才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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横井小楠

松浦玲

朝日選書 2000

樸実で、酒乱。大器にして、不遇。
それでも舌鋒鋭く、どんな相手をも呑んだ。
いや、単身で日本を設計した。
横井小楠は、勝海舟をして、
西郷隆盛と並んで恐ろしいと言わしめた男だった。
日本を洗濯することを志向した男だった。
つまり龍馬の「船中八策」を先駆した男だった。
その小楠が明治2年に暗殺された。
維新政治は小楠の跡をひたすら追ったのである。
なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。
大義を四海に布(し)かんのみ。

参議院選挙、自民党惨敗。
 予想していた通りだ。自民党が惨敗しただけではない。敗退は公明党にも社民党にも共産党にもあてはまる。だから民主党の一人勝ちとかバカ勝ちといっていいのだけれど、これも年金と失言に踊った民意の気まぐれな「うたかた」で、今後は(たとえば衆議院総選挙)、民主党が返り討ちにあうことも辛勝することも、痛み分けすることも大勝することも、ま、何だってありうる。
 いまの政治家とメディアと国民の関係からして、こんな“行ったり来たり”や“上がったり下がったり”は当然のこと、この選挙には世情を判断する「日本という方法」の材料など見つかるはずもない。むしろこれからの情況がやっと本舞台のリハーサルなのである(このリハーサルが終わらないと、日本が二大政党制になるかどうかもわからない。ぼくは多党連結交替制だっていいと思っている)。

 それにしても政治家という輩、よほどくだらぬ人物ばかりが右往左往することになったものだ。バンソーコーの赤城なんたらがひどいだけではない。大半がお粗末だ。
 残念ながらぼくも、テレビにしょっちゅう顔を出す政治家諸君の20人ほどをよく知っているのだが、困ったことにこれらには、胸中に山水をもつ者がまことに少ない。「達人はすべからく明了」ということがない。「樸実」(ぼくじつ)が結晶していない。ようするに「面目」がない。たんに軽挙妄動が好きな連中なのだ。
 人物が卑しいということは、政治家のみならず、何をもってするにもどんな職能につくにも、最大の欠陥になる。その卑しさが事態を右往左往させることはわかりきったことであろうはずなのに、それでも裏で保身と安泰を貯金しておきたいために、前もって「仁」や「胆」をそなえるということが疎(おろそ)かになる。ライバルを貶めることだけを画策する。そのうち失言や失態を演じる。あるいは裏でコソコソよからぬ者と付き合って、それが明るみに出る。なんたる体たらく。
 加えて昨今は、「種々(くさぐさ)の人材を統(す)べる大才」がめっきりいなくなった。人士をつくる人士がいなくなったのだ。安倍晋三も「人を見る目がない」「脇が甘い」「危機管理ができない男」と言われるようでは行く手は惨憺たるものだが、そのような批評をする連中が、おまえらこそ驕惰侮慢(きょうだぶまん)なのでもあった。

 横井小楠(しょうなん)に『国是七条』や『国是十二条』がある。
 坂本龍馬の「船中八策」や由利公正起草の「五箇条の御誓文」を先駆したものとして夙に有名だが、その十二条に、(1)一国以独立為本、(3)正風俗、(4)挙賢才退不肖、(5)開言語、(6)興学校、(7)仁士民などが示されている。

(上)小楠の筆による国是七条
(中)由利公正の五箇条の御誓文
(下)坂本龍馬の船中八策

 一国の独立によって「国是」(ナショナル・インタレスト)を確定することを前提に、それには(3)風俗を正し、(4)不肖を退け、(5)言語を開いて、(6)学校を興し、(7)士民を仁(いつくし)むべきだというのだ。あとでのべるように、明治2年に暗殺されるまで、小楠は生涯をつねに「国家の設計」に立ち向かった幕末維新の最もラディカルなプランナーでありつづけたわけだけれど、その前提にはつねに「人知を養う」こと、および「新民を救う」こととがぶれない目標になっていた。そのためには有徳こそが国富の土台になると主張した。
 ついでに言っておくと、小楠はこれより前に、越前藩(福井)のために『国是三論』も書いた。「天・富国」「地・強兵」「人・士道」の三論に構成された堂々たる問答集で、ここでも日本の富国強兵にはどうしても“士道”が伴うべきだと強調した。“士道”というのは文武両道を心得ることであるが、小楠は文武両道を文と武に分けてはいけない、一緒に体得して文武一体として、これを実践しなければ政事はままならないとした。まさに富国有徳の弁である。もって日本の政治家たちがいまこそ銘ずるべきことだ。

 というわけで、今夜はその横井小楠をとりあげようとおもう。できれば小楠自身の著作を読んでほしいのだが、ふさわしい単行本が出版されていないので、京都史編纂所の主幹と桃山学院大学の教授などを歴任したのち、民間で海舟や小楠を研究しつづけている松浦玲さんの『横井小楠』にした。
 原文あるいは現代語訳のほうは、その松浦さんが構成解説をした「日本の名著」の『佐久間象山・横井小楠』や、定番ともいうべき岩波「日本思想大系」の『崋山・長英・象山・小楠・左内』を参照することにする。
 小楠の研究や評伝は、まだまだ出揃っていない。今夜はなかで、小楠の孫弟子ともいうべき徳富蘇峰や徳富蘆花の記述、元田永孚の回顧録となった『還暦之記』、山崎正薫がまとめた小楠史料集(山崎正薫は山崎正和の祖父)、および三上一夫の『横井小楠の新政治社会像』と『横井小楠』(この2冊は小楠論の基準になりうる)、小楠の『国是三論』がアダム・スミスの『国富論』を先取りあるいは並列していることを示した山崎益吉の『横井小楠の社会経済思想』、最近になって書かれた徳永洋の『横井小楠』なども、随時参照する。山下卓の『横井小楠』(入門書にふさわしい)、石津達也の『大義を世界に』や童門冬二の『横井小楠』という小楠を主人公にした小説もある。
 それにしても小楠の政治思想は、いまのところまったく忘れられているといったほうがいい。338夜にも紹介したように、勝海舟が「俺はいままでに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ」と言ったほどの人物で、さらに海舟が「横井の思想を西郷の手で行われたら敵うものはあるまい」と見抜いていたほどなの人物なのだが、いまなお西郷はこれほど尊崇されているにもかかわらず、小楠がいっこうに知られていないままなのである。
 そうなってしまった理由はよくわからないが、ようするに幕末維新をちゃんと見ている日本人は少ないということなのだろう。

小楠生誕地の「清正公井(せいしょこい)」跡

 横井小楠は文化6年(1809)に熊本城下の内坪井町に生まれた。いまは熊本中央高校があるあたりだ。本名は時存(ときあり)、家族や仲間うちでは平四郎と通称された。号の小楠(しょうなん)は、父の思いで楠木正成の子の楠木正行(まさつら)に肖(あやか)った。甥には徳富蘇峰や蘆花がいた。
 小楠は子供の頃は悪ガキで、負けん気が強く、どんな喧嘩も譲らない。これがのちにどんな相手とのディベートにも屈しない強靭な言辞的な性格をつくり、木戸孝允が「横井の舌剣」と惧れたほどになる。が、時代を学び、真理を探求して将来を見据える姿勢も並々ならぬもので、10歳に時習館に入り、やたらに勉学に勤(いそ)しんだ。
 肥後藩が誇る時習館は、漢学・習字・故実・礼式・数学・音楽の6教科と、進級のための句読術・習書斎・蒙養斎などを正課としているのであるが、小楠はいずれにも頭角をあらわし、たちまちリーダーシップをとるようになった。天保8年には居寮長(塾長)に推された。
 この時期に小楠をいたく感銘させたのが、熊沢蕃山の『集義和書』と会沢正志斎の『新論』である。これはなんとも象徴的だ。
 一言でいえば、蕃山からは古代中国の堯・舜の理想政治を学び(796夜)正志斎からは後期水戸学の精髄のあらかたと尊王攘夷思想を学んだ(997夜)。この学習は小楠の政治思想を大きく育み、やがて藤田東湖と交わるようになって、さらに深遠にも、急先鋒にも向かうのだが、その東湖が安政の大地震で圧死し、残った藩主徳川斉昭が攘夷に対して右顧左眄することを知るあたりからは、水戸学的な言動力を批判するようになった。が、それはまだ先のことである。

 このように小楠ははやくから「日本の設計」に関心をもっていた。そしてそのための心身修養をつねに怠らなかったのだが、ひとつ、生涯にわたってかかえた欠陥をもっていた。いや、欠陥かどうかは諸君が判断してもらいたい。
 大酒呑みで、かつ、たいそうな酒乱者だったのだ。
 酒を一滴も嗜まないぼくにはさっぱりわかりかねることであるけれど、酒好きには酒が入らないと発しない特別のエネルギーというものがあるらしい。小楠はこれにめっぽう長けていて(笑)、どんな相手とも酒乱をもって拮抗し、凌駕した(ぼくの周辺にもこの手の愛すべき人材が二、三いる)。が、そのため深酒による失敗も多々あって、いっときはそれがため重要な職務から追放される憂き目にもあっている。
 逆にいえば、小楠はこの「懲りない欠陥」をおおいに承知納得のうえで、松陰・海舟・龍馬・晋作をはじめとする維新の志士たちと大胆に交わり、それをもって国政に臨もうと決意したといってもいい。かれらとどんなふうに交わったかは、追々ふれる。

 で、さっそくその酒癖の話になるのだが、せっかく推挙された時習館のリーダーとしての声望に横槍が入ったのは、つまるところは酒乱のせいだった。生徒を集めて酒を呑ませて議論するうちに、一人で議論の乱暴を奪ってしまうのだ。
 これでみんなが辟易とした。ひっこんだ。そこで家老の長岡堅物や重鎮の下津久馬は、小楠の才能を惜しんで、ここはいったん江戸に遊学させるのがいいと判断した。天保10年3月、31歳の小楠はこうして江戸に行く。
 はたして江戸での小楠は次々に重大な人士と交わった。まず真っ先には藤田東湖、次に昇平黌の塾長で『言志四録』をものした佐藤一斎(一斎の陽明学についてはいずれとりあげたい)、のちに江戸開場の翌日にピストル自殺した幕閣の川路聖謨(としあきら)、そして渡辺崋山の師で、当世随一の日本儒者といわれた松崎慊堂(こうどう)たちである。またこのころの小楠は、エンゲルベルト・ケンペルの著作を志筑忠雄が訳した『鎖国論』を読んで、世界の列強がアジアを植民地にしたがっていることを知って、刮目した。(697夜『ケンペルと徳川綱吉』参照)天保11年(1840)とはアヘン戦争の年なのである。
 江戸での小楠は目玉を初めて世界に向けた日々であったろう。そしてそのまま「日本」を鷲掴みにした日々だったろう。しかしここでまたしても酒乱が小楠の歯車を狂わせた。東湖が主宰した酒宴で奇っ怪な詩を詠んだあげく、帰途に公儀御徒(おかち)の男を3度にわたって殴ってしまったのだ。
この「酒失事件」が公儀にも肥後熊本藩の江戸詰にも届いた。ひょっとしたら報復があるかもしれない。日頃、小楠を嫌っていた者は江戸を追い払うべきだと注進し、結局、天保11年3月に小楠は熊本に帰郷させられてしまう。

 蘆花は、熊本に帰った小楠が6畳一間に謹慎させられ、しばらく貧乏きわまりない日々をおくったと書いている。それとともにこのとき、心身の鍛練をさらに深めたのではないかとも書いた。
 やがてそうした不遇の小楠を慕う者があらわれ、朱子学研究グループのようなものが芽生えていった。藩内だけでなく、遠くからも集まった。初期メンバーは徳富蘆花の父親の徳富一敬、のちに明治天皇の侍講や皇后宮大夫となった元田永孚(ながざね)、柳川藩の池辺藤左衛門、越前藩の三寺三作(みつでらさんさく)などだ。小楠も「時務策」(政策提言のようなもの)を綴り、兵法の革新を説き、経済政策の重要性や医療の徹底(種痘の勧め)などを提言するようになっていった。家塾「小楠堂」もつくった。
 これがいわゆる熊本「実学党」の発芽となった動向である。朱子を学ぶには朱子のメソッドを学ぶことだという方法研究と、後期水戸学と、朝鮮の大儒である李退渓の実践哲学を掘りこんだ(李退渓は気になる思想家で、いずれ詳しくふれたいと思っている)。
 ちなみに「小楠堂」には、「礼儀を正せ」「師範に背くな」「禁酒せよ」というシンプルな三則が貼り出されていたらしいものの、うち一則はあきらかに小楠自身の“はかない戒め”のためだった。が、小楠自身の戒めは案の定守れず、しばしば神棚のお神酒(みき)をごくごく呑んで渇望を癒していたという(笑)。

 嘉永4年(1851)2月、小楠は諸国遊歴に旅立った。その道程は『遊歴聞見書』や、同行した徳富一義(蘇峰・蘆花の叔父)の『東遊日録』に詳しい。
 夥しい人士に出会っている。その輪は吉田松陰のヒューマン・ネットワークに匹敵する(553夜参照)。たとえば久留米の真木和泉、たとえば萩の村田清風、岩国の玉乃世履、福井の橋本左内、由利公正、村田氏寿、金沢の上田作之丞、たとえば京都の梁川星巌(やながわせいがん)、梅田雲浜、岡田準介、たとえば尾張の田宮如雲などだ。いずれも幕末を賑わせた傑物である。
 萩では吉田松陰にも会いたかったが、あいにく江戸遊学中でかなわず、その後に熊本で3度ほど会談している。松陰は小楠の大きさに敬服し、「そのうち長州藩に招請したい」と言ったのだが、松陰の命のほうが短すぎた。小楠も松陰のただならぬ鬼気を見抜き、「もし松陰をして一万石の城主としたならば、天下の大事を引き起こすのは松陰となろう」と喝破した。
 遊歴のなか、小楠はとくに越前福井に魅せられている。とりわけ藩主の松平春嶽(慶永=よしなが)の決断力に富んだ英明にぞっこん惚れた。春嶽も小楠に惚れた。そのため福井滞在中は連日のように「学話」をおこなっている。小楠が松平春嶽に惚れたことは、この後の小楠の言動とぴったり重なっていく。

 周知のように、春嶽はペリー来航を国家の一大事と見て、日本の国防の必要を幕府に提出した。
 しかし日米通商条約問題がもたもたしてくると、橋本左内を京都におくって開国の必然を説かせ、他方で幕府の弱体を憂慮して一橋慶喜を将軍継嗣に浮上させる計画を推進、その渦中で井伊直弼が大老となるに及んでは、これと激しく対立した。その後、井伊大老が安政の大獄をもって左内、春嶽を謹慎させたため、しばしの沈黙があるのだが、その井伊が倒れて幕府が混乱すると、春嶽はふたたび国家大事のための活動を開始して公武合体運動の中心人物の一人となった。
 このあたりのことは詳しく書くとキリがない。が、ともかくもこうした春嶽の計画と画策には(英俊の将軍をトップにおいた近代議会政治体制の実験計画といっていいだろう)、陽に陰に小楠の考え方が反映している。幕末のめまぐるしいシナリオの転換と揺動にはほとんど小楠の「日本設計案」がそのまま如実に反映したといっていい。
 わかりやすくいえば、「開国か、攘夷か」をめぐる国家を二分した論争では、小楠は最初は水戸学派とともに攘夷を推進し、後半は春嶽と同じく開国と公武合体を推進することになる。ただ、小楠はこれからというときに酒乱が災いして、ネクストステージの中心人物たらんとする機会を次々に逸した。

 話を戻して、諸国遊歴をおえた小楠は、その後の生涯の寓居となる沼山津(ぬやまづ)に移り住んだ。
写真でみるといかにも熊本郊外の田園である(いまは熊本市秋津町)。ここを「四時軒」(しいじけん)と名付けて、近くの豪農たちとコミュニケーションをとりながら、小楠の新たな日々が始まった。土地に因んで号を「沼山」(しょうざん)ともした。また、『海国図志』をゆっくり開いて世界を凝視した。ヒューマレイの原著に魏源(林則除のブレーン)が中国誌を加えたアジア地理文化の大冊だ。
 同じ時期、越前藩では横井小楠を招聘する動きがもちあがっている。松平春嶽のたっての要望だ。藩内には小楠の動きを阻止する者たちもいて、越前藩に向けて「小楠は信頼できない男であって、貴藩のお役に立ちそうもない」という余計な讒言をする空気も強かったのだが、やがて福井から三寺三作が熊本を訪れ、さらに明道館(福井の藩校)訓導の村田氏寿が訪れて、招聘を正式依頼した。
 かくして安政5年(1858)、小楠は福井に賓客として赴いた。まさに井伊直弼が大老として剛腕をふりかざす時期にあたる。まだ橋本左内が八面六臂の活躍をしていた。

小楠の旧宅「四時軒」

 しかしさっきも書いたように、事態は安政の大獄をもって異常な方向に転んでいった。左内は獄死、井伊直弼も桜田門外で暗殺された。朝廷の勅許なき日米修好通商条約も交わされた。
 そこへもってきて水戸の藤田東湖が圧死し、日本を救国する頼みの綱と思われた徳川斉昭が腰砕けになった。小楠は水戸イデオロギーによる攘夷思想に失望し、独自に日本改革に着手する必要を感じた。開国論者に転じたのだ。
 これもさっき書いたが、すでに春嶽と左内による革新的な将軍議会政治のような抜本案も出ていた。そうした事態の推移のなか、小楠は新たな日本のリーダーとなるべきは松平春嶽だろうと確信する。このとき小楠が最初に組み立てたのが、先に紹介した『国是三論』や『国是七条』なのである。『国是三論』は「日本の名著」に現代語訳が入っているのでかんたんに読める。
 その「天」と「地」の章に、ペリーが『日本紀行』に「日本は無政事の国だ」と書いているのはあたっている、だいたい幕府が諸大名の力を弱めようとして参勤交代などさせてきたのだから、こんな国に政事が育つはずはない。それを鎖国でなんとか隠してきたわけだが、いま鎖国が解かれつつある以上は、そうもいかなくなった。そういうことを述べたうえで、参勤交代の廃止し(妻子を国元に戻し)、人材をどしどし登用して国力を集中させ、万国との交易に全力を傾注する幕政改革を訴えている。
 互いに互いの足を引っ張りあう参勤交代などをしているかぎり、国内の力はずたずたになるばかり、いまこそ「富国強兵・殖産交易」のヴィジョンを掲げて邁進するべきだと説いたのだ。「人」の章に文武一体の「士道」の肝要なことを説いていたことは、すでに紹介した。
 これらを通して、小楠が日本の政治家や地方リーダーにとくに戒めたのは「驕惰侮慢」(きょうだぶまん)だった。日本のリーダー層が安逸に驕り、惰眠を貪り、諸外国を侮って慢心することを極端に攻撃したのである。とくに外交と交易においては「仁」をもって当たり、「共和」を訴えることが重要だと口をきわめて強調する。小楠の一視同仁の躍如である。
 こうした小楠の提言はしだいに知られはじめ、巷間、「東の象山、西の小楠」という噂が立っていった。佐久間象山が『省侃録』に「東洋道徳・西洋芸術」と叫んだことに呼応する(芸術とは技術のこと)。高杉晋作は「海内一、二の人士である」と感嘆した。

 文久2年(1862)、小楠は春嶽の要請をうけて江戸に入った。勝海舟との出会いはこのときにおこる。例の「俺はいままでに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ」とのちに言わしめた出会いだ。
 なぜこんなことを海舟が感想したかは、次の事情を知ればもっとよくわかる。実は春嶽は、江戸に小楠を呼んだうえで大胆な計画を練っていた。越前福井藩を挙げて軍事力を結集し、そのまま大挙して京都に上るという一種のクーデター計画である。これは春嶽が長州をうしろだてとした朝廷の攘夷一辺倒の言動に業を煮やし、攘夷決行日(このあと文久3年5月10日と決まる)が近づいてきている情勢に、乾坤一擲のクサビを打ちこもうというものだった。
 むろん小楠はこの計画に応じた。応じただけでなく、挙藩上洛は小楠を中心に松平主馬・牧野幹・長谷部甚平・三岡八郎(由利公正)・村田氏寿・堤正誼・青山半四郎といった面々で実行することになった。そこには、在留各国公使を京都に集め、将軍・関白・諸国藩主による京都サミットを一気に開催して、その場で万国に日本の方針の決議を示そうというものだった。「共和」を主張しつづけた小楠ならではのシナリオだ。

 この計画は挫折する。複雑な事情が絡んだので容易に説明しにくいのだが、ひとつには当時春嶽に代わって藩主となっていた松平茂昭にその気がなかったこと、藩内の慎重派の調整がつかなかった、橋本左内のような激越に国内を動く人物に欠けていた、京都の情勢がめまぐるしく変転していた、この計画を察知した朝廷側や諸藩の一部に越前福井藩の単独行動を許さぬ空気が蔓延していった、さらには京都で「天誅」が流行し、テロが横行して、越前藩士もその歯牙にかかりかねなくなったことなどが、異様に組み合わさった。
 計画の挫折のとばっちりは、小楠自身の身にもふりかかった。この年の瀬に、暗殺されかかったのだ。このとき小楠は腰の大小がなく、それを藩邸に取りに帰ったというので、武士にあるまじき行為として非難されることになる。いわゆる「士道忘却事件」と言われる。
 こうして小楠が幕末の表舞台に登場する最後のチャンスが失われたのだが、これを横で窺っていたのが薩摩や長州や土佐や会津であった。とくに薩摩と会津はこの年の8月、公武合体を画して尊王攘夷の意図を挫けさせる計画に出た。これがいわゆる「八月十八日の政変」だ。なんとなく出来事の符牒が合ってきたと思う諸君も多いことだろう。
 こうなると、肥後熊本藩も黙っていられない。越前福井のクーデター計画に加担した小楠に難癖をつけ、士籍と知行を没収してしまった。武士の基盤を奪ったのだ。日本相撲協会の正式行事である地方巡業をおっぼりだして、モンゴルでサッカーをしていた朝青龍を厳重処分したようなものである(笑)。かくて小楠は、またしても熊本に謹慎帰国することになる。すでに56歳になっていた。

 沼山津に蟄居した小楠の動静は、幕末の志士たちからするとおおいに気になった。いまだ日本には何もおこってはいない。天誅と公武合体と尊王と佐幕とが入り乱れて、連日連夜の合従連衡を繰り返しているだけである。
 いったいどうすれば日本は新たな「自立」に向かえるのか。それを憂慮し、行動を急ぐ幕末のコアメンバーにとっては、熊本に帰った小楠は気になってしょうがない(ちょうど明治6年の政変後に西郷隆盛が鹿児島に帰ったようなものなのだ)。案の定、一人の男が沼山津を訪れた。それも元治元年から翌年の慶応元年にかけて、 3度にわたった。

 その男こそ坂本龍馬である。最初は勝海舟から「お主、すぐに横井小楠のところ行ってみろ」と言われたからだった。このときは海軍の創設を相談した。小楠も『海軍問答書』を書き、自分の甥二人と門弟を海軍操練所に入れさせる約束をした。
 2度目は、龍馬がその小楠の甥と門弟を引き取りに来て、またまた密談に及んだ。このとき小楠から「日本をおおいに洗濯しなくてはいかん」という言葉を聞いた。龍馬は家族にあてた手紙のなかで、「天下の人物といふは、肥後に横井平四郎」と綴った。のちに龍馬が小楠の言葉を流用して、姉の乙女に宛てて「日本を今一度洗濯いたし申し候」とのべたことは有名だ。
 3度目はぶらりと訪れた。このあたり、龍馬はさすがだ。そのときの会談の模様を徳富蘆花が『青山白雲』にスケッチしている。天下の人士の人品と器量を二人であれこれ評定したのち、龍馬が小楠に「先生は酒を召し上がって、大久保どもがする芝居を見物なさってください。大久保どもが行き詰まったりしますれば、そりゃあちょいと指図をしてやってください」と言ったというのだ。すでに60歳近い小楠に決起の行動を期待したのではなく、革命はわれわれがやるから頭上から見ていてほしいと言ったのである。
 いかにも龍馬らしい念押しだ。実際にも龍馬はその後の慶応3年10月16日に、京都の近江屋の2階で「新官制議定書」を草稿したとき、参議に小楠の名を書きこんでいる。
 こうした沼山津での小楠の静かな日々は、井上毅が筆記した『沼山対話』、および元田永孚が筆録した『沼山閑話』にいきいきと伝えられている。ぼくにはこの二篇こそ、小楠の思想が最も円熟していると感じる内容である。
(ちなみに井上毅と元田永孚はのちの『教育勅語』の起草者である。このため、小楠を右寄りの思想者と向きもあるのだが、これはいささか取り違えだ。)

 さて、あれこれの激変のあげく、王政復古と御一新やってきた。幕末の主人公になりそこねた横井小楠はどうなっていったのか。維新政府に登用したいと請われたのだ。小楠を招こうとしたのは岩倉具視と由利公正である。
 熊本藩も小楠自身もこれを遠慮しようとしたのだが、招命を断ることはできず、明治元年4月、小楠は参与に命じられ、晴れがましくも太政官に出仕する。
 参与は当時の最高ブレーンである。初期の明治政府は太政官のもとに、議政・行政・神祇・会計・軍務・外国の七官をおき、参与は議定とともに議政官の上局を構成した。総裁局である。その当初の参与には木戸孝允、小松帯刀・大久保利通・広沢真臣、後藤象二郎、福岡孝弟、副島種臣、横井小楠、由利公正の9人が選ばれた。60歳、ついに小楠の晴れ舞台が用意されたといっていいだろう。
 が、小楠はこの名誉には軽々しく踊らない。すでに老境に達していたし、体調がすぐれなかったこともある。しかしそれだけではなく、維新政府が「共和」をもっていないのではないかという疑念をもった。とくに「議事の制」が曖昧であることに気がつくと、さっそく立法・司法の両権の区別がついていないことを指弾し、万機を公論に徹しさせていないと批判した。また、「富強の法」(富国強兵)が「利害の私事」に陥る危険を指摘した。さらには、このあと日本はまさに資本主義の市場に向かっていくのだが、それには「安佚」(あんいつ)に走らずに、「経国安民」のための「良心」をもって事に当たることがよほどに肝要になると説いた。
 こうした小楠の政治思想は煙たがられた。注文が早すぎて、誤解されやすかった。洋風改革に走っていると思われた。それが誇張されてキリスト教に加担しているとも受け取られた。ついには国賊だという風評も流れた。この風評に乗った無頼たちもいた。小楠はかくてある日の午後、何の前ぶれもなく突然に暗殺されることになる。
 この暗殺事件は、いまだに謎に包まれているところがある。怪しい人物が錯綜する。怪文書も舞っている。どうも真相がわからない。

 明治2年1月5日、正月の烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の正装をして、小楠は太政官に出仕、午後2時すぎには寺町御門から駕篭に乗って帰途についた。
 このとき物陰から刺客があらわれ、黒服面の男が小銃の一発を駕篭に打ち込んだ。驚いた警護の者と、とっさに駕篭を抜け出した小楠が短刀をもって身構えたところ、さらに数人がこれに斬りかかって乱闘となった。勝ち目はなかった。たちまち小楠は鹿島又之丞という者に首を刎ねられる。首は追ってに投げつけられた。刺客はいずれも姿をくらました。
 このニュースは在京中の木戸孝允・大久保利通・広沢真臣・五代友厚らを驚愕させた。17歳の天皇も小楠の居宅に勅使を向けて喪を示し、犯人逮捕と厳重処罰が司直に言い渡された。新政府最初の暗殺事件だった。
 やがて刺客の一人の柳田直蔵が自殺を図って(未遂)、その懐中から斬奸状(ざんかんじょう)が出てきた。「今般夷賊に同心し、天主教を海内に蔓延せしめんとす。邪教蔓延いたし候節は、皇国は外夷の有と相成り候こと顕然なり」とあった。小楠がキリスト教を日本に広めようとしているので天誅を加えたというのだ。
 たどたどしい柳田の供述より、刺客の全貌がしだいにあきらかになってきた。直接に手をくだした数名のほかに、関係者が30人をこえている。暗殺団のメンバーには、中瑞雲斎なる者が「親兵団」を結成しようとして小楠や神田孝平に相談をかけたおり、二人がこれを反対したことを逆恨みした連中が入っていた。が、それだけではなかった。そこには公卿の黒幕がいるらしい。
 1カ月後、刺客たちに減刑を申し入れた者が出た。公卿で、刑法官知事の要職に就いていた大原重徳である。司直のトップにいる者だ。その大原が岩倉具視に刺客の減刑を申し入れた。これはみずから黒幕の首領であることを名乗ったようなものだった。調べてみると、大原に私淑する若江薫子も減刑嘆願書を提出していた。
 この大原重徳は、幼少期に光格天皇の侍童となって以来の複雑きわまりない人物で、日米修好通商条約に反対したほか、水戸の徳川斉昭についたり、薩摩の島津久永についたり、寺田屋事件に関与しながら、一貫して尊王の立場から暗躍をしつづけている。ぼくもその経歴信条を含めて、いまだに正体がつかめないでいる男なのである。いずれは推理の翼を広げたい。

 さあ、これで新政府はてんやわんやに陥った。司法のトップが刺客を放ったばかりか、司法当局がはやくも腐敗していることがあかるみに出た。
 さすがに司直の次官にあたる刑部大輔の佐々木高行は、この減刑の本音を見抜き、小楠がキリスト教を広めようなどとしていないこと、刺客は当然裁かれるべきであることを強調したのだが、どうも事態は収まらない。
 大原派は大原派で、古賀十郎という者を熊本に派遣して、小楠の罪状の証拠になる品を探させた。むろんそんなものがあるはずがないのだが、ここに奇妙な文書があかるみに出ることになった。『天道覚明論』という偽文書である。
 古賀は熊本で何も証拠を探せなかったので、ふと阿蘇に出向いたのだが、そこで阿蘇神社の大宮司の阿蘇惟治から奇妙な話を聞いたという。先日、神社の拝殿に『天道覚明論』という文書が投げこまれていたというのだ。650字ほどの文書で、「帝王代はらず、汚隆なきの国と思ひ、暴悪愚昧の君と云へども、堯舜湯武の禅譲放伐を行ふ能はざれば、其の亡滅をとる必せり」などとある。奥書に「丁卯三月南窓下偶書 小楠」としたためてある。
ようするに小楠が天皇を批判している文書と読める。これを小楠の弟子の“東皐野人”という者が筆写したらしく、それを“長谷信義”という者が投げこんだという。
 いったいどこまでが事実かさっぱりわからない話だが、古賀はここでこの文書を小楠の罪跡を示す証拠品だとみなすことにして、これらの話を組み立てたとおぼしい。“東皐野人”や“長谷信義”も架空っぽい。ぼくには真相はさっぱりわからないが、本書の著者の松浦玲は、これらはすべてでっちあげだろうとみなしている。
 しかし新政府のなかでは『天道覚明論』は一人歩きした。司直はこの証拠品を正当化するため、阿蘇惟治を呼び出して証拠を固めようとした。が、阿蘇は応ぜず、この文書が小楠のものと断定する判断材料は何もないという手紙をよこすばかりだった。
 この怪事件の顛末は、結局は刺客たちの死刑と重罪におわる。大原重徳は難を逃れたままになった。なんとも後味の悪い事件だが、ここに横井小楠の不遇の万感が象徴されているともいえなくはない。

 以上が、横井小楠の波瀾万丈だ。本書や類書の詳細な記述にくらべてあまりにもはしょったが、そこは勘弁してもらいたい。では、いったい小楠は何をのこしたのか。そのことに最後にふれておく。
 維新の改革シナリオの大半を描いたことは、すでに述べた通りだ。日本の議会政治の母型を提供したのは小楠だった。が、それだけではなかった。衣鉢を継ぐ者が次々にあらわれた。
 ひとつには、熊本の地域改革に乗り出した者たちの大半が小楠の門下生たちだった。実学党のコアメンバーたち、徳富一敬、竹崎律次郎、小楠の甥の横井大平、小楠の長男の横井時雄、金森通倫、矢島直方、川瀬典次、長野濬平、嘉悦氏房たちである。かれらがいなければ熊本県政は革新できなかった。そこには今日につながる二院制の提言もあった。
 ごく少々、その活躍ぶりを案内すれば、横井大平や横井時雄は明治4年に熊本洋学校の設立に動いた。有名な話だろうが、アメリカからL・L・ジェーンズを招いて、花岡山を拠点に「熊本バンド」を結成、そこから海老名弾正(日本のキリスト教運動の指導者・同志社大学総長)、徳富蘇峰、横井時敬(のちの東京農大学長)らが育った。ジェーンズ解雇ののちは、この花岡山バンドがこぞって同志社に移った。同志社大学をつくったのは新島襄と京都の有志と熊本実学党なのだ。横井時雄は明治13年には「共立学舎」もおこし、その長男の蘇峰が「大江義塾」を開設したことは、付言するまでもないだろう。885夜の『維新への胎動』を参照してほしい。
 かれらは熊本の殖産興業にも貢献した。竹崎律次郎は乳牛を飼ってバターを生産し、矢島直方と川瀬典次は製茶法を改良して熊本に茶の伝統を植え付けた。横井一敬と長野濬平と嘉悦氏房は養蚕と製糸と絹織物に立ち向かって、熊本製糸会社や熊本織物協会や緑川製糸工場を立ち上げた。

 小楠の開明思想は女性にも受け継がれている。竹崎順子は竹崎律次郎に嫁いで熊本女学会を創設したのち、熊本女学校(のちの大江高等女学校)を独立させた。徳富蘆花が『竹崎順子』に描いた。
 その妹の久子は徳富一敬の妻となり、妹のつせ子は横井小楠の妻その人である。末の楫子(かじこ)は明治女性史に傑出した有名な矢島楫子のことで、明治19年に東京婦人矯風会を創設して、近代婦人運動の先駆者となった。
 小楠の長女のみや子もいる。海老名弾正と結婚して、東京の本郷教会の伝道に尽くした。小楠の甥の横井左平太の妻になった玉子は、左平太が22歳で病死したため東京に赴き、小笠原流の礼法を学んだあと、浅井忠らに師事して油彩や水彩を学び、明治33年に女子美術学校を設立した。今日の女子美である。

 ざっと見ても、これだけの人物が小楠の衣鉢を継いだ。ここでは省くことにするが、小楠の遺志は福井にも蘇っている。ぼくは、小楠がこのように多様な成果に変成(へんじょう)していったことこそ、小楠らしいことだと思う。これこそ小楠らしいプレゼンテーションだったのだ。
 小楠の政治思想はまとめれば「共和」というものである。共和制の共和ではなく、「共に和する」という共和政治だ。この思想がいったいその後の日本の政治のなかでどのように生きてきたかは、その後の昭和史における政治家たちの軍部への屈服から、先日の参議院選挙前後の現状までを見るかぎりは、なんとも心もとないものになっている。
 では、なぜ、小楠の政治思想のほうは正確に伝わっていないのだろうか。本書の著者は、小楠の理念は「儒学的正義」にありすぎたのではないかと結んでいる。「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」。このすべてが小楠の政治なのである。これでは昭和史にも平成政治にも小楠は復活しにくい。
 しかし、小楠が陽明学や水戸学のような急進思想には走らなかったぶん、むしろ今日の日本政治には小楠をひとつの基点にした政治思想が蘇りやすいのではないかとも思える。ま、しかしながら政治家には一番遠い者でありたいぼくには、こんなことをえらそうに言える筋合いはないだろう。ぼくは小楠よりずっと臆病で、しかも甚だ危険な思想の持ち主なのだから。

横井小楠の肖像

附記‥書いてみて、松浦本よりも、むしろ熊本生まれの徳永洋さんの本の手順に従ったようなものになった。あしからず。文中にあげておいた参考図書の版元とその他の参考図書を書いておく。「日本思想大系」第55巻(岩波書店)、「日本の名著」第30巻(中央公論社)、山崎正薫『横井小楠遺稿』(日新書院)、山崎正薫『横井小楠伝記』(明治書院)、圭室諦成『横井小楠』(吉川弘文館・人物叢書)、三上一夫『横井小楠の新政治社会像・幕末維新変革の軌跡』(思文閣出版)、三上一夫『横井小楠・その思想と行動』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー62)、山崎益吉『横井小楠の社会経済思想』(多賀出版)、源了圓ほか『横井小楠のすべて』(新人物往来社)、徳永洋『横井小楠・維新の青写真を描いた男』(新潮新書)、童門冬児『小説横井小楠』(祥伝社)等々。