才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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やちまた

足立巻一

河出書房新社 1974

足立巻一とは誰か。
司馬遼太郎が唸った作家である。
『やちまた』とは何か。八衢である。
この題名は、本居春庭の『詞八衢』に由来する。
『詞八衢』は、のちに八衢派とよばれる系譜を生むほどの、
国語学史上の動詞活用研究を画期した。
本書はその春庭の生涯を描いて、
またその探索の旅を綴って、
他の追随を許さない。
が、このほかのことは以下の紹介を読まれたい。
諸君にできるだけ驚いてもらいたいからだ。

 驚くべき作家である。そのことは『やちまた』以前に『虹滅記』(こうめつき)を読んだときに感じていた。作家本人の祖父とその周辺事情を綴って、縦横無尽でありながら脈絡の脈絡を決して逃さない書きっぷりに、ほとほと舌を巻いた。文章から受ける印象でいえば一種の名人芸とも職人芸ともいえるのだが、そういう芸当なら世の中にはけっこうあって、そういうことよりきっと、異様な逸材を一族語りとしての多様な文意をもって構成するという、その手立ての妙が群を抜いていたといったほうがいい。
 足立巻一の祖父は漢学者の足立敬亭である。吃音であったらしい。その子が足立莚川(こせん)で、作家の父親にあたる。祖父と父とはいささか数奇な人生をおくりながらも、二人して世に知られざる稠密な『鎖国時代の長崎』を延々と書き継ぐのだが、そのほかにもたくさんの遺稿をのこした。『虹滅記』は散逸していた遺稿を隈なく捜しあて、それらを何年にもわたって読みこみ、さらに一族が各地で交流した人物たちの旅路を綴って、その祖父の一族の実像をつねに意外な糸口から、何通りも描写してみせるのだ。
 なるほどこのように人物クロニクルを組み上げていく書き方があるのかと、感嘆したものだ。日本エッセイストクラブ賞(1982)をとったのも宜なる哉。評伝文学の傑作中の傑作といっていい。なぜ、今日、これが忘れ去られているのかわからないほどなのだ。
 だったら今夜はこの『虹滅記』をこそとりあげてもよかったのだが、ぼくはそのあとに『やちまた』を読んで、これまた本居春庭をここまで執拗に描いた作品をやはり捨ておけないと思ったのである。

 足立は『やちまた』を先に脱稿上梓して、『虹滅記』のほうはそのあと時間をかけて書いた。けれどもぼくは『やちまた』が本屋に並んでいたときは、この作家のことをまったく知らなかった。
 それで順序が逆になって読むことになってしまったのだが、実は『やちまた』はそれを小説とよぶのなら、出来ばえはそんなによくない。筋書きも登場人物もわかりにくい。これが正直な感想だ。受賞作というなら『やちまた』も芸術選奨の文部大臣賞(1975)を授与されているから、そのころは結構な評判だったわけだったろうが、読んでいて小説としては驚かなかった。煌めきも少ない。むしろ、追いつめられていくような重みに拉(ひし)がれるといった読中感だった。
 しかしながら、なんといっても春庭にこだわったものとして出色であり、かつ、このように一人の歴史上の人物とかかわった主人公(足立巻一本人)の心情が執拗に絡まるように描ける編集方法が出現したという意味では、やはり見逃せなく、そこで今夜はこちらをぜひとも紹介しておきたかったのである。が、うまく紹介できるとは思えない。

 とりあえずはまず、本居春庭(もとおり・はるにわ)のことである。
 国学や宣長に関心がない者にはまったくこのような名前すら聞いたことがないだろうけれど、春庭が本居宣長(992夜)の長男として生まれたのは、宝暦13年(1763)だった。幼名は健蔵、のちに健亭とし、さらに春庭を名のった。文政11年(1828)に亡くなるまで、ほぼ伊勢松坂にいた。
 春庭は幼少期より、父の宣長から国学のイロハや歌学の道を学んでいた。そのため父の著作を書写したことも数多く、その後は『古事記伝』をはじめ、版下も書いた。ところが寛政3年(1791)のころにひどい眼病を患って、32歳には失明してしまった。けれども春庭の研究熱心はそれでもまったく衰えず、妹の美濃や妻の壱岐の助けを借りながらも進捗を途絶えることがなく、ついに文化3年(1806)には日本の古語の動詞活用に関する画期的な研究をまとめた。
 それが『詞八衢』(ことばのやちまた)なのである。春庭はつづいて『詞通路』(ことばのかよいじ)も書いた。以下、本書は『詞の八衢』『詞の通路』と送り仮名をおくっているので、そう表記するが、いずれも動詞の活用問題や自動詞と他動詞の分別に切り込んだものだった。
 本書は、その『詞の八衢』に著者の足立がどのようにめぐりあい、どのようにそこに溺れていったかという顛末を、微に入り細を穿って綴ったものだ。だからタイトルも『やちまた』なのである。
 しかし、なぜ足立がこのことに分け入ったかということを見るには、春庭の『詞の八衢』のどこが画期的かということを知らなければならない。それには、徳川期の国語の研究史と国学史を多少は知らなければ、何も見えてはこない。やや専門的な話になるが、それを説明したからといって、実は本書の説明にはならない。まあ、それはしょうがない。そういう風変わりな本なのだ。

 いわゆる「国学」の出発は万葉集研究と日本語研究にある。992夜にもざっとしたことを書いておいたけれど、結論からいえば、この二つをつなげたのは水戸光圀と契沖(けいちゅう)の二人だった。
 光圀が『万葉集』には日本人の古い習慣や考え方があると思って、その研究を古典解釈で評判の下河辺長流(しもこうべ・ながる)に頼んだ。長流はちょっと変わっていて、自分が乗らないと相手が誰であっても仕事をすすめない。それでこの研究が中断状態になったため、光圀は長流の教え子だった契沖にその継続を依頼した。契沖は『万葉集』すべての歌に注釈をつけ、それを『万葉代匠記』として結実させた。師匠に代わって書いたという意味のタイトルである。
 契沖は、一方で『古今集』『伊勢物語』『百人一首』なども研究していて、なかでも日本語の音韻と仮名づかいの解明に熱中していた。それが『和字正濫鈔』になるのだが(この著作についてはあとでふれる)、ここに国学が万葉研究と国語研究を両輪にスタートすることになったのである。
 ついで京都の伏見稲荷に荷田春麿(かだ・あずままろ)が登場して、『万葉集』とともに『日本書紀』と中世神道を研究した。春麿は将軍吉宗に招かれ江戸に行く。その途中に浜松に立ち寄り、そこで姪が嫁いでいる浜松諏訪神社の杉浦国頭(くず・くにあきら)に会う。浜松には賀茂真淵がいた。真淵は国頭から国学の洗礼をうけ、さらに紹介状をもらって江戸に赴いた。
 すでに春麿は亡く、甥の荷田在麿(ありまろ)が田安宗武に仕えていたので、真淵はそこに参画しようとしたのだが、宗武は宗武で、在麿に頼んで書かせた『国歌八論』がどうにも気にいらず、二人のあいだに論争対立が生じ、宗武は自分で『国歌八論余言』を綴って真淵に示した。
 このとき、992夜にも指摘しておいたように、真淵は宗武の所論におおむね賛同しつつも、決定的なところで別の主張をした。宗武が「理」(ことわり)をもって説いているのに対して、むしろ「理」では解けないものがあると判断したのだ。日本のフルコトには「ことわり」(言割り)では説明のつかない「わりなきねがい」(割りなき念)があるとした。「割れないもの」があると言ったのだ。これがその後の国学の方向を劇的に変えたのである。ここから宣長・春庭へは一直線になる。

 真淵には、五意考とよばれる『国意考』『文意考』『歌意考』『書意考』『語意考』という著書があった。また、『万葉考』『冠辞考』『祝詞考』があった。『万葉考』は契沖を受け継ぐもの、ほかの二つは枕詞(まくらことば)や祝詞(のりと)についての研究だった。これらは文学論でもあって、かつ国語学的な著作だった。
 真淵は江戸にいたから、村田春海や加藤千蔭らの関東勢力が多く門人となった。伊勢松阪にいる宣長のような地方にいる者は、やむなく手紙を交わして真淵の教えを乞うた。こうして宣長は真淵の「わりなきねがい」に接することになるのだが、そのあたりの事情をとばしていうと、やがて宝暦13年5月の「松阪の一夜」をまたいで宣長の『源氏物語』研究の本格化と、そして『古事記』研究の着手が始まった。
 実は「松阪の一夜」の宝暦13年が、春庭の生まれた年だったのである。ここでやっと春庭が登場する。

 国学や国語学にとって最も重要な文献は、『万葉集』を筆頭とした和歌集の数々と、『古事記』『日本書紀』などの歴史語りと、そして『源氏物語』である。いずれもすでに契沖が注目していたのだが、源氏の研究も契沖が先鞭をつけていた。儒教的解釈をいっさいしりぞけた『源註拾遺』である。これが真淵をへて宣長に継承されたとみるとよい。
 宣長は宝暦8年から自宅で源氏講義をする。そのときすでに『安波礼弁』(あはれのべん)を書き、それを5年後に『紫文要領』(しもんようりょう)に拡張し、さらに改稿して『源氏物語玉の小櫛』を書きあげる。日本の物語の本来が「もののあはれ」にあるという見方がここに確立した。「割れないもの」、それが「もののあはれ」なのである。宣長は『石上私淑言』(いそのかみのささめごと)では、この「もののあはれ」の感動をあらわしたものが和歌そのものなのだ、というふうにも達した。

 ざっとふりかえれば、こういうふうに契沖・春麿・真淵・宣長をへて国学は進捗してきたのだが、ここにもうひとつの研究が大きく浮上してきた。それは仮名遣いをめぐる研究というものだ。
 仮名遣いというのは「テニヲハ」の問題から、「顔」はカオなのかカホなのかカヲなのかという訓字の問題までふくむ(古典にもとづけばカホが正解)。中世すでに、そうした仮名遣いが混乱していた。
 そこでそのころ、著者不明の『仮名文字遣』という一書が出現して、藤原定家が自分の歌集『拾遺愚草』の清書のときに、源親行が「を・お・え・ゑ・へ・い・ゐ・ひ」の8文字の遣い方を統一したというふうになった。また、源親行の孫の行阿が、これに「ほ・は・わ・む・う・ふ」を加えて、それが通り相場になった。というふうにいったんは落着した。しかし、これらはかなり杜撰なものだった。そんな程度の仮名遣いの規則だったのである。これを文献に当たっていちいち訂正し、組み立てようとしたのが契沖の『和字正濫鈔』だったのである。
 それまで日本語の仮名遣いは中国語の四声に縛られていた。『仮名文字遣』にもその影響がある。そこで契沖はさまざまな文献にあたって仮名表記をしらべあげ、「濫(みだ)れたるを正す」ものとして『和字正濫鈔』をまとめた。一言でいえば、古代文献の表記に戻るべきだと主張したのだ。古代回帰である。これで「家」は「いゑ」ではなくて「いへ」、「遅」は「をそし」ではなくて「おそし」というふうになっていった。
 契沖の提案には反対も出た。橘成員(なりかず)は『倭字古今通例全書』を、青木鷺水は『万葉仮名遣』を書いて、古典ばかりに依拠することを批判した。契沖は反論したが、決着はつかない。さらに貝原益軒の『和字解』、服部吟照の『仮名遣問答抄』、真淵の門人の一人だった楫取魚彦(かとりなびこ)の『古言梯』(こげんてい)、村田春海の『仮字大意抄』などが刊行され、江戸中期には、しだいに仮名遣いを正確にしていくことが日本のフルコトを正確に読めることにつながるという風潮に、なってきた。ここに出現したのが宣長の『字音仮名用格』(じおんかなづかい)と『漢字三音考』と、そして春庭の『詞の八衢』や『詞の通路』なのである。

 そもそも日本語には、漢字を訓読みするか音読みするかという問題がつきまとっている。その音読みにもいろいろあった。「生」はセイ・ショウ・キが音読みで、イキル・ナマ・ウマレルが訓読みである。
 これらの何をどのように使うかは、文脈で判断する。これが日本文化の多様性というものだ。文字をもっていなかった日本人が漢字を万葉仮名として表記し、そこから平仮名や片仮名を“発明”したのだから、当然だ。
 しかしそのため、さまざまな混乱もおこった。読むときは文脈で判断するにしても、その文脈をつくるほうの書き手は表記を正確にしておかなければならない。適確に選択する必要がある。たとえば蝶々を「てふてふ」と綴る。では、「ちょう」と読める漢字はみんな「てふ」と綴るかといえば、そうではない。鳥は「てう」となる。「てふ」=蝶・貼、「てう」=兆・鳥・朝、「ちゃう」=長・町・聴、「ちょう」=重・澄などに分かれるのだ。これらを正確に分類しようとしたのが宣長の『字音仮名用格』や『漢字三音考』だった。
 さあ、こうなってくると仮名遣いといっても、そこは日本語の、すなわち国語の根幹にかかわる表記や文法や、さらには考え方の問題になる。だいたい日本語はどのような発音母型をもっているかということも問題になる。
 そこで「いろは」や「五十音図」の工夫もされるようになるのだが、このあたりのことについては、すでに馬渕和の『五十音図の話』にあらかた紹介しておいたので、省くとして、ともかくはこうした「五十音」の発見と創成が日本語の研究史を貫通する大道になっていったのである。宣長の『字音仮名用格』にも、五十音図がのっている。「お」なのか「を」なのかということは、「お」がア行に、「を」がワ行に属するという見方がないと、最終決着がつかないのだ。

 宣長以外にも研究者が次々にあらわれた。富士谷成章の『脚結(あゆひ)抄』といった、日本語の根本文法を問う研究も出てきた。富士谷成章は、日本語の言葉のすべてを、「挿頭」(かざし=接頭語・代名詞)、「装」(よそい=用言)、「脚結」(あゆひ=助動詞)、「名」(な=名詞)に分けたのだ。「装」はさらに事(動詞)、状(形容詞)、在状(形容動詞)に分けた。たいへん興味深い。かつてぼくは成章の息子の御杖のほうから富士谷学に入ったものだった。
 富士谷の『脚結抄』は安永2年(1773)だが、宣長はその2年前の明和8年(1771)に『てにをは紐鏡』を書いて、係り結びの法則についての研究をまとめた。これはのちに『詞玉緒』(ことばのたまのお)とも発展したもので、今日の係り結びの法則の大要を確立した。今日の大野晋の大著『係り結びの研究』につながるものだ。さらに宣長は文法書ともいうべき『玉霰』(たまあられ)を著して、フルコトを研究する者はことごとく文法をマスターするべきだとも強調したのである。
 かくして春庭は、父の宣長のこうした国学・国語学のすべてを身に引き取っていくことになる。『詞の八衢』とは、言葉の活用は八衢に及びうるという意味だった。

 次に、本書の著者の足立巻一(けんいち)のことである。この人のことを紹介しなくては、なぜ『やちまた』をとりあげたかがわからない。
 この人はもともと作家ではなかった。「新大阪」というかなりユニークな夕刊新聞の記者だった。この新聞はぼくも帝塚山学院大学のセンセーをしていたときには、いつも駅の売店で買っていた新聞で、たいへんおもしろかったのだが、10年ほど前に廃刊した。
 足立よりも10歳年下の司馬遼太郎(914夜)が京大担当の記者をしていたころ、足立はその「新大阪」の京都担当だった。だから京大の記者クラブにはよく顔を出した。足立は京大を取材しながら、猪木正道、桑原武夫(272夜)、鶴見俊輔(919夜)、多田道太郎、加藤秀俊、上野照らと知遇をえたようで、司馬にとっては、とくに鶴見の「思想の科学」の賛同者として名を馳せていたという。
 足立は大阪の児童詩の雑誌「きりん」を興した一人でもあった。その経緯は、もともと「新大阪」が大阪堂島の毎日新聞の社屋の一隅を借りていて、そのころ毎日の学芸副部長に井上靖(156夜)がいたことにまつわる。井上が子供に詩を書かせるための雑誌を発案し、それが「きりん」になって、その実質編集を足立が取り仕切ったのである。そういうことをしていたのが足立巻一の“社会”だったのだが、それが平成2年(1990)の61歳のときに、突然に『やちまた』を発表した。
 いや、突然だと感じたのは“社会”に屯(たむろ)していた周辺の者たちばかりで、実は足立はずうっとその準備をしていた。

 足立は東京の出身だが、学校は伊勢の神宮皇学館なのである。
 だから神宮皇学館のことを知らなければならない。この学校は明治15年に設立された国学研究のための学校で、同じ年に東京大学に古典講習科、のちの国学院の母体となった皇典講究所が設立されている。
 もともと伊勢の神宮の地には宇治の林崎文庫と山田の豊宮崎文庫があって、神宮神職は長らくここを教学の場として選んできた。やがて維新以降、神宮にも改革の波が押し寄せ、旧礼典故を学び伝える学校が必要となり、林崎文庫の地に建てられたのが神宮皇学館である。創立50周年の昭和7年に、現在の倉田山に移転し、そのとき本科に神道科が設けられ、神道・国漢・歴史の3科になった。昭和15年からは神宮皇学館大学になっている。初代学長が山田孝雄である。
 足立はその神宮皇学館に学んだのだ。そこに盲目の語学者がいた。本書では白江教授とよばれている人で、足立はその白江教授の2学期冒頭の授業に魅入られた。『やちまた』の冒頭には、次のようにある。

 その盲目の語学者がわたくしに巣くってしまったのは、丘の松林のなかの、神殿のように床の高い古風な教室においてであった。二学期がはじまったばかりで日射しは暑かったけれど、松風がざわざわ鳴っていた。
 白江教授の文法学概論の時間であった。教授は三十歳なかばであったろうか、目も声も物腰も女形のようで、顔はノートに伏せたままで講義をつづけていた。(中略)それでいて、黒板に書く白墨の文字は、大きく力が漲って粘着している。黒板には「本居春庭」「詞の八衢」「詞の通路」という文字が、三行に書かれていた。

 足立は教授の語る春庭にたちまち嵌まっていった。落ちていったといったほうがいいだろうか。最初は春庭の生涯のことだ。
 春庭が失明したため、宣長の心痛がひとかたでなく、自分で京・大坂の名医に連れていったのに経過がおもわしくなかったこと、そこで春庭を鍼医にすることにして上京させたこと、その春庭が修行を積んで松阪に戻ったのは35歳で、鍼灸を開業して従妹にあたる壱岐と結婚、けれども39歳のときに父の宣長が没したこと、しかしすでに春庭の父に対する敬意と学習は並々ならぬものに達していて、とりわけ語学研究を継承しようとしていたこと、一方、本居家では宣長の弟子の稲懸太平(いながけ・おおひら)を養子に迎えて跡取りとし、太平はしばらく紀州家に仕えたこと、春庭は和歌もかなり上手で父より勝っていたことなど、足立はまずは春庭のそういう事績を白江教授の静かな口ぶりから全身に染みこませていったのである。
 ついで、『詞の八衢』や『詞の通路』に言葉の活用があきらかにされていて、四段、一段、中二段、下二段の4種については春庭がその活用をはじめて考察したこと、ただし中二段は上二段のことで、それについては桑名の黒沢翁満の『言霊のしるべ』が指摘したこと、しかし春庭は日本語にはこれらの活用のほかにも活用があって、すでにそれを「変格」と名付けていたことなど、足立は神宮皇学館で、一人の盲目の学者が日本語の細部にわたっておびただしい例証を用いてその学叢に分け入っていく様子を、手にとるように感じていった。
 教授が、「ふしぎですねえ、語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようです」と言ったことも気になった。教授はそのとき、偏屈者の例として富士谷成章、上田秋成(447夜)、谷川士清(ことすが)、鈴木朖(あきら)、義門、富樫広蔭などの名をあげ、「山田孝雄(よしお)博士も独学の人ですからねえ」と言ったのだ。
 なかで鈴木朖のこともひっかかった。明和1年に尾張の枇杷町に生まれて中年期に宣長の弟子となり、「離屋」(はなれや)と号してやはり語学史上に重要な位置を占めたというのだが、ひどい近眼であったとともに、かなりの変人で、家の玄関には「菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金」と書いていたという。
 いったい人間が言葉のもつ何かの蠢きにたいして異常な情熱をもつということは、どういうことなのか。人間はなぜ言葉のはたらきに、こんなにも探究心を燃やすのか。そして、日本人はなぜ日本語が好きになっていくものなのか。足立はしだいにそのことに囚われていく。

 これらの話には、白江教授のことがそうだろうが、いくぶんのフィクションがまじっているにちがいない。が、だいたいはドキュメンタルになっている。
 足立が神宮皇学館の学生として国学や国語学を学びながら、しだいに春庭の探検に乗り出していくさまが、折からの昭和前期の軍靴の音とともにみっちり描かれるのだ。それらを通して、近世および近代の国語学の全貌とその研究者たちの実像がさまざまな角度からあきらかになっていくというふうになっている。
 足立は春庭に出会うまでは、辻潤、武林無想庵、宮島資夫などのアナーキーな著作や、また老荘思想に耽っていた青年である。神宮皇学館に入ってからも、下宿の本棚には、津久井龍雄『日本主義運動の理論と実践』、権藤成卿(93夜)『君民共治論』、河野省三『我国体と日本精神』などを並べていた。それが春庭に出会って、だんだん変貌していく。本書はその「めざめ」の全プロセスを綴ったものなのだ。

 以上で、ともかくも『やちまた』がどのような構成になっているのかはなんとなく見当がついたと思うが、実際に読んでいくとあまりに国語研究の細部の歴史に詳しくて、その概観や感想をのべるのはとうていムリだということがわかる。
 たとえば明治39年に『詞の八衢』が完成して100年を迎えたとき、東京帝国大学の言語学会で記念講演会がひらかれ、その発言要旨が「国学院雑誌」に「本居春庭翁記年号」として特集されるのだが、足立がそれを文庫から借り出して読んでいく場面がある。それだけでもとても詳しいのだ。だいたいそこで発言しているのが、新村出・保科孝一・藤岡勝二・岡田正美・金沢庄三郎・八杉貞利・大槻文彦・上田万年・三矢重松といった当時の第一線の言語学者や国語学者なのである。その全員が春庭について語っているのだから、これを読み解き、マッピングするだけでも大変なのだが、足立はそれを隈なく小説に入れこんだのだ。
 たとえば、藤岡勝二は春庭の業績が完成した文化3年はヨーロッパの言語学が基礎がつくられた1806年と同時期だと言い、上田万年は「春庭翁が遺されたる重要なる問題」で、いまだ春庭の業績を凌駕する研究は出ていないと称賛した。そういう文章を読んでいると、足立は「祈り」や「詩」を感じたと書いている。
 しかしその上田博士ですら、春庭の語用論の源流がどこにあったのか、まだつかめない。宣長の『御国詞活用抄』の学説を継承したのはまちがいがない。しかしその研究砲歩は文雄(もんのう)の『磨光韻鏡』が影響したようにも思えるし、そうだとするとそこには太宰春台の唐韻論が影を落としているのかもしれない。
 そういうことを上田博士の発言ひとつでも教えられるのだから、ほかの春庭論のいちいちを検証していくのはキリがないのだが、足立は結局、それを本書でなしとげていく。桜井祐吉の『本居春庭翁略伝』と上田万年の『本居春庭伝』はことごとく書写してしまってもいる。

 足立の関心は国語学にとどまっているのでもない。さまざまな出来事や人物に描写を及ぼしている。たとえば宣長の葬儀がどのようであったかということも、実に多くの資料を駆使して推理する。
 宣長と春庭が『古事記伝』44巻の浄書をすべて終了したのは、宣長が死ぬ3年前の寛政10年9月13日だった。そのあと宣長は『うひ山ぶみ』を起稿し、歌集『鈴屋集』などのいくつもの編集にとりかかり、死の前には和歌山に出掛けて源氏の講義をする。帰りは吉野をまわって水分(みくまり)神社に参詣をした。そして松阪の南の山室山に自分で墓所を定めると、春庭らに宛てて詳細きわまる『遺言之事』をしたためるのである。
 念仏は無用だが、菩提寺の樹敬寺の住職が読経するのはいい。柩の中の布団は綿は薄くていい。死装束も粗末な木綿にしなさい。藁をたくさん入れて死骸が動かないようにしなさい。柩の箱は杉の六分板をざっと粗削りして、山室山の妙楽寺に葬りなさい。そんなことをことこまかに記しているのだ。いや、葬列の組み方や提灯の掛け方や葬儀の次第まで指示している。
 なかに、遺体はこっそり山室山の妙楽寺に送っておいて、樹敬寺での送葬には空っぽの棺のままでいいという指示がある。足立は、その指示に関心を示したのだ。やっぱり宣長も偏屈なのだ。しかし、なぜそんなふうなのか。
 ことほどさように、足立宣長・春庭を中心にその周辺の多くの事柄を探求するのである。松阪の歴史も書いてあるし、宣長の旧宅や鈴屋の変遷もほとんど調べ尽くしてある。書かなかったことなんてないのではないかという徹底だ。むろん春庭が失明にいたって、どのように各地の名医を尋ね、そしてあきらめて仕事に打ち込むことにしたのかということについては、まったく遺漏がない。

 ぼくは参った。こんな驚くべきものが書かれていたとは、なんということだろうと感服せざるをえなかった。しかもそれを、たんに『やちまた』などと名付けて(こんなわかりくいタイトルにして)、平気でいるのにも打ちのめされた。これは『虹滅記』をさしおいても紹介しなくてはと思ったのだ。
 時代は大東亜戦争の前夜と渦中である。舞台は松阪だ。なんともいえない空気が『やちまた』を覆っているのだ。この読中感も異様だった。だから実のところは、本書の紹介がうまくいくはずなんてなかったのだ。だいたい言葉の語用にこれほど執心しているなんて、ぼくも編集工学を標榜したとはいえ、ここまでの執着を示せたことはなかったのだ。
 おまけに、話は戦時中ではおわらない。敗戦後の日本で足立がふたたび、みたび松阪を訪れて(その後は何度も)、さらに春庭をめぐる国語学の探検に乗り出していくのである。何人もの本居家関係の血縁者を各地に訪ねてもいる。学生時代の読み違えの訂正にも挑んでいる。まったく想像を絶した一冊なのだ。
 これはおそらく闘いなのである。鎮魂なのである。また現代の祝詞(のりと)なのだ。しかし、その壮絶な執念がどこから湧き出た真水なのであるかは、足立巻一が書くべきことではなく、本居春庭とともにわれわれが感得するべきものというべきだろう。足立は本書を、こう結んでいる。

 頭のなかで、靄が晴れてゆくのを感じた。論文『詞の八衢の成立』は、まもなく書き上げることができるだろう。が、それには妙に気分が浮き立たず、そんなことはもうどうでもいいような気がしてきた。わたしの春庭への興味がその学説にはなくて、人生、人の運命にあったことは、はじめから気がついてはいたけれど、いまはそのことを自分でも韜晦のしようがなくなっているのを知ったのである。

附記¶足立巻一は1913年生まれ。生後まもなく父とは死別した。略歴は上記した以上のことをぼくは知らないが、それを含めて『虹滅記』(朝日文芸文庫)が足立を語っている。神宮皇学館には二度受験して失敗し、三度目に合格した。だから思い入れもひとしおであったのだろう。1938年に皇学館を卒業したのちは、高校教師になってすぐに戦地に召集され、中国の華北戦線をさまよっている。「新大阪」では学芸部長や社会部長にもなっているのだが、おそらくはこの体験も足立の「文章の目」を育くんだのであろう。他の著書に『立川文庫の英雄たち』(文和書房)、『夕暮れに苺を植えて』(新潮社)、『夕刊流星号』(新潮社)、『石の星座』『人の世やちまた』(編集工房ノア)などがあるが、ぼくはまだ読んでいない。1985年没。