才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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セレンディピティの探求

澤泉重一・片井修

角川学芸出版 2007

何かを夢中に探していると、
新たな発見に出会うことがある。
偶然性と察知の能力がどこかで結びつくとき、
新たな創造性が発揮されることもある。
これがセレンディピティである。
察知と偶然が出会った、いわば「偶察力」だ。
ここにはパースの「アブダクション」や
ポランニーの「暗黙知」も動く。
しかし、いまのところセレンディピティの正体は
誰もつきとめてはいない。
編集性の去来から考えてみたらどうなのか。

 セレンディピティについて知ったのは15年ほど前のことだ。ロイストン・ロバーツの『セレンディピティ』(化学同人)という一冊を読んで、歴史上の化学発見の多くがセレンディピティによっていることをレポートされた気分になった。ロバーツはテキサス大学の有機化学の専門研究者だった。
 この本は“Accidental Discoveries in Science”というサブタイトルにあらわれているように、「思いがけない発見」とは何かということを化学の近現代史を通してわんさと例証してみせたものである。化学史としては読みごたえがあったし、化学者というもの、みんなみんな、どこか“タングステンおじさん”(1238夜)なんだねということがよく伝わってきて、いささか微笑ましくもあった。そこにニュートンからプランクまでがまじっている。
 とはいえそれらについての記述は、化学を含めて“理科”にありがちな「偶然による発見」という側面が強調されすぎていて、その発見にひそむ方法を統一的に記述しようとする議論には乏しく、セレンディピティとは何かという点についてはあまり言及されていなかった。
 なかで、セレンディピティという言葉が18世紀ゴシック・ロマンの創始者で、時の首相の息子でもあったホレス・ウォルポールの“発明”によっているというのが、いたく興味深かった。ウォルポールといえば『オトラント城奇譚』の作家として、幻想文学史の最初の金字塔を飾った男なのである。ほう、あのウォルポールがね、という感慨だ。だからぼくはそのくだりを読んでいて、たちまちマイケル・ポランニー(1042夜)の「暗黙知」やチャールズ・パース(1182夜)の「アブダクション」との関連が思いあわさったものだ。だが、それはそのままほったらかしにしておいた。
 そのうち、ウンベルト・エーコ(241夜)がセレンディピティをめぐる本を書いたとか、三菱電機の研究者の誰かがセレンディピティに関心をもって詳しく研究をしているとか、その関心が研究グループとなって広がっているらしいという噂を聞いたりしたが、これまたそのままになっていた。

 セレンディピティのような「見えない関与」や「意外な逢着」に着目するのは、悪くない。編集工学は発想や連想にひそむ「鍵と鍵穴の出会い」をもって、編集的創発性が次々におこりうることを重視するのだが、そこにセレンディップっぽい何かが関与しているということは、十分にありうるからだ。
 それゆえセレンディピティについてはロバーツの本を読んで以来、アタマの隅では気になっていたのだが、ただ、どうにも要領がよくない。説明も方法論的ではない。だから偽科学かオメデタイ思想かトンデモ思考法のたぐいかとも訝かっていた。それが本書に出会ってやっととりあげることにしたのは、ひとつにはやや“おまけ”の気分があるのと、もうひとつには、これはまだ育て方がヘタなのだという思いになったからだった。
 三菱電機の研究者の誰かというのは、本書の著者の一人の澤泉重一だった。実は澤泉にはもう一冊、『偶然からモノを見つけだす能力――セレンディピティの活かし方』(角川oneテーマ21)という著作もあるのだが、こちらは出来が悪く、そのためもあってセレンディピティというのはインチキっぽいのかと思っていたのである。本書も記述があちこちにとんで、一貫した記述になっていないという憾みがあったが、それでもセレンディピティが不確実な社会にとって(不確実であるがゆえに)、きわめて大きな可能的方法であろうという示唆には富んでいた。
 最近では、セレンディピティは潜在能力の開発プログラムにも生かされている。富山大学の関係者によって十数社の企業が参加している研究会もある(会長はマスオカ株式会社の増岡一郎さん)。私も親しい東芝出身の旭岡勝義さんも、そうしたセレンディピティの活用トレーニングの開発に関与した。本書の著者である澤泉さんも、本書や『偶然からモノを見つけだす能力』によると、長らくそうした開発プログラムやトレーニングに携わってきたようだ。
 が、ここまでは、とりあえずの枕の話だ。では、ぼくなりにセレンディピティの外郭を案内しておきたい。

 セレンディピティ(serendipty)というのは、上にも書いたようにホレス・ウォルポールの造語である。しかも『セレンディッポの三人の王子』という寓話から採られた造語だから、語源的な意義はあまりない。
 寓話のほうは、セレンディッポ(セレンディップ)という国のジャイヤ王の3人の王子がドラゴン退治のために旅に出て、目的のドラゴンには出会いもできなかったのだが、その途中、偶然の出来事からひらめいた“もうひとつの能力”で、それよりずっとすばらしい細部に満ちた幸福を次々に発見できたという昔話になっている。これを読んだウォルポールが、人間にはもっとそのような“脇道で出会うような格別な能力”が開発されるべきであるという気持ちから“セレンディッポの王子”の習得力を記念して「セレンディピティ」という用語にしてみせたわけである。
 それがやがて「才能」(faculty)の一種として、OED(オックスフォード英語辞典)にとりあげられ、少しずつ広まった。それでもOEDの定義はまだまだ狭いものだったのであるが、これがしだいに話題になり、やがてロナルド・レノックによって教育に適用され、ロイストン・ロバーツやソロモン・スナイダーによって主として化学的発見の方法研究にあてはめられるようになると、プリンストン大学の社会学者ロバー・マートンや共同研究者のエレノア・バーバラがかなりその意義を拡張した。
 ちなみにセレンディッポはもともとサンスクリット語から出自してもいたので、実はセイロン(Celon)の国名(=シンハラディーパ)でもあるけれど、こちらの国名のネーミングにはウォルポールの言うセレンディピティの意味はとくにない。
 こうしてウォルポールやマートンが暗示と期待をこめたセレンディピティは、洞察力が偶然と結びつき、知的発見がそれを「待ち受けている構え」によって誘導されうる可能性を暗示していたため、ついには科学的発見能力や創造的発見能力の秘密のひとつとしてしだいに脚光を浴びるようになった。
 わかりやすくいえば、要素分析や二分法や還元主義では決して得られない方法が、そこにあるのではないかと想定されるようになったのだ。

 これまでセレンディピティについては「偶然による発見能力」という説明がつきものだった。
 たしかにセレンディピティは偶然を無視しない。アルキメデスが公衆浴場で浮力に気がついたように、ニュートンがウールソープの林でリンゴの落下と月の運動を結びつけたように、偶然がきっかけになって発見や創造のトリガーが引かれた例は少なくない。
 そこでは二つの偶然が重なったかのように見える。けれども、たんなる偶然の出来事や別々の偶然の重なりがセレンディピティをつくるわけではない。セレンディピティはラッキーストライクではないし、二者や他者を介しておこるというものでもない。シンクロニシティ(805夜)とはそこがまったく違っている。だから偶然一般や超偶然とセレンディピティとをむりに関係づけないほうがいい。
 それならセレンディピティのもつ偶然性とは何かというと、「偶然の去来」や「偶然の出入り」が重要なのである。誰にだっていくつもの偶然が多発しているけれど、そのうちの何かと何かの組み合わせが重なって励起したときに、発見や創造に結びつく。そこに、それまで積み重ねて試みられていながらも突破できなかった何かか起爆する。それは決してたんなる偶然の重なりではなくて、すでにスタートを切っていた思索や予想の重なりであって、ぼくがわかりやすくしてしまうなら、「編集的縫合性」とでもいうものの突発であり、「編集的創発」の滲み出しなのである。それがセレンディピティなのだ。
 だからこれは偶発それ自体なのではない。セレンディピティは「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」とがうまく出会ったときにおこっているというべきなのである。
 「やってくる偶然」は自分では律していない。向こうからやってくる。かつてメーテルリンクがさかんに強調したことだ(68夜)。一方、「迎えにいく偶然」には自分の意図や意思がいる。意図や意思の持続がいる。意図をもって偶然を迎えにいかなければならず、それゆえこれはふだんから準備していなければならない。
 その意図や意思には、自分が何を求めているのかということを試行錯誤したプロセスをトレースしておくという努力がともなっている。これが「迎えにいく偶然」だ。このとき、ふいに「やってくる偶然」に出会って、格別のセレンディピティが生じる。これを澤泉は「偶察力」と言ってもいいだろうと書いている。なるほど、この訳語は近い。たしかにセレンディピティには偶察力が動いている。

 偶然性については、これまで多くの思想家が言及しようとしてきた。総じて浅いものが多いけれど、なかにはアンリ・ベルクソン(1212夜)やアーサー・ケストラー(946夜)のように(ケストラーには『偶然の本質』という凄い著作がある)、また九鬼周造(689夜)や大森荘蔵のように、それなりに深い思索に到ろうとしたものもある。
 数学にとっても偶然性は欠かせない。そもそも「偶数」という発想がセレンディップなのである。すべての偶数が二つ以上の「数」に分かれうるということは(6=3×2のように)、いいかえれば偶数が何かと何かの出会いによって生じたともいえたのだ。また生物学においては、ダーウィン進化思想の根底にそもそも「突然変異」というセレンディップな偶然性が宿っていた。それがトリガーになっていた。進化は根本において偶然の賜物なのだ。
 しかしとはいえ、偶然性を突っこんだだけでは、セレンディピティについての議論はなかなか深まらない。空中に消えていく。すぐに忘れてもしまう。だから「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」とのあいだの視点をもう少し動かしたほうがいい。何が動いたほうがいいかといえば、意図や意思に出入りする「察知」が動くべきである。
 実はホレス・ウォルポールはセレンディピティとともに、もうひとつの重要な言葉を提案していた。「サガシティ」(sagacity)だ。
 サガシティは「察知力」のことをいう。ただし、これは造語ではない。ちょっとした英語の辞書ならのっているはずで、ふつうは「賢明さ、明敏、機敏」などと訳されるのだが、そのような訳語になるのは、サガシティを「セイジ」(sage)の派生語としているからで、もともとは感知の能力がいいとか勘がいいというような意味だった。
 サガシティは分析や省察ではない。何かにふいに気がつくことだ。気がついて、自分が立ち向かっている全貌や方向や方法がパッと見えることである。たんに気がつくのではなく、気がつこうとしていた気持ちや意図や気分のヴィークルに乗って、“何か”の一事が万事につながっていくことをいう。また、そうなるにはその一事に着目できるだけの、ソフトアイや周辺観察性が動いていなければならないことをいう。それがサガシティで、だからこそ察知力なのである。

 これで、おおまかなことはつかめたと思う。「偶察力セレンディピティ」と「察知力サガシティ」は、二つでひとつのはたらきをするわけだ。
 それでは、そのはたらきが何をもたらすかといえば、ここがいよいよ核心点に近くなるのだが、ずばり、「アブダクション」をもたらしている。仮説能力が形成されるのだ。
 アブダクションという言葉も“発明品”である。その発明者チャールズ・パースがどのようにアブダクション(=レトロダクション)を提案していたかは、1182夜にかなり詳しく案内しておいたのでそちらを読まれたいが、ごく平たくいえば、アブダクションとは推察・推感をその行く末を見据えて思考のシナリオを先取りできる編集方法のことをいう。仕事をしていたり、何かを企画しているときに、この先取りの編集方法がどのようにはたらくかが重要なのである。
 もう少し説明すれば、こうなろう。

 そもそも予測であれ、ひらめきであれ、シナリオの創造であれ、なんらかの先取りができるためには、自分がいま立っている発想や思索に多少の“ゆるみ”が生じる必要がある。
 これはどんな作業であってもブレイン・インベトリーな作業中のことだろうから、この途中で既存の分析に頼りすぎていたり、勝手知ったる解読に荷重をかけすぎているのでは、自分のブレイン・インベトリーに“ゆるみ”は生じない。そうではなくて、むしろ自分の“いま”に、不足や曖昧やまちがいや過度があることを許容したほうがいいはずだ。
 そうすると、進行中の作業や発想に、それをさらに進めるうえでの発想モデルや思考モデルが自分には“ない”ことに気がつく。これは自分の発想力や企画力や思考力に展望性や可塑性がないということだから、がっかりしてしまうこともある。しかし、がっかりしているのではまずい。なぜなら、自分に発想モデルや思考モデルがないということは、いいかえれば、ここが肝心なのだが、そこに「欠けたモデル」があったことに気がつけばいいということなのだ。
 このとき、この「欠けたモデル」に当たる“何か”が、向こうからやってくるときがある。これが「やってくる偶然」だ。これを「欠けたモデル」をもっている自分が「迎えにいく偶然」の鍵か鍵穴かの片われと出会えたらしいと思えたとき、そこにセレンディピティがおこるわけである。
 それは、まさに仮説形成能力としてのアブダクションの成立でもあった。また、「偶察力セレンディピティ」と「察知力サガシティ」が互いに手をたずさえて、自分が発想や構想を陥穽させる“何か”を先取りしたことでもあった。

偶発的な出会いからつながりが形成される

 本書は澤泉重一とともに、片井修が執筆している。共著ではあるが、執筆は第1部の澤泉とはべつに、片井が第2部を担当した。片井は京都大学機械工学の出身で、いまは京大のシステム科学やファジー工学のキーパーソンになっている。
 その片井は、セレンディピティを「重層性思考」のもとに捉えて、自然と人工との“あいだ”に新たなモデルを見いだそうとしている。機械工学の専門家であるがゆえに、あえて人工システム思考からいったん自分を離して、自然につきあう重層性にセレンディピティの尻尾をつかもうというのだ。
 一般的な工学的なデザインでは、価値工学(バリュー・エンジニアリング)に象徴されるように、全体のデザインコンセプトから要素の機能を割り出していくという、ツリー型の機能分析が用いられることが多い。トップダウン計画なのだ。しかし、これでうまくいくとはかぎらない。とくに自然を相手にする工学では(有機工学や環境工学など)、いくらコンセプトが決まってもトップダウン思考では事態がうんともすんとも進まないことがある。
 ここにボトムアップの必要が出てくる。たんなるボトムアップではなく、あらかじめ要素と要素を関連させていくようなミニ連携モデルを想定し、これをアブダクティブに進めていく必要が出てくるのである。片井は本書では、その例として福岡正信の「自然農法」とビル・モリソンの「パーマカルチャー」をあげている。
 福岡の自然農法は、いったい農業には「耕す」「除草」「農薬」などが必要なのかという根本的な疑問から出発して、多種類の種をまぜた“粘土団子”を土に撒くだけという方法に達した農法をいう。機能を分離してから統合するのではなく、当初に諸要素を関連させたモデル(粘土団子)をつくり、それをもって自然に向かっていくという方法だ。いまや中東の砂漠地帯や南米の自然農法にまで応用されている(1258夜)。片井はここに、重層性としてのセレンディピティを感じた。
 オーストラリアのタスマニアに育った生態学者ビル・モリソンが提唱したパーマカルチャーは、“Permanent”と“Agriculture”をつなげた言葉で、人間生活と農業生活とを持続的につなげていく連動的な社会活動システムのことをいう。そこには農法とライフスタイルとコミュニティと地域通貨とがつながって提案されている。とくに社会・文化・経済・生活のそれぞれが接しあう「接縁効果」(edge effect)を重視して、相互の「相」の重層性に複眼的な機能を見ようとしたものだった。

 プロタゴラスに「双方肯定理論」があった。“both-and theory”として知られる。ふつう、われわれが基本としている論理は矛盾律を前提としていて、任意の命題Aが成立しているときは、その否定命題Bは成立しないというふうになっている。
 これを二項定理(二値論理)というのだが、プロタゴラスは「この水は冷たい」と「この水は温かい」という互いに矛盾する命題の例をあげて、水に入れる手が温かく保たれていたかどうかによって、この両方の命題は成立しうると考えた。まるで詭弁か一休さんの頓知のように聞こえるかもしれないが、そうではない。「水が冷たい」「水が温かい」という二項に、新たにそれらを媒介にしている「手」を加え、思考を三項関係にしてみせたのだ。
 これをぼくならアフォーダンス(1079夜)の介在とも編集的自己の介在ともみなすけれど、「バイオスフィア」や「ディープ・エコロジー」を提唱したアルネ・ネスは、ここには「拡大自己」(extended self)が動いているとも見た。片井もそうみなしている。自然に包まれた思考法がおこっているということなのだ。
 このような二項対立をこえるプロタゴラス的思考には、あきらかに「自分がいまそこに介在している」という思索や発想を拡張する“3番目の方法”が導入されている。そう、見てもいいだろう。ぼくもずっとそうした見方を重視していて、これを長らく「2+1」(ツー・プラスワン)の方法とも名付けてきた。
 ウェブや身のまわりから、任意の2つの情報や知識や出来事を持ってきて、これに新たな「+1」を加え、それまで別々のものだった「2」を新たな「2+1」という様相に変じていくという、その方法をわかりやすくしたものだ。
 これについては、さまざまな試みもした。10年ほど前、「2+1」が学習メソッドに応用できるということに関心を寄せた金子郁容さん(1125夜)の勧めで、慶応幼稚舎などの小学生や中学生の教室授業に適用したことがあった。これを支援指導した佐々木千佳の名インストラクションにもよって、この実験授業はたいへん好評だった。佐々木はその経験をいかして、いまはイシス編集学校の統括(学林局長)にあたってくれている。
 「2+1」学習メソッドは、小学生にさえわかりやすくなっているけれど、実はここにはプロタゴラス的思考を背景にした「三項関係」や「拡大自己」などの重層的思考法のエッセンスも応用されている。さらにやや高度にいうと、そこにはまた、『日本という方法』(NHK出版)に詳しく説明しておいたように、清沢満之(1025夜)の「二項同体」も生きているし、最近になって清水博(1060夜)さんが提唱している「自他非分離的方法」や「思考の二重性」や「相互誘導合致」の思想も生きている。
 そうだとすれば、これはまさしくアブダクションの作用そのものなのである。「2+1」も、セレンディピティやサガシティが思索や編集にはたらくときの、わかりやすい説明なのであろうと思われる。

 セレンディピティは、これからはやっと賑やかに取り沙汰されていくであろう愉快な概念だ。愉快な概念もときどきは必要だ。愉快なものは、柔らかい。この柔らかさや面白さこそ、感知をめぐるときにセレンディピティやサガシティに言及したくなる原因になっていく。
 しかし一方では少々本格的に、セレンディピティを研究すべきでもある。すでに紹介したプロタゴラス、パース、清沢、清水、モリソン、ネスなどともに、マイケル・ポランニーの「暗黙知」や、グレゴリー・ベイトソン(446夜)の「分裂的相補生成」とも関連していってもいいだろうし、九鬼周造(689夜)が「仮説的偶然」を重視して、たとえば「みずから」を目的的必然性とみなし、「おのずから」を因果的必然性とみなしたことも思い出されるべきだろう。はなはだ予言的であったアーサー・ケストラーの『偶然の本質』にも交差するはずである。
 また片井もちょっとだけふれていたが、セレンディピティは大きくは仏教の「縁起」の思想とも交差する可能性がある。縁起とは、互いに触れあい、めくれあがっていく関係の到来なのである。清水博さんはこの点についても、早々と「縁起的共創」という概念を提唱していた。
 ついでながら片井が「物語」や「地域通貨」にも目を向けたことも重要だ。重要な理由は明確だ。物語には「包摂のはたらき」があり、地域通貨には「場に包摂されるはたらき」があるからだ。物語はどんな要素も切り離さないように進むものであり、同様に地域通貨も「場」を特定し「負の利息」をつけることによって、通貨が手元から先方に向かってはたらいていき、「場」に包摂されうるということである。

重層的な場の働き

 いずれにしてもセレンディピティがすこぶる共約編集的な創発性にかかわっているであろうことはあきらかだ。そのためか、最近はコンピュータやウェブ・ネットワークの将来にセレンディピティの創発を期待する見方も高まっている。
 あまり深まった議論にはなっていなかったけれど、デビッド・グリーン(オーストラリア・モナーシュ大学教授)の『セレンディピティ・マシン』(インプレス)はそういう面でのコンピュータ・ネットワークがつくりだした社会を眺めていた。
 そもそもセレンディピティは「複雑性」とかかわりがある。複雑な気候や地震や病気は、きわめて複雑な情報環境に生じたゆらぎやストレスによって、どんなふうにでも変わりうる。そこを感知できるかどうかが、セレンディップな予測科学には必要になるのだが、ところが人間はこの複雑性をじかに扱おうとすると、たいそうてこずってしまう。
 一方、コンピュータはこのような複雑で厖大な情報やデータを扱うにはもってこいである。たんに計算力があるというだけではなくて、どのように情報を扱ったらよいかという命令をデータにとりこんでしまうことができ、そうした問題処理を可能にするシステムを予備的に組むことができる。
 10年ほど前からそうした傾向がとみに開発されてきた。たとえば、情報や知識といったデータを扱うにあたって、そこに「マークアップ」とよばれる命令を含ませ、SGMLやXML¨(そしてウェブのためのHTML)といったマークアップ言語によって、その情報や知識が所属している知的構造を反映させられるようにもなった。
 コンピュータというものは、実装されているプロセッサを高速にさせたり質を向上させることはできない。それがコンピュータ本体の限界であるのだが、そのかわりプロセッサをいくらでもふやすことができる。そうすればさまざまな工夫が可能になっていく。多くのプロセッサが“何か"を共有すればいい。
 このとき、プロセッサ間の相互作用が生み出すものを、システムの全体が反映したい。それこそはまさに創発的セレンディピティの“何か”にあたるものであるはずで、階層的な分類法やツリー型の分類法のまま動かしていると、この相互作用が生み出す“何か”を見失う。
 新型インフルエンザの感染パターンをコンピュータがシミュレーションすることは、ある程度のデータがあれば組み立て可能ではあろう。けれども、それはふつうは食品被害の波及のパターンや森林火災の波及のパターンとは異なっている。しかしながら、システムが複雑性をもつことであらわすものには、どこか共通性があるはずなのだ。その共通性をいかすには、情報や知識を記述する言語に共通性の拡張が可能になるようなしくみをもたせておけばいいわけである。
 かつてはこの共通性を発見するためにセルオートマトンやニューラルネットワークなどで自動探索するようにしていたのだが、よく考えると、そもそもデータの構造どうしに似たものがあるのかもしれないのだから、情報や知識のデータを収納するしくみや取りに行くしくみに「柔らかさ」をもたせておくほうがいい。
 こうして他方では「データマイニング」という方法がさかんに研究開発されるようになった。縒り合わせていく方法だ。これはコンピュータ・ネットワークにおける「編集的縫合性」の第一歩であった。

 「マークアップ」や「データマイニング」は、セレンディップなコンピュータの使い方の可能性をひらいた。いまはどんなデータウェアハウスもこの方法を前提にする。
 しかし、ここにはまだ「知」の本質にひそんでいる編集的創発性のしくみについての準備がまにあっていない。また、かつての人工知能が試みたエキスパートやエージェント、クローラーやスパイダーやウォーカーなどのオンライン検索の方法、ロドニー・ブルックスやトム・レイが開発していた自律ロボットやアーティフィシャル生命の工夫などとの、関連や組み合わせや再開発も放置されている。
 もっと決定的なのは、マークアップ言語やデータマイニング手法が言語学や文化人類学と深く交差して、いったい情報や知識というものがどんな「意味の構造」や「文脈の連鎖」をとるのかということを、コンピュータがみずからの場所をくりぬいて試そうとしていないことである。
 コンピュータがセレンディピティ・マシンとしての可能性をさらに発揮するには、まだかなり時間がかかるであろう。多くの異分野の研究者がまずは「アブダクティブ・システム」とでもいうべきもののプロトタイプづくりに向かったほうがいいだろうと、ぼくはかなり前からそう感じてきたのだが、なかなかそういう協調研究は始まっていないようだ。
 他方、コンピュータの驚くべき性能は金融やマーケティングのために著しく発達してきたために、「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」との出会いを、市場的売上げによってしか実証できないようにしすぎてしまった。定性的セレンディピティの発見が遠のいてしまったのだ。今後は、こちらのほうにも転換をおこさなくてはならないだろう。
 ニンゲンの満足や納得は、とうてい定量的ではありえないし、前もって決定されるものではありえないのだ。