サミュエル・ベケット
ゴドーを待ちながら
白水社 1990
ISBN:4560034966
Samuel Beckett
En Attendant Godot 1952
[訳]安堂信也・高橋康也

 エストラゴンが「どうにもならん」と言って始まるのだ。そこは田舎道で、エストラゴンは道端で片っぽの靴を脱ごうとしている。するとヴラジミールが「いや、そうかもしれん」と言う。「そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきたんだ」。
 こんな芝居はかつてなかったはずだ。ともかく二人の会話がえんえん続くだけで、何もおこらない。そこへやっと首に綱をつけられたポッツォがラッキーに引っ張られて登場し、これで何かが始まるかと期待すると、もっと何もおこらなくなっていく。何かがおこってほしいという期待は裏切られ、それなら何もおこらないと見えたことは何だったのかが問われてくる。
 
そのうち舞台は、いったい何かがおこるとは何がおこることなのかを問うているような仕打ちを見せる。 こんな芝居はかつて、なかった。サミュエル・ベケットが『ゴドーを待ちながら』を書くまでは。しかしここには「何もおこらないが、無が二度おこる」のだ。

 残り滓、持ちこたえられない中心、慰めにもならない断片。『ゴドー』にあるのはこれだけだ。では『ゴドー』にないものは何かと言ったら、何でもある。だから『ゴドー』を見ることは、ときにすべての想像力を動員させることになる。
 ベケットがどうしてこんな戯曲を書けたのかということを、かつてぼくは別役実とさんざん話しこんだ。議論をしたのではなく、たいてい碁を打ちながら話した。ベケットを議論することなど、碁でも打っていないかぎりは、とうていできそうもない。だからベケットを話したのでもない。ベケットを交わしたのである。だいたい、ぼくはこれまで一度もベケット論というものを読んでこなかった。そういうものがあることは知っていたが、一度も読んではこなかった。そんなことをしなくとも、何といえばいいのか、そうだ、ベケットは子供時代にいつも着ていたジャンパーやトッパーのように、着たり脱いだりできるものだった。

 それでもベケットを語りたいなら、ベケットが若くしてジェイムス・ジョイスと出会えたことを重視するのがいいだろう。ジョイスの目がかなり悪くなっていて、ベケットが仕事を手伝ったことを重視するといい。ベケットが『フィネガンズ・ウェイク』についての論文を書いたのは23歳のときなのだ。
 これで不満なら、ジョイスとベケットのあいだにシルヴィア・ビーチがいたことを知ればいい。かのシェイクスピア・アンド・カンパニーの書店主である。第212夜を読まれたい。それでも不満ならベケットの最初の詩集『ホロスコープ』を出したのがナンシー・キュナードの時間出版社だったことを知るといい。ナンシーについては第794夜を読まれたい。シルヴィアとナンシーの二人がいれば、ベケットがベケットになれないはずはなかった。
 それでもベケットの奇蹟的誕生に合点がいかないのなら、これはどうか。ベケットはジャコメッティと知りあってデュシャンとチェスをするようになったということだ。

1955年、ロンドン、アーツ・シアター・クラブ上演 『ゴドーを待ちながら』初演より

セイゴオ・マーキング

 ベケットはダブリン郊外のプロテスタントの家に生まれた。1906年だ。父親は建築積算士でそこそこ裕福、母親は万事を厳格に切り回していて、修道女のようだったという。ベケットは丹念に育てられたらしいのだが、本人は「いつも孤独だった」と述懐している。
 
さもあろうが、そんなこと、誰が信じるかともいいたい。ベケットはラグビーと水泳と、そしてクリケットの学校代表選手として熱中できたのだ。それにダンテボードレールを読み耽っていた。写真を見ればすぐわかるけれど、当時も、そのあとのベケットも、いつもベケットはどきどきするほどセクシャルな男だったのだ。
 そのベケットがパリに出てきた。出てきたとたんにジョイスに出会う。同じ故郷に育った者として、パリのジョイスとベケットは女たちの異国趣味を沸騰させた。シルヴィアとナンシーの話をしたが、もう一人、ペギー・グッゲンハイムもベケットにぞっこんだった。
 そういうベケットが『マーフィー』を書いたのである。これがすでにとんでもない小説で、誰も評価しなかった。いまならナラトロジーというものがあって、この小説が初めてオムニシエントな語り手(全知的な語り手)を設定したことがたちどころに見えてくるのだが、当時は物語のすべての筋書きと細部を知っている正体不明の語り手が登場人物の一人になっていることが解せなかったのだ。だから『マーフィー』のマーフィーに「この本に登場する操り人形たちは、みな遅かれ早かれめそめそとベソをかくことになっている」などと呟かれると、読者はそれだけでうんざりしてしまったのである。 

 ベケットが言葉に通暁していたことは、アイルランドの知識人、たとえばロード・ダンセーニウィリアム・イエーツやジョイスやエズラ・パウンドやバーナード・ショーのお手並みを知っていれば、それほど驚くことではない。ただ、ベケットは得意の英語を抑えて、フランス語で物語を書くことを好んだ。そのほうが変なものが出てくるからだ。三文作家がやたらに方言で小説を書きたがることと似ているが、かなり事情は異なっている。どちらかといえば、リービ英雄の冒険に近い。第408夜を読まれたい。
 かくてベケットはフランス語のほうが「弱音器的になれる」から、「文体なし」になれるからという理由で、1946年から5年あまりのあいだで、『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』をフランス語で書いて、そのあいまに『ゴドーを待ちながら』をまるで退屈しのぎのように書いたのだ。ところが、これで世界文学と世界演劇が一変してしまった。
 それまではどうしていたかというと、ドイツとの戦争の渦中で兵士になり、英仏通訳をやり、ゲシュタポを避け、書店に勤め、レジスタンス運動に参加していた。そしてパリが解放されたとたんに、フランス語で書きはじめたのだ。

 ぼくが最初にベケットを読んだのは『モロイ』である。芝居の『ゴドー』は俳優座でも早稲田祭でも見ていたが、読んではいなかった。この『モロイ』が強烈だった。主人公のモロイがここにもそこにもむこうにもいないのだ。だからどこにでも出没した。その説明が、なんと「モロイは昔から対称性を熱愛する男だった」というのだ。
 そのモロイをやがてモランという男が尾行する。困ったことに二人ともポケットに折り畳みナイフを入れている。だからナイフの描写があっても、それがモロイの話かモランの話かはわからない。むろんどうしてモロイがモランに追われているのかもわからない。おこっていることは内向する想像力の動向だけなのだ。やかで『名づけえぬもの』を読んで、ベケットの試みが奈辺にあるかは判然とした。ベケットは主格も目的格も嫌いで、「わたし」「もつ」「ある」がもっと大嫌いだったのだ。
 こうして『ゴドーを待ちながら』が書かれた。1953年1月5日のこと、ラスバイユ大通りのバビロン座で初演された。ベケットは小説では書けないことを、舞台で見せたのである。さっそくジャン・アヌイが「ミュージックホール風のパスカルの『パンセ』だ」と言った以外はとくに文学的な評判は立たなかったのに、公演はいつまでも続いた。初演が100回なのだ。ハロルド・ホブソンは「わたしは唖然とする」と書いた。ただしホブソンはちょっと正直だった。「苛立った、それなのにいつのまにか我を忘れる」とも書いた。

 ないない尽くし――。それが『ゴドー』である。舞台に登場しないゴドーが神であろうと、退屈であろうと、風来であろうと、不条理であろうと、豚肉であろうと、定義づけであろうと、それを証かすものは何もない。あるのは山高帽と一本の柳だけなのだ。
 が、こんなことをいくら説明したところで、『ゴドー』はわかるまい。『ゴドー』は舞台を見て感じるしかないものなのだ。だから『ゴドー』には名うての演出と味のある演技がどうしても必要だ。そのうえで、そうだなあ、ベケットは「差異と反復」かなあと、つまらない感想を言ってみることすら忘れるようになるはずだ。

1955年、ロンドン、アーツ・シアター・クラブ上演 『ゴドーを待ちながら』初演より

1955年、ロンドン、アーツ・シアター・クラブ上演
『ゴドーを待ちながら』初演より

 ところで、ベケットについては『ゴドー』以降こそ話題になったほうがいい。そのほうが『ゴドー』のためだ。ぼくが知っていることはそんなに多くないけれど、ざっとかいつめばこういうことになる。
 まず『勝負の終わり』では「名前遊び」をしたことだ。この物語は「絶え間ない暇ごい」なのである。『クラックの最後のテープ』では、声の音色が世界になった。これはそれほど驚かないが、『しあわせな日々』は人物と背景を分かたない舞台が出現する。ウィニーは土の中で首まで埋まったままで演技する。「中断された存在」であるウィニーが舞台であり人物であり、背景であり台詞なのである。これは驚いた。
 ウィニーを3人にふやして骨壷に入れたのが『芝居』である。何も動かない。置物がしゃべっているだけだった。それが『わたしじゃない』になると、口だけになる。見えているのは口だけだ。こうなるとベケットは単語人間や音符人間だけを偏愛しているかと思いたくなるが、ようするにはプレゼンスだけを描きたかったのだろう。そうだとしたら、ベケットは舞台にこだわっていてはダメなのだ。ナマの人間たちは邪魔になるはずだった。
 
案の定、1960年代後半には、テレビやビデオに関心が移ってきた。カメラとビデオテープは非言語にもってこいなのだ。この時期、世界はサミュエル・ベケットとナムジュン・パイクにおいて語られるべき日々だったのである。かくて70年代に入ると、『幽霊トリオ』が声とカメラとピアノ三重奏だけで物語が組み立てられることになる。
 そして、どうなったかって? びーん、沈黙。死せる想像力よ想像せよ。びーん、沈黙。びーん、終わり。そういうふうに、終ったのである。

 エストラゴン「今度は何をするのかな?」

 ヴラジミール「わからない」

 エストラゴン「もう行こう」

 ヴラジミール「だめだよ」

 エストラゴン「なぜさ?」

 ヴラジミール「ゴドーを待つんだ」

 エストラゴン「ああ、そうか」

舞台『芝居』より

舞台『芝居』より
舞台『わたしじゃない』より

舞台『わたしじゃない』より

附記¶ベケットの戯曲は白水社の『ベケット戯曲全集』で、ベケットの小説もほとんどが白水社の翻訳で読める。ベケットの生涯についてもいくつも紹介はあるが、ただ一冊というならイノック・ブレイターの『なぜベケットか』(白水社)を勧める。この一冊は中身も簡潔でよいけれど、なんといってもモノクロ写真がすばらしい。ベケットが写っている写真は100枚見ても倦きないものだ。

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