才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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万物理論

ジョン・バロー

みすず書房 1999

John D. Barrow
Theories of Everything 1990
[訳]林一

ゆらぎ、対称性の破れ、ランダムネス。
宇宙の原像はどういうものなのか。
究極の科学理論を求めて
バローが試みる華麗な最終検証。
これで万物理論が
立ち上がるとはかぎらないが、
この検証は欠かせない。
今夜はぼくの
フィジカル・イメージの一端もご披露したい。
すべてを説明することは、出現と消滅を説明することである。
――ソクラテス

 万物理論なんてつまらないネーミングだ。好きじゃない。英語でも“Theories of Everything”というのだから、これで邦訳はまちがっていないのだが、この言い草には科学者たちの万物を牛耳りたいという気負いや矜持がちらつく。
 もっともこれを「森羅万象仮説」とか「統合理論」と言いなおしたところで、科学の矜持のちらつきは収まらない。最近では「Tシャツに書ける宇宙原理」といったノリノリの言い草も出まわっていて、過剰な自信を軽快に言ってのけようとする連中も出てきた。ダン・フォークの『万物理論への道』(青土社)などがそのひとつで、こちらのほうは原題を“Universe on a T-shirt”という。あまりに安っぽくて、おいおいホントかよという気分になる。
 科学は必ずしも謙虚である必要はないけれど(いくら冒険的であってもいいが)、あまり高慢にならないほうがいい。また、安請け合いをしないほうがいい。ぼくは宇宙の最新原理を「宇宙ロゼッタストーン」にしたいとは思わないし、「E=mc²」の数式をプリントしたTシャツを着たいとは思わない。そんなふうに単純化されることを待たないと、宇宙諸般の事情にかかわれないとも思っていない。
 それにしても万物理論の試みというと、アインシュタインの重力場理論を観測証明して有名を馳せたアーサー・エディントン卿を嚆矢にして、スティーヴン・ホーキングといい、ロジャー・ペンローズといい、本書のジョン・バローといい、なぜか妙齢のイギリス紳士が多いのはどうしてかと思う。きっとアイザック・ニュートン卿の意伝子がこの国には継承されているのだろう。

時間、空間、位置、運動については、
すべての人によく知られていることとして、これを定義しない。
――アイザック・ニュートン

 科学の目標は自然の多様性の意味を理解することにある。それは観測だけにもとづいているとはかぎらない。観測は自然世界の情報を収集して、そこからどんな現象が次におこるかを予測するのに役立つが、科学的真相がどこにあるかといえば、たいていは観測と予測の2つの手続きのあいだにひそんでいる。
 2つの手続きのあいだには、さまざまなパターンとフォーミュラの認識がある。このパターンやフォーミュラがないかぎり、観測情報は何かに(多くは数式に)変換もできないし、短縮もできない。それを最も劇的なかたちでやってのけたのがニュートンの運動3法則だった。2つの手続きのあいだに「規則」を発見したのである。
 その後の科学の多くは、この成功例を後追いした。そうだとすれば、科学とはひとまずは「短縮された表現形式をもつアルゴリズムの圧縮」なのである。科学は「宇宙という全世界がアルゴリズム的に圧縮可能だ」という極端な信念に支えられてきた。万物理論もこの延長線上の最先端にのっかっている。
 ところが、ここに最初にして最大の問題が立ちはだかっていた。それは、われわれ人間の脳や心も、かつて自然界が出会った最も効率のよい情報のアルゴリズム的圧縮装置であろうということだ。このことは、はたして科学が描く世界像は自然にあわせて圧縮できた成果なのか、脳にあわせて圧縮できた成果なのか、その判断を困らせる。けれども、科学はこの悩みをさておくことにした。
 現在、検討されている万物理論のための仮説のすべては、世界の姿は「いったい自然に似せたのか、それとも脳に似せたのか」という問題を排除することによって成り立っている。ジョン・バローもそこに立つ。やむをえない排除であり、立脚点ではあるが、いつまでこの排除をしつづけられるかといえば、そんなに展望は甘くない。

 もうひとつ、これもやむをえないとも言えるのだが、万物理論があらかじめ避けている問題がある。というよりも科学全体がこのことを避けてきた。東洋的発想による世界観の検証だ。
 ごくおおざっぱにいえば、西洋的な世界観では自然は線形的なものとみなされてきた。与えられた場所と時間で起きたことは、その近傍でその直前に起きたことのみによって継起的に決定されると考えられてきた。ここにはユダヤ゠キリスト教の立法者の見方の圧倒的な支配がある。これについては、ぼくの『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)にも、ごくわかりやすい視点で書いておいた。
 一方、東洋においては世界の見方はおそらくもともとが非線形的であって、すこぶる非局所的なのである。古代すでにこのような発想をもった東洋では、したがって「世界を分析したいとは思わない」という方針をとった。たとえば荘子の思想はそういうものだった。どんな部分も全体との関係で記述しなければならないという見方には、こだわらなかった。全体として調和や照応がとれていればよかった。
 しかしながら、これでは西洋的な意味での科学は発達できない。実際にも東洋ではそういう科学は発達しなかった(ジョゼフ・ニーダムの大著中の大著『中国の科学と文明』でもそのように見ている)。けれども、だからといって東洋的世界観が今日の科学観に寄与できないとか、関与できないとかと考える必要はない。むしろ複雑系の科学以降、科学理論の一部はきわめて東洋的にもなっている。
 が、それはそれとして、ジョン・バローはこうした東洋的発想を排除して、万物理論の検証をせざるをえないと判断したのだ。ぼくは本書を読んでいて、バローがかなり東洋的なホリスティック・サイエンスに敬意を払いたそうになっていることを重々感じたけれど、バローがそれを堪えて、あえて「西洋知の究極のお化け」ともいうべき万物理論に立ち向かったことを、今夜のところは評価しておきたい。

 バローはケンブリッジ大学の理論物理学と数理物理学のリーダーである。天文学や応用数学を通過した。どんな科学者かというと、既存の著書、たとえば『宇宙はいかに創られたか』(岩波現代選書)、『科学にわからないことがある理由』(青土社)、『単純な法則に支配される宇宙が複雑な姿を見せるわけ』(青土社)といったイミシンな書名にも窺えるように、痒いところに手が届くようなとも、理屈っぽいことを隠して理屈を言うのがうまいとも、つまりは勇猛果敢にどんな理論の敷衍にもとりくむ姿勢をもっているともいえる科学弁舌家である。
 でもこのタイプは、ぼくが大好きな科学者なのである。常識の牙城に逃げこまないところが好きなのだ。ちなみに本書のあとに同様の趣旨の『宇宙に法則はあるのか』(青土社)を書いて、本書『万物理論』の不備も補っていたけれど、ぼくが見るところ本書のほうが出来がいい。

神が引き裂いたものによって、人を結び付けてはならない
――ヴォルフガング・パウリ

 現在の科学理論では、基本的な物理法則はすべてなんらかの不変量に対応している。それは、1つの対称群を形成する変化の集まりと等価になっていて、対称群は最初のパターンが根底にひそむテーマを変えずに作り出すことのできるあらゆるヴァージョンを記述する。たとえば、エネルギーの保存は、時間の中で前向きになったり後ろ向きになったりする平行移動に関する運動法則の不変量と、等価になっている。
 このことは、自然界(宇宙)には、世界がいきなりなくなるなんてことはないという“持続原理”のようなものがあることを暗示する。それならそういう“持続原理”があるのなら、それがどのようにできているのかということをぜひとも突きとめたいのだが、そこでちょっとした邪魔が入ることになる。
 邪魔のひとつは宇宙の起源をめぐるもので、宇宙開闢には保存則(いわば“持続の原理”のおおもと)なんてものはまだはたらいていないはずだから、そうだとしたら「自発的に生じた宇宙」はどうやって保存則をもつようになったのかという問題が出てくるのである。
 もうひとつは、科学はいまのところ「宇宙は有限だ」という前提に乗っかってあれこれのことを組み立ててきたのだが、そのあれこれがほんとうに等価かどうかを確かめる手立てをもっていないということだ。光の速度が有限であるため、全宇宙の限られた部分しか認識することができないからである。
 その後、エネルギー保存則が発見されて、世界がいきなりなくなることを阻止する“持続原理”は、もともと自然の中にくみこまれていると考えるしかなくなってきた。しかし、これで事情がうんと楽になったかというと、決してそういうことはない。宇宙の真相と自然法則との関係がかえってあいまいになって、いくつもの見方が併存することになっただろうし、もっとひるがえっていえば、宇宙と自然法則の関係はかつての神と宇宙の真相との関係の踏襲にすぎないのかもしれないというふうにも考えられるようになってしまうのだ(神といっているのは全知全能性をさしている)。

科学は微分方程式であり、宗教は境界条件である。
――アラン・チューリング

 最近の万物理論が登場する以前の世界観がどのようになっていたかを、整理してみたい。全知全能の神をGとし、空間と時間の全物質世界をUとし、そのはたらきを規定している自然法則をLとする。そうすると、この3者の関係それぞれには、次の条件がくみあわさっていることになる。

  (1)UはLの部分集合だ
  (2)LがUの部分集合なのだろう
  (3)LはUと同じものである
  (4)Lなんてものはない
  (5)いや、Uなんてものこそない

  (イ)UはGの部分集合だ
  (ロ)GこそがUの部分集合だろう
  (ハ)そもそもGとUが同じものなのだ
  (ニ)Gなんてものはない
  (ホ)Uこそ存在していない

  (a)LはGの部分集合である
  (b)GがLの部分集合だったのではないか
  (c)もともとGとLは同一だった
  (d)LはGにもUにも言及していない
  (e)Gは幻想にすぎない

 この5つずつのかたまりは、このままでは世界を解読する三角形の3辺にあって、それぞれを互いに制限しあっている。そこで、これらを綾とりよろしく相互に組み上げていくと、主として5つのオプション(選択できる考え方)が見えてくる。すぐあとで説明するが、どのオプションにも限界がある。
 オプション1は、「自然法則は物理的宇宙を超越している」というものだ。現在われわれが見ている宇宙は、すべての世界のなかの特定のひとつにすぎず、したがって自然法則もその特定のものの説明をしているにすぎない。
 オプション2は、「自然法則は宇宙の空間もしくは時間に依存している」というものだ(ということは、別の空間や時間では異なる法則があるということになる)。このオプションでは、宇宙が膨張し、安定し、年老い、冷却するにつれ、いまわれわれが想定している自然法則との食い違いがしだいに稀になり、150億年後の低エネルギー世界では、予想通りのことしかおこらない。
 オプション3は、「宇宙の姿と自然法則はほぼ一致している」というもので、学校で科学を教える一般的な科学者たちが一様に信じている考え方である。が、これはアウグスティヌス以来のキリスト教的な世界観が科学にすっかり移行したものであって、科学がそうであるという根拠をなんらもってはいない。とくにこのオプションをとると、過去の特異点をもつ宇宙はそれ以前には「無」だったということになる。いいかえれば、物質的宇宙と空間・時間の構造と自然法則が一緒に発生したことになる。
 オプション4は、「自然法則は存在していないかもしれない」というもので、そもそも世界を生成している「全体としての宇宙」という想定は成立しないかもしれないという見方を含む。したがってここでは、オプション3がもつ「無」を想定するという矛盾を回避する論理がある。最近の量子宇宙論がちょっとその可能性を示しているのだが、それもそのはず、論理的に「始まり以前」という状態を考慮するオプションになっているからだ。
 しかし、ここには決定的な暗合があることを否定できない。つまり、何だって至高の存在のせいにする(始まりも、始まり以前も、矛盾も)という、いわゆるアンセルムス流の神論となんら変わりがなくなってしまうのだ。
 オプション5は、以上とはまったくちがっていて、「すべての宇宙も法則もわれわれの心身(脳)がつくりだしたものにすぎない」というものだ。唯脳論である。しかし、このオプションはこれまでの科学からも最新の万物理論からも排除されている。

 こうしたオプションはいずれもドグマになっている。いま世の中に流布している思想の大半は(科学思想も人文思想も社会思想も)、これらのドグマのいずれかに所属する。これらのオプションはすでに世の中に埋めこまれたドグマなのだ。スピノザにおいてもカントにおいても、田辺元においてもラプラスにおいても、そしてマッハにおいても廣松渉においても、フーコーや養老孟司においても。
 好意的にいうのなら、万物理論はこのドグマをひとつずつ潰すために始まった。とくにこれらのドグマには、どこかに無時間の宇宙のほうがわれわれが観察している物質現象の世界よりも先行性をもっているという、プラトン以来の共通した偏見がある。万物理論はそこに疑問をぶつけるところから始まらなければならない。
 しかし、あらかじめ言っておけば、そのような疑問をぶつける万物理論に、いまあげたオプション(ドグマ)が入りこんでいるかどうかをチェックする機能は、まだ出揃ってはいない。べつだん急ぐ必要はないけれど、万物理論が統一科学をめざすというなら、そこをこそ突破していかなければならない(もっとも最後に言うつもりだが、急ぐというよりどこかで方向転換したほうがいいことがある)。

数学に無知はない。
われわれは知らなければならないし、知っていくだろう。
――ダヴィッド・ヒルベルト

 自然に「始まり」があったことは否めない。宇宙の開闢に始まりがあるだけでなく、水流にも落下にも飛行にも、バレーボールにも冷蔵庫にも思い出にも、たいてい「始まり」がある。そこで数学ではこれを「初期条件」(イニシャル・コンディション)として設定し、そこから解明(多くは演繹的推論)に向かっていくようになっている。
 数学の初期条件は公理にもとづいている。いっさいの演繹的推論を始める前に、公理を設定した。史上最初の公理はユークリッド幾何学の公理だった。史上初のアサンプション(決めこみ)だ。
 公理はひとつではない。公理系をつくる。公理系は無矛盾でなければならず、それが数学のすべての無矛盾の前提を支える。そこまではいい。ところが、ここには意外な真相もひそんでいた。公理系にもとづいて推論できるどんな数学的結論にも、公理系に含まれている以上の情報を含むことはできないということだ。これが1058夜に千夜千冊した「ゲーデルの不完全性定理」が告げたことだった。そうだとすると、万物理論は初期条件についての考え方をちょっと改めなければならない。「始まり」の情報とその後の推移による情報に変化がある現象に注目しなければならない。
 その可能性をもっているのは、ほかならぬ「熱力学第2法則」だ。エントロピーの増大を示す矢は、閉じた物理系の中ではエントロピーを減少させるような初期条件がおこりにくいことを示している。宇宙のどこを見ても、閉じた物理系は秩序のある状態から無秩序の状態(熱平衡)に向かって淡々とすすんでいる。おまけにそこには時間の対称性がある。あたかもエントロピーの矢は時間の矢と裏口で結託しているかのようなのだ。
 ここから推測できることは、熱力学的な初期条件には時間の方向を生む何かが含まれているということである。この見方は悪くない。悪くないけれど、とうてい実証できそうもない。が、そこをどうするかが万物理論のお手並みになる。

物理学者は初期状態に対応する軌道の束を
少しだけ知っているにすぎない。
――レオン・ブリュアン

 熱力学第2法則とともに、初期条件について改まった考え方がどうしても必要な現象がある。「カオス」である。すでに数学者のアンリ・ポアンカレは3体問題などを素材にして、「初期条件の小さなちがいが最終の現象にきわめて大きなちがいを生じることがありうる」と予言していた。
 いまでは、このような現象がカオスを含めた「複雑系」の全般でおこっているだろうことがあきらかになっている。気象学者エドワード・ローレンツが“発見”したいわゆるバタフライ効果はカオスを有名にしただけでなく、複雑系の科学の最も説得力のある便利すぎるメタファーになった。
 さて、そうなると、宇宙の「始まり」にあたってどのような初期条件があったかを決定することが、たいそう難しくなってくる。少なくとも次の3つのことを考えなければならない。

  (い)宇宙の「始まり」には初期条件なんてなかった。
  (ろ)宇宙の初期条件の影響は最小限のものだ。
  (は)宇宙の初期条件はかなり特殊な形式だったにちがいない。

 (い)は、フレッド・ホイルやハーマン・ボンディやトマス・ゴールドらが唱えた「定常宇宙論」になっていく。宇宙には異様な膨張も縮退もないという考え方だ。
 (ろ)は、いまではアラン・グースや佐藤勝彦によって提唱された「インフレーション理論」として知られる。グースは、宇宙の初期で膨張速度が短期間で大幅に増大していると考えれば、最小限の初期条件を認めるだけで現在の宇宙を説明することができると提唱したのだった。これはホーキングが批判した。
 (は)の原理は、アインシュタインの時空論と重力場方程式が導いたものである。時空の構造と物質のあいだに密接な結びつきがあるために(それが一般相対性理論になる)、宇宙の物質現象のどこかにひそむ特異点はいつどこにも発見できるはずだということになった。これはいわば多種多様の初期条件がありうることを示した。
 万物理論はどの肩をもてばいいのだろうか。実は万物理論はその名の重圧に負けて、このいずれの肩にも手をかけようとした。八方美人になろうと決めたのだ。

正確な数学的計算をしたからといって、
その結果が自然の事実にあてはまる保証はまったくない。
――アルフレッド・ホワイトヘッド

インフレーション宇宙のイメージ図

 宇宙の始まりをめぐる思索を、宇宙開闢の出来事ではなく、もっぱら極微の物質の運動の発現の問題に切り替えたのが量子力学である。
 むろん八方美人になりたい万物理論は量子力学を真っ先にとりこんだ。万物理論が扱う量子力学的な初期条件問題への有力な“ぶつかり稽古”として、本書でバローが持ち出したのはホイーラー゠ドゥウィット方程式というものである。
 これはジョン・ホイーラーとブライス・ドゥウィットがシュレーディンガー方程式を独自に編集したもので、宇宙波動関数とでもいうものを、極微の物質のふるまいから確率的に記述できるとした。どんなことを記述したかといえば、ある時点での物質現象の状態が、別の時点での状態でどの程度の“過去”を含むかを確率化した。
 それで何がわかるかといえば、宇宙がある大局的な特性をもつことが見いだされる確率がわかる。そのため、その確率が特定の値の周辺に強く集中していることが期待された。もしもたいそう優勢な値が出てくれば、そこから最もありそうな宇宙像の見当がつくからだ。
 しかし仮にそうだとしても、ホイーラー゠ドゥウィット方程式がそのような活躍を見せるには、宇宙波動関数の最初の形を示す初期条件がやっぱり必要である。けれどもそれが定まらない。これが非量子的な物理学なら、自然法則は特定の過去から確定した未来がおこりうると予測するのだから、こんな確率的な計算をする必要はない。しかしながら量子物理学では、未来の状態は時空の一角を通る可能なシステムがとりうるすべての経路について、適当に加重平均した像しかつかめない。
 ということは、万物理論はホイーラー゠ドゥウィット方程式に代表されるような「法則と初期条件の二元論」をまだ断ち切れてはいないわけなのだ。そうなると、この二元論を断ち切るために宇宙の最初に時間と空間が区別のつかない状態を想定するしかなくなってくる。ジェームズ・ハートルとスティーヴン・ホーキングのきわめて審美的な「無境界条件の設定」とはこのことだった。
 けれども「無境界」と言ったとたん、これでは「無からの創造」を科学者が許容したことにもなるだろう。宇宙は何もないところから突き抜けて出てきたという量子力学的トンネルをまたぞろ持ち出すしかなくなってくる。それがいやなら、どこかで「時間が空間になった」と説明するしかないということになる。
 現状の宇宙科学の一派の理論はこのあたりでぷっつんした。いいかえれば、この考え方では、法則と力と粒子の3つはそれぞれ切断することができない“そっくりさん関係”にあるという前提のままに思考を前進させていかなければならないということなのである。それが、今日の宇宙科学は法則と力と粒子がコピーキャット状態にあるというゲージ理論をうけいれたという意味である。

反復は自然が達成できる恒久性の唯一の形態である。
――ジョージ・サンタヤナ

セイゴオ・マーキング
「ホイーラー=ドゥウィット方程式」

 アインシュタインの統一場理論の試みこのかた、四つの力(電磁力・重力・強い相互作用・弱い相互作用)の統一をあらわせる理論や数学の可能性が求められてきた。第1001夜に少々ジグザグはしたもののやや詳しく書いておいたように、このうち電磁力と重力との組み合わせや、強い相互作用との組み合わせは半ばできあがってきた。ひとえにゲージ理論のおかげだった。
 これに勢いをえて、それなら重力はグラヴィトン(重力子)の交換で媒介され、電磁気力は光子の交換によってあらわせるだろうから、弱い力は重いW粒子やZ粒子の交換によって記述でき、強い力はクォーク間のグルーオンの交換によって示されるというふうになってきた。
 これはこれで万々歳だ。たしかにいまのところ、物理学の基本理論のなかで最も成功したものは、重力をめぐる一般相対性理論と、クォークとグルーオンのあいだにはたらく核内の強い力をめぐる量子色力学と、電磁気と弱い相互作用をめぐるワインバーグ゠サラム理論くらいであって、それらはすべてゲージ理論の特徴をもっていた。
 しかし問題もある。そもそもすべての対称性にはそれに属した保存量がくっついている。回転や移動より複雑な時空の様相のなかでも、きっとこのことは成立しているはずである。それを「内部対称性」などということもある。たとえば、宇宙のすべての陽子と中性子の正体をすっかり入れ替えるといったようなことをしても、関連するすべての粒子にラベリングされた対称性は保存されているはずなのだ。
 これに対して、ゲージ対称性はこうした自然界の保存量とは関係なく成立するものになっている。いや、そういう要請のもとに成立した。そのためぼくはいつも感じるのだが、この理論にはどこかニュートンの遠隔作用論めいた雰囲気がある。いっさいのニュートン力学を砕いたはずの量子重力宇宙理論につかわれる対称性が、全体としては遠隔作用めいてしまっているのだ。
 そこで科学者たちは対称性について、大局的ゲージ対称性と局所的ゲージ対称性の区別をしようという気になった。そしてアインシュタインの一般相対性理論をこの局所的ゲージ理論でみごとに解釈しなおした。ところが、ここで仮説は立ち止まってしまったのである。こうしてこの一派の考え方にも翳りが見えてきた。

すべての法則を一つの法則に還元することは不可能であり、
世界から独自なものを排除するアプリオリな手段はない。
――ジョサイア・ロイス

セイゴオ・マーキング
「ゲージ理論」

 対称性をめぐるプラトン的な信念やゲージ理論の区分けによる隘路の突破がややあやしくなってきたころ、2つの有力な仮説が急速に台頭してきた。ひとつは「スーパーストリング」(超ひも・超弦)をモデルとした仮説、もうひとつは「対称性の破れ」をめぐる新たな仮説だった。
 スーパーストリング・モデル理論の特徴は「点」を放棄したことにある。宇宙における最も基本的な要素は「ひも」か「弦」かに、あるいはその「ループ」にあるとした。従来の「点」の物理学では、個々の粒子には質量のような特性を別々に指定して、それをさらに別々の点に割り当てなければならなかった。
 スーパーストリング理論では、単一の「ひも」はヴァイオリンの弦の倍音のような無数の振動モードをもつ。そして異なるそれぞれのモードのエネルギーが異なる素粒子の質量に対応する。この考え方は、万物理論の品質保証にかなり有効な賞味期限をあたえるものと期待された。
 ひるがえっていうと、これまでの「世界の表現の方法の歴史」というものは、最初はユークリッドが提供した幾何学によって、その伝統的な空間におかれた「点」粒子のあいだにはたらく「力」に対し、粒子がどのように反応するかということを指令する一連の規則群として立ち上がったものだった。それがながらく君臨していたのだが、アインシュタインの登場以降、粒子の存在と運動のほうがその空間の局所的な趨勢を決定しているというふうになった。わかりやすくいえば、隣り合った粒子のあいだに加勢する“第3の力”の作用などはありえないことを宣言した。
 こうして個々の物体物質は、宇宙のすべての粒子がつくりだしたうねうねした空間のなかで、その物体物質が利用できる一番経済的な経路を動くにすぎないとみなされた。太陽は地球の近辺に大きな空間の「くぼみ」をつくりだし、地球はこの「くぼみ」の内側の表面を動きまわっているにすぎないとみなされたのだ。この経路は、かつてのユークリッド的物理学では「軌道」とよばれていたものである。

 スーパーストリング理論は、このようなアインシュタインの重力理論を充分に含んで、宇宙の初期の描像をさらに一歩先まで進めることになった。ラモン、ヌボォーらが準備して、ロンドン大学のマイケル・グリーンとカリフォルニア工科大学のジョン・シュワルツが発展させた。
 かくて空間は3次元よりずっと多くなり、5次元、11次元、ときには22次元や25次元であらわしてもいいようになった。3次元以外の次元は見えないほど小さくたたまれているという描像だ。それならば、宇宙の開始時ではそれぞれの次元が対等であってもよく、そのうちの3次元がなんらかの理由でその後にやたらに膨張したというふうに見ればいい。こうなると万物理論としては、このスーパーストリング理論を包摂した何かを擁護したくなってくる。たとえばこれまで自然定数と考えられてきたものの一部に、「ひもの張力」を加えるというようなことだ。
 こういう修正が正しいかどうかは、まだわからない。しかしそれはそれとして、この仮説はどんどん一人歩きして、いまのところはエドワード・ウィッテンによる11次元宇宙の提案と「Dブレーン理論」や「M理論」の提案にまでなっている。第1001夜にアウトラインを書いたことである。もっとも、この提案は「宇宙という全世界がアルゴリズム的に圧縮可能だという極端な信念」を満足させはするものの、それが「世界の表現の方法の歴史」の最先端のものになったかどうかという保証は、何ももってはいないと言うべきである。

両極端のあいだで、人は道をたどっている。
――ウィリアム・バトラー・イエーツ

 もうひとつの「対称性の破れ」をめぐる仮説も、いくつかの理論モデルを提出していった。法則の結果が法則の対称性を破るような現象にあてはめられ、それが拡張されて宇宙全体の問題にまで適用されるようになったのだ。
 一般に、拡大する空間の次元の数が任意に決まるという可能性をたててしまうと、宇宙を観測するわれわれ人間が組み立てる理論のほうに制約が切れてきて、野放図な宇宙像が出てきかねない。とくに対称性の保存に関してゆるゆるになる。そこで導入されたのが「対称性の破れ」という考え方だった。
 何が対称性の破れをつくっているのかは、まだわかっていない。しかし、何をもって対称性の破れとみなせばいいのかについては見当がついてきた。科学者たちの推測は、対称性の破れは始まりの宇宙におけるなんらかの「微視的なゆらぎ」によっておこっているだろうというものだ。「ゆらぎ」の起源は量子力学的なものであるだろうから、その特定の原因は確認できないが、それゆえにこそその「起源のゆらぎ」はランダムなのだろうと予想された。ランダムかもしれないのではなく、本質的なランダムネスをもっていると想定されたのだ。
 こうして「対称性の破れ」が初期宇宙のあらゆる場面に適用された。自発的ランダムネスの発現が宇宙の歴史の最初のヒーローになったのだ。これは、インフレーション宇宙が巨大な相転移であるかのように一挙におこった理由を説明するには、もってこいだった。ゲージ理論との相性も悪くはない。
 けれども一方、万物理論というのはひたすら「全体としての無矛盾」をセルフ・チェックポイントにして“説明の翼”にできるかぎりの精度を加えようとしてきたところがあるので、宇宙が実は科学者が思っている以上に老獪で意地悪いかもしれないということには、ついつい気がつかないままになる。
 たとえば、粒子と反粒子とでは崩壊速度にごくわずかなちがいがあるのだが、そういうことも宇宙のある場面、とくに初期の場面では、非対称性の芽生えになりうるわけであるが、それをさて陽子と反陽子の不均衡と見るのか、密度と温度の局所的なちがいとみるのかとなってくると、きっと宇宙はそこまで意地悪くはないだろうと思ってしまって、油断をしてしまうのだ。
 したがってスーパーストリング理論をもってしても、問題はあいかわらずランダムネスにあるのか、対称性の破れにあるのか、ゆらぎにあるのか、決定打を放てないままにあるといったほうがいいだろう。

科学は究極の謎を解くことはできるまい。
当のわれわれが、
これから解こうとしている謎の一部をなしているからだ。
――マックス・プランク

「カオス的」インフレーション宇宙のイメージ図

 宇宙が想像以上に秩序だって見えるのか、それとも案外だらしなく見えるのかということは、いまのところ決着がついていない。ここまで話してきたことは、このもやもや事情を告げている。
 そもそも宇宙は、物質を他の配置に再組織化したとき、それがもつであろう最大の値にくらべるとずっと小さなエントロピー・レベルになっていることが多い。これは宇宙がハッブル膨張を始めるときすでに仰天するほど小さなエントロピー・レベルだったことを暗示するのだが、はたしてそういう結論だけでよかったのかどうかは、おおいに検討する余地があるということなのだ。
 つまり、このことから特異点原理や泡宇宙やインフレーション宇宙像を引き出すだけでは、何かが足りなかったはずなのである。
 ジョン・バローの議論もここからが本番で(そのわりにはこの議論は最後にさしかかるところでしか登場してこないけれど)、万物理論がかかえている大きな問題に、そもそも科学者が「誤差をなくそうとして思索している」のか、科学者はそれでも残余する誤差を「誤差をつくる物質」の責任にしているのか、その区別がつかなくなっているということがあったと指摘する。
 まさにそうなのだ。万物理論はすべての試みを仮想実体にしすぎてきたところがあったのだ。ダークマターをはじめ、宇宙でかくれんぼをしつづけている現象が多いことはわかっている。けれどもそれは、そのような現象を操作している実体が「ある」ということにはならないとも言わなくてはならない。いや、「ある」としても、それを計算にいれたアルゴリズムにする必要があるとは思わないほうがいいかもしれない。なぜなら、われわれのほうがそのような思考(思考した試みをなんでも仮想実体にしてしまうクセ)しかできないようになっているかもしれないからである。
 この、われわれの思考のクセのほうを、最近ではしばしば「弱い人間原理」ということがある。バローはそれを著作によっては「選択効果」とか「科学のバイアス」とか、フランシス・ベーコンを借りて「イドラ」(偶像)と言ったりしている。よくよく考えてみなければならないことである。

私の指を噛まないで、指がさしているところを見てみなさい。
――ウォーレン・マカロック

 きわめて大事なことだろうから言っておくが、われわれは、われわれ自身がヒトとして存在するために、見える宇宙の過去の構造と情報がきっといくつかの必要条件を満たしてきたのであろうという思考方法をとってきた。
 たとえば、地球が熱力学的に非平衡のところにあったとか、それは非線形の微分方程式でしかあらわせないものであるとか、そこでは動的秩序がたえず「カオスの縁」の付近で相転移をおこしながら創発していたのであろうとか、情報高分子に生体膜がくっついて生命になったのだろうとか、ナトリウムイオンとカリウムイオンのチャネルに生命活動が発現しただろうとか、とかとか。
 そこまではいい。そう考えるのもやむをえないことだった。しかしこのことは、あくまでわれわれのような炭素基盤の観測者が見てきた過去と現在に関する情報データにもとづいたものによって組み立てた見解なのであって、そうではない宇宙の中の別途の目で語っている内容とは異なっているはずだということを、すっかり忘れてはいけなかったのである。つまり、われわれは自分自身が宇宙の部分集合にすぎないところから発足した観測者なのである。
 たとえば、われわれは星の内部に住んではいない。火山の中に生きたことはない。海中の熱射にも耐えられない。かつて海中火山の近くに嫌気性の生物がいたとはいえ、その状態を捨てきった系列の部分集合から派生したのがヒトなのである。
 こういう見方をすることを「弱い人間原理」と名付けるのには、ぼくにはかなり抵抗がある。「弱い」も「人間原理」もその言葉にしたわりには意味が浅すぎる。もっともそれは主としてネーミングに対する抵抗だけで、このような見方がきわめて大事であることに変わりはない。なぜなら、このような見方は科学が宇宙を理解するための「原理の方法」なのではなくて、人間が宇宙を理解するための「方法の原理」であるからだ。

 もともと科学というものは実験をくりかえすことによって獲得した実証性と再現性を足場にその精度を増してきた。それで確立できた法則はいくらでもある。けれども宇宙に関しては、どんな科学者も一度も実験したことがないのだし、その実験を宇宙という過去に向けてくりかえすこともできない。
 人間の脳について知るためにラットやサルに電極をさしこむ実験をくりかえすのは、あまり精度がいいとはいえないけれど、まあしかたがないことだろう。遺伝子を組み換えてドリー羊を何世代もつくるのも、あまり薦められたことではないけれども、それで見えてくることもあるだろう。けれども、宇宙についての実験は決して手に入れられない。宇宙は大半が過去なのだ。
 いや、松岡さん、そうはおっしゃってもその一部は大型加速器の中でおこなわれているはずではないですかと言う諸君がいるかもしれないが、その大型加速器の中に人間は入れるわけじゃない。入れもしない。しかしわれわれはすでに宇宙の中に入っていて、あれこれえらそうなことを言っているわけなのだ。
 そうだとしたら、ちょっと考え方を変えるべきなのである。そして、その変更は、とくに初期宇宙の敏感さが対称性の破れやカオスやランダムネスやゆらぎにかかわってくるというならよけいに、それだけ決定的なものになっていくかもしれないことを、重々肝に銘ずるべきなのだ。
 いいかえれば万物理論が量子重力効果に近づけば近づくほど、「弱い人間原理」が作動しはじめると思ったほうがいいはずなのだ。すなわち、宇宙がそのしくみに量子的な起源や進化の初期のゆらぎをもっているとするなら、つまりそこに対称性の破れやランダムな要素が含まれているというなら、この場面の議論にはわれわれ自身の存在を考慮にいれた思考や推理が必要になるはずなのだ。

悪夢を見ているのでなかったら、
クルミの殻のなかにいても
自分が無限の宇宙の王様だと思っていればいいじゃないか。
――ウィリアム・シェイクスピア

 今夜の冒頭にのべておいたように、科学による世界理解の可能性は、世界がアルゴリズム的に圧縮可能だという前提から発展してきたものだった。そこには、観測した事実の系列を数学などによる別の言明の系列におきなおせるという大前提がある。その短縮されたアルゴリズムを、われわれはたまさか「自然法則」とよんできた。
 このように効果的なアルゴリズム短縮が達成できると思いこんだのは、実は脳のしくみがそのようなアルゴリズム短縮をけっこう好んでいたからである。ぼくは半分はそう推理する。
 しかしいまや、世界の現象だからといってアルゴリズム短縮できないこともあることがわかってしまったのである。そのひとつがカオスであった。また非対称性の起源にまつわる出来事だった。このようなものを前にして、たとえば「無境界条件」のようなものを持ち出してみることは、脳はアルゴリズム短縮ができないことをわざわざ脳に要請したようなもので、実は万物理論の青写真からすると、とんでもなく自家撞着をおこしていることにあたっていた。
 それでも、そういう仮説に到達せざるをえないことも許容されるじゃないかと、思ってはいけない。そう思うのは、宇宙と脳を相同的に見すぎているおバカな脳科学者か、VR大好きな電子官能派の見解にすぎず、それよりずっと粋な考え方だってあったはずなのである。それは脳を解くことからもAIコンピュータをいじることからも生まれない。脳やコンピュータにはこれまでの科学の大半の法則が入りすぎている。そうではなくて、宇宙も脳も、その当初に対称性の破れのような「記述できない構造をもったのではないか」と、そのようにみなせばよかったのである。もうすこしわかりやすくいえば、宇宙と脳は最初から非対称性と手を組んだのだ。そのように手を組んだものを、われわれは宇宙だとか脳だとか呼んだのだ。そう思えばよかったのである。
 入手不可能な情報を脳がアルゴリズム短縮しているとみなしては、まずかったのである。脳がするべきことは、編集でなければならなかったのである。アルゴリズムはその一部なのである。それなら全部は何でできているかといえば、アナロジーでできている。これから万物理論が仕込むべきは、宇宙的アナロジー関数なのである。

附記¶本書の系列に入る本はかなり多いけれど、熟読して足る本というとそんなに多くない。もっともこの手の理解は読者がどのていど科学理論や宇宙に親しんできたかによるから、いちがいには推薦書を決めるワケにはいかない。上記にも紹介したジョン・バローの本とそれに近い本だけをしるしておく。バロー『宇宙に法則はあるのか』『科学にわからないことがある理由』『単純な法則に支配される宇宙が複雑な姿を見せるわけ』(青土社)、バー&シルク『宇宙はいかにして創られたか』(岩波書店)、ダン・フォーク『万物理論への道』(青土社)、リー・スモーリン『宇宙は自ら進化した』(NHK出版)など。最後にあげた議論には、たとえばプリゴジン『存在から発展へ』(みすず書房)あたりから入るのがいいだろう。