才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ネルーダ回想録

わが生涯の告白

パブロ・ネルーダ

三笠書房 1977

Pablo Neruda
Confieso Que He Vivido 1974
[訳]本川誠二

「チリの森を知らない者は、この惑星を知らない」。
そう書いたパブロ・ネルーダ。20世紀を代表する詩人。
世界旅行する政治家で、陽気なアナキストだった。
しかし、アジェンデがチリ人民連合政府の大統領になり、
ネルーダがフランス大使に任命された直後に、
その生涯に新たな刻印が加わった。
サンティアゴに雨が降り、
世界がそのまま暗がりになってしまったのだ。
1973年、アジェンデもネルーダも死んだ。
北アメリカ帝国主義の文明の暴挙に
生涯にわたって対決しつづけたネルーダを、
今夜は静かに思い出したい。

 1973年9月23日、パブロ・ネルーダの死を新聞が報じた当日、ガルシア・マルケス(765夜)がネルーダについて語った一連の思い出話が残っている。田村さと子が翻訳編集をした『ネルーダ詩集』(思潮社の海外詩文庫)で読める。
 マルケスは、ネルーダは「一種のミダス王だった」と言っている。さわるものすべてが詩に変わっていく。世界中のあらゆる言語をまとめても、ネルーダの詩よりも少なめだろうというのだ。なるほどミダス王だったかもしれない。実際にも世界中を詩人として、また領事として動いていた。またマルケスは、ネルーダを「本当の天職は法王だろう」とも揶揄していた。えっ、法王? その比喩的な意味についてはマルケスの説明がなかったが、見るからに法王のような面貌をしていたらしい。実はたいそう朗らかだったようだ。
 ぼくはネルーダについては、詩を読む前に本書の回想録のほうで知った。すでに『チリの悲劇』(柘植書房)などでアジェンデの悲劇の顛末を見ていたので、その最も近くにいた詩人の生涯が気になったのだ。もうひとつ、ネルーダを気にしてきたのは、ガルシア・ロルカとの関係だ。二人はブエノスアイレスで知り合い、マドリードで親友となるのだが、すぐにロルカは暗殺され、ネルーダはチリ反戦運動の騎士になっていった。
 以来、ネルーダをぼくは何度か思い出している。その思い出し方はいつも唐突だ。多重の抽斗のなかの書きこみをした茶色の写真のようなのだ。

 京都には子供を遊ばせる地蔵盆というものがあって、夏休みが終盤にさしかかるころ、町内をあげていろいろな行事をたのしむ。小学校4年のときに引っ越した高倉押小路の柊町という町内では、毎年、屋外映画上映があった。
 スクリーンに見立てた白い布が風にゆらゆらしているのを、30人か40人ほどが茣蓙(ござ)に座布団をもちこみ、団扇で蚊を追いながら肩を寄せあって、その年の幹事役のお兄さんだかおじさんだかが選んだモノクロ記録映画を見る。そのうちの3本の映画をとてもよく憶えている。
 エスキモー(イヌイット)の一家族の驚くほど工夫に満ちた生活記録。ブラジルの密林生活をおくる勇敢な少年の話。北海道のどこかで馬喰(ばくろう)の家に育ったわんぱく兄妹の、泥にはぜるようなドキュメンタリー。5~6年のあいだに見た3本だったろうが、いずれもそのまま強烈な画像となって、しばらく心を掴まえて離さなかった。幼な心にくいこんだ鷹の爪のような映画だったのだ。
 そんなぼくの少年時代も、白い布にゆらめいていた少年少女たちも、いまや半世紀前の思い出で、ずいぶん遠いものになっている。ところが、これまた早くも30年ほど前のことになるのだが、ネルーダの回想録を読んだとき、このときのブラジルの少年の映画をふいに思い出したことを、さっき本書を久々に開いたときに思い出した。二重、三重の抽斗の箱があいたのだ。そういうことって、あるものだ。

 パブロ・ネルーダはブラジルではなくて、チリの密林近くの寒村で育った。ブラジルの密林とチリの密林がどのようにちがうのか知らないが、ネルーダは幼年時代の思い出について、「唯一の忘れがたい人物が雨だった」というふうに書いている。
 ネルーダが育ったアラウカニアという地域には、恐ろしいほどの雨が降るらしい。甲骨文字にするならさしずめ「雨・雨・雨」を3つ重ねるしかないほどなのだろう。森は雨、国は雨、人も雨、友達も雨なのである。
 ネルーダは葡萄やアロモや林檎の木がいっぱいのバルラムという村で、1904年に生まれ、300年前に開拓者が開いた騒々しいテムコという州町で育った。当時のこうした寒村の例に洩れず、おじいさんはたくさんの子を生み、少年ネルーダにとっては数ある叔父さんたちの名前がみんな“異国の王子”の名前のように聞こえた。父親はホセ・デル・カルメン、港の労働者で半生をおくり、最後は鉄道員として砂利列車を動かしていた。母親はネルーダが1歳のときに死んで、継母がすぐにやってきた。
 そのころ、ほとんどの家は「野営地のようだった」と、ネルーダは回想している。家中に樽や仕事用具や馬具が散らかっていて、家々はまるで勝手に他人の家と行き来しているようなのだ。傘も机も貧弱なお菓子ですら、その野営地では共用物だった。ぼくが少年時代に見たエスキモーやブラジルや北海道の家々もそんなふうだった。そういうなかでは、継母は汗水惜しまずいつも動きまわるから、ネルーダは寂しくなんかはなかったらしい。
 それよりなにより、少年にとっては見るもの、聞くもの、知るものすべてがファンタジーで、活気に溢れ、物語の主人公たちだったのである。そして、それを森と雨とが平気で呑みこんでくれているように見えるのだ。ネルーダを有名にした「チリの森を知らない者は、この惑星を知らない」という言いっぷりも、こういう密林からのメッセージであることを想うと、打ちのめされるように納得できる。
 そして、「あの奥地、あのぬかるみ、あの静寂から、私は歩きまわり、世界のために歌をうたいに出てきた」と、ネルーダがその行動の開始を高らかに宣言していることにも――。

 本書はわれわれが置き忘れてきたことを喚起させるにふさわしい、すばらしい回想録である。ぼくはこの手のものが大好きなのでずいぶんいろんな人物の回想録や自伝を読んではきたが、いまなおそれらのうちのベスト3に入るのではないかと思えるほどの、躍動と悲哀と、共感と挫折と、稠密と放埒の言葉が、順々に編み上げられている。だからなるべくそのニュアンスを伝えたいけれど、その中身の半径がべらぼうに広すぎて、また密度がとっぷり濃厚すぎて、とてもそういうわけにはいかない。詩人ならではの言葉もふんだんに織りこんである。
 だから思い切ってスキップして紹介するが、すべてが雨だった少年期をおえて青年になりつつあったネルーダは、さて、ブリキのトランク一丁を持って首都サンティアゴに出て、表向きは大学受験の準備に入ったのである。表向きというのは、その内側では読書と詩と夢想がミツバチのようにぶんぶん唸っていたからだ。
 下宿生活をしながら学生詩人としての日々が始まった。けれどもその日々はアラウカニアの少年期とちがって「聾唖者のようだった」らしい。街路は敵意によって造作され、下宿屋の大家は神秘家で、サンティアゴも付近の町も「ガスと珈琲の匂い」と「貧乏所帯と南京虫」で埋まっていて、いつもきちっと黒い服を着つづけていたネルーダを暗殺者のように襲ってきた。
 むろん、青年におこるべくして起因することは、すべておこった。青年ネルーダは、若い夫を奔馬性結核で失った未亡人から洗濯屋の奥の部屋で「雪の果実のような肌」を見せられると、そのままたまらず「早熟な衰弱」に墜ちこんでいったのだ。「愛もこれほど多量になれば栄養不良と調和しない」。青年の栄養不良は、こうして「ますます劇的になっていった」。

 それでも学生連盟の機関誌「クラリダド」にかかわると、ネルーダはその販売員となって動きはじめる。一つの事件が、ネルーダの心の奥に潜んでいた何かを動かしたのだ。チリの詩壇の若い希望ドミンゴ・ゴメス・ロハスが独房で拷問され、発狂して死んだというニュースがかけめぐったのだ。
 学生たちは怒りをもちはじめた。「クラリダド」の事務所にはアナキストにつながる学生反乱者が出入りするようになった。なかでファン・ガンドゥルフォは疑いもなくその指導者で、その大胆な政治感覚と勇敢な行動力が青年たちを奮い立たせた。19歳のネルーダの最初の本『たそがれ集』の表紙は、そのファン・ガンドゥルフォが手づから彫った版画で飾られている。
 ネルーダの最初の親友はアルベルト・ロハス・ヒメネスだった。「クラリダド」を一緒に編集するようになった。ヒメネスは根っからのボヘミアンで、「永遠の向こう見ず」だった。文字の書きっぷり、タバコの吸い方、喋り方、そっぽの向き方、みんながヒメネスの影響下に入った。ぼくにもそれに似た体験がある。ぼくの場合は、いまは東京大学出版会にいる門倉弘の万年筆の持ち方とそのカリグラフィに感染したことがある。ほろ苦い早稲田時代の思い出だ。
 詩人の友人は痩せこけたアルベルト・バルディビアだった。繊細な感情甘い蜜を言葉にできた。しかし、こういう連中のほとんどは夭折するか、殺されるか、行方不明になっていった。それにネルーダの気質はかれらとはだいぶん異なっていた。マルケスが言うには法王のように朗らかだったということだが、それより、詩人としての確信がちがっていたと言ったほうがいいだろう。すでに『たそがれ集』において、ネルーダはこのように宣言していたのだ。「詩に最もよく似ているのは、バンや陶器の皿や木材のようなものなのだ」。

1922年、アルベルト・ロハス・ヒメネス(右)とネルーダ(左)

 以前に読んだときもわからなかったのだが、今度読んでも突き止められなかったのは、ネルーダがどうしてあんなに多くの各地の領事を務めたのかということだ。そもそもどうして若くして領事に任命されたのかが、わからない。
 ネルーダは23歳のとき、突如としてラングーン(ビルマ=ミャンマー)の駐在領事に任命されるのである。チリは明治維新だったのだろうか。友人が外務省の局長に紹介したところ、その局長がネルーダの詩集を読んでいて、「あなたはチャイコフスキーがお好きですか」と言ってしばし芸術談義をしたあと、大臣に会わせましょうと言って大理石の階段を先に昇っていったのだ。するとなんと、外務大臣は当然のごとくに「領事部門はどこが空いているかね」と側近に聞くと、ラングーンの席が空いていた。こうしてネルーダはあっさり「おとぎ話の東洋の国の町の領事」になることになったのだ。
 と、いうふうにしか説明していないので、これではなぜネルーダがこのあとその生涯を決定づける政治詩人になっていったのか、あれほど世界中を転々とまわるようになったのか、さっぱりわからない。1920年代のチリとは、そういうふうに政治事態も人事事態もふわふわと動いていたのだろうと思うしかない。あるいはネルーダという人格に、そのように“人をして人にしてしまう決定の婉曲”が漂っていたのかもしれない。
 何はともあれ、1927年の6月のある日、ネルーダはブエノスアイレスからバーデン号の乗客となって、世界を半分まわってラングーンに着任することになるのである。その道中が回想録には克明に綴られている。
 最初はリスボンで、次にマドリード、さらにパリと渡るのだが、ネルーダはまるで船乗りなら誰もがそうするように、その異国の町の女と快楽を貪った。けれども、マルセイユからシンガポールに向かうようになってからは、ネルーダの近代的浪漫主義は女から「文明の落差」のほうに彷徨するようになる。次に上海、次は横浜。横浜ではネルーダはチリ総領事から、天皇がまたとない立派な人物であることをとくとくと聞かされた。それで日本の思い出がいっぱいになるほどに。

 それから32歳になるまでの記録は、異国情緒の分析に富んだものではあるが、今夜はとばしてもいいだろう。1928年がコロンボ領事、1930年がバタヴィア(ジャワ)領事、ここで結婚して、1931年にシンガポール領事、いったんチリに戻って(チリ領事として)、『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』や、東洋で書き綴っていた『地上の住み家』を出版すると、ブエノスアイレスでロルカと出会った。

1933年、ロルカ(右より二番目)を取り囲み
なごやかに談話する一行(右にネルーダ)

 これが決定的だった。ついで1935年にマドリード領事となり、その翌年の1936年の7月にスペイン内線が勃発し、32歳のネルーダはロルカの惨殺をごく身近で体験してしまうのである。最初にも書いたように、ロルカとネルーダの出会いはネルーダを変えた。
 ところでぼくは、フェデリコ・ガルシア・ロルカについてはいまだ書けないままにいる。谷川雁が「私はロルカを読まない」と書いたことがひっかかっているということもあるが、それよりスペイン内戦の「持ち重り」が大きすぎるのだ。ぼくが翻訳出版に踏み切った『ホロン革命』(工作舎)のアーサー・ケストラー(946夜)だってスペイン内戦の衝撃的分析からスタートしたのであるし、ピカソのゲルニカやヘミングウェイ(1166夜)を持ち出すまでもなく、このスペイン内戦をめぐる諸事情は現代のわれわれに手渡されたままになっている最大の宿題のひとつであることは言うまでもないのだけれど、ロルカはあまりにもスペイン内戦の暗喩になりすぎていた。
 だから、それを石を砕くように書けるには、ぼくにはよほどの蛮力が必要なのだ。そんなこともあって、ぼくのロルカとスペイン内戦がもたらす「持ち重り」(この言葉は石牟礼道子さん=985夜の言葉)は、いまなおいっこうに晴れないままにある。
 しかし、ネルーダにとってのロルカは決定的だった。二人はブエノスアイレスで最初に出会い、すぐに二人でルベン・ダリオに捧げる詩的演説をやってのけている。ダリオはラテンアメリカ文学最大のモデルニストだった。1916年にニカラグアで悲惨な死を遂げたけれど、その北アメリカ文明の総体に対峙した「イスパノアメリカの魂」は、ロルカにもネルーダにも、むろんボルヘス(552夜)にもガルシア・マルケスにも継承されている。
 そういうふうにルベン・ダリオの賛辞をもってたちまち精神的共約関係に入ったロルカとネルーダの、その片方のロルカがスペイン内戦の最初の、最も悲劇的で、しかも最も有名な犠牲者になったことが、ネルーダの生き方を変えないはずはなかったのである。

 スペイン内戦の勃発とロルカの死とともに、ネルーダは作品と執筆の方角を「文明の暴挙」に向けていった。『心のなかのスペイン』はその転換の一書である。
 ネルーダはこれをパリで自分の手をもって活字を拾って刊行しようとするのだが、ネルーダをそのような気にさせたのは、誰あろうナンシー・キュナード(794夜)だった。キュナードについてはすでに詳しく千夜千冊しておいたのでここにはふれないが、キュナードもスペイン内戦をもって闘いの狼煙を上げ、さらに南米に恋をしたアメリカ屈指の富豪(海運王)の娘で、北アメリカきっての反アメリカ人だった。
 そのころ、ネルーダは共産党の準党員のようになっていた。友人や詩人たちも似たような反戦活動家になっていた。詩人のレオン・フェリペはFAI(イベリア・アナキスト連盟)のプロパガンディストとなり、やはり詩人のラファエル・アルベルティは何度でも死ぬ決意をしていた。ネルーダも覚悟した。「詩人は民衆を恐れてはいけない」ということを――。
 こうしてチリにも人民戦線ができ、臨時のチリ人民戦線政府も生まれた。ネルーダはパリの代理公使としてヨーロッパの人民戦線と活動をともにしつつ、人間の意識というものが戦争と反革命によっていくらでも汚濁され、変質し、反転し、波濤から脱出しようとしてのたうちまわるのだということを、知る。時代はヒトラーとムッソリーニとフランコの時代になっていた。ネルーダは次のように綴った。
 「最初の弾丸がスペインのギターを貫通し、これらのギターから音のかわりに血のしぶきがほとばしったとき、私の詩は人間の苦悩の通りの真ん中に立ち止まり、血と根の流れが私の詩のなかを上り始める。そのときから、私の道はすべての人の道になる」。

読書中のネルーダ

 戦争が終わった。ネルーダは41歳である。さっそくチリ共産党に正式に入党すると、たちまちタラパカ州立とアントファガスタ州から共和国上院議員に推されて立候補することになり、そのまま選出された。
 ネルーダの議会での演説はうまかったし、しだいに激越にもなって、大いに人気を得ていたようだ。『ネルーダ詩集』を訳した田村さと子によると、そもそもネルーダの詩がスペイン語の独自の用法によって書かれているらしい。ガブリエル・ゴンザレスが非合法政府のチリ大統領に立候補するときには、全国宣伝部長に任命された。このとき、法律上の名もパブロ・ネルーダとなった。本名はネフタリ・リカルド・レイエス・バソアルトだったのである。
 しかし、戦後のネルーダの活動はチリ戦後史と現代史がわからないと、よくは理解できないかもしれない。もっといえば世界の共産主義運動やチリ共産党の活動史が見えてこないと、何もわからない。ゴンザレスも書記長のリカルド・フォンセカも、むろんネルーダも、すべて非合法の地下政治活動家だったのである。当然、活動家たち、すなわち反体制革命家たちは、いつでも時の権力の迫害から脱出したり逃亡できるようにしていなければならなかった。ネルーダもゴンザレスの指示のもと、サンティアゴからアンデス山脈を越えて1000キロほど離れたところに身を隠していた。
 そうした政治活動や亡命活動のなかでも、ネルーダは次々に重大な詩集や執筆を続けた。『愛・アメリカ』『マニュ・ピチュ山頂』『解放者たち』『天上の詩人たち』『樵夫めざめよ』などなど。政治と文学は分かちがたく、その分かちがたさこそはチリの森であり、チリの雨だったのだ。
 ちなみにここでいう「アメリカ」とは、いうまでもないだろうけれど、むろん南米のこと、南米だけのことである。ラテンアメリカにとっては、アメリカとは南米大陸のすべてであって、アメリカ合衆国はたんなる「北アメリカ」なのだ。長詩『樵夫めざめよ』の冒頭には、こんなふうにある(田村さと子訳)。

  アメリカ合衆国よ
  もしもおまえが追随者に武器をもたせて
  汚れない国境を破壊し シカゴの牛殺しを連れてきて
  おれたちの愛する音楽と秩序を 支配しようとするならば
  おれたちは石から 空気から飛び出して おまえに噛みついてやる
  後部の窓から飛び出して おまえに火を放ってやる
  最も深い波から飛び出して おまえを刺で突き刺してやる

 さて、首に賞金をかけられていた逃亡中のネルーダは、やがてアンデス山中の材木置場のアジトからヨーロッパに脱出した。1948年のことだ。パスポートの調達はポール・エリュアールやナンシー・キュナードの恋人だったルイ・アラゴンが扶けてくれた。二人ともフランス共産党員である。
 こうしてパリに潜伏していたネルーダを、こっそり多くの詩人や革命家や嘘つきたちが訪れた。なかに長老詩人のイリヤ・エレンブルクもいて(のちにネルーダの詩集のロシア語訳を試みる)、ネルーダに「君の詩には根っこがありすぎる」と叱った。これで、わかった。自分にはまさに多くの根っこがはえていた。それこそが詩人パブロ・ネルーダだったのである。チリの密林の雨がつくりあげた“多根詩人”だったのだ。そもそもがリゾームだったのである。
 そのうちネルーダはソ連政府からプーシキン百年祭の名義で招待をうけた。プーシキンはもとより、そのころのソ連で最大の抵抗詩人であったパステルナークやマヤコフスキーにもネルーダは敬意をもっていたので、よろこんでナポレオンやヒトラーが攻めこもうとして諦めたロシアを訪れた。
 そこで発見したのは、ロシアの大地にも多根があるということだった。「私はソヴェートの大地が好きになった。私の理解では、この大地から出て来るのは、人間生活のあらゆる隅々に及ぶ精神的教訓や、可能性の比較や、生産と分配のいやます前進だ」と、感想をのべている。ソヴェートに癒しがたい教条主義や、のちにスターリニズムと呼ばれる度し難い赤色官僚主義があることは、すでにネルーダは察知していたのだが、そのうえでロシアの大地から生まれ出ずるものへの共感をもったのだ。
 1950年になると、今度はインドをある使命を託されて訪れ、さらに革命後の中国を2度訪れるのだが、そこでもネルーダはそれぞれの大地がアンデスの大地と同様のリゾームによって張り巡らされていることを実感している。こんなふうに4つの大地をほぼ同時に実感した詩人もめずらしい(ヨーロッパにはそういう大地性は感じなかったようだ)。
 インドに行く使命とは何だったかというに、原子物理学者のジョリオ・キュリーによる密命だった。インドの反戦平和活動を強化する可能性を、現地で自分の目で測定してきてほしいというものだ。キュリーは当時、反戦戦士の世界議長のような役割を担っていた。ネルーダはキュリーから託された2通の手紙を鞄に入れて、ボンベイに降り立った。そして核物理研究所のバエラ所長と、ネルー首相に面会し、核戦争がこの地に絡みつくのかどうかを測定した。この詩人には異郷・異質・異能を察知する能力があったにちがいない。

 世界中を領事として密使として、また文芸賞の受賞者として飛びまわるネルーダも、世界の強欲と不安定と暴力に対する心配を一手に引き受けようとしているネルーダも、あるいはチリに新しい生命の息吹に満ちた社会を到来させようとしているネルーダも、もちろんのこと詩人ネルーダも、まったく同一人物である。
 おそらくこんな詩人は、もはや今日の社会に一人もいなくなったろう。いや、このあとのネルーダの晩年に向かっての日々を経験する詩人となると、もはや今後もとうてい出てこないような気がする(もしも今後の可能性があるとしたら、きっとイスラム圏か朝鮮半島や東南アジアからだろうと思う)。
 どんな経験だったかというと、ネルーダはいったん逮捕追求が解除され、それまでの数年にわたった亡命の日々に終止符を打つのだが、そして反戦平和詩人としての名声をほしいままにするのだけれど、1957年4月、突如としてブエノスアイレスでアルゼンチン秘密警察によって逮捕されてしまうのだ。このときは友人や知識人や国際世論が動いて、数日で釈放になるものの、このときすでに何かの影がネルーダのそばにやってきていた。この影の経験が、今日の資本主義社会では個性にかぶさってこなくなっている。だから、そんな経験をしそうな詩人は少なくなったのだ。
 もっとも、その影が映画『第三の男』(844夜)で旧都の壁に映し出された巨影のようにネルーダに忍びよってくるのには、まだ時間がある。本書もその危難が迫る事態に話が及ぶまでをノート11「詩は職業である」と名付けて、自分が気になる詩人たちのことを綴って、いっときの間奏曲にしている。ソ連のイリヤ・エレンブルグ、フランスのポール・エリュアール、ピエール・ルヴェルディ、ポーランドのイェジ・ボレジハ、ハンガリーのショムヨ・ゲオルヂ、イタリアのサルヴァトーレ・クアジーモド、ペルーのセサル・バジェホ、チリのビセンテ・ウィドブロやフアン・エガニュなど、ネルーダがこの詩人と見込んだ者たちが次々に俎上にのぼってくる。
 その綺羅星の詩人たちをひっくるめて、ネルーダはすかさず「私は独創性を信じない。それは、目もくらむ断崖のようなわれわれの時代につくりだされた、もうひとつの物神だ」と釘をさしていた。さもあろう。「オリジナリティなんて認めない」という、このネルーダの価値観こそは、そもそもぼくをネルーダを大好きにさせたものだった。
 しかし、そうした詩人たちと交感していればいいような佳き日々は、やがて終わっていく。1969年の9月のことであるが、共産党中央委員会はこともあろうに65歳になるネルーダを共和国大統領に指名した。ネルーダはいったんはその気になるのだが、すぐにこの申し出を断り、代わってサルバドル・アジェンデを大統領に推した。推しただけではなく、ネルーダはアジェンデが大統領になってくれるなら何ものをも恐れないと決めていた。やっぱり、こんな詩人は資本主義国からは出てこない。

共闘するアジェンデとネルーダ

 それでは、ネルーダに忍びよってきた巨影について、最後にかいつまみたい。大統領アジェンデがCIAの策謀のなかで殺され、ネルーダがその数日後に死んでいくという幕切れだ。
 その最後の場面だけは『世界と日本のまちがい』(春秋社)にもふれておいたが(そこにネルーダもちらりと登場させておいたが)、なぜアジェンデが暗殺され、その間近の側近にネルーダがいたのか、その前段の流れを書いてはおかなかった。それを見るには、チリの戦後政治史の概略をごく少々ながら知る必要がある。

 1946年に成立した政府は急進党・共産党・自由党の連合政権によっていた。そのなかで急速に力をもってきたのは共産党で、そのためこの連合からはまず自由党が抜け出て、代わってアメリカ合衆国の圧力による共産党追跡が始まった。つづく1948年、共産党は非合法化され(この前後から上記にのべたネルーダの亡命が始まっていた)、4年後にはかつての独裁者カルロス・イバーニェスが大統領になった。
 が、経済は一気に停滞し、1955年のインフレ率は85パーセントに達した。イバーニェスはそれまでの公約を無謀にも破棄すると、アメリカ合衆国の経済使節団(クライン・ザック)を招き入れ、その筋書き通りの緊縮財政をしき、それに反対する運動をことごとく弾圧した。しかし政治は分極化に向かい、こうして1958年の大統領選挙に保守派のホルヘ・アレクサンドリ、キリスト教民主党(PDC)のエドワルド・フレイ、そして左派連合のアジェンデの3人が立候補して鎬を削ることになったのだが、アレクサンドリが僅差でアジェンデを破って当選した。
 ところが議会選挙で保守派は第一党を占められず、中道右派の急進党との連合政権とならざるをえなかった(どこかの国とにているよね)。
 1964年の大統領選挙もさらに進んだ分極化のなかでおこなわれた。ふたたびアジェンデを推した左派連合の勢力は強くなっていたにもかかわらず、これに極度の危機感をもったアメリカは、もはや保守勢力のなか統合はむずかしいと見て、チリを“第二のキューバ”とさせないためにはやむなくフレイを当選させるしかないと踏んで、CIAを介してキリスト教民主党に資金を流したのである。

自身のポスターのもとで支持をよびかけるフレイ

 フレイは当選した。こうしてしばらくはフレイ政権による“自由化”が進捗するのだが、1969年の議会選挙ではPDCの人気は幻想にすぎなかったことがあきらかになった。同年10月、ロベルト・ビアウ将軍は大統領宮殿に武装部隊を動かし、またまたアレクサンドリを担ぎ出す示威行動を見せた。けれども1970年9月の大統領選はふたをあけてみると、ついにアジェンデの勝利になったのである。このとき、ネルーダも大統領候補に上っていたのだが、先にも書いたように、ネルーダ自身がアジェンデの3度目の出馬を強力に支えたのだった。

 

1964年、アジェンデを支持する市民たち
ネルーダはアジェンデの活動を支え続けた

 アジェンデの当選はギリギリのものだった。すでにアメリカ多国籍企業のITTがアジェンデ阻止を画策していたし、ニクソンがCIAを派遣してクーデターを工作しようともしていた。血腥い事件も頻繁におこりはじめていた。
 人民連合政府を組んだアジェンデは、チリ史上最も少数派の大統領だったのである。それでもアジェンデは基幹産業の国有化に着手する一方、労働者大衆の所得引き上げ政策にとりくんだ。政府支出を大幅に拡大し、失業を抑え、なんとか国民の所得を引き上げて有効需要を引き出そうとした。遊休産業設備が動きだし、通貨エスタードの為替レートも固定した。その効果もあって、1971年の地方選挙では人民連合政府は48・6パーセントの得票を確保した。
 しかしながら、この社会主義政権はしょせん寄合い所帯でもあった。基盤は脆弱だったし、仮に政権が続いても、北アメリカがこんな進展を望むはずはなかった。そこへ極左と極右のテロがおこりはじめると、反政府運動の気運が動きはじめてきた。アジェンデと政府幹部は(そしてネルーダも)必死に演説や弁論を展開して、この事態を打開しようとしたが、1972年6月、深刻な経済危機が露呈してくると、ついに人民連合政府のなかにも亀裂が生じた。PDCとの妥協をはかる一派と、純粋社会主義派の対立である。

 

1972年、国連で記者会見するアジェンデ大統領

 こうなると、事態はとまらない。9月の物価は99パーセント跳ね上がり、インフレ調整のための賃金上昇は逆にインフレの火に油を注ぐことになった。
 10月にはストライキが各地におこった。やむなくアジェンデは軍人を内閣に引き入れることにして、頼みのカルロス・プラッツ将軍を内相にした。しかし、あけて1973年3月の議会選挙の結果は惨憺たるものとなった。それでもアジェンデは、そしてネルーダは、この事態の向こうに光がさしてくると思っていた。全国学校統一制度(EUN)を導入したのもそのためだった。
 だが、手遅れだったのである。6月にはサンティアゴ駐屯地の機甲部隊が反乱をおこした。これはプラッツ将軍の果敢な行動でことなきをえたものの、これでアジェンデの前に巨影がはだかったのだ。国家安全保障内閣を組閣してみたのが最後の砦であった。プラッツ将軍は降ろされ、ピノチェト将軍が君臨した。アジェンデは最後の国民投票を敢行しようとしたのだが、ピノチェトはその投票日にクーデターをぶつけた。

 9月11日早朝、ピノチェトはアジェンデ政権を打倒する攻撃指令を出した。9時半、アジェンデは最後の悲壮な決意をラジオを通して国民に告げた。それからまもなくホーカー空軍爆撃機の連隊がモネダ宮を襲った。自動小銃によって対抗するアジェンデとその側近は苦もなく掃射され、ここに人民連合政府は崩壊した。

1973年9月11日、大統領府に突入する兵士たち

 このとき、ラジオのアナウンサーが「サンティアゴには雨が降っています」という絶叫をしたことが、その後も語りつがれている。のちにアストル・ピアソラの悲しい音楽を添えて『サンチャゴに雨が降る』(エルヴィオ・ソトー監督)として映画化されたことも、記憶に新しい。

映画『サンチャゴに雨が降る』
監督はチリからフランスに亡命したエルヴィオ・ソトー

 ネルーダはどうしたか。ネルーダはアジェンデが暗殺された3日後まで、この『回想録』を書きつづけて、そしてその10日後の9月23日に前立腺癌で死んだ。その回想録の最後には、「アジェンデは銅を国有化しようとしたために暗殺された」「軍人たちが猟犬隊の役を演じた」「アジェンデを殺したのは北アメリカの会社だった」と書いてある。
 いまでは、だいたいの真相はわかっている。チリの民主革命を破壊したのは、シカゴ大学のミルトン・フリードマンの新自由主義の薫陶をうけたシカゴ・ボーイズとよばれたマネタリストたちのシナリオだったのだ。新たな大統領になったピノチェトがこの路線をおおっぴらに引き継いだのは言うまでもないが、そこにはサルバドル・アジェンデもパブロ・ネルーダも、もういなかった。ネルーダの『わたしはここにとどまる』は、こんなふうに始まっている。

  わたしは望まない
  分断された祖国も 七つのナイフでめった突きにされた祖国も
  あたらしく建てられた家のうえに
  チリの光が 高くかがやいてほしい
  わたしのふるさとの地に みんな入りきれるのだから (田村さと子訳)

サンティアゴの街並