エルヴィン・シュレディンガー
生命とは何か
岩波新書 1951・1975
Erwin Schrodinger
What is life?
[訳]岡小天・鎮目恭夫

 この本はぼくの生命観を決定づけた一冊だ。とくに第6章「秩序・無秩序・エントロピー」にさしかかって、ガーンとやられた。ガーンとやられながら、そのメッセージに出会って悦びのようなものが体を雷鳴のごとくに走った。
 全体が71節で構成されているその57節だから、いよいよ結論部にさしかかったところにあたるのだが、そこに「生物は負のエントロピーを食べている」とあったのだ。もしポール・ヴァレリーがこれを読めた時代に青春期をおくっていたなら、この一行の稲妻こそが「精神の一撃」になったろうと思われる。

 宇宙の全体や物質の基本的な運動が、大局的にはエントロピーの増大に向かっているのは知られている。どんな物質も放っておけば無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。熱い紅茶を放っておけばやがて紅茶は器と同じ温度になり、器とともに室温と同じになっていく。熱力学ではこれを熱死と言っている。熱死とは無秩序の頂点のことをいう。宙も紅茶も目的はひとつで、ひたすらこの熱死に向かっているわけだ。
 ところが地球上の生命が活動をしているときは、これとはまったく逆の現象がおこっているように見える。生命は生物体として熱力学の原理に抵抗するかのように秩序をつくり、これを維持させたり代謝させているのだから、無秩序すなわちエントロピーの増大を拒否しているようなのだ。
 生物もやがては死ぬのだから、大きくいえば熱死を迎えていることになる。しかし、そこにいたるまでが尋常ではない。生命は個体としての生物活動をしているあいだ、ずっとエントロピー(無秩序さの度合)を減らし、なんとか秩序を維持しようとしているようなのである。これをいいかえれば、生命は負のエントロピーを食べているということになる。
 そればかりか、たいていの生物は独得の生殖活動をして次の世代にその大半の仕組みを継続させている。個体は次々に熱死を迎えても、たとえば種や属というくくりでみると、多くの種や属は時空間をまたいでエントロピー増大と闘っている。これはやはり、生命は負のエントロピーを食べていると言わざるをえない。
 たったこれだけのことだが、この指摘は生物というシステムの本質を突いていた。そしてエルヴィン・シュレディンガーという才能が恐るべき洞察力の持ち主であることを告げていた。

 シュレディンガーがあの天才的な波動方程式をもって、一躍、量子力学の寵児となったことは、言うまでもない。シュレディンガーの波動力学はかつて誰も思いつかないものだったし、その函数はハイゼンベルクのマトリックス力学と相い並んで、極小の世界を解読するための驚異的な力を発揮した。
 だからふつうなら、シュレディンガーを紹介するには、ド・ブロイの物質波仮説に続く量子力学の1920年代半ばからの高揚とともに語るのが筋というものだろうが、また、あまりにも有名な「シュレディンガーの猫」を引き合いに出してその天才的発想を紹介するべきなのだろうけれど、ここではその理論物理屋シュレディンガーに留まらないシュレディンガーを案内したい。生命の謎に挑戦したシュレディンガーのほうである。

 本書はシュレディンガーの連続講演にもとづいて執筆された。講演の主旨は「生きている生物体の空間的境界の内部でおこる時間空間的な現象は、物理学と化学によってどのように説明できるのか」というものだ。
 シュレディンガーがこの主旨に挑戦した理由はあきらかである。それまで生命活動の秘密を物理学が言及できたことは、ただの一度もなかった。生物が物質で構成されていることはわかっているにもかかわらず(構成要素も物質だし、遺伝子も物質であるにもかかわらず)、その物質のふるまいを記述すべき物理学は、生命の秘密にはまったく言及できないままだった。
 しかしシュレディンガーはその謎にこそ挑もうとした。考え抜いたすえに設定した突破口がカッコいい。物理化学というものは一般に周期性結晶を扱ってきた。それについては物理化学の右に出るものはない。シュレディンガーはこの視点を転倒させて、「非周期性結晶」を扱うつもりで説明を試みれば、物理化学は生命の活動の本質に到達する可能性があるのではないかと考えたのである。
 本書はこの非周期性結晶という考え方をもって、このあと遺伝子のふるまいやそれを構成する原子のふるまいの説明に入っていくのだが、その後、DNAの二重螺旋の謎が解かれ、分子生物学がいやがうえにも発達したのちの見解からみれば、この説明はいまでは物足りない。しかし、それにもかかわらずシュレディンガーの着想には、いまもってドキッとする予見に満ちていた。
 たとえば「暗号文の写本」がコピー(DNA転写)されコピーミス(突然変異)されるという見方、また「型」を継承するために生物活動が何をしようとしているかという推理をめぐる見方などは、いまならこれを「情報」とか「ゲノム」と言い直すことによって、いくらでも真実に近い説明に変えられるものばかりなのである。

 シュレディンガーがもっと独自の領域に踏みこんでいくのは第33節になってからだった。化学結合に関するハイトラー=ロンドンの仮説を紹介した直後、量子力学こそが遺伝と突然変異の仕組みの要訣を支えているはずだと言い出すのだ。
 いまではよく知られているように、量子力学の世界では粒子のエネルギーは連続していない。とびとびの量のエネルギー(エネルギー準位)をもつ。これを「量子飛躍」とよんでいる。 
 振子をゆらすと、最初は連続的な動きをくりかえしていた振子も、やがて空気摩擦やいろいろの条件があって遅くなり、ついには止まってしまう。ところが原子のレベル以下の量子の世界では、振子はもともと連続的な周期運動すらしないのだ。とびとびの量子飛躍の活動しかしない。
 のみならず、ふつうの振子は円運動や楕円運動にもなるが、量子の振子の運動の形はとびとびの形しかとろうとはしない。すべては非周期的で、とびとびなのだ。これを量子力学用語では「量子化」と言っている。シュレディンガーはこの奇妙なふるまいをもつ量子レベルから、熱力学から見ればこれまた奇妙な秩序のふるまいをもつ生命活動を見ようというのである。
 それには量子がつくりだす原子のふるまいがあきらかになり、その原子が寄り集まって安定を求めた分子の状態を説明する必要がある。シュレディンガーはその説明を試みつつ、これらに一貫する「非周期性」と「量子飛躍性」を暗示的に重ね、それを実行させている最大の仕掛けに「負のエントロピー」の関与があることを提示しようとしたのである。

 かくして、途中をとばしていえば、シュレディンガーはこう締めくくっていく。
 物質は自分で自分のふるまいを、周囲のすべての条件と組み合わせて律しています。そこには極小の量子力学から極大のニュートン力学やアインシュタインの相対性理論までを満足させる原理があてはまります。そのひとつの大きな原理は、物質は平衡状態では活動を安定させるということです。
 ところが生物体というものは、自分の力で動けなくなるような平衡状態になることを、あえて免れるしくみをもっているのです。生物はその内側では物質の新陳代謝(メタボリズム)をくりかえしているのですが、それにもかかわらず、生物総体としては平衡状態を免れているのはまことに驚くべきことです。なぜそんなことができるのか、生物体が食べているものに秘密があるとしか思われないのですが、その食べているものとは、平衡を避けるためのもの、すなわちエントロピーの増大を防げるものにほかなりません。
 そうなのです、生物は周囲の環境から負のエントロピーをうまいぐあいに採り入れているのです。いいかえれば、生物は生きるために必要なエントロピーをうまいぐあいに外に捨てるしくみをもっているのです。
 このしくみがどこから発現してきたかということは、いまはその時点を突きとめられないものの、その起源が生命分子をつくりあげるときの量子活動と関係していることはあきらかです。生命は量子から生まれ、それが高分子となって複写活動や代謝活動をするようになるうちに、負のエントロピーをとりこむようにしたのです‥‥。

 実は、このような仮説のうちの熱力学的な解釈と遺伝情報にまつわる生命分子の秩序生成についての解釈の大半は、いまではイリヤ・プリゴジンやヘルマン・ハーケンやマンフレート・アイゲンをはじめとする熱力学者や生物物理学者たちによって、また多くの分子生物学者たちによってすっかり書き改められ、新たな説得力をもって説明がつくようになってきた。
 しかしそれでもなお、ぼくがまだ十分な追跡ができていないだけかもしれないのだけれど、そこに量子力学が介在し、そのことが生命組織に「自己」と「秩序」を形成させているという仮説については、つまりは量子生命論とでもいうべき仮説については、まだシュレディンガーから3歩も先に進めないでいるのである。
 なぜシュレディンガーはここまで先験的な冒険をすることができたのか。天才的なひらめきに富んでいたといえば、むろんそうではあるが、どうもそこには何かの「哲学」があったように思われる。その哲学が何であるかはぼくにもずっと見当のつかないものだったのだが、『わが世界観』や『精神と物質』を読むにつれ、また、ウォルター・ムーアの大著『シュレディンガー』をはじめとする評伝や推察や議論を読むにつれ、なんとなくひとつの見当がついてきた。それはあとから考えてみると、すでに本書『生命とは何か』の最後に暗示されていたことでもあった。

 シュレディンガーはウィーンに生まれ育った。父親はウィーン工業大学で化学を学んだ実業家だった。少年シュレディンガーは学校よりも自宅で遊ぶことが好きだったようだ。けれども1906年にウィーン大学に入ってからは、見違えるほどに学習しつづけた。
 その後の波動力学の提唱にいたるシュレディンガーや、ノーベル賞をとるにおよんだシュレディンガーについては省略したい。今夜、強調しておきたいのは、三つのことである。ひとつはシュレディンガーがオーストリアを祖国としながら、36年にわたって祖国に戻れなかったこと、ひとつは生命の秘密に異常な関心をもちつづけたこと、ひとつはインド哲学に大きな影響をうけていたということである。
 最初の二つは本書や別の評伝を読んでもらうこととして、シュレディンガーがインド哲学のある考え方に格別の興味をもったことについてだけ、ふれておきたい。

 シュレディンガーがインド哲学、とりわけヴェーダンタ哲学(ウパニシャッド)に興味をもったのは、若き日々に読み耽ったショーペンハウアーのせいだった。
 ニーチェの思索にも巨大な影を落としたショーペンハウアーについてここで解説するのはよしておくが、ショーペンハウアーがヨーロッパ哲学史ではめずらしくもインド哲学や仏教哲学の理解者であったことは、知っておいたほうがいいだろう。ともかくもショーペンハウアーによって東洋哲学や仏教哲学にふれたシュレディンガーは、なかでもヴェーダンタ哲学が提示した「梵我一如」の思想に感動する。
 どのように感動したかということは、本書『生命とは何か』のエピローグにも語られていた。シュレディンガーは物理学者としてつねに決定論と闘っていたのである。
 ふつうは物理学の原則には決定論が貫いている。しかしハイゼンベルクの不確定性原理がそれを高らかに宣言したように、またシュレディンガー自身が物質の粒子性と波動性の両立を謳ったように、物質のふるまいには決定論的ではないところもある。このとき量子論の一部では、この決定論的ではないところを確率的に解釈して乗り切った。これが確率振幅とか統計的確率像とよばれている考え方である。
 けれどもシュレディンガーは、この解釈には不満だったのだ。なぜなら物質も、物質でできている私も、どう見ても確率的なものとは言えない何かを秘めている。量子のふるまいの根幹にある量子飛躍のようなものを秘めている。シュレディンガーはそう考えたかったのだ。
 ところが、生物の大半の活動は決定論や確率論を生かしているようにも思われる。量子レベルの不確定性にもとづいているとは思えない。シュレディンガーはここで悩んだのである。自分の直観と生命活動のルールと物理学の最も好ましい部分とが重ならないからだ。しかしやがて、シュレディンガーはハッとする。
 たとえばX線が照射されたショウジョウバエに突然変異がおこる理由を考えた。また減数分裂や特異な生物進化の突起性について考えてみた。ひょっとすると、このような現象こそが生命活動の本来にあって、そこから安定した種の進化が出て来たのではないかと考えたのだ。そうだとすれば、生物体の原初には不安定性や不確実なものが動いていたのではないか。そう考えたのである。

 ここからのシュレディンガーは以前にもまして独創的だった。非決定論的な動向を「私」という一個の生命体にあてはめてみた。そして、「私」が大きくは自然法則に従っていることと、にもかかわらず、私がその自然法則の支配者にも操作者にもなっていないこととのあいだに、何がおこっているかを考えた。
 このとき浮上してきたのがインド哲学における「梵我一如」の思想だったのである。ミクロコスモスとマクロコスモスがどこかで近似しうるということだった。「私」と「量子レベル」を一緒に語ろうとすることだった。いや、もっと重要な思想も引き出した。それは多くのインド哲学理論では、「私」は複数か、もしくは複合的であるということだ
 今日ならば、この「複数の私」や「複合的な私」を、多様性と複雑性をもつ情報的自己像というふうにとらえることができるであろう。ぼくならばまさに編集的自己像を持ち出したい。しかしシュレディンガーは、そのことを量子力学とインド哲学という二つの両極をめぐる思索から導き出したのである。まことにもって恐るべき推察であった。
 これ以上の解説をシュレディンガーの生命科学観に付与するのは、やりすぎになる。勇み足になっていく。しかしぼくとしては、そのような深読みのなかに、この一冊を置いておきたいのである。

 エルヴィン・シュレディンガーの思想は、その科学思想も生命思想も、また哲学思想も、ほとんど読み切られてはいないといったほうがいいだろう。
 かつて湯川秀樹は『わが世界観』を愛読して、せめてシュレディンガーをあと5歩進めようとして、自身の素領域仮説をインド哲学から老荘哲学のほうに振ったものだった。いま、この二人の量子飛躍に満ちた振子をうけつぐ者が、いないのだ。

附記¶シュレディンガーの翻訳はまだ半ばにすら届いていない。主要な論文は『シュレディンガー選集』(共立出版)に入っているが、ウォルター・ムーアの『シュレディンガー』(培風館)などを読むと、ずいぶんたくさんの重要著作がある。それでも、唯一の自伝ともいうべき『わが世界観』(共立出版)や脳の秘密にとりくんだ『精神と物質』(工作舎)はこうした未読のシュレディンガーに対する渇望を癒してくれるのに十分な潤いに満ちている。シュレディンガーの波動力学や「シュレディンガーの猫」を解説した本はゴマンとあるのでここでは割愛するが、最近刊行された2冊のウィットに富んだ本だけを、推薦しておく。アミール・アクゼルの『量子のからみあう宇宙』(早川書房)と竹内薫とSANAMIの共著による『シュレディンガーの哲学する猫』(徳間書店)だ。物理や数学をまったく知らなくても、いや知らないほうが楽しく読める本である。なお、「私」と量子をつなげる試みもニューエイジ・サイエンスの成果を持ち出せばいくつかあるのだが、ここではダナ・ゾハーの『クォンタム・セルフ』(青土社)だけを紹介しておく。

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