才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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デザインの世紀

原弘

平凡社 2005

文字と写真を意識すること。
そこから昭和デザインが
音をたてて進水していった。
いま、その昭和デザインこそ
騒然と蘇るべきだろう。

筆吉 今夜は、われわれ筆吉組が正体不明の紙蔵さんに、日本のグラフィックデザインの原点のようなものをたっぷり話してもらいます。
紙蔵 ぼくが? 原点を? それは無理だね。ぼくの任じゃない。そのかわりに、そういう原点にかかわった人の本をとりあげるということにしようよ。
筆吉 それでもいいですが、その前に、いったい紙蔵さんは、そもそもデザインをどう見てきた人なんですか。
紙蔵 そうだねえ、あえてふりかえってみると、おそらくはデザインをデザインとして見てきたというんじゃないね。ヴィジュアリティのひとつの動向として見てきた。でも、それはけっこう小さなころからの関心だったね。
筆吉 たとえば?
紙蔵 ぼくの仕事は、いわば言葉全般を主たるフィールドにしているんだけれど、その一方で、ごく若い時分から「もののかたち」やそれを伝達する「しかた」や「しくみ」に興味があったんだね。これは言葉にならないものに興味があったというんではなくて、そういうものも「もうひとつの意味」に見えていた。
筆吉 それってデザインの発見ですよね。
紙蔵 まだまだそこまでのことじゃない。デザインといっても、グラフィックデザインとか建築というはっきりしたものじゃなくて、風呂敷からホッチキスまで、本の装幀から自転車まで、みんな入るんですね。「世の中の表象いろいろ」とか「意匠どきどき」ということ。ともかく日ごろ見るもので“めざましい気分”になれるものなら、何であれ好きだった。だからよくスケッチをしましたね。
筆吉 スケッチするんですか。
紙蔵 世の中にスクラップ派とスケッチ派がいるとするとね、ぼくはあきらかにスケッチ派です。スケッチをしないばあいはノート派。そのほうが自分が好きになったものの輪郭や表情がよく見える。自分の手を通すということ。記録写真はあまり撮らなかった。
筆吉 ノートはともかく、スケッチするということは、絵が好きだったんですか。
紙蔵 そうでもない。あらためて思い出してみると、小学校では図画と理科的な観察と電気っぽい細工が好きで、中学校の図画工作の時間で夢中になってたのは何かというと、版画と粘土細工だね。必ずしも絵を描きたいというんじゃなかった。
筆吉 じゃあ、なぜスケッチが多かったんですか。
紙蔵 ははは、「略図的祖型」が好きだったんだね。略図のおもしろみ。いや、そんなことは当時はまったくわかっていなかった。おそらく鉛筆とか万年筆とか、筆記用具を動かすのが好きだったんでしょうね。
筆吉 たしか紙蔵さんって、万年筆とか文房具のコレクションする人じゃなかったですよね。
紙蔵 うん、しない。だいたいコレクションは鉱物標本を除いて、骨董であれネクタイピンであれ珍本であれ、ほとんどしません。それに筆記用具はとくに「まにあわせ」のほうがいい。
筆吉 弘法は筆を選ばず。
紙蔵 そうやっていつも立派に解釈してくれるのはありがたいけれど、そういうわけでもなくて、むしろ「まにあわせ」のほうが工夫する気になるってことです。何とかしようという気になる。つまり「手持ち」優先派なんだね。世の中、結局は「手持ち」と「他持ち」だからね。イサム・ノグチだって、茅ヶ崎の家で大工さんの持っていた道具にめざめたのが大きかったでしょう。
筆吉 まあ、そうですね。
紙蔵 それで思い出すのは、小学校4年から毎日、日記をつけていたんだけれど、中学校からはその日の気分や出来事によって1本の万年筆を立てて書いたり、寝かして書いたり、斜めにして書いたりしていたんです。ときにかすれたり。
筆吉 毎日、文字の書き方を変えていた? それって、まさにタイポグラフィとかカリグラフィじゃないですか。
紙蔵 そんなだいそれたことじゃありません。ただおもしろくて仕方がなかっただけ。ちなみにその万年筆というのが、学研の「中学一年コース」の俳句投稿欄で一席だか金賞だかに入ったときに貰った賞品の特製万年筆でね、そのこともあって、この万年筆をいろいろ使ってみたかったんだね。まあ、あえて言うなら、万年筆が生み出す文字がその日によってトーンが異なっていくというのは、いまで言うなら「ツールがコンテンツをつくっていく」とか「方法と内実は切り離せない」とかいうことだろうね。そういうことにけっこう夢中になっていた。
筆吉 では紙蔵さんにとっては、文字は絵のようなものだったんですか。
紙蔵 いや、それもちょっと当たらないな。書きっぷりが変われば内容も変わるんだということが、手の先でわかったということでしょう。だいたい母の字が好きで、それをまねるために母の鉛筆の削り方を何度も何度もまねしたほうだからね。
筆吉 そういう紙蔵さんにとって文字とはどういうものですか。
紙蔵 文字って、どんな時代のどんな民族の文字でも、誰彼かの手が生み出したタイプというものですよ。むろん活字もコールドタイプもね。けれどもその「タイプフェイスとしての文字」は、最初は必ず手が生み出した。誰彼かのね。しかもそうやって生まれた文字は、それを並べたとたんに「意味」を派生する。ワードやフレーズになったとたんに、意味をもつ。漢字なら一字でも意味を発揮する。そこが文字の凄いところです。
筆吉 そういう文字を並べるってことは、まだデザインじゃないですよね。
紙蔵 いわゆるデザインではないけれど、すでにデザインに向かったイニシャル・コンディションの発動ですね。
筆吉 何が発動されるんですか。
紙蔵 イニシャル・コンディション。文字が並ぶというのは、それがたとえ白紙の上に自由に書く文字であっても、書道用語でいうなら「間架結構」というものが生まれます。つまり、ちょっとした「字配り」だよね。これはデザインの最初の発動でしょう。また大学ノートに書く文字だって、たいてい罫がある。その罫はレイアウトです。何かの文字群が一本の線の上にあるのかその横にあるのか、タテなのかヨコなのか、その線にくっついてあるのか、また、写真の中の白ヌキ文字になっているのか、文字に鮮烈な色がついているのか、大きいのか小さいのかによって、いろいろ表情が変わってくる。これは文字はその並びの内側から、文字のワードやフレーズがもつ意味だけではない何かを発動しているということですよ。
筆吉 何が発動しているんでしょう?
紙蔵 だからイニシャル・コンディション。ぼくは、それを文字そのものがもつ「意味」に対して、文字の並びや大きさや位置や色があらわす「意向」とか「意表」とかと名付けるといいと思っている。
筆吉 文字そのものが意味をもち、その並びのデザインから意向や意表が出るということですか。
紙蔵 まあ、そういうことです。
筆吉 それはまだデザインではないんですね。
紙蔵 本格的なデザインは、そうした意向や意表が「意匠」になったことをさすんでしょうね。
筆吉 はあはあ、なるほど。「意味→意図→意表→意匠」という順ですか。
紙蔵 順をつければそういうことになるけれど、でも、意匠はあれこれしたあげくに、フィニッシュしたあとの結果です。いわばデザインの作品性。文字というものをもっといきいき感じるには、その直前の意向や意表を大事にしたほうがいいでしょうね。
筆吉 なるほど。そういうことですか。
紙蔵 きれいにまとめればね。

筆吉 それではいよいよ今夜の本題ですが、そういう文字を「意味→意図→意表→意匠」の順にいきいき感じられるデザインをした日本のグラフィックデザイナーというと、だれですか。
紙蔵 そりゃ、いっぱいいますね。
筆吉 たとえば?
紙蔵 中山太陽堂のプラトン社でロゴをつくっていた山六郎を筆頭に、その山に学んで資生堂時代を築いた山名文夫、ニュータイポグラフィを研究しきった原弘、それから早川良雄・山城隆一・花森安治・佐野繁次郎に始まって田中一光・杉浦康平・和田誠・戸田ツトムにいたるまで、いっぱいいます。いまは仲條正義さんや浅葉克己さんがかなりいいね。
筆吉 はい。ほかには?
紙蔵 横尾忠則、勝井三雄、平野甲賀、羽良多平吉、鈴木一誌、祖父江慎、みんなすばらしいよ。
筆吉 戸田ツトム、祖父江慎は工作舎のスタッフでもあったわけですよね。
紙蔵 そうでしたね。
筆吉 そういう名だたるデザイナーのなかでも、文字を意識したという意味で特筆すべきデザイナーはだれですか。
紙蔵 やっぱり杉浦康平でしょう。
筆吉 杉浦さんですか。そうなんでしょうね。ダントツですか。では、もっと前の人でいうと?
紙蔵 杉浦さんの直前なら山城隆一だし、もっともっと原点の時代に近かったというのなら図案家時代の杉浦非水や山六郎かな。恩地孝四郎なんて人もいた。
筆吉 原点そのものは?
紙蔵 しつこいね。初期の黎明期を築き、その後もリーダーとして君臨したというなら、なんといっても原弘でしょうね。
筆吉 やっと決まった。原弘ですね。名前は知ってますが、どんなデザイナーだったんですか。
紙蔵 えっ、知らないの? それこそ日本のグラフィックデザインの原点に静かに仁王立ちしつづけた“生けるモノリス”です。
筆吉 モノリス?
紙蔵 モノリスだというのは、原さんの生んだデザインに関する考え方のプロポーションこそが、昭和デザインの解剖台あるいはミシンだったということだね。
筆吉 それでは、今夜は原弘に決定! どんな本がいいですか。
紙蔵 それが、原さん自身が書いた本というのはないんだよ。
筆吉 じゃあ、作品集?
紙蔵 うん、作品集でもいいんだけれど、これが亡くなってからしか刊行されなかった。でも、原弘という人は自分の考え方をけっこう小まめに書いているんで、そういうものが載っている本がいい。
筆吉 けれども、著書がない?
紙蔵 『デザインの世紀』というのがいいかな。ただ、この本は原弘の著書というかたちをとっているんだけれど、本来の著書ではなく、石原義久を編集委員長とする多くのスタッフ、宮山峻・多川精一・永井一正・山崎登さんたちの作業によって“再生”されたものなんです。もっともそれだけに、原さんが生きた歴史的背景から原の作品例まで、めったに読めない数々の文章から当時の参考写真まで載っていて、貴重なドキュメンテーションになった。そこがお勧めです。もっともそのわりにはレイアウトは、およそ原弘の洗練を反映していないお粗末なものになっている。
筆吉 そりゃいけませんね。
紙蔵 いけないね。ブックデザインは原弘を意識してますけれどね。ま、このさいレイアウトには目をつぶるとして、まずは原弘がどんな仕事をしてきたかということを話しておこうね。
筆吉 そこをよろしく。
紙蔵 その前に、ぜひ読んでおいてほしい、見ておいてほしい2冊の本をあげておきたい。ひとつは原弘『グラフィック・デザインの源流』というもので、1985年に平凡社から刊行された集大成です。原さんが亡くなったあとに出た決定版作品集だね。田中一光さんを中心に多くの関係者が協力してつくりあげたもので、江島任さんが組み立てたエディトリアル・デザインもいい。これは必見。もうひとつは、川畑直道の『原弘と「僕達の新活版術」』というトランスアートから刊行された2002年の本です。これは原のタイポグラフィをめぐる仕事に焦点をあてて、時代背景を含めて克明に追っていて、未見の資料もなかなか充実している。ぼくもこれを読まなかったら、原の詳しい変遷はわからなかったという一冊です。今夜は、ときおりこれらの本の助けも借ります。

筆吉 どこから案内してもらえますか。
紙蔵 まず最初に、みんなに何の予備知識もないとして、花王石鹼のパッケージデザインを見てほしい。
筆吉 ああ、これは見覚えがありますね。いまでも使ってるんじゃないですか。
紙蔵 これが原弘ですよ。1930年(昭和5)に花王石鹼を売っていた長瀬商会が指名コンペをしたもので、提出数が8名28点にのぼったのに、なかで原のデザインだけが翌年に採用されたという曰くつきのものです。オレンジの地に石鹼の白を暗示するような自在なタイプフェイスが躍ってますね。このパッケージをもって花王石鹼は一世を風靡する。原弘という人は1903年(明治36)の生まれだから、これは27歳のときの乾坤一擲だった。
筆吉 昭和初期にしては斬新ですね。
紙蔵 あのね、大正中期・昭和初期はもともと斬新なんですよ。いまだにこのパッケージを超える石鹼は出ていない。でも、これ以前にも原弘の斬新は発芽していたんです。たとえば《薔薇を愛する少女に与ふるhとtを主題とせるモノグラム》(1925)。これは22歳のときの習作で、水彩による構成なんだけれど、のちの原の仕事ぶりを予感させるタイポグラフィック・デザインの実験性がシンボライズされている。
筆吉 hとかtって何ですか。
紙蔵 hは原自身のことを、tはそのころのガールフレンドをさすようだね。タイポグラフィだけで構成されている。それなのに物語を感じさせるよね。文字を棲わせる空間もある。
筆吉 ブーツのシルエットをタイプフェイスのように置いたなんて、憎いなあ。
紙蔵 では、もうひとつ。あまりに有名なので見た人が多いだろうけれど、1959年の「第1回日本タイポグラフィ展」のポスターです。漢字の部品だけをたった4つだけ大胆に取り出して、絶妙に組み合わせた。そこに約物のような花弁がひとつだけあしらってある。これ以上、何も付け加える必要がないというデザインだよね。
筆吉 これは有名だから知ってましたが、あらためて見るとやっぱり完成されてますね。
紙蔵 まさに「意向」や「意表」がある。ともかく花王のものといい水彩モノグラムといい日本タイポグラフィ展といい、原弘はこのように「文字」を意識したデザインを出発点にしていたわけです。このへんが、ひとまずの原点だね。

図3 『第1回日本タイポグラフィ展』 ポスター

筆吉 原弘は、なぜ文字を意識したんでしょう?
紙蔵 原は長野県の飯田に生まれたんだけれど、家業がもたらしたものが大きかったんです。
筆吉 家業ですか。
紙蔵 生家が「発光堂」という印刷屋だった。父親は根っからの活字職人なんだけれど、信州独特の芸術家肌もあわせもっていたんですね。その兄貴、つまり原の伯父さんもまた信濃写真会などを設立していて、この2人で『伊那之華』という和装本を自費刊行していたような一族だった。
筆吉 栴檀は双葉より芳し。
紙蔵 そういう家業の事情が原を育てた。で、15歳で上京すると、さっそく築地の東京府立工芸学校に入った。いまの都立工芸高校です。ぼくも高校時代には新聞部を通して交流があった。で、原少年がここで何をするかというと、やっぱり印刷に打ち込んだ。平版を専攻し、製版印刷のすべてを学びます。さいわいにも、この印刷科目の科長の宮下孝雄という人が図案家で、このとき原にタイポグラフィやレタリングの重要性を教えた。宮下はそういうことを「文字法」と名付けていたらしい。
筆吉 ええっと、どういう時代でしたっけ。
紙蔵 15歳のときが1918年で、第一次世界大戦が終わったころで、日本でいえば大正7年だね。ちょうど鈴木三重吉の「赤い鳥」などによる童話童謡運動がおこっている。まあ、竹久夢二や野口雨情や北原白秋の時代だよ。それとともに大杉栄や若き北一輝の時代だった。
筆吉 高校を出て、どこに進むんですか。
紙蔵 学校へ行ったのはそれだけ。大学などには行っていないね。だいたいそのころはデザインを教える大学なんて皆無だよ。いや、そのあと4半世紀、ずっとない。それでそのあとは工芸学校の助手になり、自力でデザインにとりくんだ。実はその後もずっと工芸学校の教鞭をとるんです。
筆吉 先生をしつづけたんですか。
紙蔵 そうともいえるし、研究しつづけ、作品もつくり、後進を育てつづけたともいえる。そのあいだ現場を捨てなかったということでしょうね。他方、つねにいろいろな実験者や表現者と交流していきますね。それも死ぬまで欠かしていない。
筆吉 いつごろデザイナーになることを自覚したんですか。だって印刷に没入していたんでしょう?
紙蔵 デザイン開眼のトリガーとなったのは、第一次世界大戦に寄せた「世界大戦ポスター展覧会」を朝日新聞社の会場で見たことだったようだね。かなり衝撃をうけている。そこへ関東大震災がやってきて東京が焼け野原になった。1923年、20歳のときです。
筆吉 うーん、そういう時代か。
紙蔵 大震災のときは、原ならずとも関東在住者の全員が呆然としただろうね。だって何もない東京、瓦礫のなかに残る垂直と水平の建物だけの光景だからね。阪神大震災も凄かったけれど、それ以上の焼け野原です。原はそういう光景を目に焼き付けながら、翌年にぽっかり開館した小山内薫の築地小劇場に通うんですね。
筆吉 えっ、芝居狂いになった?
紙蔵 いや、これが芝居を見るためじゃないんだな。舞台装置や舞台美術のほうに魅了されて、第1回公演の『海戦』から5年間、毎回欠かさず通って目を凝らしたそうです。表現主義的で、かつどこか日本的な舞台が原の魂を突き動かしたんだね。とくに村山知義の大胆な仕掛けに驚いた。
筆吉 村山知義って、あの「マヴォ」の?
紙蔵 そうだね。のちに『忍びの者』を書いた村山。こうしてこのあと、原はさっき紹介した《薔薇を愛する少女に与ふるhとtを主題とせるモノグラム》などの、一連の習作に取り組むことになるわけだ。
筆吉 なんとなく見えてきました。表現主義の舞台の実験性がトリガーになって、デザインに向かうんですね。そこに子供時代からの文字意識が加わっていった。
紙蔵 そういうことだろうね。加えて、青年時代からかなり表現意欲が旺盛だったね。23歳のときには『ひろ・はら石版図案集』『原弘石版図案集NrⅡ』というものを自費刊行してる。来たるべき4年後の1930年代に向けて、《吾等は否定する》という強烈なメッセージを独特のタイプフェイスに意表してぶつけた習作作品です。
筆吉 うーん、いいなあ。
紙蔵 いまはこういうものを誰もつくれないよね。とくに23歳じゃね。

筆吉 かくて原弘は、いよいよデザイナーとして認められていったわけですね。
紙蔵 いや、原弘がデザイナーとして最初の頭角をあらわすのはやっぱり花王のパッケージ・コンペのときです。それまでは習作時代。このコンペで原は並み居るプロを押さえて、みごと金的を射止めた。それがプロ・デビュー。
筆吉 意気揚々。
紙蔵 まだそんな感じじゃなかったみたい。このときの原がどんなデザイナーの卵であったと見られていたかということを物語る、ちょっとしたエピソードがあるんです。花王石鹼のパッケージ・コンペは、当時としてはかなり画期的なプロジェクトです。これを敢行したのは長瀬商会にいた広告部長の太田英茂という男で、のちのちも日本の広告デザイン界で活躍する。牧師出身で社会主義思想にも理解を示し、大宅壮一や林房雄と出版編集もしていたという、日本広告史上でも破格の広告部長ですね。太田はのちに「共同広告事務所」を開いて、そこに若い亀倉雄策が入ってくるんだけれど、その亀倉に、太田が「河野(鷹思)クンは玄人だが、原クンというのはまだ素人だ。学者なんだね」ということを言ったというんだね。「頭で図案を描く」とも評したらしい。
筆吉 アタマでっかちですか。
紙蔵 この太田の評は半分、おもしろい。半分は原の将来が読めていなかったという意味で、もう半分は原の独特の理性に気がついていたという意味でね。で、注目すべきはその原の理性のほうで、その「頭で図案を描く」という理性こそ、原の“生けるモノリス”を、すなわちデザイン理性を屹立させる土台となったんですね。
筆吉 ふうん、理性デザインか。
紙蔵 というのは、原は当時のヨーロッパやロシアに発露していたタイポグラフィックなデザインとその理論にやたらに傾倒していった。その紹介者の一翼を担ったというくらいにね。当時のタイポグラフィックデザインはその出来もむろん目を見張るようなものだったけれど、そこには徹底した理論があったんです。
筆吉 どういうものですか。
紙蔵 エル・リシツキー、ヤン・チヒョルト、アレクサンドル・ロドチェンコ、ヘルベルト・バイヤーといった連中のデザインと、そのタイポグラフィ理論。これが原の頭に音をたてて鳴った。もうちょっと大きな括りでいえば、表現主義、構成主義、バウハウス、そして「ノイエ・ティポグラフィ」の動向ということです。ノイエ・ティポグラフィというのはニュータイポグラフィといった意味だね。まあ、いくつかの例を見てもらうのが早い。
筆吉 原弘は海外の動向にあかるかったんですか。
紙蔵 最初の導入者というんではなくて、そういうことをしたのは山脇巌や蔵田周忠や水谷武彦・川喜田煉七郎・山脇道子あたりだったんだけれど、原弘はその次のセカンドランナーでしょう。けれど、原弘も猛然と外国書を漁った。駿河台下の「カイゼル」という輸入書の本屋にさかんに通っていたらしい。ドイツ書専門店ですね。とくにチヒョルトの『印刷造形教本』という本が、原のデザイン理性に火をつけた。サンセリフ体を重視したり、スモールレター(小文字)や約物(◆・■・▼・矢印など)の効用を強調したんですね。そこで原は工芸高校で『新活版術研究』というものをまとめて、すぐに刊行した。モホリ=ナギやチヒョルトの論文を訳出するんです。
筆吉 サンセリフ体というのは?
紙蔵 肉太のタイプフェイスの文字だね。日本でいえばゴシックにあたる。だからニュータイポグラフィの成果を日本に導入するなら、当然、サンセリフにあたるゴシックを使うべきだということになるんだけれど、原弘はここで踏んばったんだね。ゴシックを使わなかった。
筆吉 どうしてですか。
紙蔵 そこが原弘の深いまなざしなんだけれど、当時の日本にゴシック体にいいものがなかったんです。どう見ても明朝系のほうが出来がいい。原は工芸学校という印刷現場みたいなところにいたわけだから、そのへんはよく見切っていた。
筆吉 日本の文字と欧米のアルファベットでは、かなりちがうものがありますよね。
紙蔵 そこが意外なほどの重大問題ですね。日本では明治維新のあと、日本語の表記があまりに難しいので、森有礼のように英語を国語にしようとしたり、田中舘愛橘のようにローマ字運動を広めたり、山本有三のようにカタカナを中心にしたカナモジ運動をおこしたりということが、くりかえしおこっているんだね。石川啄木だってローマ字で日記を書いたでしょう。では、日本語のままで行くにはどうするか。それを欧米に匹敵するタイポグラフィやレイアウトにするには、どうするか。悩ましい問題です。原弘は「書体の問題より以前に、国字の問題が巨大な壁をなして、われわれの前に立ちはだかっている」と書いてますね。
  加えて、日本文字はタテにするかヨコにするかでも変わる。たとえば「一期一会」という4文字をヨコでデザインするときと、タテにするときでは配慮が大きく異なってくる。ヨコでデザインするには「一」の上が2つもスウスウするし、タテで「一期一会」とするには「一」という漢数字と次の漢字のアキが難しい。こういうことについては島崎藤村なんかも、「前後の関係を考えて国文を綴るという骨折がある」と言ってますね。原はデザイナーとして、早くからそういうことに気がついたんです。
筆吉 タテ組・ヨコ組って難しいんですね。
紙蔵 みんなが想像するより難しい。たとえば一九六三年に雑誌「太陽」が創刊されたときは斬新なヨコ組でスタートしたんだけれど、あまりに評判が悪くてタテ組に変えたし、1970年に「週刊ダイヤモンド」がいろいろ横文字時代になったという判断で一念発起してヨコ組に踏み切ったのだけれど、これもすぐに挫折している。ファッション誌なんてさぞヨコ組が似合うだろうと思うでしょうが、これをやった雑誌はことごとく失敗している。そういうことってあるんです。

図6 サンセリフフォントの例

筆吉 原弘の理性デザインとその日本化は成功したんでしょうか。
紙蔵 今日のグラフィックデザインはほとんど原の理性デザインの上に乗っかっているんだから、むろん成功したでしょう。
筆吉 ずっと文字を重視したわけですね。
紙蔵 それとともに写真も重視した。文字と写真の組み合わせ、アソシエーションの先頭を切ったのも原弘ですね。これを当時は「ティポフォト」とか「タイポフォト」と言っている。
筆吉 どんなものですか。
紙蔵 チヒョルトとフランツ・ローが組んだ『フォト・アウゲ』(写真眼)とかモホリ=ナギなんかがさかんにとりくんだ写真デザイン作品の影響とか、ドイツ工作連盟が1929年にシュトゥットガルトで開いた「フィルム・ウント・フォト」展の流れなんだけれど、この動向に当時の若き写真家の木村伊兵衛とか名取洋之助なんかも反応するんです。そこに必ず原弘も加わっていた。
筆吉 マン・レイなんかのフォトモンタージュのようなものですか。
紙蔵 そっちではなくて、むしろ報道写真やドキュメンタリズムの新しさから来てますね。オリエンタル写真工業が創刊した「フォトタイムス」という当時の雑誌があるんだけれど、そのタイトルにあらわれているように、社会や時事や人間の事実をどうしたらヴィジュアルに伝えられるかということと関連していた。それが「ティポフォト」。
筆吉 はあ、なるほど。どんな感じのものでしょう?
紙蔵 堀野正雄の写真を板垣鷹穂が構成したり、原弘が野島康三の写真を構成した「女の顔」という1933年に紀伊國屋ギャラリーで発表したものがありますが、そのころはこういうフォト・ドキュメントとタイポグラフィとが完全に一体になっていこうとしたんだね。日本のグラフィックデザイン史においても写真史においても重要な出来事です。建築家なんかもたいへんに関心を寄せた。
筆吉 建築家もですか。
紙蔵 そう、堀口捨己とかね。山口蚊象が中心になった建築家集団なんかは“文字の幾何学性”と建築との結びつきを提唱したりして、「創宇社」というユニークなコロニーなどもつくってますね。おもしろいよ。
筆吉 あまり知られていないことですよね。
紙蔵 結局、表音文字によるデザインと表意文字によるデザインの婚姻をどう果たすかということが、これまでも、またこれからも、日本人のクリエイティヴィティの問題でしょうね。そのへんのことが見えてこないと、原弘の果たした役割も、たとえばブルーノ・タウトが桂離宮に感心した意味もわからない。
筆吉 ん、やばい。
紙蔵 それでぼくが注目したいのは、「PAC」という集団ができたときの原弘のパンフレットデザインなんですね。PACというのは1932年に工芸高校印刷科のOB有志がつくった東京印刷美術家集団のことで、1936年に日本初のグラフィックデザイナーの全国組織で「全日本商業美術連盟」(会長・杉浦非水)というのができるときのコアメンバーにもなるんだけど、そのパンフレットデザインがとても建築的なんです。
筆吉 その後の原弘はどうなりますか。
紙蔵 まだまだ先は長いけど、日本が戦争に突入していったことが大きいね。そのなかで名取洋之助がつくった「日本工房」が浮上して、そこにかかわっていく。
筆吉 名取洋之助ってフォトジャーナリストですよね。「ライフ」の最初の特約カメラマンで、「岩波写真文庫」をつくったのも名取洋之助ですよね。
紙蔵 名取はドイツのウルシュタイン社というグラフ雑誌の発行元にいたんだね。そこへユダヤ人排斥がおきて、その煽りをくらって3カ月ほど満州事変後の熱河作戦の取材をおえて日本に帰ってきた。で、活動のステーションとしてつくったのが日本工房だった。1933年にできたから、ほぼPACと同じだね。
筆吉 日本工房なんてずいぶんジャパンなネーミングですね。
紙蔵 海外で活動した者って、かなり日本にめざめるんですよ。名取もそうで、お父さんの名取和作が三田財閥の重鎮だったからお金はあった。それで当時頭角をあらわしていた木村伊兵衛に注目して、野島康三や伊奈信男らを集めたところ、みんなが原弘がいいと言う。そこで原を加えて日本工房をつくった。
筆吉 ずばりのネーミングですよね。
紙蔵 名取は「ジャパン」や「大日本」じゃなくて、NIPPONという呼称にこだわりたかったんだね。それでそこにドイツ語のWerkstatt(ヴェルクシュタット)の訳語を「工房」というふうにして、くっつけた。顧問に林達夫・大宅壮一・高田保が入ってます。名取は技術と技術が結びつくことが仕事だという考えの持ち主で、徹底して異種配合を試みた。前にあげた花王(長瀬商会)の太田英茂が、「木村伊兵衛と原弘を組み合わせたことが日本のデザインや写真を変えた」と言ってるね。原は原で、名取は太田につぐアートディレクターだったと述懐している。
筆吉 日本工房はどういうことをしたんですか。
紙蔵 ひとつは「組写真」によって写真と編集とデザインを合体させた。もうひとつは、多彩なクリエイティブ人材の交差点になったということかな。太田英茂がヘッドをした第二次日本工房という時期があって、そこには河野鷹思や山名文夫も加わったし、そこから派生した中央工房には(ここに原は中心を移すんだけど)、板垣鷹穂・山田耕筰・谷川徹三・小津安二郎・衣笠貞之助・堀口捨己などまで加わっている。すべて1930年代のことだね。ここで初めて「レイアウト」とか「レイアウトマン」という言葉も使われはじめた。この顔触れでわかるように、当時はデザイナーと知識人は一緒に動いていたんです。
筆吉 しかし戦禍が燎原の火のごとくアジアと太平洋に広まっていきました。いきおい、デザイナーたちも戦争協力をしていったわけですよね。
紙蔵 そうだね。日本は全面戦争に入っていった。このとき日本の最前線の写真家とデザイナーが思い切った仕事をした。まず第二次日本工房が「NIPPON」という対外広報誌をつくり、ついで鉄道省国際観光局が「トラベル・イン・ジャパン」をつくるというふうに、ね。そして、有名な「FRONT」になる。すべて英語などの横文字のメディア。デザイナーも写真家もおおいに腕をふるった。そうしたなかで原は「トラベル・イン・ジャパン」の表紙を担当するんだけれど、きわめて斬新です。今日の「和」のデザインの原点かもしれない。このあたりで原は、従来から懸案だったサンセリフ体の日本化を、ロゴタイプや写真キャプションで実現していくんです。ゴシック体の活用です。

図10 国際観光局の対外宣伝誌 『TRAVEL IN JAPAN』

筆吉 「NIPPON」も「FRONT」も戦争協力メディアだということで、ずいぶん長いあいだ非難されてきましたね。
紙蔵 原さんも戦後は、決してそのことを話さなかったようだね。しかし、どのようにしてそういうメディアが生まれたかを、いまこそ正確に知っておくべきです。
筆吉 どういうふうにできたんですか。
紙蔵 ぼくは1936年に「ライフ」が創刊されたことを、大きな背景として見るべきだとおもいますね。つづいて「ルック」が創刊され、世界はグラフジャーナリズムの時代を迎えた。いわゆるピクチャー・マガジンだね。ここに多くの写真家とデザイナーが登用されていった。そのなかで第二次世界大戦が広がった。そういう順番です。だからソ連も有名な「USSR」(建設中のソ連邦)というグラフ・ジャーナル誌をつくった。リシツキーなどが中心になった大胆なレイアウトのものです。「NIPPON」や「FRONT」はそれに呼応している。そういう時代だった。
筆吉 「FRONT」は東方社というところが発行しましたよね。あれは何ですか。右翼っぽい感じですよね。
紙蔵 いや、むしろ当時は赤っぽいとも言われた。何がどのように見えるかなんて、ちゃんと見ないとわからないものです。そもそも東方社というのは、1941年に岡田桑三が陸軍参謀本部の意向をうけて設立したもので、理事長が岡田、理事に林達夫、民族学の岡正雄、漢学の岩村忍たちが就いて、そして制作部門のリーダーとして写真部長に木村伊兵衛が、美術部長に原弘が入ったんですね。最初は対ソ戦を想定して「東亜建設」というメディアにするつもりだったようだね。
筆吉 それが「FRONT」になった?
紙蔵 そのころの原のアシスタントをした多川精一さんが最近書いた『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー)によると、1942年に真珠湾攻撃の成果をうけて海軍を全面にとりあげる創刊号をつくる段階で、「FRONT」に改題したらしい。原がアートディレクターで、多川精一がアシスタントをした。写真部には木村の下に濱谷浩や菊池俊吉らが入って、エアーブラシの名人といわれた小川寅次が大活躍してますね。最初はグラビア二色刷だね。
筆吉 ページの中身は戦争万歳主義ですよね。
紙蔵 そうだね。それを年来のノイエ・ティポグラフィと新来のグラフジャーナリズムでどういうふうにするかが、制作陣の腕だったんだろうね。ここに亀倉雄策とかもかかわっていくわけです。そのほか当時はね、内閣情報部の「写真週報」とか、日本写真工芸社の対米宣伝メディアを意図した「VAN」、財団法人日本写真協会の「2600」なんてのもあった。紀元2600年を記念した広報誌。「2600」は原がレイアウトしていますね。
筆吉 戦争協力をしていることは気にならなかったんですか。
紙蔵 何もしないならともかく、創作意欲のある連中が何をするかということは、その表現の技法から見ていかなくちゃわからないんじゃないかな。たとえば軍用飛行機を製造する連中は、戦争協力かどうかではなくて、その技術が完遂できるかどうかでしょう。しかも当時の日本人にとっては東京裁判のようなものが待っているとは誰も思えなかったわけだ。
筆吉 わかりました。では、技法的にはどのへんがポイントですか。
紙蔵 そうだなあ、まとめていえばトリミングとレタリングということでしょう。あとは自分で考えなさい。

筆吉 では、いよいよ戦後ですが、原弘はどのような活動をしていくんでしょうか。
紙蔵 今夜、それを話しはじめるとキリがないよ。いくつもの角度で見る必要があるからね。グラフィックデザイナーとして、装幀家として、武蔵野美術大学の先生として、日本デザインセンターの社長として、それから日本のグラフィックデザイン界のトップとして。
筆吉 なかでも注目するところというと?
紙蔵 装幀家としての原弘かな。ブックデザインは戦後になって初めてやるようになるんでね。最初に話題になったのは坂口安吾(873夜)の『堕落論』だね。なぜ原さんが装幀をするようになったかというと、さっき東方社のところで話に出た林達夫が中央公論の出版部長になるんだけれど、その林が原を起用した。以来、極端にいうと毎月数冊の装幀を20年近く続ける。
筆吉 紙蔵さんのお薦めは?
紙蔵 そりゃ、たくさんあるよ。ぼくもけっこう持っている筑摩叢書とか、平凡社の「世界名詩集」シリーズや『世界大百科事典』とか、『南方熊楠全集』とか中公の『日本絵巻物全集』とかね。平凡社の「日本の美術」というシリーズは、これまで日本の出版社がつくった美術全集のなかで、いまなお断然第1位のブックデザインでしょう。それから中公の「自然」の表紙なんかも懐かしい。たしか毎号、ロゴの位置が動いていたと記憶する。

図12 平凡社 『日本の美術』

図13 中央公論社 『自然』

筆吉 なかでも原弘らしいというと何ですか。
紙蔵 豪華本じゃないかな。これは日本の高額出版の「型」を原さん一人でつくったようなものだね。たとえば『櫻大鑑』(文化出版局)、井上靖と東山魁夷が監修した『日本の四季』(毎日新聞社)、吉川英治の『新・平家物語』(朝日新聞社)、それから荒川豊蔵の作品集や渡辺義雄の伊勢神宮の写真集とかね。とくに谷口順三の『円空』(求龍堂)なんか、何度見たかわからない。
筆吉 何が原弘の特色だったんでしょう。
紙蔵 全部だけれど、ともかくけれん味がない。正攻法である。主張がある。なかでも特筆すべきなのは、豪華本の装幀に関してはまず素材の選定でしょうね。原さんは竹尾栄一の竹尾洋紙店がおこした紙の開発の仕事に早くからかかわったのだけれど、そこで色とテクスチュアをとことん追求した。そういう経験が装幀でクロスひとつを選ぶときも効いている。でも、ブックデザイナーとしての原弘は、その本の定価を聞いて、その値段にふさわしい本をつくろうとしたようだね。それから判型などの本の大きさは内容から決まると考えていたらしい。だからいつも内容を吟味した。
筆吉 戦後のグラフィックデザイン界は日宣美が大きなエンジンになったと聞いてますが、そこにも原弘はかかわったんでしたよね。
紙蔵 日宣美は1951年に設立されます。日本宣伝美術会。これはもともと戦後すぐの1946年に「日本デザイナー協会」というのができるんです。京橋の交差点の近くに、原のお弟子さんの一人の大久保武が看板をあげた。大久保は同時に「形而社」というデザイン事務所も併設した。そこに原、山名、亀倉、河野たちが集った。そこからまず「広告作家懇話会」というのができて、それが朝鮮戦争で好景気になったとき、最初の広告時代がやってきて、1951年の「日本宣伝美術会」に発展する。原さんが48歳のときです。その後、日宣美が解体する1970年まで、ずっとかかわっている。
筆吉 オーガナイザーとしての力もあったんですね。
紙蔵 さあ、そこはぼくには詳しくはわからないけれど、みんなから推されるんでしょうね。やり手ではない。文化的総合性をもっていたということだろうね。たとえば日本の戦後デザインに飛躍をもたらしたというある展覧会が1955年に髙島屋で開かれた。これは「グラフィック’155」という有名な展覧会で、原、河野、亀倉、伊藤憲治、大橋正、早川良雄、山城隆一が横並びのスクラムを組んだんだけれど、べつだん原が仕切ったわけじゃない。でも、そのポスターも中心人物も原弘だった。
筆吉 その魅力って何なのでしょうね。
紙蔵 山城隆一は「知性」だと言ってますね。渡辺義雄や多川精一はすべてにおいて静かだと言っている。田中一光さんは「絶対に熱演や独演を見せないデザインだ」と言ってましたね。
筆吉 そういうデザイナーは、いまはいないですかねえ。
紙蔵 そんなことはないよ。原研哉だって静かなデザインを探求しているでしょう。
筆吉 ああ、なるほど。でも「知性のデザイン」というと最近は少ないですね。理性デザインとか。
紙蔵 生意気なことを言うね。まあ、そうかもしれないし、知性のほうが変質してしまったともいえる。デザインって、先にデザインがあるわけじゃなくて、自然や人や物や事態が先にあるから、そこで「知」そのものがどういうふうになっているかを凝視することが大事なんです。それによっては「暴れた知」もあれば、「頷く知」もあるわけだ。それを一義的な知性や感性にしてしまっては、つまらない。
筆吉 感性もそうですか。
紙蔵 そりゃそうだよ。感性こそ固有のものじゃないでしょう。いつだって揺れ動くし、相手や対象によって変わります。それをどういうふうにデザインするか。それは編集だって同じです。
筆吉 編集も?
紙蔵 もちろん。編集もまた知性と感性の両方を動かすもので、かつまた自分の知性と感性だけで勝負するものじゃない。だから編集もベルベットになったり、洗濯石鹼みたいになったり、また駄菓子のようにもできるんです。

『原弘 -グラフィックデザインの源流』
作品集と紙見本帳がセットになっている。

筆吉 今夜は『デザインの世紀』という本を通して、いくつかの角度で原弘を語ってもらったんですが、いったいこのあと21世紀日本のデザインはどうなっていくんでしょうか。
紙蔵 いろいろでしょう。ちょっとしたアイディアは毎日生まれているよね。ただし、デザインの動向がアメージングな大きな力になっているかというと、そうはなっていない。また、デザインが隣の何かとか次の何かと新たな紐帯を生んでいるかというと、そこも少ないね。原弘の時代は、たとえば日本語という文字の問題、写真がもつ力、デザイナーたちが組んだときの意志、そういったものをつねに生み続けていたわけです。それにくらべると、いまは「デザインはデザイン」というふうになりすぎているかもしれない。
筆吉 もっと別なものと結びつくべきだと?
紙蔵 それだけではなくて、デザインが科学になったって、デザインが医療になったって、デザインが植物園や子供の遊びになったっていいんです。だってすでにデザインはペットボトルになり、デザインは靴になり、デザインはスナック菓子になったりしているわけだよね。でも、その大半は商品でしょう。消費物でしょう。もっといろいろなものと関係していい。そういうことが少ない。
筆吉 世界のグラフィックデザインと比較すると、どうですか。
紙蔵 たとえばウェブデザインなどを見ると、日本のものはずいぶん低迷しているように思うね。なぜなら、ここには欧米の横文字のウェブデザインに対して、日本語のウェブデザインという問題があるわけだよね。それなのに、かつての原弘のように日本文字とウェブとのあいだで苦闘しているデザイナーはごく少数です。ウェブエディターだってそうだね。ブログに負けている。繭のように包まれたままだよね。そこを破っていない。
筆吉 そうか、そのへんね。
紙蔵 もうひとつ付け加えておくと、もっとアジアのグラフィックデザインや編集デザインに注目しておいたほうがいい。これからおもしろくなります。少なくとも漢字文化圏の日本は中国には勝負にならないほど水をあけられてしまうだろうね。
筆吉 中国?
紙蔵 出版物とウェブをよく見ておくといいよ。
筆吉 はあ、そうしてみます。

附記¶上の会話に出てきたものでとくに参考にしてほしいのは、『原弘――グラフィック・デザインの源流』(平凡社)、川畑直道『原弘と「僕達の新活版術」』(トランスアート)、多川精一『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー)、そして、上には故意に出さなかったのだが、松岡正剛・田中一光・浅葉克己監修の『日本のタイポグラフィック・デザイン』(トランスアート)。ここには松岡正剛によるかなり詳細なタイポグラフィック・デザインの変遷を扱った「何が文字のデザインを躍らせてきたか」が収録されている。ほかに、山名文夫『体験的デザイン史』(ダヴィッド社)、戦前の原弘の周辺の時代を描いた嵐山光三郎の小説『夕焼け少年』『夕焼け学校』(集英社文庫)、多川精一『太田英茂』(エディトリアルデザイン研究所)、片塩二朗『ふたりのチヒョルト』(朗文堂)、今竹七郎・早川良雄・山城隆一など25人のグラフィックデザイナーにインタヴューをした『聞き書きデザイン史』(六耀社)、竹原あき子・森山明子『日本デザイン史』(美術出版社)なども目を通したい。