ダナ・ハラウェイ
猿と女とサイボーグ
青土社 2000
Donna J. Haraway
Simians, Cyborgs, and Women 1991
[訳]高橋さきの

 ちょっと難解な本である。こういうときはぼくは言葉の呼吸のリズムをあわせて読むようにしている。そうしてスタンザやページが音をたてている心音に耳を傾ける。そうすると若者の意図が聞こえてくる。ダナ・ハラウェイにとって、フェミニズムとは真の知にもとづいた、あるいは少なくとも真の解釈にもとづいた真の人文主義のことであることが聞こえてくる。
 強く書いたり、控えめにまわり道をしたところでは、ページの向こうの著者に尋ねることだ。では、フェミニズムの科学ってありうるのだろうか。女のための科学や同性愛の科学って、あるのかと。ダナ・ハラウェイは「より本当であるような科学」がありうるはずで、それがフェミニズムからもたらされる可能性があるのだと言っている。
 このあたりで、こちらでもちょっと仮の答えを用意する。たとえば、本当に近い科学があるとしたら、それは命名の必然性を問う科学でなければならないのではないか、などというふうに。例もあげてみる。物質、精神がある、質点、対象、分割する、合同できる、統合、エネルギーは流れる、観測者、雌雄の株、根茎、組織、器官、優生遺伝、なわばり、オスは美しい、生殖、受胎、成長、意識、パーソナリティ、自我のめざめ、老化‥‥。
 で、ちょっと間をおいて、こんな概念の組み合わせで、自然や生命のいとなみを説明していてよかったのかと問うことだ。べつだんピンセットで摘まむように男性名詞を排除する必要はないけれど(ハラウェイはそんなことはしていない)、科学や科学技術(テクノ・サイエンス)が国家や資本主義や企業や教育のために組み立てられてきたことはいうまでもなく、それゆえに「おまえの話は科学的ではない」とか「数字が示している事実によって、この一件は破棄しなければなりません」といった言説も罷り通ってきたわけだった。

 だいたいこんな調子だ。これでハラウェイとのシンコベーションが生じてきたら、念のためスキップや勇み足をして、こちらの読み方がむこうを困らせていないかどうかを感じてみる。二人で手を組んで歩いていて、ちょっと足並みを併せていく感じを掴むのだ。
 さてこうなれば、ぼくのほうだって好きに読む。たとえばハラウェイはそこまで踏みこんでいないけれど、科学者という「語り手」とは何者なのかという気分で読みなおす。その語り手にくっついている「目」とは何なのか。科学者がそれをペーパーやコンピュータに書き写す作業とは何なのか。その問題意識を装着しながら読んでいく。

 本書には1978年から1989年までに執筆した文章がずらりと並んでいる。生物学者としてのフェミニストが科学について発言したものとしては、ごく初期にあたるのだが、そのラディカルな論旨と大胆でメタフォリカルな飛躍力で評判になった。
 ダナ・ハラウェイは本書で「猿」をめぐる言説としてサル学や霊長類学を、「女」をめぐる言説としてフェミニズム思想を、「サイボーグ」をめぐる言説として道具や科学技術を俎上にのせたのだ。そして、それをつないだ。
 なぜ、そんなことをしたかといえば、その答えは第9章に書いてあるのだが、アカデミックなフェミニズムも運動するフェミニズムも、何度も「我々」とは何を意味するのかを問い、ついつい「客観性」という奇妙な用語で折り合いをつけようとしてきたのは、それでよかったのかとハラウェイが感じていたからだ。
 もともとは「彼ら」が客観性を持ち出した。その客観性による説明は、「我々」にはあたかも身体も生体もないかのようなロジックをつくっていた。それが知識社会をくまなくつくりあげているストロング・プログラムというものだった。しかし「我々」は、そこに我々ぶんの客観性をもって答えるだけでいいのだろうか。逆に、我々ぶんの「フェミニズムの経験主義」で応戦するだけでいいのだろうか。
 こうしてハラウェイは「状況におかれた知」(シチェイテッド・ナレッジ)によって客観性を標榜する科学をひとつひとつ検討していったのだ。とくにハラウェイの得意な動物学や生物学において。そして、「状況におかれた知」はもっとバルネラブルなのではないかと問うた。

 ハラウェイがいう「猿」とは、サル学や霊長類学の観察結果をあらわしたテキストとロジックのことである。
 ハラウェイはロバート・ヤーキーズの類人猿における知性の研究、クラレンス・カーペンターのアカゲザの群衆心理の研究、ソーリー・ズッカーマンのマントヒヒの雌雄における内分泌研究、セルマ・ローウェルのサルの権力関係の研究などをとりあげ、これら通して、たとえば「サルたちの明白な一夫一妻制」といった説明の仕方がサルたちの本来の行動の説明になってはいないことを検証する。
 さらにシャーウッド・ウォッシュバーンのラングールの研究については、オスが狩猟型でメスが子育て型とする見方や、ファザリング(父親づとめ)とマザリング(母親づとめ)を区分けする見方がはたして妥当かどうかを問うた。
 子殺しにあたる行為も「殺し」とみなすのかどうか、疑念を挟んだ。
 ラングールの繁殖過程を調査したサラ・フルディの著書には「初めて両性の立場から霊長類を分析!」というキャッチフレーズが刷ってあったのだが、ハラウェイは、この、一見するとフェミニズム科学とみえる研究にも、ちょっとした注文をつける。両性を配慮したぶん、フルディは組織理論の用語に走りすぎたというのだ。
 またスザンヌ・リプリーのラングールの研究では、逆に人間モデルのサルへのあてはめに問題を感じている。

 いったいわれわれ(我々だけでなく)においては、どこがナマなのかということが、最も重大な問題なのである。眼鏡をかけた目はナマなのか。靴を履いた足は大地や環境に対してナマなのか。いや、靴の足はわれわれにとってナマなのか。顕微鏡で見た精子は精子の本来の動きなのか。数字の配列にした離婚曲線はナマなのか。それは科学にとってもナマなのか。マルクス主義で見た社会の姿はナマなのか。
 同様に、オスの猛々しさを"男の動物"として観察することはナマなのか。メスの柔らかさや子育てを女性の女らしさを結びつける見方はナマなのか。キャサリン・マキノンが「女性とは、想像上の形象、すなわち他の者の欲望の対象が現実になったものだ」と定義したように、ハラウェイも自然や社会を純粋なジェンダーの目でナマに見ることそのものが不可能に近くなっていることを、深刻に受けとめている。

 本書にはハラウェイがドイツの『マルクス主義事典』の「ジェンダー」の項目のために書きおろした長めの論文も収録されているのだが、そこでハラウェイは自分が英語圏の人間で(それもアメリカ英語の常習者で)、そのためふだんからセックスとジェンダーを区分けしてつかっているけれど、それがはたしてドイツ語では"Geschlecht"の一語によってあらわされているものと同じ意味で感じられているのだろうかという自身への問いかけをおこしている。
 いかにジェンダーの本来のままに言語をつかった思考が純度高く積み上げられていけるのか、その困難にもふれている。
 これがハラウェイの「猿」に次ぐ「女」なのだ。ここには女ではあるけれど、ハラウェイの科学者としての真摯な自負がある。それとともに、科学があまりに言葉と生体の関係をぞんざいに扱ってきた怒りのようなものもある。科学者どうしが社会的合理や職能的合理の蓑笠をつけていることに、おまえたちも、ストリップしてみなよと言いたい気分も漲っていた。もっと吃りなさいとも言った。

 しかし、旧弊に座りこんだままの科学者は杳として動かない。そこでハラウェイはさらに次の作戦に出る。ええいっと、ぶっ飛んだ。あなたがたがそういう態度なら、われわれは自分たちのことを「言語をもったサイボーグ」とみなしたほうがいいのではないか。そのほうが手っとりばやいのではないか。そう出たのだ。
 これが有名なダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」になった。1985年に「社会主義評論」に書いたものだ。サイボーグとは生物学的決定論の軛(くびき)を脱したサイバネティック・オーガニズムの総体をさす。道具や機械と共生するハイブリッドなキマイラのことである。眼鏡をかけたらもうサイボーグ、靴を履いたらもうサイボーグ、ピアノを聞けたらもうサイボーグ、数字を読めるならもうサイボーグ、なのだ。ハラウェイは「サイボーグはポストジェンダー社会の生きものである」とさえ言った。

 こうしてハラウェイは「猿と女とサイボーグ」ではなくて、「猿と女のサイボーグ」になっていく。
 よく耳を澄ましてみると、サイボーグはホーリズムには警戒しているが、関係をとりむすぶことは切望する。サイボーグはよろこんで部分とアイロニーと邪悪に関与する。サイボーグはとうてい公私の対立では構成されてはいない。サイボーグはよしんば家庭を創成することはあっても、よもや家庭から守られようとは思っていない。
 そんなサイボーグが敬虔主義者とはかぎらないのは、宇宙を構成しなおす気がまったくないからだ。サイボーグは軍国主義と家父長制資本主義とにうんざりし、いまさらエディプス・コンプレックスなんぞをあてはめられるのを気嫌いをする。つまりはサイボーグには父親が不要なのである!
 こうしてハラウェイの勇ましいサイボーグの呟きが聞こえてくる。ハラウェイの「猿と女のサイボーグ」は、動物とも機械とも交わっているナマのサイボーグであって、いつだってどんな部分を強調することも、どんな矛盾を抱えることも、どんなにバルネラブルになることも恐れないサイボーグなのである。
 この「猿と女のサイボーグ」は、経験主義にも還元主義にも相対主義にも与さない。そのうえで、普遍的合理性よりもエスノフィロソフィーを、共通言語より言語混淆状態(ヘテログロッシア)を、新機関よりも脱構築を、統一理論より対抗的位置設定を、世界システムよりローカルな知を、どんなマスター理論より網の目状の記述を選ぶのだ。

 ところで、本書のなかでハラウェイが一貫して「部分」にこだわっていることがとても愉快だった。これは「全体」には流動も脱離もないという意味で、フェミニズムとしても、ジェネラルな思想としても、それから編集工学としても、とても重要だ。
 ハラウェイの言う部分とは「位置」をもっている部分なのである。その位置はどこかで必ず身体や生体にかかわっている。その部分には体のアフォーダンスがはたらいていて、ジェンダーのアフォーダンスが絡んでいて、したがって知のアフォーダンスが作用する。部分とはいえ、どこにも響く部分なのである。
 もっといえばケイティ・キングのいう「文章の生産装置」にすら届いていく部分なのである。それをハラウェイは本書の冒頭ではボディポリティックスとも、本書の終盤ではバイオポリティックスとも名付けた。つまりは"そこ"は免疫のようにどぎまぎできる部分なのだ。

 猿と女とサイボーグ。いや、猿と女のサイボーグ。
 実にハラウェイは愉快だ。このサイボーグはいつも「感染性のベクター」(微生物や細菌)と「紐めいた粒子」(クォークやスーパーストリングス)と「生体分子のコード」(遺伝子や神経伝達物質)のゆらぎをうけて、おやじの科学を内側から打倒しつつある。

「サイボーグ」

「サイボーグ」
リン・ランドルフ 作

附記¶ダナ・ハラウェイはぼくと同い歳の1944年生まれ。コロラド大学で動物学を修めイェール大学で生物学博士号をえて、ジョンズ・ホプキンズ大学とハワイ大学で教鞭をとったのち、カリフォルニア州立大学の意識史専攻課程の教授になった。博士論文は発生学に有機体仮説のレトリックがどのようにかかわったかというもので、すでに本書の片鱗を見せている。著書はほかに、全米図書賞を受賞した『霊長類的ヴィジョン』や知と権力の関係を論じた『謙虚な目撃者』などがある。ハラウェイの「サイボーグ宣言」については、日本では巽孝之が早々に『サイボーグ・フェミニズム』(トレヴィル)にそれを収録して、話題をまいた。小谷真理も早くから共闘のエールをおくっている。
 文中に紹介したキャサリン・マキノンはラディカル・フェミニズムを代表するミシガン大学の法学者。『フェミニズムと表現の自由』『ポルノグラフィ』(明石書店)や共著のパンフレット『ポルノグラフィと性差別』(青木書店)の翻訳がある。レイプされた女性たちの支援活動もしている。なお、フェミニストの科学者はレイチェル・カーソンを嚆矢にいくらも輩出しているが、『ジェンダーの神話』(工作舎)のアン・ファウスト=スターリング、『自然の死』(工作舎)や『ラディカルエコロジー』(産業図書)のキャロリン・マーチャント、『エコフェミニズム』(新曜社)のマリア・ミースとヴァンダナ・シヴァ、『フェミニズムとエコロジー』(新評論)の青木やよひ、『境界線を破る!』(新評論)のメアリ・メラーなどが注目される。

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