才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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本朝画人傳

村松梢風

中央公論社 1972

 青年期のころから、いくたりもお世話になった画人伝だったから、その恩に報いたいと思っていた。ただし、全5巻に計47人の画人が登場しているので、以下、村松梢風の1人あたり40頁から70頁ずつほどの丹念な案内を、刹那の文章スナップショットのように走ることになる。あしからず。ぼくの感想もいささか交え、順序はほぼ生年順に変えた。
 その前に一言。2代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』が大当たりし、川島芳子をモデルにした『男装の麗人』で話題をとったにもかかわらず、大衆文学にはなじまず、あえて考証的趣向文芸ともいうべき領分を拓いた梢風が、この画人伝を「中央公論」に連載したのは大正11年が最初で、滝田樗陰が編集長だった時期である。
 梢風は初期に情話作家として鳴らしたのだが、昭和に入ってしばしば中国に渡って郭沫若や郁達夫らに会ううちに宗旨変えをして、しだいに史実に香りをつけるほうに筆を向けていった。職人や画人に集中して関心を寄せはじめたのだ。その代表作が『本朝画人傳』である。樗陰が43歳で昭和を見ずに急逝していったん中断されたが、15年をへて再開した。人を惜しんでの再開というのは、傍らで見ていてすらなかなか有り難いものである。
 浮世絵師が足りないこと、浦上玉堂が入っていないこと、若冲・蕭白・蘆雪などが無視されていること、そのほか気になる不足も目立つけれど、そのぶん美術史家では書けない風情が充ちているパノラマだった。

英一蝶『日侍図』
与謝蕪村『暗夜漁舟図』
池大雅『高士観月図』

【英一蝶】(1652生) 光琳も一蝶も狩野安信の門から出た。一蝶は蕉門をくぐって其角・嵐雪と交わったから、俳諧が絵に出た。そこへ12年にわたる三宅島島流しだから、江戸に戻ってからはかえって悪場所遊郭三昧で、徹底して洒脱を遊んだ。吉原の遊びや料亭風情に面目をもたらしたのは一蝶だった。だから絵に抜襟の風情がある。「おのづからいざよふ月のぶんまはし」。
【尾形光琳】(1658生) 雁金屋は染め縫いが商いだから、きっと光琳はああいう絵になったのである。加えて茶事を存分に嗜んで何軒もの小間や茶室をもったので、ああいう省略(省筆)が得意になったのだ。雁金屋の子孫にあたる小西家に伝わる写生帖を見たが、孔雀をアングルを変えて何枚も描いている。肛門のまわりだけを後ろから克明に写したものもある。この根底の写生力がデザインともおぼしい意匠の光琳画を生んだのであると悟った。
【与謝蕪村】(1716生) 蕪村(850夜)こそ滅筆省筆の人だ。たった17文字で絵をあらわせた。「白梅の枯木にもどる月夜かな」「朝顔や一輪深き淵のいろ」「四五人に月落ちかかる踊りかな」。あえて粗末な風情を好んだのは、育った摂津天王寺村の堤を行き来していたのが花売りや魚商人や傀儡師だったからではないか。門下高足の呉春松村月渓は蕪村の臨終に立ち会った。病中に吟を思いついたというのであわてて手元の文房をさしだすと、二句詠んでこれを捨て、「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」と綴って、死んだ。
【池大雅】(1723生) 二条の樋口にいた大雅は扇絵を祇園で売って世すぎの足しにしようとしたが、売れない。祇園境内付近で茶屋を開いている美人で評判の百合は、大雅の絵が上品すぎて捌けないのを知って、肩をもつ。百合は歌も書もうまい。まだ10代半ばの娘の町のほうがさらに器量がよく、歌もいい。大雅は何かを感得して、それから数十余州をまわって修業をし、7年たって京に戻ると、町と祝言をあげた。このあと柳沢淇園に漢画山水を学び、洛東真葛ヶ原に草堂を結んで大雅堂を号してからが例の文人画の独壇場となるのだが、これを見ていただけの町も絵を楽しんで玉瀾を名のり、この夫婦の付き合いで大雅はまた自在闊達になった。

円山応挙『郭子儀図』
田中訥言『百花百草図』
酒井抱一『夏秋草図』

【円山応挙】(1733生) 明和3年に応挙を号して、円満院門主祐常の庇護をうけてからおおいに画業が聞こえるようになったのだが、写生の極意は野の人や山の人をつかまえては聞くことにしていたらしい。あるとき伏せた猪を描いて村の老翁に見せたところ、これは病んだ猪だと言われた。馬が草を食んでいる絵を見た農夫はこれは変だと言った。馬は草を食べるときは目を庇って閉じるのだと諭された。応挙はもちろん、四条円山派はこの猪と馬を忘れない。
【司馬江漢】(1747生) 和漢洋を揃えたとは江漢のことだ。大和絵・漢画・浮世絵・蘭学・油絵を身の芸に射した。浮世絵は鈴木春信の門下で、錦絵の版下を描いた。この揃えを1人で体に纏っていた男がいた。平賀源内である。江漢は源内の裡に自分の行く先を見た。その体現が蝋画(顔料と荏胡麻油による油彩画)だった。「のぞきめがね」なども作っている。
【酒井抱一】(1761生) 能と狂歌と浮世絵。三味線と浄瑠璃と茶の湯。それに西本願寺の文如からうけた得度。姫路の大名の息子の遊芸は広すぎて、このままいけば粋な嗜みでおわるかと見えたのが、宋紫石に師事して南蘋風を手に入れたのが天成の器用に骨法を与え、そこへ文晁から「光琳を見なさい」と示唆されたのが転機で、あの琳派一格の確立に向かった。それも抱一だが、やはり河東節の詞曲を好きに遊んだのも抱一だと、ぼくは見る。愛用の三味線の匣蓋には自作「手鼓や朝顔の葉をもって鳴る」と書いてあった。これだけ数寄の風情を遊んで、一杯も呑まない下戸だったというところが、さらにいい。
【谷文晁】(1763生) 復古を唱えて先鞭となり、『集古十種』を編んだ。また「派手」を知っていた。喜寿の宴を両国万八楼で催したときは名流すべてが集まり、その威勢が収まらず亀清楼まで及んだ。このことと、文晁があらゆる流派の絵を手がけたことはつながっている。時代は田沼意次から松平定信に移ったが、その定信と交友して「後援」とは何かを理解したことも関係がある。当時の大画家であるが、工夫も惜しまなかった。とくにその蝶が絶品。《群蝶之図》がいい。ただ文晁を集めるのはあきらめたほうがいい。九割が贋作だ。
【田中訥言】(1767生) こういう人がいるから京都は保たれてきた。延暦寺で童僧となり、伏見に移って京狩野の石田幽汀にも土佐光貞の門にも習ったが、古土佐を慕って有職故実に嵌まった。山崎闇斎の垂加神道などを研究しているうちに、京都大火で烏有に帰した内裏が再建されることになり、御用命画人の一人に若くして選ばれた。このときの絵が評判となって、訥言は古今独歩の復古大和絵の中心となった。《賀茂祭礼図》などの多くが訥言の筆だということは、いまの京都人は忘れている。浮田一蕙や冷泉為恭の絵と魂を育てた。
【葛飾北斎】(1760生) こんなに奇天烈で、意匠を凝らしつづけ、それでいて斬新を極めた才能は、日本の画人でもめずらしい。勝川春章から浮世絵を、司馬江漢から西欧画を、堤等琳からは漢画を、住吉広行に土佐派をうけて、これらをたちまち撹拌重畳していった。いや、その前に真似の天才だった。あるときは俵屋宗理となり、あるときは鍬形恵斎になってみせた。世阿弥でいうなら「物学」だ。その才能は通笑・京伝・馬琴の戯作の挿絵を描くようになってから爆発的に開花した。これは版元の意向にぴたり応ずるという趣向を会得したからで、それが馬喰町西村与八の求めに呼応した《冨嶽三十六景》になった。小布施にのこした絵では天使すら描きこんで、黒船騒ぎの海の向こうの風情をとりこんだ。《北斎漫画》はマンガのルーツというより絵手本である。

青木木米『莵道朝暾図』
渡辺崋山『ヒポクラテス像』
菊池容斎『白河夜討之図』

【青木木米】(1767生) 祇園の茶屋に木屋があった。そこに生まれて幼名が八十八だから木屋の八十八で木米。家は鴨東大和橋の北。なぜか医書を好んで漢籍をあたるうちに大坂船場の大ディレクター木村蒹葭堂をたずねるようになり、そこで『竜威秘書』に出会った。その十八冊のうちの『陶説』に震撼として、さっそく奥田穎川に磁器の呉須赤絵など習って、最初は交趾(ベトナムの焼き物)の写しなど作っていたのだが、それがついに「雨後の青天に雲の破れたるところ」の青磁に至った。こういう木米の絵だから、余技ながら凄い。
【田能村竹田】(1777生) この人は文晁に学んだあと詩歌書画のため世俗を断った。医者の小石元瑞・頼山陽・菅茶山・木米らの莫逆の友に支えられた。その水墨山水の傑作のいくつかは浦上玉堂と並ぶ。加うるに『泡茶新書』『葉のうらの記』などの茶書をものし、とりわけ『山中人饒舌』は堪能させられる。ぼくの『山水思想』にも書いたことだ。
【渡辺崋山】(1793生) 崋山には「立志」と「世路」があった。風貌も偉丈夫で、つねに長刀を帯び短袴を着して市中を闊歩したから、どう見ても剣客に見えた。が、絵は文晁に出会って自身で入手すべきことを諭され、宮本二天(武蔵)であれ狩野探幽であれ、なんとか入手して手元で学んだ。これが洋画にも及んでの、かの洋風リアリズムとなり、遠近法も描き分けた。海防を憂慮して執筆した『慎機論』が問題視されて、蛮社の獄ののち、切腹している。
【中林竹洞】(1776生) 尾張出身の竹洞はいまも京都の老舗の三条寺町の鳩居堂の主人の親切を中継にして頼山陽・貫名海屋らと交わり、しだいに文人南画に深入りしていくのだが、それがストイックにとどまったのは息子の竹渓のせいもあったろう。竹渓は変わり者の画人で、たとえば応挙を嫌った。この時代になると、初めて画人のあいだに分裂が見えるのである。
【山本梅逸】(1783生) 竹洞が同郷の梅逸を引き上げた。やはり鳩居堂が最初の世話をした。二人をもって中京二神というが、性格画風は正反対で、竹洞は隠逸派で家庭趣味、梅逸は社交を好んで祭礼の賑わいに酔えた。いま尾張の祭りの山車には梅逸の絵が多い。その門、梅門という。
【菊池容斎】(1788生) 容斎は広重より10歳ほど年長だが、90歳近くの長生きだったので、維新の人に見える。終生にわたって忠孝恩義を重んじた。その思いは『前賢故実』にもあらわれていて、訓蒙を絵の中にも移そうとした。明治天皇はこれを記念して「日本画士」の称号を与えた。おそらく画人のなかでこれほど勤皇精神を高唱した者はいなかったのではないか。貫之が好きで、これまで『土佐日記』を絵にした者がいなかったので、《土佐日記絵巻》を残した。
【安藤広重】(1797生) 歌川豊春に2人が傑出した。豊国と豊広だ。豊国は時勢を映して濃艶な錦絵風だったが、豊広は草筆の味を出した。この豊広のほうの門を火消し同心の子の広重がくぐった。これがのちの広重の画風を決める。もうひとつ、北斎と出会ってその傲岸に辟易とし、いっさい北斎まがいの奇矯を避けようと決めたのも、広重をつくった。天保3年、幕府慣例の八朔の御馬献上の一行に加わってその拝観の図を描くようにとの命が出て、この見聞をもとに徹底した作り絵に仕立てたのが保永堂版行の《東海道五十三次》である。ここには「景色というのは見るたびに違うものだ」という哲学が生きた。
【浮田一蕙】(1795生) 田中訥言に土佐絵の薫陶をうけて大和絵の再生にのりだしたのは、一蕙と冷泉為恭である。一蕙は絵も書も歌も感覚を揃えられた。在原業平を偲んで庵を結んで「昔男精舎」と名付け、「わが宿の軒端の梅に鳥がきて東なまりの初音をぞ聞く」と詠んだ。

森寛斎『松澗瀑布図』
田崎草雲『蓬莱仙宮図』

【柴田是真】(1807生) 是真の名が広まったのは天保11年の初午に王子稲荷社殿が新造されたとき、その額堂に羅生門の鬼女の図が掲げられてからだった。明治初年に五世菊五郎がこの額を見にいって驚き考えこみ、これを芝居にしたいと思って河竹黙阿弥(11夜)に相談した。出来上がってきた台本が『茨木』だった。明治16年、その初演が新富座で開かれたとき音羽屋がまた是真に鬼女を頼んだ。これが櫓に掲げられて大評判となり、芝居が大当たりした。一枚の絵が芝居になった稀有な例である。しかし是真は蒔絵こそが天下逸品だった。光琳の次の蒔絵上手は是真なのである。
【森寛斎】(1814生) 寛斎は京都に入ったときにすでに塩川文麟と並び称された。そこへ黒船来航。寛斎は絵筆を捨てて国難に立ち向かおうとして勤王の志士と交わり、長州との間を二度往復して意見調節の任を引き受けたりした。明治になってフェノロサが寛斎を訪れたときは、西洋画に影があるのを指摘して、われらは物に影があるようにも、花には香りがあるようにも描くのだと言ってのけた。フェノロサが頭が上がらなかったのは寛斎だけだったという。
【田崎草雲】(1815生) あばれ梅渓の異名があった。足利藩を脱藩して放浪を好んだのと、幕末に梁川星巌と交わって攘夷を唱え誠心隊を結社したりしたせいだ。絵の本領は山水である。生涯、朱舜水(460夜)を遠慕し、若い者には「人の噂をするな」とだけ教えた。
【冷泉為恭】(1823生) 訥言に私淑して古画の模写に熱中し、ひたすら王朝を敬慕した。それも尋常ではない。《伴大納言絵詞》に見とれ、承久の乱の絵を描き、後鳥羽院(203夜)の故事全般に溺れた。《伴大納言絵詞》を模写するため京都所司代に近づいたことが勤王佐幕の世では睨まれ、浪士の狙うところとなった。紀州粉河寺に隠れたものの堺まで落ちて、斬殺された。こういう画人も少ない。『本朝画人傳』では、為恭の死が維新の鐘の音である。

河鍋暁斎『花鳥図』
橋本雅邦『白雲紅樹図』』

【岸竹堂】(1826生) かつて金沢に乙治郎という浄瑠璃好きの絵描きがいた。大坂へ出て豊竹駒太夫に入門を乞うたが断られ、絵のほうに進みなさいと言われた。これが岸駒である。二代が岸岱、三代が岸連山、その連山の養子となったのが竹堂だ。着物の下絵を描いて鮮やかだった。いまも京都の呉服屋として有名な千総の西村友禅はほとんど竹堂の下絵による。明治に入ってフェノロサは東では芳崖を発見するが、西では竹堂の画技に驚嘆した。それにしても岸派が虎を好んだ理由は、よくわからない。
【狩野芳崖】(1828生) 木挽町狩野の勝川塾には橋本雅邦と同日に入門した。ここに松代出身の三村晴山がいて、佐久間象山を紹介した。感化された芳崖は国事に奔走するべきだと覚悟するのだが、象山はむしろ絵によって国に当たりなさいと言う。10年を研鑽して故郷の長州に戻ると、愛国僧霖竜和尚に、その国を思う心で坐ってみよと言われ、今度は禅林修行をした。おそらくはこうした胆力が《悲母観音》を描き上げさせたのではないか。
【河鍋暁斎】(1831生) 北斎以来の妙想者。たとえば鯉魚は応挙の右に出る者はいないと言われてきたのだが、暁斎は盥に鯉を放ってさんざん写生して、三六鱗があれば鯉は鯉になることを決めている。暁斎は放縦な性格だったので、このリアリズムを狂画に移したいと思う。ここから菊五郎を喜ばせた幽霊画などの奇想が始まった。自ら「画鬼」と称した。ジョサイア・コンドルがぞっこんになったせいもあって、いまも日本人よりもイギリス人のファンが多い。
【長井雲坪】(1833生) このなかでは一番の清雅にいた画人であろう。越後の沼垂の出身、16歳で長崎に入って日高鉄翁や木下逸雲の長崎派を学び、35歳で宣教師フルベッキにくっついて中国に渡った。維新後に東京に入ったが画名は上がらず、諸国遊歴のうえ信州戸隠に住みついてしまった。山を下りたのはやっと明治17年で、それでも善光寺裏で花を塩漬けにして飯を食べながら、ヘロヘロの蘭を描いた。これをのちに漱石が感嘆した。
【橋本雅邦】(1835生) 同門の芳崖とは無二の親友だったが、長らく赤貧に甘んじて、三味線の駒など削っていた。やがて頭角をあらわしたときはこの隠忍が生きて、若い岡倉天心(75夜)をよく扶けて日本美術院創設の精神の支柱となった。後輩を育てる名人だ。
富岡鉄齋】(1836生) 格別の魂、別格の魄。三条衣棚の十一屋。永平寺御用達の法衣屋。太田垣蓮月の優美で裂帛の配慮。夥しい漢籍の読破を通して遊んだ謫仙の趣向。国学を学んで自身を湊川・石上・大鳥神社の神官として奉仕した精神。これらをひっさげて、なおいっさいの世事・画壇とかかわらず、悠然と文人南画を描き続けて他の追随を許さない画境に達していたのに、本人は「絵よりも画中の詩文を読んでほしい」と言い続けてきた。おそらく、こんな人、もう出てこない。そのこと、『山水思想』最終章にも気持ちをこめて書いておいた。
【奥原晴湖】(1837生) 下総古河藩には佐藤一斎・大沼枕山・鷹見泉石がいたが、これらの碩学を相手に二十歳前後の美人の晴湖があふれるばかりの才藻をふりまいていたのだから、巷間の話題にならないわけがない。江戸に出て雅会を催せば、錚々たる名士が集まった。おまけに「支那画」に明るい。松平容保にも木戸松菊(孝允)にも気にいられた。その晴湖が維新となってバッサリ短髪の男装に変身し、明治5年に女は合宿、男は通塾させる「春暢学舎」を開いた。その通塾の一人に少年岡倉覚三がいた。のちの天心だ。時勢が欧風一辺倒になると、さっさと熊谷の田舎に引っ越して繍仏草堂を結んで、若衆らと老来入神の日々を送った。そうとうな美人だったのだろう。
【平福穂庵】(1844生) 秋田角館の人。子の百穂ほどには知られていないが、その《乳虎図》はすでに竹内栖鳳を思わせる。明治23年の内国勧業博覧会出品の絵だ。そのとき岸竹堂も《乳虎図》を出してどちらも銀賞をとったのだが、幸野楳嶺は穂庵に軍配をあげた。ところが竹堂はこのとき虎に眼晴を入れた瞬間に錯乱したと伝えられた。何と激越なエピソードであろう。穂庵の画才は期待されたが四七歳で倒れ、百穂にその開花が託された。
【幸野楳嶺】(1844生) 京都府画学校を創設した。また画塾「凌雲会」「大成義会」、京都美術協会の創設の中心ともなった。夥しい子弟をつくり、とくに菊池芳文・竹内栖鳳が抜きんでた。その後の京都画壇は楳嶺がお膳立てを用意したようなものだ。近代日本画のオーガナイザーだ。

小林清親『九段坂五月雨図』
竹内栖鳳『斑猫図』
寺崎広業『秋山図』

【小林清親】(1847生) ワーグマンと暁斎に学んで、柴田是真に漆絵を下岡蓮杖に写真を教わったから、ああいうモダンな夜景木版のような作品ができた。ジャーナリスティックな近代イラストレーター第一号である。弟子に光線画の井上安治、戦争画の田口米作、詩人の金子光晴がいる。
【竹内栖鳳】(1864生) 栖鳳については、以前NHKの「日曜美術館」でも話したのだが、写真術とのかかわりやヨーロッパ旅行体験がおもしろい。楳嶺の門に入ったことも右にのべた。が、村松梢風は髙島屋呉服屋京都店とのつながり、天心の東京美術学校への招聘を断ったこと、鴈治郎との肝胆相照らす交友などにも注目した。大観の坂東武者ぶりに対するに、栖鳳の公家繊細である。
【寺崎広業】(1866生) 東京美術学校助教授となって、日本美術院創設にも加わったのに、天心なき東京美術学校に戻って、そこで長らく君臨した。そういえば裏切りめくかもしれないが、日本橋芸者を囲う奔放が身上で、何事もざっくりと鷹揚、その絵も勝手な緩みに味がある。
【横山大観】(1868生) 何といっても《生々流転》のような透徹した山水物語を描ける画人はその後は出ていない。天心は春草にくらべて大観の才能が著しく劣るのを気にしていたのに、それが一転した。大観を大きくしたのは家庭の不幸が続いたことと親分の天心を守ろうとする意志が絵にまで及んだからだった。そこには古今無双ともいうべき水墨雲烟の妙というものがあって、年をへるにしたがって朦朧画の長所短所のいずれをも超えてしまった。名墨の秘密に気がついていた画人でもあった。

小川芋銭『春光悠々図』
下村観山『春雨図』

【小川芋銭】(1868生) 河童の芋銭である。が、河童も芋も酒も好物だった。そこを幸徳秋水も徳富蘇峰も(885夜)おもしろがった。『草汁漫画』の画集があるように、自身はへりくだって「漫画のようなもの」と嘯いたが、どうしてそここそが追随を許さない独壇場で、あんな軽妙は他に描ける者がない。それに書が趣向に富んで、堪能だった。明治の画人で書が下手な者などいるわけないが、鉄齋と芋銭こそが雲の上を行く。
【山元春挙】(1871生) 師匠は森寛斎。明治30年代になって栖鳳・芳文と並んで京都画壇の中心を担ったが、実は京都の写真技術も春挙が引っぱったものだ。瑞気焙烙という言葉があるけれど、その画風には花鳥風月を描いて瑞気が香った。
【下村観山】(1873生) 下村の家は小鼓の名家で、維新になって没落した。そこで芳崖・雅邦について絵に進んだ。技倆だけでいうなら、大観・春草も及ばない。もうひとつ大観・春草が及ばないのは天心のことなら借金でも誹謗でも背負う気概があったことである。とくに五浦に日本美術院の数人が都落ちしたときは、観山の気概がよく支えた。さらに「線は気合のもの」と言って、朦朧画の成否の如何にかかわらず、線のあるなしにはまったく拘らなかった。人にあって拘泥を重んじ、絵にあって拘泥に遠いことが観山の特色である。
【川合玉堂】(1873生) 楳嶺、雅邦、天心というふうに従った。波瀾の時期を通過したわりに、こんなに温雅で寛厚な画人三昧を送った人も少ない。愛知の人だが岐阜が好きで、長良川の絵が多い。根尾谷の菊花石にも目がなくて、これをしこたま収集した。
【菱田春草】(1874生)夭折の天才だ。もう一人の夭折の天才は今村紫紅だろうか。大観とともに旅行したインドが春草を変えた。すでに何度か書いてきたことだが、明治の日本画を一作だけ選べと言われれば、ぼくは春草の《落葉図屏風》になる。眼疾を患って失明寸前に追いこまれてからは、なお別種の精神の炎上があったようで、《黒き猫》など見ていて身震いがする。昔日、京都の何必館で大観と春草を一緒に見たときは涙が出てきた。
【小室翠雲】(1874生) 大正10年に設立された日本南画院の中心となったのは、南画もたしかに好きだったのだろうが、群馬の館林の出身で東西をまとめて見る位置にいたからだった。それで昭和16年に大東南画院をつくるときも頭領の役を担わされた。国定忠次に惚れていたというのが愛嬌だ。
【吉川霊華】(1875生) 雅邦にも洋画の小山正太郎にも、大和絵研究の松原佐久にも指導をうけて、それらのどこにも傾斜しない独得の稀有な知的画風を保った。傑作《離騒》や《菩提達磨》にその集約があらわれている。大正5年、結城素明・百穂・鏑木清方・松岡映丘らと金鈴社をつくった。
【上村松園】(1875生) 《序の舞》があまりに有名で、小説も映画もテレビドラマもこの話になりすぎていて、どうも松園はおもしろくないという印象なのだが、楳嶺と栖鳳についたのだから筆はしっかりしているし、なにより四条御幸町の松園さんといえば、京都ではあのへんの近又も吉勘も、葛切りもたち吉も、金剛の能まで、松園の筆の中なのである。実は祖父が大塩平八郎の血筋をひいたものであるという。

平福百穂『牛図』
鏑木清方『春雪図』

【平福百穂】(1877生) 穂庵の子であることを離れて鑑賞されてよい。川端玉章の門にもいたが、「国民新聞」の徳富蘇峰の片腕だった栗原白雲に引き立てられてのことか、俗の権威に騙されない目をもったことが、アララギ派の歌人としての目にも、のちの仏僧を描くときの炯眼にもなっている。その炯眼が《堅田の一休》によくあらわれた。ぼくは自分も住んだことがあるので親しみを感じるのだが、百穂が世田谷三宿に白田舎という一門をつくったことが、歓ばしい。
【鏑木清方】(1878生) 美人画というのは必要である。鏡花や新派や女優が世の中にいる以上、浮世絵・美人画・ブロマイドまでは一直線である。しかしその風情となると、清方・小村雪岱から伊東深水・岩田専太郎まで、その趣向はおおいに異なる。清方の風情の源泉は水野年方で、それ以外はすべて鏡花が用意したといってよい。
【松岡映丘】(1881生) 柳田國男・松岡静雄の弟。だから姫路の片田舎、柳田のいう「日本で一番小さな家」に育ったわけである。交友関係も最初は文芸的で、絵も雅邦に習ったのちは田山花袋から山名貫義を紹介された。鏡花の初期の挿絵を描いていた梶田半古からもしばしば指導をうけた。新興大和絵に苦心して国画院をおこした。いま、この国画の心を継ぐ者が少ない。
【土田麦僊】(1887生) 佐渡の神童といわれて育ったが、絵をやるなら京都だと思い、栖鳳に教わった。当初からゴーギャンの異様な原色にも共感していたふしもある。それをなんとか日本に移したくて、たとえば山茶花・芥子・雪柳を数百枚写生した。念のため大正10年にヨーロッパに出掛けて美術館を回ったが、これで自信が出て、国画に打ちこむ以外の道を断った。くどいようだが、この国画の心を受け継ぐ者が、いまは少なすぎるのだ。