アベ・プレヴォー
マノン・レスコー
新潮文庫 1956 岩波文庫 1929
ISBN:410200601X
Antonie Francois (L'Abbe´)Pre´vost
L'Histoire du Chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut 1731
[訳]青柳瑞穂
グリューはマノンにめろめろだ。
彼女は修道女になろうとしていた少女だった。
しかしマノンは美の化身であって、快楽の浪費家で、
そして、生まれてついての娼婦でもあった。
モーパッサンが絶賛した『マノン・レスコー』は、
男性が最初につくりあげた娼婦文学である。
サドもブコウスキーも、吉行淳之介も水上勉も、
娼婦を描いた者たちは、すべて“彼女”に出所する。

 女性の美と生活と心理について人後に落ちないと自負している、あのギイ・ド・モーパッサン(558夜)でさえ、さすがに『マノン・レスコー』だけには根っから脱帽していた。これは手放しの絶賛だ。「どんな女もかつてマノンほどに詳明に、完全に描かれたことはなかった。こんなに甘美で、同時に不実な、恐るべき女性性の精髄をマノン以上にそなえている女性は、かつて存在しなかった」。
 アベ・プレヴォーは、かつて文芸史上に一度も登場してこなかった女性像を描いた。ラブレーもシェイクスピア(600夜)ゲーテ(970夜)スタンダール(337夜)も、プレヴォー以前のどんな作家も、こんな女性を文学作品のなかで描くことを思いもつかなかった。プレヴォーは「娼婦」を主人公にし、そこに男が希ってやまない女性の魅力のすべてを体現させたのである。
 こんな絶賛にはすぐに、したり顔の反論があがるかもしれない。娼婦が男の理想像のひとつだって? そんなことはずっと昔からの当たり前の相場だったろう、男が娼婦にぞっこん参るのはマグダラのマリア以来、ずっと変わりのないことなんだよ、というふうに。
 そう思う連中が世間にゴマンといるのはぼくも承知しているし、あとで述べるように、娼婦を描いた文芸の歴史については実はかなりの前史があったと思うのだが、一般的な文学史では、そういう見方は実は『マノン・レスコー』を踏襲したにすぎず、娼婦マノンがあらわれる以前は、文芸家たちはそのように娼婦を理想化するすべなどもっていなかったというふうになっている。マグダラのマリアが「襤褸をまとった罪深いヴィーナス」だとすれば、マノン・レスコーはさしずめ「虚飾をまとった犯罪的なマリア」なのである。が、男にとっては、両者ともにアガペーの象徴であって、またエロスそのものの化身だったのである。
 ということは、こういうことだ。サド(1136夜)もモーパッサンもゾラ(707夜)も、田村泰次郎も吉行淳之介(551夜)も、ブコウスキー(95夜)水上勉(674夜)も、アベ・プレヴォーをまるごと見習ったということになる、ということだ。のみならず、マノン・レスコーはフランス文学で初めて登場した貴族出身以外のヒロインだった。これは“立証”されている。アベ・プレヴォーはフランス文学を一変し、そして男たちの可燃にひそむ女性像を変えたのだ。

「“マノン・レスコー”を読み上げるプレヴォー」(1856)
画:ジョセフ・カロ

 語り手はグリュー(デ・グリュー)という騎士(シュヴァリエ)である。作中ではしばしばシュヴァリエ・デ・グリューと呼ばれている。
 グリューは自身の日々を回想して、娼婦マノンとのいきさつを語るのだが、それを作者がじっと聞いている。そのため、グリューを翻弄しきったマノンのキャラクターが、語りがすすむうちに如実に読者の眼前あらわれるようになっている。ストリップ・ティーズな手法なのである。

 ぼくがこれを読んだのは大学生のころだったのだが、こちらがマノンその人にその柔らかい手で直截にぼくの“青春”を翻弄しているように感じ、それがマノンに対する羨望や欲望にまじって変化していくのがよくわかった。なんとも女性に対する深い関心を焦(じ)らしていく小説なのだ。
 それは、グリューの語り口がすでにマノンを存分に理想化しているからである。「マノン、おまえは神さまの造った人間としてはあまりにもすばらしい」「死ぬのが当然かもしれない。しかし千回死ぬよりか、あの恩知らずのマノンを忘れるほうがつらいのだ」。こんなふうに言われれば、どんなふうにも想像をたくましくせざるをえない。このトリックにみんなまんまとひっかかる。モーパッサンもひっかかった。
 18歳そこそこのマノンは修道院に入る予定だったのだが、偶然にグリューに出会ってその恋愛に生きることを選んだ(と、グリューには思えたわけだ)。これは男にとって願ってもない邂逅である。グリューは有頂天になる。どんなに美しい聖女とみえたかと思うけれど、ところが、それほどグリューを魅了したマノンの容姿については、ほとんど描かれない。「マノンの魅力は描きうる限界をはるかに超えていた」というばかり。
 これで読者はまたまた想像をたくましくする以外になくなっていく。その想像できるかぎりに魅惑に富んだマノンの前で、語り手はマノンに身も心も尽くそうとして、マノンを掌中から逃がしていったいきさつを語る。それがまた焦れったい。マノンは生まれついての男を翻弄する女でありながら、グリューにはそこがどうしても得心できていない。まったく青年を惑わすための小説だとしか思えなかった。

 こうしてグリューは、マノンの華やかさを好む気性、周囲をたえずはしゃがせるような姿態、どんな場合にも飾りた立てずにはいられない贅沢三昧、そして快楽に対する無法ともいうほどに浪費的である肉体性を前に、完全に混乱していく。
 たとえば、こんなふうに。「マノンは私の髪の毛を放し、ソファにふんぞりかえると、部屋じゅうひびきわたるほどのげらげら笑いを爆発させた。こんな他愛ないまねも、恋のしわざだと思えば、私はその心意気に心底から感動したことをかくす気にはなれなかった」。
 こんなことでは、とうていダメだろう。グリューの誠意もこれでは届きっこない。ただただ逆効果が高じる。
 案の定、贅沢に溺れるマノンを近くに引き寄せるための資金が尽きてきた。娼婦は高くつく。そうするとマノンは、それなら私が男たちと交わって、お金を稼いであげるわというふうになっていく(と、グリューには思われる)。
 父親や親友のチベルジュは大いに心配してその行きすぎを心配するのだが、もはや聞く耳はない。娼婦がネイチャー(本性)であるマノンに、グリューはひたすら聖女しか見えなくなってしまっている。それは読み手のこちらも、そうなのだ。
 かくてグリューと娼婦マノンはお定まり、二人して身も心もとことん堕ちていく。マノンは売春のかどでルイジアナ州の流刑地に送られる(ここはフランス領だった)。そこでは司令官が待っていた。グリューはどうしたか。もちろんじっとしていられない。同じくルイジアナに追いかけていく。そこにこそきっと新生活があると思えてしまうのだ。そこは当時のまさに新大陸であり、新生活なのである。
 しかしマノンはアメリカでも虚飾の快楽の本領を発揮せざるをえない。司令官の甥と交わり、多くの男たちの歓心を買った。新生活とは、あいかわらずマノンの奔放を騎士の純情な胸に打ちこむ仕打ちばかりだったのだ。グリューも呻いて、こう言わざるをえない。「浮気なマノン、きみはなんて恩知らずの不貞な女なんだ。あの約束と誓いはどこへいったんだ。とてもとても浮気で、残酷な恋人だよ。きみは愛というやつを今ももっていると誓っているけれど、そいつをどうしてしまったのか。ああ、神さま!」。
 そして最後がやってくる。マノンはデ・グリューとともに荒涼たる土地に逃げざるをえなくなり、そこで野垂れ死ぬ。茫然としたグリューは自分も死ぬしかないと決意するのだが、それも叶わない。結局、ティベルジュがグリューをフランスに連れて帰る。語り手は「もとの生活にやっと戻りました」と、聞き手の作者に語りおえる。さあ、めでたし、めでたし、なのか。

「マノン」最後の場面の舞台画

 アベ・プレヴォーというのは半分筆名、半分実名である。アントワーヌ・フランソワ・プレヴォーが本名で、北フランスのアルトワ地方はエダンの旧家に生まれた。アベというのは“お坊さん”といった程度の意味で、したがってアベ・プレヴォーは“法師プレヴォー”といったニックネームふうになる。
 実際にもその法師としての高位聖職者になるべく、プレヴォーはイエズス会エスタイ派の学校に入ったのだが、15歳で軍隊に入ってからはすぐに放浪癖が出てきて、なんとも落ち着かない青年になっていった。厳格な教育をさせたいと思ったていた父親が、それならパリのタルクウル学院に送りこんでしまおうとするのだが、一説では、このパリに行く途中でプレヴォーは“マノン”に出会ったという。“マノン”は修道院に入るためにアミアンに向かって一人で旅をしていたのだという。
 それでもいったん23歳でベネディクト教団の修道院に入るのだけれど、プレヴォーはどうにも“マノン”が忘れられない。パリに行っては逢瀬をたのしむのだが、彼女のほうは娼婦化していた。

パリ鳥瞰図(1737)
画:チュルゴ

 実生活ではプレヴォーは“マノン”をあきらめたようだ。いくつかの僧院に出入りして、サンジェルマン・デ・プレの僧院では「キリスト教フランス」という冊子の編集に携わったりした。やがて執筆癖が高じて『ある貴族の回想と冒険』を書き始めて4巻目までになると、そのあとイギリスに遁走し、そこで2年を遊んで、さらにオランダに渡り、レンキという女性と恋に落ちたのだが、ここで経済的に破綻してしまった(このあたりのことも、小説に生かされている)。
 その間にロンドンで書いたのが『ある貴族の回想と冒険』の7巻目にあたる『マノン・レスコー』(1731)なのである。正式なタイトルは『騎士デ・クリューとマノン・レスコーの物語』という。
 が、食えなくなったプレヴォーはまたまたイギリスに戻り、そこで“世界”を実感するようになると、1734年にやっとフランスに帰ってくるのだが、ここで啓蒙思想に内部で加担するようになっていった。「賛否両論」という新聞を発行してイギリスの社会文化の動向を紹介したりもしていた。ところがヴォルテール(251夜)らとの交流が当時の世間の目には災いして、またまた亡命せざるをえなくなった。騎士デ・グリューではないが、そんなことをくりかえしてばかりいたようだ。
 それでも晩年の20年ほどは教団にも復帰でき、それなりの安穏な日々が訪れたらしい。
 ぼくはまったく読んでいないけれど、プレヴォーの作品は60巻とも100冊ともいわれていて、その途方もない執筆力はフランス文学史上の奇跡とすらなっている。ついでにいえば、そうした60も100も綴った物語のなかで、プレヴォー自身は『マノン・レスコー』にそれほどの力を注いではいなかったらしい。僅か1~2週間の執筆だったらしい。
 しかし、物語というもの、そういう執筆時間などでは値打ちは決まらない。プレヴォーが『マノン・レスコー』において娼婦文学の母型を創出したことこそが奇跡なのである。

 かくて『マノン・レスコー』は、当初こそ発禁扱いを受けたのであるが、その後は1839年版にはサント・ブーブの序文を、1875年版では小デュマの序文を、1878年版ではついに硬派のアナトール・フランスの序文をえて、次々に出版され、そのたびに圧倒的な話題を集めた。1884年にはマスネが作曲してオペラとなり、それが1893年にはプッチーニの悲劇『マノン』に昇華した。

劇『マノン・レスコー』(1998)

 いまやプレヴォーはフランスでは大谷崎の扱いである。しかも谷崎(60夜)とはちがってプレヴォーが『マノン・レスコー』を発表したのは1731年。これは享保16年にあたっている。吉宗や白石(162夜)の時代だ。鈴木春信の浮世絵や恋川春町の黄表紙や柄井川柳の『柳多留』が出回る30年前になる。まさにかなり早々の娼婦文学の出現なのである。
 そういうこともあって、アベ・プレヴォーが本当に初めて娼婦を描いたのかどうか、ぼくは多少疑っていた。先行していた作品がけっこうあるんではないか。
 それというのも、バーナード・マンデヴィルの『蜜蜂の寓話』(1724)を読んだとき、あまりに詳しく娼婦や売春婦のことが議論されていた。マンデヴィルは「売春宿を公営にすべきだ」と書いていた。自由恋愛は性病の蔓延をもたらし、社会をめちゃくちゃにする。それよりは娼婦制度を確立して売春宿を公営にしたほうがいいというのである。マンデヴィルがアダム・スミスに影響を与えたことはよく知られているが、そこには「売春の市場化」も含まれていたわけである。それならそのころに、娼婦文学があったっていいはずだった。

ンドンの売春婦のパンフレット(左)と18世紀の娼家の模様(右)
王侯貴族が競って才色たぐいなき愛妾をかかえ、娼家は大繁盛した。

 猥褻文学あるいはポルノグラフィ文学の傑作として名高いジョン・クレランドの『ファニー・ヒル』も、18世紀前半の当時の娼婦の日々を詳細に描いていたはずである。ぼくが『ファニー・ヒル』をどきどきしながら読んだのは、長い発禁期間をへて(美和書院とか紫書房から抄訳が出ていたように思う)、この本が河出書房か浪速書房から全巻翻訳された1970年代おわりのことだったが、そのあからさまな描写は春情を唆(そそのか)すようでいて、実はきわめて上品で、そのためどうにも奇妙な気持ちになったものだった。
 だいたい娼婦ファニーの身の上はあまりに悲しく、高級娼婦の館(ドゥミモンド)の女主人ミセス・ブラウンの使用人になったというのも、両親を天然痘で失い、生活もおぼつかなくなったためで、娼婦としての訓練をうけるいきさつもレズビアンから始まって、好色商人のもとに売られてこれを拒否し、そこから先は自身で快楽をコントロールするかのように高級娼婦としての技能を磨いていくというふうになっている。そのくせファニーはやがて若い青年と結婚し、上流社会の夫人の仲間入りをはたすのだ。
 だからマノン・レスコーとはだいぶん異なる日々ではあるが、娼婦の文芸化としてはプレヴォーより早いのではないかと思っていた。が、これはぼくがまちがっていた。『ファニー・ヒル』は1748年の出版だった。同様にイギリス娼婦文学の嚆矢として名高いサミュエル・リチャードソンの『パミラ』も1740年の出版で、しかもプレヴォーはこのイギリスの娼婦小説をフランス語に翻訳した張本人でもあった。

ョン・クレランド『ファニー・ヒル』の押絵

 このように見ていくと、なるほどアベ・プレヴォーが“処女”なのである。かつまた、作品が果たした役割は正真正銘、かなり大きなものだったということである。ルソー(663夜)の『新エロイーズ』もヴォルテール(251夜)の『カンディド』も、その年々の時代にプレヴォーを読んでから綴られた「ロマン・リベルタン」(好色小説 roman libetin)だったのである。
 では、やはりプレヴォーの『マノン・レスコー』より前に娼婦文学がなかったのかというと、やっぱりあった。ダニエル・デフォーの『モル・フランダース』(1173夜)があったではないか。これは1722年の出版だ。
 すでに千夜千冊したように、この作品は正式タイトルにあるように、とんでもない内容だ。「ニューゲートの刑務所で生まれ、ジプシーと交じり、売春婦として12年を過ごし、5度夫を迎え(そのうち1度は自分の兄と)、盗賊稼業を12年をしたのちヴァージニアで12年の流刑をへたのち、ついに財をなし、正しい人間となって悔悛者として死んだ、かの有名なモル・フランダースの60年の歳月の幸運と非運の、その回顧録」というものだ。
 そもそもモルとは「淫売」(whore)の音便になっている。デフォーこそ先駆者だったのではないか。ぼくは1173夜でダニエル・デフォー自身が遍歴の激しい“男のモル・フランダース”だと書いておいたけれど、実はデフォーには『ロクサーナ』という“幸運な愛人”を主人公にした作品もある。とすれば、最初にモル・フランダースやロクサーナがいて、その次にマノン・レスコーが颯爽と登場し、そしてファニー・ヒルやパミラが生まれていったのだということになる。

 もっともこれらは“娼婦の文芸化”ということであって、娼婦そのものはマンデヴィルの証言ではないが、当時はかなり街に溢れていたのだし、それ以前から、フランスでいえば17世紀のルイ15世のころから有名だった。“彼女”らはイギリスならロバート・バートンの『憂鬱の解剖』(1621)のころから、ロンドンの“悪くて甘い”有名景物になっていた。

「ソファーに横たわった少女」(1751)
画:フランソワ・ブーシェ
ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人がヴェルサイユに開設した
娼館鹿の園(パルク・オー・セール)で働く少女が描かれている

 こうしたこと、アラン・コルバンの大著『娼婦』(藤原書店)にはがっかりしたが、バーン・ブーローとボニー・ブーローが著した大著『売春の社会史』(筑摩書房)には詳しい。いずれ千夜千冊してみたい。
 ちなみにマノン・レスコーは何度も社会に再登場してくるのだが、最もその輝きが知られたのはビアズレーがマノン・レスコーを描き、ロートレックがパリの娼婦たちを描いた世紀末デカダンスの時だった。いま、日本のイラストレーターたちは、そうした女たちを描くことがない。

ムーラン街のサロン」(1894)
画:ロートレック

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