才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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エロスとタナトス

ノーマン・ブラウン

竹内書店 1970

Norman O. Brown
Life Against Death 1959
[訳]秋山さと子

生きる情動と死の衝動。
生のエロスと死のタナトス。
この二つは何としても切り離せない。
二つの発現を少しずつ瞬間のほうに縮めていけば、
エロスとタナトスは表裏一体になる。
それをフロイトは「無意識」にとじこめた。
この二つは、その本来の姿のまま取り出してはまずいのか。
どうすれば「文化」になっていけるのか。
名著として鳴るノーマン・ブラウンの本書は、
ここに博覧強記をもってその可能性を開示した

 ぼくが知るかぎり、「エロスとタナトス」という言葉が大好きで、これをやたらに連発するのはアラーキーこと荒木経惟(1105夜)である。「ぼくの写真はエロスとタナトスを撮ってるからね」「ほら、この花がさ、エロスとタナトスの裏返しなんだよ」「やっぱりエロスを追求するとタナトスになるんだよな」というふうに。
 アラーキーの写真が「エロスとタナトス」の写像的二重性によって成り立っていることは、まさに本人が言う通りで、これほど一貫した主題が撮りつづけられているのは他の写真家には見られぬほどである。それについては1105夜にあれこれ書いたことなので、ここではこれ以上の応援演説をするのは省くことにするが、では、アラーキーが言うような「エロスはタナトスで、タナトスはエロスだ」というような見方は、いったいどのように認知されてきたのかというと、これはやっぱりフロイト(895夜)にまでさかのぼる。
 フロイトが『快感原則の彼岸』において、エロス(生)とタナトス(死)を対比させ、生の欲動と死の欲動を二重化し対置性をもって解釈しようとしたのが、そもそもの「エロスとタナトス」流行の淵源だった。ただ、そのようなフロイトの指摘はその後、一般化されすぎたり、歪んだり、誤解されたり、忘れられたりもした。それを人間文化史上の中軸におきなおして復活させたのがノーマン・ブラウンの本書『エロスとタナトス』だったのである。
 もう少し先のことまでいえば、ブラウンの「エロスとタナトス」論の復活はさらに延展されて、その後はたとえばヘルベルト・マルクーゼの『エロス的文明』(302夜)へと発展していった。大江健三郎に多大な影響をあたえたマルクーゼのこの本は、文明は「エロス≒タナトス」の抑圧からしか生まれてこなかったのだから、それが嫌なら文明のほうを変革するべきだとまで言ってのけたのだ。
 というわけで、本書ほど有名な書名をもつ本はないと思うけれど、実は『エロスとタナトス』はもともとの原題ではない。“Life Against Death”が原題で、「歴史の精神分析的意味」が副題になっている。それなら誰がこれを『エロスとタナトス』にしたかというと、フランス語訳がそうした。念のため、エロスはエロース(Eros)で例の性愛の神のこと、タナトス(Thanatos)はギリシア神話の夜の女神ニュクスが一柱で産んだ子で、「死」そのものの神格化だ。以来、60年代をへて本書はむしろ『エロスとタナトス』として、とくに日本の知識人のあいだを流浪した。
 翻訳は秋山さと子さん。1970年の刊行で、ぼくが「遊」の準備にとりかかろうとしていたころだ。ドイツから帰ったばかりの筋金入りユング派の秋山さんが骨太のフロイト論を翻訳したのは勇気のある行為だと、当時、話題になった。ぼくはその秋山さんからフロイトについてもユング(830夜)についてもいろいろ教わったけれど、残念ながら亡くなるのがやや早すぎた。

 ノーマン・ブラウンが本書で言いたかったことは、一見すると、明快だ。フロイト主義には多くの危険な言説がまじっているが、それを注意深く取り払っていきさえすれば、フロイトの仮説にはいくつかのたいそう重要な指摘があって、それらは人間の宿命、社会の本質、文明の特色などの隠れた真相を暴く力をもっていたということである。
 なかでも、われわれの真の欲求には無意識的なところがあって、そこには「生」(エロス)の本能とともに「死」(タナトス)の本能が付着しているということについては、もっと知られるべきであろうということだ。
 心理学というものは、人間の心のしくみやはたらきを解明しようとする学問である。しかしフロイトの精神分析学はその他の心理学とかなりちがっている。どこがちがっているかというと、その根底に「無意識」をおいた。
 われわれは、自分は自分だと思っているが、それは自分らしきものを構成しているもののごくごく一部にすぎない。フロイトによれば、そういう自分や自己の正体は、「それ」(Es エス)と呼ぶしかないどろっとした海のようなものの中に「自我」(Ich イッヒ)という島のようなものが浮かびながら混在している状態にある。すでに「千夜千冊」でも案内したように、「エス」はゲオルク・グロデック(582夜)の用語を借りたもので、英語圏ではラテン語の「イド」(Id)になる。このエスやイドが「無意識」に押し込められ、埋められたままになっている。
 そこにはエロスとタナトスの本能が互いに表裏一体のような関係で織りこまれていて、そのことと人間の宿命、社会の本質、文明の特色などとは切っても切れないものとなっている。そうだとしたら、人間はここに「第三の審級」としての「超自我」のようなものを現出しようとするだろう。文明とは、この無意識・自我・超自我の互いに絡んだ歴史だったのではあるまいか。
 ごくおおざっぱにいうなら、こういうフロイト精神分析学の仮説にブラウンは注目したわけである。全部に注目したのではない。問題は、エロスとタナトスが「無意識」の奥に埋めこまれているのかどうかだった。きっとそこにはもっとさまざまな様態をとっていたり、出入りしているのではないかというところなのだが、少なくともフロイトの仮説では、そこには無意識のみが関与する。そこでブラウンは本書において、エロスとタナトスを心の奥の無意識によってしか説明できないものかを問うた。ぼくが見るに、その問い方がすぐれていた。
 ブラウンは、本書でこのフロイト論ばかりを弁護したのではなかった。実はもっと興味深い、哲学的で、かつ経済社会論上の指摘もしていた。ぼくがかつて感応したところでいえば、さまざまに編集的示唆に富むことを指摘していた。編集的世界観の素材のヒントもふんだんに詰まっていた。そこがいまふりかえってもなかなかなのである。が、そのことについてはのちにのべることにして、まずはブラウンが選り分けたフロイト論の骨子を、もう少しだけ紹介する。

 フロイトの思想を解く鍵は「抑圧」にある。フロイトの生涯にわたる研究はほとんど「抑圧の研究」だったといっていいほどだ。
 抑圧を解明するにあたって、フロイトが対象にした抑圧的心理現象は、よく知られているだろうが、主として3つあった。①精神錯乱者の狂気ないしは狂気に近い心理現象、②夢もしくはそれに類する心理現象、③日常生活でしばしばあらわれる錯誤や失敗や「言いまちがい」や「でまかせ」のたぐいの心理現象、この3つだ。
 これらはすべて抑圧的無意識が絡んでおこったこととみなされる。そこでフロイトは、人間のなかにはふだんの意識的な生活とともに無意識的な日々が同時にはたらいているとみて、これらの抑圧された心理は「無意識的思考」になっているのではないかと考えた。ただ、この心理現象は、その心理をもつ本人の意識的な自己否認や自己抵抗があるために、フツーの方法では意識化できない。取り出せない。そのため人間は目的に向かおうとすればするほど、非意図的目的に自分が律せられているというふうになりかねない。人間はそういう逆説(パラドックス)を本来的にかかえこんでいるとみなしたのだ。
 これがフロイトふう無意識的思考というものなのだが、この逆説がいささかクセモノだった。実際にも、人間には無意識があるという仮説は、その後の多くの心理学派を迷わせた。
 それはともかく、フロイトのいう「無意識」はわれわれの心の奥にある花園でも神秘でもなく、抑圧そのものの捩れたアーカイブになっているということなのである。フロイトの研究真意は無意識の解明ではなく、抑圧の説明にあったということだ。ここまでがフロイト論の骨格の前提になる。

意識と無意識の関係図
意識と無意識の間には、記憶の「複合化」や
夢による「検閲」(抑圧)という二つの捩じれた編集工程が置かれる。
さらには「置き換え」、「圧縮」、などの加工が施される。

 ひるがえってフロイトは、人間の精神活動がほとんど快感原則に従っているとみなしていた。快感原則とは、苦痛を回避して少しでも快楽を求めようとする傾向のことをいう。
 この快感原則は日常的に保証されるとはかぎらない。つねに社会的な制約のなかで歪んでいく。おいしいものを食べたいという欲望やきれいなものを着たいという欲望は、ある程度の収入がなければ満足させられないし、リビドー(性欲)のようなものはよほどの状態が準備されないかぎり、ふだんは制約されざるをえない。そこで知らず知らずのうちに意識の快感原則と社会の現実原則のあいだに矛盾や亀裂が生じ、それが抑圧となってわれわれの意識の奥にその矛盾や亀裂のしこりのような残像を残していく。
 こうして日々抑圧されて無意識の捩れたアーカイブとなったものは、容易には取り出せないものとなる。ストレートに取り出せば窃盗や覗きやストーカーや、ときには殺害にもなりかねない。そのため多くの人間はしばしばこれを回避するあまり、不可解な行動をとる。それは自己防衛でもあるのだが、また複雑なエスと自我との絡みのあらわれでもあった。
 たとえば「反動形成」だ。ある欲望を抑圧したことが、その反動として正反対に近い表現や行動になる。嫌いな相手なのについつい丁寧になってしまうような例である。これは社会習慣のなかではマナーやエチケットになっていった。
 たとえば「投影」もおこる。これは自分がもっている感情や欲望を、自分がそれをもっているのだと思わずに相手がもっているものだと思いこんでしまうことをいう。その逆に「同一視」も生じてしまう。他人の態度や行動を自分にとりいれているうちに、そのことを自分のオリジナルだと思いこむ。たとえばまたムキになって「否認」することも、しばしばおこる。みんなに周知の事実さえ認めない。相手が美しいとか強いと思ってしまうと自分がダメになると思って否認する。またたとえば「分離」をおこす。AとBの因果関係が自分に起因していることがうすうすわかっていても、それを分離して他人事のように自分がそれを語れるようにしてしまうわけである。
 こういう例をフロイト学派はゴマンとあげて縷々説明しているのだが、これでは人間は何をしたってビョーキなのである。そこでブラウンはこれらの症例的行為には目も向けず、フロイトやフロイト学派が最後にあげた「昇華」にのみ注目した。
 昇華とは、社会的な現実原則からするとなかなか受け入れられないような抑圧的欲望を、著作や小説や芸術や歌や修行やスポーツなどにして、いわば社会的なコミュニケーションの可能性にしだいに転換していくことをいう。本書は第1部「問題」、第2部「エロス」、第3部「タナトス」ときて、第4部に「昇華」をおいているのだが、ブラウンはこの昇華を「転移」とも呼び替えつつ、取り出せなくなっている抑圧の絡みも、これを少しずつ世界観をもったコミュニケーション能力の表出に向けていけば、無意識的思考ではなくなる可能性があると言いたかったのである。

 念のため言っておくけれど、フロイトを「無意識の発見者」とか「心の正体の解明者」とよぶのは当たらない。フロイト自身、「私が発見したのは無意識が研究されうる方法である」と言っている。
 ノーマン・ブラウンが本書の記述において採ったのも、「方法としてのフロイト」に注目することだった。しかし、方法に注目することは(ぼくもつねにそうしているのだが)、ひとりフロイトの方法に注目することにはならない。その方法の可能性に類似する多くの方法をそこへ組み合わせながら呼びこんでくることになる。本書がかつてぼくに影響を与えたのは、そこである。
 フロイトは幼児期に性欲が抑圧されていることをもって、エロスはすでに幼児の成長の遅延として発芽しているにもかかわらず、それが大人社会の制約で思いもかけない禁止を受けるため、そのエロスは当初からタナトスの香りをもってきたとみなした。「禁じられた遊び」とはそのことだ。ブラウンは、仮に幼児にそうした傾向があったとしても、それは抑圧的なエロスとタナトスの関係のまま停止していくものになるとはかぎらないというふうに見る。

ヒステリー患者の自由連想
ヒステリー患者の発症と幼少体験の間には、
分散し、集合する「連想の編目」が広がっている。

 こうしてブラウンは、アッシジの聖フランチェスコ、ヤコブ・ベーメ、ウィリアム・ブレイク(742夜)、ライナー・マリア・リルケ(46夜)らを持ち出して、エロスとタナトスはそれを同時に感じられているときは、「永遠の生成の遊び」を秘めているのだろうと考えた。またシャルル・フーリエ(838夜)やジョン・メイナード・ケインズを持ち出して、実は初期の経済活動やその組織化の試みには、生産と分有に関するエロスとタナトスの遊びが反映しているのではないかとも見た。とくにシャーンドル・フェレンツィの『遊戯と経済的行動の理論』に耳を傾けた。
 こういうフロイト主義者はあまりいなかった。一言でいうのなら、エロスの本質が自己以外の他者との融合にあるのなら、そのエロスは心理的葛藤だけではなく、さまざまな社会活動や経済活動にあらわれているはずだというのが、ブラウンの見方なのである。ぼくはドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』(1082夜)やそれに続く著作群が、すぐれたフロイト主義と資本主義の重層構造を暴いた大きな思想の試みではあるとは思っているのだが、そこにはブラウンのような見方は欠けていた。
 むろんフロイトも、エロスとタナトスが個人の無意識に閉じ込められたままになるとは言ってはいない。とくに宗教や信仰には、快感原則と社会原則の桎梏をこえるエロス≒タナトスの地平があらわれていると見た。しかし、それは精神分析にとっては「代償」なのである。「贖い」なのだ。『モーセと一神教』(895夜)において、ヨーロッパ的宗教の成立そのものに「原父の殺害」という隠された動機を読みとったフロイトにとって、宗教そのものが精神の解放の全プログラムをもちうるとは、どうしても考えられなかったからである。

 ブラウンは宗教にはこだわらない。もっといろいろな方法がフロイトの方法と共鳴しあっていることを指摘した。
 スピノザ(842夜)が神との愛の相克をめぐる哲学をしたことも、ノヴァーリス(132夜)らのドイツ・ロマン派が「夜の側」をもって地下に眠る鉱物的意識を蘇生しようとしたことも、エロスとタナトスの昇華の試みだったろうと見た。
 さらには、ショーペンハウアー(1164夜)とニーチェ(1023夜)こそは、エロスとタナトスを世界観や世界意志に近づけた最も大きな思索の成果をもたらしたのであろうことを指摘する。このことは(ニーチェとフロイトの近似性は)ぼくもいくら強調しても強調したりないとは思うけれど、今夜はここはスキップしておこう。ぼくが今夜ぜひとも紹介しておきたいのは、第5部「肛門性の研究」の第15章「汚れた金銭」にのべられていることである。
 この章にいたるまでに、ブラウンはフロイトの「排出のコンプレックス」論をスウィフト(324夜)やサド(1136夜)の政治的な「エロス≒タナトス」論に仕立て上げ、それをルターやカルヴァンに発するプロテスタンティズムが攻撃をしすぎたこと、そのため「富の神マモン」に走る者たちが卑しめられたこと(マモンについては608夜参照)、したがって資本主義的な経済活動のもともとの本質がかなり歪んでしまったことなどを指摘したうえで、、この第15章「汚れた金銭」に突入するのである。
 ここでブラウンが最初に持ち出すのはアルフレッド・ホワイトヘッド(995夜)なのである。ブラウンは経済活動の本来は有機体のなかでとらえられなければならなかったと言うのだ。これは20世紀の経済が金銭と数量にシフトしすぎていることを告発するとともに、「価値」は有機的な関係性のなかからしか掴み出せないということを示唆するためだった。
 そのうえでマルクス(789夜)の労働論、デュルケムやジンメルやケインズの貨幣論を縫いあわせつつ、ブラウンが案内するのはなんとジョン・ラスキン(1045夜)の経済哲学とカール・ポランニー(151夜)の経済人類学なのである。ラスキンが「すべて本質的な生産物は口のためであり、最後もまた口によって評価されてきた」「一般に金銭とよばれてきたものはすべて負債の承認である」というくだりの解読など、かなり興味深かった
 とくにポランニーの「経済は計算には支配されていない本質をもつ」「人間の経済は社会の環境の中に埋められている」「経済は非経済的動機によって動いている」を、フロイトの方法と重ねて読み明かし、そこからマルセル・モースの贈与論やレヴィ₌ストロース(317夜)の構造主義に注釈をつけていくブラウンの手際はみごとである。
 贈与に母性的なるものがひそみ、獲収にはそれを打ち破って平板化しようとする父性原理があるという指摘もある。これまた示唆深いことである。

 もしも世の中に、異常と正常があるというのなら、世の中は異常のうちの一部の価値観を多数決をもって平板化してみせて、それを正常と名付けたのである。いまはこれをグローバル・スタンダードとか標準的価値観とか呼んでいる。
 精神分析学は、この異常のほうに神経症などの精神病をあて、正常のほうに健康と思われる精神状態をあてたのであるが、この二つの状態で何が異なっているかといえば、正常(健康)とは異常(症状)のうちのごくごく流布された社会的な症状であるということだけなのだ。
 エロスとタナトスにおいては、何が異常で何が正常であるかは決めがたい。そこを分別できないことが、エロスでありタナトスの本質であるからだ。そのくせ、われわれは自分のなかの突発的な衝動を抑え、それを価格が貼りつけられた商品として購買できるときにだけ、ニーズやウォンツが消費された(獲保された)と思うようになってしまった。そう、飼いならされた。そして、そのような標準的価値観が公正に並んでいるのが市場というものだと信じるようになった。
 しかし、人間の情動や欲望がそんなもので収まらないことは、誰でも知っている。ジグムント・フロイトはそこに鋭いメスを入れ、どんな欲望と消費の活動にも必ずや抑圧された無意識がかかわっていることを暴いた。この暴露、おそらく70パーセントは当たっているだろう。
 しかし、この抑圧をどうすればいいのか。それはビョーキなのだから治癒してあげましょうというのが精神分析医たちで、それをみんなでガマンする社会にしましょうねというのが民主主義というものである。
 一方、ノーマン・ブラウンは、抑圧された無意識を昇華するにはむしろ世界観が必要で、その世界観を表現する方法が採出され、それぞれが照らし合わされなければならないと見た。すでにフロイトにもひそんでいた方法ではあったけれど、ブラウンはその狭い入口に大きな出口をくっつけた。これがぼくからすれば、まさに編集的世界観の作り方に似ていたわけである。
 本書は初読・再読このかた、ずいぶんほったらかしにしておいた一冊だった。だいたいほったらかしにしておいた本というのは、クセモノだ。なぜなら、それらは往々にしてぼくのタネ本であることが多いからである。