才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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暗夜行路

志賀直哉

新潮文庫 1990

内村鑑三に影響を受けた。
小説の神様と言われた。
白樺派だったが、距離も保った。
書画骨董を見抜く目をもっていた。
多くの作家たちが志賀直哉の前ではひどく緊張した。
たしかに短篇は抜群なものがある。
文章もうまい。引き算もある。
が、変な展開にもなっている。
実は志賀直哉はどこかが変なのだ。
まして『暗夜行路』は大いに変である。
いったい、この作家は何だったのか。
時任謙作とは誰なのか。
なぜここから、日本の私小説が脈打っていったのか。

 志賀直哉とは意外です。
A:そうかな。寂寞ではあっても虚無はない。端然としているけれど孤高ではない。憂鬱でも喪失はない。そういうこともあるからね。
Q:好きなんですか。
A:実は志賀直哉には妙に困ってるんだね。引っ掛かっている。嫌になったり好きになったりする。昔からぽつぽつ読んでいて、暇つぶしと言っちゃ悪いだろうが、ああ、こういうところが志賀直哉だな、なるほどうまいもんだ、ここはつまらないことを書いたもんだと無責任に読み済ませてきたんだけれど、それでふりかえってみるとけっこうな量を読んだようなんだ。もっとも、この人のものは『暗夜行路』以外はすべて短篇だから、すぐ読める。『和解』などは中篇だけどね。
Q:じゃあ、けっこう好きなんですよ(笑)。
A:そうかなあ。志賀直哉という“生きもの”に引きずられて読んできたような気がするね。作品は、読めば読むほど知れば知るほど細部が気になるのだけれど、そのぶん全貌はぼけてくるんだよ。それでもこういう文芸文人が日本にとっくにいなくなったとも感じて、その生き方がぼくの判断をゆさぶるんだね。それで、ついつい読んできた。
Q:何に困るんですか。
A:“生きもの”をどう見るかということで困ってる。いやね、その文学にはいまさら困らないよ。白樺派だからいいわけでもなく、花袋や藤村(196夜)らの自然主義っぽい立ち位置に反骨したから気にいるわけじゃないし。だいたい志賀を文学論したってしょうがないよ。そこは、そういうぼくの読みもある。これまで多くの批評家たちが志賀文学の評価をまちまちにしてきたが、そこはぼくには痛くも痒くも、気にもならないんだね。楽しめた志賀論といえばせいぜい小林秀雄(992夜)の短いものと、阿川弘之の大作『志賀直哉』くらい。これは驚くほど詳しいものでね。さすがお弟子さんだ。

 志賀直哉ほど写真映りのいい作家はめずらしい。漱石・鴎外このかた顔のいい作家は少なくないが、川端康成(53夜)五木寛之(801夜)も比較にならないくらいではないか。最近は白洲次郎の男っぷりがたいそう評判になっているが、外見だけなら志賀のほうがずっと高みも味もあるだろう。
 志賀は何度も引っ越しをしている。尾道にもいたし、京都南禅寺の宿坊にも鎌倉の叔父の隣りの家にも住んだ。柳宗悦(427夜)に勧められて我孫子に住んだときは武者小路実篤も越してきて、ちょっとした白樺派の村になった。奈良の幸町の大きな家に移り住んでからは千客万来で、小林秀雄や網野菊や小林多喜二や阿川弘之がそのときのことを記している。いわゆる“志賀詣で”は早くからのことだったのである。そうやって多くの者が志賀を訪れてみんなが感じることは、一種の「威儀」のようなものだったらしい。とくに編集者や記者たちは、みんな緊張したという。やはりあの顔貌のせいだろう。

座談会「志賀さんを囲んで」の出席者たちと。
右より丹羽文雄、小林秀雄、志賀、川端康成
(昭和30年 撮影・土門拳)

志賀の書

 そういうカッコいい志賀直哉であるのに、その姿にふさわしくない言動もする。そこが困るのだ。一方で書画骨董を書く目がたいへんおもしろいのと、他方で急に日本の国語をフランス語にしたらどうかと思うなどとロクでもないことを言うあたりとが、とんと反りが合わないところなのである。
 よく志賀直哉のリアリズムとユーモアというけれど、ぼくはその両方を、とくにユーモアを遊べない。まして日本の国語をフランス語にしてみたらなどというのは、リアリズムにもユーモアにもならなくて、聞かされるほうが困るだけである。爺さん、よまいごとを言っちゃいけません。最近では河合隼雄が「英語を第二公用語にしたい」と発案したときも、おいおい爺さんという失調だった。

Q:日本語をフランス語にしようと言ったんですか。
A:深く考えたわけじゃないだろうね。つい口がすべったんだ。
Q:志賀直哉の写実描写にリアリズムもなく、よく言われるようなユーモアも感じないんですか。
A:感じない。文章というものをそのまま感じるけれど、その奥に写実の哲学やヒューマニズムが動いているとは感じないね。だから、ついつい読むんだろうね。
Q:ふーん、そういうものですか。

 志賀の言動は作品にもはみだしてくる。たとえば『万暦赤絵』(ばんれきあかえ)だ。5年ほどの書けなかった時期を破って発表した作品である。
 このなかでの大雅や鉄斎は好きだが円山派や崋山が嫌いで、宗達はいいけれど光悦には誇張や成心があっていけないという見方は、なかなか結構だ。それを言葉にしている口調もうまい。さすがなものがある。では、その目で書いている続きの展開がおもしろいかというと、古月軒の鉢や山科毘沙門堂の青磁花生「万声」や殷周青銅器などについての静謐だったり怖がったりの書きっぷりにくらべて、赤絵の高値を聞いて仔犬を買ったといういきさつを綴るあたりからあとが、まったくつまらない。

『邦子』発表の頃の直哉と飼い犬クマ 
奈良上高畑にて
(昭和2年)

 『万暦赤絵』は、よく知られているように『城の崎にて』や『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』などとならんで志賀を有名にした小篇である。教科書にも載るほど、よく知られている。それでも納得できないところが多い。
 正直いうと、その『城の崎にて』や『小僧の神様』にだって、反りが合わないところが少なくない。とくに話が進んで作家の感情がまとまっていくところからが、つまらない。文学としてではなく、志賀直哉の直情がナマに顔を出すのが変なのだ。
 『城の崎にて』では蜂が死んでいるところ、鼠が川から這い上がるところまでと、そのあとイモリに石を投げ付けてその心情を描写しているところの精神がつながっていないし、『小僧の神様』では男が小僧に上等な寿司を食べさせる気になったところと、その男を小僧が神様だと思うようになるところの感情がつながらず、男が自分のした慈善行為のようなものを悔やんでいるところは、もっと切れている。

Q:じゃあ、志賀直哉はダメじゃないですか。
A:それがそうでもないんだな。
Q:ええっ、それはわかりませんね。
A:ぼくも説明がつなかくて、だから困ってるんだ。
Q:それは志賀直哉に松岡さんを困らせているものがあるということですか、それとも松岡さんには志賀直哉に惹かれるものを説明するものがなくて、困っているんですか。
A:なんだか追いつめられてるなあ(笑)。でも、志賀直哉はやっぱり変なんだよ。

 トーマス・マン(316夜)には“trotzdem”がある。かつてこの言葉については荒正人が持ち出していたことがある。「にもかかわらず」というやつだ。それが志賀直哉にもある。ただ、志賀の“trotzdem”には絶妙なときと、そうでないときがある。
 マンは文学のほうを根底から「にもかかわらず」にしているのだが、志賀はその生き方に「にもかかわらず」が入っているはずなのに、それを文学するとき、最初はリアルなのだが、そのうち出来事が精神や感情にかかわってくる場面になると急に「心をふりかえる」という癖を出す。そのうえ悪いことに、そこを主人公が精一杯に突破していこうとするふうに書く。これがもっと変なのだ。
 それでも「にもかかわらず」が蜂や寿司のような、ごくごく小さな出来事や観察に向けられているときは、その文章の彫琢とあいまって、これこそが志賀直哉だとみんなが思うほどの出来映えになるのだが、その小さな「にもかかわらず」が筋や流れに与かろうとしてくると、そこに志賀の声や体がもっている倫理感や訂正感のようなものが出てきて、つまりは精神や感情が顔を出して、それが困るのだ。
 そのような「変」の塊りの集大成のようなのが『暗夜行路』だった。ぼくが高校時代に表題につられて『暗夜行路』を読んだときは、こりゃあ勘弁してくれよと思ったものだ。文章のせいではない。この作家がこの作品に入れ込んでいるらしい得体の知れないものが、そのころのぼくのような高校生にはどうにも付き合えそうもないものだったのだ。
 だったら、そのまま食わず嫌いになったっておかしくなかったのに、それがいろいろの志賀を次々に読めるようになったのだから、そこが不思議なのである。短篇ばかりだったせいかもしれないし、文句をつけても許してもらえそうな作家だと見立てられたかもしれない。
 しかしふと思うのは、そのように何だかんだといちゃもんをつけていても、それを平気で読ませてしまうところが、それも次から次へと読ませてしまうところが、ひょっとすると志賀直哉の真骨頂なのかもしれないということなのである。

Q:それって松岡さんがまるめこまれてるっていうことですよ。
A:まあ、そうなるか。
Q:そうですよ。
A:でも、作品に感動はしてない。
Q:どんな作品なら好きなんですか。
A:作品として褒めたいものはないね。茶碗の手触りのようなものでその茶碗を見るということがあるように、それだけでその茶碗とお別れすることがあるように、そんなふうに文章の風情で読んできたからね。
Q:『暗夜行路』はどこがダメなんですか。ダメなのにとりあげるのは、どうしてですか。それって「千夜千冊」のルール違反ですよね。
A:あのね、ダメなのに『暗夜行路』を書きつづけた志賀直哉が謎なんだよ。
Q:ええっ、それもわからない。
A:だから、わからないから謎なんだ(笑)。
Q:困ったもんですね。
A:そうだろ。だから困ったもんなんだ。

 志賀は『暗夜行路』に着手してから26年をかけた。まずは大正元年の尾道で『時任謙作』という標題で書きはじめて、3年をかけたのに挫折した。
 主題としていた「父との不和」が一件落着してしまったので書けなくなったというのが志賀自身の“自作解説”なのだが、あとでふれるように、これについてはちょっと納得できないものがある。やっと組み直しての最初の発表は、志賀が31歳になっていた大正10年のことで、それでもまた難産しつづけて昭和12年3月の「改造」でなんとか完結した。
 そんなに時間をかけた理由がどこにあったのか。これがまたわからない。そもそも文章を書くこと自体には、何の痛痒も感じていない作家なのである。芥川(931夜)が「志賀さんの文章みたいなのは書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」と言ったら、漱石(583夜)が「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいうふうに書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」と答えているほどだ。漱石は志賀が終生尊敬していた先生だった。
 どういう文章かというと、たとえば『剃刀』(かみそり)の冒頭でいうとこういうふうだ。「麻布六本木の辰床(たつどこ)の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙(せわ)しい盛りだつた。彼は寝ながら一ト月前に追ひ出した源公(げんこう)と治太公(じたこう)が居たらと考へた」。
 これは、うまい。また、こうである。『范の犯罪』の冒頭はこうなっている。「范(はん)といふ若い支那人の奇術師が演芸中に出刃包丁程のナイフで其妻の頸動脈を切断したといふう不意な出来事が起つた。若い妻は其場で死んで了つた。范は直ぐ捕へられた」。
 あっというまに引きこまれる文章だ。続いて、「現場は座長も、助手の支那人も、口上云ひも、尚三百人余りの観客も見てゐた。観客席の端に一段高く椅子をかまへて一人の巡査も見てゐたのである。所が此事件はこれ程大勢の視線の中心に行はれた事でありながら、それが故意の業(わざ)か、過ちの出来事か、全く解らなくなつて了つた」。
 どう見ても文句のつけようがない。こういう力があるのだから、文章を書いていくことに不如意なわけではないのだ。
 時代考証をしたり調査したりして書く作家でもなかった(志賀はほとんど調べものをしていない)。だから歴史小説はほとんど書いていないし、『暗夜行路』で題材にした何かを調べているうちに時間がかかったわけでもないのである。
 それなのに時間がかかったというのは、筋書きに困ったか、主題が脆弱だったか、嫌気がさしたか、志賀直哉という人間のなかで長編に合わないものがあったか、そのいずれかなのである。

Q:それじゃあ志賀直哉は『暗夜行路』を書かなかったほうがよかったんですか。
A:書かなきゃいられなかったろうね。そんなこと、いくらでも人生におこるからね。巨きな縄を綯いたいとか、大凧を上げたいときとか。できそうもない仕事をやってみるとか。そりゃあ失敗もあるけれど、それとは別に挑み続けるわけよ。
Q:ああ、文学もそういうものなんですね。
A:少なくとも志賀直哉はそういうふうにしたんだね。それを一貫させたわけだ。
Q:それが私小説の母型になったんですか。
A:志賀直哉にはそんなつもりはないんだよ。あとの連中がそうしたわけだ。母型って、そういうものだからね。

 長編小説には、切れと省略のあるうまい文章が書けるからといって、それをそのまま連続して仕上げるというわけにはいかないカマエとハコビが要求される。いわば「構造の耐性力」とでもいうものが必要だ。それが志賀には作れなかったか、あるいは性分に合わなかった。実際にも『暗夜行路』だけ書いて、あとは短篇か随筆ばかりだった。
 しかしそれでも、志賀は『暗夜行路』に前後25年を注いだのである。しかもそれを完成させることが、自分の天分を問うものだというほどの意志をもってとりくんだ。志賀には晩年に綴った『創作余談』とか『続創作余談』という自作解説のようなものがあるのだが、それには、「文字通り生命を打ちこんだ」とあるし、「創作の仕事は其人の所謂天分にもあるが、それ以上により進んだ良き作品を作らうといふ不断の意志が必要である」ともあって、「さらに一方からいへば此意志を持ち続けられるといふ事、それが既にその人の天分であるとも考へられる」とも綴っている。
 それにもかかわらず『暗夜行路』は稀にみる難産となった。途中で何度も放棄しようとしていたはずだが、それを書き了えた。結果、小説としての評判はむちゃくちゃだった。毀誉褒貶がばらばらだ。河上徹太郎は「現代最上の恋愛小説」だと言うし、中野重治は「拵えものだ」と言った。小林秀雄(992夜)は「確かな智慧だけで書かれてゐる」と評し、本多秋五は「骨ばかりの小説である」と腐(くさ)した。中村光夫は「あきらかに失敗作だ」と詰(なじ)り、小川国夫は「『和解』と『暗夜行路』が日本文学史で最も秀でた峰」と褒めた。
 つまりは『暗夜行路』は各人に等しくひっかかるものを残したのである。失敗作か成功作かさえ定まらないのに、だ。
 それだけでなく、志賀は『暗夜行路』を含めて私小説の原型も、反私小説の原型もつくった。「私」を小説にする作法と反作法とでもいうものだろう。『暗夜行路』の前段にあたる『和解』は私小説の絶品として神棚に上がっているほどなのである。なぜ、そんなことが志賀にできたのか。気まぐれではないだろう。
 というようなわけで、謎の『暗夜行路』が大きく志賀直哉自身の謎として覆いかぶさってくることになるわけである。

Q:実は、私は『暗夜行路』は読んでないんです。
A:まあ、いいよ。いつものことだから(笑)。
Q:時任謙作っていう主人公ですよね。
A:『暗夜行路』を書く前に、エチュードのような『時任謙作』という作品を書いているんだね。それをだいたい踏襲したので、主人公は時任謙作のまま。
Q:志賀直哉自身のことですか。
A:まあね。おおむねは実際に志賀の身におこったことがあれこれ組み合わせを変えて綴られているね。ただしここにはひとつ、大きなフィクションが加わっているんだね。お栄に惚れるというフィクション。
Q:お栄?
A:うん、祖父のお妾さん。いろいろ思案したあげくに、このフィクションを仕掛けたことが、この小説に次から次へと「変」をおこす理由になっているんだろうな。
Q:やっぱり読んでみようかな。

 母が死に、まったく馴染みのなかった祖父のもとに引き取られて育った時任謙作は、自分が母からは愛されていただろうが、父にはなぜか冷たく扱われているという感想をずっともっていた。
 祖父も亡くなり、青年となった謙作は祖父の妾だったお栄と暮らすようになった。やがて作家をめざすつもりになった謙作は、伯母の娘の愛子が好きになり求婚してみるのだが、容れられず、そのことで心に傷を負ってしまった。謙作の求婚問題で父と兄と伯母がとった態度にも、なんだか不可解なところがある。自分は父や愛子のみならず、誰からも愛されないのではないか。謙作は自己嫌悪をかこち、一人で暗い行路を進んでいる自分を感じるようになっていく。
 気晴らしに遊蕩をしてみた。吉原などの花柳界に遊んでみると、自分が実はお栄が好きだということに気がついた。が、それこそは禁断の愛である。謙作はこの苦悩から逃れ、これまでの生活を清算するために尾道に行く。家を借り、創作に打ちこもうとした。けれどもどうにも落ち着かない。四国に旅に出てみたが、その途中ではむしろお栄に対する春情が募るばかりだった。尾道に戻ると、自分がお栄と結婚したいのだという気持ちを手紙に書いて兄の信行に送った。
 兄から返事がきた。そんなことは大反対だし、お栄もむろん不承知であることが書いてある。それとともに、そこにはさらに恐ろしいことが告げられていた。
 謙作が父の子ではなく、父の外遊中に祖父と母とがかりそめに交わったときの子だったというのである。このことは、謙作が幼少期このかた漠然と感じていた懸念の正体をあかした。自分は「不義の子」だったという正体だ。兄はお前がこのことを知ったらといって、いまのお前はもう参らないだろうというのだが、謙作はこのような自分の正体に参ってしまった。
 が、これで謙作はふっ切れざるをえなかった。創作に打ちこむことこそ「唯一の血路」だと決意した。そこへまた兄からの手紙がきて、父がお栄を追い出そうとしているとあった。お栄が謙作に結婚の思いを抱かせたというのが気にいらないのだ。
 かくて謙作は尾道を引き上げて上京し、ついにお栄とともに大森で暮らすことになる。むろんこんなことがうまくいくはずがない。謙作は以前にまして遊蕩に耽り、精神の彷徨はますます暗夜行路する。

Q:それって、けっこうおもしろいじゃないですか。
A:そうかな。じゃあ読んでみるといいよ。でも問題はこの程度の筋書きにあるだけじゃないからね。
Q:何にあるんですか?
A:生き方と考え方の並木路にある。
Q:でも、それが暗夜の行路なんでしょ?
A:まあね。
Q:だったら読みたい。
A:いや、話はまだ続くんだよ。

 あるとき、京都に行った。しばらく逗留していると気分が和んでくるのを感じた。自然や古寺や古美術が謙作の心を紛らせてくれたのだ。散歩をしていて、ふっくらとした面立ちの娘に出会った。「鳥毛立屏風」の美人のようだと思い、恋心が芽生えるのを感じた。いや、そのように作り上げたいと感じた。これが直子である。
 謙作は直子と結婚した。こうなれば子供もつくりたかった。が、最初に生まれた子は丹毒に罹って死んでしまった。「何か見えざる悪意」が動いているようだった。
 お栄のほうは独り立ちをする気になっていた。才子にすすめられて天津で商売をやることにした。が、お栄にも悪意がはたらいているのか、商売は失敗し、京城で無一文でいるという知らせが入った。謙作はお栄を京城へ迎えに行くことにする。お栄を連れて帰ってくると、妻の直子が従兄の要(かなめ)に不用意に犯されたという告白を聞かされた。謙作はくらくらとする自分を抑えきれなくなっていく。
 それからの謙作は直子とのあいだに新たに子を得るとともに、そこへお栄を同居させるという生活になっていた。どうしても従兄と交わった直子との溝が埋められないのである。謙作はふたたび旅に出る。
 伯耆の大山(だいせん)にさしかかった。山頂をめざし、周囲の景物にとけこんで、途中に迎えた曙光を眺めているうちに、名状しがたい感動がやってきた。やっと解放感がおとずれた。けれども下山すると、発病して倒れてしまった。
 急ぎ病院にかけつけた直子は、謙作の手をとって涙をこらえている。謙作は直子の顔をじっと眺め、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」と言った‥‥。

A:ここで話が終わっている。
Q:えっ、「私は今、実にいい気持ちなのだよ」でですか。
A:うん。
Q:それって変ですね。
A:そうだろ。それが『暗夜行路』のなかでずっと続いているんだね。できるかぎり筋立ての齟齬を感じないようにダイジェストしてみたけれど、それも適わないような無理もある。
Q:やっぱり変ですか。
A:うーん、変だね。この実感を何といえばいいかというと、志賀直哉の悶々とした模索の跡が消え切らないままに、妙に誠実な結末に軌道修正されていると言えばいいかなあ。だから筋書きはお世辞にもおもしろいとは言えないし、時任謙作にも他の登場人物にも、きっと読者は感情移入すらしにくくなっていると思うね。
Q:じゃあ、読んでも入っていけないですかねえ。
A:そりゃあ、人によるよ。ぼくは入ってはいない。だから、これはプロとしては失敗作だろうね。そう言ったほうがいい。そう言ったほうがいいのだけれども、そのこととね、志賀がこの作品に賭けた意図とは別なんだよね。
Q:どういうことですか。
A:たとえば黒澤明(1095夜)スタンリー・キューブリック(814夜)の映画の、何を見るのかということと似てるだろうね。失敗作と言われている『隠し砦の三悪人』や『バリー・リンドン』にでも、映画作家としての意図の凄まじさを感じることもあるわけだよ。
Q:そうか、そういうことですか。松岡さんならそういう志賀直哉を擁護したいということですか。
A:擁護とか批判とかということじゃないんだね。まあ、あの着流しの爺さんには会ってはみたかったかな。

女優原節子と
(昭和26年)

志賀邸にて。左より志賀、武者小路実篤、里見とん
(昭和26年)

 志賀直哉は石巻に生まれて2歳のころに東京に移った。父の直温(なおはる)は慶応義塾を出て渋沢栄一の国立第一銀行に勤めていたが、東京では文部省に入り、そのうち頭角をあらわして経済界に転じると、総武鉄道の役員や東洋製薬の会長や帝国生命の取締役を歴任した。
 志賀自身が言っていることだが、総武鉄道を辞めるときは3万円をもらっている。「3万円といふと一ト財産だ。それを株を買ったり色々なことをして殖やしていった」らしい。だから志賀は裕福に育った。が、こういう父に志賀は馴染めなかった。父には趣味もない。交詢社ビルに行っては牧野伸顕や松方正作らと碁を打っていればよかった。
 志賀が馴染んだのは祖父の直道のほうである。祖父は二宮尊徳の弟子筋にあたっていて、日光今市にしばらくいたのち相馬家に家令として仕えた。たいへんハイカラな男だったようで、一日3回をパン食にしたり、オートミールを好んだりした。ただ、恩義のある古河市兵衛が渡良瀬川の鉱毒事件に巻きこまれてからは沈思するようになり、仏教や禅学に傾いた。祖父の理想は一筋に尊徳と白隠(731夜)になっていった。そういうところに惹かれたのかどうかは知らないが、志賀は長らく父よりも祖父に好感をもちつづけた。
 明治22年(1889)、学習院の初等科(そのころは虎ノ門)に入った。お濠を前にした立派な煉瓦造りの建物で、教室にはスチーム暖房が通っていた。『奥津』に綴られているように、ここでは少年は相撲や棒取りやエビ掬いに夢中になっている。そういう少年期の志賀に最初におこった事件は母親の死である。13歳のときのことだが、すぐに浩(こう)という24歳の新しい母が来た。
 この母の交代は迅速だったようで、志賀に妙な感興をもたらした。母の死の悲しみに深く陥るということもなかった一方、意外にも、いわゆる継母を迎えた少年としての辛い体験など何もなかったようなのだ。有名な『母の死と新しい母』では、義母に対する「淡い一種の得意」というものが誇らしげに綴られている。ちなみに志賀は生涯にわたって、決して“継母”とは書かず“義母”と綴りつづけた。
 新たな母は志賀に仄かな恋心をさえ芽生えさせたのだろう。けれどもその母が父の新たな伴侶でもあることには抵抗もあった。このあたりが志賀が青年になるにつれ、ちょっとした溝というか、奇妙な鳩尾(みぞおち)の感覚になっていく。紅葉(891夜)の『金色夜叉』や鏡花(917夜)の『化銀杏』や徳富蘆花の『不如帰』などを熱心に読んだのは、そういう心情とも関係があったろう。

Q:鳩尾ですか。
A:うん、鳩尾。そのあたりで見るほうがいいと思ってね。背中じゃないな。
Q:私ら、胸キュンのほうですから、そこがちがいますね。
A:丹田じゃないね。うん、志賀直哉は鳩尾だよ。

東京麻布三河台の志賀邸

 麻布三河台に移っていた家に末永馨という書生がいた。18歳のとき、この書生が志賀を内村鑑三(250夜)の講演会に連れていった。かなりの感化をうけた。『内村鑑三先生の憶ひ出』には、自分が生涯で影響をうけたのは祖父と内村先生と武者小路実篤の3人だと書いている。おそらくは「意思」というものを貫くことを受信したのだ。けれどもキリスト教には靡いていない。
 ところで志賀は学習院中等科を3年から4年に進級するときに、落第をしていた。あまりベンキョー好きではなかったのだ。正義や感動には弱かったし、小説を読むのは大好きだったけれど、社会的努力は嫌いだった。そのせいか、20歳で6年になるときも落第した。当時の学習院中等科は6年制だったから、6年原級に留めおかれたのである。
 このとき、1級下の木下利玄・正親町公和・武者小路実篤・細川護立らと同級になった。ここから武者小路との交遊が始まる。それとともにのちの白樺派の動きも始まった。みんな文芸好きだったのだ。高等学科に進んだ志賀も、半分は遊び気分で童話っぽい『菜の花と小娘』を書く。読んでみたが、他愛のないものだ。

学習院時代の直哉(左)
当時大変高価であった自転車を買ってもらい
友人と乗り回して遊んだ

頬杖をつき寝そべる直哉

 学習院を出ると、東京帝国大学の英文科に入った。ここでまた事件がおこった。ひとつは祖父の死であるが、もうひとつは志賀家の女中に惚れた。惚れただけではなく結婚をする約束までしてしまった(この女中の名前はいまなお伏せられている。阿川弘之は「千代」という仮名にしている)。
 けれども、これに父親が猛然と反対をする。武者小路やその叔父の勘解由小路(かでゆこうじ)資承らがあいだに入ったのだが、まったく融和はおこらない。父親は女を捨てるか家を捨てるか二つにひとつと言明し、志賀は家を出る覚悟を決めた。養鶏でもやろうと思ったのだ。
 なぜ養鶏をしようとしたのかは、わからない。上田三四二(627夜)の『島木赤彦』には、島木が小学校の教師をやめて「文学と養鶏に専念する」というくだりが出てくるが、当時は食えない文学者が養鶏にをするというのもひとつのハヤリだったと上田は書いている。が、志賀にはそんなことはできない。口先だけだ。養鶏もできなかったし、結婚もなんとなくあきらめた。ともかくも志賀直哉という人物、からっきし社会的実践力はない。ただ、ひたすら内面の意思ばかりが強いのだ。
 大学も3年のときに国文科に転科するのだが、まもなく中途退学をする。こういうところにも、社会の欠如があらわれている。しかもこのころは昼過ぎまで寝ていて、夕方から悪所通いをするような日々だったのである。ただ、父親との亀裂は広がる一方で、鳩尾の溝は深まっていくばかり。『青臭帖』や『大津順吉』には当時の自分を評して、「不愉快で元気のない顔」とか「何処か不均衡な所のあるのは自分でも感じてゐた」とある。

Q:なんだか自己リアリストっぽいですね。
A:でも、社会が欠けている。
Q:社会の欠如ですか。
A:ぼくは生活の欠如だけれど、志賀直哉は社会の欠如だね。その後の作品や随筆を見ても、戦争についても関東大震災についても、大逆事件についても社会的犯罪についても、ほとんど何も書いてない。
Q:それなのに国語をフランス語にしたらどうかなどとは言ったんですね。
A:口がすべったんだよ。
Q:白樺派のメンバーになったのは?
A:あれも志賀直哉にとっては社会じゃないね。

 明治43年(1910)、28歳になっていた志賀は「白樺」の創刊に参加した。すでに学習院出身者によって「望野」「麦」「桃園」という同人誌が出ていたのを合同させたものだった。

学習院出身者による文学読み合わせ会「一四日会」の会合
右より、直哉、木下利玄、正親町公和、武者小路実篤
このグループの活動が「白樺」創刊に発展

明治43年4月創刊、大正12年8月終刊の「白樺」の一部

 武者小路・木下・正親町・志賀に加えて、里見とん・児島喜久雄・柳宗悦(427夜)有島武郎(650夜)・細川護立が、さらに梅原龍三郎・津田青楓らが加わった。志賀は創刊号に『網走まで』を書く。何のおもしろみもない。
 志賀にとっての白樺派については、とくに説明したいことはない。白樺派がユニークなのは、そのメンバーシップなのである。島崎藤村が、あの人たちは遊び半分なのだろうからそのうち苦しい目にあえば文筆を捨てるだろうと言ったことに、志賀がずっとこだわって反発をしつづけたことを記すにとどめる。また、のちには友情を取り戻す武者小路に、いっときの怒りで絶交を叩きつけたりしていたことを言い添えるにとどめる。
 30歳になった。父親との不和はあいかわらず進行していて、いたたまれないものになっていた。ここで志賀はついに行動をおこす。尾道に行ったのだ。志賀には社会的実践力はないのだが、引っ越しや旅行にはめっぽう強い。このときも尾道転居がもたらしたものが大きかった。いよいよ『時任謙作』にとりくんだのだ。

直哉が住んでいた尾道の三軒長屋

 その『時任謙作』に難産したことはすでにのべた。が、これは最初から難産したのではなく、漱石から東京朝日新聞での連載小説を頼まれて、それを『時任謙作』にしようとしてから、つっかえた。尾道から引き上げ、東京でとりくんでも筆は進まない。そのあいだに、城崎温泉に行くのだが(これが『城ノ崎にて』になる)、気をとりなおしてまた尾道に戻って書いても、何もまとまらなかったのだ。

城崎温泉街を流れる大谿川

 結局、漱石に詫びを入れ、連載小説は沙汰止みとなった。物語の構造を作りえなかったこと、連載の序破急に自信がもてなかったこと、漱石にに対する負い目、いろいろ原因があろう。が、一番の解決策は新聞連載を降りることだったのである。これでホッとした志賀は、32歳のときに武者小路の叔父の勘解由小路の娘を貰うことになる。康子(さだこ)である。
 が、これまた父親が反対するところとなった。志賀は憤然として康子を連れて鎌倉へ、赤城へ移り、さらに上高地・京都・奈良を長期旅行して、我孫子に転居してしまう。そのあと長女が生まれるのだが、まもなく死亡。またまた信州・山中温泉・京都・奈良を旅行しつづけた。それ以外の手がなかったのである。しかし、そのような志賀であればこそ、旅先で見聞したことがしだいに名文に昇華できたわけでもある。
 つまりはいつも感情に左右されていて、その自分と闘いつづけていたのが志賀直哉なのである。

武者小路実篤邸にて(大正6年)
後列左より金子洋文、一人おいて武者小路、柳宗悦、志賀、康子
前列左より柳兼子、武者小路房子、武者小路喜久子

Q:連載小説が書けないんですか。
A:そうなんだね。新聞小説は社会に近いものだしね。
Q:それじゃ、隠遁者っていうことですよね。
A:そんな高邁な感覚ではないだろうね。存在は高邁だけれど、思想はタオでもないし、隠逸でもない。
Q:それって変ですよ。
A:だから変だと言ってるわけよ。

 大正6年(1917)、35歳の志賀に思いがけないものが訪れる。あれほど嫌っていた父親との不和が魔法のように解消されるのだ。このことについては『和解』にかなり丹念な経緯が書かれているのだが、これを小説ではなく、志賀が実際にどのような鳩尾を経験し、それがどのように実際の父親との和解に至ったのかというドキュメンテーションとして読もうとすると、どうも釈然としないものがある。
 ありていにいえば、父との不和がそれほど大きいものとは見えてこないし、それゆえその父との和解が男児一生の光明になるとも見えてこないのだ。それなのに志賀はこのことを契機に変わっていく。まるでフィクショナルな「父との闘争」を巧みに内化することによって、新たな“文中の志賀直哉”づくりにとりくんでいったかのようなのだ。
 それは、こんなところで比較するのもたいそうだけれど、ドストエフスキー(950夜)フロイト(895夜)の「父との闘争」にくらべて、なんとも草花の萎れと蘇生のように、どうにも繊細で微妙なものであったのだ。
 しかし、これが志賀直哉なのである。志賀直哉という文人なのである。こうして39歳のとき、志賀はついに『暗夜行路』によってすべての志賀直哉を描きうるとして、その前編を「改造」に発表した。

Q:で、どうなったんですか。
A:このあとの志賀の人生を追うのはやめようよ。これからあと、89歳に及ぶ淡々たる人生が待っているんだけれどね。
Q:淡々って何をしてたんですか。タオでもなく隠逸の士でもないんでしょ。
A:ここからは美術工芸に耽溺したり、奈良に居を構えたり、寂しいからいつも人を招いたりするんだな。そういう淡々。
Q:それだけですか。
A:うん、それだけ。54歳のときには『暗夜行路』後編の最終部分を書き上げて発表するけどね。66歳のときは文化勲章を受賞する
Q:それって、松岡さんがわざと変なふうに言ってるだけじゃないんですか。
A:そう思うなら、自分で読んだり調べたりすればいい。ぼくはこの程度だね。
Q:じゃあ、せめて松岡さんが勧める作品をあげてください。
A:たくさん読むといいと思うよ。ライトノベルなど読むよりはいいだろう。「にもかかわらず」がいろいろ感じられてくる。
Q:あえて言うと?
A:そうだなあ、『真鶴』とかかな。
Q:はい。では、志賀直哉という人物を一言でいうと?
A:困った人(笑)。じゃなければ、向きな奴かな。
Q:ムキになる人?
A:うん、そうだね。
Q:松岡さんはムキにはならないんですか。
A:ずうっとムキになっている。ただし志賀直哉とは別のところでね。ぼくはどちらかというと、じっとしてるほうだしね。
Q:ひょっとして同じ向きだったりして(笑)。

熱海市稲村大洞台の自宅にて
(昭和23年)