才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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仁斎・徂徠・宣長

吉川幸次郎

岩波書店 1975

 こういう本をゆくりなく紹介できるときが、ぼくの感懐がいちばんの深甚になるときである。
 吉川幸次郎ならたとえば唐詩選だろうと思う読者に、いえいえそうではなくて、長らく中国思想や中国表現文化の根本を祖述してきた著者が、仁斎・徂徠の中国思想の祖述者とそれへの反発者である宣長の視座を三方に睨んで、みずからの思索の来し方をふりかえり、その目のままに行く末を凝視しようというのが、淡々と味わい深いのだ。
 これを読んだのはもう二十年近く前になるが、数年に一度しか味わえない京風汁椀の絶品をいただいた気分だった。こういうダシの味は吉川幸次郎ほどに彼の地の歴史文化や哲学文化に熟達した人でなければ、とうてい醸し出せるものでない。

 はじめに、著者のおおまかな見方を紹介しておく。
 仁斎・徂徠・宣長の思想は中国思想からはなかなか生まれにくかったもので、それゆえこの三者の比類のない独自性を、今日の中国思想家と日本思想家の両方がいったいどのくらい認識できるかということ、これが今日の日中の思想の課題ではないかというのである。

 ごく簡潔にいえば、過去の中国の伝統的な人間論は「完全善」を主張した。孔子以来の旧儒学も朱熹以来の新儒学としての宋学(朱子学)も、ひたすら「性善」をもって人間の解明にあたった。いや、荀子の「性悪」もあるじゃないかと思うかもしれないが、中国の伝統哲学では例外に近い。
 人間の本質的動向に「善」を見ることが問題であるわけはない。哲学や宗教ならばそのような探求やまた希求があって当然である。西田幾多郎はその「善」を研究することから近代日本哲学の出発をした。むろんその逆に「悪」を想定する思想があったっていい。これはこれで近現代になるにしたがって、いくらもある発想だ。
 しかし古代中国に発生した儒学というもの、この完全善から聖人や君子のヴィジョンを導いて、それを先王にあてはめたのである。ここで先王というのは、堯、舜、禹、湯、文王、武王、周公、そして孔子その人をいう。のみならず中国儒学はこの先王たちの時代に「完全善の社会」が実在したと考えた。『孟子』告子篇に「人はみな堯舜なるべし」とある。これはソクラテスやプラトンがイデアをギリシアの社会に感じなかったこととは異なる。
 この「完全善」の"実在"を、そんなものは人間と社会の現実にそむくとしてまっこうから否定したのが、本居宣長なのである。

 宣長はマガゴト(凶事)はヨゴト(吉善)とともに作用しているもので、儒者が「隅から隅まで掃き清めたるごとく世ノ中を善事ばかりになさんとする」のはおかしい、「吉凶(よしあし)の万事、みなことごとに神の御所為(みしわざ)」(直毘霊)と道破した。
 このような宣長の見識は、先立つ荻生徂徠においても、儒学の範疇の議論をつかってのことではあるけれど、ほぼ見通されていた。徂徠は堯舜の世も三王の世もけっして清浄無垢ではありえなかっただろうことを、勘ではなくて、古典をつぶさに解読しながらあきらかにした。それだけでなく、仏教・道教・諸子百家のすべてが「道の裂けたる也」と見た。本当は中国の最初には「道」の根本思想があったのに、それがしだいに分裂して、その残骸が朱子学になったというのだ。
 さらに、その徂徠に先立つ伊藤仁斎も、その子の東涯もまた同様の判断をして、早くに孔子も無謬ではありえないこと、儒学の基本には問題があることを強調していた。

 吉川幸次郎は、仁斎・徂徠・宣長のように儒学批判を貫かせた大胆な見方は中国哲学史ではなかなかありえなかったことで、わずかに唐の孔穎達(くようだつ)の『尚書正義』などが稀有の例になるくらいのものだと感じた。
 しかも吉川は、この日本の三者の思想には並々ならぬ独自の言語観があって、それこそはわれわれ日本人が誇るべきものではないかというのである。仁斎が「古義学」をもって、徂徠が「崎陽の学」「古文辞学」をもって、中国古典を疑念をもって読むこと(仁斎)、原音原語序によって読むこと(徂徠)、漢意を排して読むこと(宣長)を、それぞれ貫こうとしたことに感嘆するのである。
 加えてこの三者は、仁斎を徂徠が批判し、その仁斎・徂徠を宣長が批判するというふうにジグザグに発展した。ジグザグにつながっていた。宣長は自分の学問は契沖や真淵のおかげであって仁斎・徂徠の影響ではないと言うけれど、吉川はそれはそうではなくて、その言語観において宣長は仁斎・徂徠をしっかり引き受けていると見た。
 そうだとすれば、この三者を考えることこそ自分の中国思想観の仕上げとしてどうしても必要なことではないかというのが、吉川の結論なのである。

 吉川が本書に収録されている最初の論文『本居宣長』を書いたのは太平洋戦争突発の直前の、昭和16年の秋のことだった。
 雑誌「新風土」を編集していたフランス文学者の河盛好蔵から「世界的日本人」という題で何かを書いてほしいと頼まれて、すぐさま思いついた。それ以前、吉川は昭和13年の夏に関西で大水害があったとき、夙川に住む母親を案じて見舞いに行き、その帰りに汚濁の泥水がまだ去らない夙川の駅前書店で岩波文庫の『うひ山ぶみ』を求め、たちまち魅了されたらしい。以来、吉川は最初は『玉勝間』に、やがては『古事記伝』に耽った。そしてこう思ったそうだ。
 「私が驚嘆したのは、宣長が中国の事象に対しても極めて的確な解釈に到達していることである。漢文の読み方が正確であり、自作の詩文も見事であるのは、最初の京都での漢学の師である堀景山が徂徠とも交渉をもったのだから当然のことであるが、単にそればかりではない。中国の事象に対する見解の正しさは当時の群儒を抜くものがある。これはその学問の方法が優秀であったことを物語る」。

 こうして吉川は宣長から徂徠へ、さらに仁斎へと降りていき、そこからふたたび宣長に戻りつつ、中国の思想をどうとらえなおすかという課題を自身に攻め立てたのである。
 吉川が戦前の京都大学で学んだのは「日本漢学は中国研究には役に立たない」というガチガチのものだったのだが、一人、狩野直喜先生だけは例外として仁斎・徂徠・宣長がいることを示唆していたことを、吉川はこのとき思い出したという。

 本書はこうした吉川の菫色の30代の体験を交えつつ、そのときからはじまった思索の跡を、新たに仁斎・徂徠・宣長と時代順にならべなおして編んだ一冊である。
 ここには、さきにも書いたように、吉川がこの三者に圧倒的に抜きん出た言語観、すなわち、「もの言ひのさま」のとてつもなく深いぐあいを感じたこと、いいかえれば、徹底した此彼の言語観の比較吟味によって中国と日本を横断する「方法の凱歌」に気がついたことが、あれこれ滋味あふれるエールとして綴られている。
 読んでいて、まことにありがたかった。いまは仁斎・徂徠・宣長をめぐる議論は百冊二百冊をこえようが、当時はこの一冊にめぐりあえたことが僥倖だったのだ。「こういう本を紹介できるときが、ぼくの感懐がいちばんの深甚になるときである」と冒頭に書いた意味は、これで伝わったろう。

 さて、話を時代の順に戻す。
 まず、伊藤仁斎であるが、この17世紀の儒者は孔子を演繹した祖述者として京都堀川に生涯をまっとうしながらも、そのなかで、朱子学そのものが、はたまた仁斎以前の林羅山らの日本の儒者たちが、孔子や孟子をはなはだしく歪曲したことをはげしく批判した。
 それが『論語古義』であり『孟子古義』である。それは幕府の官学としての儒学に対する正面きっての挑戦であって、かつ「武を支配につかうことの否定」という意味では、幕藩体制がもたらしつつあった社会そのものへの批判でもあった。こんな勇気のある儒者は日本にも、また中国にもいなかった。それでも門弟三千人、赤穂浪士で有名な小野寺十内や大石主税もその末席を濁した。
 仁斎の古義学がどういうものだったかというと、朱子をはじめとする宋儒が依拠した「理」を認めない。「性」ないしは「心」を求めた。それを説明するとキリないのでひとつの例を引く。
 孟子の「公孫丑」に「四端」の議論がある。「井戸に落ちようとする子供を見かけると、誰だってはっとして助けたいと思う」という有名な比喩によって、いわゆる「術剔惻隠の心」を説いたくだりだ(ちなみに戦後思想だけに関心のある連中は、この比喩はサルトルが「井戸に落ちる子の前で文学は可能か」という問いが原型だと思っているらしいが、とんでもない、孟子が原型なのである)。
 孟子はこの「惻隠の情」こそ「仁」の「端」であって、そこを見なければ「仁」はわからないと言った。
 そもそも儒学の中心にあるキーコンセプトは「仁」にある。中国儒学では、初期は「仁・義・礼・智」の四徳が、その後は「仁・義・礼・智・信」の五常が儒学の最大徳目として崇められてきた。なかで四徳五常の根本は時代をこえてつねに「仁」に求められた。そのキーコンセプトを感じるには「端」に注意することが肝要だと孟子は言ったわけである。
 仁だけでなく、義も礼も智も、端に注意しろと言った。それが「四端」である。朱子も「端は緒也」と注釈した。「端緒」という言葉があるように、物事の糸口の両端を見ろという意味だった。
 ところが仁斎は、この「端」を「端っこ」とか部分と見るのが問題だと指摘した。そうではなくて、「端は本也」と読んだ。つまり惻隠の情というものは子供が井戸に落ちる瞬間の端っこで感じるものでなく、それは人間の本来にあるもので、真ン中にあるものとしてとらえるべきものなのだと読み替えたのだ。のみならず、仁斎は孟子を離れても「端」の文例を追い、さまざまな古典における「端」を次々にあげ、これを本来の意図に戻して再解釈してみせた。こういう儒者はいなかったのである。
 仁斎の思想を、吉川は次のようにまとめる。いささかコンセプトテーブルふうに組み合わせておく。

 ①「仁」すなわち愛情は、人間の至上の価値観である。
 ②「仁」と「義」は相補的である。
 ③この「仁」を「性」「道」「教」が支える。
 ④「理」は自然の原理だが、「性」は人間に分与された
 ものである。ただしそこには多様性がある。
 ⑤「道」はこうした性がもちうる真理である。ただしそこに
 は連続性がない。ちょっとした飛躍が必要である。
 ⑥「教」は賢人の教えだが、これは学ぶものであって、
 措定されてはいない。
 ⑦こうして、学ぶことだけが「性・道・教」をへて「仁」に
 およぶ可能性をもつ。
 ⑧それゆえ、存在とは運動なのである(天地は活物)。
 ⑨そうであるのなら、人間の真実は日常の活動そのも
 のの中にあるということではあるまいか。
 ⑩儒学の最高の成果は『論語』であろうが、しかしな
 がら孔子は無謬ではありえない。孔子の偉大は歴
 史的な検討のなかでとらえられるべきである。
 ⑪つねに博学でありなさい。

 このうち⑨の主張は、仁斎の「人倫日用」の立場の称揚として知られる。仁や道を高遠に説くのではなく、日常の日々のなかの立場にするべきだという主張をいう。
 ⑪の「博学でありなさい」は、仁斎自身がたいへんな博学者であって、たえず「博(ひろ)く書を読むこと」を奨励しつづけたことをさす。
 吉川はこのような仁斎の最高の著述は『童子問』だという。ぼくも24歳のときに高校生向けの読書新聞(東販発行)を編集していたころ、その"社説"欄にあたるコラムを仁斎に倣って「童子訓」と題したものだった。矢島明という兄貴格の編集者のヒントだった。仁斎の『童子問』とは、童子のような他者に問いかけ、童子のような他者から問いかけられることによって発展するメッセージのエクリチュールのありかたをいう。

 伊藤仁斎が寛永4年(1627)に京都に生まれたのに約40年ほどおくれて、寛文6年(1666)、荻生徂徠が江戸に生まれた。 途中をはぶいて目安をいえば、元禄3年の25歳のとき、芝の増上寺の近辺で塾をひらいて講義を開始した。大学頭林鳳岡が孔子を祀る聖堂を湯島昌平坂に移した年、芭蕉が奥の細道に旅立った翌年にあたる。
 30歳のころに柳沢吉保に招かれ儒者として仕え、五代綱吉の学問相手を務めた。関心事はただひとつ、「先王の道」とはどういうものかということである。それを知るには、中国そのものを知らなければならない。それには「先王の道」の時代の言葉そのものにふれたい。
 そこで徂徠はこのころから、唐語(中国語)の学習に果敢にとりくんで、漢文の古典を「崎陽の学」として、すなわち長崎通辞が読むようにダイレクトに中国の発音による意味の直解として読むようになっていった。こうして40歳の前後のとき、明の古文辞学派の李攀竜・王世貞らの詩文を入手して衝撃をうけた。ここからが本格的な徂徠なのである。
 いったん中国語の真髄に触知した徂徠は、和語で儒書を読んだ仁斎を批判する。それでいてしばらくは仁斎の読解力にも驚いてこれを批判的に継承していたのだが、その後、綱吉の死と吉保の失脚をきっかけに茅場町に住むようになると、まずは『謙園随筆』(ケンのフォントがない)を著し、ついで同音異義ならぬ同訓異義の辞典の『訳文筌蹄』を編集し(こういう辞書編集に夢中になることがいっさいの思想のアルタード・ステートを準備する!)、このあたりから、まったく独自の思索と表現にほぼ集中するようになった。それが江戸儒学思想史をあざやかに象(かたど)る『弁道』『弁名』『論語徴』の古学三部作になる。
 徂徠は中国語を通して、「古来の言語」というものの本質にふれたのである。その手がかりを教唆したのが李攀竜と王世貞という李王二人の文章であった。

 それでどうなったかというと、そもそも言語にはつねに「達意」というもの、すなわち事象や事実を伝えるコミュニケーションの力が必要なのだが、徂徠は達意だけではどうにもならず、そこには必ず「修辞」が絡んでなければならないと確信したのだった。
 「言の文(かざ)らざるは、行わるること遠からず」なのである。徂徠はこの達意と修辞がもつルールに深い関心をもつ。中国文芸史において、達意が強かったのは唐の韓愈や柳宗元である。それが宋の欧陽修をすぎると惰性に堕した。ついで修辞をふるいおこしたのが李攀竜や王世貞だった。それならば、この達意と修辞をもってすればいくらでも「先王の道」にひそむ「古来の言語」を読み切ることができるではないか。そう、徂徠は確信する。
 かくして徂徠は自分が考え実践していることは、「古(いにしえ)の文(あや)ある辞(ふみ)」、あるいは「古(いにしえ)の文(かざ)れる辞(ふみ)」としての古文辞学そのものだと実感する。
 とくに注目すべきは晩年の『学則』で、徂徠はこうした自分の思索と実感からその方法論だけを抜き出せた。やがて八代吉宗の下問に答える仕様で、『太平策』『政談』ほかを著した。門人に山県周南・安藤東野・太宰春台・服部南郭・平野金華などがいる。

 徂徠については、このところは「徂徠学」という名称すらあって、その瞠目すべき思想の解析にあたっては丸山真男・子安宣邦・柄谷行人をはじめズラリと名だたる評者が目白押しである。そうしたなかでは、いまもなお吉川幸次郎は特異な位置を占めている。
 ぼくはいま日本現代思想としての徂徠学の地図や遍歴をのべる気分にはないので、どこに新旧の徂徠学の特色があるかということにはふれないが、そのかわり本書に収められた吉川の二つの論文、「民族主義者としての徂徠」「日本的思想家としての徂徠」をかいつまんで、ぼくの感懐深甚の飛沫を伝えたい(本書にはもうひとつ「徂徠学案」という大論文も入っているのだが、これは岩波の「日本思想大系」荻生徂徠巻の解説に重なっている)。その前に、徂徠の人柄と生き方を特徴する一、二のことをのべておく。

 徂徠は「先王の道」を求めたが、その「道」の中心意義を従来の儒者のように「徳」にはおかず、むしろ「詩・書・礼・楽」においた。
 これは古来より四術とよばれているもので、人間の活動を「韻文であらわす詩」「散文であらわす書」「行為であらわす礼」「音楽であらわす楽」の四つで代表させることをさす。徂徠はもとより古文辞学によって「詩・書」に親しみ、教師として「礼」をもっぱら実践してきたのだが、生活者としてはとくに「楽」をもって日々にとりいれた。雅楽を楽しんだのだ。弟子たちとともに演奏もした。そこに中国と日本をまたぐ「楽」があったからである。
 もうひとつ、徂徠が楽しんだものがあった。酒と煙草である。徂徠は生涯、酒も煙草も切らさなかった。そこは仁斎の「人倫日用」をまさに地で行ったのである。宣長の煙草好きとともに、どうしても言っておきたかったことである。

 吉川の「民族主義者としての徂徠」「日本的思想家としての徂徠」には、次のようなことが指摘されている。
 実は徂徠は明治・大正・昭和前期あたりまで、まったく不評をかこった思想家だった。原因がある。徂徠が孔子の肖像への賛に「日本国夷人物茂卿」と自署したことだ。
 「茂卿」(もけい)は徂徠の字(あざな)、「物」というのも荻生家が物部氏の子孫だったらしいということにあやかった自称だからいいとして、「日本国の夷の人」というのが問題視された。問題視したのは明治の哲学史家の井上哲次郎による『日本古学派之哲学』などで、「己れを卑下して夷人といふに至りては、抑々又自ら侮るの甚しきものといふべきなり」と糾弾された。これは日本人としての醜態ではないかとも言われた。
 卑下したことだけでここまでひどく非難されるのには、さらに理由がある。徂徠はその方法序説ともいうべき『学則』の冒頭でも、またこの賛のなかでも、「東海は聖人を出さず、西海は聖人を出さず」と書いて憚らなかったのだ。ようするに、日本にも西洋にも聖人は出なかった、出たのは中国だけだと書いていたのである。
 それだけではなく、もともと「儒ノ道」と「侍ノ道」は同じものに近いはずだったろうが、中国には聖人が出て日本には聖人が出なかったから、日本は「侍ノ道」が「武ノ一方」へ偏ったのだとも書いた。そのため、中国のような「詩・書・礼・楽」の高度な「道」が日本に不足して、まるで武士道一辺倒の野暮な国や馬鹿な国になったというのである。 
 まだ、あった。徂徠は京都の天皇よりも江戸の将軍をもって日本の実際の君主と考えていたし、式楽としての能楽が堕落しているのも気にいらない(だから雅楽に凝った)。
 これでは徂徠が日本人は何事も中国に頼らないかぎりはろくなことができなかったと言っているように見えたとしても、しょうがない。こういう徂徠を、明治維新で王政復古を志し、日清日露を経験しながら立憲君主制を確立し、なんとか歌舞伎を復興しつつあった明治の思想家や文人たちが忌み嫌ったのも当然である。徂徠がどうしようもないゴリゴリの中華主義者に映ったとして、しかたない。
 が、はたしてそうなのかというのが吉川の時を食んだ観察なのだ。徂徠にはもっと深い事情があって、日本人としての自分の何かを卑下したのではないかと推理した。

 よくよく徂徠の文献を紐解いていくと、実は徂徠は、こうも書いていた。
 上古の日本はもともとは中国の「先王の道」と同様の祭政一致の「まつりごと」をもっていて、「天を敬する思想」を大事にしていた。その後も、中国の律令格式を導入して、なんとかその実践を試みていた。
 さらに平安文化でも、「清、紫、赤染の諸女、史記の載する所、概ね見る可し焉」だった。清少納言も紫式部も赤染衛門も史記や白楽天に通暁していた。徂徠はそのようにも見ていたのである。
 しかしながらそういう日本も、北条一族が後鳥羽天皇ら三人の天皇を放逐し、後醍醐天皇が謀って武を争って敗退し、そこに足利一族の登場を許したあたりで、まったくだらしなくなった。とくに室町時代はどうしたことか。「室町氏の禍は秦火よりも甚しき也」だったではないか。秦の始皇帝の焚書よりひどい社会をつくってしまったというのだ。
 こういう日本を、徂徠は「豈に神州の清淑の気、消えはてたる邪」と嘆息していた。そして最初のうちは「王室は復た興らざる邪」と書いていた。もう、古来の王室は再生しないのだろうかという嘆息だ。
 けれどもこういう徂徠にとって、もはや京都の皇室が力を再生するとは見えなかった。後水尾の隠遁このかた、徂徠が青春をおくった時代はすでに天皇の力などどこにも見えるわけがなかったのだ。それは、そうだろう。徳川鎖国時代、幕末の光格天皇の登場まで、天皇はほとんど用をなしてはいなかった。大仏次郎の『天皇の世紀』や藤田覚の『幕末の天皇』に詳しい。そこでやむなく、徂徠は"徳川王朝"に新たな「先王の道」を託したのである。

 だいたいこういう観察である。なるほどと首肯できるものがある。 しかし吉川の観察は、こうした徂徠の歴史解釈上の事情をつまびらかにするにはとどまらない。縮めていえば3つの観点で徂徠の意外な側面をちょっとずつ浮上させていった。もうすこし案内しておく。

 第1には、徂徠には日本神道からとりいれるものがあった。徂徠は仁斎が朱子学の「理」を否定して「性」や「心」を重視したことは評価しつつも、中国語にダイレクトに当たらなかったことと、無神論におわっていることを批判した。仁斎が無神論であったのは宋儒の誤謬をそのままにしたというのだ。
 では、徂徠自身はどうかというと、しきりに「敬天」の思想を容認した。先王が「道」を作為できたのは「天」を敬虔したからであり、そのようなことを自分が注目できるのは、他の儒者とちがって日本にはそういう古義をもつ思想があったからだ、それに自分は気がついたのだと、自負した。吉川はその証左のひとつとして、『徂徠集』巻八にある『旧事本紀解序』をあげて、そこに「我が東方は世世神道を奉ず」とあるのに注意を向けている。この「神道」は神社神道の神道ではなく、「まつりごと」としての祭政一致型の政治のことであるが、そのような思想は必ずや徂徠にずっと宿っていたのではないかというのである。
 第2には、徂徠の「信頼の哲学」ともいうべきものが日本仏教と縁をもっているのではないか。吉川はそうも感じる。徂徠が生涯の全般において仏教を嫌っていたことははっきりしている。しかし、『論語徴』などにしばしば仏教的な言辞をつかっているのは、朱子学の「完全善」の絶対肯定にたいする不満や批判にあたって、たとえば親鸞の悪人正機説のようなものから人間信頼の感覚を借りていたとも考えられると、吉川は判断した。
 もっとも、この二つの観点の指摘は、吉川にしてはあまり説得力がない。ぼくが共感したのは第3に、徂徠には「日本的伝統による虚構の尊重」があったのではないかと指摘したことだった。

 吉川幸次郎の『中国文学史』(岩波書店)には、中国文学は長きにわたって虚構文学としての小説や戯曲を厚遇してこなかった理由と背景がのべられている。
 僅かな例外はある。16世紀の特異な思想家の李贄(りし)が『水滸伝』『西廂記』を童心の文学として絶賛していたことである。また"中国のルソー"とも称された黄宗羲が幼児にそうした小説を耽読していたというごくごく小さな例外もある。けれども、魯迅などの出現した近代文学以前、全体としては中国には虚構のエクリチュールをよろこぶ知識人というものがほとんどいなかった(ちなみになぜか吉川は書いていないのだが、陽明学を継承した李卓吾にはそうした童心による虚構をこそ重視する思想があった)。
 徂徠はそういう中国知識人の偏見にも気がついたようで、その点は日本人がおおいに勝っていると宣言しているのである。実例も出している。それが『伊勢物語』と『源氏物語』なのだ。たとえば、「伊勢物語は、うたの心を説きたる物なり。事のあるなしは論ずべからず」と『南留別志』(なるべし)に綴った。
 実はこういうことを徂徠よりも先に論じていた先駆者がいた。契沖である。契沖には『勢語臆断』という伊勢論もある。ただし、徂徠の時代には流布していなかった。だから徂徠は徂徠なりの判断で綴ったのだろうが、さて、そうだとすると、このような徂徠の見方はあるところを少し変じさえすれば、そして、時代をもうすこし進めて契沖の成果をじっくり読める時代になって、もっと根本的に徂徠の方法を動かせば、ひょっとすると、そこには宣長の出発点に直截につながるものが見えてくるはずなのである。
 こうして吉川の胸中に、宣長の思想と方法こそが中国思想を根底から振り切った成果として浮上し、それとともに、その宣長の目で新たに中国思想や中国文芸を読むことの愉快を発見できる可能性が、ふたたび刻印されていったのである。

 宣長については、あまり書かないことにする。第992夜に核心点を書いておいた。
 一言でいえば、吉川にとっての宣長思想とは、「言」(ことば)と「事」(わざ)と「意」(こころ)とが合致しながら「思い」を開いていけば、そこにおのずから古来の意図(古来の言語の本質)が解けていけるという方法がありうるのだという感嘆そのものである。また、その「思い」が「もののあはれ」であってよいという、その感嘆である。
 それは吉川に国語による言語活動の深さの探求が、結局は思想の根幹であり、かつ、方法の最も深い底辺での提示であるということを悟らせる。それは仁斎と徂徠に芽生え、また貫通した方法であったけれど、ことに宣長においてはその徹底が尋常ではなかった。その尋常ならざる方法の貫徹こそが吉川を驚嘆させるのだが、宣長には、儒学に発して儒学を使わずに先へ進むという方法があったのだ。
 むろん契沖を熟読できる時代にいたことも幸運だった。真淵に松坂で出会えた幸運もあった。なかんずく、すでに儒学を不要とする国学の台頭があったことは、宣長の方法をずっと楽にした。けれども、その方法が『古事記伝』による神代からの「語り出し」につながるものになりうるには、天才的な努力ともいうべき言葉の出所に向けた解明心がなければならない。
 こうして吉川を心底驚かせたのは、宣長の方法に「漢意」(からごころ)を排していけば「古意」(いにしえごころ)を駆使できる奥の手がひそんでいたことである。吉川は驚きながらも、そこに逆に「中国」という方法の王国が立ち塞がっていたことを知る。それを仁斎や徂徠が青の洞門を穿つごとくにいくつもの風穴をあけた方法の先駆があったことを知る。
 ということは、ひるがえって考えてみて思いあたるのは、ダンテの方言が獲ちとったイタリアであれ、アーサー王伝説の言語をもったイングランドであれ、グリム兄弟が語りに見いだしたドイツであれ、その民族とその国の「国学」というものは、つねにどこかで「漢意」にあたる立ち塞がった言語感の壁に衝突することをもって生成されてくるだろうということだった。

 以上、吉川幸次郎が仁斎・徂徠・宣長に通底する言語観を中国思想の祖述者がうけとめた全貌を、ぼくが柔らかく祖述した。
 これで近世日本の儒学の流れが集約できたわけではない。松平定信の寛政異学の禁で、異学とされた異端の儒学が仁斎学・徂徠学・陽明学であった理由も言及しなかった。その儒学のどこから国学が派生したという説明にもなってない。また国学そのものが儒学とはまったくべつの淵源をもっていたことにもふれていない。
 しかし、今夜のぼくはそういうこととは異なって、吉川幸次郎の思索が体験した言い草だけを紹介したかった。
 ところで、ちょっと加えたいことがある。というのもまだ夜が白みはじめていないからで、ぼくの居室の窓には先頃から咲き誇る白梅が庭の常夜灯に照らされて、みごとに蕪村まがいの「夜の梅」を感じさせていて、それを見るとなんだかまだ眠りたくもないし、何かべつのことをしたいとも思えないからだ。ただし、夜が白みはじめれば擱筆する。あと、30分くらいだろう。

 たたみかけて、書く。
 ひとつは、白川静の『孔子伝』(中公叢書)のことである。これはまことに画期的な孔子論で、どんな類書ともちがっている。「礼」と「楽」の始原を原始共同体的な巫祝性に求め、そこから「儒」の発生を説いた。このことは徂徠の「礼・楽」の重視につながるものではないかということだ。ぼくは儒学のおおもとの前提を考えるとき、いつもこの白川仮説を思い出している。
 またひとつに、徂徠学には反徂徠学という見方もあることを付言しておきたい。むろん宣長は反徂徠学者ともいえるのだが、そういうことだけでなく、弟子の太宰春台にも孫弟子の海保青陵にも、すでにその兆しがあった。とくに青陵がどんな儒者ともちがって仮名文体で『稽古談』『洪範談』『前識談』などを綴ったことが気になる。
 ついでながら広瀬淡窓が朱子学にも徂徠学にも距離をおいて、しかもこれを包むかのように「敬天」を理想としたことも気になる。陽明学を確信した西郷隆盛の「敬天愛人」は淡窓の天命を見る思索を媒介にすると、よく見えるのではあるまいか。このあたり、小島康敬に『徂徠学と反徂徠学』(ぺりかん社)という一書があるので参考にされるとよい。
 またひとつに、その太宰春台に『辨道書』があって、これが宣長の『直毘霊』(なおびのたま)と対決関係にあったこと、ここも気になる。つまりはいわゆる「国儒論争」の中身と顛末はもっと知られてよいのではないかということを言い添えたい。これについてはあまり参考研究がないのだが、たとえば小笠原春夫の『国儒論争の研究』(ぺりかん社)などが入口になろう。
 ここまで徂徠を広く解読するに、野口武彦の『荻生徂徠』(中公新書)がたいへんにおもしろい。いつか野口の著作についてはちゃんととりあげたい。

 さらに急いで、もうひとつのことを書いておく。富士谷御杖のことだ。
 父が国学者の富士谷成章、叔父が京儒の皆川淇園であった御杖は、はやくから「言霊」(ことだま)にめざめて歌学にとりくんで、『歌道非唯抄』『うたふくろ』『古事記燈』『万葉集燈』『百人一首燈』『土佐日記燈』などを著した。「神道とは身外に出しがたき所欲なり」といった炯眼も随所に発揮する。
 その御杖が意思を直接にあらわす「直言」に対して和歌の語法を「倒語」とよび、そこから「比喩」と「外へそらす」という方法を発見したこと、さらに言葉には「表裏境」という境界面があり、それに感知することが感動や感通なのだと説いたことなど、宣長との関連においておおいに気になっている。いや、いちばん気になっている。
 またもうひとつ、御杖には『脚結(あゆひ)抄』という語法論もあり、これも興味が尽きない。このへんのこと、とくに深く研究している者は皆無だが、尼崎彬君が十年ほど前に書いた『花鳥の使』と『縁の美学』(勁草書房)はきっとすぐれたとっかかりになるはずだ。
 おや、いよいよ夜が白んできた。白梅の輝きは枝のあいまに消えていく。隠身、隠身‥‥。

付記¶吉川幸次郎さんの業績はしるすまでもないだろう。『吉川幸次郎全集』全33巻(筑摩書房)がある。神戸の花隈に生まれ、小中学で今日出海や堀正人と、京大で桑原武夫と同僚になった。狩野直喜先生とは恩師で、かつ東方文化学院京都研究所長だった傑物である。内藤湖南・桑原隲蔵とともに東洋学京都学派をつくった。狩野の門下が武内義雄・青木正児・倉石武四郎、そして吉川幸次郎である。狩野直喜と第3夜に紹介した長尾雨山との交流はまことに羨ましい。
 ところで、ここでは吉川の宣長への傾倒ぶりを綴ったが、吉川自身は生涯にわたって自分のことを儒者とよんでいた。京大退官後はとくに「町の儒者」と名のるのをおもしろがった。ぼくはたしか岩波新書の『漢の武帝』『新唐詩選』から読みはじめたとおもうが、中身もさることながら、その文意にぐいぐい押しまくられたおぼえがある。それからもうひとつ、『悲の器』や『邪宗門』の作家の高橋和巳は吉川幸次郎の忠実な門下学生だった。平野頼子とはそこが格段のちがいである。