才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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三十三年の夢

宮崎滔天

平凡社東洋文庫 1967

回顧すれば半生一夢、
総てこれ失敗の夢迹なり。
そう、滔天は言ったけれど、
その半生一夢に奔る者が、
さて、いまどれほどいるものか。
三十三年の夢、
いま、どこにある?

学衆A いよいよ今年も終わりですね。ぼくはホリエモンや村上ファンドが潰されたのが気になった。校長の二〇〇六年は如何でしたか。
校長 中国が四年連続で一〇パーセントの経済成長率で、北朝鮮が核実験の準備をすすめているよね。アジアが気になるよね。
学衆B イシス編集学校もささやかながら一段と成長したようですし、全集版『千夜千冊』全八巻が十月に刊行されたのが大きかった。凄い知の重戦車ですね。
校長 あの全集、意外に開きやすいんだ。牧製本という日本一の製本屋さんです。ぼくもページを開いて読むのが楽しくて、ついつい時間がすぎる(笑)。
学衆B へえ、校長も読むんですか。
校長 すごくタメになる(笑)。
学衆C そういえば、全集が出た十月は那須の二期倶楽部に「七石舞台かがみ」が出現したり、NHKブックスの『日本という方法』が刊行されたりで、けっこう賑やかでしたね。文藝春秋の本のために茂木健一郎さんと泊まりがけの対談もしたんでしょう?
校長 うん。脳とSNSはどう絡むんだろうね。
学衆C 七月に千鳥ケ淵のギャラリー「册」で「松岡正剛・千夜千冊展」が開かれたでしょう。初めて校長のアート遊びを見ましたよ。
学衆B 校長の書は私も色紙をもらったから知っていたけれど、仏像のようなものも出品されていて、あれが意外でした。手先がかなり器用なんですね。
校長 昔はね。いまは目が困る(笑)。
学衆C 「册」のとき、読書術の特別講演が二回ありましたが、ああいう秘伝公開はいい。もっとやってください。
学衆A ぼくは紀伊國屋ホールや丸善ホールでの読書術に関する話も痺れたな。読書は脳トレなんかじゃできない、もっと根本的な方法があるということを断言されていた。
学衆C 講演でいえば、有楽町朝日ホールでの岡倉天心の話、短かったけれどワタシには最高でした。校長の今年の体調のほうはどうだったんですか。
校長 いつまでもつかだね。
学衆B それそれ、そう言って人を心配させるのはよくないですよ。
学衆C 一一六六夜のヘミングウェイでは「死の去来」ばっかり持ち出して、あれは困ります。そのキリマンジャロの凍豹のあとが西郷隆盛でしょう。「負」を引き取るっていう話ばっかり。
校長 そういう話が大事なんだよ。
学衆A 人を寂しがらせるためにわざと書いている。
校長 いや、そういうわけではなく……。
学衆B やっぱりそうなんだ。
校長 それがヤバイときもあるんでね。ついつい「負」を背負える者を大切にしたくなる。いとおしくてね。
学衆B で、一一六七夜の『西郷隆盛語録』の最後に、続きをまた書くって予告していたのは、いったい誰のことなんですか。
校長 それが今夜の一冊で、宮崎滔天の『三十三年の夢』。
学衆B へえ、滔天ですか。ついに登場ですね。
学衆A ボクは滔天も『三十三年の夢』も知らないんですが、どういう人ですか。
学衆C 孫文の革命を用意したんですよね。
校長 おそらく、これからの日本にこそ必要な男だろうね。

 司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(文春文庫)は、文庫本でいうと五冊目の半ばあたり、宮崎八郎が登場してきて俄然おもしろくなってくる。「肥後荒尾村」という一章があって、宮崎八郎が育った熊本(白川)県荒尾の様子が詳しく綴られ、例の司馬流のゆっくりした蛇行解説がすすむなか、しだいに八郎が西郷の挙動に近づいていくというふうになっている。ぼくが最初に宮崎八郎を知ったのは、この小説のなかでのことだった。
 宮崎八郎は“九州のルソー”と言われ、多くの青年にその存在を知られた。理由がある。ひとつは“日本のルソー”と謳われた中江兆民の「仏学塾」に学んでいたこと、もうひとつは次の漢詩が有名になったことだ。「危言ひとり乾坤を貫かんとす 誰が知らん凄月悲風の底 泣いて読む盧騒の民約論」。
 最後の行は「泣読盧騒民約論」となっている。漢詩ふうに「キュードクるそーミンヤクロン」と読む。これが青年の口の端から口の端へ伝えられていった。だからルソーと宮崎八郎は切っても切れないものと思われていた。司馬もそのことに関心をもったようで、『翔ぶが如く』では、その謎に少しだけ介入していた。
 これから書くことは『翔ぶが如く』を下敷きにはしない。以前から愛読してきた上村希美雄さんの全五巻におよぶ『宮崎兄弟伝』(書房)を虎の巻に、滔天が前半生を自叙伝化した『三十三年の夢』をテキストにする。
 案内したいのは滔天の生涯の言動のことなのだが、それには、“九州のルソー”であった八郎が、なぜ西郷一党の挙兵に投企したかを知る必要がある。

 明治十年の正月、宮崎八郎は、鹿児島「私学校」の生徒たちが西郷隆盛を擁して兵を挙げたという噂を聞いた。八郎は、自分が興した「植木学校」を通じて研鑽しあってきた仲間を中心に「協同隊」を組織した。

熊本協同隊の幹部たち

 植木学校というのは明治八年に八郎と松山守善が開校した塾で、熊本の慶応義塾のようなものをめざした。『日本政記』『十八史略』から万国史、ルソーの『社会契約論』を兆民が一部訳した『民約訳解』まで、互いに学びあった。他方で剣術も欠かさなかった。八郎らは文明開化の明治維新などにはこれっぽっちも満足していなかった世代なのだ。幕末維新の志士とはちがっていた。
 そこへ西郷の生徒たちの挙兵である。八郎は挙兵に呼応し、一気に西南戦争の前線に駆けつけた。「徴集隊」という。この義挙は、今日の見方はともかく、当時としては意外なものだった。ルソー主義なら大半が自由民権や議会主義に靡いていたのに、そうした動きに背いたかのような西郷の挙兵に、ひとり八郎が勇躍して加担したからだ。兆民はこの知らせを聞いて、八郎が本気でそのようなことをしようとしているのかどうか、わざわざ九州に下向して真意を問うたほどだった。それほど西郷に加担することは、当時は異様に見えた。しかし八郎は莞爾として答えた。「西郷どんに天下をとらせて謀反するのも一計ではありませんか」。
 まず西郷に勝たせて、それから真意を問えばいいというのである。その前に西郷をつぶすのでは、日本が見えなくなるというのだった。兆民は青年に宿る大きなものを感じて、納得した。けれども八郎はその西南戦争の陣中、八代萩原の一戦に戦死する。享年わずか二六。それが宮崎八郎の全生涯だった。

西南戦争の錦絵に描かれた八郎(前列左)

学衆B 宮崎八郎が宮崎兄弟を引っ張ったんですか。
校長 二六歳で死んでしまうけれど、そのスピリットは宮崎兄弟にカミソリの刃の飛片のように突き刺さるんだね。
学衆A そういう兄弟がいたんですね。
校長 熊本に出たというところに意味があるね。
学衆C 宮崎兄弟ってどういう人たちですか。
校長 八郎の兄弟姉妹は十一人いるんだけど、そのうちの民蔵、彌蔵、寅蔵をとくに“宮崎三蔵”といって、八郎の意志を大きく受け継いだ。スピリットとか意志というより、むしろ「志操」といったほうがいいかな。
学衆C そういう兄弟のことを全部書くなんて、上村っていう人はたいへんなものを書いたんですね。
校長 上村さん自身が熊本の人ですからね。西南戦争は鹿児島と維新日本の闘いであって、また熊本による九州のための闘いでしょう。
学衆B 『宮崎兄弟伝』って五巻もあるんですか。
校長 うん、日本篇が二冊、アジア篇が三冊。たしか日本篇のときに毎日出版文化賞も受賞した。あまりに長大な著作なので、上村さんはこれを簡縮した『龍のごとく』という一冊も書いてますね。こちらは宮崎滔天を主人公にしている。同じ書房だから、手軽にはここから読むといい。
学衆C 松岡さんは、いつごろから西郷とか宮崎兄弟に関心をもったんですか。
校長 宮崎兄弟を知るのは『翔ぶが如く』からだけれど、西郷隆盛については、そうだなあ、かなり前からだね。ぼくはもともとは勝海舟や山岡鉄舟や高橋泥舟という“幕末三舟”が好きで、その三舟が西郷を格別視しているので気になっていたんだね。でも実は、ずっとよくわからなかったね。なぜ幕末維新を作り上げた西郷が、維新政府と対決するような内乱をおこして死んでいったのか。西郷の死は松陰や龍馬の死、あるいは大久保や伊藤の死とは全然ちがうからね。
学衆B 北一輝や石原莞爾ともちがう。
校長 そうだね。西郷の謎は近代日本の謎で、それゆえ今日の日本がいまだに隠している謎ですよ。その謎の一端を宮崎兄弟が解いていったんだと思う。だから、話はそこから始まるんですよ。今年の最後に『三十三年の夢』をもってきたのは、そういうこと……。

母左喜をかこんで。後列左より民蔵、彌蔵
寅蔵の三兄弟。前列左より民蔵夫人美以、
左喜、寅蔵夫人槌子。

 宮崎八郎には十一人の兄弟姉妹がいた。男は上から、武平、八郎、伴蔵、兵蔵、左蔵、民蔵、彌蔵、虎蔵(通称は寅蔵)である。武平は長男だが養子だったので、実子としては八郎が長兄になる。ふつう宮崎兄弟というと、このうちの八郎・民蔵・彌蔵・寅蔵をさす。上村の『宮崎兄弟伝』は、この四人を中心に九州・日本・アジアを舞台にして、宮崎兄弟の足跡・言動・史実・評論を縦横無尽に編み上げた。雄渾で精緻、壮観きわまりない大作だった。
 今夜の主人公の滔天は、宮崎兄弟の末っ子の寅蔵のことである。寅蔵は、八郎が戦死したとき六歳。しかし、六歳にして父親(長蔵という)から火のような厳命を言い渡されたことをよく憶えていたという。父は二つのことを激しい口調で言った。ひとつは「男子は片々たる家の経営にうつつを抜かさず、世のために志を抱くべし」、もうひとつは「官の字のつく職に就くべからず、堅く為るべからず」。
 その父も明治十二年に脳溢血で死んだ。時代は、西郷と宮崎八郎と宮崎長蔵を失って大きく変貌しようとしていた。寅蔵から見れば、そう見えたろう。寅蔵は兄の民蔵と彌蔵に憧れて、しだいに天衣無縫の根本革命家として、また「大陸を背負った男」として育っていく。以下、話がややこしくなるので、寅蔵のことは滔天と呼ぶ。

宮崎兄弟の生家

 滔天が「一兄」と呼んだ民蔵は、写真を見るとよくわかるのだが、威風堂々たる体躯で鋭い眼光の持ち主だった。八郎に最も近い気宇壮大をもっていた。とくに兆民の仏学塾などに学んだのちは、人間というものはもともと天賦の人権をもっているのだという真理にめざめた。人間の社会は土地の平等をもつべきだと考えるようになった。
 そこで民蔵は、まず小作人の自由度をつくっていくことを計画した。大地と小作人の関係をこそ革命しようというのだ。これを民蔵は「道理」と呼び、そのような道理に日本人が達することが近代国家としての絶対の急務だと確信した。日本には宮崎安貞、二宮尊徳、安藤昌益といった、農本革命を志向しそれを実践してきた先駆者がいたが、民蔵はそれを近代資本主義との対決をもって企もうとしたのだった。
 二兄の彌蔵は、元来の気質は女性のように温和だが(母親からいつもそうからかわれていた)、ラディカルな大陸思想をもっていた。当時は福澤諭吉が「脱亜入欧」を説いてアジアへの未練を断とうと主張していたときであるが、彌蔵は新しい構想をたてた。
 ごくかんたんにいえば、「天は人の上に人を作らず」と言っても、人が世に立つには方針が必要である。たとえ日本に人民主権の国家がおっつけ生まれたとしても、その国土の位置や力量によってはとうてい列強の波濤から逃れられない。この波濤から自立しうる可能性をもっているのは、おそらく大陸の中国だ。中国が共和制の革命をおこしてアジア人民の連合の中心になれば、弱肉強食の白人の無謀を阻止できるかもしれない。ただしそれには、中国にこの革命の任にふさわしい者たちがいることが条件になる。私、彌蔵は、よしんば自分を中国人の身なりにやつそうとも、この中国革命の中心人物を捜し出すことを使命としたい。
 だいたい、こういうものだ。これでわかるように、彌蔵の思想はその後の中国辛亥革命と日本の明日を予告するものだった。しかし、前途は多難である。こういう二人の兄の薫陶をうけるのだから、滔天の青雲の志が燃えないはずはない。まずは自分の武器を磨くことから始めた。

学衆C どんな武器を磨いたんですか。
校長 最初はそのころの青少年の多くがそうだったように、不羈独立の精神を学びたくて、徳富蘇峰の「大江義塾」に入るんだね。いま、熊本市消防局の裏手に「徳富記念園」があるけれど、あそこです。それが明治十八年、滔天が十六歳のときだね。どうも熊本中学は途中でやめたようです。そのころ、一兄の民蔵は上京して兆民の仏学塾に入っている。
学衆C 蘇峰に影響を受けたんですか。
校長 受けるんだけれど、不満ももった。フランス革命の話が多くて、どうもアジアっぽくない、日本ぽくないと感じたようだね。それで半年でやめて、兄貴を追って上京する。
学衆C そのとき下宿したところが、のちに孫文たちが屯したところだったっていうんですよね。
校長 芝愛宕町の「対陽館」だね。屯というか、孫文や黄興たちが出入りした。そこで、滔天は東京をいろいろぶらついて中村正直の「同人社」とか、あれこれ訪ね歩くんだけれど、いまひとつしっくりこない。滔天は自分の腸にじーんとくるものじゃないと、なかなかピンとこないらしい。それでともかくも早稲田の東京専門学校の英学部に入って、英語を身につけようとした。
学衆A 英語が武器ですが。
校長 そうじゃない。
学衆A じゃあ、英語以外に磨くべき武器がなかった?
校長 それがあるとき、オルガンの音色を聞いてピンときたんです。
学衆A へえ、オルガンですか?
校長 町を歩いているときに聞こえてきた、教会の賛美歌のためのオルガン。すぐにその教会に飛びこんで、宣教師の説教を聞いたら、実に説得力がある(武田清子さんの研究によって、この教会がチャールズ・フィッシャー宣教師の英国第一浸礼教会だったことがわかった)。そりゃ、そうだよね。当時の青年にとって壮士の演説にくらべれば、磨き抜かれた宣教師のメッセージのほうがずっと魅力的だったはずだ。
学衆B 札幌農学校の内村鑑三や新渡戸稲造でわかります。
校長 それで滔天は、そのころ小崎弘道が設立したばかりの番町教会に行く。そこで洗礼を受けた。
学衆A あっ、キリスト者になったんですか。
校長 それがなかなか一筋縄じゃいかなくてね、いろいろ紆余曲折があった。すべて『三十三年の夢』に書いてあることです。

大江義塾

 東京にはすぐに彌蔵もやってきた。洗礼を受け、早稲田に学んでいた滔天のもとに、荒尾の宮崎家が火の車になっていたことが告げられた。すでに父はなく、そこへ松方デフレとともに凶作が襲っていた。滔天は帰郷して、明治二一年の春からは熊本英学校へ、さらには足をのばして長崎の加伯里英和学校に通う。熊本英学校は有名な花岡山バンドの一人、海老名弾正が初代校長になった学校で、徳冨蘆花が「肥後の耶蘇教、復興の烽火」とうたったところである。
 こういう足跡を見ていると、どうやら滔天は伝道師になろうとしていたようだ。英語を磨いたというより、伝道の技能を磨いたというべきだろう。しかし、ここには必ずや「パンか、福音か」という問題が待ち構えていた。
 滔天はやがてそれを「パンか、革命家か」というふうに捉えていくのだが、その前に滔天のスタイルを決定するにいたる一人の人物が、長崎の町にあらわれた。それをきっかけに滔天のさまざまな運命が動き出したのだ。この人物は日本人ではない。七十歳をこえたイサク・アブラハムというスウェーデン生まれの風来坊であった。みずから「私は国家の外の人類だ」と名のっていた。さしずめ世界放浪者、いわば世界ヒッピーの先駆者である。
 滔天はこの老ヒッピーからアナキズムの何たるかを教えられ、革命は世界のどこにもありうること、ここにもそこにもありうることを告げられる。老ヒッピーも青年滔天が気にいって、ひとつ私と世界放浪をしようじゃないかと誘うのだが、さすがにこの老人の余命を考えると、そうもいかない。滔天は同郷の前田下学に頼んで、この世界ヒッピーに熊本で英語講習塾を開いてもらうことにした。

 イサク・アブラハムを迎えた前田下学の父親を、前田案山子という。槍の名手で、明治十三年からは民権結社の「山約水盟会」の盟主となって、その郷里の小天村(いまは天水町)は一種の熊本民権活動の“鹿ケ谷”になっていた。岸田俊子や中江兆民も訪れている。
 なぜ“鹿ケ谷”かというと、そのころの熊本は「藪の内組」という活動が広がっていて、のちに幸徳秋水の愛読書となったヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』をテキストに、徹底した革命思想や社会思想を醸成している最中だった。とくに明治二三年に、帝国議会の開院式が開かれる議場に爆弾を投げ込こむという計画を「藪の内組」の吉田虎雄(〝三池のルソー〟と言われた)が立てたとき、熊本の苛烈をどのように世間から隠すかという課題が必要になっていた(そうしないと、私学校の二の舞になる)。“鹿ケ谷”というのは、小天村がそのための隠れ里だったという意味だ。
 「藪の内組」には、いろんな人士がいた。のちに中国革命運動の重要な同志となった清藤幸七郎、のちに金玉均を助けた田尻市喜、トルストイのアナキズムを導入した相良寅雄あたりだ。
 さて、その小天村の前田案山子に、三女の前田槌子がいた。十二歳のときに「学問ヲ勧ム」という激越な演説をして熊本新聞に絶賛された才女である。二十歳になった滔天がアブラハムを連れて熊本に戻り、小天村をアブラハムの居所にしたとき、槌子は十九歳だった。滔天はその槌子に一目で惚れてしまった。実は天下の放浪者アブラハムは天下の自由恋愛者でもあって、二人はこのアナーキーな恋愛魔術によって近づいてしまったらしい。余談になるが、のちに漱石が小天村の温泉宿を訪れて『草枕』を書いたとき、「那美さん」のモデルとなったのが槌子の姉の卓子だった。漱石は、遠く滔天の足跡を偲んだことにもなる。

学衆B 前田槌子? 気になりますね。
学衆C やっぱり滔天って変な人。まだ二十歳でしょう?
校長 二十歳前後で、世界放浪の幻想や火の出るような恋と交差していないなんて、そんな青年青女は落第だよ。もっとも滔天もここまでは、まだ第一エンジンが始動したというくらい。ここで目の前のことに溺れていたら、のちの滔天はありません。
学衆A というと、滔天は転回するんですか。
校長 そうね。槌子には惚れたままなんだけど、結婚をずっと先送りにして、ハワイに行こうとする。家宝の仏像を売ってまで旅費をつくろうとしていた。
学衆A はあ、よりによってハワイとは?
校長 ハワイからアメリカに行こうとしたようだね。この思いつきは彌蔵にこっぴどく叱られる。このとき有名な彌蔵と滔天の徹夜の議論がおきるんです。

 明治二四年の夏の彌蔵との一夜の議論は、滔天の第二エンジンを点火させた。彌蔵は日本はアメリカを向いて喋るのではなく、中国に体を向けるべきだと説いた。この説得が滔天を変えた。以降、滔天は中国を向いて生きていく。
 もっとも、この方針を一兄の民蔵は保留した。日本人にさえ道理を説くのが難しいのに、それを地大物博の中国人に向かって説くのは至難の業だろうというのだ。また、そこに腕力や暴力をもちこむのは、最初から考えるべきことではなく、必ず最後の手段にすべきだと言った。しかし、滔天は二兄の思想のほうに大きく共鳴した。こうして明治二五年五月、二三歳の滔天は上海に向かう船上の人となる。日清戦争開戦の二年前のことである。

学衆A えっ、ハワイでなく中国に行ったんですか。行動の転換が高速ですね。
校長 明治の連中は早いよ。右も左も、表も裏も、思想イコール行動だからね。現在は自由資本主義の市場原理だけが動いているから、その市場原理だけが速くて、あとはうんとのろのろしてしまったんだね。市場の速度に乗ったら、あとは堂々めぐりを何度もくりかえすしかないんだよ。それじゃいけない。
学衆B 最近の日本がつまらないのは資本主義市場のせいですか。
校長 まあ、そうなんだけれど、もっと正確にいえば市場原理に代わる価値観が少なすぎる、そのことを考えていないということです。
学衆A それでどうなったんですか。
校長 いま言ったように、滔天たちの活動はそもそも資金にも資本にも見離されているので、お金がなくて旅費が尽きる(笑)。やむなく戻って捲土重来を期するんだけど、そこへまたまた事態の運命を変える人物があらわれるんです。
学衆A 誰ですか。
学衆C 孫文でしょう?
校長 いや、そうじゃない。まだ孫文まで進まない。金玉均です。朝鮮からの亡命者ですね。

1892年上海にて。前列左が滔天。

 金玉均は甲申事変の首謀者で、世にかくれなき李朝朝鮮末期の近代革命家である。日本・朝鮮・中国の三国が互いに同盟を結んでアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた。
 官吏試験をトップ合格し、弘文館校理・司諫院正言・承政院副承旨などを歴任して、あっというまに新たな開化派の青年リーダーとなった。明治十四年に初来日して、すぐに福澤諭吉と親しくなり、その後は何度も福澤宅に逗留もした。井上馨・後藤象二郎から頭山満・大鳥圭介まで、多くの日本の政治家・実力者とも交流した。朝鮮に立憲制や近代商工業のしくみを案内したのは金玉均だった。
 その後、いくつかの複雑な事情をのりこえて(日朝修好条規をはさんで大院君勢力と閔氏勢力が抗争)、開国をめざす甲申事変(明治十七年)にこぎつけるのだが、これはまさに三日天下に終わった。大院君勢力が袁世凱の清と結んだのである。
 金玉均は日本に亡命してきた。多くの日本のトップと通じていた人物だったので、明治政府はその処置に困って「保護」を名目に、小笠原島に二年、北海道に一年八ヵ月の、礼を尽くした軟禁をする(小樽に中江兆民がいたときは、さかんに交流した)。これだけでもわかるように、金玉均はまことに不思議な革命的政治家なのである。朝鮮の開国と近代化の立役者とも、日清戦争の火種をばらまいたともいえるし、日本に自在に利用されたともいえる。
 そのため、いまだに韓国側からも日本側からも(研究者たちからも)、定説となった評価がなく、かえって北朝鮮の金日成がその評価をいちはやく言いだしたほどだった。これほどまで毀誉褒貶に見舞われてきた近代朝鮮の人物はめずらしい。ぼくとしては、この評価揺れ動く金玉均をめぐる事情については、えんえん話したいことがいろいろあるのだが、いまはがまんして滔天との関係だけにふれることにする。

 滔天は「藪の内組」の田尻市喜から金玉均を紹介された。そして、この男の革命性とアジア性に共鳴した。滔天は、金を来たるべき中国革命を準備する同志につなげようとした。金もまた失敗した朝鮮近代化(開国革命)を、むしろ中国において果たし、それが日本と連動できるなら望ましいと考えた。「三和主義」である。
 しかしながら、明治政府にとっても厄介な人物との接触は、滔天の安全を脅かすものではあれ、決してその活動を補助するものではなかった。彌蔵も何度か忠告をした。
 そこへ驚くべきことがおこった。金が上海にわたった直後、おそらくは李朝高官の放ったであろう刺客の洪鐘宇に暗殺されてしまったのである(洪鐘宇は甲申事変のときに清国兵に処刑された郵政長官の息子)。それどころか、朝鮮に引き渡された死体は吊るされたのち胴体と四肢を切断され、「凌遅処斬」という六支の刑に晒された。
 金玉均惨殺のニュースは日本中をおおいに驚かせた。谷崎潤一郎の名品『幼少時代』には、「私は妙に金玉均の事件を記憶にとどめているのであるが(中略)、団子坂の菊人形でも、金玉均暗殺の場面が人形になって飾られているのを見たことがあった」と書いてある。
 問題は、清・朝両国による金玉均暗殺が、日本中に予想をこえる憤激の嵐を巻きおこしたことである。そのため、折から朝鮮全羅道に発生した東学党の乱が広がったことと相俟って、これを大きなトリガーとしての日清開戦の時計が急激に動き出した。
 事態は急展開する。滔天も参加した浅草本願寺での金玉均本葬が明治二七年の五月二十日、日清戦争の火ぶたが切られたのが八月一日。その間、わずか二ヵ月ちょっと、「撃てや懲らせや清国」の大合唱はあっというまに日清両国開戦になだれこんでしまったのである。
 日清戦争が朝鮮の領土や権益を標的にしての戦争だったことも、朝鮮で「斥和洋倡義」(日本と西洋を排して朝鮮の大義の達成を考える)の大合唱がおこったことも、また清が朝鮮からの撤兵をしなかったこともクリティカルな動きだった。彌蔵も滔天もそういうことにも敏感なアンテナが動いた。このあたりのことは、日清戦争に欣喜雀躍した当時の多くの知識人たちと、宮崎兄弟がまったく異なる資質の持ち主だったことを物語る。その資質と器量は征韓論を戦争と見なかった西郷隆盛にこそ通底する。

 けれども日本と清が戦争になったので、中国革命どころではなくなった。しかも日清戦争は日本が勝利し、おまけに下関条約のあとの露・独・仏の三国干渉で日本は遼東半島などの権益を放棄させられた。宮崎兄弟の計画は挫折したかに見えた。事実、半分はそうなった。しかし、兄弟はここでも新たな計画を思いつく。第三のエンジンに点火しようというのだ。これは、彌蔵と滔天とで革命準備計画を“分業”しようというもので、彌蔵は弁髪・変装して中国に潜入し、滔天はタイ(シャム国)に入って移民を工作引率して中国の革命的同志をゆさぶろうというものだった。
 この計画で、二人は金玉均の支援者だった渡辺元や金の愛人だった芸者の杉谷玉や副島種臣らを訪れて、さまざまな相談をしている。この計画は清が戦争に負けて混乱しているあいだに、実行されるべきだった。清が安定を取り戻してからでは遅い。彌蔵はさっそく横浜の清国四八番商館に入居して潜行を窺い、滔天は広島移民会社の社員となって渡航代理人の資格をえて、タイにわたる機会を窺った。
 明治二八年十月、滔天は首尾よく神戸港を出港、タイに入った。途中の港々では大量の中国移民が乗りこんできた。滔天はこの異臭を放つかれらこそ、未来の革命移民だと実感する。
 こうして兄弟の“分業”が進行する只中、またもや二つの劇的なことがおこった。ひとつは、ついに名もなき男が広州で挙兵したことだった。孫文(孫逸仙)だった。挙兵は失敗するのだが、孫文は陳少白とともに日本に亡命した。もうひとつは、彌蔵がコレラで急死してしまったのだ。まだ二九歳だった。八郎につづいて、彌蔵も死んでしまったのである。滔天は声をあげて泣き、呆然自失する。

学衆A 孫文があらわれたとき、彌蔵が死んでしまうんですか。宮崎兄弟にはそうとうに深い宿命が動いているんですね。
校長 そうだねえ。だから「三十三年落花の夢」なんだよ。いま、話は彌蔵が急死した明治二九年、すなわち一八九六年にさしかかったところだけれど、滔天が『三十三年の夢』を「二六新報」に連載したのが明治三五年です。滔天が三三歳になったとき。
学衆A ああ、三三歳のときの執筆だから三十三年ですか。
校長 その数年のあいだに、滔天は横浜で孫文と出会い、すぐさま故郷の荒尾に誘って肝胆相照らす。それで孫文とフィリピン独立運動を支援したり、孫文と広州に入って南清での蜂起などを画策したりするんだけれど、これらはことごとく失敗していくんだね。
学衆C 全部?
校長 うん、全部。そして明治三四年の冬、なんと浪花節語りになることを決意して、翌年、『三十三年の夢』を書いて、本当に浪曲師になるんです。桃中軒雲右衛門に入門したので、桃中軒牛右衛門という芸名になった(笑)。『三十三年の夢』はことごとく落花狼藉の日々だったということなんです。
学衆A 『三十三年の夢』は失敗の記録なんですか。
校長 そうね。けれども、これが中国語に訳されて爆発的に読まれることになる。というのも、ここには中国革命に向かおうとしたすべての計画と失敗が、孫文を始めとする実名とともにすべて綴られているんだね。
学衆C 辛亥革命のおこる前のことばかり?
校長 そう、失敗した計画の話ばかり。しかし、それが辛亥革命になったんですね。こんなことって、科学とか企業とかではありえないでしょう。成功したあとに、それまでの失敗のプロセスを書くことはあっても、まだ失敗ばかりしているときにそのことを熱情をもって書くなんてね。
学衆C そうか、校長はそのことを言いたかったんですか。
学衆B 編集が先行して、それが革命になる。
校長 どうかな。まあ、もうちょっと話の続きを聞きなさい。

浪曲師となった滔天と桃中軒雲右衛門

 二兄の彌蔵を失った滔天が立ち直るには、何かの方向転換が必要である。思い切って犬養毅や頭山満に会うようにした。直接的には運動資金や工作資金を得るためだったが、むろん資金のためだけではなかった。“分業”の頼みの綱を断たれた滔天は、こうした太っ腹の政治家の懐に飛びこみ、自身は裸一貫の浪人となって、窮鼠、猫を噛むという挙に出るしかないと思えたのだ。いったん降参するしかなかったのだ。いわば芸者になって、一発逆転を図るしかなかったのである。
 滔天はこのとき、自分自身を「半ば生ける屍」だとみなした。これは、西郷が月照と入水して死に別れた直後に、自分が「土中の死骨」となったと自覚していることに、よく似ている。そのことがその後の西郷のすべての「志操」を支えたように、滔天のその後の日々も、「半ば生ける屍」こそが支えた。この「半ば生ける屍」を、当時の言葉で“浪人”という。滔天にとっては、「大陸浪人」あるいは「革命浪人」という意味だ。滔天はこのあと浪人生活に徹した(ちなみに、三好徹に宮崎滔天を小説にした作品があるのだが、そのタイトルは『革命浪人』になっている)。

週刊サンデーが選んだ浪人番附。
滔天は前頭22枚目。

 滔天がどのように孫文と出会うようになったかということ、そのころ孫文がどのように動いていたかということは、省きたい。いつか孫文の著書を紹介するときにふりかえろう。辛亥革命のこと、孫文と宋慶齢の結婚、孫文と袁世凱の関係、そして、近代日本の最大の失敗としての「対支二十一カ条の要求」のことなどだ(これについてはNHKブックスの『日本という方法』にやや詳しく書いておいた)。
 そのかわりここでは、二人が出会ったあとにおこったいくつかの事情について案内しておきたい。ひとつは孫文の日本滞在を助けたのは、滔天に動かされた犬養や頭山や玄洋社の平岡だったということ、ひとつは孫文が宮崎兄弟の故郷の荒尾を愛したこと、ひとつはフィリピン独立運動にまつわることだ。

学衆C 孫文を助けたのは、いわゆる大物右翼や国粋主義の連中だったということですか。
校長 それが、当時の連中をいちがいに右翼とか国粋主義と決めつけられないんだな。たとえば玄洋社は孫文の生活費一年分を負担したんだけれど、それは筑豊炭鉱による収入から割いたもので、べつだん右翼活動に資すると思ったからじゃないよね。このことは田中清玄(一一一二夜)のところでも書いておいたことだ。
学衆B でも、何かに利用できると思った?
校長 そりゃそうだろうね。男気を感じたといえば、それだけとは言えないだろうけれど、どちらかといえば「国家が動く」ということなら、それがどこの国のどの派の動きでも痛快に映ったんでしょう。
学衆B そのことがフィリピン独立運動にも関連するんですか。
校長 そう見てもいいでしょうね。当時、一八九八年の米西戦争でスペインに勝ったアメリカは、スペインの植民地だったフィリピンを買い取ろうとしていたわけだよね。スペインも売り渡して売却益を得ようとしていた。アメリカはフィリピンをアジアの橋頭堡のための飛び石にしたかったからね。だって太平洋戦争でも、マッカーサーがそうだったんだけれど、アメリカは日本との戦争をフィリピンから始めたわけだ。でも、こういう取引はスペインからの独立をめざしてアメリカ軍とともに闘っていたフィリピン独立政府軍にとっては、とんでもない裏切りなわけです。そこに孫文が着目した。
学衆A 何に着目したんですか。
校長 中国の同志が日本とともにフィリピン独立を支援して、そこに革命の拠点を確立し、その余勢を中国に移していくというウルトラCのシナリオだね。
学衆A 余勢?
学衆C 日本とともに、というのはどういう意味ですか。
校長 そのころのアメリカ大統領はマッキンリーです。マッキンリーは「慈しみ深い同化」というあやしい用語をつかって、フィリピンを領有しようとした。これでは独立軍の目的は踏みにじられる。独立軍のリーダーはアギナルドというんだけれど、アギナルドは手を打った。ポンセという腹心の部下を日本に派遣して、参謀本部の福島大佐を窓口に日本の援助を求めていた。孫文はそこに目をつけて、この援助に広東の三万人の同志を投入してフィリピン独立を進めてしまおうと考えたわけだ。
学衆A そんなことに日本政府も乗るんですか。
校長 乗るんだね。犬養が乗って、参謀総長の川上操六が黙許を与える。はたらきかけたのは滔天と平山周で、平山は滔天や末永節と一緒にタイヘ行った仲間です。これで銃一万挺、弾丸五〇〇万発、山砲、機関銃といった武器弾薬が布引丸という船にいっぱい搭載されて、フィリピンに向かったんだね。明治三二年の七月のことです。ところが、この布引丸が遭難して海の藻屑と消えてしまったんです。何ということだろうね。
学衆C また失敗ですか。
校長 でも失敗するごとに、だんだんスケールが大きくなっていくんだよね。

布引丸

 フィリピン革命は失敗した。けれども孫文はめげてはいない。滔天もへこたれない。中国湖南の秘密結社「哥老会」と結んで、孫文を会長とする「興漢会」をおこしたことを皮きりに、四方八方の可能性のすべてに手をつけていった。たとえば滔天は孫文・末永節と連名で、そのときウラジオストックにいた内田良平を呼び寄せた。
 内田は玄洋社社長の平岡浩太郎を叔父にもつ。「黒龍会」の首魁である。そのころ内田はロシアとの開戦に備えた工作をしていた。一方、孫文は中国のどこか(南清だと思われていた)で蜂起できるなら、ともかくロシアでもフィリピンでもタイでも、革命の気運にかかわる闘志はいくらでも集めるべきだと考えていた。内田はこの要請に応えて、九州(博多)に同志候補を集めていった。このときオルグに協力をしたのが、熊本「藪の内組」の清藤幸七郎だった。上村希美雄さんが書いていたが、こういう呼びかけにはかなり意外な人士が呼応したようだ。福岡の島田経一という人士は、わかった、家屋敷を売っ払っても隣邦の革命に協力しようじゃないかと言った。
 わが滔天は、こういう出会いがあるたびに自分の命は中国革命の一兵卒として失ってもいいと思うようになる。もとよりとっくに「半ば生ける屍」になっている滔天なのである。
 こうしていよいよ恵州蜂起の手筈が整っていった。鄭士良は、恵州に潜入して三州田に革命拠点をつくりつつある三合会と準備にかかる。陽衢雲は、香港の陳少白や平山周とともに兵器と軍糧の調達にあたる。ハワイで「興中会」に関与した鄧蔭南は、広州の史堅如と革命暗殺団を組織する。そういったぐあいだ。
 孫文は劉学詢・李鴻章とのあいだの交渉のあいまから革命資金を抜き出し、その首尾次第によって、先にシンガポールに入って軍資金を貯めている滔天・清藤・内田と示し合わす予定だった。
 すでに孫文はこれまでの革命資金のために、ざっと六万元の借金をしていた。だからすかんぴんだった。なんとか蜂起後の軍資金を集めておかなければならない。シンガポールはそのための隠れ回路だった。滔天はその責務を敢行しようとシンガポールに入った。シンガポールは中国人や日本人のあいだでは「星港」と呼ばれていた。日本人花街もある。三〇〇人以上の“からゆきさん”がいた。滔天がタイ(シャム)で知り合っていたお村、内田と仲のよかったお鷹などもいた(言い忘れていたが、滔天はすでに槌子と結婚し、子供ももうけていた)。
 革命浪人を任ずる滔天は、そんな女たちと遊びつつ(遊ぶのは大好きだった)、孫文の到着を待つ。そこへ思わぬ横槍が入って(康有為の仕業といわれる)、滔天刺客説が流れ、滔天と清藤は逗留していた松尾旅館で警察に踏みこまれて逮捕されてしまった。拘留後は五年間の追放である。星港の夜はやっと到着した孫文と滔天の激論となった。二人の激論は初めてだったようだ。孫文は日本人側の動きがあまりに短兵急で、慎重を欠いていると批判した。
 孫文としては、陳少白・平山に準備をしておいてもらい、万全の策が成ったうえで三州田で挙兵して、それが福建・厦門を制圧したときに、自分は台湾からそれらの指揮をとるという腹づもりだった。台湾で指揮をとるというのは、台湾総督の児玉源太郎の軍事面の支援がとりつけられていたからだった。
 最善策が奪われたら次善策、それもだめなら次のオプションを、さらに別シナリオも考える、そういう方法をとりつづけるというのが、“生涯革命家”を覚悟した孫文の革命観である。滔天にはそれが中国人の悠長とも臆病とも映った。「秀才叛を謀りて三年すれども成らず」とは君のことだと、滔天は孫文を詰って、言い募った。孫文も「焦りはすべてを水泡にしてしまう」と反論する。
 しかしさすがに二人は最後は和解し、大笑しあった。そこへ新たなニュースが届いてきた。山東省に発した義和団が「扶清滅洋」あるいは「反清反洋」を掲げて蜂起、それが華北にまたたくまに広がっているというのだ。そればかりではなかった。西太后が義和団を義軍と認めて、北京に居座る列強軍に宣戦布告をしたというのだ。明治三三年、一九〇〇年ちょうどの事件だ。

 それで、どうなったのか。すでに日清戦争で弱体ぶりを世界にさらした清国に、列強が襲いかかっていた。三国干渉で清に恩を売ったフランスは広西省から雲南省におよぶ鉄道敷設権を手に入れ、ドイツは膠州湾を占領して租借権をもぎとり、ロシアは旅順・大連を確保した。それでも、清は耐えていた。しかしついに義和団が爆発した。ドイツが膠済鉄道の建設を始めたのがトリガーだ。
 これがチャンスだった。混乱がすすむなか、孫文はついに恵州蜂起を決行するのだが、武器弾薬のロジスティックスが絶え(台湾総督府が背信した)、近代中国最大の混乱のさなかに、あえなく挫折した。
 ここで滔天は活動をいったん停止させてしまう。先にも言ったように、明治三四年、三二歳半ばになっていた滔天はなんと浪曲師になることを決意する。これは意外な第四のエンジンだった。時代は日露戦争に突入した。

学衆C うーん、なんともせつないですねえ。
校長 これで話が終わったわけじゃないよ。滔天はここで『三十三年の夢』を綴ったというだけで、中国革命との連携や孫文との関係はまだまだ続くんです。
学衆B 赤坂につくった中国同盟会。
校長 赤坂の内田良平の黒龍会本部で、孫文・黄興・陳天華・張継らに滔天も加わって「中国革命同盟会」の旗揚げをする。そのときのスローガンがいい。
学衆C 三民主義?
校長 まだそうは言ってなくて、「駆除韃虜・恢復中華・建立民国・平均地権」っていうんです。この平均地権はまさしく一兄の民蔵が育てていた思想です。孫文の革命施策には、宮崎兄弟の構想が入っていった。
学衆C そうして赤坂が革命色に染まっていった。赤坂ですもんね(笑)。
校長 いまでも赤坂はアジア系の人が多いよね。
学衆A 中国人が日本で革命の準備に入ったということを、明治政府は黙認していたんですか。
校長 表立った準備は隠していたからわかりにくかったんだけれど、そのかわり「清国留学生取締規則」というのをつくって、活動封じ込めに出た。これは留学生たちを怒らせた。そのころ日露戦争のあとのポーツマス条約で、新聞はこれは屈辱講和だと言って騒ぐんですが、そのとき東京朝日が「いくら支那朝鮮でもこんな条約は結ぶまい」と書いて、中国留学生たちの憤激を買うんだね。この留学生取締令に対しても、心ある留学生が屈辱をおぼえた。そして、中国革命同盟会にも参加した若き陳天華が自決してしまった。
学衆C 自決……。
校長 「日本という国が許せない」という抗議の自決だね。滔天はその二日前に陳天華と盃を交わしたばかりだったらしい。この自決に滔天は腸を掻きむしられるほどの悲痛な思いをもったようです。
学衆C はい。
校長 「生きて救国を空談するより、自ら死んで、放縦卑劣の汚名を雪ぎたい」という遺書もあったんだね。「絶命書」といいます。これで帰国運動に入った留学生たちも多かった。滔天の浪花節もいっそう悲痛になっていったでしょうね。
学衆B 滔天は本当に浪曲師としてやっていったんですか。
校長 まったくへたくそだったらしいけれど、桃中軒牛右衛門としていくつも高座をつとめた。東京デビューは神田の錦輝館。九州では玄洋社が総力をあげて応援もしている。大阪朝日の鳥居素川も助けたようだね。
学衆B 本気だったんでしょうかね。
校長 滔天はいつも本気だよ。『明治国姓爺』といった新作もいくつか披露している。でもこういうことをしたのは、しばらく中国革命がおこらないだろうというヨミとか、革命の志士たちが次々に日本に亡命してくるだろうという情勢判断とかがあったからだろうし、自分は一介の革命浪人なんだから、そういうときは民衆に訴える作業に徹していなければならないだろうというような、そういう覚悟をもっていたからだろうね。西郷が鹿児島に帰って、その土地の若者とのみ交流したのと似てます。
学衆B たしか滔天は、『三十三年の夢』が漢訳されたあとは、向こうでは“支那の西郷”と呼ばれますよね。
校長 いや、“支那の西郷”と呼ばれたのは体格が似ていた黄興のことで、滔天は中国留学生たちから「フランクリンや西郷隆盛と並ぶ最も侠なる者」と呼ばれた。そのときの漢訳タイトルが『三十三年落花夢』というんですが、まさに“侠客の夢を見た男”という意味だよね。落花狼藉。よく滔天の伝記に「侠か狂か」と書いてあるのは、このへんの事情からだね。
学衆A 侠客かあ。しかしちょっとわからないのは、滔天たちはどうして日本の革命を叫ばないんですか。
校長 そうだね。そこが一番わかりにくいだろうね。ひとつには、民蔵や彌蔵から中国革命との連動こそ日本革命だという思想を受け継いでいたということだね。でも、それだけでは宮崎兄弟だけの話になってしまう。ほかの連中はどうだったのかということが、なかなかわからないよね。
学衆A そうです。
校長 でも、いくつかの理由が考えられるでしょう。日本の国力が強くなりすぎていたこと、明治維新の体験をはじめ、日本に革命の思想と技能がほとんど蓄積されていなかったこと、それから西郷の痛切な挫折の意味が暗示のように響いていたこととか、天皇がいるということとかね。
学衆A 日本には革命の思想がないわけではないですよね。一揆とか大塩平八郎とか吉田松陰とか。
校長 中国のような易姓革命の思想はなかったけれど、むろん時代を変え、社会を革するという思想はあります。農本思想としてもけっこうラディカルなものがある。陽明学も日本独自のものでしたからね。でもやっぱり「御一新」でしょう。のちの二・二六事件などの昭和維新の叫びも「御一新」。これは「御一新」に「御」の字がついているように、やはり天皇のことがあるんですね。
学衆A 「お上」ということ?
校長 うん、安全も革命も、内政も外交も、収穫も忍耐も、ともにあるということでしょう。しかし、こういう考え方や気質ではとうてい革命なんておこらないということで、このあとの日本の社会主義運動がそうなんだけれど、もっと根底的な社会革命を思想し、行動しようというものもおこっていくわけです。いわゆるマルクス主義革命だね。
学衆A 天皇制社会主義だって、あってもよかったわけでしょう?
校長 あっていい。それが大杉栄や北一輝のような革命思想です。でもこれは激越すぎて、受容されなかった。ただし見方を変えると、ひょっとしたら、戦後社会の日本はかなり穏やかな天皇制社会主義国家の様相をもっていたかもしれないね。もっともそれも「上からの仕事」だけどね。
学衆A 「下から」がない?
校長 日本では「下から」は、宮崎兄弟や芸能やグラス・ジャーナリズムになっていくんだね。

 中国革命同盟会が結成されたのが、明治三八年、滔天は三六歳。滔天は同盟会の機関誌「民報」の編集を引き受けて、ここに『草枕』の那美さん(槌子の姉)をもってくる。ついで、まさに「革命」の二文字を冠した「革命評論」を編集する。ここには清藤、平山らのほかに、北一輝も同人として加わった。
 日本での中国革命準備は遅々として進まないのだが、黄興や宋教仁らの活躍と、新たに日本に芽生えつつあった社会主義の動向、たとえば片山潜らの動向も少しずつ加わって、やっとフォーマットが見えてくる。
 が、明治四一年からは広東に始まった日貨排斥運動がしだいに広まって、日本人が中国入りすることはかなり難しくなってきた。そこへもってきて、社会主義者に対する取締りが始まって、明治四三年には大逆事件をきっかけに、大弾圧に変わっていった。他方、このあたりからアジア主義の思潮が日本主義化していった。滔天はこれらの進行のあいだも、浪曲師としての活動と中国革命支援の活動をしつづけている。
 そこに決定的な事態が日本を包んだ。日韓併合がおこったのだ。このことがなぜ滔天らの事情にとって大きかったかというと、ここに「大アジア主義」ともいうべきが開花してしまったからである。

評論社同人と中国同盟会会員
(中央が滔天)

 日清戦争後の李朝朝鮮は親日派と親露派の抗争の時期に入っていて、結局は親露派の工作が功を奏し、国王高宗がロシア公使館の中で国王親政を宣言するという異常な事態になっていた。そのとき同時に、ロシア公使館の中に新政府(金炳始首班)が発足した。いわば朝鮮がロシアの手中に落ちたのだ。
 この事態に、朝鮮のナショナリズムがやっと動き出した。独立協会の動きも活発になった。そこで明治三十年、高宗が還御して年号を「光武」と改め、皇帝即位式を挙行、国号を「大韓」とすることにした。大韓帝国である。
 その後、ロシアは完成したばかりのシベリア鉄道を背景に、満州の領有を画策し、権益が日本とぶつかった。日露協商会議では、日本はロシアに満州撤退を要求し、ロシアは日本に対して北緯三九度線で分割しようともちかけた。互いにこれを拒否しあって、事態は日露戦争になだれこんでいくのだが、このとき大韓帝国はようやく中立化の道を模索するようになる。けれども中立宣言をしても、列強が認めない。とくにロシア、日本、アメリカが認めない。戦時における中立宣言だったからでもあった。
 こうして唯一の自立のチャンスを逃した大韓帝国は、日露戦争に勝利した日本の前に屈服することになる。それが日韓併合だった。
 ここで朝鮮半島に「反日反露」を謳う義兵闘争が生じた。義挙は各地で一五万人にのぼり、これを駐留日本軍が鎮圧していった。義兵闘争は三年半にわたった。そうしたなか、一方では独立自立を進める愛国啓蒙運動(大韓自強会や新民会が中心)が、他方では日韓合邦運動(李容九の一進会が中心)が、おこってきた。
 日韓合邦運動を日本側で受け止め、これを推進しようとしたのは武田範之や内田良平だった。かれらは日韓合邦をさらに大きなアジアで括ろうとした。これを「大アジア主義」という。すでに樽井藤吉の『大東合邦論』というバイブルもできていた。金玉均の「三和主義」もこのバイブルの影響だったろう。
 当然、滔天らにとって、日韓併合はとんでもない。しかしまた大アジア主義も、そこに日韓併合を含む以上は肯んじられない。滔天は苦悩する。いったい中国革命は大アジア主義なのか、それを脱却する革命になりうるのか。明治四三年十月、日韓併合の調印をおえて帰国した武田範之の祝宴でのこと、そこに参加していた宮崎滔天の長髪を、武田はばっさり切ってしまった。
 噂では武田と滔天のあいだに約束ができていて、日韓併合が中国革命より先に成就したから、滔天の髪が切られたのだということになっているのだが、はたしてどうか。上村希美雄さんは理由がどうであれ、滔天の断髪は革命浪人としてのひとつの区切りがついたことを象徴していると書いていた。
 が、それでも滔天の気概は衰えない。それから五ヵ月後、広州黄花岡で蜂起がおこると、滔天は槌子ともども家族ぐるみで武器密輸に奔走し、ついで明治四四年十月十日、武昌にはじまった蜂起が南京の各省に連打され、ここに辛亥革命がついに起動したときは涙を流して歓喜した。四二歳になっていた。

校長 さあ、このくらいにしようかな。
学衆C えっ、終わりですか。まだ滔天に十年ほど残ってますよ。時代もいよいよ大正です。
校長 滔天は大正十一年に死ぬからね。最後の十年は大正ロマンだね。でも、その半分以上はロマンではなくて、辛亥革命以降、孫文がどのように苦労し、どのように袁世凱が入ってきて、また日本への亡命をしたとき、頭山満や滔天がどうしたかというようなことです。もう半分のうちの半分は、第一次世界大戦が始まり、日本が対支二十一ヵ条の要求を出してしまったことによって、最大の失敗をするという「日本という方法」の欠如の問題でしょう。ロシア革命も始まりますね。
学衆A 残りは?
校長 それが宮崎滔天の最期ということになるんだけれど、滔天は「悲観病」というものにかかる。
学衆A 悲観病?
校長 自分で名付けたんだけれど、ペシミスティックになったということだね。ショーペンハウアーや芥川龍之介ですよ。すでに中国では五四運動がおこっていて、もう中国に入ることも許されない。日本はシベリア出兵以来、しだいに戦勝国の美酒に酔ってばかりいる。滔天には、日本がなんだかつまらなくなっているんだね。
学衆A ついに「屍」ですか。
校長 それでも、そうはならないんだね。日本における精神革命の必要性を強く感じはじめるんです。
学衆C 日本主義ですか。
校長 そうではなくて、出口ナオのお筆先に関心をもって、大本教に惹かれる。
学衆A ええっ、大本教? 最期の最期になって出口王仁三郎ですか。
校長 それがね、ずっと土地問題にとりくんできた民蔵も大本教に関心をもつんです。そして滔天は、「大宇宙教」というものを開いた堀才吉に注目すると、その霊力にびっくりして、心霊界を確信してしまうんだね。ああ、宮崎滔天にしてそうなるかという感じだよね。それで大正十年、伊勢神宮や出雲大社をていねいに参って、そのあたりから腎臓病が悪化し、翌年に死ぬ。
学衆A それは意外な終焉ですね。
校長 ぼくも驚いた。般若心経を念誦しながら、淡々と死んでいったようです。もっとも、途中には、「さあ、これからはインドだ」と言って、インドの革命に加担しようかと思ったりしているね。
学衆B 衆議院選挙にも出馬してますよね。あれも意外だった。
校長 そう、そういうことをしちゃダメだよね。ぼくもどこかに書いたけれど、この大正三年の選挙は与謝野鉄幹や宮武外骨も出馬したんだけれど、みんな落ちている。落ちたからダメだというんではなく、すでに政治以上のことをしている連中が、不特定多数の票田なんかほしがったらダメですよ。鉄幹や滔天や外骨は逐鹿場裡の人じゃないからこそ、いいんだよ。だからインドへ行ったほうがよかっただろうね。ま、こんなところで除夜の鐘にしようよ。

執筆に励む滔天

千夜千冊1168夜を書き終えた直後の、
松岡正剛の書斎。

たばこの吸い殻とともに、本が積まれていた。

ワープロの画面にも・・

附記¶宮崎滔天の原文が入っている書物といくつかの参考図書のみあげておく。原典は宮崎龍介・小野川秀美編集構成による『宮崎滔天全集』全5巻(平凡社)。散文を厳選収録したのが「日本の名著」第45巻の『宮崎滔天・北一輝』(中央公論社)、『アジア革命奇譚集』『滔天文選』(書肆心水)など。評伝はなんといっても上村希美雄の『宮崎兄弟伝』全5巻と同じ著者による『龍のごとく』(葦書房)。ほかに渡辺京二『評伝宮崎滔天』(大和書房)、三好徹の小説『革命浪人』(中央公論社)など。