才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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フェルメールデルフトの眺望

アンソニー・ベイリー

白水社 2002

Anthony Bailey
VERMEER - A View of Delft 2001
[訳]木下哲夫

 1970年代半ばのことですが、神田に現代思潮社が経営していた美学校がありまして、種村季弘澁澤龍彦・松山俊太郎さんらは講義を、立石鉄臣・中村宏・赤瀬川原平さんたちは実技を教えていました。ぼくも、髭をたくわえた飄々とした観念仙人ともおぼしい松沢宥さんに頼まれて、「最終観念美術教場」という恐ろしい名の授業を受け持っていたことがあります。
 その教場には横須賀未美ちゃんという女性がいて、その未美ちゃんが、あとで知ったのですが、なんと横須賀功光の二番目の奥さんだったので、ぼくはそれからしばらくして天才写真家・横須賀功光と知りあうことになるのです。
 それはひとまず余談の話で、実はその美学校の立石鉄臣教場に点描細密画を修得しつつあった牧宥恵君がいました。富山でマントラバンドという楽団をつくっていた青年で、そのバンド名の通り、密教にひとかたならぬ関心をもっていました。牧君はときどきぼくの松濤の共同住宅、通称ブロックハウスというのですが、そこにふらりと遊びにきていました。のちに京都の智積院で密教の灌頂を受けました。
 さて、いったい何の話のきっかけでそういう話題になったのかは忘れましたが、牧君はある夜、しきりに「フェルメールは最高ですよ」を連発したのです。「だってあそこまで光を描くなんて、いないんじゃないですか」「眼の光が潤んでますよ」と興奮していたのです。「パルミジャニーノは?」「カラヴァッジョは?」「レンブラントは?」とぼくはいじわるく質問してみたのですが、牧君は、いやカラヴァッジョもレンブラントも問題にならないですよというのです。牧君はフェルメールの光を密教とすら結びつけたかったようですが、それはともかく当時はフェルメールにそこまで惚れる青年がいたことに誇らしいものを感じました。
 いま、牧君は和歌山の根来寺に住んで売れっ子の仏画師になっています。牧君なりにまさに「光」を描いているわけです。フェルメールと立石鉄臣と仏画とがどこかでつながったのだとしたら、ありがたいことです。

 こんなことを思い出したのは、牧君とフェルメールについてちょっとした談義をたのしんでからしばらくして、ぼくは自分が言ったことが気になって、フェルメールの画集を美学校や桑沢デザイン研究所でつぶさに見ることになり、そのときフェルメールの「光の点綴画法」というもの、いわゆる「ポワンティエ」に心底瞠目してしまったのですが、はたして、そのようなフェルメールの「光点」についての議論はその後、どのように研究されているのだろうか、どういう見方が主流になっているのだろうかということを、ずっと気にしていたからです。
 そしてそういえば、そのことを「千夜千冊」には書いていなかったなあと、去年の暮れに思っていたからです。

 実は今夜、フェルメールのポワンティエのことをそろそろ書かなくてはと思ったのは、ここでさきほどの余談がちょっと生きてくるのですが、そもそもは、ぼくが恵比須の写真美術館で開かれることになった横須賀功光展を、横須賀さんの遺児の安里君に頼まれて手伝うことになったからでした。
  この写真展はぼくが『光と鬼』とタイトリングしたもので、分厚い写真集を勝井三雄さんと構成編集しました。会場構成は長友啓典さんと藤本晴美さんです。
 どのように横須賀さんの遺作を写真展にしたり、写真集にしたかということは、その経緯を話すだけでたいへん興味深いことがいろいろあるのですが、それはいまはさておき、そうやって仕上がった写真美術館を一仕事をやっとやりおえた感慨をもってあらためて見ていたとき、横須賀さんの写真が秘めた「光」はいったいレンブラントやフェルメールがカメラ・オブスキュラを通して見た光とくらべると、どんなことになるのだろうかと思ったのでした。
 それというのも、ぼくは横須賀さんの写真には量子的な光というもの、つまりは「光量子の動向」というものを感じていたからで、横須賀さんはそれをあくまでマン・レイの写真技法にまではさかのぼっていたのですが、考えてみればマン・レイはエドワード・マイブリッジやエティエンヌ=ジュール・マレイにまで、マイブリッジたちは印象派の奥にいるレンブラントやフェルメールまでさかのぼっていたわけですから、横須賀さんの「光」とフェルメールの「光」をつなげてみることは、必ずしも的外れではないはずなのです。

 しかし、このような見方をそれなりの意図で遊ぶには、そもそもルネサンスバロックが「光」をどのように見たか、ガリレオやホイヘンスやフックがレンズで世界を見ることになった意味はどういうものだったか、カメラ・オブスキュラはどのように人々の世界観の表現の仕方を変えたかというところまで考える必要があります。
 けれどもそのことを今夜一夜で書くにはたいへんなこと、さあ、どうしようかなと思っているうちに、2006年の今年があけたのです。

 まあ、以下はいま申し上げた思い出話の延長のようなもの、気楽に書いてみますから、読み流してください。ポワンティエのことは最後にちょっとふれてみます。
 ああ、言い忘れるところでしたが、今夜とりあげたアンソニー・ベイリーの一冊は、とくにフェルメール論として優秀なものではありません。フェルメールに関する議論をできるかぎり多く脈絡をつけてまとめた評伝に近いもので、著者のベイリーが「ニューヨーカー」で35年にわたって文化面を担当してきたキャリアがよくわかるというような一冊です。いわばテレビ・ドキュメンタリーにするといいような内容といえばいいでしょう。「デルフトの眺望」という有名な副題がついています。
 本格的にフェルメールをめぐる議論について読みたいなら、小林頼子さんの大部の『フェルメール論』か、やはり小林さんがNHKブックスに書いた『フェルメールの世界』か、その小林さんが構成したとおもわれる六曜社の共著『フェルメール』がいいでしょう。

 さて、西洋絵画の歴史がルネサンスを経過するうちに筆のタッチをほぼ完全に消すようになっていったことは驚くべきことでした。1370年から90年ごろにネーデルラントに生まれたファン・エイク兄弟が、すでに亜麻仁油(リンシード・オイル)によって透明性をもつ絵の具の重ね塗り(グレース)を数十回もくりかえしていたのが最初でしょう。弟のヤン・ファン・エイクは『アルノルフィニ夫妻像』や『ヘント祭壇画』をそのために描いたようなものです。
 これが油彩画の"発明"でした。これによって何がおこったかというと、中世以来のテンペラ画の欠陥から脱出したのです。
  テンペラ画は油と膠質からなる乳剤を水溶性の媒剤にして、これで顔料を練り合わせた絵の具をつかいます。媒剤には卵や膠や樹脂やゴムのようなものが用いられたのですが(卵が多かったようです)、これだと乾きが速くて、丈夫で耐久性が高いものが描けるのはいいのですが、平塗りやぼかしができません。だからどうしても線描的になります。
 これに対して油彩画(オイル・ペインティング)は、顔料を植物性の油にまぜた絵の具を作って、それを薄める溶剤にワニスをまぜてたくみに皮膜をつくり、それで光沢を出せるようにしたものです。これで格段の色調や濃淡が表現できるようになり、不透明な描法から透明な描法までいかようにも工夫できるようになった。一言でいえば、光と面が同時に描けるようになったのです。
 そこでおおいに注目するべきことは、このような油彩の技法を考案したファン・エイク兄弟が北方のネーデルラントに登場したということです。
 このことはしかも、その後のネーデルラント絵画、つまりはオランダ絵画ですが、そこにヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルやレンブラント・ファン・レインやピーテル・デ・ホーホやヨハネス・フェルメールを生んだことと、とても関係があるということです。

ヤン・ヴァン・アイク『ゲント祭壇画』

ヤン・ファン・エイク『ゲント祭壇画』

 陽光の眩しい乾いたイタリアと異なって、北方のネーデルラントはもっと光がほしかったのでしょう。もっと光がほしいけれど、その光はギラギラしたものにはなってほしくはありません。湿潤な気候からいっても微妙な光で仕上げたい。それが「低地」という意味をもつネーデルラントの地域の本質なのです。
 もっともすぐにネーデルラント=オランダ絵画がファン・エイクの直後から「光の絵画」を独走できたわけではありません。フィレンツェのルネサンスに『絵画論』を書いたジャン・バッティスタ・アルベルティやピエロ・デッラ・フランチェスコの「線遠近法」が出現したことと、レオナルド・ダ・ヴィンチによる独創的な「キアロスクーロ」(明暗法)と「スフマート」(対照法)の錬磨とが、加わる必要がありました。イタリア・ルネサンスはイタリア・ルネサンスで、テンペラ画の限界をなんとかキアロスクーロやスフマートで乗り越えようとしていたのです。
 このオランダ型の油彩の技法とイタリア型のキアロスクーロ技法とスフマート技法の3点セットによって、西洋美術は完全に筆のタッチを消して、明暗表現の冒険に、つまりは「光の絵画」の冒険に船出できたのです。ぼくはそのように見ています。

 ここでちょっと象徴的な比較をしてみますが、フェルメールは1632年のオランダのデルフトという町に生まれているのですが、そのフェルメールとまったく同い歳なのは、日本のアーティストでいえば一木(いちぼく)鉈彫りの円空なのです。
 フェルメールが筆のタッチをほぼ完璧に消した当時唯一の画家であったことにくらべると、荒削りをもって一貫しつづけた円空はまさに対照的だったといえるでしょう。彫塑だから刀意が残ったのではありません。だいたい東洋や日本の絵画は筆の動きを画面から隠さない。実はフェルメールや円空の6年前の中国に、天才的な水墨画家だった八大山人がちょうど生まれていたのですが、八大山人など、まさに筆意は紙に躍ったままです。タッチを消そうとはしていません。
 また、ついでにいえば、レンブラントはフェルメールより27歳ほどの年上の同じオランダ人ですが、このレンブラントの時代年齢は日本でいえば宮本武蔵にほぼ近い。武蔵は周知のように画号を二天といって気韻神妙な絵を描いて、やはり筆を剣と見立ててその切っ先を紙に残響させることをもって志しとしたものです。筆の跡が死んでいると、自分がやられたような気分になるといって、何度も描きなおしたようです。
 洋の東西で、筆を残すか筆を消すかは、少なくともルネサンスからバロックの時代までは、まるで美意識が拮抗するかのように、まったく対照的だったのです。

 ファン・エイク兄弟に始まった北方ルネサンスの牙城ともよばれたネーデルラント=オランダ絵画は、こうして西洋美術史の「光の秘密」のかなり重大な部分を担ったわけでした。イタリア・ルネサンスだけでは「光の絵画」は飛躍できなかったのです。
 とはいえ同じオランダだからといって、その動向は同日には語れません。中国ほど広大ではないのでその差は微妙ではありますが、それでも北と南ではいろいろのことがやはり異なっています。徳川時代の江戸と京都がまったく異なる美術を発達させたようなものと見ればいいでしょう。たとえば京都にはあれほど江戸で流行した浮世絵がまったく流行しなかったのです。

 そもそも絵画にはその絵を描いた画人が背負うトポスというものがあります。
  アルトドルファーだって英一蝶だって、蕪村だってゴッホだって、ダリだってジャスパー・ジョーンズだって、大小の地域や国域の差はあれ、必ず画人が育ったトポスを背負いました。ゴッホの町とダリの港とジョーンズの国旗は、そうしたトポスの表現だと見るべきです。近代の日本画だって、東の横山大観と西の竹内栖鳳とは、主題も技法もまったくちがう。それは風光の相違から社会観や価値観の相違まで及びます。
 レンブラントやフェルメールの時代は、ネーデルラント=オランダが長きにわたったスペインの属領としての性格をどのように脱したかということが、大きな政治社会的なトポスの条件になります。宗教のちがいも重要です。ちなみにこんなことは歴史地図を見ればすぐわかることですが、当時のネーデルラントとは、その後のオランダとベルギーの両方をさしていました。

 オランダ絵画史では、まずもってファン・エイク兄弟がネーデルラント(低地)を背負って最初の出発をしたのですが、当時は南方のフランドル地方のブリュージュ・ヘント・ブリュッセルなどの自由都市の勢力が強くて、そこでは都市貴族と商工業者たちが力をもっていました。
  ということは、画人が絵を描いて生業とするには、必ずこうしたスポンサーやパトロンを必要としたわけで(注文のない絵画など、そのころはほとんどなかったのです)、その都市のスポンサーの意向によって絵画の方向も決まっていったわけです。ヤン・ファン・エイクが公証人をモデルとした『アルノルフィニ夫妻像』を描いた理由がそこにあります。
  日本でも室町時代までは大半の絵が注文によっていて、それが将軍家の注文であるばあいはとくに「様」とか「新様」とよばれています。
 1450年ごろの生まれのヒエロニムス・ボスだって、あんなに怪物や魔物を描いたのだから勝手な画想だと思いたくなりますが、ボスにも実はフェリペ2世を筆頭とするコレクターがいたのです。誰も時代のトポスから自由であったわけではありません。だから1528年にボスと同じ地方に生まれたピーテル・ブリューゲルも、そのボスの忠実な模倣から入って、しだいに当時の社会風俗の月暦の行事性や村落の生活性に惹かれていったものでした。
  冬は雪に埋もれるボスやブリューゲルの北国の日々を除いて、かれらの絵を見るわけにはいきません。津軽のねぶたは、暗くて寒い冬だから、ああして明るくて強烈になったのです。

 そういうネーデルラントが16世紀の後半に入ると、フェリペ2世の圧政に抗して南北に分断されてしまいます。そのうちの北部7州が独立したのが、ユトレヒト同盟を結んだときにがんばって中核を担ったオランダ(ホラント州)という国になります。
 それに対して南部はフランドル地方ですが、そこはまだフェリペ2世の影響が大きく、娘のイサベラの宮廷が続行していて、活発な貿易港だったアントウェルペン(アントワープ)が繁栄しています。
 つまりは、アムステルダム・デルフト・ロッテルダムの北部オランダと、アトウェルペン、ブリュッセル、フランドル地方の南部とは、このように異なっていた。これは風光の光のちがいというより、社会の光のちがいです。
 レンブラント・フェルメール以前のオランダ絵画を代表するピーテル・ルーベンスは、そのアントウェルペンを故郷として1577年に生まれています(ただし生誕地は父が政治的事情で逃れていたドイツのウェストファリアです)。いったんルネサンスの最後の残照を浴びにイタリアへ行き、また31歳でアントウェルペンに戻ります。ルーベンスのトポスはまさにアントウェルペンなのです。このことがウィーダの童話『フランダースの犬』の背景になっていることについては、第426夜に詳しく書いておきました。
  外交官でもあったルーベンスは、アントウェルペンというトポスで組織絵画とでもいうべき方法を確立し(日本ならさしずめ狩野派の組織絵画にあたります)、自分の下絵を弟子に何枚も配ってこれをブローアップさせて組み合わせ、自分はそのディレクターとして本番の絵を仕上げるという仕組みをつくりました。
 そのルーベンス工房の助手として登場するのが1599年生まれのアントン・ヴァン・ダイクです。ただヴァン・ダイクは師匠の傍らにいては息苦しく感じたようで、1632年にはイギリス王に招かれて宮廷画家になっていますから、後期のダイクはオランダ絵画史からははずれます。

 ところで、北部7州を背景にしたオランダはアムステルダムを首都にした国で、プロテスタンティズム(新教)、とりわけカルヴィニズムを奉じた地域です。
 このオランダはまた、17世紀には東インド会社を経営して、ヨーロッパに最初に出現した本格的市民社会を築きあげました。そのため絵画も、いわば"市民の、市民による、市民のための絵画"になっていく。カトリックを奉じた南部ではまだ貴族や教会がパトロンだったのですが、オランダでは市民がパトロンになったのです。
 このことは重要です。こういう地域のトポスの事情が次の時代のレンブラントを、その次のフェルメールを語るにあたっての前段の事情になっていくからです。レンブラントに肖像画を注文したのは自警団ですし、フェルメールの絵を買ったのはパン屋さんや印刷屋さんだったのです。フェルメール自身もさまざまな市民としての副業をもっていた。そのうえでかれらは北方の「光の秘密」の絵画化にとりくんだのです。

 レンブラントやフェルメールが出現するにあたって、もうひとつ前段の事情として見ておかなくてはならないことがあります。それは、光の技法としてのキアロスクーロ(明暗法)が、マニエリスムと初期バロックのなかで格段に劇的な手法に達しつつあったということでしょう。
 そこには鏡を用いたパルミジャニーノからボローニャ派のアンニバレ・カラッチまで、単色が多彩を発揮することを告げたエル・グレコから魔術的な色班を駆使したディエゴ・ベラスケスまで、さまざまな実験があったのですけれど、いまそれらの劇的な飛躍を一人に代表させれば、これはなんといってもカラヴァッジョの奔放きわまりない無頼ともいうべき活動に集約できると思います。
  カラヴァッジョはまるでスポットライトを当てたかのように画中の人物を浮き上がらせ、逆に部屋の奥に広がる闇を一挙に深くしました。
 このカラヴァッジョの大胆な表現が次の時代の一人のラ・トゥールと一人のレンブラントをつくったのです。ぼくはニューヨークのメトロポリタン美術館でラ・トゥールの『マグダラのマリア』(1640)を見たときの、あの息がとまるような瞬間を忘れることができないのですが、そのラ・トゥールを後世、「夜の画家」とよぶようになったヨーロッパ人の驚きが、そのとき忽然と理解できました。
 レンブラントについては、もはや言うまでもありますまい。カラヴァッジョはレンブラントによって「明暗対照法」(クレール・オブスキュール)になりました。

 ということで、やっとレンブラントとフェルメールのことになるのですが、この二人についても必ずしも一緒には語れません。
  レンブラントはライデンに育ってアムステルダムに死んだ画家です。ライデンは中世以来の大学都市で、カルヴィニズムの砦です。そこは、レンブラントに『預言者アンナ』(通称「画家の母」)(1631)という絵があるのですが、まさにあの絵にあらわれたような宗教性の高い町で、かつライデン大学に代表される「知識の町」でもあったわけです。だからこそレンブラントは『トゥルプス博士の解剖講義』(1632)のような絵を描いたのでしょう。
 レンブラントはそういう都市にいて、アムステルダムに移り、自分ではあくまでも肖像画家を自覚していて、それ以上でもそれ以下でもないと考えていただろうと思います。カルヴィニズムでは富や私有財産は「天職」(ベルーフ=コーリング)の美しさとつながっているのです。レンブラントはその天職を描くための肖像画に徹したのであって、だからこそ、そこには天職をより劇的に描くためのバロック的な物語性が趣向として加わっているのです。
 これに対してフェルメールは小さな港町のデルフトに生まれ育って、最初は物語画家としてスタートを切っています。ところがバロック的な劇的な物語を律するのが性にあわずに、静かな市民生活の一隅を描くようになっていきます。
 レンブラントが『夜警』(1642)に代表されるような"集団肖像画"を考案して、いわば絵画を劇場的な照明世界に仕立てたのに対して、フェルメールは生活照明の一隅を描いたのです。
 このレンブラントの劇場照明性とフェルメールの生活照明性のちがいは決定的でしょう。ぼくは早稲田時代に素描座という劇団に所属してアカリ(照明)を担当していたことがあるのですが、そのときは世の中のインテリア照明というものがなんとも中途半端でやりきれなかったものでした。劇場的な光の世界から見ると、生活空間の照明はなんとも場面転換のない安静空間のように見えるのです。
  しかし、フェルメールはそのインテリア照明のほうで革命をおこしたのです。

安晩冊(二十二面の内)  八大山人

レンブラント・ファン・レイン『トゥルプス博士の解剖講義』
安晩冊(二十二面の内)  八大山人

レンブラント・ファン・レイン『夜警』

 フェルメールがどのように生活照明的な絵画で革命をおこしたかということについては、牧君とフェルメールを語った夜からこっち、それなりにあれこれ読んだり見たりしてきたつもりですが、意外にこれといった定説は出ていないようです。
 もっともフェルメールがどのような画家や絵画理論の影響を受けたかということは、ほぼわかっています。アムステルダムとデルフトを結ぶ絵画的な強い絆をもたらした画家たちがいるのです。ひとつはカーレル・ファブリツィウスがアムステルダムのレンブラントの工房で絵画技法を学んで、その技法をデルフトに来て伝えたという説が濃厚です。フェルメールがファブリツィウスに絵を習った可能性は高いらしく、きっとカメラ・オブスキュラを使う技法がここでデルフトに伝ったのだというのです。
 もうひとつはアントニー・フォン・レーウェンフックとのつながりですが、これについてはすぐあとで説明します。

 フェルメールがカメラ・オブスキュラをどのように使っていたかということは、ほぼ議論が尽くされています。謎はありません。部屋のなかに小型のカメラ・オブスキュラを設置して、カンバスの要所要所にピンを立て、そこに糸を括って引っ張って遠近法の線をつくりだしていた。日本の大工さんの墨打ちのように、その糸に色を添えてそれをカンバスに落としてもいたでしょう。すでに研究者たちが何度も指摘したように、フェルメールのいくつかの絵にはピンの穴がまだいくつも残っています。
 しかし、フェルメールは遠近法のためにカメラ・オブスクラを利用しただけではなかったのです。フェルメールの光もまたカメラ・オブスキュラから覗いたレンズの効果に律せられていた。しかもかつてはむろん、その後も誰もそんなことをしなかった方法によって、フェルメールは光の点を最小にぼかしていったのです。
 瞠目すべきなのはその「光の点綴画法」(ポワンティエ)です。この方法はドラクロワと印象派の連中がフェルメールのポワンティエに気がつくまではまったく無視されていたものでした。
 どのようにフェルメールが光の点をぼかしながらレオナルド以来のキアロスクーロを一変してしまったかは、実物をつぶさに見るか、拡大図版に注目してみるしかありません。言葉ではとうてい説明できません。ここでは『牛乳を注ぐ女』(1660)、『フルートを持つ』(1665〜70)、『赤い帽子の女』(1665〜6)のディテールを参考図版として掲げておきますが、フェルメールはあらかたの油彩を描きおえたあと、光の階調をあびている部分のことごとくに微妙にサイズを変えた無数の光の点を打っているのです。これはふつうのカラー写真をいくら見ていてもわかりません。

ヨハネス・フェルメール『牛乳を注ぐ女』(部分)

ヨハネス・フェルメール『牛乳を注ぐ女』(部分)
ヨハネス・フェルメール『フルートを持つ』(部分)

ヨハネス・フェルメール『フルートを持つ』(部分)
ヨハネス・フェルメール『赤い帽子の女』(部分)

ヨハネス・フェルメール『赤い帽子の女』(部分)

 フェルメールがこれほどポワンティエ技法を駆使したことについては、さっきあげたアントニー・フォン・レーウェンフックとの密接な関係をおもいおこす必要があります。
 レーウェンフックはデルフトに住んでいた独学の科学技術者で、ガラスを割り、これを磨いていくモノレンズを作っていました。カメラ・オブスキュラはむろん、みずから名付けた「ミクロスコピア」(顕微鏡)を何台も製作しています。100年後にレーウェンフックのミクロスコピアが売りに出されたことがあるのですが、そこにはなんと266倍もの倍率をもつものもあったそうです。のちに科学史ではレーウェンフックを「原生動物とスピロヘータと精子の発見者」ともしるします。
 どうやらフェルメールはこのレーウェンフックと昵懇だったようです。のみならずレーウェンフックが「勤勉な努力によって不可知と思われていた価値が浮上する」という科学精神を表明していたことにすこぶる共鳴していたようです。
 加えてここには、まずヨハネス・ケプラーの望遠鏡理論が、ついでライデン大学にいた若きクリスチャン・ホイヘンスの光学理論の多大な影響が入りこむ。土星の環を発見したホイヘンス、光の波動説を確立したホイヘンス、振子時計を発明したホイヘンスです。ホイヘンスの影響については、フェルメールが残念なことに僅か43歳で死んでいるので、30代後半くらいに影響が重なったと推理できるのですが、そのあたりのことはいまのところはまだ実証されていません。
 しかし、ぼくはフェルメールは想像する以上に科学技術に関心を寄せていたと思うのです。そのひとつのあらわれが『天文学者』(1668)と『地理学者』(1669)に結実しています。どうやら同じモデルによって描き分けられたとおぼしいこの2枚の絵は、フェルメールが科学者の実験精神に強く憧れていただろうということをよく象徴しています。

 いや、ここからはぼくの独断になるのですが、おそらくフェルメールは当時のデルフトに沸騰していた窯業技術から光学技術までを、運河技術から測地技術までを、かなりの好奇心で眺めていたはずで、そのいっさいをなんとか集約して「光の絵画」にとりこもうとしていたはずなのです。
 少なくとも窯業に関しては、フェルメールがたいていの絵に描きこんだ有名なタイルがそれを十分に証しています。あれはデルフト特産のタイルなのです。また測地技術については、これまたフェルメールが絵の中の壁にかかった地図への愛着として描き出されているといえるでしょう。
 あとは、どのように光学的な事件を絵の中に描きこんだかということです。『信仰の寓意』(1670〜72)の天井から吊り下げられたガラス玉に映った部屋の写像も、そのひとつです。牧君が「眼の光が潤んでいますよ」と言ったのは、おそらく『真珠の耳飾りの少女』(1665頃)の眼の光のことでしょうが、それもひとつです。あの眼の光はあきらかにソフトフォーカスに描かれているのですが、それはカメラ・オブスキュラの単眼レンズがもたらす効果をそのままフェルメールが描いたことを証します。フェルメールはまさに「光学の驚異」に忠実だったということです。

ヨハネス・フェルメール『信仰の寓意』

ヨハネス・フェルメール『信仰の寓意』

 そうだとすると、ここでやっと横須賀功光さんが光量子を撮りたいと思った写真とも話がつながってくるのですが、フェルメールにはその柔らかな画題の温かさとはまったく裏腹に、「光の絵画」のためにカンバスを"印画紙にした"ともいうべきだということになるのではありますまいか。ぼくにはそんなふうに思えるのです。
 むろんまだ写真技術は生まれていません。それどころか、ファン・エイク兄弟に始まったオランダ絵画が、ここでついに筆のタッチを完全に消した「色光の表現」に達したばかりなのです。けれども、その到達がもしフェルメールによって完成したとするなら(まさにそうなのですが)、そのカンバスにはその後の西洋美術が挑んだすべての光学的可能性がひそんでいたと見るべきなのです。

 きっと、以上のことをもっとちゃんと証明するには、コンピュータなどを駆使して、フェルメールの絵画からポワンティエをすべて除去し、そのうえで新たに輪郭が曖昧な光点をさまざまにサイズを変えながらコンピュータ画面上に付加変容させてみればいいでしょう。そんなこと、フェルメールにとっては迷惑なことでしょうが、どうしてもというなら、そういう寺田寅彦だっておもしろがれるようなことをしてみることです。
 しかし、そこでまた横須賀さんのことを思い出すのですが、天才横須賀功光は自分がよんどころなく白血病で死ぬことがわかったとき、半年ほどをかけていっさいのネガ・フィルムを選抜し、不要なものの大半にハサミを入れていったのでした。また、カラーポジについても、多くを捨ててしまっていた。
 これは、あとから写真展を企画しようとしたわれわれを困らせました。一部のプリントは横須賀さん自身が残したもの以外にはなくなってしまったからです。伸ばしもできなければ、多くのフィルムから焼き直すこともできなくなった。けれどもよくよく想えば、これはヨハネス・フェルメールが30数点しか作品を残さなかったことと同様に(むろんまだ発見されていない作品があるかもしれませんが)、われわれの目から、横須賀功光がフィルムに躍っていた「光」の量子を「鬼」に預けてしまった秘密を、永遠に封じることにもなったということだったのかもしれないのです。

 まあ、今夜のフェルメール談義はこのくらいにしておきます。フェルメールについては、これまでさまざまな議論が絶えず、いまでもその余波が世界に広がっていて、紛失した一枚の絵をめぐってすら何冊もの本が書かれているくらいです。
 さきほども書きましたが、日本では小林順子さんが圧倒的な説得力でフェルメール像を決定づけ、「神話解体の試み」の副題をもつ大部の『フェルメール論』や吉田秀和賞をとった『フェルメールの世界』でその凱歌を告げました。一方、スヴェトラーナ・アルバースの『描写の芸術』のように、レンズや遠近法や透視法や地図学を通して記号論的にレンブラントやピーテル・デ・ホーホやフェルメールやピーテル・サーンレダムの作品を扱っていく議論も、いまもって少なくありません。
 今夜はそういう本ではなくて、ベイリーの本書を選んだのですが、それは今夜のぼくの情緒がハードなフェルメール議論に耐えられないと思っているからだけのこと、また別の夜にはあれこれフェルメール論争をしたくなることもあるでしょう。またあるいは別の夜には、これもいつかゆっくりとりあげたいと思っているウジェーヌ・フロマンタンの『昔の巨匠たち』といった"昔語り"のなかでルーベンスやレンブラントやフェルメールを語る気になるということもあるでしょう。そのばあいは洲之内徹や杉本秀太郎のように絵を遊ぶという趣向になることでしょう。
 では、牧君、横須賀さん、おやすみなさい。

ヨハネス・フェルメール『デルフトの眺望』

ヨハネス・フェルメール『デルフトの眺望』

附記¶フェルメールについての研究書では、小林順子の『フェルメール論』(八坂書房)と『フェルメールの世界』(NHKブックス)がダントツだろう。美術史家としての徹底した叙述が読める。もともとユトレヒト大学の美術史研究所で研鑽をつんでいる。その小林流の解読のわかりやすい入門書にはアートビュウ・シリーズの『フェルメール』(六曜社)がある。そのほか翻訳書にブランカートの『フェルメール』(リブロポート)、アルパース『描写の絵画』(ありな書房)、ウィーロック『フェルメール』(美術出版社)、ノルベルト・シュナイダー『フェルメール』(WASCHEN)などがあるが、やはり小林のものをお薦めする。
 そのほか今夜の話を補うものとして、ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀』(創文社)、アーウィン・パノフスキー『初期ネーデルラント絵画』、ケネス・クラーク『レンブラントとイタリア・ルネサンス』(法政大学出版局)、スヴェトラーナ・アルパース『描写の芸術』(ありな書房)、ヴォルフガング・ケンプ『レンブラント』(三元社)、幸福輝『美の司祭と巫女』(中央公論美術出版)などがある。