ジャン・バーニー
エットーレ・ソットサス
鹿島出版会 1994
ISBN:4306093298
Jan Burney
Ettore Sottsass 1991
[訳]高島平吾

 音楽だらけ、アートだらけ、情報だらけ、ファッションだらけ、テレビだらけ、病院だらけ、テクノロジーだらけ、そして、ああデザインだらけ。それでいいのか――。これは今日の社会を揶揄した言葉ではない。知の保守派のぼやき漫才でもない。デザインこそが哲学や政治でなければならないとアピールしたエットーレ・ソットサスが1960年代後半にミラノの現状に向かって吐き捨てた言葉だ。
 この嘆きが今日の東京にも京都にも、福岡にも仙台にも、いや日本中にいまだにあてはまる。何をか言わんやであるが、それ以前に、このような発言をしていたソットサスのこと、その前後のイタリアのデザイン界のこと、その後の日本におけるイタリア追随主義について、われわれがろくな認識しかもってこなかったことにも慨嘆しなければならない。
 今夜はそんな話を書く。その前に二言。
 本書はマーティン・ポーリーが編集した「デザイン世紀のヒーローたち」シリーズの一冊だが、ソットサス論としてはたいしたものではない。もっとも他にたいした本があるわけでもない。だから以下に書くことは必ずしも本書のコンテキストを反映していない。
 もうひとつ、ソットサスが「デザインだらけ」と慨嘆した1960年代後半は例の1968年に頂点を迎えるのだが、この年はソットサスやその仲間たちにとってはすでに「消費主義の終わり」であったということだ。日本が「消費主義に問題があるのかもしれない」とやっと思ったのは、堤清二がすっかり西武百貨店の第一線から退いた1990年代のバブル崩壊直前のことだった。

 カミロ・オリベッティの「ゼロ」型タイプライターとダンテ・ジャコーザの「フィアット500」があった。それ以外は未来派とバウハウスの残響、ファシストたちの頑強なデザイン、ル・コルヴィジエの真似があっただけ。これがエットーレ・ソットサスが青年期に立ち向かわなければならない相手だった。
 時代のデザインは1931年の「ラショナリスト・マニフェスト」に象徴されていた。マルチェロ・ピアチェンティーニやジョゼッペ・テラーニがムッソリーニに捧げたデザイン宣言だ。1926年に結成されたグルッポ・セッテ(グループ7)がそのインダストリアル・デザイン化を支えた。そこには古代ローマ帝国の肥大化があるばかりだ。
 こうした状況のなか、ソットサスは1934年にトリノ工科大学を出て、これから自分が向かうべきデザインには「総合目録」が必要だと考えていた。どうしたら既存の工業とデザインの癒着と分離に刃向かえるのか。わずかに工業都市ミラノがファシズムの嵐から免れて変貌しつつあるのが救いだった。装飾芸術トリエンナーレの開催地がモンザからミラノに移ったことも、ちょっとした希望だった。
 しかし日本と同様、イタリアは1945年までは戦争をしつづけた。デザイナーに何かができるわけではない。いや、デザイナーこそが政治を奪還するしかない。が、それはあの状況では適わない。ソットサスはひたすら「総合目録」を作りながら各種のドローイングを試して、敗戦を待つ。戦争が終わってみると、案の定、敗戦直後のイタリアは日本同様の「とことん破壊しつくされた国だった」。
 こうしてソットサスは動き出す。最初はブルーノ・ムナーリと組んで国際抽象芸術展覧会を企画することと、当時最もキレと独創を見せていたカルロ・モッリーノのファニチュア・デザインの隙間に自分の試みをねじこむことだった。
 これらを通してソットサスが獲得したことは、バウハウス流の機能主義にもとづいた技術優位社会を体の中から払拭することだったと思う。このことはその後のソットサスの制作感覚に一貫した。戦争をやめた国なのに都市環境がどんどん劣悪化するのは、機能と技術の結託に誰も刃向かわなくなったからだというのが、ソットサスの言い分なのだ。

 ソットサスの先を走っていたデザイナーもいた。カスティリオーニ兄弟のデスクライト「トゥビノ」や、マルチェロ・ニッツォーリのオリベッティ・タイプライター「レキシコン80」は1950年代を先駆していたし、ルイージ・カッチャのラジオやコラディーノ・ダスカーニオのスクーター「ヴェスパ」はアメリカですぐ流行した(『ローマの休日』でグレゴリー・ペックとオードリー・ヘップバーンが乗ってみせた)。
 いったいこういうことをするアメリカとは何か。ソットサスはそれが気になって、最初のソットサス夫人となった恋人ナンダ・ピヴァーノ(ソットサスはしょっちゅう恋人をつくり、何度も結婚をする)を伴って、西海岸に行く。ナンダはアレン・ギンズバーグやボブ・ディランをイタリアに翻訳紹介していたので、ソットサスはビート・ジェネレーションと初めて接したイタリア人デザイナーとなった。
 アメリカでソットサスが得たものは「誰もがそれぞれの記憶をもっている」ということだ。どんな人種や民族であっても、そこに記憶のイコノグラフィがある。それを都市や国家や地球がまるごと包んでいる。それなら、問題は容器なのである。容器のデザインなのだ。部屋をオフィスを机を椅子を、容器として包むことなのだ。
 そのころジオ・ポンティがイタリアン・デザインの頂点にいた。もともと「ドムス」を創刊したポンティは1947年からふたたび編集長になって、イタリアン・モダニズムの究極をめざしていた。これに対峙するには「それぞれの記憶」にさかのぼるしかあるまい。ソットサスは1954年にベービ・フィオーリと「非対称」の研究にとりくみ、プリミティブ・アートをおもわせる暖簾をつくったり、また1957年のミラノ・トリエンナーレでは「イタリアン・グラスの部屋」を構成してみせた。
 これに目を付けたのがオリベッティである。ソットサスは技術ディレクターのマリオ・チョウと相談づくめでセントラル・プロセッシング・キャビネット「エレア9003」をデザインする(チョウはその後の良きパートナーとなった)。並列処理が可能で、キャビネットの座高を低くした画期的なコミュニカティブ・デザインである。のちに「ラディカル・ファニチュア」とよばれるムーブメントの嚆矢となった試みだ。

 1962年、ソットサスは高難度の腎臓病になる。うっかりすると生命さえ危うかった。ぼくがそのことを聞いたときは、おどけて自分の首を両手で締める仕草をしてみせたものだ。
 ともかくもソットサスはこの危機を脱した直後、それまでずっと考えてきた「それぞれの記憶」の奥へ降り立とうと考える。もともと少年のころから考古学の本が好きだったのだ。ソットサスはインド行を思い立つ。もうひとつの理由があった。カトリックと一神教の国から離れてみたかった。「カトリシズムはつねに精神的なものと物質的なものとを二分してしまう」のが嫌だったのだ。
 インドにおけるソットサスの体験とそこからもたらしたデザイン群「バラタ・コレクション」は、ぼくが最も好きなソットサス・デザインのひとつである。そこには生と死を平気にしてしまうような「小さな儀式」があった。
 この儀式は、アメリカやヨーロッパでは女たちがスニーカーやミニスカートでやすやすと体現してしまったもので、本気のデザイナーが遅れをとってしまったものである。ソットサスはそれに匹敵する小さな儀式を「記憶の奥」のインドに見いだした。そして、これこそがアンディ・ウォーホルによって席巻されつつあったポップカルチャーにも、唯一対抗できるものと見た。
 ここでちょっとお節介なことをさしはさむことにするが、いま、たとえば村上隆のアートを前にして、これにインドや折口信夫や縄文を対置できるアーティストなど日本にいない。村上を無視するか、あるいは勝手に別のことをするかだけである。しかしソットサスなら村上の前に、ちっぽけなピンクの銅鐸を置いてみせてニコッと笑うにちがいない。村上隆を打倒したいなら、村上のわかる文脈で村上の根拠を奪わなければならないのである。
 ま、これは蛇足だ。が、蛇足とは言えないところもある。60年代の最後にソットサスがデザインした真っ赤なオリベッティ・タイプライター「ヴァレンタイン」は、世界のあらゆるポップカルチャーと工業デザイナーに対する同時痛打だったのだから――。

『Valentine portable typewriter』Olvetti

『Valentine portable typewriter』
Olvetti 1969

 ソットサスがメタデザイナーであることははっきりしている。それなのにソットサスをそのように見ることを、みんな躊ってきた。あまりに多彩である(と見える)からだ。
 しかし70年代に入ったソットサスの「祝祭としての惑星」やMOMAの「ニュードメスティック・デザイン」展(1972)に出品した「マイクロ・エンバイラメント」を見れば、あるいは二つの乳房に挟まれた保育所のドローイング「建築的ポルノグラフィ」(1978)やそのころに参加したスタジオ・アルキミアでの活動を見れば、ソットサスがメタデザインからの逆上を志していたことはあきらかなのである。
 スタジオ・アルキミアはアレッサンドロ・グェッリエーロによって設立されたグラフィックデザイン・スタジオであるが、そこにアレッサンドロ・メンディーニがかかわることで極めて広い実験センターとしての役割をはたした。
 メンディーニはぼくが注目しつづけてきた編集デザイナーで、「カサベッラ」「ドムス」「モード」各誌の編集長を歴任し、かつデザイン・コンセプターとして活動した。かつて『フラジャイル』を書いたときは、その扉にメンディーニの「釘打ちハイヒール」の写真を入れたほどだ。
 おそらくソットサスはグェッリエーロよりもこのメンディーニに惹かれてスタジオ・アルキミアに参画したと思われる。メンディーニならわかってくれる。そう思ってソットサスは自由にふるまった。コンセプチュアル・ファニチュア「震える構造」にはそうしたメンディーニとの交流がよく出ている。それはまた、メタデザインからの逆上を端的に示していた。
 ただこのスタジオには理論家のアンドレア・ブランジイをはじめ、若手建築家のミケーレ・デ・ルッキやパオラ・ナヴォーネといった革新的な確信犯がずらっといて、3番目の恋人だか、2番目の夫人だかを連れてスペインに旅行してすっかりジプシーのライフスタイルに溺れていたソットサスにして、この連中を煙に巻くのはたいそうなことだったようだ。
 こうして、いよいよソットサス軍団の独自の旗揚げになる。「メンフィス」である。古代エジプトの神話都市名とボブ・ディランの歌の曲名から採った。

ファイバーグラス製の家具とそのドローイングなど

ファイバーグラス製の家具とそのドローイング(右)
1972年、ニューヨークでひらかれた「ニュー・ドメスティック・ランドスケイプ」展のためにデザインされたマイクロ・エンヴァイラメント[極小環境]

 メンフィスについてはよく知られているので、あまり付け加えることはない。ナルコ・ザニーニ、マッテーオ・テュン、アルド・チービチ、梅田正徳らを擁した。ここでは二つの言葉を紹介しておけばいいだろう。
 ひとつは、「いいデザインというものは月に行く可能性のようなものだ」というもの、これはいい言葉だ。ここには「その存在」がそこにあるだけで何か名状しがたいメッセージが一斉に放たれるデザインを志向したいという意味である。まさに月とはそういう「その存在」だ。
 もうひとつは、「プロダクトを焦るのではなく、哲学的メッセージを提供したい」というものだ。ソットサスがときどき好んだ「言語学的デザインの提供」といってもよい。日本のデザイナーに最も不足している姿勢だ。「言語学的デザイン」などというとなにやらむつかしそうであるが、この姿勢がないデザインやアートには、実はいっさいのバッド・テイストが生きてはこないのだ。哲学と言語のないバッド・テイスト感覚など、ただのオナニーかおばさんデザインなのだ。ミラン・クンデラのキッチュ論を読めばわかることだった。
 ともかくもメンフィスの活動の噂こそ、1980年代の世界中で最も過激なものだった。そうなった理由ははっきりしている。ソットサスはメンフィスについて次のように回顧するのだ。「私にとってメンフィスは大学院のようなものだったから――」。

梅田正徳の『タワラヤ』

梅田正徳の『タワラヤ』
リング上のメンフィスのメンバーたち(第1回メンフィス展の際、ドイツの雑誌『ショーネンボーネン』の取材で撮影されたもの)

 1997年、ぼくはついにエットーレ・ソットサスに出会えた。第1回「織部賞」のグランプリ受賞者として岐阜に招いたのだ。80歳になっていた。会ってすぐにシルカ博士ことジョン・C・リリーに共通するもの、超然的だが体温の高い人格を感じた。後ろ髪をちょっと束ねてピンクのリボンをしているのが可憐だった。
 それ以前、ソットサスのことは最初は倉俣史朗から「あんな人はいないよ」というふうに、次はタイガー立石から「理解をこえた人ですよ」というふうに、そして磯崎新からは「例外をやってのけた唯一の人だね」というふうに、何度も聞いていた。
 タイガー立石がオリベッティにいたとき、ソットサスはデザイン部門のディレクターをやっていた。ソットサスに製品デザインのヒントを貰いにいくと、何だかわけのわからないオブジェを指さして、「君ね、これだよ」と言うばかりだったという。タイガー立石はそのたびに3日間、考えこんだらしい。
 ヤマギワの照明器具を30点ほどデザインしたときのソットサスのことも伝わってきていた。このときのことを回顧したソットサスの文章は身に滲みる。こういうものだ。「デザインに対して唯一配慮されるべきことは、儀式の進行を促進できるオブジェをつくろうとすることです。すなわち、もろく、はかなく、不合理であやうい日々の状態のなかで、ふと凝縮できる瞬間をもたらすことができるような移行をおこすこと、それがデザインなのです」。
 まさにフラジャイルなデザインを告示した文章である。ついでに付け加えておけば、この文章をソットサスはインドの家庭用品と日本の行灯(あんどん)を思い描いて綴ったという。
 織部賞のグランプリにソットサスを真っ先に推したのは磯崎新と内田繁だった。田中一光・石井幹子・ブランジイほかの選考委員の全員があっというまに賛成した。ぼくはこのことで織部賞の本質が決定できたと確信したものだ。 

附記¶本文中に書いておいたようにエットーレ・ソットサスについての評論にはまだろくなものがない。一番充実しているのはバーバラ・ラディスのクリティカル・バイオグラフィ『エットーレ・ソットサス』だが、邦訳はない。財団法人山際照明造形美術振興会から刊行された『アドバンスト・スタディズ』はガラス器具と照明器具の作品が中心だが、倉俣史朗、マーティン・フィラー、磯崎新らのソットサス・オマージュが読める。本書のシリーズ「デザイン・ヒーローズ」(鹿島出版会)は揃えておいて惜しくない。

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