ラスロー・モホリ=ナギ
絵画・写真・映画
中央公論美術出版 1993
ISBN:4805502282
Laszlo Moholy-Nagy
Malrei, Photografie, Film 1924
[訳]利光功
絵画は写真でなく、
映画は写真ではないのか。
それなら、動く写真や映像文字とは何なのか。
グラフィズムとフォトグラフィズム。
フォトグラフィとフォトグラム。
異才モホリ=ナギが見せるニューヴィジョンは、
今日のコンピュータ時代にこそ
読み替え可能にものになっている。

 モホリ=ナギの「ニューヴィジョン」を教えてくれたのは写真家の大辻清司さんだった。「遊」の創刊直後のころで、ぼくは桑沢デザイン研究所の写真科の講師をしていた。大辻さんはその学科長で、写真の技術など何も知らないぼくに写真科の生徒を教えろというのである。
 むろん、とんでもないとお断りしたのだが、「いや、イメージとは何かを教えてやってほしいのです」と言われる。「写真界やデザイン界に松岡さんのような人がいなかった」というのがクドキ文句、「いま、イメージを科学と芸術の両方で語れる人がいない」というのがコロシ文句だった。写真論じゃなくていいんですかと聞くと、むしろそのほうがいいんですと言われる。それならばと引き受けた。
 こうして、ぼくが初めて人前で何かを教えることになったのだ。28歳のときのことだが、初挑戦のことなので、ちょっと張り切った。このときの生徒が田辺澄江で、のちにぼくの最初のアシスタントになった。また、この前後に工作舎に出入りするようになったのが、桑沢のグラフィックデザイン科にいた木村久美子や戸田ツトムや工藤強勝だった。
 小さな所帯だったが、写真科は愉快だった。北代省三さんがいたことも、大きかった。大辻さんと北代さんは、滝口修造の実験工房のころからの仲間で、日本のシュルレアリスムやフォトグラフィズムの先頭を切ってきた人だった。

 写真科で何を教えたかということはいつか別に書くことにして(けっこう工夫をした)、ぼく自身もこれを機会に写真の歴史や写真の現在に没頭にすることになった。
 ひとつは「印刷から写真へ」という光学と化学の出会いに、ひとつはニエプスからマイブリッジをへてジュール・マレイに及んだ驚くべき写像実験の数々に、ひとつはアッジェやラルティーグやアンセル・アダムスやエドワード・ウェストンらの初期の名人写真に、ひとつはマン・レイ(74夜)やモホリ=ナギのフォトグラフィズムに、心が奪われた。
 写真の現在も徹底して見た。当時、流行の森山大道や高梨豊らの「コンポラ」(コンテンポラリー・フォト)も、のちに会うことになるリチャード・アベドンを筆頭としたファッション写真も(この延長で横須賀功光や操上和美の仕事にふれることになる)、ちょうど脚光を浴びはじめたロバート・フランクらの都市の切り取り感覚も、木村伊兵衛も土門拳(901夜)も浜谷浩も篠山紀信も、みんな見た。ことごとく見たといっていいと思う。
 松本俊夫や重森弘奄らの映像論や写真論も読んでみたが、まだ日本の映像についてのニューウェーブな議論は出ていないと感じた。そしてそのうち、むしろ今後のイメージ・グラフィズムを革新していくには、マン・レイやモホリ=ナギやケヴィン・リンチにいったん戻ったほうがいいのではないかと感じたのだ。

 ニューヴィジョンは衝撃的だった。ケヴィン・リンチの「ニューランドスケープ」の計画と仕事とともに、そのころのぼくの視覚的発想に大きな影響を与えた。
 いま振り返ると、この思いこみがその後のぼくのヴィジュアル・シンキングの基礎体力になっていたのではないかと思う。むさぼるように眺めまわしたモホリ=ナギやケヴィン・リンチの仕事と、そしてすでに何度か「千夜千冊」に紹介してきたフォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』(735夜)やダーシー・トムソンの『成長と形態』を読み耽ったことは、そのようなことに関心をもったぼくをおもしろがっていろいろアドバイスをしてくれた杉浦康平(981夜)の存在とともに、ぼくのヴィジュアル・ワークに対する自身を深めていったにちがいない。
 つまりは大辻さんと杉浦さんがいなかったら、ぼくのヴィジュアル・シンキングに火はつかなかったのだ。その後、ぼくは田村シゲル、杉本博司、内藤正敏、奈良原一高、田原桂一、藤原新也(160夜)、小暮徹、十文字美信(1109夜)、横須賀功光らの写真家と親しく仕事をするのだが、その出発点は桑沢の写真科にあったのである。

 で、モホリ=ナギだけれど、モホリ=ナギをバウハウスの枠組のなかだけで捉えるのはもったいないだろう。
 彼がワイマールのバウハウスに来たのは1923年である。日本ではそのことが大きく喧伝されているのだが、それ以前すでに、ブタペスト大学を出て第一次世界大戦に徴兵されながら、ロシアの前線でクレヨンや水彩でデッサンや絵にめざめて画家になろうとしていたのだし、前衛集団MAと交わり、カンディンスキーやリシツキーやクルト・シュヴィッタースに出会ってコラージュやタイポグラフィに才能を開花させていたのは、バウハウス以前のことだった。
 その後、「MA」「デ・ステイル」「カイエ・ダール」などに寄稿したり、フォトグラムの実験にとりくんでいたところをヴァルター・グロピウスが目をつけ、バウハウスに引っ張られたのだった。
 バウハウスを辞めた1928年以降も、注目すべき仕事を次々に発表していた。ベルリンではむしろ舞台装置家として知られ、『ホフマン物語』『フィガロの結婚』『マダム・バタフライ』に腕をふるい、さらに見本市の展示デザインを先駆したあとは、ポスター、パンフレット、インテリアデザインも手掛けた。記録写真や映画に手を染めたのもこのあとのことだった。
 こういうモホリ=ナギを何と称ぶか、誰も思いつかないままにいる。デザイナーであり、写真家であり、タイポグラファーであり、そしてたいそう有能なエディターでもあった。
 しかし、時代はモホリ=ナギを教育者として迎え入れたかったのであろう。1937年にはシカゴの「ニュー・バウハウス」で校長を引き受けた。これが財政難で破綻すると、今度はたった18人の生徒のためにさらにラディカルなデザイン学校をつくった。「塾」に向かったのだ。

 ただし、モホリ=ナギには二つの不幸が絡まっていた。ハンガリーに生まれたということ、50歳でなくなってしまったということだ。そのことは今夜は書かない。

バウハウスの面々
左からジョセフ・アルバース、ヒネルク・シェーパー、ゲオルク・ムッヘ、
ラスロー・モホリ=ナギ、ハーバート・バイヤー、ヨースト・シュミット、
ヴァルター・グロピウス、マルセル・ブロイヤー、ヴァシリー・カンディンスキー
パウル・クレー、ライオネル・ファイニンガー、グンタ・ストルツル、
オスカー・シュレンマー

 さて、今夜とりあげた『絵画・写真・映画』は、『材料から建築へ』とともに、モホリ=ナギの代表的な著書として知られる“教材”である。作品集ではない。

 冒頭、「本書で私は、今日の視覚造形にかかわる諸問題を解明するべく努める」と宣言している。そのためモホリ=ナギは、まずは絵画と写真の関係をあきらかにするところからとりくみ、そこに構成、色彩、運動などの視点で検討できる問題をくみこんでいく。まったくケレン味のないスタートだ。

 しかし、そのあと写真の技術の可能性と限界を紹介する段になると、突如として「カメラを用いない写真」に視点を移し、ここにモホリ=ナギ得意のフォトグラムの新たなイメージ学が展開されることになる。まるで20世紀のカメラ・オブスキュラの可能性を一人で切り開いていくという勢いになる。

 とくに引用と再生を活用するフォトモンタージュ、物体と写真をダイレクトに融合させるフォトプラスティック、物体の運動を投影記録するキネグラム、グーテンベルクの夢を刷新するフォトタイポグラフィの紹介になると、まったくの独壇場で、他の追随を許さない。とくに、今日なお通用するともおぼしい提案には目を見張る。言葉に代わるメディアとしての「フォトテクスト」や、映像でも文字でもない「映画新聞」などの提案だ。

 

モホリ=ナギのフォトグラム作品
(カメラを用いずに、印画紙の上に
直接物を置いて感光させて写真を作る)

モホリ=ナギ撮影の陰画写真。
グラデーションが逆になることで、
わずかな量の白が効果的に現れる。

 ベンヤミン(908夜)は「カメラに語りかける自然は、目に語りかける自然とは異なっている」と言った。モホリ=ナギはそういうベンヤミンの思索が気がついた大半の視覚文化の見方を、ほとんど現実のものにしてしまったヴィジュアライザーだったと言っていいだろう。

このことは、もうひとつの著書『材料から建築へ』で、さらに説得力を増す。この本もバウハウスの“教材”になったものなので、作品集ではない。しかしそのぶん、意外なほど鮮明にモホリ=ナギのイメージ学の根幹が伝わってくる。
 
たとえば、モホリ=ナギがここで確立した教育方法は、すべてのイメージの端緒を触覚器官が接触した材料から始めるのがいいと断言していることによくあらわれている。
 
学生たちは、まずさまざまな触覚感覚の異なるものを集めることから始める。圧覚、刺覚、振動感覚、温度感覚のちがうものを集めてくるのだ。できればそれぞれが指先につまめる程度の大きさがいい。そうでなければ、そのサイズにちぎるか分割をする。ついで、それらを適当に選別してモホリ=ナギのいうところの「触覚板」の上に置いてみる。そしてそれぞれの触覚事物を一定の幅にしておいたり、2列にしたり、間隔を変えたりしてみる(図1)。
 
こうしてみると、手が感じた触覚事物が目の対象に置き換わって並ぶことになる。これを発端にして、この触覚板を円状にして触覚盤にしたり、また簡単なハンドル付きの立体回転物にしたりする(図2)。
 
こうして、そこには誰もが見たことのない「提示」が出現する。これは「作品」なのではない。自然と人工のあいだにいる人間が、これらを触覚的にアッサンブラージュし、それを新たなオーダーによって置換させた「提示」なのである(今日の現代美術では、この程度のものがすべて「作品」になっている)。

【図1】モホリ=ナギが生徒に製作させた触覚板の例。
上はボルトを寝かせて並べ、
圧迫感覚と振動感覚を確認するもの。
下はさまざまな釘を打ち込み、刺感覚を得るもの。

 また、こういう教育方法も考案している。こちらは、さまざまな物体の内部に入るか、あるいは自然物の未知の外貌を撮影して、そのテクスチャーやコンストラクションを眺めるところから始まる。

どういうふうにするかというと、接写や顕微鏡写真を使う。また航空写真やフォトグラムを使う。こうして学生たちは、金属の風景(図3)や山肌の褶曲(図4)の意外な光景に出会う。

【図3】電解により切断された金属の断面

 次に、この光景を克明なスコアやダイヤグラムに転換する。これによって起伏や曲性や疎密は、独自のグラフィックスコアに変位する。ついで、この変換されたテクスチャーやコンストラクションの感覚を、さらに別のグラフィズムに置き換えていく。たとえば人物の横顔写真に、山肌から得たグラフィックスコアにもとづく変容を加工する(図5)。これは一種の“彫刻写真”とでもいうべきものになる。

こういうグラフィック・カリキュラムを次々に見せているのが『材料から建築へ』なのである。「建築へ」と題している通り、後半のカリキュラムでは、すべての材料の集合がしだいに建築物に向かって大きくもなっていく。そして、モホリ=ナギの言葉でいえば、すべての芸術は「聳え立つ」に至るのだ。

こうしたモホリ=ナギの方法が端的に示していることは、才能はその人間に内蔵されているとはかぎらないということである。むしろ、材料や素材とちゃんと出会うこと、それを丹念に持ち出して再構成していくこと、その再構成が見せたヴィジョンをさらにニューヴィジョンにしたいと思うこと、それがすべてだということだ。つまりモホリ=ナギにとっては、才能とは、この作業のプロセスに潜伏している“何か”ということなのである。

上部の触覚板から得られるいろいろな触覚を
スコアやダイアグラムに転換する試み。

 モホリ=ナギの功績はいろいろある。一言で書くのは難しい。あまりにも仕事の幅が広すぎるからだ。

が、いまはあえてそれを一言に集約すると、おそらくは「ストラクチャー」と「テクスチャー」に「ファクチャー」を融合させたということにあったのではないかと思う。ファクチャーとは「表面処理」といった意味だけれど、モホリ=ナギにおいては、それがストラクチャーやテクスチャーと区別がつかないものにまで進むのだ。

このような考え方は、コンピュータ時代の現在にこそ注目されるべきだろう。いまや、パソコンの前に坐っている諸君は、画面上に見えていることのすべてが、ことごとく一様化してしまって見えている。デジタルカメラで何かを写してそれをパソコン上で動かしていても、そもそもカメラが何をどのように撮ったのかはわからないし、そのうちの何がパソコンによってデータ処理されているかも、わからない。

しかしかつて、カメラで何かを撮るには、シャッター速度も露光時間も絞りも明確になっていた。手持ちのブレさえ写真だったのである。ましてそれを印画するには、ぼくも何度もやっていたことだが、現像液に浸してその画像があらわれてくるプロセスをじいっと眺め、そのどこかでサッと切り上げてこなければならなかった。

暗室でちょっとでも外光が入ったら、失敗だった。しかし、あえてその外光を絞って現像のプロセスに融合したらどうなるか。マン・レイやモホリ=ナギはそれを試みた。こうして写真は超写真に向かっていったのだ。

同じことが、実際にはコンピュータでもおこってきた。画像を切り取り、合成し、融合させるには、そこにひとつずつデジタル技術がかかわってきた。しかしながら、そのすべての技術はいずれコンピュータがとことん内蔵することになって、それを諸君が手で触ることができなくなった。触覚の喪失だ。いや、そうしたハードとソフトのいずれにもかかわる部品は、この目でも見られなくなっている。視覚の喪失だ。

これがイメージの貧困を生んだのである。イメージの「出現の現場」に立ち会わない集団をつくってしまったのだ。コンピュータは視覚によっておこる知覚の変換を失わせてしまったのだ。諸君はコンピュータの画面を見ていても、そこで変容する視知覚の変容には立ち会わなくなってしまったのだ。ときにモホリ=ナギに戻るべきだろう。

すでに用意されたツールを使用するだけの日々、
デジタル時代を迎えた現在、我々は何か大切な
クリエイティブマインドを見失っているのではないか。

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