才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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『薔薇族』編集長

伊藤文学

幻冬舎アウトロー文庫 2006

ぼくが「遊」を創刊したのは
1971年7月1日だった。
その7月30日に、
もう一冊の画期的な雑誌が誕生した。「薔薇族」だ。
男のための同性愛雑誌。
一世を風靡した。さまざまなタブーも破った。
ここには、雑誌編集のヒントもどっさり詰まっていた。
目を背けないで、読まれたい。
いや、あまり期待されても、妙だけれど。

松岡正剛はゲイであるという噂や、いや少なくともバイセクシャルだろう、いやいや正真正銘の精神的なホモだといった“仮説”はあとを断たない。沼正三はわざわざ「松岡正剛は正当のMである」と手紙に書いてきた。
 さあ、どうなんでしょうね。ぼくなんぞがゲイやバイセクシャルや正当Mなのでは、かれら当事者にまったく申し訳がありません。稲垣足穂がそうであったように、ぼくはゲイやホモセクシャルやMやらの熱狂的な同伴者、ないしはオントロジックな支援者にすぎない。これで、いいかな?
 もっとも、ぼくはたいへんな晩生(おくて)で、女性を知ったのが、下駄を履いて早稲田ゼンガクレンで跳梁跋扈していた大学3年生だったから、それ以前に幾多のゲイの攻撃を受けていた。それでも映画館の暗闇を筆頭に、何度もきわどい危難をかいくぐってきたのだが、大学2年の夏に信州をヒッチハイクしていたとき、公園で野宿を決めこんでいたら妙齢の婦人が声をかけてきて、そこで勧められた宿屋の柔らかな布団で熟睡しているあいだに、その女装の主人にやられた。ハッと気がついたときは、もう遅かった。だから男が先で、女があとなのだ。
 今夜は「遊蕩篇」にふさわしく、伊藤文学がどのように「薔薇族」というゲイマガジンを創刊したかという話をしてみたい。最初に言っておくけれど、伊藤文学はゲイではない。ギョーカイでは「ノンケ」というのだが、フツーの男性だった。

 伊藤はもともと版元の家に生まれた。父親が戦後に第二書房をおこしていた。伊藤が駒澤大学の予科に入ったころで、人文系の出版社だった第一書房を再興しようとしてそれが叶わず、第二書房を立ち上げた。出版界ではよくある話だ。
 第二書房は短歌や現代詩を出していたのだが、極小出版社だった。そういうところは取次店の配慮にもめぐまれず、印刷費もままならない。紙屋もまけてはくれない。そこで父親は「社員は使わない」「著者の印税を節約する」という方針を貫いた。ちょっと売れた本があれば、印税をごまかしてでも生き抜こうとした。
 伊藤はこういう父親のやりかたが気にいらない。大学を出て4年ほどすると、父親は家にも寄り付かず、女遊びばかりするようになっていた。世田谷の下北沢にある実家兼版元には、借金取りばかりが押しかける。伊藤はこれをやりくりする日々をおくるようになっていた。
 こうして踏み切ったのがエロ出版だった。1962年、騎士と夜とを掛けた「ナイト・ブックス」を出したところ、売れた。第1作を武野藤介の『わいだん読本』。帯に「夜の騎士たちに贈る最大の武器!」。第2弾が同じく武野藤介の『大人だけに聞かせる話』。清水正二郎の本もずらり並べた。清水はいまでは直木賞の胡桃沢耕史として知られるが、そのころは怪しげなポルノ本ばかり書いていた。だが、うまかった。
 こういう伊藤のフーゾク出版を、父親は黙って見ていた。安定した売れ行きだったので、文句は言わない。伊藤はそういうことをしながら、ひそかに「ポルノで品性を疑われようとも、商売では疑われたくない」というモットーを鍛えていった。

 1965年、スーツもネクタイもシャツも靴もすべてが緑ずくめの風変わりな秋山正美が訪ねてきた。どこに原稿を持っていってもとりあってくれないので来たのだという。「オナニーの正しいやりかた」と表書きしてあった。
 さっそく『ひとりぼっちの性生活』として刊行したところ、女性週刊誌と11PMがとりあげたこともあって、数万部が売れた。「孤独に生きる日々のために」というサブタイトルをつけた。この感覚、伊藤がのちのちまで発揮する「性を本物として扱う」という感覚だ。
 もうひとつ、工夫した。奥付に「悩みごとの相談を受け付けます」と記しておいたのだ。山ほどの手紙が殺到した。
 手紙の束のなかには「ある男性を思い浮かべてオナニーをしています」といった内容のものが、かなりまじっていた。伊藤はこれをきっかけに、しだいに「同性愛」というものが世の中にかくも多いのかということに気がついていく。そこで1968年、日本が全共闘で揺れているさなか、『ホモテクニック・男と男の性生活』を出した。これが、爆発的な売れ行きになった。
 こうして、あの1970年11月25日という日がやってくる。三島由紀夫(1022夜)が陸上自衛隊東部方面総監室で割腹自決したのだ。前年、ニューヨークでは、「ストーンウォール・イン」というゲイ・バーが差別され、暴動がおこっていた(このことについては、ぼくの『フラジャイル』ちくま文庫を参照されたい)。
 伊藤は、農上輝樹の『続・薔薇の告白』の巻末に、ついつい「きみとぼくの雑誌『薔薇』の準備を少しずつ進めています」と書いてしまった。まだまだ構想はまとまっていなかったのだが、このくだりを読んだ二人が伊藤を変えた。藤田竜と間宮浩である。伊藤にはまったく面識のない二人だったが、新宿御苑のマンションに来てほしいというのだ。

 藤田と間宮は「風俗奇譚」で互いにライターとして知り合ったのだという。二人は同性愛どうしだった。
 当時の読書派なら、こんなことは誰もが知っていることだが、「風俗奇譚」はSM雑誌としても、ポルノ雑誌としても、「奇譚クラブ」とともに長らく王座に君臨していた伝説のクィア・マガジンである。沼正三の『家畜人ヤプー』が連載されたのは、「奇譚クラブ」だった。ぼくも両誌ともにたくさんバックナンバーをもっていたが、いまは散逸してほとんど見当たらない(「えろちか」も)。 
しかし「風俗奇譚」は同性愛には弱かった。むしろこのあたりまで、男の同性愛は日本社会のタブーであり、恥部とみなされていたのだ。
 そこで二人が、勇気ある新雑誌の創刊に力を貸したいと申し出た。これはすこぶる強力なコンビだった。まずもって、藤田はプロのメディア・クリエイターだった。「私の部屋」という雑誌のインテリアページも引き受けていた。間宮は小説が書けた。ついで、二人のゲイ感覚が伊藤にとってラッキーだった。二人は二人ともがスポーツマンタイプが好みだったのだ。伊藤は、もし二人が少年愛派だったり、デブ好みだったら(けっこう多いらしい)、「薔薇族」の方針はぐちゃぐちゃになっていたかもしれないと回顧する(笑)。
 かくして藤田と間宮の協力のもと、1971年7月30日、「薔薇族」は9月号として創刊された。

 中綴じの72ページで、活版組。隔月刊。発行部数は1万部。雑誌コード7581。表紙は藤田竜のイケメン青年のイラストレーション。
 グラビアはたったの6ページ。それでも男のハダカが、ついに本屋に並ぶ雑誌のグラビアを飾ったのだ。モデルは秋山祐徳太子(818夜)と、さる美容師。撮影は原栄三郎。いかにモッコリを撮るかに苦心したらしい。あっというまに評判になった。完売に近い。
 その数週間前、ぼくは「遊」を創刊していた。平綴じの172ページで、活版組。季刊。発行部数は同じく1万部。雑誌コード2165。表紙は杉浦康平の浮遊する眼球。オフセットページは32ページ。杉浦康平の「イメージマップ」の3つ折りの折込みも入れた。たちまち評判にはなったが、6000部どまりだった。
 「遊」は季刊というより、不定期刊だった。お金ができたら刊行した。「薔薇族」は隔月刊を守り、その後に月刊になった。「遊」が月刊化するのは6年後のことだ。ところで、「遊」も「薔薇族」も雑誌コードをもっていた。こんなことは当たり前のようなことだが、それまで風俗マガジンの大半は「奇譚クラブ」も「風俗奇譚」も雑誌コードがないために、一般書店売りができなかったのである。取次店が雑誌コードの取得にうるさかった時代なのだ。
 そのため伊藤は、この創刊号の発売日を高らかに「同性愛者の独立記念日」と名付けて誇っている。すばらしい。

創刊号のグラビア写真
(右が秋山祐徳太子)

 伊藤の編集力を、ぼくは買う。いくつか理由がある。
 第1に、なにより他人の才能に敬意を払うところがいい。ただし敬意を払うだけではダメである。思い切って、何かをまるごと任せるところが必要だ。有名・無名は問わない。問うてはいけない。伊藤には、それがある。ぼくも高橋秀元や荒俣宏(982夜)や戸田ツトムを、田原桂一や杉本博司や藤原新也(160夜)を大きく登用し、ふんだんにページをさいた。
 第2に、コンシステンシー(一貫性)にこだわらなかったところが、いい。編集とはそもそも「変化」なのである。変化しつづけることが、編集の本質なのだ。実際にも「薔薇族」は毎号、変わっていった。それがいい。雑誌の当初のモットーなどに縛られてはいけない。何度でも編集長を交代させられる大出版社の雑誌ならともかくも(「ヴォーグ」や「文芸春秋」のように)、そうでないのなら、コンセプトやテーマすらどんどん変質するのもアリなのである。「遊」も表紙とテーマとフォーマットを、10年のあいだに3回にわたってガラリと変えた。
 第3に、伊藤は腹を括っている。月刊に踏み切ったときに、腹を括った。「胆」(はら)と言ったほうがいいだろう。それまでは書籍編集も並行してやっていたのを、そこから手を引いて雑誌業務に集中した。月刊でゼッタイに赤を出すまいとも決意した。途中から広告にも力を入れた。が、最も腹を括っていたのは、警察の手入れと同性愛者たちからの非難に対してだ。
 警察の手入れは、きわどい描写や男性ヘアヌードの取り締りである。いつでも警察にしょっぴかれることを覚悟していなくてはならなかった。こんなことでいちいち落胆していては何もできない。
 もうひとつの腹は、ギョーカイ関係者に対する胆だ。端的には「同性愛者たちからの非難」がきつい。「おまえはノンケのくせにホモの気持ちがわかってたまるか」という非難だ。「ホモを食い物にして、したり顔をしている」という罵声もとんだ。
 これについてはよほど腹を括って、「だからこそ見えてくるものがある」と居直った。隙は見せられない。伊藤はこれを押し通したのだ。編集長は「知」が3分、「勘」が3分で、「胆」が3分、そして「運」の呼び込みが1分のジンセーなのだ。

初めて警察に注意を受けた写真
(「薔薇族」1972年11月号 No.2)

 第4に、伊藤は読者のためのイベントを連打した。雑誌は、小さいながらもサービス事業である。読者サービスや読者イベントを連打した。これは最近の大雑誌がおおいに怠けていることなのだが、それを伊藤のリトルマガジンがやってのけた。
 「遊」も、各地で「遊会」や「遊撃展」や「遊学する土曜日」や「遊塾」などを催したけれど、伊藤はもっと強行スケジュールを組んだ。
 1974年の7月号で月刊化の予告をしたときは、半月のあいだに、「高校生のための座談会」「第1回読者パーティ」「第2回愛読者のための信州旅行」「電話相談室の特定日開設」などを連打した。これでまもなく第二書房に、100人から200人の読者が定期的に顔を出すようになった。
 ぼくも「遊」を編集しているときは、常時200人くらいの読者やセミスタッフの出入りを維持したのではないかと思う。そのうちかなりの者たちが仕事をしたがったり、工作舎に入りたがったのにはいささか困ったけれど、そのなかからかなり有能なスタッフが出現もした。大類信や山崎春美や渋谷恭子、羽良多平吉や後藤繁雄や芦澤泰偉や祖父江慎、そんな連中だ。
 第5に、それでいながら読者に阿(おもね)らないことにも徹した。これが最近は、案外、できない編集者が多い。これはダメだ。むろん読者は大事なのだが、読者に媚びると雑誌はつまらなくなる。しばらく安定はするけれども、やがて必ず勢いを失う。
 伊藤は読者の悩みごとを雑誌に反映させる編集方針をとったのだが、とはいえ、その悩みごとに甘んじはしなかった。突き放すところは突き放し、救うところは救った。スキルの提供も、半分は隠した。
 当時、同性愛者たちの人気スターのナンバーワンは三浦友和だったようだ。山口百恵のダンナだが、あの短髪と精悍な顔立ちがゲイ感覚をゆさぶった。ダントツだったらしい。つづいては、藤岡弘や伊吹吾郎に圧倒的な人気があった。こうした理想の男を求めて、孤独な読者たちはハッテン場(ホモが集まる場所のこと)を出入りし、いつか三浦や藤岡や伊吹のような精悍な男に犯されることを夢見る。そういうものらしい。
 ところが、こんな理想主義が成就するはずはない。そこであれこれ悩みを書いてくるのだが、伊藤はここをドンと突き放す。「あなたには原因としての問題点があります。活造りをあきらめて定食コースに戻るか、そのまま理想を抱き続けてホモに興奮できない体質になってしまうか、そのどちらかです。早く方向転換をしなさい」というふうに。いや、いや、たいしたもんだ。

警察の取調べの実態を伝えるインタビュー記事
(「薔薇族」1984年9月号 No.140)

 編集長というものは、いろいろの仕事がある。断固とした牽引力が必要である一方、どんなものにも対応できる柔軟性が必要だ。
 時代に敏感であるだけでは、編集はできない。時代の読み方は自分でわかっていても、執筆者に任せたほうがいい。編集者としては、むしろ時代の「端っこ」や「だぶり」や「巻きこみ」を見たほうがいい。センタリゼーション(中央主義)はたいていはつまらない。
 ときには、伏せられてきた禁句を持ち出すこともできなくてはいけないし、時代を先行する造語もつくらなければならない。伊藤はそれまで隠語になっていたゲイ用語をふんだんに登場させた。たとえば「ノンケ」「おかま」「おこげ」「おなべ」、たとえば「売り専」(体を売る男とその店)、「フケ専」(60代前後の熟年を相手にする若者)、「オケ専」(棺桶のオケのことで、70代以上の男の趣味)等々。
 造語もある。もともと「薔薇族」が天下御免の流行語になったのだが、これに対応させて、レズビアンを「百合族」と名付けた。なかなかうまい。
 フレーズもまちがえてはいけない。少年愛については、あくまで「半ズボンの神話」や「稚児のメルヘン」であって、これをうっかり「伊吹吾郎の半ズボン」とか「藤岡弘の妖精世界」などとは、血迷ってもしてはいけない(笑)。
 最大多数の読者層を見抜くのも仕事である。「薔薇族」の場合は、最も多い読者層はなんと「学校の先生」だった。だからといって、ぬか喜びしていては足をとられる。この最大多数層を剥き出しにするか、あえて謎めかすかが、実は編集の分岐点になるのだ。
 ファッション雑誌や旅行雑誌なら、読者の最大層が発見できたら、すぐにこれを開示したほうがいい。読者モデルが次々に読者モデルを生んでいく。けれども、禁断の雑誌では、これを巧みにまぶしたほうがいい。小学校や中学校の先生の実態をバラして得になることは、何もない。
 ファッションやメークアップや旅行などは、選択自由のマーケットなのである。読者はそこにかかわっていることに自足する。これに対してSMや同性愛は、簡単には手に入らない。生得的なものもある。だから、読者が自分がそれにあてはまると解釈したかどうかを、やたらに公開するのは避けたほうがいいわけだ。
 同じようなことは、べつの意味において、思想誌や政治雑誌にもあてはまる。思想や政治の本質は「移り気」にある。それなのに、いったん何かの思想や党派に傾倒した読者の正体をバラしすぎると、その読者が次の移り気に移れない。こういうときは、雑誌はあえて読者をゆさぶる「多様性」を編集しつづける必要があるはずなのだ。

 編集長にはどうしてもコンビを組むアートディレクターやクリエイターが欠かせない。わかりやすくいえば、ヴィジュアルを任せられるアーティストが必要だ。
 これも才能があったとしても、自分でやってはいけない。ヒントは出しても、手は出さないようにする。「薔薇族」では、最初は藤田竜がすばらしいアーティストぶりを発揮した。次は内藤ルネである(中原淳一の弟子筋になる)。ずっとあとからは宇野亜喜良が表紙の絵を担当した。
 それにしても「薔薇族」は、男性表現の先駆を切る必要があった。これはそんじょそこらのタマでは描けない。そこでつねにイラストレーターを探した。これを「男絵」という。「薔薇族」は藤田と内藤によって男絵の定番をつくりだした。
 写真も大事だ。写真がダメな雑誌は落ちる。ぼくが「遊」を編集していたときは、写真家に一番のシンケーを使った。それがあまりに凄かったらしく、当時の「カメラ毎日」の山岸章二からやきもちを焼かれた。奈良原一高さんや横須賀功光さんらの写真家たちからは、「松岡さんに日本の写真批評を引っ張ってもらいたい」と何度も要請をうけた。ぼくはこういう甘い誘いには乗らなかった。
 「薔薇族」の写真は、無名の「オッチャン」が開いた。大阪のオッチャンとしてしか知られていない人物だが、「ホモ写真」の名人だった。オッチャンが警察に押収された写真は数万点にのぼる。
 実は「薔薇族」の前に、1952年に創刊された「アドニス」というゲイマガジンがあった。上月竜之介が仲間とともに創刊したものだったのだが、そこに作品社で編集をやっていた田中貞夫と中井英夫(のちの「短歌研究」編集長)が加わってからは、文芸雑誌ふうになっていた。オッチャンはそこに数点のゲイフォトを出していたのだ。これを「薔薇族」が引き抜いた。
 こういうぐあいに、伊藤はヴィジュアルでも「薔薇族」を成功させた。決して派手ではないが、確実な「男絵」と「ホモ写真」をものにした。

 ざっとこんなところが「薔薇族」の紹介だが、伊藤文学はその他の仕事ぶりにおいても、なかなか多彩で、多様だった。
 新宿厚生年金会館の近くにQフラットという、邱永漢が建てたビルがあった。1970年代半ば、このビルの2階に美輪明宏(530夜)が「巴里」というサロンをつくった。
 そのころぼくは、すぐ近くの番衆町のローヤルマンションの10階に工作舎を移していたので、何度か通った。ロココ調で、ピアノがあって、女装の美輪さんがシャンソンを唄っていた。同じく「巴里」に通っていた伊藤は、この「巴里」と同じフロアの真向かいに談話室をつくることを思いつく。クラブとサロンは、実は雑誌編集と同質のテイストがあるからだ。
 国学院の阿部正路がこの談話室を「祭」と命名した。会員制ではあったが、わりに健全なバー・スナックで、たしか500円均一でアルコールもノンアルコールも飲めた。むろんゲイが多かった。片隅に「僕から君への伝言板」というノートが置いてあって、伊藤はこういうところでも“編集”していた。
 「祭」では夏季講座も開かれた。阿部正路、高橋睦郎(344夜)、富田英三、美輪明宏、それだけではなく、新宿にはレズビアン・バーの「リボンヌ」をオープンさせた。伊藤は4軒のオーナーになったのである。こういう編集長はめずらしい。現代思潮社の石井恭二による新宿「ナジャ」は夙に有名だが、これは社長であって、また夫人がママだった。
 1981年には、「ホモビデオ」も製作発売した。『少年・純の夏』『薔薇と海と太陽と』などという、斯界ではよく知られた名作だ。

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(「薔薇族」1981年9月号 No.104)

 ところで、本書には姉妹版がある。『『薔薇族』の人びと』『「薔薇族」編集長奮戦記』『薔薇を散らせはしまい』などである。この両方ともに、たくさんのコラボレーターが紹介されている。
 実は、編集はそもそもがコラボレーションなのだから、できるだけ雑誌のなかにもそのリアルタイムなコラボレーションの息吹を入れるべきなのである。
 とくに「ホモの敵はホモ」と言われたように、「薔薇族」のような雑誌は、同業者から必ず恨まれる。そういう宿命をもっている。編集屋というもの、よほどの才能をもっていないと、同業者から嫌われるか、炙られる。思想誌も同じ宿命をもつ。これを突破し、新たな地平を開拓していくには、最初からコラボレーターを明示していくのがいい。「薔薇族」はその点でも成功した。ぼくは、このあまりにラディカルでヤバイ編集長に敬意を表して、「遊」でホモエロス「ち組」を特集して、登場してもらったものだ。
 なお、伊藤文学には歌人の才能も、ノンフィクションライターの才能にも恵まれていた。とくに末の妹が心臓病で闘病していた顛末を綴った『ぼくどうして涙がでるの』は評判になり、のちに日活で映画化されている。
 伊藤文学。昭和7年、東京世田谷生まれ。39歳で「薔薇族」編集長となった。平成16年、35年をへてついに廃刊したが、翌年、メディアソフト社から不死鳥のように蘇った。また、編集長になった。

「薔薇族」編集長として「遊」にも登場
(「遊 ち組[ホモエロス]」 1979年9月)

附記¶著書も編著も少なくない。主には、『薔薇ひらく日を』(第二書房)、『『薔薇族』の人びと』(河出書房新社)、『薔薇を散らせはしまい』(批評社)、『編集長「秘話」』(文春ネスコ)、『薔薇よ永遠に』(九天社)、『ぼくどうして涙がでるの』(第二書房)、『心が砕けてしまいそう』(光風社書店)、『薔薇族編集長奮戦記』(第二書房)など。