石田英一郎
桃太郎の母
弘文堂アテネ文庫 1948 講談社学術文庫 2007
ISBN:4061598384
桃太郎や一寸法師はどんな母親から生まれたのか。
かぐや姫や瓜子姫の母は誰だったのか。
柳田国男の「小サ子」の着目にもとづき、
石田英一郎が「桃太郎の母たちの謎」に挑んだ。
それは意外にも「物語の母」の探求となっていった。
わが国の文化人類学の泰斗が架設した
壮大なパノラミック・ワールドこそ、
われわれが依拠すべき世界模型の原郷なのである。

 昔話や民話というものは、どこか理不尽にできている。理不尽であるのに、その話を聞いた者はあまり疑問をもたない。仮に疑問をもって「どうして? どうして?」と訊いたところで、親たちは「だって悪い子になっちゃダメでしょ」という程度の説明しかしてくれない。おかげで子供たちは名状しがたい薄い皮膜のような感情をもたされる。
 ぼくは日本の昔話に夢中になる少年時代ではなかった。タヌキを焼いたり羹(あつもの)にする「カチカチ山」(勝々山)や、団子をみんな食べたスズメが舌を切られる「舌切り雀」や、タヌキが野炊きや茶釜で茹でられる「文福茶釜」などはなんだか気持ち悪かったし(べつだん動物愛護からの気持ちではないが)、浦島太郎が乙姫の囚われの身になるのも納得できなかった。それでも桃太郎と金太郎と一寸法師はいっぱしの冒険ものだったので、ちょっとたのしかったという記憶がある。
 が、昔話の研究者は、こうはいかない。昔話の構造にもその伝承の経路にも、大いに疑問をもつ。それが仕事だ。たとえば桃太郎や一寸法師の「両親は何者だったのか」というような疑問だ。けれども浦島太郎や桃太郎のお母さんのことなど、いくら昔話を何度聞いたり読んだりしていても、わかるはずがない。両親のことはちっとも描写されてはいないからだ。そこで伝承の系譜を追うことになるのだが、それで証拠がつかめることはなかなかない。どこかでアブダクションが必要になる。

  
 そもそも昔話では、どんな場合でも「昔、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」とか、「あるときおばあさんが川で洗濯していると、大きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました」というふうに、ごく一般的な「とき・ところ」と「じいさん・ばあさん」が設定されているだけで、背景の事情や登場人物の出自や性格などいっさい説明しない。
 なぜ「昔、あるところ」で、何丁目何番地ではなく、なぜ「おじいさんとおばあさん」で、どこの誰兵衛ではないのか。そこに疑問が生まれる。やがて研究してみると、この「とき・ところ」は特定の日時や場所のことではなく、「物語そのものが発生するトポス」そのものであり、「じいさん・ばあさん」とは本来は「翁(おきな)と嫗(おうな・おみな)」というもので、特定の人物ではなくなっていることを知る。
 では、もともとそうだったのか、どうか。本来の物語の原型はどういうふうだったのか。それが変化したり変質したりしたというのなら、なぜ、そんなふうになったのか。そこを知りたくもなる。昔話や民話の研究はこの疑問から始まった。世界的にはシュレーゲル兄弟やグリム兄弟(1174夜)らのドイツのメルヘン研究が先頭を切り、つづいてロシアのウラジミール・プロップらの民話研究が続いた。日本は、そのような方法ではないところから出発した。

  
 日本の昔話は、かぐや姫でも一寸法師でも桃太郎でも瓜子姫でも、なぜか両親ではないおじいさん・おばあさんが冒頭に出てきて、ふいに子宝を授けられるというふうになっている。なぜ祖父・祖母であって、両親ではないのだろうか。
 昔話はその理由は説明しない。たとえば一寸法師では、津の国の難波の里の翁と嫗とが住吉明神に願をかけていると、指のように小さな子が授けられたというふうになっていて、まるで祖父母世代から隔世遺伝するかのように未来を予感させる子が登場するだけなのだ。
 考えてみると、昔話というのはいろいろ変である。両親ではなくておじいさんとおばあさんが子を授かるのは、神様のダイレクトな恩恵に対する敬虔を示唆するためなのか、それとも出産能力がないはずのおばあさんに、何かの象徴作用を託したいからなのか、よくわからない。ちゃんと両親や継母がいるシンデレラや白雪姫の話とくらべると、とくに変である。
 ただし、日本の昔話も各地の伝承がちょっとずつ異なっていて、桃太郎の場合なら、両親が花見に行って弁当を食べようとすると桃が足元にころころ転がってきて、それを綿にくるんで持ち帰って寝床においておいたら子供が生まれたという話が、岩手や秋田などの東北地方には伝わっているので、ときには両親が登場することもあったのである。
 ということは、原型が「翁・嫗」であったとしても、実際の伝わり方にはいろいろなヴァージョンがあったのだ。ときには原型のほうが両親で、そのうち「翁・嫗」の母型のほうに深化したとも考えられる。

  
 次に変なのは、竹や桃や瓜の中から赤ん坊がオギャーとあらわれてくることだろう。これはどうみてもホラーだ。人類学や民俗学ではこれを「異常出生譚」というのだが、考えてみると、この唐突は「異類」の出生のようにも見える。
 絵本などの絵では竹や桃の中の赤ちゃんが光輝くように描いてあるため、出会った子は当然ながら人間の子供だろうとハナっから決めてかかっているのだが、それがヒルコのような子でないという証拠はない。しかしさらに変なのは、幼な子が異類であるのはごく最初のうちだけで、その子がホラー映画のエイリアンのようにずっと奇怪なままに成長することは、鉢かつぎ姫などを除いて、めったにないということだ。たいていは成長するにしたがって立派な大人になる。
 もっと変なのは、この異常出生した者にかぎって金銀財宝にめぐりあったり、長者になったり、お姫様に抜擢されて、社会的に大成功するということだ。つまりは立派な大人になってフツーではできないことをやってのける。フィナーレでは“近隣の英雄”になってしまうのだ。
 これをエリアーデ(1002夜)流に、「反対の一致」とみなすこともできる。異様なものが長じるにしたがって輝かしいものに変じるというのは、マイナスとプラスの反作用なのである。また、『経済の誕生』(843夜)でも紹介したことだが、これを「富の秘密の解読」のアンダーシナリオだというふうにも読めないこともない。異質なものの受容こそが富の起源になるという顛末であるからだ。
 しかしながら、竹や桃などの変なところから生まれてくるという話は、世界中の昔話や民話や童話にもしょっちゅう出てくることで、木の股から子が生まれたり、パイナップルの中から子が生まれたり、堅い石から子が出てくることはよくある話なのである。宋の『嶺外代答』など読んでいると、風が子を孕む話もたくさん出てくる。
 いずれも奇怪な話ではあるけれど、出産のしくみを知らなかった時代の、また奇形児などの出産の理由がさらにわからなかった時代のお話としてみれば、この異常出生の背景はそれなりに納得できるものもある。けれども、そんな程度の解釈で何かが説明できるのか。

  
 変なのはそれだけではない。これらにましてもっと変なのは、かぐや姫や一寸法師や桃太郎がまさにそうであるのだが、これら生まれ出しものたちが、なぜか特別に極小児であるということだ。マイクロチャイルドなのだ。いったいぜんたいどうして、あんなに小さすぎる子が生まれるのか。

「桃太郎画伝絵巻」上巻 (国立歴史民族博物館)

 実は日本にはかぐや姫や一寸法師や桃太郎だけでなく、このほか、スクナヒコナ、細男(さいのお)、座敷ワラシ、小泉小太郎、泉小次郎、スネコタンパコ、うんとく、ヒョウトク、五分次郎などの、小さいことを誇っているような神々や主人公たちが、ずらりと各地で活躍してきたのだった。ワタツミにも「海童」という字をあてたりもする。
 スクニヒコナの場合は、虫の皮を着ているほどのマイクロチャイルドで、芋の鞘でつくったアマノカカミ舟(天羅摩船・白劔船)に乗って、波頭からこの世にあらわれたことになっている。まあ、波しぶきよりも小さい神なのだ。ところがこのスクニヒコナがオオクニヌシ(オオナムチ)と協力して「国」を作ってしまうのだ(国造り神話)。作りおわると、常世(とこよ)に戻っていく。とすると、スクニヒコナの両親だか祖父母だかは常世にいることになる。
 タニシ・カタツムリ・小さなヘビ・カニ・カエルなどの小動物の姿をとって出生してくる極小児たちもいる。ところがこういうマイクロチャイルドも、タニシ長者やカエル女房などの昔話がそうなっているのだが、たいていは成長して長者になったり、すばらしい女房になったりする。岩手に伝わる小ヘビ伝承では、小ヘビは鉢や盥(たらい)や杯(さかずき)で養われ、いつのまにか成長する。各地のヌカヒメ伝説はこのヴァージョンだ。
 マイクロチャイルドのなかには、母親から直接に生まれた極小児もいる。それがスネコタンパコで、母親といってもお母さんの臑(すね)がふくれて、そこから小指ほどの子が出てきたというのだ。これは松浦理英子(1062夜)の親指Pを知っている者でもギョッとする。
 小泉小太郎というのは、どこかの首相の息子のことではなくて(笑)、信州や越後に伝わる昔話の主人公のことをいう。古寺に住む僧のところへ美しい女が通ってくるのだが、いつもすうっと帰っていくので、あるとき女の着物の裾に糸を括りつけておいたところ、その糸が戸板の節穴から外に向かっている。訝ってあとを辿ってみると、川上の岩窟にオロチがのたうっている。僧は恐ろしくて逃げ帰ってくるのだが、やがてオロチから小さな子が生まれ、川に流された。これを老婆が救って育てたところ、小さいくせに大飯を食う。やがて成長して体の一部に鱗をもつ小泉小太郎あるいは白竜太郎となって、その水域一帯を支配した。そんな話になっている。
 いったい、これらの話にはどこか共通点があるのだろうか。誰しもその奥が覗いてみたくなるけれど、なかなかそこにアブダクションがはたらかない。ここまで読んできた諸君はどうだろうか。ここには実は極小児の出生とともに「水」が関与していたのである。

  
 昭和8年(1933)、柳田国男(1144夜)は『桃太郎の誕生』を書いて、日本の昔話や民話にしばしば小さな子が異常出生することに着目し、これを「小サ子」と名付けた。また『山島民譚集』において、水辺に出没する水怪、たとえば河童などがどのように語られてきたかを調べ、水辺と「小サ子」には少なからぬ類縁関係があるのではないかと書いた。
 これに石田英一郎が触発された。そして柳田の着目を発展させ、そうした「小サ子」の陰に「その母とも思われる女性の姿」が見え隠れしていることに気がついた。のみならず、そこには「母親が異常出生によって生んだ男児と交わって、種族あるいは人間の祖先となる始祖伝説」のようなものが控えているのではないかという、大胆な推理を披露した。その母子相関の結末が、なんらかの理由で幼児を「小サ子」という極小化した異類の物語にしていったのではないか。大筋、そう考えたのだ。
 これが石田による“桃太郎の母”の大筋の推理だった。いいかえれば、石田が推理した“桃太郎の母”は“桃太郎のお母さん”という意味ではなかったのだ。「小サ子」の物語を生んだ「物語の母」の追求だったのである。
 続いて石田が調べてみると、その母は日本にのみ君臨していた母ではないことが見えてきた。アジア各地に、ユーラシア全域に広がっていた母と子の物語がどこかで日本化したものだった。もっとわかりやすくいえば、太古のグレートマザーの世界物語に登場していた“原母”と、その係累に出生した霊威溢れる子孫との物語が、しだいに原初の聖なる性格を変質させ、その聖性をしだいに脱落させていったのが、桃太郎や一寸法師という昔話だったのである。

オシリスの屍体を膝に抱く大母神イシスの像

キリストを抱く最古の聖母

山姥と金太郎
(喜多川歌麿)

 昔話から主人公の母が消えたのではない。物語という母型が消えていったのだ。忘れられてしまったのだ。いまならツベタン・トドロフやジョセフ・キャンベル(704夜)らのナラトロジー研究によって、多くの口承文芸がいくつかの母型や類型をもっていることがあきらかになっているので、以上のようなことに疑問をもつ者は少なくなったけれど、石田はほぼ独力でこのような推理に至ったのだ。
 石田はどうしてこのような推理に夢中になったのだろうか。「小サ子」の物語には「水」がかかわっていることに関心をもったからだった。

  
 そのうち千夜千冊しようと思っていた『月と不死』(東洋文庫・平凡社)という本がある。ニコライ・ネフスキーの著書で、若き石田英一郎が大きな影響をうけた。
 今夜は略歴の解説を省くけれど、石田は京都帝大の経済学部に入った社会派の学徒であった。ただ大正13年からはネフスキーのロシア語講座に欠かさず出席し、やがてネフスキーから「ツルゲーネフなんて古いもんだが、ゴーゴリ(113夜)はいまだに新しい」といった話から、日本には柳田国男や折口信夫(143夜)といった凄い人がいるじゃないか」といった話までを、流暢な日本語で聞かされた。とくにジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(1199夜)を教えられ、少しだけだが読んでみて驚いた。いつか自分もこういう学問に取り組んでみたいと思ったのだ。
 しかし卒業後は、石田はかなり過激なマルクス主義運動に傾倒し(学生時代からのマルキストであった)、自分の社会活動もその実践にあると確信する日々を送っていた。共産党の大検挙の時代、石田はしばし投獄もされるのだが、そのうちマルクス主義の限界にもふれることになって、資本制出現以前の社会についての重要性に気づくようになっていった。そしてしだいに、世界文化史の解読をこそするべきだと思うようになった。こうして石田は、ネフスキーが薦めたフレイザーの『金枝篇』や柳田を耽読し、世界読書による文化の解明に向かったのである。
 昭和12年、34歳になっていた石田は意を決して、ウィーン大学の民族学科に入学をする。石田はまず世界中の馬の文化を調べることにした。馬ならば世界を文化回航できると思ったのだ。けれども2年後、ヒトラーの軍隊がオーストリアに侵入したため、石田も各地を遍歴しながらボルドー経由で帰国せざるをえなくなった(馬の研究はのちに『天馬の道』に結実する)。
 日本に戻った石田は帝国学士院の民族調査委員会の嘱託になると、南樺太やアイヌや華北や内蒙古の実地調査に従事して、なんとか世界文化史の一端を目に焼き付けようとした。とくに張家口の蒙古善隣協会に付設された西北科学研究所に入ったときは、その研究所の所長であった今西錦司(636夜)に刺激をうけ、その若き所員の梅棹忠夫や中尾佐助たちとの談論風発をたのしんだ。
 敗戦後、石田は自分の生涯を民族学に捧げることにする。そこで、日本の民族学と民俗学関係の雑誌や刊行物のすべてに目を通すことにした。そのとき、かのニコライ・ネフスキー先生が『月と不死』という論文をとっくの昔に書いていたことにめぐりあったのだ。それは日本列島に伝わる「若水」の伝承を解読しようとしていた画期的なものだった。

  
 ネフスキーの若水研究は石田に大きな指針を与えた(ネフスキーには柳田や折口も関心を寄せていた)。そこで石田は万葉・古事記・風土記などをくまなく調べ、はたして月読命(ツクヨミノミコト)の伝承と若水の伝承には密接な関係があること、そこにはしばしば神変する出生児や精神成長の出来事がまつわっていること、さらにはそれが月光に照らされた水辺に出入りする異類たちの物語とも深くつながっていそうだということを“発見”する。とくに次の万葉歌に心を奪われた。

   天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 
   月よみの 持ちたる変若水(をちみづ) い取り来て
   君に奉りて 変若(をち)得しむもの

 「月よみの持ちたる変若水」には、永遠の生命を約束する何かが感知されていた。万葉の歌はそれを告げているにちがいない。石田はそう推理した。一方、日本の昔話に「小サ子」が多く、その多くが川を流れる桃やお椀と関係していたり、タニシや河童やカニに関係しているのは、きっと「若水」と「小サ子」のあいだには密接なつながりがあるのだろうと仮説した。
 スクナヒコナの物語にして、すでに水界の物語なのである。小泉小太郎は生まれ落ちて川を流れたのである。ここには「水」と「母」と「子」の異常が見てとれるにちがいない。こういうことを確信した石田は、やがて『桃太郎の母』をまとめると、その冒頭の献辞に「この書をニコライ・ネフスキー先生にささぐ」としるしたのだ。
 これでだいたいの見当がつくように、石田の母子神研究の原点にあったのは、月と水と神変異類の誕生の研究だったのである。それが、研究するうちに「桃太郎の母たち」全般に及んだのだった。それは石田が取り組みたかった「浩瀚な世界史」を渉猟するという第一歩となったのものである。

古代メキシコの大母神トラソルテオトル(右)と
月のシンボル(左)
月中には兎と水が、月下には蛇が見える。
図は月と水との緊密な結合関係を表している。

 その後の石田英一郎についても、ちょっとだけふれておく。石田は44歳で学会誌「民俗学研究」の編集主幹となると、この研究メディアの場を岡正雄・八幡一郎・江上波夫らに開きながら、世界と日本の文化史総体の見方の徹底追求に乗り出すと、つづいては柳田国男と折口信夫を長時間2回にわたって招き、有名な「日本人の神と霊魂をめぐる観念」について、大きな方向を提示することをやってのけた(1144夜参照)
 こうして昭和26年、48歳の石田が東京大学の文化人類学の最初の教授になっていく。日本の文化人類学の誕生だった。『文化人類学ノート』を書いたのが52歳、『文化人類学序説』をものしたのが56歳である。
 過激なマルキストは、日本の文化人類学の“母”になったのだ。のちに石田は日本民族学会の会長とも多摩美術大学の学長ともなるのだが、そのころの多摩美の教員をしていた奥野健男は、「石田先生ほど学生たちに心から信頼された学長は、かつていなかった。教育も学問もその責任者の人間性によるものだということを石田先生ほどみごとに実証した人はいなかった」と書いた。

 石田が『桃太郎の母』に示そうとしたもの、それは「世界知と共同知と個別知」の関係を、西洋・東洋・日本をまたぐ世界読書を通してつなげていくことだった。むろん多少のフィールドワークもしているけれど、石田はそれを一人でやろうとはしなかったし、その効果よりも、むしろ多くの他者業績をそれらを組み合わせ、総合編集することを意図した。
 なぜ石田がそのようなことを考えたかといえば、これは石田自身が書いていることなのだが、「歴史的現在」をあきらかにするには「遠い過去」をこそ「鳥の目」で見るべきだと展望していたからだった。そうであればこそ、石田は日本の昔話にこだわったのだ。そこを徹底すれば、そこには必ずグローバルな翼が折り畳まれていると踏んだ。ローカルの根がグローバルなのである。
 学問研究の方法とのかかわりでいえば、石田は残念ながらレヴィ=ストロース(317夜)の構造主義の洗礼を受けてはいない。石田のほうの時期が早すぎた。したがって構造分析の手法は知らないままだった。しかしながらのちに山口昌男(907夜)小松和彦(843夜)が指摘しているように、にもかかわらず石田の目はレヴィ=ストロースそっくりだったのである。これは驚くべき編集方法の独自開発だったというべきだ。

  
 いま、昔話の研究はナラトロジーとしても、物語行為論としても、またユング派による研究としても、かなりの広がりを見せている。世界中の民話や童話の比較研究もずいぶん深化した。日本の昔話の研究も、関敬吾を筆頭に大きく前進した。
 関は他方では、石田の研究に批判も加えた。石田がいう「小サ子」と「水界」の連動は物語のモチーフにすぎず、それをもって母型にはさかのぼれないのではないかというのだ。
 こうした批判もあるにはあるのだが、しかし石田の「物語の母」はいまもなお生き残っている。そこからはシビル・ビルクホイザー=オリエの『おとぎ話における母』(人文書院)のような「マーテル・ナトゥーラ」(母なる自然)がもたらす女性原理的なナラティヴィティも引き出せようし、また、ジュリア・クリステヴァ(1028夜)の「アブジェクシオン」(おぞましさ)も引き出せる。
 ま、そのへんのことを今夜これ以上広げることは控えよう。ぼくとしては、最近では桃太郎の「母」よりも「翁と嫗」のことが気になっているので、ここから先は郡司正勝(325夜)の『童子考』や鎌田東二(65夜)の『翁童論』のほうでも、遊びたい。そして、世の物語編集力が昔話にもSFにも、ファッションにもシャンプーにも及んでいくことを傍らから見ていたい。

附記:「小サ子」の研究はもっと広がっても、深まってもいい。そこには「想像のミクロコスモス」の枠組みや生命誕生神話のさまざまなヴァリアントが見えてくる可能性がある。他方、「大きい男」の伝承にも目を向けていい。すでに南方熊楠にも柳田国男にも「ダイダラ坊」の研究があって、古代ギリシアの巨人伝説などともに重要な研究材料になっている。われわれはつねに世界読書のガリバー船長であるべきなのだ。なお、本書には『桃太郎の母』のほか、『月と不死』『隠された太陽』『桑原考』『天馬の道』『穀母と穀神』、およびネフスキーを偲んだ文章が収録されている。増田義郎と小松和彦の二枚解説は、いずれも一読すべきものだろう。

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