才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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市場社会の思想史

「自由」をどう解釈するか

間宮陽介

中央公論社 1999

アダム・スミスの「見えざる手」。
リカードからマルクスに及んだ階級の経済学。
ロマン主義によるリストの国民経済学。
メンガーやジェヴォンズの数理に変じた経済人間像。
異能ヴェブレンや異才ポランニーの経済社会批判。
18世紀の理性から解き放たれた経済学は、
ケインズに向かい、ケインズから離れ、
あげくのはてで、なぜにまた、
マネタリズムに向かっていったのか。
かの市場原理主義が生まれてきた背景を
今夜から数夜にわたってスケッチしてみたい。

 前々夜と前夜で「理性主義の18世紀」がどのように「偶然と確率の19世紀」に向かったのか、その後は「たまたま」の正体がどう哲学されてハイデガー(916夜)などに至ったのかをあらまし瞥見した。
 ここに加えなければならないのは、同じ時期に併走していた経済思想のストリームと、自由主義をめぐるストリームと、個人主義思想に関するストリームなのである。なぜ、この3つなのかといえば、この3つの奇っ怪な“まぜまぜ”によって資本主義のマッドマネー的歪曲がおこったからであり、それだけにこの思想ストリームを3つまとめて矯正する目をもつことが、そのうち重要になるからだ。
 が、それにはまずは経済思想史があらかた見えていなければならない。ただしこれが紆余曲折がありすぎて見えにくい。ぼくが案内することもないだろうけれど、不案内の読者もいるだろうとの老婆心で今夜は仲立ちをしておくことにした。
 紆余曲折を見るには簡潔に通史を述べている本がいい。ところが、この手の本はありそうで、ない。とくに経済学史は流派があって、取り扱う内容の軽重が甚だしい。何かないかと左見右見(とみこうみ)するうちふと思い出して、本書にした。京都大学の間宮陽介さんが放送大学で「経済思想」を講義したときのテキストにもとづいて書いた『市場社会の思想史』だ。
 一度だけだったが放送大学を見たときの語り口の印象がよかったのと、本書に「自由をどう解釈するか」というサブタイトルがついているので、選んだ。

 スコットランド生まれのアダム・スミスが『国富論』を発表したのは18世紀後半の1776年である。一方ではアメリカが独立して”新世界”が出現し、他方ではいよいよ産業革命の波濤が広まるという矢先だった。
 スミスがスコットランド出身だったということは重要だ。近代的自由の思想を準備したのは3人のスコットランド人、デヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、アダム・ファーガソンだったからだ。この3人はいずれも「経済的な自由なくしては政治的自由もなく、個人的自由もない」ということを訴えた。このあとすぐに千夜千冊するつもりだが、ハイエクやフリードマンの自由論もほぼここに起点をおいている。
 『国富論』の先蹤はバーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話』(1714)にある。マンデヴィルは医者で、当時の医者はヤブ睨み万能の社会観察者でもあって、人間社会をつくりあげるものは交際心や善良さや哀れみや温和さなどではなくて、人間のいちばん下劣で忌まわしい性質であることを見抜いていた。そこでマンデヴィルはそこを風刺して、蜜蜂に託した寓話に仕立てた。ここに「私悪は公益になる」という有名なロジックが表明された。
 当時のヨーロッパ社会の経済思想はいうまでもないだろうけれど、重商主義である(その前はケネー型の重農主義)。ここには貨幣ばかりを操る「巧みな手」(skillful hand)が大手を振っていた。このことに疑問をもっていたアダム・スミスは、マンデヴィルの衝撃的なロジックをヒントに、ひとつには分業が、もうひとつには利己心や自愛心が、それぞれ自由に発揮されれば、それらがおのずから“大きな社会”(great society)の積極的な構成ファクターになると考えた。
 分業によってさまざまな職種と技能が一人ずつの社会的可能性と照応し、個人一人一人の功利の意図が市場にはたらいていきさえすれば、そこに神かとおぼしい「見えざる手」(invisible hand)が動いて、きっと“大きな社会”が生まれていくはずだというのだ。
 この“大きな社会”とは「市場社会」のことである。これは言ってみれば、一人一人の「たまたま」が大きな必然に転化するということであり、その調整と合理を司っているのが市場だということになる。
 ちなみに、スミスには『道徳感情論』という著作もあって、そこではシンパシー(同感・共感)もまた個人を社会に統合するファクターになると書いていた。そのため、いっときはアダム・スミスは二つの矛盾した原理を持ち出していると議論されたこともあるのだが(いわゆるアダム・スミス問題)、いまではこれは、スミスの利己心は「啓蒙された利己心」のことで、スミスの功利主義は行為功利主義ではなくて、規則功利主義のことだというふうに好意的に“調合”されていて、めでたし・めでたしになっている。

 スミスが発見したのは、一言でいえば「自己利益が社会利益に転化する」という法則である。そこに見えてきたのは「自然的自由の制度としての市場社会」というものだ。自然的自由というのは”自然権としての自由”のことをいう。
 この見方はのちのちの社会経済思想にとって、すこぶる重要な分岐点になる。というのも、当時は、トマス・ホッブズ(944夜)が『リヴァイアサン』において、自然的自由は統治契約にもとづいて実現されるという見解を表明していたことがそのまま踏襲されていて、スミスの市場主義は初めてこれに真っ向から対立することになったからだ。
 ホッブズは、自然権としての自由が帰結するのは戦争状態にほかならず、その戦争状態を克服するために統治契約というものがあるとみなしていた。統治契約があれば、その後の自由が臣民にもたらされる。そう、考えていた。ホッブズは、自由は大事だが無制限の自由は社会を戦争状態(あるいは無政府状態)にするから、それを契約によって制限することが真の自由だと考えたのである。
 スミスはこれに反対だった。契約は契約参加者を拘束するのみで、後世の社会を拘束する理由を与えないというのだ。そんな中途半端な契約で人民を縛るべきじゃない。これは、主権者(国家・政府・権力)が私人の経済活動に介入することの愚かさを説いたものでもあって、だからスミスは、主権者は防衛・司法行政・限定的公共事業だけをしていればいいとも喝破していた。この見方は、すぐに見当がつくように、まさに今日の「小さな政府」論につながっていく。
 ともかくもこうしてホッブズとスミスの分岐点は、このあとえんえん今日にいたるまで、経済社会思想の最も基本的な対立点になったのである。

 整理していうと、アダム・スミスの登場は、「理性」よりも個人の「感情」や社会にひそむ「偶発性」を重視した思想の登場でもあった。それは18世紀の理性主義からの早々の脱却であり、同時に19世紀以降の資本主義市場の本質を予告したものだった。
 そうではあるのだが、そこにはまだまだ議論の対象になっていない問題がいくらも潜在していた。たとえば、『国富論』から約半世紀後に出版されたデヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』(1817)は、社会が市場によって形成されるのだとしても、その生産物がどこにどのように分配されるかが未解決だと考えた。生産物は地主・労働者・資本家に分かれ、地代・賃金・利潤に分かれるだろうというのだ。
 リカードは経済の同一パイを競いあうのでは、利潤と賃金は一方が増加すれば他方は低下する関係になると見て、そこに階級対立が生じるだろうと予想したのだった。理想的分配なんておこらないのではないか。
 リカードがこんなふうに考えたのには、産業革命がいよいよ進行するなか、1801年にはイギリス最初の工場法が施行され、1811年に織物工場の職人が機械を壊したのがきっかけにラッダイト運動が広まっていた時期にあたっていたからだった。
 リカードの経済学に苦悩の姿が滲み出たあと、リカード的な柔らかい社会主義と働きものたちの空想的社会主義の思想が発芽してきた。ネルヴァル(1222夜)の先駆者たちである。かれらはいずれも、市場が自由に形成されたとしても、社会のほうはきっと不平等になっていくだろうという予想をもった。「市場の繁栄と社会の充実は重なるまい」という見方だ。
 こうしてここに、市場モデルと社会モデルを独自に組み合わせた、小さめのコミュニティ(共同体)や集団的なアソシエーション(組合)などが必要だろうと主張する思想があらわれてきた。ロバート・オーウェンの「ニューハーモニー」やサン=シモンの「産業組合主義」やシャルル・フーリエ(838夜)の「ファランジュ」「ファランステール」の提唱と実験だ。ぼくは思想史上ではとくにフーリエに着目してきたが、ここでは省略する。
 このあと、マルクス(789夜)とエンゲルスによってまったく新しい経済思想が体系化されたことについても、今夜は省略する。人間の意識(上部構造)というものは、社会の生産経済活動(下部構造)によって歪められるもので、そこから生み出される価値も大半が剰余価値として資本家に蓄積され、すべての労働は疎外されて商品になるばかりだという、世に名高い唯物史観の構図が提供されたわけである。

 スミスからの転換とリカードからの転位をはかったのは、空想的社会主義者やマルクスたちだけではないということも知っておいたほうがいい。最近は軽視されるようだが、フリードリッヒ・リストの国民経済学やグスタフ・シュモラーらの後期歴史学派もいた。
 リストらの経済思想は、一言でいえばドイツ・ロマン主義と国民国家主義が接合した産物である。政治思想としてはフリードリッヒ・マイネッケ(61夜)の歴史学派が、歴史の総体をまるごと精神史的に掴むことを試みて、コスモポリタニズム(世界市民主義)に対する国民国家主義を対置させた。ぼくは千夜千冊には『歴史主義の成立』をとりあげたが、マイネッケにはその名もずばりの『世界市民主義と国民国家』がある。
 こういう政治的ロマン主義を香らせつつ、リストは『経済学の国民的体系』をもってその経済学化を一挙にはたした。アダム・スミスらの古典派経済学を“万民経済学”と呼ぶとすれば、これは“国民経済学”にあたる。ドイツの民族精神に結びついた一国経済学ではあったけれど、その生産力をめぐる理論はいまなお各国の経済力を議論するときに使われていい。
 他の方法でスミスやリカードからの転換や転位をはたす者たちもあらわれた。1870年代に踵を接したカール・メンガーの『国民経済学原理』、ウィリアム・ジェヴォンズの『経済学の理論』、レオン・ワルラスの『純粋経済学要論』などである。いずれも古典派経済学への反論を出した。
 かれらは市場の重要性は強調したのだが、そこに新たな「限界効用」説を入れこんだ。科学的経済学の登場である。

 アダム・スミスには有名な「水とダイヤモンド」の比喩による問いと答えがある。水には大いなる使用価値(効用価値)があるのに交換価値がなく、ダイヤモンドは何の役にも立ちそうもないのに多大の交換価値をもつ。いったい交換価値の尺度は何にあるのか、商品の価値をつくっている要素は何か。そういう問いだ。
 スミスの答えは、交換価値の尺度を握っているのは労働であり、商品の価値の要素は賃金・利潤・地代などの生産費であろうというものである。このスミスの仮説はマルクスさえ受け入れたものだったのだが、しかし、メンガー、ジェヴォンズ、ワルラスはこの考え方に異議を唱えた。水とダイヤモンドがそれぞれの価値をもつのは、そこに投下された労働や生産費のせいではなく、消費者の主観的効用によっていると考えたのだ。
 そもそも水やダイヤモンドには一般的な価値はない。スミスはそれらにあたかも使用価値が付着しているように言うが、その価値はその量と、これを使用する者の主観的評価や効用観とによっていろいろ異なってくる。目の前にバケツ一杯の水しかなければそれは洗濯用ではなくて飲料となり、バケツの水がふえるにしたがって水は炊事や洗濯などにも使われていく。このことを一般化したいなら、水の交換価値を決めるのは”最後の一杯”の水に対する評価によっていると言わなくてはならない。
 メンガーらのオーストリア学派は、この”最後の一杯”によって評価が決まっていくことを、「限界効用」(marginal utility)と呼び、そこにベルヌーイの定理などを応用し、現実社会の実情に生きる人間でない理論経済上の“経済人”を想定した。
 ジェヴォンズの『経済学の理論』はさらに大胆で、ベンサムっぽく功利主義的でもあった。
 ジェヴォンズによれば、経済的な評価の活動に「限界効用」があるということは、人間には快楽と苦痛を選択する順に経済活動をするという法則が隠れているということなのである。それなら人間には“快楽計算機械”とでもいうべきものがひそんでいるということになるだろうから、これを計算して明示化するのが経済学の役割だとみなしたのだ。
 すぐさま見当がつくように、メンガーの“経済人”もジェヴォンズの“快楽計算機械”も、実際のナマの人間ではない。ありうべき経済社会のなかの抽象的なモデルだった。だからこれは数学の対象になりえた。そのため経済学はここから一気に科学をめざすことになった。
 今日、経済理論が統計学や確率論やゲーム理論を駆使するようになったのは、もとをただせばここに端を発している。しかし、そこには、ナマの人間ではない“理論人間”(ホモ・エコノミクス)のみが想定されている。
 もう一人のワルラスのほうはその深みと広さからして、ほんとうはいろいろ説明しなければならないのだが、いまは一言ですませると、限界効用論を下敷きに「一般均衡理論」を打ち立てた。これはその後の新古典派経済学の核となったもので、そこでは、各人の主体的均衡が満たされていて、総需要量と総供給量は一致しているという、変な条件が組みこまれていた。この二つの条件によって、市場は均衡を保つというのだ。

 ここで二人の異色の経済思想家を挟んでおく。一人はソースティン・ヴェブレンで、もう一人はカール・ポランニー(151夜)だ。いずれもぼくにとってはとびきりだ。
 ヴェブレンは痛快である。『有閑階級の理論』(1899)で知られているように、アスター、ヴァンダービルト、ロックフェラー、モルガンらの資本家たちが派手に大儲けをしていた19世紀末アメリカの繁栄を容赦なく抉(えぐ)っていった。「誇示的消費」「代行的閑暇」「製作者本能」「略奪文化」といった意表をつく用語を乱発して、メンガー、ジェヴォンズ、ワルラスらの用意した「経済人」「均衡」といった概念があまりに現実無視をしていることを非難するとともに、そもそも経済学に「正常」や「平均」のモデルや科学的なものさしを導入することに文句をつけた。
 そういうヴェブレンを経済学では「制度学派」と呼ぶのだが、どうもこの言い方は勘違いを招く。ヴェブレンは「個人と社会の特定の関係や特定の機能が支配的になる思考習慣」のことを制度とみなしたのだ。だから片寄った消費活動も制度なのである。
 ヴェブレンは「見栄を競うこと」「差別的な比較で経済活動をすること」「自分をひけらかすために消費すること」をこきおろし、そんな消費者の欲に合わせたものづくりをしていては、人間本来の”製作者本能”が失われていくだろうことを嘆いた。そのうえで『企業の理論』では、企業が金銭的動機で活動するかぎり、産業は阻害されるばかりだと説いた。これは裏返せば、企業の利得は産業の効率化を損なうことから生まれるのだという逆説をもたらした。
 晩年のヴェブレンは、企業の営利体制の矛盾を転換させ、産業の実権を「技術ソヴィエト」のようなものに移行させたほうがいいとさえ言いだして、敬遠された。しかしその独創的な発想と多様な才能は、チャールズ・パース(1182夜)の持ち味にこそ比肩されるべきである。

 もう一人のカール・ポランニーについては、あらためて言うことはない。19世紀文明が、①力の均衡、②国際金本位制、③自己調整市場、④自由主義国家という4つのシステムによって支えられていたことを暴き、アダム・スミス以前の社会では交換を介した利潤によって経済活動が進行しているのではなく、むしろ人間の経済が広範な社会活動のなかに“埋めこまれていた”ことを注目すべきだと促した。このこと、何度も噛みしめたい。
 念のために書いておくが、ポランニーは市場を特別には扱わなかったのだ。経済は自給自足をめざす「家政」と、適確な利益と税による「再配分」と、親しい者や義理ある者のあいだで贈答を交わしあう「互恵」と、そして市場による「交換」の、この4つが相互に組み合わさったものだと言いたかったのである。とくに市場社会が、もともとは商品ではない労働・土地・貨幣を商品化したことを痛烈に批判した。
 今日の経済学ではヴェブレンとポランニーをほとんどまともに扱わないが、これは経済思想の決定的損失であろう。

 だいたいここまでが、19世紀社会を背景とした経済思想のストリームだ。ここから先は時代が企業と企業社会の波及、社会主義国家の台頭、ファシズムの時代、大衆とポピュリズムの氾濫、マネーゲームの流行などに入って、経済思想も大きく様変わりしていく。
 本書はこうしためまぐるしい20世紀経済社会に灯火をともした経済思想として、バーリ、ミーンズ、マーシャル、ケインズ、カーン、ミュルダール、カレツキー、ミーゼス、ランゲ、バローネ、ロビンズ、ハイエク、ジョンソン、ブルンナー、フリードマン、フィリップス、ルーカスなどを次々にあげ、その紹介をさらりと扱っている。
 これでは名前の列挙だけなので、少しだけぼくが補ってごくおおざっぱに流れをまとめておこう。
 第1には、株式会社の動向をめぐる経済思想がある。法学者アドルフ・バーリと経済学者ガーディナー・ミーンズが所有と支配の分離を浮き彫りにした『近代株式会社と私有財産』、ジョセフ・シュンペーターがイノベーションによる創造的破壊を説いた『経済発展の理論』、ロナルド・コースがトランザクション・コスト(取引費用)によって企業出現の起因を証かした『企業・市場・法』、ピーター・ドラッカーがマネジメント・ルールの秘訣を提供した『現代の経営』などに代表される思想だ。
 第2は、景気や恐慌や失業をめぐるもので、ここでは世界恐慌から何を学ぶかという痛烈な反省が生きている。むろんここにはケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』が中央にどっしりかまえている。有効需要や公共投資や失業対策の必要性を説いた“いわゆるケインズ革命”だ。1930年代の大不況の背景にケインズの理論は各国の経済政策の指針となった。
 第3は、ケインズが最初に説いたことであるが、サイコロやルーレットではわからない「不確実性」(uncertainty)をめぐる経済動向に関する思想の試みと、ケインズが嫌ったサイコロやルーレットにもあらわれる不確実性を確率的に展開していく試みとが、両方とも並ぶ。前者のほうにはケネス・アローの「不可能性定理」(一般可能性定理)やガルブレイスの『不確実性の時代』などが連なり、後者のほうは最終的には金融工学にまで流れこむ。
 第4は、貨幣や通貨や国際市場や財政をめぐる経済思想だが、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの『貨幣及び流通手段の理論』をはじめ、市場をもたない社会主義経済の行方を議論するもの、オスカー・ランゲの価格論、インフレ率と失業率のトレードオフ関係を示したフィリップス曲線で有名なA・W・フィリップスの財政論など、いろいろ多種多彩である。
 そして第5が、マネタリズムと自由主義をめぐるもので、ここにフリードリッヒ・ハイエクからミルトン・フリードマンやジェームズ・ブキャナンに及ぶシカゴ学派がいた。
 今夜の文脈で問題になるのは、第5のマネタリズムと自由主義であるのだが、そしてそこにどういうふうに「たまたま」がかかわっていたかということなのだが、それについては次夜以降の担当にする。

【参考情報】
(1)著者の間宮陽介さんは1943年生まれの京都大学教授。『ケインズとハイエク』(中公新書・ちくま学芸文庫)、『モラル・サイエンスとしての経済学』(ミネルヴァ書房)、『同時代論』(岩波書店)、『法人企業と現代資本主義』(岩波書店)などの著書がある。

(2)本書に引かれている経済学の巨人たちによる著書の主なものは次の通り。マンデヴィル『蜂の寓話』(法政大学出版局)、アダム・スミス『国富論』(中央公論社)、スミス『道徳感情論』(筑摩書房)、リカード『経済学および課税の原理』(雄松堂書店)、マイネッケ『世界市民主義と国民国家』(岩波書店)、リスト『経済学の国民的体系』(岩波書店)、メンガー『経済学の方法』(日本経済評論社)、ジェヴォンズ『経済学の理論』(日本経済評論社)、ワルラス『純経済学要論』(岩波書店)、ヴェブレン『有閑階級の理論』(岩波文庫・筑摩書房)、ヴェブレン『企業の理論』(勁草書房)、ポランニー『大転換』(東洋経済新報社)、ミーゼス『ヒューマン・アクション』(春秋社)、バーリ&ミーンズ『近代株式会社と私有財産』(文雅堂)、ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(東洋経済新報社)、ハイエク『隷従への道』(東京創元社)、など。

(3)今夜の「千夜千冊」は“つなぎ”である。偶然の哲学からその背景でうごめく経済思想をまずは眺めたうえで、マネタリズムと自由主義の問題へ、さらにはその行き着く先のリスク経済学、金融工学、リスク社会学などにカーソルを移していくためのクリスマス布石だと思われたい。