅の余地がある。当然、ある種が絶滅することもある。