エドマンド・バーク
崇高と美の観念の起原
みすず書房 1973・1999
ISBN:4622050412
Edmund Burke
A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful 1757
[訳]中野好之
崇高と恐怖。類似と共感。
そして「小ささ」と「高さ」と「融合」と「なめらかさ」。
美とは、ここに発祥してるのではないか。
28歳のバークの一冊に、
いまこそカーソル・インしてみたい。
が、その前にバークとは何者だったかを
そのフランス革命批判とともに、
知っておいたほうがいい。
それはたんなる保守思想というものだったのか。

 いまはなぜだかすっかり看過されてしまっているようだが、哲学芸術思想のなかには、「美学」という領域がある。エステテイックス(英 aesthetics、仏 esthe´tique)だ。そう言っては実も蓋もないけれど、つまりはエステだ。エステではあるけれど、メルロ=ポンティ(123夜)も、ロラン・バルト(714夜)も、九鬼周造(689夜)中井正一(1068夜)も、それからウンベルト・エーコ(241夜)も、みんな本格的な美学者だった。こういうエステにこそ通院したほうがいい。
 美学は、1735年にドイツのアレクサンダー・バウムガルデンがその必要に気づいたときは、まだ「感性学」という意味だった。認識の能力には上位に“悟性の学”としての論理の学があるとしたら、下位には“感性の学”としての美についての認識の学があるはずだという判断から生まれた。バウムガルデンはライプニッツ(994夜)とヴォルフの思索の系統を引いていた。
 その後、美学はカントによってその最初の体系の確立を見たというのが通り相場になっている。1790年の『判断力批判』がその結晶的成果である。それでまちがってはいないのだが、そのカントに多大な影響を与えた一人の青年の大論文があったことを忘れてはいけない。それがエドマンド・バークなのである。ぼくは「遊」の第1期をつくっているころに出会って、うーん、と唸った。

  
 「我々は類似を発見することによって新しい映像(image)を作るのであって、換言すれば、ここでは我々は統合し創造して我々の資産を増加せしめるに反し、差異の発見によっては想像力には何らの糧も与えられず、それ故、この仕事はそれだけ苦しい退屈なものとなって、我々がそこから快を引き出すとしても、それは消極的間接的なものでしかないからである」。
 翻訳はひどいけれど、これで唸った(実はもともとの英文も悪文なのである)。何を言っているのかというと、「新たなイメージは類似の発見から生まれる」「資産とは類似性である」「差異の発見は想像力につながらない」。かんたんにいえば、そう、言っているわけだ。
 この言い分は画期的だ。いまでも十分に通用する。それどころか、このように「類似の力」や「模倣の作用」を正面から強調できないために、多くの現代思想は迷わされてきた。昨今、やっとアナロジー理論ともいうべきものが浮上しはじめているけれど、まだまだ加速も深化も足りてない。
 エドマンド・バークが『崇高と美の観念の起源』に「類似の発見がイメージの発見なのである」と書いたのは、18世紀半ばの1757年だった。バウムガルデンが『美学』を刊行してから、5年しかたっていない。
 まだフランス革命もアメリカ独立もおこっていない。イギリス同時代人のアダム・スミスの『国富論』はこのあと10年後のこと、パリではディドロとダランベールの『百科全書』(180夜)の第1巻が産声をあげていたけれど、ルソー(663夜)の『社会契約論』はまだ出版されていなかった。先駆的といったら、こんなに先駆的な見解はなかった。しかもバークがこれを書いたのは僅か28歳のときだった。
 たんに「類似」という資産の重要性に気がついただけではない。バークは「崇高」(sublime)と「美」(beautiful)の起源を求めるうちに、類似のもつ普遍作用に気がついたのだった。類似編集力である。ぼくが「遊」の相似律を美しく仕上げたいと思ったのは、そういうバークとの出会いにも依っていた。

  
 エドマンド・バークは忘れられた思想家である。また、ひどく誤解されてきた政治哲学者でもある。とくに日本では馴染みが薄いのだが、バークをめぐる毀誉褒貶は本国イギリスでも理解しがたい変転を見せてきた。
 が、ぼくはそういう思想史上の毀誉褒貶は気にならない。どんな思想や哲学や芸術も、あらためて本気の価値評価をやりなおすべきで、それも「主題」の側からだけでなく、「方法」の側からの裁断をするべきなのである。とくに時代をはるかに跳びこえて先駆的な思想をもっていた者たちについては、たとえばチャールズ・パース(1182夜)などがその一人だが、根本的に見直したほうがいい。その後のクロニクルな変換もつくりなおしたほうがいい。
 だからバークについては、いまこそさまざまな観点から検討されるのがいいだろう。第1には「類似」について、第2に「崇高」について、第3に「趣味」について、第4に「フランス革命」について、第5に「アメリカ独立革命」について、第6に「保守思想」について、第7に「倫理観」について、それぞれその先駆的だった見解を評価しなおしたほうがいい。
 なかでも「崇高」をめぐる哲学(美学)が今日なお議論されるべき最も含蓄のあるものだと思われるけれど、そのことはあとで書く。カントとも関係する。のこる主題では「アメリカ独立」「フランス革命」「保守思想」についての議論が、これまではけっこうな論点でまとめられてきた。日本にも岸本広司の『バーク政治思想の展開』という分厚い研究がある。
 とくにバークが当時リアルタイムでおこっていたフランス革命の動向と思想に真っ向から反対したことはよく知られていて、保守主義思想の牙城のひとつとなっているほどだ。しかし、バークはたんなる保守思想家なのだろうか。ぼくにはどうも、そうとは思えないものもある。
 というわけで、バークを知るにはその保守思想と言われてきたエッセンスが奈辺にあるかというところから見るのがいいのではないかとも思うのだが、それは今夜のぼくにはいささか面倒だ。そこで、急いで経歴を見て、バークがどんな政治動向にとびこんでいったのかということをスケッチするにとどめたい。そのうえで「崇高の美学」の眼目を案内しよう。

  
 1729年のダブリンの生まれである。15歳でダブリン大学トリニティ・カレッジに入って、討論クラブなどをつくって活動していた。1750年にロンドンの法学院ミドル・テンプルで法律に向かった。
 が、どうも法律には性が向いていないらしい。そう、自分で感じた。それで1756年に『自然の擁護』を、翌年に本書『崇高と美の観念の起源』を書いて出版してみると、この評判がすこぶるよかった。当時最大の文人でレキシコグラファー(6夜)であったサミュエル・ジョンソンが「真に批評に値する」と激賞し、すでに『人間本姓論』も『政治論集』も書いていた哲人デイヴィッド・ヒュームが「とてもすてきな本だ」と褒めてくれた。
 それもあって(それに気をよくして)、1764年にジョンソンがオーガナイザーだった「ザ・クラブ」(そのころロンドンは「クラブ」の時代だ)の創設にかかわって、文筆で立つことにした。もっともそれだけではとうてい食べていはけない。当時は、『ガリバー旅行記』のスウィフト(324夜)『ロビンソン・クルーソー』のデフォー(1173夜)がそうだったように、まずはコーヒーハウス(491夜)に頻繁に出入りし、出来立てほやほやのトゥーリー党やホイッグ党との関係をもつか、これらに反旗をひるがえすかしつつ、そのうえで文筆でもだんだん名を上げるという以外の文筆業など、なかったのだ。

当時のロンドンのコーヒーハウス

  
 バークもそうした。政治家ウィリアム・ハミルトンの秘書となって政治のABCをおぼえ、ついで1765年にホイッグ党の派閥の領袖ロッキンガム侯爵の秘書につくと、折よくロッキンガム卿が内閣首班になった。これをきっかけに、その理論的支柱の一人として重用されはじめ、そのうち周囲の勧めもあって、自身、ウェンドーヴァーの選挙区から立候補して下院議員になったのである。36歳のときだった。国王ジョージ3世の時代にあたる。

  
 バークは政治家になったのだ。なったのだが、実務のほうより政治思想のほうがおもしろく、かえって著作活動に打ちこんでいった。いや、そんなふうに政治の実践より政治の思想に活動の可能性を広めていったのは、議会政治の歴史においてはバークが初めてだったのだ。著作が当時の政策となりえたからでもある。

議会で演説をするバーク

  
 そこで、1769年には政党政治の本来を説いた『現代の不満の原因』を、1774年には英仏七年戦争をめぐってのイギリスの立場を表明を明確にした何本かの『アメリカ論』を発表し、加えて、インド統治のためのインド法案の起草も手がけもして、気を吐いた。
 こうして、バークの名を夙に有名にした1790年の『フランス革命についての省察』が、たっぷり著される。バスチーユ攻撃の翌年の執筆だった。よくもそんなリアルタイムな政治情勢について速筆できたものだ。今日の政治家で、中東情勢や北朝鮮を本にまとめられる政治家なんんて、一人もいないだろう。ぼくは河出の「世界大思想全集」の一冊として、また中公の「世界の名著」の一冊(マルサス『人口論』と抱き合わせ)として、この『省察』につづけさまに出会えたのだが、これもまた唸らされた。バークが何を書いたのかというと、フランス革命を正面きって批判したのである。それもこっぴどく、だ。
 すでにバークは革命勃発の1カ月後に、知人への手紙のなかでこんなふうに書いていた。「このことは突然の爆発にすぎないかもしれないが、もしも偶然の出来事ではなくて性格がもたらしたものであるとすれば、その人民は自由にふさわしくないはずだ」。
                        

フランス革命の幕開き
(1789年7月14日のバスティーユ攻略)

 バークはなぜフランス革命を批判したのだろうか。歴史と人間と政治の関係そのものをオーガニックなシステムとみなしていたからだった。フランス革命には「その関係がない」と見たのだ。ぼくが昔から、フランス革命の「自由・平等・博愛」にすぐには靡かない態度を何度かとってきたのは、実はバークのせいでもあった(バークは社会有機体論の先駆者でもあった。コンドルセがその衣鉢を継いでいる)。

国民議会の誕生
親和の天使により、貴族、僧侶、第三身分が結ばれている

 ごくごくおおざっぱな見取図を書いておこう。18世紀という時代をイギリスとフランスを中心に見ると、ひとつには「自然の法則」と「政治の法則」とが本気で比較されたのである。もうひとつには、「歴史」と「未来」のあいだを本来の人間観によってどのようにつなげるかということが問題になったのだ。
 18世紀はニュートンによる合理科学の基盤をもって出発した。ウェストミンスター寺院の大聖堂にニュートンの墓がつくられたのは1731年である。しかし、これはどちらかといえば整合性に満ちた静的な合理性にもとづいていた。だからこれを政治に活用するなんて発想は、毫も生まれえなかった。
 これに対して、同じ18世紀に登場してきたフランスのビュフォンの博物学は、動的な生物的自然像を描いていた。ルイ15世がビュフォンの彫像をルーブル宮に置いたのは、『博物誌』が刊行された1749年の直後のことなのだ。この動的な自然観は政治にも相性がいい。なぜなら、そこでは機軸が動くからである。そこで当時の知的なフランス人は、この動的な自然観のほうから啓蒙思想をしだいに編み上げていった。ディドロ(180夜)ヴォルテール(251夜)ルソー(663夜)の思想は、ここから派生する。
 一方、18世紀は自然法をめぐる世紀でもある。グロティウス、フーフェンドルフ、ヴォルフ、ビュルマルキ、そしてルソーとモンテスキューは、自然法による新たな社会のありかたを考えていた。それはいいかえれば「人間の権利」とは何かということだ。自然法にもとづいて、社会と人間は何を契約するべきなのか、何を交換するべきなのか。
 こうして『社会契約論』や『人間不平等起源論』が生まれ、それがアンシャン・レジームを打破する。フランス革命の気運にも結びついていったのだが、そのような「歴史を変更させたい」という意志は、そもそも社会や人間が「自由」をもっていたからではなかった。それらはルイ王朝を打倒するという王権神授説の変更ではあっても、歴史と社会が根底にもっている「自由」や「平等」にもとづくものではなかったはずなのだ。
 そのことを見抜いたのがバークだったのである。バークがフランス革命に見たのは、本来の人間観と社会観の歴史的欠如であり、したがって、これでは歴史と未来とが断絶するだろうという見通しだったのだ。案の定、フランス革命は数年もしないうちにジャコバン政治の異様きわまる失態と、これに代わって登場したナポレオンの圧倒的帝政によって、すっかり覆(くつがえ)ってしまったのである。『世界と日本のまちがい』にも少々書いておいたことだ。

  
 バークのフランス革命論は多くの反論に見舞われた。バークは、このような革命は指導者・教会・法・軍事体制・通商・産業・芸術を次々に壊してしまうだろうと見たのだが、反論はまったく逆の立場にたつ者たちばかりだった。トマス・ペインが急先鋒で、ペインはフランス革命が他のヨーロッパ諸国を変えるにちがいないと確信していた。
 しかしバークは、事態はそうはならずに、ヨーロッパ本来の政治と産業と芸術を大きく歪めていくだろうと予測した。バークは、真の自由というものがあるとすれば、それは伝統と祖国愛から発して、それがヨーロッパの普遍や人間の本来に向かうものからきっと生まれてくるだろうとみなしたのだ。
 反論者たちは、そういう見方はバークの偏見にすぎないと批判した。けれどもバークは、それなら「偏見こそが祖国を救う」と居直って、フランス革命による無神論と非人間主義から祖国イギリスを守ろうと決意する。この立場の表明から派生した政治思想を、今日、「保守主義」というのである(保守主義については、いずれ何かの適切な本を見繕って、千夜千冊したい)。
 歴史的には、保守主義はバークのこの偏見から生まれたのである。たしかに、そうである。しかし、この見方は半分は当たっているけれど、半分は当たらない。とくに最近では本格的な保守主義論が抬頭しつつあって、たとえばヴィーコ(874夜)の「共通感覚」ポランニー(1042夜)の「暗黙知」とさえ関連して議論されているように、バークの偏見はひょっとしたら「個人に根差さない知」というものだったかもしれないからだ。
 このことは、バークの『省察』を褒めた議論からは、なかなかわからない。一方ではロシア女帝エカテリーナ2世やポーランド国王スタニスラフ2世に熱烈に迎えられたとか、他方では『ローマ帝国衰亡史』のギボンに「フランス病に一番よく効く」と言われたとかという反響からは、何もわからない。それよりむしろ、遠いドイツにいた若いノヴァーリス(132夜)が『省察』を読んで、「これこそ革命に反対した唯一の革命的な書物だ」と感想したことに、注目したほうがいいだろう。

書斎のバーグ

 では、こんなところでバークの政治思想のほうを粗略ながら瞥見したことにして、ふたたび『崇高と美の観念の起源』に戻ることにする。それにしても、これはまことに示唆に富む一冊だったのである。懐かしい思いを蘇らせつつ、おいしいところだけを案内したい。
 本書が近代の「美学の発端」に位置していたことは、最初にのべた。それは「感性学」の出発だった。そこで本書は冒頭で「趣味」(taste)をとりあげる。なぜ、趣味をとりあげるのか。
 趣味というのは、もともとは味覚を意味するギリシア語やラテン語から生じた概念で、そこから味覚のように取り出せない内的感覚にもとづく傾向をもった感性の動向のことをさすようになった。したがって、バークも書いていることだが、趣味の発生はそれがどこに起因したかわからないような「好奇心」や「好み」にもとづいている。しかし、好奇心や好みにもとづくのだとしても、それによって趣味はどうして成長していくのかといえば、ここからがバークの推理が独得におもしろくなるところで、趣味を成立させるのはたんなる内的感覚なのではなくて、想像力と判断力が複合しているものだとみなすのである。
 この想像力の本体は「類似」なのである。また判断力の正体は「差異」なのだ。バークは「類似」と「差異」とが互いに相克し、その複合のぐあいから好みや趣味が生まれるとした。
 では、どんな複合のぐあいかというと、バークは趣味や好奇心はしだいにその人物のなかや民族のなかに進捗していくのだから、そこではきっと「類似」が「差異」に少しずつ勝って、おそらくは「模倣」(imitation)がおこっているのだろうとみなしたのだ。この見方はハンス・ゲオルグ・ガダマーの『真理と方法』(いずれ千夜千冊する)などにおける模倣への着目や、晩年のジル・ドゥルーズ(1082夜)が注目したガブリエル・タルドの『模倣の法則』(いずれ千夜千冊する)の推理などともきわめて重なるところもあって、はなはだ興味深いものがある。
 つまりバークは、類似は模倣を生み、模倣は「共感」(sympathy)の拡張になっていくとみなしたのである。そしてここから「美」の本来や「崇高」の確立に向かっていった。となると、共感はどうして生まれていくのかということが問題になる。

  
 「美」の発生や発育について、バークは驚くべき推理をほどこした。そのスタートには「目新しさ」か「曖昧さ」かが関与しているだろうと言うのだ。これが趣味や共感の端緒なのだ。ホメーロス(999夜)からジョン・ミルトンにおよぶ詩にヒントを得たものだった。
 そして、その趣味と共感の端緒には「注意」が生じていて、そこからいよいよ感性というものが「美」や「崇高」に向かうというのだった。今日の認知科学や編集工学に照らしても、遜色がない見解だ。しかし、ここまではまだ序の口なのである。バークが追求した「美」の本体は、もっと驚くべきものだった。それは「小ささ」や「僅かさ」から生じるものだったのである。まるで『枕草子』(419夜)なのである!
 次に、この「小ささ」や「僅かさ」は、これまたすばらしい概念であるけれど、そして当然のことでもあろうけれど、「繊細」(delicacy)と結びつく。この「繊細」は、どのように見分けられるかというと、その対象物の「構成部分が多様に変化すること」で保証される。細部に注意のカーソルが動くのだ。まことに感嘆すべき説明だ。しかもバークはさらに説明を加えて、「繊細」はもっといえば「これらの部分が互いに他と、いわば融合している」ということによって成立するという。それだけではない。このように「繊細な構造を有し、力強さの外見があらわでないこと」が、このことこそが「美」を生ぜしめる条件になっていくというふうに、説明した。
 まことにもって、あっぱれな見方だというほかはない。しかもこれらを総じて「もっともらしさ」(specious)と名付けたのだ。「らしさ」とは、これだったのだ! そして、それが「美」が“fine”である根拠になっていくだろうと結論づけたのだ。いやいや、とんでもないバーク28歳の著作だった。

  
 さて、そこでいよいよ「崇高」(sublime)である。この概念はのちにカントが大いに称揚するところとなったもので、うっかりするとカントの考え方とまざって解説されることが多いのだが、今夜は厳密にエドマンド・バークが推理した「崇高」だけをとりあげる。端的にいうと、こういうことなのだ。
 崇高とは「高さ」なのである。これがまず前提になる。実は崇高という概念は、3世紀にロンギノスという詩人が書いた『崇高論』(Perihypous)という謎の書物があって(実際には1世紀の作者不詳の書物)、そこでは修辞学上の“文体の高さ”などが「崇高」として絶賛されていた。しかしバークはこれを修辞学からいったん解放して、美の概念の究極にもってきた。
 では「高さ」とは何かといえば、そこからのべつまくなしというわけではないけれど、それに似たような「継起」が連続的に次々におこることに応じて生ずる、感性や感動の高揚のことをいう。ここまでは誰しも見当がつくだろう。ようするにわが国の“歌論”にいう「長高き体」(ながたかきてい)なのだ。「有心」や「幽玄」だ。
 が、バークはこの「高さ」すなわち「崇高」は、必ずや驚愕や共感や敬意を呼ぶのだから、そこにはいくつもの条件が参集しているのだろうと見た。ここが日本の歌論とちがって、分析的なところなのだ。その条件というのが、またまたすばらしい。第1には「曖昧」がもたらす不安な印象であり、第2には古代ローマの詩人ウェリギリウスが巧みにそのことを表現してみせた「欠如」であって、そして第3には至上や壮麗を突き動かす「闇のような力」なのである。
 これはそうとうに意外であろう。まさかバークがこのように崇高の条件を「負」の領域から持ち出しているとは、予想できなかったのではあるまいか。「曖昧」と「欠如」と「闇」なのだ。それが崇高に参集する条件たちなのだ。が、これこそがエドマンド・バークの真骨頂なのだ。バークの崇高とは、そうなのだ、実は「恐怖」の本体とまじわっているものなのである! 
 こう、書いている。「恐るべき対象物とかかわりあって恐怖に類似した仕方で作用するものは、何によらず崇高の源泉であり、それゆえに心が感じうる最も強力な情緒を生み出すものにほかならない」。また、こうも書いた。「恐怖をひきおこす性質をそなえたものは、何によらず崇高の基礎となる」。

  
 崇高が恐怖と紙一重になっているというバークの美学は、きわめて独得である。特異でもあろう。にわかには理解しがたいかもしれない。
 しかしよくよく考えてほしいのだが、その恐怖というのは、対象から感じられる「曖昧」「欠如」「闇」がもたらすもので、そうであればこそ、そこから崇高がすっくと屹立するわけなのである。ウィリアム・ターナー(1221夜)の絵を思い浮かべてもらえばいいだろう。それはいいかえれば、先に指摘しておいた「美」の本体である「小ささ」「僅か」「繊細」の相対作用そのものだったのだ。
 わかってもらえるだろうか。バークの美学は崇高と恐怖がネガポジであり、原型と模倣が「抜き型」で、そこには「小ささ」「僅か」「繊細」の回転扉が動いていたわけなのだ。そのきわどい相対性が感情の高揚をもたらし、「美」を感得させるということだったのだ。
 バークはむろん、ネガポジとか抜き型とか回転扉などとは言ってはいない。それを「連合」というふうに言っている。ただその連合は「振動」をともなうとか、その振動は「同質」だろうというふうに言う。それで十分だろう。いや、よくぞそこまで説明しているではないか。
 そのため、バークはわざわざ「適合性は美にはならない」とまで言ってのけた。さらには「均斉は美ではない」とさえ念を押した。古代ギリシアのプロポーションや、現代のインダストリアルデザインの利便性や機能性は、はなっからバークのお呼びではなかったのである。やはりバークはバロックの申し子だったのだ。
 本書の終わり近く、バークは「黒色」の魅力を持ち出している。そして「黒色は局部的暗闇である」と書く。バークはこのようなことを持ち出して、いったい何を説明したいのかというと、暗闇や黒色はわれわれを不安にはこぶけれど、そのような不安や欠如を感じられるということが、われわれに崇高の深さや高さを刻印しているのだと言いたいわけなのである。
 まったくもってよくぞよくぞ、ここまで書いたものだ。してやったり、エドマンド・バークだ。たいしたもんだ、「負の崇高」。
 しかしながら、これは冒頭にも示しておいたように、「美学」の歴史の発端でもあったのだ。その後の美学の成果がどのように変遷していったのかは、これも最初にも書いたようにバークの仮説を紛らわせてしまったところが、少なくなかった。では、いったい美学って何なのかということである。いずれ機会をあらめて、エステを総浚いしてみたい。たとえばカント、たとえばガダマー、たとえばアドルノ‥‥。

ブリストルのバーグ像

附記:バークの著作物はだいたい翻訳されている。『エドマンド・バーク著作集』(みすず書房)、「世界の名著」第41巻(中央公論社)などを見られるといい。『フランス革命についての省察』は中公のほうに全文が収録されている。バークその人については、中野好之『評伝バーク』(みすず書房)が主としてアメリカ独立戦争期を中心にまとめている。政治思想については、岸本広司『バーク政治思想の展開』(御茶の水書房)が圧倒的だ。800ページをこえる。そのほか美学関係の詳しい本ならば、たいていバークが“歴史的”に登場するが、バークを詳しく扱っているものはかなり少ない。美学はやはりカント以降なのである。そしてヘーゲルなのである。とりあえず佐々木健一の『美学辞典』(東京大学出版会)と今道友信監修の『講座・美学』全5巻(東京大学出版会)を、入門書としてお薦めしておく。

  
追記:たいへんうっかりしていた。この文章を書いた直後、ぼくは桑島秀樹の『崇高の美学』という本が講談社選書メチエから刊行されていたことを知った。奥付は20008年5月10日になっているから、発売されてから約2ヵ月たっている。近くの本屋になかったのでさっそく取り寄せたところ、これは凄い。この38歳の著者は大阪大学文学部で学問に勤しんだ当初からバークに関心をもったようなのだ。いまは広島大学総合科学研究科の准教授である。
 ざっと目を通してみて、これは日本で唯一のバーク論になっていることが瞭然とした。むろんカントのことも詳しいが、なんといってもバークの崇高論を適確に、かつ深く捉えていると見受けた。いずれ紹介したい。そうでないと、ぼくの上記のバーク案内ではあまりにも舌足らずなのだ(もともとカントを省いていたので、それについてはいずれ書こうとは思っていたが)。また、著者が「石」と「ヒロシマ」に言及していることにも心が動いた。そこにはなんと井上ひさしの『父と暮らせば』もとりあげられている。この芝居(映画は黒木和雄監督で原田芳雄・宮沢りえ主演)は、1ヵ月前に見たばかりなのである。そのことについても、そのとき触れたい。7月5日の「連塾」で井上ひさしさんと話したことを含めて。

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