才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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崇高と美の観念の起原

エドマンド・バーク

みすず書房 1973・1999

Edmund Burke
A Philosophical Enquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful 1757
[訳]中野好之

崇高と恐怖。類似と共感。
そして「小ささ」と「高さ」と「融合」と「なめらかさ」。
美とは、ここに発祥してるのではないか。
28歳のバークの一冊に、
いまこそカーソル・インしてみたい。
が、その前にバークとは何者だったかを
そのフランス革命批判とともに、
知っておいたほうがいい。
それはたんなる保守思想というものだったのか。

いまはなぜだかすっかり看過されてしまっているようだが、哲学・芸術・思想のなかには、「美学」という領域がある。エステティックス(英 aesthetics、仏 esthétique)だ。森鴎外は「審美学」と訳した。そう言っては実も蓋もないけれど、つまりはエステだ。エステではあるけれど、メルロ゠ポンティも、ロラン・バルトも、九鬼周造も中井正一も、それからウンベルト・エーコも、みんな本格的な美学者だった。こういうエステには通院したほうがいい。
美学は、一七三五年にドイツのアレクサンダー・バウムガルテンがその必要に気づいたときは、まだ「感性学」という意味だった。認識能力の上位に「悟性の学」としての論理の学があるとしたら、下位には「感性の学」としての美についての認識の学があるはずだという判断から生まれた。バウムガルテンはライプニッツとヴォルフの「バロックの知」をめぐる思索の系統を引いていた。
その後、美学はカントによって最初の体系の確立を見たというのが通り相場になっている。一七九〇年の『判断力批判』がその結晶的成果である。これをシェリングの『芸術哲学』やヘーゲルの『美学』が継いだ。それでまちがってはいないのだが、そのカントに多大な影響を与えたものに、一人の青年の大論文があったことを忘れてはいけない。それがエドマンド・バークなのである。ぼくは「遊」の第一期をつくっているころに出会って、うーん、と唸った。

「我々は類似を発見することによって新しい映像(image)を作るのであり、換言すればここでは我々は統合し創造して我々の資産を増加せしめるに反し、差異の発見によっては想像力には何らの糧も与えられず、それ故この仕事はそれだけ苦しい退屈なものとなって、我々がそこからたとえ快を引き出すとしても、それは消極的間接的性格のものでしかないからである」。
翻訳はひどいけれど、これで唸った(もともとの英文も悪文なのである)。何を言っているのかというと、「新たなイメージは類似の発見から生まれる」「資産とは類似性である」「差異の発見は想像力につながらない」。そう、言っているわけだ。
この言い分はたいへん画期的だ。いまでも十分に通用する。それどころか、このように「類似の力」や「模倣の作用」を正面から強調できないために、多くの現代思想は迷わされてきた。昨今、やっとガブリエル・タルドの模倣社会学やアナロジー理論ともいうべきものが浮上しはじめているけれど、まだまだ加速も深化も足りていない。それにくらべて、バークの「資産は類似性」は群を抜いている。

エドマンド・バークが『崇高と美の観念の起原』に「類似の発見がイメージの発見なのである」と書いたのは、十八世紀半ばの一七五七年だった。
バウムガルテンが『美学』を刊行してから、七年しかたっていない。まだフランス革命もアメリカ独立もおこっていない。イギリス同時代人のアダム・スミスの『国富論』はこの二十年後のこと、パリではディドロとダランベールの『百科全書』の第一巻が産声をあげていたけれど、ルソーの『社会契約論』はまだ出版されていなかった。先駆的といったら、こんなに先駆的な見解はなかった。しかもバークがこれを書いたのはまだ二八歳のときだった。
たんに「類似」という資産の重要性に気がついただけではない。バークは世界観における「崇高」(sublime)と「美」(beautiful)の起源を求めるうちに、類似のもつ普遍作用に気がついたのだった。この作用は類似編集力のことである。ぼくが「遊」の相似律を美しく仕上げたいと思ったのは、そういうバークとの出会いにも依っていた。

エドマンド・バークはやや忘れられた思想家である。また、ひどく誤解されてきた政治哲学者でもある。とくに日本では馴染みが薄いのだが、バークをめぐる毀誉褒貶は本国イギリスでも理解しがたい変転を見せてきた。
ぼくはそういう思想史上の毀誉褒貶はまったく気にならない。どんな思想や哲学や芸術も、あらためて本気の価値評価をやりなおすべきで、それも「主題」の側からだけでなく、「方法」の側からの裁断をするべきなのである。とくに時代をはるかにとびこえて先駆的な思想をもっていた者たちについては、たとえばチャールズ・パースなどがその一人だが、根本的に見直したほうがいい。
だからバークについては、いまこそさまざまな観点から検討されるのがいいだろう。第一には「類似」について、第二に「崇高」について、第三に「趣味」について、第四に「フランス革命」について、第五に「アメリカ独立革命」について、第六に「保守思想」について、第七に「倫理観」について、などなどだ。それぞれ先駆的だった見解を評価しなおしたほうがいい。
なかでも「崇高」をめぐる哲学(美学)が今日なお議論されるべき最も含蓄のあるものだと思われるけれど、そのことはあとで書く。カントとも関係する。
のこる主題では「アメリカ独立」「フランス革命」「保守思想」についての議論が、これまではけっこうな論点でまとめられてきた。日本にも岸本広司の『バーク政治思想の展開』(御茶の水書房)という分厚い研究がある。とくにバークが当時リアルタイムでおこっていたフランス革命の動向と思想に真っ向から反対したことはよく知られていて、保守主義思想の牙城のひとつとなっているほどだ。しかし、バークはたんなる保守思想家なのだろうか。ぼくにはどうも、そうとは思えないものがある。
というわけで、バークを知るにはその保守思想と言われてきたエッセンスが奈辺にあるかというところから見るのがいいのだが、それには「保守主義」(conservatism)をめぐるあれこれの議論の辻褄を検討することが必要で、今夜のぼくにはそういうことはいささか面倒だ。そこで急いで、バークがどんな政治動向にとびこんでいったのかということをスケッチするにとどめたい。そのうえで「崇高の美学」の眼目を案内しよう。

一七二九年のダブリンの生まれである。十五歳でダブリン大学トリニティ・カレッジに入って、文学クラブなどをつくって活動していた。一七五〇年にロンドンの法学院ミドル・テンプルで法律に向かった。
が、どうも法律には性が向いていないらしい。そう、自分で感じた。それで一七五六年に『自然社会の擁護』(中央公論社・世界の名著)を、翌年に本書『崇高と美の観念の起原』を書いて出版してみると、この評判がよかった。当時最大の文人で最高のレキシコグラファー(辞書編纂者)だったサミュエル・ジョンソンが「真に批評に値する」と激賞し、すでに『人間本性論』(法政大学出版局)を書いていた哲人デイヴィッド・ヒュームが「とてもすてきな本だ」と褒めた。
それもあって(それに気をよくして)、一七六四年にジョンソンがオーガナイザーだった「ザ・クラブ」(そのころロンドンは「クラブ」の時代だ)の創設にかかわって、文筆で立つことにした。もっともそれだけではとうてい食べてはいけない。当時は、『ガリバー旅行記』のスウィフトや『ロビンソン・クルーソー』のデフォーがそうだったように、まずはコーヒーハウスに頻繁に出入りし、トーリー党やホイッグ党との関係をもつか、これらに反旗をひるがえすかしつつ、そのうえで文筆でもだんだん名を上げるという以外の文筆業など、なかったのだ。
バークもそうした。政治家ウィリアム・ハミルトンの秘書となって政治のABCをおぼえ、ついで一七六五年にホイッグ党の派閥の領袖ロッキンガム侯爵の秘書につくと、折よくロッキンガム卿が内閣首班になった。これをきっかけに、その理論的支柱の一人として重用されはじめ、そのうち周囲の勧めもあって、自身、ウェンドーヴァーの選挙区から立候補して下院議員になったのである。三七歳のときだった。国王ジョージ三世の時代にあたる。

バークは政治家になった。なったのだが、実務のほうより政治思想のほうがおもしろく、だんだん政治的著作活動のほうに打ちこんでいった。そんなふうに政治の実践より政治の思想に活動の可能性を広めていったのは、議会政治の歴史においてはバークが初めてだった。それが評判になった。著作が当時の政策となりえたからである。

議会で演説をするバーク

そこで、一七七〇年には政党政治の本来を説いた『現代の不満の原因』を、一七七四年には七年戦争をめぐるイギリスの立場を明確にした何本かの『アメリカ論』(みすず書房・著作集2)を発表し、加えて、インド統治のためのインド法案の起草を手がけもして、気を吐いた。
こうして、バークの名を夙に有名にした一七九〇年の『フランス革命についての省察』(岩波文庫、みすず書房・著作集3)が、たっぷり著される。バスチーユ攻撃の翌年の刊行である。よくもそんなリアルタイムな政治情勢について速筆できたものだと思う。今日、中東情勢や北朝鮮をリアルタイムに本にまとめられる政治家なんて、日本には一人もいないだろう。ぼくは河出の「世界大思想全集」の一冊として、また中公の「世界の名著」の一冊(マルサス『人口論』と抱き合わせ)として、この『省察』につづけざまに出会えたのだが、これもまた唸らされた。バークが何を書いたのかというと、フランス革命を正面きって批判したのである。それもこっぴどく、だ。
バークは革命勃発の一ヵ月後に、知人への手紙のなかで早くもこんなふうに書いていた。「このこと(フランス革命のこと)は突然の爆発にすぎないかもしれないが、もしも偶然の出来事ではなくて性格がもたらしたものであるとすれば、その人民は自由にふさわしくないはずだ」。

フランス革命の幕開き
(1789年7月14日のバスティーユ攻略)

バークはなぜフランス革命を批判したのだろうか。歴史と人間と政治の関係そのものをオーガニック(有機的)なシステムとみなしていたからだった。フランス革命には「その有機性がない」と見たのだ。ぼくがフランス革命の「自由・平等・博愛」にすぐには靡かない態度を何度かとってきたのは、バークのせいもあった(バークは社会有機体論の先駆者でもあった。コンドルセがその衣鉢を継いでいる)。

国民議会の誕生
親和の天使により、貴族、僧侶、第三身分が結ばれている

ごくごくおおざっぱな見取図を書いておこう。
十八世紀という時代のイデオロギーをイギリスとフランスを中心に見ると、ひとつには「自然の法則」と「政治の法則」とが本気で比較されていた。もうひとつには、「歴史」と「未来」のあいだを本来の人間観によってどのようにつなげるかということが問題になったのだ。
十八世紀はニュートンによる合理科学の基盤をもって出発した。ウェストミンスター寺院の大聖堂にニュートンの墓がつくられたのは一七三一年である。しかし、これはどちらかといえば整合性に満ちた静的な合理性にもとづいていた。だからこれを政治に活用するなんて発想は、毫も生まれえなかった。
これに対して、同じ十八世紀に登場してきたフランス式のビュフォンの博物学は、動的な生物的自然像を描いていた。ルイ十五世がビュフォンの彫像をルーブル宮に置いたのは、『博物誌』が刊行された一七四九年の直後のことなのだ(荒俣宏『ビュフォンの博物誌』工作舎)。この動的な自然観は政治にも相性がよかった。なぜなら、そこでは分類によって機軸が動くからである。当時の知的なフランス人は、この動的な自然観のほうから啓蒙思想をしだいに編み上げていった。ディドロやヴォルテールやルソーの思想は、ここから派生する。
十七〜十八世紀は自然法をめぐる世紀でもある。グロティウス、プーフェンドルフの法思想をうけ、ヴォルフ、そしてルソーとモンテスキューは、自然法による新たな社会のありかたを考えていた。
それはいいかえれば「人間の権利」とは何かということだ。自然法にもとづいて、社会と人間は何を契約するべきなのか、何を交換するべきなのか。こうしてルソーの『人間不平等起源論』や『社会契約論』が生まれ、それがアンシャン・レジームを打破し、フランス革命の気運にも結びついていったのだが、そのような「歴史を変更させたい」という意志は、そもそも社会や人間が「自由」をもっていたからではなかった。それらはルイ王朝を打倒するという王権神授説の変更ではあっても、歴史と社会が根底にもっている「自由」や「平等」にもとづくものではなかったはずなのだ。
このことを見抜いたのがエドマンド・バークだったのである。バークがフランス革命に見たのは、革命行動思想における本来の人間観と社会観の歴史的欠如であり、したがって、これでは歴史と未来とが断絶するだろうという見通しだったのだ。案の定、フランス革命は数年もしないうちにジャコバン政治の異様きわまる失態と、これに代わって登場したナポレオンの圧倒的帝政によって、すっかり覆ってしまった。

バークのフランス革命批判は多くの反論に見舞われた。バークは、このような革命は指導者・教会・法・軍事体制・通商・産業・芸術を次々に壊してしまうだろうと見たのだが、反論のほうはまったく逆の立場にたつ者たちばかりだった。トマス・ペインが急先鋒で、ペインはフランス革命が他のヨーロッパ諸国を変えるにちがいないと確信していた。
しかしバークは、事態はそうはならずに、ヨーロッパ本来の政治と産業と芸術を大きく歪めていくだろうと予測した。真の自由というものがあるとすれば、それは伝統と祖国愛から発して、それがヨーロッパの普遍や人間の本来に向かうものからきっと生まれてくるだろうとみなしたのだ。
反論者たちは、そういう見方はバークの偏見にすぎないと批判した。バークは、それなら「偏見こそが祖国を救う」と居直って、フランス革命による無神論と非人間主義から祖国イギリスを守ろうと決意する。
この、バークがイギリスを守ろうとする立場を表明した政治思想を、今日、「保守主義」(conservatism)というのである。バークは「保守」という言葉は使わず、〝ancient opinions〟とか〝prejudice〟と言っていた。
歴史的には、保守主義はバークの“偏見”から生まれた。たしかに、そうである。しかし、この批判は半分は当たっているけれど、半分は当たらない。とくに最近では本格的な保守主義論が擡頭しつつあって、たとえばヴィーコの「共通感覚」やポランニーの「暗黙知」とさえ関連して議論されているように、バークの偏見はひょっとしたら「個人に根差さない知」というものだったかもしれないからだ。
このことは、バークの『省察』を褒めた議論からはなかなかわからない。ロシア女帝エカテリーナ二世やポーランド国王スタニスワフ二世に熱烈に迎えられたとか、『ローマ帝国衰亡史』(岩波文庫)のギボンに「フランス病に一番よく効く」と言われたといった反響からも、何もわからない。それよりむしろ、遠いドイツにいた若いノヴァーリスが『フランス革命についての省察』を読んで、「これこそ革命に反対した唯一の革命的な書物だ」と感想をのこしたことに、注目したほうがいいだろう。

書斎のバーグ

では、こんなところでバークの政治思想のほうを粗略ながら瞥見したことにして、ふたたび『崇高と美の観念の起原』に戻ることにする。
本書が近代の「美学の発端」に位置していたことは、最初にのべた。それは「感性学」の出発だった。だから本書は冒頭で「趣味」(taste)をとりあげている。趣味というのは、もともとは味覚を意味するギリシア語やラテン語から生じた概念で、そこから味覚のように取り出せない内的感覚にもとづく傾向をもった感性の動向のことをさすようになった。したがって、バークも書いていることだが、趣味の発生はそれがどこに起因したかわからないような「好奇心」や「好み」にもとづいている。
しかし、好奇心や好みにもとづくのだとしても、それによって趣味がどうして成長していくのかといえば、ここからがバークの推理が独得におもしろくなるところで、趣味を成立させるのはたんなる内的感覚なのではなくて、想像力と判断力が複合しているものだとみなすのである。
そして、バークはこの想像力の本体が「類似」に兆すとみなしたのである。また判断力の正体は「差異」なのだともみなした。バークは「類似」と「差異」とが互いに相克し、その複合のぐあいから好みや趣味が生まれるとしたのだった。
どんな複合のぐあいかというと、趣味や好奇心はしだいにその人物のなかや民族のなかに進捗していくのだから、そこではきっと「類似」が「差異」に少しずつ勝って、おそらくは「模倣」(imitation)がおこっているのだろうとみなしたのだ。この見方はハンス・ゲオルク・ガダマーの『真理と方法』(法政大学出版局・全三冊)などにおける模倣の着目や、晩年のジル・ドゥルーズが注目したガブリエル・タルドの『模倣の法則』(河出書房新社)の推理などともきわめて重なるところがあって、はなはだ興味深い。
つまりバークは、類似は模倣を生み、模倣は「共感」(sympathy)の拡張になっていくとみなしたのである。そしてここから「美」の本来や「崇高」の確立に向かっていった。となると、共感はどうして生まれていくのかということが問題になる。

「美」の発生や発育について、バークは驚くべき推理をほどこした。そのスタートには「目新しさ」や「曖昧さ」が関与しているだろうと言うのだ。これが趣味や共感の端緒なのだ。ホメーロスからミルトンにおよぶ詩にヒントを得たものだった。
推理はさらに深まっていく。その趣味と共感の端緒には「注意」が生じていて、そこからいよいよ感性というものが「美」や「崇高」に向かうというのだ。が、ここまではまだ序の口なのである。バークが追究した「美」の本体は、もっと驚くべきものだった。それは「小ささ」や「僅かさ」から生じるものだったのである。
この「小ささ」や「僅かさ」は、「繊細」(delicacy)と結びつく。「繊細」は、どのように見分けられるかというと、その対象物の「構成部分が多様に変化すること」で保証される。細部に注意のカーソルが動くのだ。まことに感嘆すべき説明だ。しかもバークはさらに説明を加えて、「繊細」はもっといえば「これらの部分が互いに他と、いわば融合している」ということで成立するという。それだけではない。このように「繊細な構造を有し、力強さの外見があらわでないこと」、このことこそが「美」を生ぜしめる条件になっていくというふうに説明した。
まことにもって、あっぱれな見方だというほかはない。しかもこれらを総じて「もっともらしさ」(specious)と名付けたのだ。「らしさ」とは、これだったのだ! そして、それが「美」が“fine”である根拠になっていくだろうと結論づけたのだ。いやいや、とんでもないバーク二八歳の著作だった。

そこでいよいよ「崇高」(sublime)である。この概念はのちにカントが大いに称揚するところとなったもので、うっかりするとカントの考え方とまざって解説されることが多いのだが、今夜は厳密にエドマンド・バークが推理した「崇高」だけをとりあげる。端的にいうと、こういうことなのだ。
崇高とは「高さ」なのである。これが当初の前提になる。実は崇高という概念は、三世紀にロンギノスという詩人が書いたとされる『崇高論』(Peri Hypsus)という謎の書物があって(実際には一世紀の作者不詳の書物)、そこでは修辞学上の〝文体の高さ〟などが「崇高」として絶賛されていた。しかしバークはこれを修辞学からいったん解放して、美の概念の究極にもってきた。
バークの言う「高さ」とは何かといえば、そこからのべつまくなしというわけではないけれど、それに似たような「継起」が連続的に次々におこることに応じて生ずる、感性や感動の高揚のことをいう。ようするにわが国の歌論にいう「長高き体」なのだ。「有心」や「幽玄」だ。
が、バークはこの「高さ」すなわち「崇高」は、必ずや驚愕や共感や敬意を呼ぶのだから、そこにはいくつもの条件が参集しているのだろうと見た。ここが日本の歌論とちがって、分析的なところだ。その条件というのが、またまたすばらしい。第一には「曖昧」がもたらす不安な印象であり、第二には古代ローマの詩人ウェルギリウスが巧みにそのことを表現してみせた「欠如」であって、そして第三には至上や壮麗を突き動かす「闇のような力」だろうというのだ。
これはそうとうに意外であろう。まさかバークがこのように崇高の条件を「負」の領域から持ち出しているとは、予想できなかったのではあるまいか。「曖昧」と「欠如」と「闇」なのだ。それが崇高に参集する条件たちなのだ。バークの崇高とは、実は「恐怖」の本体とまじわっているものなのである!
こう、書いている。「恐るべき対象物とかかわり合って恐怖に類似した仕方で作用するものは、何によらず崇高の源泉であり、それゆえに心が感じうる最も強力な情緒を生み出すものにほかならない」。また、こうも書いた。「恐怖をひきおこす性質をそなえたものは、何によらず崇高の基礎となる」。

崇高が恐怖と紙一重になっているというバークの美学は、きわめて独得である。特異でもあろう。にわかには理解しがたいかもしれない。
しかしよくよく考えてほしいのだが、その恐怖というのは、対象から感じられる「曖昧」「欠如」「闇」がもたらすもので、そうであればこそ、そこから崇高がすっくと屹立するわけなのである。それはいいかえれば、先に指摘しておいた「美」の本体である「小ささ」「僅か」「繊細」の相対作用そのものだったのだ。
わかってもらえるだろうか。バークの美学は恐怖と崇高がネガポジであり、原型と模倣が「抜き型」で、そこには「小ささ」「僅か」「繊細」の回転扉が動いていたわけなのだ。そのきわどい相対性が感情の高揚をもたらし、そのうえで「美」を感得させるということだったのだ。
バークはむろん、ネガポジとか抜き型とか回転扉などと言ってはいない。それを「連合」というふうに言っている。その連合は「振動」をともなうとか、その振動は「同質」だろうというふうに言う。それで十分だろう。よくぞそこまで説明しているではないか。
そのため、バークはわざわざ「適合性は美にはならない」とまで言ってのけた。さらには「均斉は美ではない」とさえ念を押した。古代ギリシアのプロポーションや、現代のインダストリアルデザインの利便性や機能性は、はなっからバークのお呼びではなかったのである。
本書の終わり近く、バークは「黒色」の魅力を持ち出している。そして「黒色は局部的暗闇である」と書く。バークはこのようなことを持ち出して、いったい何を説明したいのかというと、暗闇や黒色はわれわれを不安にはこぶけれど、そのような不安や欠如を感じられるということが、われわれに崇高の深さや高さを刻印しているのだと言いたいわけなのである。まったくもってよくぞよくぞ、ここまで書いたものだ。ここには長次郎の「大黒」や山本耀司の「黒」もある。してやったり、「負の崇高」である。
しかしながら、これは冒頭にも示しておいたように、「美学」の歴史の発端でもあったのだ。その後の美学の成果がどのように変遷していったのかは、これも最初にも書いたようにバークの仮説を紛らせてしまったところが、少なくなかった。

バークの著作物はだいたい翻訳されている。『エドマンド・バーク著作集』(みすず書房)、「世界の名著」第四一巻(中公バックス)などを見られるといい。『フランス革命についての省察』は中公のほうに全文が収録されている。
バークその人については、中野好之『評伝バーク』(みすず書房)が主としてアメリカ独立戦争期を中心にまとめている。政治思想については、さきほども紹介しておいた岸本広司『バーク政治思想の展開』が圧倒的だ。八〇〇ページをこえる。そのほか美学関係の詳しい本ならば、たいていバークが〝歴史的〟に登場するが、バークを詳しく扱っているものはかなり少ない。美学はやはりカント以降なのである。そしてヘーゲルなのである。
ところでさて、たいへんうっかりしていた。この文章を書いた直後、ぼくは桑島秀樹の『崇高の美学』という本が講談社選書メチエから刊行されていたことを知った。奥付は二〇〇八年五月十日になっているから、発売されてから約二ヵ月たっている。近くの本屋になかったのでさっそく取り寄せたところ、これは凄い。この三八歳の著者は大阪大学文学部で学問に勤しんだ当初からバークに関心をもったようなのだ。いまは広島大学大学院総合科学研究科の准教授である。
ざっと目を通してみて、これは日本で唯一のバーク論になっていた。むろんカントの美学についても詳しいが、なんといってもバークの崇高論を適確に、かつ深く捉えていると見受けた。また、著者が「石」と「ヒロシマ」に言及していることにも心が動いた。そこには井上ひさしの『父と暮せば』がとりあげられている。この芝居(映画は黒木和雄監督で原田芳雄・宮沢りえ主演)は、一ヵ月前に見たばかりなのである。

ブリストルのバーグ像