才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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俗戦国策

杉山茂丸

書肆心水 2006

杉山茂丸は夢野久作の父君である。
近代日本の命運に暗躍した稀代の怪人だ。
福岡を拠点に中央政界を動かし、
朝鮮や中国にも奇策を講じて触手をのばした。
仕掛けたことはつねに法外、埒外、論外だ。
けれどもその真意、どこにあるのかわからない。
国粋主義だかアジア主義だか、無節操主義だか、
コスモポリタンだか、マキャベリストだか、
政商だか、フィクサーだか、
たんなるホラ吹き男だか、さっぱりわからない。
それなのに、いまなら地検かマスコミに
すぐに叩かれただろうことを、
しかし生涯にわたって豪快徹底して貫いた。
こんな男、もう日本にはいない。

 杉山茂丸の骨は夫人の骨と一緒に静かにぶらさがっていた。東大本郷の医学部本館の三階の標本室である。そこには漱石の脳から高木彬光の『刺青殺人事件』(角川文庫など)で有名になった刺青の皮膚まで、近代日本を象徴する数々の日本人の“標本”が展示されているのだが(ぼくは「遊」創刊にあたって「場所と屍体」を書こうと思ったとき、ここを二度訪れた)、そこに杉山茂丸は自分の骨を提供していた。
 骨だけではない。体まるごとだ。「死体国有論」を唱えた杉山の遺言による。いまはどうだか知らないが、当時は杉山の骨のケースのかたわらには頭山満と広田弘毅のオマージュ解説まで捧げられていた。
 杉山の長男だった夢野久作(本名は杉山直樹)は、その『近世快人伝』(文春学芸ライブラリー)で父のことを縷々書いていて、母が杉山が遺体を解剖するようにと言い残したことについては「情けない気持ちになるね」と洩らしていたと描写している。それは、そうだろう。死体を国家に捧げるというのは、かなり変わった思想だ。国民はすべからく自身の死体を研究に供すべきだというのが主旨ではあるが、そこにはこの怪人の途方もない生涯が集約されている。

 本書『俗戦国策』には、杉山の明治大正の裏舞台での暗躍が、愉快な自慢話のように次から次へと述べられている。どこまで本当なのかはほとんど判断がつきにくい。だいたい生前から「杉山ホラ丸」と呼ばれていた怪人なのである。それも小学生のころからのホラ丸だった。
 ぼくはもう一冊の大著『百魔』(書肆心水)にも目を通したが、こちらもそうとうに奇っ怪で、本物の人物には「魔」というものが棲んでいて、自分はその「魔」とわたりあってきたというのが筋になっている。それで百人の「魔」に出会って惚れたというのだ。なるほど、近代日本の確立期、博多・福岡・久留米などの北九州と朝鮮・中国に次々に怪事件や怪情報が立ち上がっていって、そのなかで杉山がかかわったとおぼしい綺羅星のような人物との接触や駆け引きや脅しがとくとくと語られている。
 読んでいくと、その波瀾万丈にまんまと引っ掻きまわされる。何が真実で何がホラかはわからない。ところが、この引っ掻きまわされるのが、いけない・いけないと思いながらも痺れるような快感になっていく。そういう本書であり、『百魔』なのだ。

 杉山茂丸を千夜千冊してみようと思ったのは、先だっての四月十七日からの三日間、志有会とA&Qの講演交流のために福岡にいたからだった。
 福岡にいるあいだずっと、左から西郷や蘇峰や宮崎四兄弟が、右からは頭山満や杉山茂丸がぼくのカラダとアタマを「件」(人と牛の合いの子)のように出入りしていたのだけれど、やはり福岡や太宰府にいたことが大きく、帰ってきて、ああそろそろ杉山茂丸を書かなくちゃと思ったのである。
 もともとこの福岡行は、九天玄氣組の中野由紀昌組長が「A&Q」立ち上げの講演を四ヵ月ほど前に頼んできたのを引き受けたのがきっかけになっていた。そこに、かつての福岡JCの会長で、いまは未詳倶楽部にも入っている安川タクシーの安川哲史君が、「せっかく松岡さんが福岡に来るのなら、福岡の若手経営者や店主で構成している志有会でも話してほしい」というので、十七日は福岡唯一の造り酒屋の石蔵酒造の酒蔵を改造した「博多百年蔵」で話をすることになった(なかなか面白いリメークになっていた)。
 志有会には、太宰府天満宮の西高辻信良宮司から斬新な発想をもって鳴る人形師の中村信喬まで、吉田宏福岡市長から有田焼の今泉今右衛門さんまでが顔を揃え、とくにアビスパ福岡のコアメンバーが、ぼくの話からアビスパ再興のシナリオを共有したいというので熱していた。

百年蔵・「志有会」

 その翌日、太宰府の九州国立博物館のミュージアムホールで、今回のメイン企画の「ぼくの九州同舟制」を話した。道州制にひっかけて九州全域の立ち上げを応援するという主旨の講演で、そこには中洲「リンドバーグ」の藤堂和子ママが数人のホステスさんを引き連れてきてくれていたほか(このママにぼくはジャンケン三〇連敗をしている)、大学教授からクリエイターたちまで多士済々が顔を見せた。ぼくは高千穂神楽から西郷におよぶ映像を交えながら「九州の本来と将来」を話しつつ、いつのまにか明治の川筋気質になっていた。

九州国立博物館ミュージアムホール・「ぼくの九州同舟制」

 三日目は櫛田神社のそばの「鹿島本館」で、九天玄氣組のメンバーが集まって九州編集会議という集いをした。中野組長は“全九州史”を編集したいという大望をもっていて、そのプレスタートのためだったのだが、この鹿島本館がまた、杉山茂丸を千夜千冊したくなる引き金になったのだ。玄関を入るとすぐに頭山満の扁額がかかっていた。志有会ですでに福岡の草の風を感じ、太宰府で遠い古代九州に思いを馳せ、そして鹿島本館で頭山満の書に出会う。これでは、何かを書かざるをえないではないか。

鹿島本館・九天玄気組「九州編集会議」

 というわけで杉山茂丸を書くことにした。ただしこの怪人はさっきも言ったように、本人が本書『俗戦国策』をはじめ、『百魔』『帝国移民策新書』『屑籠』『乞食勤王』などで、どこまでが本当のことかわからないことを書きまくっているため、順序を追うのが容易ではない。辻褄があわないところもやたらに多い。
 今夜は杉山茂丸の事実を追うのが目的ではないからいいけれど、あまりに辻褄があわないところは、一応は先達たちの評伝も参照する。一又正雄『杉山茂丸・明治大陸政策の源流』(原書房)、野田美鴻『杉山茂丸伝』(島津書房)、そして最も詳細な評伝だと思われる堀雅昭『杉山茂丸伝・アジア連邦の夢』(弦書房)や、読売新聞の気鋭が数年前にまとめた井川聡・小林寛『人ありて・頭山満と玄洋社』(海鳥社)などだ。

 杉山茂丸は幕末ぎりぎりの元治元年(一八六四)に、黒田藩馬廻組一三〇石の、一応は武士の家に生まれた。父の三郎平が藩主の黒田長溥に「帰農在住」を進言して謹慎を命ぜられ、やむなく北九州芦屋に移り住み、トンコロリンの妙薬で当てた勤皇派の薬商の塩田久右衛門の家で暮らした。
 父親が水戸学派だった。だから『大学』や水戸学や陽明学のイロハを教わったのは父親からだ。弟に龍造寺隆邦がいる。芦屋での茂丸は八歳のときに母親を亡くし、継母を迎えた。顔に大きな痣があって、ジャンコ婆さんと呼ばれた。また女医の珍山尼にかわいがられて、歌の手ほどきをうけるとともに勤皇思想を叩きこまれた。この女医の影響は、期せずして頭山満が福岡の興志塾で高場乱に勤皇主義の一から十を叩きこまれたことに呼応する(頭山は茂丸の九歳年上)。高場乱はぼくがずっと気になっている幕末維新を代表する北九州の女傑で、永畑道子に『凜―近代日本の女魁・高場乱』(藤原書店)というすぐれた評伝がある。
 芦屋では吉田磯吉との出会いもあった。磯吉は“最後の侠客”として川筋気質のシンボルとなり、政界にも花柳界にもヤクザの社会にも名を馳せた。今日の山口組のルーツは磯吉の子分に始まっている。もっともこのときの磯吉は茂丸の三歳年下のガキ大将にすぎない。茂丸は磯吉と意気投合した。磯吉については、猪野健治の『侠客の条件―吉田磯吉伝』(現代書館)がめっぽう詳しい。

 明治九年、茂丸は十三歳であるが、かなりの異変が身近におこっている。神風連の変、萩の乱、秋月の乱がたてつづけに乱打され鎮圧され、叔父の信太郎が秋月の乱に加わろうとして逮捕された。これらはいずれも筑前士族(筑前勤皇派)が明治維新に貢献したにもかかわらず、その功績を薩長が独占していったことに対する怒りと不満が噴き出たもので、それは旧黒田藩士の子弟たちのやるせない憤懣にもなっていた。一家は筥崎宮の近所に越した。
 翌年には「福岡の変」がおこった。西郷の西南戦争に呼応し、新政府に物申したくておこった「変」である。この騒動に十四歳の茂丸もどきどきしながら参加した。未成年ということで無罪放免されたものの、またまた一家は筑前山家(いまの筑紫野市)に引っ越した。「福岡の変」の首謀者とみなされた武部小四郎の辞世は、いまも平尾霊園の「魂の碑」としてのこっている。
 武部が少年たちの弾圧と検挙を見て、行くどオオオー、オオオーと叫んだことを少年たちは忘れてはいなかったと、夢野久作は『近世快人伝』に書いている。「あの声は今日まで自分の臓腑の腐り止めになっている」ともある。武部のオオオー、オオオーの絶叫が玄洋社を生み、茂丸の伊藤博文暗殺計画のエンジン音になったのだ。

明治13年の「福岡の変」を報じた錦絵
決起した福岡士族約500名のうち、
54名が戦死し、457名が刑に処された(斬罪5名、獄死43名)

福岡市、平尾霊園内の「魂の碑」

 福岡は維新当初から荒ぶったのである。ハーバート・ノーマンの『日本政治の封建的背景』(岩波書店)に、「福岡こそ日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」という、いささか福岡出身者には穏やかではないだろう指摘が書かれているが、武部のオオオーからすれば、半分以上は当たっている。残りは当たっていない。福岡には国家主義・帝国主義とともに反国家主義・反帝国主義の血も滾っていた。ノーマンは西郷隆盛に呼応して惨敗した「九州男児たち」の屈辱を見ていない。

 十七歳、浅見絅斎『靖献遺言』やルソー『民約論』を柳行李に詰めて、上京する。宮崎車之助(秋月の乱の首謀者)の娘との縁談を断っての上京だったが、上野公園で寝泊まりする日々があるばかりで得るものはなく、やむなく大阪に転じた。

1884年、浅草
新聞売りの姿に身をやつした杉山茂丸

 そこで洗心館の後藤象二郎に面会を申し入れ、突然、薩長に独占された藩閥政治に謀反をしたいと言い出した。福岡は藩閥政治が大嫌いな土地なのだ。征韓論で下野していた後藤は四四歳になっていたが、この大言壮語の少年をおもしろがった。洗心館では藤田伝三郎にも会った。陸軍の革靴の製造で大儲けした成り金である。のちの藤田組の総帥で、数寄者としては香雪を号して、大コレクターにもなっている。若造のくせに茂丸はこの成金男が気にいった。のちのち「大阪毎日新聞」や日本興業銀行に藤田がかかわったとき、手伝っている。
 明治十五年、茂丸は一年半の放浪をおえて福岡二タ村(筑前町)に戻る。父親の三郎平が「敬止義塾」を開いていたのを手伝うためで、ここで茂丸はよからぬ計画を練った。まずは熊本の紫溟会の佐々友房に“あること”を打ち明けた。佐々は神風連の精神的支柱であった林櫻園の影響をうけて西南戦争で入獄したのち、同心学舎をおこし、それを済々黌という学校にしていた。その佐々に「自分の首と伊藤博文の首を抵当に」して軍資金をねだったのだ。
 呆れた佐々が渋っていると、壁にかかっていた藤田東湖の「三度死を決して死せず」と書かれた軸を貰い受けたいと言い、その場で軸を引き裂くと、「お前も三度死にそこなったのか」と息まいた。そのままさっさと宿に引き上げた茂丸のところに、佐々から一六〇円が届いたのは翌日のことらしい。
 こうして再び上京した茂丸は、仲間を募ってジャコバン党を僭称しながら伊藤暗殺の機会を狙う。本気で殺したかったようだ。『俗戦国策』や『百魔』によると、明治十七年十一月七日に決意がかたまって、茂丸は伊藤邸に行き、まずは短刀を伊藤に与えて自分を切らせてそのうえでピストルで伊藤の頭を撃つというプランをたてたという。しかし伊藤は留守、そのまま一ヵ月がすぎたとき、朝鮮で甲申事変がおきた。

 甲申事変は朝鮮内部の維新騒動で、清と結ぶ閔妃政権を倒して親日派の政権をつくろうというクーデター計画である。一言でいえば親清派と親日派の対立だ。大院君と閔氏の対立が絡んだ。その実情の詳細は猖獗をきわめる。
 おおざっぱなシナリオは、金玉均や朴泳孝らが日本の明治維新に匹敵するものをおこすべく、日本公使の竹添進一郎や井上馨を通じて福澤諭吉や後藤象二郎や井上角五郎(福澤諭吉の門下生)らと連絡をとりあい、クーデターの準備をしていったというものだが、そこに自由党の板垣退助と後藤象二郎がからまり、その工作費として駐日フランス公使のサンクイッチに交渉しているというような、さまざまな輻湊したサブシナリオが挟まれている。フランスは清と交戦中だったので、朝鮮を清から切り離す作戦には乗ったわけである。
 けれども甲申のクーデターは三日天下でおわった。袁世凱が軍事力を発揮して漢城をたちまち制圧した。金と朴は日本に亡命する。
 これによって日本政府は、失敗におわった甲申事変への関与をごまかすしかなくなっていく。責任追及をかわすために渡韓した井上馨もだんまり作戦を通した。そうした事情のなか、「相手は清だ、清と一戦をまじえるしかない」という動きがだんだん活発になってきた。在野では福澤・尾崎行雄・犬養毅らが、政府側では井上馨らがこの動きを団扇であおいでいくのだが、これがのちの日清戦争の下図になっていった。とはいえ、こういう流れは一筋縄では説明がつかない。

 来日した朝鮮の要人が宿泊し、アジアの会談の舞台となった神戸西村旅館
甲申政変の2年前の明治15年には、金玉均も来日し、頭山満と会談している

当時の杉山茂丸もこうした東アジアの権謀術数渦巻く複雑きわまりない緊迫した情勢を、ほとんど正確には見てはいなかったろう。まだ二十代前半でもあった。だから勘で動いていた。たとえば甲申事変にいくばくかの時代の先端を感じるとすぐに渡韓しようとしたり、それが容易ではないことがわかると、やっぱり伊藤を殺そうというふうに戻ったりする。ただ奇妙な勘とものおじしない果敢な行動力があった。そもそも権謀術数は肌にあっていたわけだ。

 明治十八年になると山岡鉄舟を訪ねて、伊藤暗殺を相談した。魂胆を隠さず、それを最もふさわしい痛快な人物に真正面から秘密をぶつけ、ばらしてしまうのだ。これがホラ丸のやりかただ。しかし相手は名だたる剣と禅の鉄舟である。茂丸の横っ面をぴしゃりと鉄扇で叩くと、思いとどまるように叱責した。それでも茂丸はあきらめない。鉄舟はあえて紹介状を書いて、そこに茂丸が暗殺の意図をもっていることを添えることにして、封をした。
 こうして茂丸は鉄舟の封書を携え、やっと伊藤に会えることになった。このとき伊藤博文四三歳、茂丸二二歳。
 伊藤は茂丸を悠々とあしらった。むろん勝負にならない。茂丸の若気の至りは鉄舟の手紙でわかった。のみならず伊藤は秘書の井上毅を通して茂丸の素性経歴を洗い出していた。茂丸はすごすごと帰るしかなかった。これがいわゆる伊藤博文暗殺未遂事件の一部始終であるが、どうもテロリストっぽくはない。壮士の駆け引きの演習のようにも、そのための心身の修行のようにも見える。
 暗殺に失敗した茂丸はいったん身を隠すことになる。なにしろ伊藤はこの直後に初代の内閣総理大臣になる身、一応は暗殺未遂者は姿を消さなければいけない。行く先は北海道だった。福岡の変で処刑された武部小四郎の弟の武部彦麿が、同じ福岡出身の金子堅太郎のつてで北海道に渡っていたためで、それ以外の理由はない。おもしろそうな人物がいれば茂丸はどこにでも行ったのだ。
 案の定、たいしてすることもなくすぐに東京に戻ると、今度は新橋芸者のアグリ、おしゅん、おふみらと交じり、芸者遊びをおぼえた。茂丸はのちに浄瑠璃・義太夫に玄人はだしの芸の遊びを発揮するのだが、そういう栴檀の芳香は、最初は珍山尼に、いままた芸者たちに仕込まれたのだろう。そしてこのとき、ついに宿命的な人物との出会いをはたすのである。玄洋社の首魁・頭山満だった。
 茂丸を頭山満に会わせたのは、熊本紫溟会の八重野範三郎である。八重野は父の三郎平とも知り合いで、おまえも福岡の者ならこの男に会っておかなくてはいけないと、新橋の田中屋に逗留していた頭山を訪ねるように仕向けた。
 そこには頭山に心酔する玄洋社社員の的野半介・月成元義・来島恒喜らが出入りしていて、甲申事変が不発におわったのちの再クーデター計画が語られていた。そのための拠点を釜山の「善隣館」として設立する話もすすんでいた。このころの日本は老いも若きも、右も左も、壮士も芸者も、著述者も芸人も、みんな国家の安否と行方を談じ、口角泡をとばしあったものだ。

西職人町にあった玄洋社

 茂丸は大きな転換をする。漠然たるテロリストたらんとすることをやめ、また新政府にタテつくのではなく(藩閥政治の延長にはあいかわらず腹が立っていたが)、むしろアジアを統一するという視野から新国家を形成するべきだという大望を抱いたのだ。
 それならというので、頭山は茂丸にいくつかの指針を暗示した。そのひとつは福岡を開発することだった。頭山は九州に鉄道を敷き、海軍予備炭として封鎖されていた筑豊炭田を開発して、炭鉱運営を通して玄洋社の資金を潤沢にし、これをアジアや日本の建設費にあてようというシナリオを考えていた。
 いったん得心したら一知半解でも動き出す。すぐに九州鉄道敷設計画のため、おそらくは頭山の指示だと思うけれど、安場保和を福岡県令にしようと決めた。安場は細川家の家臣の家に生まれて横井小楠の門下に入ると開明派として鳴らし、大久保利通に気にいられていたエリートの一人だが、岩倉欧米使節団に入っていながらも途中で嫌になって帰ってくるような日本主義者でもあった。筋がいい。
 そこに目をつけた茂丸は佐々友房に紹介をうけ、説得に乗り出した。安場は山田顕義の許可があれば引き受けてもいいと言う。山田は吉田松陰の門下生で、かつて伊藤博文らと品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちしようとした過激派だが、その後は藩閥政治の中枢に入っていた。茂丸は臆することなく山田に面談を求め、山田が「安場が頭山のような破壊主義者と組むのは反対だ」としきりに言うのを説き伏せた。虚々実々の駆け引きだった。このあたりのこと、尾崎士郎の『風蕭々』(講談社「尾崎士郎全集」七)が巧みな小説にしている。
 安場が福岡県令になると、九州鉄道の敷設は一気に進捗していった。明治十九年に「民設」が認可され、明治二一年には九州鉄道株式会社が設立された。一年後、九州初めての「博多−千歳川」間に蒸気機関車が走った。この最初の蒸気機関車の光景を北九州人は忘れてはいけない。

「九州鉄道発祥の地」の碑
吉田松陰門下の協力のもと、長州閥と玄洋社の連合により
九州鉄道会社が立ち上がる

 玄洋社の変遷は容貌魁偉の変遷である。ことに容貌魁偉な言動を見せたのが杉山茂丸だった。玄洋社と茂丸の共有点をあらわしたのは、明治二十年八月の「福陵新報」の創刊だったろう。
 これはどう見ても玄洋社の宣伝広報紙だ。社屋は玄洋社前身の向陽社を改造し、社長に頭山満、副社長に鹿野淳二、主筆に「時事新報」から引き抜いた川村惇、主幹に香月恕経という陣容を擁した。この新聞が明治三一年に平岡浩太郎を社主とした「九州日報」となり、三代目の社主に茂丸が就任すると、福岡国権派の主力メディアとなった。のちに日中戦争・太平洋戦争期の新聞統制で「福岡日日新聞」と合併して、今日の「西日本新聞」に至っている。

明治20年創立の福陵新報社
玄洋社移転後の本町86番地をひきついだ

福岡同人の会合記念写真
福陵新報による壮士連合は、地域開発からアジアに及ぶ未来構想を準備した
前列左から、月成功太郎、福本誠、頭山満、内田良五郎、進藤喜平太、
杉山茂丸、末永純一郎、後列左から、武井忍助、古賀壮兵衛、大原義剛、
内田良平、的野半介、月成勲、児玉音松

 茂丸は「福陵新報」の創刊にかかわっただけではなかった。大阪ではすでに藤田組で成功していた藤田伝三郎と「大阪毎日新聞」の発刊に介入した。「大阪日報」が資金難になったところを、藤田、久原庄三郎(久原房之助の父)、河原信可(大阪商船社長)、田中市兵衛、茂丸らが動いたのだ。これで「朝日」が松方新聞に、「毎日」が藤田新聞になったわけである。初代の主筆は柴四朗で、のちにペンネーム東海散士として知られることになる。

 こういうことにもあらわれているように、頭山や杉山が考えていたのは中央財閥に対抗して、いかに独自な資金組織を地方を基盤にしてつくっていくかということである。それが同時に国権思想や大アジア構想に結びついていた。それゆえ北九州に炭鉱事業を成功させることは宿願の課題だったのだ。そしてこれがすべての資金源なのだ。すでに筑前五郡の炭田を三井・古河・浅野が狙っていた。玄洋社はその闘いにことごとく勝利する。いまなら連戦連勝のM&Aにあたる。
 夢野久作の『犬神博士』(角川文庫)には筑豊炭田の買収をめぐる抗争が語られている。そこには「中央資本と土着資本」「民権派と国権派」の抗争が描かれる。山門三池両郡の決起集団「壮年義団」を組織したのは茂丸だったのである。この結社はのちに清水寺の田北隆研の肝入りで「同袍義塾」となり、茶園の経営と実業演習に向かった(実業演習を担ったのは茂丸の片腕になっていく広崎栄太郎だった)。
 だから北九州の資本主義黎明期の血は大いに荒れたのだ。玉の井酒造の矢野喜平治と清気酒造の金光豊吉も対立を剥き出しにした記録がのこっている。
 のちの視点で見ると、玄洋社の筑豊炭田の権限入手プロセスは炭鉱坑区の「転がし」による資金調達こそが主眼だった。今日の「土地転がし」と変わりない。変わりないのだが、先に開発着手をしておく必要があった。実は玄洋社は北海道の夕張炭鉱も早々に入手し、のちに売却している。

 玄洋社が筑豊炭田の坑区を転売していった背景で、日清戦争の準備が黒々とすすんでいた。明治二七年二月に朝鮮で東学党の乱がおこると、玄洋社の在野分子たちは内田良平らとくんで「天佑侠」を組織して東学党を支援するとともに、甲申事変の再来を予定した親日政権擁立を画策した。
 天佑侠には福岡県山川村生まれ(いまの久留米市)の権藤成卿や、やはり久留米の武田範之がかかわった。これを「久留米派」というのだが、ここには権藤の父の権藤直、真木和泉、木村赤松から勤皇思想が発して、そこに品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣がかかわっていた。
 久留米派は、頭山・平岡の「福岡派」、宮崎滔天・清藤幸七郎・佐々友房の「熊本派」にくらべて、“血気にはやった知性派”ともいうべき特色をもっている。釜山に活動の拠点をつくったのも(大崎正吉は釜山に法律事務所を開設)、のちに三浦梧楼と閔妃殺害事件を画策したのも武田だった。
 天佑侠の資金はきっと山県有朋から出ていたのだろうと言われるのだが、それを自慢気に説明しているのがほかならぬ茂丸なので(『山県元帥』)、真相はわからない。とにもかくにもこのころからの茂丸の動きは、まさに「フィクサー、なんでもあり」を呈していったと思われる。
 その「なんでもあり」だけれど、本人の弁によれば、陸軍大佐明石元二郎を通じて第一次ロシア革命にもかかわったし(『明石大将伝』)、大隈重信に爆弾を投じて右足を負傷させた来島恒喜の上京を手引きしたのも茂丸だった。金玉均や宋秉畯が起案した日清開戦のシナリオを川上操六に打ち明けたのも、筑豊炭田の石炭を門司港から出荷できるようにしたのも茂丸だった。

暢気倶楽部
日清戦争後、茂丸は「暢気倶楽部」というインフォーマルな組織をたちあげ
義太夫会を催しては、政府要人たちを集わせ、秘密の会合を持った

 藤原新也君の故郷である門司は、小倉藩の時代は浜辺が一面の塩田だった。これを安場保和が国道敷設とともに新たに築港した。茂丸はできたばかりの門司港から石炭を輸出してはどうかと思ったのだが、ただし船がない。そこで香港に飛んでイギリス商人のシーワンと交渉した。シーワンを茂丸に紹介したのは荒尾精の知り合いだった譚蘭亭で、その縁からシーワンが茂丸にイギリス船ベンラワー号を貸した。
 この話はどうやら本当らしいが、ここに出てくる荒尾精とのつながりは茂丸の想像力をさらに雄飛させたようだ。

茂丸が石炭貿易を始めた明治22年の門司港

 荒尾は陸士を出たあと中国を学び、参謀本部から清に派遣されていた。気宇壮大で、かつ冷静沈着な人物である。上海では岸田吟香の楽善堂に世話になっていた。楽善堂はおもてむきは薬局だが、実際には支那内地軍事探偵本部みたいなもので、荒尾がそのリーダーシップをとっていた。いわゆる「大陸工作」だ。
 そこへロシアがシベリア鉄道を南下させるらしいという情報が入った。危機感をもった荒尾はここはむしろ清国との経済連携が必要だと感じて、帰国すると日清貿易研究所の創設を説いた。その荒尾が博多に来たのが明治二二年十二月で、茂丸が門司港から石炭を運ぶ計画に着手した時期と一致する。荒尾は東亜貿易の資金の一端を茂丸に期待したのでもあろう。
 日清貿易研究所はのちに東亜同文書院に発展して、荒尾と根津一がこれを経営し、大東亜戦争の渦中で多くの人材を輩出した。このあたりのこと、ぼくは以前から関心が深かったので、『虹色のトロツキー』(潮出版社)、『ハルビン学院と満洲国』(新潮選書)、『亜細亜新幹線』(実業之日本社・講談社文庫)などの千夜千冊にも書いておいた。

 日清戦争から日露戦争にかけて日本は未曾有の体験をする。戦争、植民地獲得、その経営、産業革命、その資本主義的発展、政党政治、一方での天皇絶対主義、連打される銀行設立、地域開発……。それらすべての裏工作……。この裏工作の多くに手を出したのが杉山茂丸だった。しかしその方針には、表向きを見るかぎり一貫したものがない。ともかく好き勝手なのだ。
 たとえば政友会の立ち上げに際しては、茂丸は児玉源太郎と桂太郎と密談をして、次のようなシナリオを交わしたと自分で書いている。①ロシアと必ず戦争をする、②そのために国論を一致させる政党をつくる、③その政党に山県有朋が反対するだろうからその予測をしておく、④この政党の領袖を伊藤博文にする、⑤政党が成立すれば山県を排除する、⑥この政党によって日露戦争に勝利すれば伊藤を長期にわたって顕彰する、⑦井上馨と松方正義にはこの戦争の会計を担ってもらう。こういう具合なのだ。おもしろいシナリオだが、好き勝手だ。
 ところがあろうことか、シナリオ通りに政友会内閣としての第四次伊藤内閣ができあがった。山県は激怒したが、これは、以前の第三次伊藤内閣では茂丸が関与した外資導入策が拒絶されたために伊藤を政権から追い落とすほうにまわったのだから、ここで伊藤擁立にまわるのは茂丸の変節なのである。
 一事が万事で、茂丸はつねに情勢を先取りした。その視点から日本興業銀行の創立にも京釜鉄道(ソウル・釜山間鉄道)の敷設にも、さらには日英同盟締結や南満州鉄道プロジェクトの裏舞台にもかかわった。けれども、伊藤から警視総監にならないかと水を向けられても、そういうハッキリした地位には動かない。うやむやが好きなのだ。とはいえ資金調達や人事配当ばかりしたわけでもない。星亨がおこした京浜銀行の後始末などもしてみせた。

京釜(けいふ)鉄道の敷設
京城(ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道会社を設立する運動が起こる
茂丸が政財界の有力者を巻き込み、不足する敷設工事費用を集め
政府の援助を引き出すことに成功した

 日露戦争後の日本は、条約改正の交渉と社会主義の上陸と中国革命(支那革命運動)の波頭に洗われる。このうち支那革命には茂丸は思わぬところから巻きこまれる。茂丸を支那革命の共闘に向かわせたのは弟の龍造寺隆邦だった。のちに五百枝を名のった。
 孫文は日露戦争終結のあとに再来日していた。明治三八年八月には麹町の富士見楼で歓迎会が開かれた。孫文は内田良平や黄興らと会合を重ね、章炳麟・蔡元培の光復会、黄興の華興会、孫文の興中会の三結社を糾合する「中国革命同盟会」の結成をはたした。ここには「孫文→陳白→菅原伝→宮崎彌蔵(滔天の兄)」という動きもあった。この動きに弟の五百枝が関心をもったのだ。しかし弟は病気に倒れた。
 茂丸は弟の志をいかすかのごとく、支那革命の動きと日本が連動することを支援した。山県有朋が明治四四年の武昌蜂起に危機感を抱いて日本軍の出動を用意しはじめると、内田良平とともに陸軍幹部をまわって、山県の決断をくつがえすように説得した。ただ茂丸は、孫文と深い交流まで果たした頭山や滔天のようには思いを入れていない。あくまで中国との交易を守ることが日本の国益だと考えたのである。
 こういう面は茂丸の外交感覚であって、イデオロギーに左右されないところでもあった。のちに津珍彦は「辛亥革命に対する日本人の共感」には三通りあったと述べた。思想に共鳴した滔天・萱野長知ら、外交利益から支援した茂丸・内田良平ら、孫文を人間的に包もうとした頭山らの、三つだ。当たっているのだろう。

明治44年、辛亥革命当時の茂丸

 支那革命とともに日本をゆるがせた東アジアの動向がもうひとつあった。日韓併合の準備とその確立だ。その経緯はここではふれないが(さらに台湾経営の動向もあるが)、これについても茂丸は一貫して「日韓合邦」を応援するという立場で通した。
 茂丸が日韓併合のシナリオにかかわるのは、さきにものべた金玉均や宋秉畯との関係である。宋は日本に亡命したとき大倉喜八郎をはじめとする多くの人士と交流するのだが、日露戦争時に日本軍の通訳となったときに李容九と「一進会」を結成してからは、積極的に日韓合邦を提唱するようになった。茂丸はその宋や李をよく観察していた。
 もともと宋や李たちの日韓合邦構想は“対等合併”を前提にしていた。けれども実際にはそうならない。大日本帝国による植民地化が確立しただけだった。この結末にはかれらは怒る。バラ色の幻想をふりまいた茂丸に、一進会から自決を迫るという一幕もあった。日韓併合に疑問をもっていた伊藤博文は、それでも事態がそうなっていくと、黙って韓国統監府の統監を引き受けた。朝鮮人民には侵略者と映った。ハルビン駅頭で安重根に殺された。

明治38年11月、京城
馬車で統監府へと向かう伊藤博文(右)と長谷川好道(左)

 ちなみに伊藤暗殺については、最近になって上垣外憲一の『暗殺・伊藤博文』(ちくま新書)や大野芳の『伊藤博文暗殺事件』(新潮社)などが、安重根をそのようにさしむけた背景には玄洋社、内田良平、明石元次郎、山座円次郎、そして杉山茂丸らがかかわっていたのではないかという推理を出している。これは当たっているのかどうか、さっぱりわからない。茂丸は日韓併合よりも東アジアの統合や黄色人種の連帯のほうに、途方もないピクチャーを描いていたようにも見える。そのピクチャーは樽井藤吉の『大東合邦論』に近く、その後の五族協和を謳った満州国に近かった。

 では、ふたたび話を北九州に戻しておわりたい。さきほど門司港の話をしたが、博多湾の近代化をめぐっても茂丸が関与していた。博多湾を近代的な港湾にすることについては、早くから青木周蔵(井上馨門下の外交官)が提唱していた。
 地元民の理解がなく事態はいっこうに捗らなかったのだが、明治四三年になって意外な突破口が開いた。筥崎宮の神職だった津耕次郎(津珍彦の父)が「遷都私議」という建議書を茂丸に見せたのだ。
 これはまことに奇想天外な建議書で、日露戦争の戦勝祈願をしたことで勝利を得たことを記念して、天皇を筥崎宮に迎えようというものだった。のみならず筥崎あるいは博多を都にしようというのだ。こういうことが大好きな茂丸は、さっそく頭山満・寺尾亨・福本日南らを集めて、津にこの計画を披露させた。茂丸にはべつに山座円次郎らが福岡の実力者たちである谷彦一、河内卯兵衛(福岡市長)、渡辺与八郎らと博多湾の開発を計画していたことを知っていた。そこでこの二つをあわせて、①博多湾を築港し、②筑後川を大整備して、③関門海底トンネルの開削に着手することによって、④筥崎遷都や博多遷都もありうると考えた。
 津の話には集まった連中の全員が賛成だった。こうして天皇遷座はともかくとしても、「博多湾築港株式会社」がスタートした。資本金二八〇万円、社長には茂丸が平戸の中村精七郎を着任させた。いま、筥崎八幡宮から海に向かって国道三号線を渡って海に出ると、そこに赤い鳥居が立っている。その向こうの埋立地が博多築港の起工式(大正六年)をした場所で、昭和七年に「杉山町」となった区域なのである。

博多湾築港会社が起工式を行った舞台

 関門トンネル計画のほうも動いた。大正六年に「関門海底鉄道株式会社」の創立準備の趣意書には茂丸が筆頭に記され、中村精七郎や津耕次郎らが名を連ねている。これはなかなか実現されなかった。業を煮やした茂丸が唐津・壱岐・対馬・釜山を結ぶ海底鉄道構想をぶちあげるにおよんで、これに鮎川義介(日産コンツェルン総帥)の満州移民計画が加わって、その度外れた構想に呆れた政府がやっと重い腰をあげたという具合だった。着工は、茂丸が亡くなった昭和十年七月直後のことである。

 大正昭和時代の茂丸は、ひとつには旺盛でホラ交じりの執筆活動家として知られる。『其日庵叢書』『乞食勤王』『青年訓』『屑籠』『桂大将伝』『児玉大将伝』『明石大将伝』『山県元帥』『浄瑠璃素人講釈』(これは武智鉄二や池波正太郎の愛読書だった)、そして『百魔』『俗戦国策』『義太夫論』等々。
 最初の「其日庵」というのは茂丸の雅号・庵号である。ソノヒアンと読む(ときにキジツアン)。其の日、其の日でベストの妄想をかきたてているという意味のようで、いかにも茂丸らしい。雑誌も作った。「黒白」という。なかなかいいデザインだ。この名も茂丸らしい。
 もうひとつはあいかわらずの画策で、そのなかには大隈重信にフィリピン買収計画をもちかけたこと、ラス・ビハリ・ボース(中村屋のボース)を自分の外車で運んだこと、イルクーツク以東に新ロシア国家を樹立しようという話、原敬の担ぎ出し、入間川梶之助とくんだ国技館再建計画、日露漁業乗っ取り事件を最後に救済したこと、雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場)の建設など、いくら資料を読んでも茂丸がどこからどこまで関与したのか、その前後の経緯がわからないものもいろいろ含まれている。しかし、そんな大ホラにもそろそろ人生の時限が残り少なくなっていた。

大正12年、関東大震災時の国技館
相撲協会による国技館再建活動に協力した

昭和7年、新宿「中村屋」にて
左から大崎正吉、内田良平、頭山満、犬養毅、ボース

 茂丸の人生最後の画策は、真崎甚三郎に「昭和の第二維新」に向けての結束を託したことだろうか。それが昭和十年のことで、数え年七二歳になっていた。その年の五月には「頭山満・杉山茂丸両翁金菊祝賀会」が催されたばかりだった。
 いや、もっと最後の最後には松岡洋右に「君は満州に行きなさい」と指示していた。それが七月初旬のこと、そしてその一週後の七月十九日に重篤に陥り、夜十時過ぎに亡くなった。翌朝の「福岡日日新聞」は、「翁七二年の生涯は策士黒幕としての一生であったが、その策は近頃の策士に見るようなこそこそしたものではなく、着眼点の大きい大策士であった」と報じた。妙な褒め方だ。
 東京の増上寺で葬儀委員長頭山満、副委員長広田弘毅による葬儀がおこなわれた。荒木貞夫、中野正剛、床次竹二郎、岡田啓介ら三四〇〇名が列席した。その後、福岡の一行寺であらためて通夜がもたれ、続いて玄洋社葬が催された。夢野久作は、このとき頭山が男涙を流しつづけていたのが見ていられなかったと綴っている。
 八月四日、位牌を拝みにきた松岡洋右が久作に告げた話が、いかにもこの稀代の怪人の真骨頂を伝えている。
 松岡はこんなことを茂丸に命じられたというのだ。とくと味わって読まれたい。「その時のお話の内容というのは、ほかでもありませぬ。私に満州へ行けという一点張りのお話でした。しかも、それは私を引き立ててやろうというような平凡なご好意からでなく、日本国のために必要な一つの犠牲として、私に挺身することをおすすめになったのです。まことに無慈悲、無虐このうえもない性急なご注文でありました」。