才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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法華経

梵漢和対照・現代語訳

岩波書店 2008

[訳]植木雅俊

法華経を読むと、いつも興奮する。
その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。
こういう経典がしだいに人を変えるのだということも、
何度も実感され、ぼくの脇腹にも刻印されてきた。
それなのに、仏典編集の快挙が
現代から忘却されていることに暗澹ともする。
法華経はいま、社会の前面には躍り出ていない。
にもかかわらず、なぜ法華経には魅力があるのか。
なぜここには魔力が棲んでいるのか。
その生い立ち、その組み立て、そのメタファーの一端を、
ごく少々ながら覗いてみたい。

法華は仏の真如なり 万法無二の旨(むね)を述べ
一乗妙法聞く人の 仏に成らぬはなかりけり

 今夜は「千夜千冊」1300夜にあたる。すぐる日曜日の早朝は、ぼくに近しい羅漢さんたち数十人で表沙汰「陶夜會」を打ち上げた。そしてモンゴル力士日馬富士の初優勝があけての1300夜になった。なんとなく記念したい。そこで以前からとりあげようと思っていた法華経にした(今夜は繁雑になるので『法華経』というように『×××』の二重カギ括弧でくくらない。他の経典名もそうする)。
 法華経だけでなく、般若経や華厳経も維摩経も浄土三部経も、また大乗起信経や理趣経などもとりあげたいのだが、やはり法華経からだろう。もっとも華厳経については、高銀の小説『華厳経』を2003年12月の681夜にとりあげた。
 テキストは梵漢和対照の『法華経』上下巻にした。植木雅俊さんが訳したばかりの最新版だ。梵漢和が対照されて一般書になったのは初めてなのではないか。植木さんは九州大学の理学科の出身で、一転、東洋大学をへて中村元さんの東方学院で研鑽されたのちは、仏教にひそむ男性原理と女性原理の研究などに勤しむかたわら、法華経サンスクリット原典の現代語訳と解明にとりくんできた。
 ぼくはまだ親しく話しこんでいないのだが、福原義春さんの紹介で「連塾」に来られてもいる。そんな縁もあり、本書は植木さんから恵送された。

妙法蓮華経 書き込み持(たも)てる人は皆
五種法師と名づけつつ 終(つい)には六根(ろっこん)清しとか

 日本人は長らく法華経を、僧侶ならば漢訳経典を音読で、在家の多くはその漢訳を読み下して読誦してきた。しかし、もともと法華経はサンスクリット語で書かれていた。いまはその写本のうちのネパール本・中央アジア本・カシミール本の写本が残る。原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、すなわち『白い蓮華のように正しい教えの経典だ』。

法華経サンスクリット語写本(ギルギット写本)

 それが漢訳・チベット語訳・ウイグル語訳などをへて、近代になると英訳・仏訳・日本語訳などとなってきた。漢訳は「六訳三存三欠」とよくいうのだが、笠法護(じくほうご)や鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)らの6種類の翻訳となり、さらにそのうちの3種だけがいま現存する。『妙法蓮華経』というのは鳩摩羅什の訳だ。笠法護は『正法蓮華経』とした。
 日本人は長きにわたって漢訳仏典に従ってきたが、これはさしずめシェイクスピア(600夜)やゲーテ(970夜)を最初から漢訳で読んできたというようなもの、いったんはシェイクスピアの英語やゲーテのドイツ語の原典に当たったうえで、日本語訳もそこからの訳で読んだほうがいいのは決まっている。
 そこで仏典にあっても、サンスクリット原典からの法華経日本語訳がゼッタイに重要になるのだが、これを最初に試みたのは南条文雄(1913)だった。ただしこの訳文は、ぼくも覗いたことがあるけれど、漢訳文語調でそうとうに堅い。これをもう少し現代日本語に近づけたのが岩本裕のものなのだが(1962)、やはり漢文読み下しふうだった。それが長らく、岩波文庫版として流布していたので、たいていの法華経ファンはこれを読んできた。
 それよりずっと現代語っぽいのは、レグルス文庫の『法華経現代語訳』3冊(第三文明社・1974)で、三枝充悳(1249夜)さんの思いきった訳だった。ぼくはこちらでやっと法華経の大概を知った。津島さんと対話したときは、ちょうどこの三枝訳に接していたときなのである。最初は漢文読み下しにくらべると格調がないのが気になったけれど、理解はおおいに進んだ。
 ほぼ同時期、中央公論社の『法華経Ⅰ・Ⅱ』(松濤誠廉・長尾雅人訳・1975)も出た。以来、その他の試みもいろいろ出たが、かくして今度、植木さんの徹底したサンスクリット原典からの現代語訳がいよいよお目見えしたわけだ。
 むろん経典の字句を点検しようとするわけではないのだから、おおざっぱな法華経議論をするならどのテキストでもいいのだが、本書のような梵漢和対照訳を見ているとやはり何かがちがう。何がちがうかというと、字句の問題をべつにすると、熱砂の時空を越えてきたという実感が湧く。

一乗妙法説く聞けば 五濁(ごじょく)我等も捨てずして
結縁(けちえん)久しく説き述べて 仏の道にぞ入れたまふ

 新宿番衆町のローヤルマンション10階でのこと、ぼくが「聖者はオートバイに乗ってやってくる」と言ったら、ちょっと間をおいて津島秀彦が「うん、松岡さん、それなら法華経に速度を与えよう」と応えた。ついでに「釈迦とマッハをつなげたいね」とも加えた。なんと鮮烈なことをズバリと言うものかと驚いた。
 1975年に二人で対話した『二十一世紀精神』(工作舎)の冒頭だ。ぼくは痩せぎすの31歳。だからそういうふうに津島さんと出会って、もう30年以上がたっているのだが、このときに「法華経に速度を与えよう」と言った津島さんの言葉は、その後も川辺で聞こえてきた異人の口笛のように忘れられない。いまでもときどき思い出す。今夜、好んで見出しにつけている『梁塵秘抄』法文歌(1154夜)や、また宮沢賢治(900夜)の「月光いろのかんざしは・すなほなナモサダルマ・フンダリカ云々」の詩句のように。

津島秀彦さんとセイゴオの放談集
『二十一世紀精神』(工作舎)扉ページより

 そのころ津島さんは、アメリカ仕込みの生体量子力学をひっさげて大陸書房でいろいろ本を書くかたわら、「エコノミスト」誌上で何人もの新宗教の開祖や2代目との対話シリーズを連載していた。それが一段落したところで、ぼくと対話したいということになった。おかげで、津島さんのせいで風変わりな法華経ファンになった。仏教経典として読むというより、最初から高速の思想テキストとして読む。いや、ちょっと気取っていえばハイパーテキストとして読むようになった。
 一方、ぼくの法華経がらみの好奇心は、そのままいったんは日蓮や宮沢賢治に、天台本覚や北一輝(942夜)に向いていった。とくに日蓮である。しかし、こんなふうな法華経の読み方をするようになったのも、ひとえに“法華経の速度”に引っ張られたせいだと憶う。

 それにしても、生体量子力学と法華経を一緒に語るだなんて、そんな無謀なことを平気で言うような科学者や仏教学者は、そのころまったくいなかった。
 たとえば、松下真一が『法華経と原子物理学』(光文社)を書いたのは1979年で、その前にわずかにフリッチョフ・カプラが『タオ自然学』(工作舎)で華厳経とタオイズムと量子物理学を交差させているのが目立っていた程度だった。津島さんはそういう“流行”の先頭さえ走っていた。
 もっともカプラのものも松下のものも、当時のぼくにはたいへん刺激的だった。そこでぼくはカプラとはサンフランシスコ・バークレーで会うことにしたのだが(そして『タオ自然学』を工作舎で翻訳刊行することにしたのだが)、残念ながら松下さんとは出会えなかった。そのかわり、さまざまな音楽をたっぷり聞いた。
 松下真一は数学者としては、ハンブルク大学理論物理学研究所の位相解析学の研究員だった。作曲家としては声明(しょうみょう)や和讚(わさん)に早くからとりくんでいた。東西本願寺・高田派・光明寺派などが真宗連合を結成したときにはオラトリオ『親鸞』を作曲し、さらに阿含経(あごんきょう)にもとづいたシンフォニー『サムガ』などもつくっていた仏教研究者でもあった。レコード9枚におよぶ『妙法蓮華経』という超大作もある。けれども、あまり理解されないままに1990年のクリスマスに亡くなった。
 津島さんも今日にいたるまで、ほとんど理解されてはいない。本格的な著書もない。そのうえあろうことか、津島さん自身がいつのまにか行方不明になった。行方をくらますなど、まるで中世の禅僧や歌僧のようだけれど、そういうことをしかねない信条の持ち主でもあった。そういう人って、いるものだ。十数年後、娘さんがお母さんと訪ねてきて、ぜひ松岡さんのもとで働かせたいと申し出られた。お母さんは「だってこの子にとっては松岡さんが津島の代わりなんですから」と言う。デザインが好きな娘さんだったので、しばらく手伝ってもらった。

法華経このたび弘めむと 仏に申せど聴(ゆる)されず
地より出てたる菩薩達 その数 六萬恒沙(ろくまんごうしゃ)なり

 津島さんの「法華経に速度を与えよう」で始まったぼくの風変わりな法華経青春縁起は、その後はちょっとばかり落ち着いて、そのかわり日蓮の影響も手伝って、だんだん質的に変化して、いつしか自分でも手に負えないほど巨きくなった。
 理由ははっきりしている。大乗仏教における「菩薩」や「菩薩行」とはいったい何かということが気になってきたからだ。
 このことに関してはいまならいろいろのことが言えそうなのだが、それを今夜はとりあえず端的にいえば、法華経が演出した「地湧(じゆ)の菩薩」の満を持した覚悟の意味と、「常不軽(じょうふきょう)菩薩」の不思議なキャラクタラリゼーションの意図を追いかけたいということ、このことに尽きている。
 地湧の菩薩は法華経の15「従地湧出品」(じゅう・じゆしゅつほん)に登場する。その名の通り、大地を割って出現した六万恒河沙の菩薩たちをいう。ブッダが涅槃に入ったのち、その教えが伝わりにくくなり、その信仰の本来の意図の布教が躊めらわれていたとき、ついに地面から出現したのが地湧の菩薩たちだった。たいそう劇的なことには、この地湧の菩薩が出現してくる瞬間、法華経全巻がここで大きく転回していくのである。
 この構成演出はすばらしい。それとともに、ここに菩薩の意味がついに明示されていた。かれらは「知っての通りの待機者」だったのだ。
 お恥ずかしいことに、ぼくは長らく仏教における菩薩とは何者なのか、何を担っている者なのかということがわからなかった。なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。こんな宗教はほかには見当たらない。菩薩はエヴァンゲリオンではない。他者にひっこむものなのだ。凹部をもったものなのだ。
 そういう謎が蟠っていたのだが、それを払拭したのが法華経の「地湧の菩薩」だったのである。いや、法華経における「地湧の菩薩」の巧みな登場の“させかた”だったのだ。つまりはこれは、法華経におけるブッダが示した鍵に対する凹んだ鍵穴だったのである。

地涌の菩薩の一団の出現
(「法華経曼荼羅」第十四軸部分)

 実際には菩薩(ボーディ・サットヴァ)とは、ブッダが覚醒する以前の悟りを求めつつある時期のキャラクタリゼーションをいう。しかし法華経においては、その格別特定のブッダの鍵がカウンター・リバースして、いつのまにか菩薩一般という鍵穴になったのだ。
 というふうには感じているのだが、まだこのことに関してはぼくの思索が現在進行形している途次なのである。

不軽大士(ふきょうだいし)ぞ あはれなる
我深敬汝(がじんきょうにょ)と唱へつつ
打ち罵り悪しき人も皆 救ひて羅漢と成しければ

 一方の常不軽(じょうふきょう)菩薩のほうは、法華経20の「常不軽菩薩品」に登場する。鳩摩羅什の漢訳では「常に軽んじない菩薩」(不軽)という漢名をもっているのだが、サンスクリット原典では一見、「常に軽蔑されている菩薩」とも読めるようになっている。
 植木さんはそこを、こう訳した。「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」というふうに。うーん、なるほど、なるほど、これならよくわかる。ネーミングの意図を汲み上げた訳になっている。そうであるのなら、この菩薩は鍵と鍵穴の関係をさらに出て、菩薩と世界の、菩薩と人々との“抜き型”そのものになったのだ。フォン・ユクスキュル(735夜)ふうにいえば、その“抜き型”のトーンそのものになったのだ。
 常不軽菩薩がこのような、比類なくアンビバレントな名前をもっていること自体も意味深長なのだが、そのうえでこの菩薩は何をするかというと、乞食のような恰好のまま、誰だって成仏できますと言い歩く。そこがまたもっと不思議なのである。だいたい、そんな安直なことを急に言われても、誰も納得するはずがない。かえってみんなに罵られ、石を投げられ、打たれたりする。それなのに常不軽菩薩はあいかわらず誰に対してもひたすら礼拝をする。あるいはひたすら菩薩の気持ちを述べる。それしかしない。そればかりする。

石を投げる人々に礼拝する常不軽菩薩

 この常不軽菩薩のキャラクターが法華経全巻において燻し銀のごとく光るのだ。これは「愚」なのである。「忍」なのである。いわば常不軽菩薩は「誰も知らない菩薩者」として法華経に登場してきたのだった。それゆえ、ひっくりかえしていえば、この菩薩こそ“何の説明もないすべての可能性”だったのだ。
 もしもドストエフスキー(950夜)やトーマス・マン(316夜)が常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る(なぜ日本文学はこの問題をかかえないのだろうか)。

 というわけで、ぼくはいま「地湧の菩薩」と「常不軽菩薩」のあいだを行ったり来たりしているのだが、それはそれ、今夜はそろそろ法華経という構造がもっている本質的な編集構成の妙義について、以下、ちょっとだけのピクニックをしてみたい。

釈迦の誓ひぞ頼もしき 我等が滅後に法華経を
常に持(たも)たむ人は皆 仏(ほとけ)に成ること難(かた)からず

 世界宗教としての仏教(ブッディズム)にはいくつもの特色があるが、そのひとつにキリスト教やイスラムなどの宗教では、教典はバイブル一冊やコーラン一冊に集約されているのに、仏教が多くの経典をもっていることがあげられる。俗に「八万四千の法門」という数だ。べらぼうだ。
 ところが法華経は、そういう多種多様な経典を生み出した仏典のなかで、「万善同帰教」というふうにみなされてきた。「諸経の王」ともいわれてきた。すべてのブッディズムの教えはことごとく法華経に入っているという見方なのである。そう、法華経は思われてきた。
 そもそも仏教は、ブッダ亡きあとに長い時間と多くの信仰者と人士をもって複合的に組み立てられた宗教システムである。当然、経典もさまざまな編集プロセスをもって成立していった。それゆえ、のちには「万善同帰教」とみなされた法華経もその出自からすると、もとより一筋縄ではありえない。
 仏典結集(けつじゅう)の試みは、おそらくブッダ没後の直後からオラリティをもっておこなわれていた。きっと200年間ほどは口伝のままだったろう。だいたいブッダが喋っていたのはマガタ語というものなのだが、それがどんなものであるかは、さっぱりわかっていないのだ。それがしだいにリテラシーをともなって、紀元前250年前後のアショーカ王のころの第三結集に及んだ。ここで初めてサンスクリット語とブラフミー文字(アショーカ王碑文文字)が使われた。ほかにカローシュティー文字も使われた。
 このことは決定的である。記録にのこるリテラルな文書性が交わされたことは、ついついリテラシーの対立を生み、それが思索の対立にもなったのだ。アショーカ王の時代、すでに仏教教団の内部や信仰者たちのあいだには議論や論争や対立がたえず、仏教活動は激しく分派していったのだ。ブッダの教えを守るのか教団の規律を重視するのかという、よくあるコンプライアンス問題による対立がきっかけで、大きくは伝統順守派の上座(じょうざ)部と時代適応派の大衆(だいしゅ)部に分かれた(=根本分裂)。
 その対立部派が紀元前1世紀ころは20くらいの部派になって定着して(=枝末分裂)、いくつものアビダルマ(論書)が編集された。これを「部派仏教」(のちに小乗仏教と蔑称される)というのだが、それぞれのリテラル・ロジックはそれなりに強烈だった。ぼくもずいぶん惹かれた時期がある。
 ただ、そうした部派仏教はもっぱら自己解脱をめざしていて、そのようになるために自己修行をし、自己思索を深めていくことを主眼としていたので、やがてそのような態度を批判する連中が出てきた。いや、乗りこえようとする動きが出てきた。
 これが大乗のムーブメントである。そのムーブメントがもたらした大乗仏教のあらましは、大筋についての流れを1249夜の『大乗とは何か』にもふれておいたので省略するが、ここに般若経から法華経をへて浄土三部経におよぶ大乗経典の執筆編集がとりくまれたわけである。
 けれども、この執筆編集は決して容易なことでは組み立たない。当然、それまでの部派仏教とは異なる解釈や展望がなければならないし、部派仏教の信徒やアビダルマの研究者たちだって、むろんのことブッダの教えにもとづいた熱心な者たちなのである(かれらの理想は羅漢になることだったのだ)。そういうかれらを排斥するわけにはいかない。
 そこで大乗ムーブメントの推進者たちは、かれらをひとまず「声聞」(しょうもん)と呼ぶことにして、そこからさらに解脱をめざしながらも独りごちしている者たちを「縁覚」(えんかく)として位置づけて、その二乗(声聞・縁覚のこと)をさらに開いて「利他行」に転じていった者を「菩薩」と位置づけることにした。
 そのようにしたうえで、法華経の編者たちは大乗以前の考え方と大乗以降の考え方を、コンセプトにおいてもリプリゼンテーションの方法においても、うまくつなぐことを試みた。

法華にまします所には 諸仏神力拝みつつ
皆これ仏の菩提場 転法輪の所なり

 かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にちょうどあたるのだけれど、今日の法華経構成でいう2「方便品」から9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ、いったん流布していったのだ。
 しかしこれだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。そのため西暦100年前後に、さらに10「法師品」から22「嘱累品」と「序品」が加わり(ここに15「従地湧出品』や16「如来寿量品」が入る)、最終的には150年前後あたりで23「薬王菩薩本事品」から28「普賢菩薩勧発品」が添加編集されて、ほぼ今日の構成にできあがった。途中さまざまな書き換えも着替えもあったろう。
 ざっとはこういう多様な編集プロセスがあったのだが、これらのなかでの最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というのだが、ただしその達成がおこるには、思想だけを提案していてもダメなのだ。その担い手の仏法的な意味をあきらかにする必要がある。
 こうしてここに登場したのが「地湧の菩薩」だったのである。総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。
 これよって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解を「一仏乗」に向かって一挙に止揚することにした。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。
 しかしながら、それだけではまだ不具合もおこる。副作用がおこる。たとえば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか(つまり自己発見プログラムの開発ばかりに向かったのか)。どうしたら自分の自覚と他者の救済を同時にできるのか。それらについての説明はできてない。なにより、このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているように見える。実際に変節しているのだとしても、その理由を説明できない。
 では、どうするか。ここにおいて「ブッダの方便」という格別の編集術が披露されるのだ。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使されたのである。ここからが法華経編集独特のアブダクションになっていく。

空より花降り地は動き 仏の光は世を照らし
弥勒文殊は問ひ答へ 法華を説くとぞ予(かね)て知る

 よく知られているように、法華経にはいろいろのレトリックがある。メタファーがある。それを総じて「方便」という。現在の日本人には方便は「嘘も方便」というようにあまりいい言葉と映っていないようだけれど、ぼくはそれを編集思想のたいへんよくできたラディカルきわまりない概念工事だと思っている。
 方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用した。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの歴史性と永遠性とをどのように関係づけて説明するかというところにあらわれた。
 ブッダの教えが永遠なものだと伝えるために、人手をつかい時間を費やして法華経が書かれたのは当然である。しかし、その生身(なまみ)のブッダ自身には永遠性はない。ブッダは80歳で死んだのだ。だからこそ信徒もふえたのである。一方、壮年期にたどりついたブッダの悟りはまさしく成仏・成道であるのだから(これを疑ったら何も始まらない)、そこには「仏としての永遠」もあるはずである。
 では、この、いささか接ぎ木のようになっている二つのことを、うまくつなげて説明するにはどうするか。そこで、ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔の久遠のときに成仏していたのだというふうに、法華経は後半部に進むにしたがって説き方を変えるようにしたわけだ。
 衆生(しゅじょう)を救済するために、私(=ブッダ)はいったん涅槃に入る姿を示すけれど、実は実態としての涅槃に入るのではありません。それが証拠に、この法華経をいま説いているリアルワールドの霊鷲山(りょうじゅせん)にあって(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をしている場面に始まっている)、ほれ、ブッダはいまもなおこのように説教しつづけているのですよ、というふうにした。

霊鷲山上の法会
(「法華経曼荼羅」第一軸部分)

 これは驚くべき解釈視点の転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。法華経はその文脈が進むにつれて、説得のコンテンツが相転移をおこすようになったのだ。それを法華経は、15「従地湧出品」に続く16「如来寿量品」のところで説明してみせるのである。しかも、その方便活用のメソドロジカルな下地は、2「方便品」や3「譬喩品」でちゃんと用意されていた。かくしてここに、「久遠仏」としてのブッダの存在学が確立していくことになる。

三身仏性 珠(たま)はあれど 生死(しょうじ)の塵にぞ汚れたる
六根清浄(ろっこんしょうじょう)得てのちぞ
ほのかに光は照しける

 いささか教学的な用語をつかうけれど、歴史上のブッダは生身(しょうじん)という。これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)である。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあったのだから、その、至高の智慧となったブッダという覚醒の内容は生身でも法身でもない。これを「報身」という。
 他方、生身でなくなったブッダとは何者か。たしかに死んで涅槃に入ったようだった。けれどもそれはまた、たんなる死ではないはずだ。悟ったまま涅槃に入ったからである。そこで、そのブッダを「応身」というふうにする。
 そうすると、ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになり、そのように変化するためには、もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていたということになる。そう、法華経は編集的相転移を進めていったのだ。それで、どうなったのか。久遠仏としてのブッダという、フィクショナルではあるけれど、しかしとんでもないアクチュアリティをともなって巨変しつづけるブッダ像がつくられた。
 もっとも、こんなアクロバティックな説明はすぐには納得できないだろうとも予想された。実際にも、この説明を聞いていた者たちはなんとなく疑問をもった。いや、法華経のテキストはそういうふうに、法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りをする。
 想定される疑問は、こうだ。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのでしょうか。
 そこで当のブッダがいよいよその意味を証していくというのが、法華経の後段になったわけである。「従地湧出品」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在学の核心部にあてられる。かくて法華経はみごとに前半部と後半部を並列処理できるように構成されて、いよいよ大乗仏典の「万善同帰教」として君臨することになったのである。

法華経八巻は一部なり 拡げて見ればあな尊(とうと) 文字ごとに 
序品第一より 受学無学(じゅがくむがく)作礼而去(さらいにこ)
読む人聴く人皆(みな)仏(ほとけ)

 法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
 次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。
 1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩勧発品」。
 この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成

 図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
 こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
 ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
 いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。

仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず
始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり

 こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。
 その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。
 4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。

四人の仏弟子がブッダを前に懺悔し、礼拝する図
(「法華経曼荼羅」第四軸 信解品)

 この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。
 そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。
 つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。

屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話

 またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。
 大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。

真理は語ることができないとして
説法を拒否したブッダ

 法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。
 それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。
 だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。

釈迦の御法(みのり)は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける
三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる

 さて、まとめていえば、法華経の外観はよくできた物語だった。ドラマ仕立てのスペースオペラなのだ。場面も移っていくし、登場人物も多い。『レッドクリフ』の比ではない。だからまさに物語になっているのだが、そこには別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしているのが、よく見える。つまり編集の苦労のアトがよく見える。
 そのことを説明するには、ここで1「序品」→2「方便品」→3「譬喩品」というふうに、1品ずつの内容をかいつまむべきだろうけれど、今夜はよくある法華経入門書のようにそれを踏襲することはやめておく。そのかわり、最も構成が絶妙なところだけをあらためて指摘する。
 法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。
 つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。
 この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。
ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。
 それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と

我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け
衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし

 ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。
 覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。
 これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。
 「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。
 それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。
 これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。
 さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。

古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも
仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ

 法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。

宋版『妙法蓮華経』

 法華経の漢訳にとりくんだ鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、344年にクチャに生まれた。父親はインド出身の高貴な出家者で、母親はクチャの国王の妹だった。幼少期から仏法の重要性を教えられて育った鳩摩羅什は、やがて自身でもカシュガルに出向いて小乗仏教を修め、さらにはサンスクリット本の初期大乗経典を読むようになった。
 その名声に関心をもったクチャ王の白純は鳩摩羅什をあらためて国で迎えることにした。ところがそのころ関中にあって勢力を張り出していた前秦の符堅が羅什の名声を利用してクチャを攻略することを思いつく。かくて符堅が派遣した呂光は西域諸国を攻めてクチャ王を殺害、羅什を捕虜とした。このあたり、けっこう血腥い(もともと宗教は血腥い)。それから17年間、羅什は涼州に停住させられる。しかし涼州を姚興(ようこう)が平定すると、姚興は羅什を国師として長安に招くことにした。
 ここから鳩摩羅什が逍遥園のなかの西明閣や長安大寺で、数々の仏教経典の漢訳にとりくむというふうになる。その質量、35部294巻におよんだといわれるが、その最たる漢訳が、先行していた笠法護の『正法蓮華経』を一変させる『妙法蓮華経』だったのだ。鳩摩羅什はほかにも『阿弥陀経』『維摩経』『中論』『十二門論』『大智度論』などを漢訳した。廬山の慧遠(えおん)と交わした往復書簡集『大乗大義章』も興味深いものだった。
 ところで姚興が羅什の出奔をおそれて美女十人をあてがったのというのは有名な話だが、羅什のほうもそれを拒むこともなく悠然と美女と遊んで暮らしたというのだから、なるほど仏典翻訳編集の難行と愉悦とはこういうものでもあるかと思わせる。いやいや、仏典翻訳がつねにそういうふうであるというのではありえません。鳩摩羅什はそうだったということだ。
 さて、この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲がうけつぎ、さらに随の天台智顗が徹底的に分析を始めた。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などが著述され(これを天台三大部という)、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造がこのとき発見されたのだ。智顗はそのうえ、かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつけた。
 こうして中国法華経学が起爆した。ちなみにぼくは工作舎で「遊」を編集しているあいだじゅうずっと、親しいスタッフには『摩訶止観』を読むように勧めつづけたものだった。

仏に華香奉り 堂塔建つるも尊しや
これに優れてめでたきは 法華経もてる人ぞかし

 こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国においては仏法は王法に匹敵できたのである。ただし、そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなった。
 また、中国では最初から大乗仏教が優先された。インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教のなかの何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定をうけつづけたのだ。それを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)というのだが、たとえばさきほど述べた「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされたのである。
 こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れこんできた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をこそもちこんだのだ。

 一方、知られるように、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まっている。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになると、ここに日本独特の法華美学のようなものが立ちあらわれてきた。
 法華経を紺紙に金泥で写す装飾経、法華経の一文字ずつを蓮弁に書く蓮台経、扇面に法華経を綴る扇面法華経、清盛が厳島神社に奉納した平家納経、道長の大和金峰山でのものが有名な埋経など、まさに法華経はまたたくまに人心と官能をとらえていった。
 そこに、法華経を歌謡に転じる釈教歌(しゃっきょうか)や、今夜は見出しにおいてみた『梁塵秘抄』の法文歌(ほうもんか)や、法華二十八品歌なども加わって、公家も女房も武門さえ、ひとしく法華経賛歌に酔ったのだ。日本の法華経はずいぶん官能的であり、また美の対象とされたのだ。

扇面法華経

 このことについては、近世の狩野派や等伯や光悦や宗達らのトップアーティストの多くが法華衆であったことなどともに、いずれ論じたい。
 しかし、こうした和風の法華経感覚ともいうべきに、突如として雷鳴のような一閃を食らわし、独自の法華経思想を旋風のごとく確立していった法華経行者があらわれた。藤末鎌初に登場してきた日蓮である。日蓮についてはいつか『開目抄』か『立正安国論』かをとりあげて千夜千冊したいけれど、ここではとりあえず一言だけふれておく。
 ともかく凄い。その不惜身命(ふしゃくしんみょう)の行動をいっさい除いても、こんな法華経の見方をした者はインドはむろん、中国仏教者にもいなかった。そもそも「南無妙法蓮華経」という題目を設定したことが、インドにも中国にもない。また法華経そのものとその菩薩行において仏法を統一するという構想に徹したのみならず、日本という国家を法華経によって安国できると見たのも、凄かった。とくに10「法師品」から22「嘱累品」あたりをつぶさに検証して、そこに殉教・殉難の精神の系譜を見いだしたことは、すこぶる独創的だった。

日蓮聖人による大曼荼羅本尊
中央の文字は、法華経宇宙を象徴する「南無妙法蓮華経」という題目

 日蓮の孫弟子の日像、舌を切られ灼熱の鍋をかぶらされた日親、不受不施派に徹して対馬に流された日奥、さらには明治近代の田中智学や内村鑑三(250夜)北一輝や石原莞爾におよぶ流れにも、日蓮の法華経世界観の投影を議論すべきであるけれど、今夜はそこまで足をのばさないことにする。

達多五逆の悪人と 名には負へども実(まこと)には
釈迦の法華経習ひける 阿私仙人 これぞかし

 では、こんなところで、今夜の法華経談義を仕舞いたい。なんだか何も説明できなかったように思うけれど、まあ、しかたない。キリなく書きたいことばかりが押し寄せて、これでも書き換えたり、削除したりするのが精一杯だったのだ。
 そこで最後にちょっとばかり12「提婆達多品」(だいばだったほん)のことを、付言する。なんとなくそういう気分になってきたからだ。
 法華経はこの直前の11「見宝塔品」で、法華経の弘通に力を尽くす者がどんなにすばらしい功徳を得られるかということを説くのだが、第12品では、その弘通を阻もうとする提婆達多さえ、悪人成仏の可能性をもっていることにつなげてみせる。もとより提婆達多(デーヴァダッタ)は仏法を迫害する悪魔であって魔王のようなものである。キリスト教ならサタンやアンチ・キリストにあたる。ところがブッダはこの提婆達多に感謝した。
 話の顛末は、こうである。ある国の国王がその国の人々を救いたいと考えた。しかしそのためには法を求めなければならない。それには国王の座を捨てたほうがいい。けれども、その法をどこで学べばいいか。もしそのようなことを教えてくれる者がいるのなら、自分はその召使いになってもいいと考えた。そのとき阿私仙人という男がやってきて、自分は法をよく知っていると言うので、国王はよろこんで仙人の身のまわりの世話をした。いくら仕えても飽きることがない。なぜなら、それが法を会得するためだったからだ。

仙人に仕える王の図

 と、いうところでブッダが、この話の裏を言う。国王とは実は自分のことなのだと明かす。そして、その仙人とは提婆達多であったとも明かす。もともと提婆達多はブッダの従兄弟(いとこ)にあたっていて、その弟が多聞第一といわれた阿難であった。これでも見当がつくかもしれないが、ブッダと提婆達多は若いころからのライバルだったのである。ブッダはソ―ダラを妃に迎えたが、提婆達多もソ―ダラに思いを寄せていた。しかるにブッダは提婆達多の成仏の可能性を説く。
 だいたいはこういう話が前半にあり、ついで後半に8歳の龍女にも成仏の可能性があるというふうになっていく。
 当時、女性は垢穢(くえ)のために法器にあらず、成仏を志す器ではないと言われていた。この第12品でも舎利弗が龍女に向かって、おまえはとうていそんな資格がないと言う。しかし龍女が黙って身につけていた宝珠をブッダにさしあげると、たちまち龍女は男子に変成した。有名な「変成男子」(へんじょうなんし)だ(『17歳のための世界と日本の見方』参照)。
 この、二つの奇妙な挿話で「提婆達多品」はできているのだが、さて、この章が鳩摩羅什の『妙法蓮華経』ではバッサリ落とされている。サンスクリット原本では前章の「見宝塔品」に入っていて、笠法護の『正法蓮華経』もそうなっている。それなのに、なぜ鳩摩羅什はこれを消したのか。実は仏教界では、その理由がいまなお取り沙汰されているところなのだ。そのため、ここは“法華経の謎”とも、また悪人成仏と女人成仏を説いたということで、“大乗仏教そのものの謎”ともされてきたところなのである。
 ぼくは、この「提婆達多品」こそ、その後の法華経の運命を左右するものとして仕込まれたのだと思っている。付け加えておく気になったのは、このことだ。それ以上でもそれ以下でもないが、この話、やはり法華経全巻の「負」を背負っているように思う。
 諸君はどう思うだろうか。あれほどの鳩摩羅什も、いささか美女と遊びすぎたのだと、そんなふうに結べれば、それもまたオツなところになるけれど……。

 

法華経の教えが説かれた霊鷲山