ジョージ・ドーチ
デザインの自然学
青土社 1994
ISBN:4791757580
Gyo¨rgy Docze
The Power of Limits 1981
[訳]多木浩二
雪の結晶にもヒマワリの花弁にも、
魚の鱗にも蝶の鱗粉にも、
古代土器にも線香花火にも、
仏像の天衣にもオートバイ・マシンにも、
蜘蛛の巣にも原始部族の入れ墨にも
いくつもの形が出会って動いている。
これを「デイナジー」という。
相補的に抜きあう形のエネルギーのことだ。
ジョージ・ドーチが名付けた。
互いに響きあうパターンは止まっていない。
止まらないからこそ、そこに
目を見張るようなQ極の美ができあがる。
今夜はその「ディナジー」を
脇目にしながら遊びたい。

 子供たちはヒマワリのどでかい中央部に、いったいどうしてあんなふうにタネが並んでいるのかを聞きたがる。子供たちは一匹ずつの魚のウロコがあまりにきれいに並んでいるのはなぜかと聞きたがる。そして子供たちは銀河の写真を見せられて、どうして銀河が渦巻いているのかを聞きたがる。
 いつしか大人たちはそういう問いをしなくなってきた。答えを知っても、それがどのような問いによってそういう答えになっていったかを想像しなくなっている。Q&A、Q→A、Q→Aばかり。ここにはA→Qがない。一つのAから多くのQを作り出す力が欠けている。とりわけ最近の検索社会では、どこにもAばかりが転がっていて、それで世の中が埋められてしまうので、たくさんのQがすっかり思いつかないでいる。

渦巻く銀河
広大な宇宙空間の捩れ

 ぼくはこのところ、あえて「A→Q」に関心を寄せている。新たな「A→Q」を作ろうと思っている。それを周囲にも勧めている。世の中の「結論の充満」に飽きてきたからだ。だからありきたりな結論たちに、新たなQを加えたくなっているわけだ。
 そもそも歴史の基層には、そういう「A→Q」が躍如する。はいはい、歴史はかくかくしかじか、こういうふうになりました。戦国時代に信長が出て、秀吉がそれを攫って、家康になりました。そこへ黒船がやってきて明治維新です。それの連続です。で、どうして? それって、その前はどうだったのか。どうして戦国時代になったのか。その戦国時代の前の足利将軍たちは、どうして北条氏の覇権や南北朝の対立を抜け出たの? で、その前の前は? 武家が出た? ではその前から武家以外に弓や刀を使っていなかったのか。このように歴史を戻していけば、その奥にはいくつもの「?」が成り立つはずなのである。
 そういう「A→Q」を追いつめていくと、そこにはAではなくて「始原のQ」が控えていることになる。スティーブン・ホーキング(192夜)やリサ・ランドールも、その「始原のQ」の上に立つ。

 先だって長岡に行って火焔土器と花火を見てきた。火焔土器のほうは2日にわたってかなりいろいろ見たのだが、1日目の小林達雄(1283夜)さんの絶妙な「縄文姿勢方針」の解説飛礫のなかで見た鶏冠型と王冠型の火焔土器が、ずっと唸りをあげていた。
 夜の9時。スタッフはいささか趣向を凝らして、この大ぶりで格別な2体の土器を別室の座敷の中央にこれみよがしに飾っておいたのである。もとは千石原遺跡と道尻手遺跡の出土品。そこへ未詳倶楽部の参加者が三三五五に入ってきて、約1メートル半ほど離れて左右源平に分かれるように並んで坐って眺めたのである。さすがに正座まではしなかったけれど、1時間半におよぶ小林さんの縄文文化論の話を聞きながら2体の土器をちらちら眺めている時間が、ことのほかよかった。何かがこみあげてくる。

「縄文一万年文化」を語る小林達雄先生

 やがてぼくの合図でみんなが立ち上がって土器に近づき、半分ほどは膝を折り、間近かに土器を見る。小林さんの縄文飛沫がすでに体のあちこちに滲みている。その浴びたばかりのほやほやの「縄文姿勢方針」でじろじろ土器を見る。接写するように目と心をムーブする。そしておそるおそるQをする。そこへこれまた絶妙な小林さんの応答が入る。Aが入るのではなく、応答。小林さんは質問者に聞き返すのだ。Qを立てるのだ。
 実は2体の土器は「二つでひとつ」なのである。縄文人たちはおおむね「二項対比」の観念をもっていて、一つの土器を作ると、その片割れも作る。縄文人も「A→Q」なのだ。こうしていくつかの縄文土器のQが関連しあっていったのだ。飾りおいた二つの鶏冠型と王冠型の火焔土器は、その「二項対比」の最も雄弁な典型だったのである。

左:鶏冠型火焔土器 右:王冠型火焔土器

 火焔土器はいったい何をあらわしているのか。岡本太郎(215夜)このかた、多くの空想がめぐらされてきた。しかし、確たるものは何もない。
 しかし、小林仮説は明快なのである。一体ずつのあらゆる部分がそのままで「?言語」になっている。その文法や語彙はいまだ詳しくは解かれてはいないけれど、縄文土器はすべからく「縄文言語Q」というものになっている。そう、見たほうがいいと結論づけている。土器は土器それ自体でヴィジュアル・リテラシーなのである。「縄文Qの体系」なのである。そう思うべきなのだ。
 また一つの土器は、その土器一つずつが「物語」になっている。「Qという語りもの」になっている。物語の場面のつながりがQ系になっている。一体ずつがぺちゃくちゃと話をしつづけ、別の一体とQを求める会話をしているはずなのだ。
 よく知られるように、縄文土器はほとんどがシンメトリーを破っている。非対称である。とくに火焔土器はすさまじい。まるで捩れきって炎上しているようにも見える。フロンタリティ(正面性)もはっきりしない。なぜ、そうなのか。こう、考えればよろしい。
 これは縄文人が対称とか非対称とか正面性という観念をもってはいないからなのだ。そのかわり、むしろ縄文土器そのものが“縄文称”とでもいうものなのだ。Q対称なのである。対称性ならぬ“縄文称性”なのである。
 2体の火焔土器を前に、そんな愉快な想像が高速でかけめぐっていた。そう、そう、始原は未詳でいいじゃないか。どこかで「おおもとのQ」がつながったとみればいいじゃないか。ぼくは小林さんの言葉と土器の形姿と未詳倶楽部の会員の気持ちがしだいに1万年の時空を飛んで、未詳未萌なままに一緒に溶けていくのを感じて、なんともいえぬ「方法日本」の凱歌を感じていた。

 翌日、火焔土器が最初に発見された馬高遺跡を眺望して(縄文のクニの上に立って)、そのあと全員で新潟県立博物館へ行った。主任研究員宮尾亨さんの詳細な解説付きである。
 その夜、今度は一転して日本一の呼び声が高い長生橋の花火を見た。新潟県は火焔土器の国であって、また有数の花火の国なのである。ただし当夜は雨が降ったりやんだりしていた。それでも河原にはぞくぞくと人が集まっている。翌日の新聞によると20万人以上が押し寄せたらしい。われわれはその河原に面する近藤産業ビルの屋上に陣取った(小林さんの配慮サシガネによるもので、近藤社長は長岡の大立者)。その屋上から見ていると、突然に降る雨で群衆がそのたびに右往左往する。
 いったいなぜ人は花火を見たがるのだろうか。夜空に何を見たいのか。幻想の爆発? イカロスの墜落? 擬似天体のスペクタクル? 軍事なき火薬術の競演? それにしても花火は最初からあんな形だったのだろうか。ひょっとしたら煙りだけだったのではないか。そうだとしたら、花火もまたQ極のQコミニケーションだったはずなのだ。
 かくて開煙。次々に小雨のなかを花火が打ち上げられていくのだが、風と雨雲のせいで、打ち上がった花火を雲が邪魔をする。そのため花火の形姿が少々雲隠れしながら重なっていく。むろん花火の大半は球対称でできているのだが、それが異様な気象のなかで不思議な綴り模様を見せはじめた。それに、花火は打ち上がってしまえば数秒後ははらはらと落ちていく。その消えゆく間際の光跡が十重二十重に重なると、みごとなQ状模様に変わっていく。
 こうして焦らしに焦らしたあげく、長岡が誇る三尺玉が打ち上げられた。これは凄まじい。まさにQ対称。しかも当夜は1発目のときは雨が落ち、2発目のときは雷が鳴った。雷雨になった。体が揺さぶられ、ビルが鳴動した。これ、ばかでかい縄文煙火だったのである。

長岡花火
ビルの屋上より眺める三尺花火の大輪

 今夜の「千夜千冊」はジョージ・ドーチの『デザインの自然学』にした。懐かしい。かつて一世を風靡した一冊だ。戸田ツトムと岡孝治の名コンビによるブックデザインとレイアトがあいかわらず心地よい。
 本書が提案している概念は「ディナージー」(dinergy)である。訳者の多木浩二さんがディナージーと綴ったのでそう書いたが、「ディナジー」とするほうがいいと思うので、以下、ディナジーと表記するけれど、いったいこれは何を意味するかというと、ギリシア語の“dia”(越える・通り抜ける・対比する)と“energy”(エナジー・エネルギー)を合成させた造語で、この言葉にはドーチの深くて編集力に富んだ発想が躍如する。とてもいい用語だ。Q用のコンセプトなのである。
 たとえば布を織る。たとえば籠を編む。ここにはディナジーがある。土器の模様や陶器の文様にもディナジーがある。ポリネシアやアフリカの未開部族の入れ墨の模様は、単純な渦巻きや二重螺旋が互いに出会って捩れあう。ここにもディナジーがある。ディナジーのデザインは隣接する相補性を発見する。そしてQ形を生む。ディナジーとは、互いに相補する曲線動向が生み出したQ的デザインの動向のことなのである。

ポリネシアの螺旋状の入れ墨

DNAの二重螺旋モデル
分子レヴェルで三次元的に接合した二重螺旋

 そのようなディナジーは、自然界にもゴマンと動いている。蓮もヒナギクもヒマワリも一様な同心円などではできていない。いくつかの動向が相補的にQ的ディナジーをつくっている。魚の鱗の模様や蝶の鱗粉の模様にもディナジーがある。そこにはメジャーのオーダーとマイナーのオーダーとが重なり、その中間にあらたなQが去来して、さらに響きあい、ときに捩りあう。

ヒナギクの中心(左)と生成する螺旋の図式(右)

の翅のプロポーション

 ブッダは一輪の蓮の枝を手にしてちょっと捻ってみせた。これって、いわゆる「捻華微笑」(ねんげみしょう)であるけれど、ブッダはディナジーのありうべき相貌を蓮の枝を捻って示したのだ。Qを示したのだ。しかしながら現代人はそういうディナジーにしょっちゅう接していても、一目でそれがどのようになっているかは、読みとれない。火焔土器に溜息をつくばかりであるように、次々にQを見逃していく。

開かれゆく手
五本の指の統合された動きは千弁の蓮華のを描く

 ジョージ・ドーチが本書に列挙し、丹念に図示したディナジーは多種多様にわたっている。
 最初こそ黄金分割やフィボナッチ級数を下敷きにしているが、花弁の形状、リラやカエデの葉っぱの形から、古代の編み籠から壷文様へ、さらにはストーンサークルの比例配分に話がおよんでいくうちに、リズムや振動数の問題に深入りすると、音楽におけるオーバートーン(倍音)・パーシャル(部分音)・ハーモニック(協和音)にも、転調にも手をのばす。最後はなんと、遠州の茶室「忘筌」(ぼうせん)の間取りにあらわれるディナジーである。

の外形線の再構成
日本カエデ(左)とベゴニア(右)

ンゴとナシの芯

音のディナジー
振動する弦の調和的な倍音と黄金分割(左)
フィボナッチ級数に対応する鍵盤のパターン(右)

小堀遠州の茶室「忘筌」の間取りに現れたディナジー

 やや総花的にさえ感じるが、この世にひそむディナジーを「A→Q」をもって強調するには、このくらい列挙したほうがよかったのだろう。ドーチの徹底追求の気持ちはよくわかる。しかしぼくからすると、ディナジーを安売りしないほうがいいようにも思われる。QはQ(急)に立ち上がってくるものなのだ。
 いやいや縄文土器にディナジーの意味を絞ってほしいというのではない。古代の編み籠ならたいていは多様な捻りや捩れのディナジーが響きあっている。これは古代不変のQ編みというものだ。絞り染めだって、まことに微妙な皺ぐあい色ぐあいでありながらも、れっきとしたディナジーの産物なのだ。Q染めなのだ。だいたい糸や紐を縒るということがディナジーなのである。Qなのである。
 しかし縄文ディナジーは、これらのなかでも格別のQなのではあるまいか。これに匹敵するのは甲骨文か、殷周青銅器にあらわになった饕餮たちのQ々文様だ。

青銅器に見る中国のイデオグラム(表意文字)

 では花火はどうかといえば、おおざっぱには球対称に見えていて、実はその細部はおびただしいディナジーでできあがっている。QがQ々に詰まっている。なぜなら、花火の中身は無数の「紙縒り」でできあがっているからだ。まして打ち上がった花火が重なって、さらにはそこに雲がかかれば、煙火の飛び散った跡の残像に複雑多岐のディナジー光跡がQ激にあからさまになる。
 総じてドーチは、ディナジーが「調和」に達している形態だと見たようだ。たしかに調和の美も感じるが、一方そこには不飽和や予測不可能性がQ爆したとも言うべきである。
 エナジーからシナジーへ。シナジーからディナジーへ。いまやぼくはQに及んで究をなし、Qを求めて急になり、Qを興して穹へ行く。いやいや、とてもQな話になりました。

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