ジョリ・カルル・ユイスマンス
さかしま
桃源社 1962 光風社 1984 河出文庫 2002
Jotis Karl Huysmans
A Rebours 1884
[訳]澁澤龍彦

 これから綴ることは、ユイスマンスと頽廃と信仰とについてである。それは同時に、ふだん諸君が感じていることと気が付かないままに過ごしていることの両端でもあるはずだ。あえて面倒くさく書いてみた。
 なぜ以下のような書き方をするかということは、ユイスマンスにも原因があるけれど、ユイスマンスを読んできた批評のくだらなさにも起因する。諸君も数々の読書をしてきたのであろうけれど、察するにコンラッド・ローレンツ(172)とデズモンド・モリス(322)を同じエソロジー(動物行動学)の分野と思って読み、寺山修司(413)と澁澤龍彦(968)をなんとなく近くにして読み、ついついロートレアモン(680)とユイスマンスを一つの包囲のなかで読んでしまってきたのではないかとおもう。
 これはまずいのだ。もっと深彫りをして読みたい。それには、いままで似ているとか近しいと思いこまされてきたものを切断し、遠いものや縁がないものとあきらめていたものを近寄せたほうがいい。それが「読むことの真行草」を諸君に提供してくれる。
 というわけで、今夜は『さかしま』ついでに「千夜千冊」の読み方も少しばかり示したい。

 バルテュス(984)のカトリック的中世をまっとうに理解しないことによってバルテュス愛玩派の称揚が無意味に広がってきたように、『さかしま』のデ・ゼッサントにひそむ孤立したカトリシズムを長らく誤解してきた読者の傾向というものがある。
 べつだん小説のなかでのこと、誤解しようと何しようとかまわないが、こと「頽廃」をお相手するには、やはりデ・ゼッサントの趣味の奥にひそむ逆理というものを、少しは問題にしておかなければならない。これは唐津や志野を味わう感覚ではとうてい語りえないものなのだ。
 なぜなら、唐津や志野には「悪」や「罪」がない。いってみれば、近松(974)がない。むろん南北(949)もない。つまり説経節(307)がない。事の当初から「実と美と善」の研鑽に向かっている。それがまた陶芸のよさというものだ。
 しかしながら、世の中の「実や美や善」には「悪」や「頽廃」を通過することによってやっと見えてくるものもある。世の価値観のなかにはダンテの地獄篇を通して見えてくるものがあるということだ(913)。
 ここまでは、よろしいか。

 さて、ぼくのどこかには、薄明の光条のさしこみのようなものではあるものの、カトリシズムに対するちょっとした共感がある。
 それについてはすでに『イエズス会』(222)や内村鑑三(250)やアウグスティヌス(733)のところで多少のことを綴っておいたので、ここでは繰り返さないけれど、ただしこれはカトリック中世主義に寄せる共感なのである。キリスト教全般や、最近のキリスト教と国家のありかたなどにはいまもってとくに関心はない。
 すなわちぼくは、華厳禅にタオイズムの香りを見て、ジョン・C・リリー(207)に神を嗅ぎ、アリスター・ハーディ(313)にこそ神学をおぼえるというのが好きなのだ。そういうカトリック感覚なのである。
 だんだん話がややこしくなっているけれど、ここまでも、よろしいか。

 そこでユイスマンスの話になるが、この作家は工芸を好んだ作家であった。父親が彫刻師だった。つまりはヨーロッパの唐津や志野を作っていた。
 処女作は散文詩であるが、まるで金属細工のような言葉の填め込みになっている。その後の作品は社会の状況を扱うが、やはりどこかに銀線や大理石を研磨したり溶融したりしているようなところがあった。それがあるときエミール・ゾラ(707)の目にとまって、「メダンの夕べ」に列せられることになった。
 やがてユイスマンスはゾラの自然主義を美意識にだけ注入刻印することを思いついた。それが本書『さかしま』である。その勢いはしばらくとまらず、ついでは大作『彼方』(1891)となって、幼児虐殺で名高いジル・ド・レエや黒ミサを扱った。
 これは見たところは驚くべき悪魔主義の作品であり、それが好きでユイスマンスを読む者もいまなお少なくないのだが、ぼくはそれよりも中世神秘主義の卓抜な解読書として読んだ。そこにユイスマンスの心理が反映しているなどとは読まなかった。それゆえこれは、いわばバルトルシャイテス(13)やウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(241)と同じ役割を果たした作品なのである。
 なぜ、かれらが悪や罪や悪魔や怪異を解読したくなるかというと、ヨーロッパには中世このかた家具にも工芸にも悪魔が刻まれてきたからだった。日本の工芸には、めったにそういうことはおこらなかった。

 そのユイスマンスがカトリックに“回心”したのは、『彼方』を書いてのちのことだったというふうに、文学史ではなっている。
 ユイスマンスは『彼方』であまりに「悪」を描いたので各方面から非難を受け、そこでヴェルサイユ郊外イニーのトラピスト派修道院に参籠して、敢然と修練者の道に入っていった。ユイスマンスはこの時期に“別人”になった。頽廃主義と悪魔主義を捨てた。そう、見られている。
 これが伝記上のユイスマンスの有名な“回心”である。もっとも伝記といっても、いまのところはロバート・バルティックの『ユイスマンス伝』くらいしか紹介されていないけれど、他の文学評論も似たり寄ったりだ。

 ともかくも、そこで書かれたのが、『出発』『大伽藍』『献身者』の3部作だった。この3作にこめられた中世カトリック神秘主義は、たしかにまことにラディカルだった。
 ぼくは『大伽藍』(1898)から読んだのだが、最初の数十ページで脱帽した。そこに描かれているのはシャルトル大聖堂の詳細きわまりない内部装飾だけだった。その一部始終を主人公のデュルタルが観察しているだけだった。それなのに、そのことに感銘した。
 教会の彫刻を“読む”こと、それはヨーロッパ中世においては「読書」だったのである。けれども、そういう能力自体が近代社会に向うにしたがって廃れてしまっていた。
 こういうことができるのは、かつてならジョン・ラスキンただ一人であったろう。あの『ヴェニスの石』や『建築の七燈』がそれを成し遂げた。その次にこのような描写に徹することができたのは、きっとヴィクトル・ユゴー(962)だったろうけれど、さしもの『ノートル・ダム・ド・パリ』も、その寺院描写の直前で物語のほうにシフトしていった。
 それがユイスマンスにおいては、寺院描写という「読書」に徹底できた。これはなるほど快哉だ。以上のこと、よろしいか。

 では、その快哉のほうのことを書いておく。
 ユイスマンスは3部作につづいて、そのまま『修練者』(1903)へ、さらには『腐爛の華』(1906)に求心していった。『腐爛の華』は聖女リドヴィナの伝記を背景に、リドヴィナが受苦したいっさいの業病を描写した。
 リドヴィナは血の膿にまみれた聖女である。この描写はさすがに『小栗判官』も『弱法師』もかなわない。これまでの「千夜千冊」にも、この作品に匹敵するものはない。
 しかしユイスマンスはそれにもとどまらない。死の直前のユイスマンスが最後に向かったのは、一種のルポルタージュ・ノベルともいうべき『ルルドの群衆』(1906)だったのである。どういうものか、ちょっと知らせたい。

 マチアス・グリューネヴァルトの『十字架刑図』を見てほしい。この狂暴な一服の絵は何を告示しつづけているか。

マチアス・グリューネヴァルト『十字架刑図』

マチアス・グリューネヴァルト『十字架刑図』

 背景は暗黒である。そこに十字架で血膿を流している断末魔のキリストがいる。その首は落ち、手は捩れ、脚は歪んでいる。左には悲痛に耐えるマリア、右に十字架に近寄ろうとするヨハネ。描写はあくまで架刑の激痛を克明に蘇らせるかのように稠密だ。
 こんな絵はかつて、なかった。
 1903年の秋、ユイスマンスはベルリンからカッセルに向かっている。ユイスマンスに影響を与えたサン・トマ教会の助祭ミュニエ師と連れ立っていた。15年前に、ユイスマンスにとって生涯最大の衝撃的な出会いであった恐ろしい絵を、カッセルの小さな堂宇にもう一度見るためだった。ユイスマンスにとって、このキリスト像こそがいっさいのフィクションを払った「貧者のキリスト」であり、生命の腐爛に向かう「真のキリスト」だったからである。
 グリューネヴァルトが描いたのは一個の死骸なのである。そのくらい凄い絵だ。グリューネヴァルトはその死骸の進捗にキリスト教の暗澹たる未来を予告した。そこには「神の死骸」が描かれていた。
 このことに衝撃をうけたユイスマンスは、最後の最後になってこの絵の深刻な意味からの必死の脱出を企てる。

 さて、あまり知られていないことだろうけれど、ユイスマンスは晩年に舌癌に罹っていた。
 すべての歯を抜かれ、視力さえ失いつつあった。そのなかで、ユイスマンスは自身がグリューネヴァルトの腐爛に向かいつつあることを知る。この直観はすさまじい。
 しかし、ぼくが告げたいのはこの先のことである。その苦痛のさなかの作家を慕って、一人の娘が頻繁に訪れてきていたということだ。アンリエット・デュ・フレネルという22歳のユイスマンスの作品の愛読者だった。彼女は作家を心から敬愛し、いかなる邪気もなくこの作家の窮状を救おうとした。作家のほうも彼女の清純な魂を称えていた。それには、この娘をうけとめるユイスマンス自身が一体の修道院であるべきだった。
 けれどもユイスマンスの実情は、そこにない。もはや体がぼろぼろだった。
 そんなある日、ユイスマンスの視力が奇蹟的に回復をする。まったく予想もつかないことだった。この瞬間、ユイスマンスはアンリエットの奥にルルドの聖少女を発見するのである。告げたかったのはこのことだ。

 こうしてユイスマンスはルルドを訪れ、全力をふりしぼってその情景を綴る。暗黒のグリューネヴァルトはその質を転換させて、蒼天のルルドに舞い降りていったのだ。それが『ルルドの群衆』なのである。
 ルルドの奇蹟については説明するまでもないだろうが、極貧の少女ベルナデット・スービルーが1858年2月11日に川霧の中で白衣の婦人に出会った噂が広まったもので、それ以来、ベルナデットは聖少女とみなされ、最初は数人がその奇蹟に立ち会っていたのが、10回目のときは1000人を越え、15回目のときは8000人にふくれあがっていたという劇的な展開をさす。
 聖少女ベルナデットは、記録によれば、都合17回にわたって奇蹟をおこしたとされている。これはもはや教会の中の彫刻群ではない。それらを「読書」する必要もない。
 すべてはリアルタイムでおこったことだった。それゆえに、ユイスマンスはその奇蹟に立ち会おうとした群衆の心をルポルタージュしたかったのである。

 ざっとこうした事情によって、ユイスマンスは3部作を書いて以降、超絶とも苦悩ともいうべき日々をおくることになったのだ。だいたいのところはわかってもらえただろうか。
 しかし、こういうことはその時点のリアルタイムでは誰もわからない。有島武郎(650)やヴェリエ・ド・リラダン(953)を思い出してもらえばいいだろう。誰も有島やリラダンが孤絶に呻いていたとは思わなかった。
 けれども、有島もリラダンも書きつづけ、有島は心中によって、リラダンは野垂れ死によって、非業の死を遂げた。ユイスマンスもそういう日々のなか、書きつづけて、死んだのである。『ルルドの群衆』からわずか1カ月を過ぎての死であった。
 ここを考えてほしいのだ。有島やリラダンやユイスマンスが何を書こうとしたのかという、ここ、を。

 文章を書きつづけるということは、それがいかに体験や思索に裏付けられたことであっても、その体験や思索から洩れていったことを綴るということなのである。他のものでは代りができないことを書くことなのだ。ここがわからないと諸君は真の作家とは出会えないし、真の文章とも出会えない。「読書の真行草」はわからない。
 いいかえれば、読書においては、世に流布するようなニセの感動の上にいつづけるということのほうが問題だということなのだ。それよりも諸君が気が付いた感動(深彫り)を、どんな小さなことであれ、作者や著者に返すべきである。これは読書において自分自身の虚を突くということにあたっていく。
 ユイスマンスにも、このことを見る必要がある。

 実はユイスマンスはカトリシズムの奥地に入れば入るほど、キリスト教にはそもそも残虐や惨状を好むものが強烈に交じっていることに気がついた。
 それをジル・ド・レエや黒ミサを書いて知らせようとしたのだが、読者も批評もそっぽを向いた。作家も、心理と趣向を同一視しているうちは、まだまだ未熟なのである。そのへんは多くの作家が読者以上にひどい病気にかかっていることが少なくない。ユイスマンスにもそういうところがあった。
 ユイスマンスは本気で教会に通うことにした。カトリシズムの細部に分け行ってみることにした。それによって何を文章が綴らなければならないかが見えてきた。ユイスマンスが最終的に気がついたのは、そのことなのである。カトリシズムは悪を食べ尽す宗教だということなのだ。
 こうしてユイスマンスは最後の最後にこう書いた。ルルドの地にはかつて悪魔信仰があったからこそ、そこに聖地信仰がおこったのである、と。ルルドそのものが生きた教会だったということ、を。

 いろいろ勝手な話をしてきたが、よろしいか。こういうユイスマンスが作家としての当初に、あの究極の人工楽園としての『さかしま』を書いたのだ。のちに頽廃美学の極致ともいわれた『さかしま』を――。
 が、この作品は読めば読むほど、頽廃を超えている。ぼくが思うには、ここにはすでにユイスマンスの“別人”がいるはずなのである。当初のルルドがあるはずだ。
 ところが、これを日本語に最初に翻訳した澁澤龍彦にして、そのことを見落とした。おそらくはついついアンドレ・ブルトン(634)の評価に引きずられたのであろう。そのため、『さかしま』にすでに萌芽していた“腐爛の彼方のルルドの光”を見落とした。

 このように『さかしま』が頽廃美学書と読まれてきたのは、むろんユイスマンス自身にも責任がある。
 ひとつは、本書のなかでボードレール(773)を絶賛したことである。ボードレールこそトマス・ド・クインシーの人工楽園思想にあこがれた張本人だったから、評者たちは『さかしま』もその人工楽園構想を直接に受け継いだとみなしすぎたのだ。
 けれども、よく読めばわかるように、デ・ゼッサントはボードレールだけを褒めたのではなかった。フローベール(287)ならば『聖アントワーヌの誘惑』を、ゴンクールならば『ラ・フォスタン』を、ゾラならば『ムウレ神父の罪』を選びたいとちゃんと書いている。とくにユイスマンスが文筆の師と仰いだゾラの作品から、わざわざ『ムウレ神父の罪』を選んでいるのが暗示的なのである。これらは、この作家たちがついに気付いた文体の中の教会だったのだ。

 もうひとつは、ユイスマンスが『彼方』ののちに“回心”したのであれば、それ以前は必ずや頽廃に染まっていたはずだと決めつけすぎたということがある。とりわけ『彼方』が悪魔主義ばかりを謳ったかのように読めるため、それ以前の『さかしま』もその途上にあると思いすぎたのだ。
 そんなことはない。ユイスマンスは早くから心の内にイニーの修道院を幻想していたはずなのだ。ユイスマンスには、早くから、頽廃こそが清浄を生み、惑溺こそが聖化をおこしていくことが見えていたはずなのである。
 中上健次(755)を思い出してみよう。中上が日本の村落とそこに巣くう人間にひそむ「悪」を描いていたというのは“常識”になっている。しかし、そのように中上を読んで、何が中上と交流できるだろうか。ぼくはあの夜にも書いたように、あえて中上の『枯木灘』に墨子(817)を読んだのだ。それが中上にとってどんな意味と映ったかは知らないけれど、そう読むことがぼくの虚を突いたのだ。

 さあ、ここまでくると、『さかしま』にどういうことが書いてあるかは、説明はいらないだろう。この作品は仮説なのである。デ・ゼッサントを借りてユイスマンスの「神聖工芸」を仮説したものだ。
 フロルッサス・デ・ゼッサントの一族は落ちぶれる寸前にも、まだルウルの城館を所有していた。そこに育ったデ・ゼッサントはイエズス会の学校と寄宿舎を出て存分の教養を身につけたのち、しだいに世の中というものに退屈してしまう(教養とはまさに世間から離れることなのである)。自然を愛好する者もインチキであったし、贅沢や虚飾に群がる者はもっと胡散くさかった。とくにパリに巣くう連中にはうんざりし、このままでは倦怠を哲学とするしかないとすらおもえた。
 そこでデ・ゼッサントは決断をする。城館を売り払い、フォントネエ・オー・ロオズの高台の一軒の売り家に移り住むことにした。これはまさにヨーロッパ世紀末の「数寄の遁世」というものだ。
 こうしてデ・ゼッサントの家づくりが始まっていく。本書はその経過と、そのような選択をしていった彼方の工芸を仮説した。

 だからデ・ゼッサントは最初に職人を探したのだった。ついで書斎にラテン文学書をびっしり並べた。風呂の浴槽にはセーヌ川を通る汽船の揺れを感じるように水路を用意した。
 これらは衒学的趣向でもあるが、それが辛くも世間から離れることによって、別の価値に転化した。デ・ゼッサントは自身の目の中に仮説を刻印したかった。だから、とんでもないこともする。たとえばパレ・ロワイヤルの店で買った巨大な亀を家にもちこむと、その甲羅にアメジストをはじめとする鉱物を花房のごとく象嵌させた。これはどんなアピールでもない。ただひたすらに、デ・ゼッサントの神聖工芸仮説なのである。
 17世紀ドイツの象牙でつくられた渾天儀を机上に据え、天空を室内にとりいれる工夫を凝らした。これもどんな科学にも寄与しない。しかし、デ・ゼッサントはそれをしたかった。
 絵画は最初はギュスターブ・モローを入手した。『サロメ』の2作である。ついでオディロン・ルドンの版画を飾った。この二人の画家で十分だった。それ以外は邪魔なのだ。

 こうしてしだいに室内が組み上がっていくと、今度はそこで何をするかがデ・ゼッサントの最後の冒険になる。
 それはただひとつのことでなければならなかったにちがいない。そうである! 書斎の本を次々に入れ替えること、そのことだった。
 『さかしま』は1ページ目から最終ページまで、実はさまざまな表題をもつ書物を次々にページの中の棚に入れ替えていたものだったのである。
 そこであらためて、表題の暗示するところをよく見てみると、「さかしま」(A Rebours)とはまさにリバース・モードの提案であったのだ。今夜は最後にそのことを存分に受信してほしい。
 諸君の何か(あるいはすべて)を、誰か(あるいは何か)とのあいだでリバース・モードの状態にしっぱなしにしておくこと、これがこの未曾有のカトリック作家の最初からのメッセージであったということを――。

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