才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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女帝の手記

里中満智子

読売新聞社 1992

 今朝のワイドショーでは「愛子さま幼稚園初登園」が占めていた。
 
その二ヶ月前は、日本の皇室に女帝をという声が小泉首相と政府と審議会から出され、国会審議に入ろうという直前にあれこれ議論が出て、先送りになったばかりだ。「紀子さま御懐妊」のニュースのせいだというのだが、いささか意外だったのはそのような皇室典範変更案が出たのはずいぶん前だったのに、反対意見がきわめて少なかったことである。まあ、多くは本気で考える気もないのであろう。
 だいたい現在の日本人の大半は、天皇家や天皇制の将来について考える気力も体力も底力もない。おそらく天皇制度をなくしたときの日本のことなど、思念すらできないにちがいない。天皇をめぐる議論をかたちにするには、歴史のことも日本のことも国際政治のことも、すべて詳細に考える必要があるのだが、いまのところ与野党にも知識人にもそんな余裕も、そんな準備も、そんな覚悟もないだろう。

 里中満智子のこのマンガは、藤原不比等を祖父に、聖武天皇を父に光明皇后を母にもった阿倍内親王がやがて史上初の女性の皇太子となり、孝謙天皇となり、さらに重祚(ちょうそ)して称徳天皇になったという、日本史上でも希有の女帝となった歴史を扱った。ここにはさまざまな重要な問題が浮かび上がる。
 阿倍内親王が孝謙=称徳天皇になるまでに、日本の天皇家は推古、皇極=斉明、持統、元明、元正の実に5人の女帝を出現させている。孝謙=称徳を入れると6人8代になる。推古が即位した592年から孝謙が即位した749年までのわずか150年間ほどのあいだに6人8代が次々に女帝になったわけなのである。
 人材が払底していたわけではない。男系の男子がいなかったわけではない。そこに権力をのぼりつめようとした権謀術数が渦巻いた。とくにこのマンガの主人公の時代、藤原一族の野望が前面に躍り出た。
 日本で女帝は禁止されてはいない。しかし、後継者に男子がいなかったから女帝が出現したという例はない。この物語の主人公の阿倍皇女が孝謙天皇となったときは、もともとは安積(あさか)親王がいた。それにもかかわらず皇女が皇太子になった。これは異例のことだった。ただし、一代かぎりとされていたので、孝謙は独身を通すしかなかった。
 物語は、この独身を宿命づけられた女帝の身にふりかかってきた数々の劇的な出来事を描くというふうになっている。

 日本の女帝については、井上光貞の『古代の女帝』や上田正昭の『日本の女帝』をはじめ、いくつかの論考がある。折口信夫にも『女帝考』があった。いまそれらの論ずるところをまとめると、だいたい次のようになる。
 古代日本の女帝の傾向には大きく3段階があった。第1段階は3世紀の卑弥呼・台与の女王期のシャーマンとしての女帝期で、その息吹は神功皇后や飯豊王女にもうかがえる。いわば「巫女王」の時代だ。
 
第2段階は推古天皇から持統天皇までの期間で、先帝の皇后が未亡人としての女帝になった時期になる。推古は敏達天皇の皇后、皇極=斉明は舒明天皇の皇后、持統は天武天皇の皇后である。つまり既婚者が女王になった。夫の先帝の遺志を継ぐという意味でもはなはだ神政的色彩が濃い。「司祭王」の時代といってよい。
 第3段階は元明天皇からの時代で、ここでは皇女であることが条件になる。未婚の皇女(ひめみこ)が天皇になった。もはや皇后は即位できなくなっていく。日本史ではこれをこそ「女帝の時代」という。このルールでいえば、21世紀の女帝も未婚の皇女こそがお世継になる。
 このマンガの主人公の阿倍内親王も聖武・光明の皇女として育ち、天皇家の維持と藤原一族の野望と波乱のなかで、前代未聞の女帝体験をしていくことになった。しかし前途は多難、とくに弓削(ゆげ)道鏡との出会いがすべてを狂わせる。そういう生涯だった。

 皇女としての阿倍の宿命ははやくから激動に満ちていた。弟の基親王が生後1年で死んで、光明皇后のただ一人の子となったこと、長屋王の事件で叔父が失脚し、祖父藤原不比等の4人の子、すなわち義兄がことごとく天然痘で病没したこと、母の光明が玄昉に夢中になったこと、これらのことが天平10年に阿倍皇女が皇太子になるまでのあいだに連続した。
 皇太子になった阿倍は20歳である。皇太子になったということは立太子になったということで、次期天皇の地位を約束されたことになる。皇女がこのような地位につくことはそれまでになかったことだが、藤原一族の血をうける光明は4子を失い、血が絶えることを恐れていた。その光明の意図が強く反映したためだった。
 阿倍が立太子になると同時に橘諸兄(もろえ)が右大臣になった。諸兄は玄昉(げんぼう)と下道(吉備)真備を重用したが、これに対しては藤原広嗣が太宰府で決起して反対を表明した。ただちに制圧軍が九州にさしむけられたのだが、聖武天皇は広嗣が都に攻め上るのを恐れて、平城京を離れて移動をくりかえした。聖武は病弱で意志も弱く、つねに不安を隠せない。広嗣が討たれたのちも平城京に戻ろうとせず、ついに恭仁京に遷都したいと言うばかりか、紫香楽(しがらき)に離宮をつくり、あまつさえ盧舎那仏(大仏)を建立したいと言い出した。
 この聖武の動揺のなか、若き藤原仲麻呂が台頭してきた。仲麻呂は藤原北家の広嗣らに対して藤原南家に属する。仲麻呂は光明や阿倍とともに藤原家の再興を計画した。マンガのなかでは阿倍は仲麻呂に熱烈に恋をして交わることになっている。

紫香楽宮跡

 阿倍は孝謙天皇として31歳で即位した。日本史上初めて皇女が天皇の位についたのだ。即位を記念して天平勝宝と改元され、上皇となった聖武念願の大仏開眼会が派手に挙行された。いわゆる天平文化のスタートである。皇太后となった光明のためには紫微中台(しびちゅうだい)が設置され、仲麻呂が長官に任命された。即位まもない女帝を補佐するための機関である。
 この時点で孝謙女帝には天皇の意識は希薄だったろう。聖武上皇がいて、光明皇太后が紫微中台をつくり、そこには藤原一族の再興を企画する仲麻呂がいた。女帝には藤原家の意識しかなかったとしてもしかたない。
 
やがて聖武が亡くなると、光明はその遺品を正倉院を造って収めた。
 そうこうしているうちに橘諸兄が死に、名門の橘氏の失脚があきらかになった。焦った橘奈良麻呂はクーデターをめぐらすものの、失敗した(奈良麻呂の乱)。藤原一族はのこる大伴一族の追い落としを謀っていた。権力はあきらかに二重構造の様相を呈してきた。一方に太政官制度があって、その頂点に右大臣の藤原豊成がいる。他方に紫微中台があって、光明と仲麻呂がいる。女帝は皇位をあらわす権威としてのみ君臨しているだけである。
 仲麻呂はここで一気に権力の頂点の掌握をめざした。「大倭」(やまと)を「大和」と改称し、孝謙を譲位させて中国風に「皇帝」と呼び変え、大炊王を新天皇に即位させるという計画を練った。かくて天平宝字2年、淳仁天皇が誕生する。新たな権力体制である。
 
それにしても皇帝の名を冠するという狙いは仲麻呂らしい。孝謙は「宝字称徳孝謙皇帝」となり、亡くなった聖武にも「勝宝感神聖武皇帝」の諡号(おくりな)がおくられたばかりか、過去の天皇にも漢風諡号(しごう)をつけた。
 仲麻呂は天皇は天皇家の血筋が継承するが、皇帝は天皇家以外の者が着任する可能性があるとみなしたのである。すべてを中国式にすることによって、過去の天皇主義による政治体制を一変しようという計画だった。仲麻呂自身も恵美押勝と名を変え、太政大臣を太師と改称して政務のトップに就いた。いずれも藤原一族の繁栄を願う光明と女帝の意志がそこに投影されていた。マンガでは孝謙女帝が仲麻呂に結婚を申し込まれることを心待ちにし、仲麻呂はその恋情を利用して権力の座をのぼりつめているというふうに設定されている。

 天平宝字4年、光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇も病いに臥せった。このとき内道場に勤務していた道鏡が祈祷に当たって、病気平癒にあずかった。道鏡は秘法をつかったと噂された。秘法とはずばり淫行のことである。仲麻呂もその噂を聞いて孝謙を責めた。
 ここにおいて孝謙上皇は仲麻呂への心が切れた。法華寺に出家をすることを宣言すると、あえて道鏡にその導師をつとめさせ、そのうえで淳仁天皇と仲麻呂をさしおいて自ら執政にとりくむことを宣言した。いわば"院政"の開始だ。孝謙上皇は仲麻呂に裏切られたと判断したのである。道鏡の知恵がはたらいたといわれる。
 孝謙上皇は九州に左遷されていた吉備真備を呼び戻し、仲麻呂との対決の姿勢を強くする。ただ恵美押勝に印鑑を与えて公式文書の発行を許可してしまったことが悔やまれた。(この文書発行権がいつの時代も政治と社会を決定する!)仲麻呂が専横を開始する前に手を打たなければならない。事態は急を告げていた。上皇は駅鈴と御璽を使って恵美押勝の活動を封ずる作戦に出た。

 激突がおこった。が、恵美押勝の乱は仲麻呂の戦死で終了する。皇帝の座を狙った男の一生は58歳で潰えた。
 
しかし、このとき日本の権力の座はほとんどどうにでもなる寸前の状態になろうとしていたといっていい。
 孝謙上皇は仲麻呂の息が吹きかかった連中を遠ざけ、新たな体制を敷こうとするのだが、そこにはあいかわらず私事がまじった。道鏡を大臣禅師にした。「大臣として存在する僧侶」という意味である。上皇が出家しているのだから、そのような僧籍の大臣がいてもいいだろうという解釈だが、話はそれでおわらない。上皇はついに現役天皇の淳仁の廃位を決定したのだ。
 淳仁天皇は淡路に流された。天皇家の歴史にとって、これこそ前代未聞だった。有名な淳仁の「廃帝の悲劇」である。廃帝は逃亡を企て32歳で殺される。

 天平神護元年、ついに上皇は重祚して称徳天皇となった。それとともに道鏡が太政大臣禅師となった。
 道鏡は河内の弓削の出身で、義淵(ぎえん)について仏門に入り、良弁の薫陶をうけた。梵文(サンスクリット)に通じ、葛城山に籠もって修行をして法力を身につけ、いつのころからか宮中の内道場に入って看病禅師となっていたところ、孝謙上皇の病気平癒で一躍その名をあげた。女帝より10歳ほどの年上であった。
 妖僧・悪僧・色僧といわれ、女帝をたぶらかしたというのが後世の通り相場だが、実はそのような証拠は何も記録にのこっていない。里中満智子は道鏡の書を見て、意外に「素直なもの」を感じてこの物語を思いついたという。実際の道鏡の書はとくにうまくはないが、たしかに男らしい実直な書風だ。坂口安吾の『道鏡』では道鏡がかなり純一だったというふうに解釈されている。
 
けれどもしだいに宮中の中心部の大立者とみなされていった道鏡が、さていつまで実直だったかは疑問である。

 翌年、道鏡は「法王」となった。自分でその地位をほしがったとはおもえない。称徳がそのようにした。法王宮職も設けられた。
 
しかし、これによって道鏡の権限はなんと天皇と同等になった。これではたとえ純一だった道鏡だとしても、おかしくならないはずがない。
 左大臣には藤原永手が、右大臣には吉備真備が就いた。この人事はある意味では名門や権勢を無視した自由な組閣であったが、もし称徳女帝にそのような意図があったのだとしたら、日本政治史上稀なる民間人登用型の自由な人事であるのだが、実は道鏡の扱いにすべて象徴されていたように、弓削一族の次から次への登用はやはり異常にすぎた。
 しかし里中は、そこにも孝謙=称徳が藤原一族の権謀術数のなかで犠牲になったという認識が強く動いていたのではないかという見方をしている。
 それにしても、
長屋王事件における叔父の藤原房前の陰謀、母の光明を皇后にするための画策、女の自分を皇太子に仕立てるための母の執念、かぎりなく疑わしい安積親王の急死事件、そして仲麻呂の野心が引き起こした数々の出来事‥‥。それらはすべて藤原のシナリオの野望と矛盾であり、それゆえに自分は独身のまま子ももてずに国政にまみれることになったのである。もし、藤原に代わる名門がつくれれば、こののちの藤原一族と天皇家の確執に終止符を打てるのではないか。そう、女帝は考えたのかもしれない。里中はそのように見た。それゆえ、道鏡の一族の弓削に希望を託したのではないかという推理である。

 女帝が道鏡を法王にしてしまったことは、さすがに国中を不安にさせた。反対派はさまざまな計画を練るのだが、うまく運ばない。やむなく神の力に頼ることにして、宇佐八幡の神託に「道鏡を天皇にせよ」というお告げが出たことにして、逆に反対運動を募るというきわどい作戦をとることに決めた。
 これは道鏡の弟の弓削浄人が太宰師であったこと、主神(かんづかさ)に中臣阿曽麻呂がいたことを利用したもので、阿曽麻呂がニセの神託を出すことによって弓削の企みと思わせるというシナリオだった。
 さすがにこの神託がもたらされると、称徳女帝も道鏡も気色ばんだ。これは罠であろという気にもなった。そこで和気清麻呂に宇佐へ行かせ、もう一度その神託が本物であるという結論をもってこさせようという手に出た。これには反対派も動揺した。清麻呂ならそのような神託を出させかねない。清麻呂を途中で討つか、それとも抱きこむか。
 
そこへ女帝とは腹違いの不破内親王が女帝に呪いをかけているという噂が立った。

和気清麻呂が神託を受けた宇佐八幡

 清麻呂がここでとった決断は、その後の天皇家の歴史を救ったといわれる。清麻呂は女帝との約束を破り、神託は「これまでどおり天皇は天皇家から選べ」というものだったと伝えたのである。
 こんなふうな文言が記録にのこっている。「わが国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもって君とすること、いまだこれあらず。天つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇緒(こうちょ)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」。
 よほどの清麻呂の決断だったろう。しかし、女帝は清麻呂とその姉の広虫を流罪にした。道鏡の天皇就任の計画は遠のいたが、女帝はあきらめはしなかったようだ。突如として由義宮(ゆげのみや)への行幸を敢行した。由義宮は弓削一族の本拠地に立てた離宮のようなものだったのだが、女帝はここに「西京」という皇居を造営する計画をもったのだ。
 
が、このとき女帝は供応の品に交じっていた毒を飲まされるのである。
 称徳女帝は盛られた毒による病状が悪化したまま、宝亀元年に死んだ。52歳だった。皇位を継承したのは白壁王で、光仁天皇となった。道鏡は下野(しもつけ)の薬師寺に追放された。井上(いかみ)内親王が皇后になった。かつて伊勢の斎宮だった者である。 

 女帝が道鏡を法王にし、さらには天皇にしたかった真意には推測しがたいものがある。しかし里中が描いたように、孝謙=称徳は結婚できなかった立場に追いこまれた。そこにのこされた道は、自分が退位して自由に結婚するか(仲麻呂が最初の候補だった)、同格の天皇と結婚するかそのどちらかだった。それができれば後継者もつくれる。
 女帝は道鏡を天皇とすることで、少女の阿倍のころからの希いを遂げ、同時に後継者をつくろうとしたのかもしれない。里中はさらに想像を逞しうしている。女帝は天皇制度の枠組から女性を解放させたかったのではないかというのだ。
 孝謙=称徳女帝の物語は恋と権力だけにあるのではない。女帝は百万塔陀羅尼を祈願して日本で最初の木版を試み、道鏡のためとはいえ西大寺を造営し、そのかたわらに西隆寺という尼寺を建てた。
 こうして、日本の女帝の歴史は、孝謙=称徳でいったん終わった。実際にも平安・鎌倉・室町時代には女帝はまったく登場していない。ところが徳川時代になって109代の明正天皇と117代の後桜町天皇という二人の女帝が出現した。
 明正女帝のばあいは、第1046夜にも少しふれたように、後水尾天皇が幕府の介入を嫌ってあえて一代かぎりの独身女帝をたてることで、徳川家の皇室への婚姻の野望を断ち切るためだった。つまり後水尾が自分でさっさと譲位して、徳川家の野望を打ち砕く作戦に出たためだった。
 
後桜町女帝のばあいは、桃園天皇が22歳で急逝し、皇子も5歳の英仁親王と3歳の貞行親王だったので、桜町天皇と二条舎子とのあいだの智子内親王が中継ぎとして選ばれ、11歳になった英仁親王を立太子にたてたのち、2年後に31歳で退位した。
 後桜町天皇はその後、"国母"とよばれた。次の光格天皇を立てることを導いたからである。第1091夜の『幕末の天皇』に案内したように、光格こそその後の天皇制度の中興の祖だったのである。
 さあ、それにしても、である。平成の日本は女帝問題をあまりに安易に考えているのではあるまいか。誰が仲麻呂か、どこに道鏡がいるのかは知らないが、この時期はしばらく深々と天皇の歴史を覗きこんだほうがいい。

附記¶孝謙=称徳女帝のことは道鏡とともに、さまざまに論じられてきた。上田正昭『日本の女帝』(講談社現代新書)、北山茂夫『女帝と道鏡』(中公新書)などが参考になる。道鏡を主人公にした小説には坂口安吾の『道鏡』(角川文庫)や黒岩重吾の『弓削道鏡』(文春文庫)がある。女帝の皇位問題については高橋紘・所功の『皇位継承』(文春新書)が詳しい。
 里中満智子のマンガは本格派である。歴史ものをはじめ、正面きって神話や伝説をとりあげたものが多い。ぼくもシンポジウムに呼んだことがあるのだが、歴史家に劣らぬ歴史観や仮説を披露してくれた。古代日本のものでは持統天皇を描いた長編の『天上の虹』(講談社)、『長屋王残照記』(中公文庫コミック)など。『マンガ・ギリシア神話』(中公文庫コミック)もよく描けている。代表作は『アリエスの乙女たち』(講談社)だろうか。