才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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わたしの名は紅

オルハン・パムク

藤原書店 2004

Orhan Pamuk
Benim Adim Kirmizi(My Name Is Red) 1998
[訳]和久井路子

2006年、トルコで初めての
ノーベル賞作家が出現した。
ぼくは『雪』を読んで感嘆し、
『わたしの名は紅』で大ファンになった。
オルハン・パムクは
「私は世界から遠いところで育った」と言っている。
しかし、その文学を読み耽ってみると、
われわれこそがイスラムやトルコから
遠いところにいすぎたと思わざるをえない。
それでも、東は東、西は西。
これはトルコのカフカや
ドストエフスキー的出現だ。

 たいそう本格的な作家がイスタンブルからで出てきたものだ。1982年に『ジュヴデッド氏と息子たち』でコンテスト優勝し、トルコの芥川賞にあたるオルハン・ケマル賞をとった。翌年の『静かな家』はマダラル賞を、『白い城』はヨーロッパ諸国で翻訳され、「東方に輝く星の出現」と絶賛された。
 さらに『黒い書』『新しき人生』がベストセラーになり、1998年の本書『わたしの名は紅(あか)』が英訳されると、ニューヨークタイムズの2004年のベストテンになった。あっというまの出来事だった。そのあとに書いた『雪』は9・11後のトルコ国境の事情とイスラム過激派の動向を描いたこともあって、さらに話題騒然となった。そして2006年には、オルハン・パムクはついにノーベル文学賞をとってしまったのである。トルコ人では初めてだ。
 パムクの作品はすべて藤原書店で翻訳されている。ぼくは『雪』のほうを最初に読んだ。うーん、うまい。しかも立派だ(派が立っている)。これに唸った。それとともにトルコ人の描く「世界」がどういうものかということに衝撃を受けた。トルコの現代文学を読むのは初めてだったが、それはガルシア・マルケス(765夜)ミラン・クンデラ(360夜)の衝撃とも異なっていた。
 そこでまずは、この『雪』の導入部分の雰囲気をオルハン・パムクの横顔案内をかねて手短かに紹介する。

  
 1990年代初めの話だ。トルコの北東に、アルメニアと国境を接している小さなカルスという町がある。古代このかたヒッタイト、ビザンツ、アルメニア、セルジュークトルコ、モンゴル帝国、チムール帝国、オスマントルコ、ロシアなどの諸文明諸文化が通り過ぎた。『雪』はそこを舞台にしていている。
 主人公のKaは42歳の詩人である。本名はケルム・アラクシュオワルというのだが、終始、Kaとして登場する。パムクは小説にとりくむとき、たいていKを主人公にして、とりあえず書き始めるらしい。むろんカフカ(64夜)のKだろう
 Kaはイスタンブルで左翼系新聞に書いた記事の責任を問われ、有罪判決を受けたためドイツに亡命していたのだが、母親が死んだというので12年ぶりにイスタンブルに戻ってきたところだ。ところが、どうも故郷イスタンブルの風情が以前とちがっている。しっくりこない。思い出も取り戻せない。イスラム社会やイスラム文化にも何か緊急な変貌がおきている。
 そのうち、昔の学生運動の仲間がKaに仕事を頼んできた。「共和国新聞」にカルスの市長選挙の取材をして書いてほしい。それとともに、カルスで少女たちの連続殺人事件があったようだから、それも一緒に調べて何か記事にしてくれというのだ。Kaはひょっとしたら辺境のカルスに行けば、自分が失った何かが見いだせるかもしれないという思いで、この仕事を引き受けた。Kaはこの数年、いい詩が書けなくて悩んでいたのだ。カルスに分離派のテロリストがいるらしいことも気になった。
 が、それは半分の理由で、実はカルスの町にはあのイペッキが住んでいたから行ってみようと思ったというのが本音だった。イペッキはイスタンブールの大学で学生運動をしていたころの知り合いで、同じ学生運動をしていた詩人のムフタルと結婚をしたのだが、ムフタルとはいつしか別れ、いまはカルスに一人暮らしをしているはずだった。あのころ、Kaはイペッキに惹かれていた。いまでもきっとかなりの美貌を保っているにちがいない。

  
 こうしてKaはイスタンブルを出発するのだが、近づくにつれ吹雪に見舞われる。2日間の雪の中をバスで進むと、ロシア建築ふうのホテル「カルバラス」(雪宮殿)にやっと入った。
 そこはイペッキと父親と妹が経営しているホテルだったのである。しかし雪はいっこうにやみそうもない。Kaは雪のカルスに閉じ込められることになる。
 というふうに話が進み、イペッキとなにやらおかしくなるのかと思いきや、それよりも実は少女たちは殺されているのではなく、すすんで自殺をしていたのだということ、それを煽動するイスラム過激派がいるらしいこと、そのトップには「紺青」という暗号名のカリスマがいること、イペッキの妹が少女たちが自殺に走る要因をリードしているかもしれないこと、そういったことがしだいに交錯してきて、文体も展開もきわめて静かであるにもかかわらず、事態は異様になっていくのである。どこかからは9・11に飛びこんでいった連中の声が聞こえるし‥‥。

 こんな物語の発端だ。これだけでも、たいへんにうまい。Kaがカルスに閉じこめられているのは、そもそもどこかカフカを思わせもするし、物語がどこに中心をもっているのかも、明かさない。また、どんな登場人物たちの描写にも非中心とか反中心とかを感じさせないで、Kaとの関係に転写してみせている。
 Kaが詩人で、詩人だからなんとか詩を書こうとしているのに、まったく書けなくなっている事情を織り込み、それが雪に閉ざされたカルスでふいに湧出してくるというあたりも、計算づくだ。しかもパムクは、読みすすめていくとだんだんわかってくるのだが、Kaを媒介にして、ときにドストエフスキー(950夜)トーマス・マン(316夜)ふうに、「神の存在」との交差をまるで降り積もる雪の重みのように、しかし雪の柔らかさをもって描くのだ(パムクはドストエフスキーとマンにも傾倒してきた)。
 本格派なのである。なんたる手腕、なんたる用意周到。なんたる圧倒力。久々の文学の出現だ。
 ちょっと横顔を書いておくと、オルハン・パムクは1952年にイスタンブルに生まれた。まだ55歳。イスタンブル工科大学で建築を学ぶのだが、あるとき自分は一生部屋にこもって読書をしつづけたいと思い(まさに白川静の発願意志のようだ)、建築からジャーナリズム学科に移って、22歳に初めての小説『ジェヴデット氏と息子』を手掛けた。それが数年後に出版されてオルハン・ケマル賞をとった。
 パムクには『イスタンブル』という自伝ふうの小品も、『父のトランク』という、なかなか含蓄のあるノーベル賞講演(大江健三郎の講演とはずいぶんちがう)や何編かのインタビュー集もあって、だいたいはどんなことを考え、どんなふうに生きてきたかはわかる。それで憶測するに、一言でいえば、徹底したプロの作家だと言っていい。ようするに文学に本気なのである。

ダートマス、ロリンズ・チャペルにて
トルコでの生活や自作の小説について語るオルハン・パムク

 愛読書もだいたいわかっている。モンテーニュ(886夜)、ドストエフスキー、カフカ、プルースト(935夜)、マン、ボルヘス(552夜)カルヴィーノ(923夜)トマス・ピンチョン(456夜)ウンベルト・エーコ(241夜)、ハビエル・マリアス(スペインの作家)、ポール・オースター(243夜)、ペーター・ハントケ(オーストリアの作家)などだ。
 これらをひたすら繰り返し読んできたようで、この顔触れなら、ぼくにはまことに手にとるように納得できる文学体験だ。谷崎、三島、川端、大江も読んでいるらしい(なかでは谷崎が一番だと言っている)。
 父君が書斎に1500冊ほどを蔵書をしていて、それを子供のころからひたすら眺め、しばしば手にとってきたのだという。しかもいまあげた作家たちの愛読者なのである。まったく現代文学の新しい扉を告げるのには、寸分狂いのない趣味だと見える。そうなのではあるが、ところがこれを読んできたのがトルコ人のパムクで、そのパムクがトルコの歴史と現在を描いているということが、いっさいの予想を覆すのだ。
 と、まあ、こんなところで、この作家におよその関心をもってもらえただろうか。そうであることを願いたい。それでは、ここからは『わたしの名は紅』のほうを紹介してみたい。
 もっとも、こういう旬の作品をあまり詳しく説明すると、いまから書店に走ってこれを読む諸君のたのしみを奪うことになり(版元も困るだろうし)、それでは申し訳ないので、ところどころをぼかし、多くを省略し(笑)、しかし、なぜぼくがパムクの大ファンになったかというところだけは強調しておくことにする。これまた、以下のような奇妙な物語なのである。

  
 時代は1591年の冬、舞台はオスマントルコ帝国の首都イスタンブル(またしても飛んでイスタンブール!)。主人公はカラという画家だ。『雪』と似て、イスタンブルの雪の中の9日間の物語になっている。
 画家が主人公といったが、カラは細密画の絵師なのだ。いわゆるペルシア・ミニアチュールの絵師である。ということは宮廷や宮廷芸術に深くかかわる絵師だということになる。むろん一人で描くのではない。工房組織の一人としてかかわっている。そこには頭領もいる。名人もいる。この頭領や名人たちが物語の複数のエンジンにもなっていく。Kaは紅く染まっていくだけだ。
 一方、1591年というのは、ムラト3世がスルタンをしていた時期で、翌1592年がイスラム暦の千年目にあたるという特別にメモリアルな年になっている。オスマントルコがこの時期にどういう政治社会状況にいたかということは、作品のなかでも巧みに説明されているのだが、やはり舞台背景として多少は理解しておく必要がある。知れば知るほど、まことに絶妙な時代設定だった。
 1591年は、ぼくの『世界と日本のまちがい』にも少しはふれておいたけれど、メフメット2世が1453年にコンスタンティノープルを攻め落としてオスマントルコ帝国の都とし、これをイスタンブールと改称してアヤ・ソフィアの増築やトプカピ宮殿の造営にとりかかってから、ほぼ150年がたった年に当たる。その150年のあいだに、第10代スルタンとなったスレイマン大帝が神聖ローマ帝国のカール5世と五分に張り合い、バクダッドを征服し、ハンガリーを併合するのだが、そのスレイマンの子の第11代スルタンのセリム2世が統治したときはしだいにヨーロッパ人が入りこみ、さらにその子のムラト3世が1574年に第12代スルタンに着位したときは、最盛時のオスマン帝国にちょっとした翳りが見えていた。ムラト3世の就任から数えれば、1591年は17年後のことになる。
 何が翳ったのか。ムラト3世が王座につく前のセリム2世時代に、オスマントルコはレパントの海戦で(1571)で、キリスト教連合軍にいやというほど撃破されていたのだ。キリスト教連合軍というのはヴェネツイァ共和国とスペイン王国の連合軍をいう。つまりムラト3世時代というのは、さしもの強大な力を誇ってきたオスマントルコが、初めてヨーロッパの力を脅威と感じるようになった時期なのだ。加うるに、それをキャピチュレーションというのだが、ヨーロッパ人のイスタンブル居住を容認せざるをえなくなっていた。
 だからムラト3世は前の王たちの征服とはちがって、むしろ国内を充実させたかった。さしあたってはイスラム暦千年を飾る祝賀を誇りたい。そのために豪華な書籍も作りたかった。そこで絵師エニシテを監督(頭領)に、最高の技能の絵師たちを祝賀本の細密画の作成に当たらせたのである。
 が、ここで問題がおこるのだ。犯人のわからない殺人事件もおこっていく。ぼくは読み進めながら『薔薇の名前』を思い出していた。

1582年のムラト3世主催による割礼の祝祭を描いた細密画
同業者団体の行列 『祝祭の書』より

 舞台背景は、以上のようなものだ。どんな事件がおこっていったのかは、説明しないことにする。それでは、この作品の特色はどこにあるかというと、いろいろある。それを5点ほどに絞っておこう。
 第1には構成上の工夫として、59章にわたるすべての章ごとにナレーター(語り手)を変えている。各章タイトルが「わたしの名はカラ」「わたしは犬」「わたしはエステル」「わたしは一本の木だ」「ぼくはオルハン」「わしはお前たちのエニシテだ」「わたしは屍」「人はわたしを蝶とよぶ」「わたしの名は死」「わたしはシキュレ」「わたしは金貨」‥‥というふうになっていて、登場人物やら死体やら犬や木が語る。
 このやり口は必ずしもめずらしいわけではなく、たとえば芥川龍之介(931夜)の『薮の中』をはじめ、多くの作家がけっこう使う手だ。物語がミステリアスになるには、この手口がふさわしい。が、パムクはたんに語り手を変えただけではなく、すでに死んだ者や植物や動物にも語らせた。これがこの物語をなんとも異様にさせたのだった。
 第2には、物語のそこかしこを細密画(ミニュアチュール)が埋め尽くしていることだ。たとえば一頭の馬の描き方をめぐっても、えいえん議論がつづく。まるで文章が細密画を読むようになっていると言ったらいいか。
 なかでも圧巻は、細密工房の監督エニシテがヨーロッパの技法を取り入れて、陰影や遠近法をつかった細密画を制作しようとするのに対して、これをアラーの神への冒涜だとみなす守旧派が対抗するところにある。ということは、すなわち、この絵師たちがどのような細密画を描くかということが、まさにヨーロッパとイスラムの激突なのである。
 実はこのことが原因で殺人事件もおこるのだが(殺されるのはエニシテなのだ)、これは日本でいうなら遠近法(パースペクティブ)と明暗法(キアロスクーロ)のない大和絵や浮世絵に、あるときそれが導入されそうになったことをめぐって宮廷をゆるがす殺人事件がおきたというようなもので、なかなか日本の物語には考え及ばない筋立てだった。日本の作家でなら、幸田露伴(983夜)石川淳(831夜)あたりにして初めて挑める主題だろう。
 第3の特色は、第2の特色とも関連する。欧米のメディアに訴えるところとなり、ノーベル賞をとる理由になった特色とおぼしいのだが、物語の全編を通して「東は東、西は西」という姿勢と哲学を徹底して貫いたことだった。パムクは、ここに全力を傾注したといってもいい。
 それゆえ、この「東は東、西は西」という言葉は、終盤でエニシテを殺めた殺人犯(これは内緒)が「東も西もアラーの神のものだ」と言うと、カラが「東は東だ、西は西だ」とぽつりと呟く場面にも象徴的に使われている。

  
 ついで第4には、オスマン帝国の華麗な転換期を舞台に、世界史の曲がり角やスルタンの宮廷文化や、さらにはイスラムが本来秘めている原理主義と過激主義の根っこを描いたところが、さすがに他の追随を許さない。
 近世と近代の世界史がオスマン帝国を除いては語れないこと、そのオスマンの動向を境界にして結局は第一次世界大戦が勃発したこと、つまりはヨーロッパ近代は実はオスマントルコとの対決によって生まれていたのだということは、何度強調しても強調しすぎることはないほどで、ぼくも『世界と日本のまちがい』にはかなりしつこく書いておいたことだった。
 しかしそれだけに、そのオスマンの帝国文化史というものがそもそもどういうものであったかについては、ヨーロッパを知るのにルネサンスバロックロココや古典主義の理解が欠かせないように、もっともっと知られてよいはずなのだが、それがいっこうに遠いのだ。それでも9・11のせいか、近ごろはイスラム社会やイスラム生活の一端くらいは欧米社会にも日本人にも少々知られるようになったのだけれど、その程度ではオスマンの帝国文化はとうてい見えてはこない。
 これを知るには、ペルシア・インド・イラン・イラク・アフガン・トルコにまたがる建築術・造景文化・ミニアチュール・カリグラフィなどのイスラミックな視覚文化と、その独特の学問・文芸(とくに詩文)とが見えてくる必要がある。もはや『コーラン』やイスラム神秘主義の理解だけでは不足なのだ。とりわけ、古代ペルシアとアッバース朝とオスマン朝とでは、またイラン・イラク・トルコ・その周辺民族とでは、そのそれぞれのイスラム文化の意図が異なっていることを知ったほうがいい。
 とりわけ『わたしの名は紅』を読んでぼくに新鮮だったのは、バクダッド型のペルシア文化とイスタンブール型のペルシア文化が細密画においてもちがっているということ、今日ふうにいえばイラク・イラン型の社会文化とトルコ型の社会文化とがオスマン帝国内でもかなり異なっているという事情が、たいそう暗示的に綴られていたことだった。
 第5には、これはすでに何人かの批評家が指摘していることなのだが、オルハン・パムクはやっぱり「カフカとドストエフスキーとプルーストをトルコ化した」だろうということだ。
 これについてはパムク自身も告白しているので説明を加えることはないが、加えてぼくを共感させたのは、『イスタンブル』や『父のトランク』でパムクが「一人が到達する文学は30年から50年はかかります」と言っていること、そのためには自分自身が「毎日でも“一服の文学”を服用しつつけなければならなのです」と言っていることだった。この作家、どう見ても只者じゃない。

中近東に伝わる叙事詩『ホスローとシーリーン』を題材にした細密画
花嫁が異国に嫁ぐ場面

 細密画については、実はもっと話したい。が、これを説明すると作品の根幹中の根幹をあかすことになる。それでいささか迂遠に見えるかもしれないことを書くことにするが、イスラムの社会文化は「文」と「声」と「景」でできているということに注意を促したい。
 「文」とは文字と文様だ。当然、『コーラン』の文字とその変化が大前提になるのだが、そのナスターリックやクーフィックの書体は、そのまま「声」でもあったのである。ということは、これらの書体を華麗なトゥグラ(花押)にしたり、タイルにして壮麗な建物に貼りめぐらせているのは、「声の文様」なのである。
 このことはイスラム世界を象徴する、あの超不思議なドームと回廊を擁したモスクの建築性が、「文」とともに「声」でもできていることにつながっていく。
 モスクはまずキブラ(メッカの方向)をもち、いくつものミフラーブ(虚ろな龕)によって構成される。これはウマイヤ朝のカリフのアル・ワリド以来の伝統だ。そこに11世紀、セルジューク朝によって巨大なイワーン(大ホール)がくっついた。ついで16世紀、スレイマン大帝のオスマン帝国が名匠ミマール・シナンを得て、無数の回廊とミナレット(尖塔)をもつモスクを複合的に登場させた。
 それは、どこからどんな声を出しても、その声がどこまでも減衰しないで届くという「声の建築」であり、「音読の空間」だったのだ。
 この「文」と「声」の空間に、驚くべき「景」が次々に出現する。これこそぼくがかつてジョン・ブルックスの『楽園のデザイン』(鹿島出版会)や岡崎文彬の『イスラムの造景文化』(同朋舎)で何度も堪能してきたパティオ(中庭)やキヨシュク(キオスク=園亭)などの、また四分庭園(チャハル・バーグ)や八楽園(ハシュト・ベヘシュト)などの、つまりはこの世のものとは思えないほどに楽園的なイスラミック・ガーデンなのだ。

スレイマニエ・モスク
ミマール・シナンによる設計

サイイド・シャー・ネマトッラー廟のパティオ
(イラン・ケルマーン近郊)

 そして、ここから先はもはや詳細が書けないのだが、『わたしの名は紅』の主題となったペルシア・ミニアチュールに発したイスラムの画工たちの細密画とは、このイスラミック・ガーデンに世界と楽園とを盛りこんで描いたものだったのである!
 なかで、オスマン絵画ともオスマン・ミニアチュールともいわれるのは、1520年ころタブリーズに生まれたシャー・クリがイランと中国の影響を受けて確立したサズ様式が原型になっている。サズとはトルコ語の「葦と森」という意味だ。森には妖精ペリが棲み、それをシャー・クリは葦のペンで描き出したのである。
 こうしてこれを16世紀末のヴェリ・チャンらが継承していき、そしてニギャーリことハイダル・レイスが肖像画を出現させていったのだが‥‥、そこにオルハン・パムクの書いた「東は東、西は西」の、あの恐ろしい、あの事件がおこったのである。
 では、あとはみなさんで読んでいただこう。ちなみに訳者の和久井路子さん(アンカラ在住)がトルコ・イスラムの用語や細密画用語に訳注を入れようとしたところ、オルハン・パムクは「注をつけるとエスニックとかエキゾチックになってしまうんです」と言って断ったらしい。これ、エスニックの好きな日本人への見逃せない注告なのである。

フマユーン廟の四分庭園
(インド・デリー)