アーサー・ケストラー
ユダヤ人とは誰か
三交社 1990
ISBN:4879191027
Arthur Koestler
The Thirteenth Tribe 1976
[訳]宇野正美

 第842夜のスピノザ『エチカ』に出しておいたユダヤ人マラーノをめぐる宿題について、その続きを予告しておいたので、今夜はその宿題を書くために本書を選んだ。ついでに第693夜のベルント・レックの『歴史のアウトサイダー』も引き連れる。
 著者のアーサー・ケストラーは20世紀後半の最もラディカルなジャーナリストの一人で、とくにスペインの内乱に向けた眼の先鋭性は、第941夜のダニエル・ゲランに匹敵するものがある。最初の話題作『スペインの遺書』は読む者の胸をえぐった。一方、『サンバガエルの謎』や『ホロン革命』をはじめとする代表著作があるように、ケストラーは科学にもシステム思考にも強かった。一貫してヒエラルキーに代わる「ヘテラルキーの社会化」を主張しつづけた思想者でありつづけた。90歳前後だったと思うが、最期はかねてからの計画通りに夫人と安楽死を遂げた。
 ぼくは工作舎で『ホロン革命』の翻訳編集出版(このタイトルはぼくがつけた。原著は『ヤヌス』=両顔両面神という)にかかわったため、ケストラーにはとくに親しみをもっているが、本書のようなユダヤ人問題をめぐる著作があるとはしばらく知らなかった。

 本書の原題はなかなか意味深長である。『第十三支族』となっていて、アシュケナージ(アシュケナージーム)のユダヤ人、すなわちカザール(ハザール)系のユダヤ人の動向を解明している。邦題『ユダヤ人とは誰か』から予想されるような、“あのユダヤ人”をめぐる全般史ではない。とりわけスファルディ(セファルディーム)を扱ってはいない。アシュケナージだけである。
 しかし第693夜第842夜にも書いておいたように、近代以降のユダヤ人問題を理解するには、このアシュケナージをこそ見る必要がある。これまであまり議論されてこなかったにもかかわらず、最も重要な動向を秘めている。
 ただし、ケストラーの本書だけではこの動向の全貌は見えない。そこでごく最近刊行されたハイコ・ハウマンの詳細な『東方ユダヤ人の歴史』(鳥影社)をこれに交差させ、これらを補うためにシーセル・ロスの『ユダヤ人の歴史』(みすず書房)やマックス・ディモントの『ユダヤ人』上下巻(朝日新聞社)などを下敷きにした。

 簡単におさらいをしておくと、今日のユダヤ人には大きく2種類あるいは3種類がある。日本人のわれわれはこの相違がよくわかっていない。

 ひとつは「スファラディ」(スファルディ)のユダヤ人で、旧約聖書にアブラハム、イサク、ヤコブの子孫として歴史に登場する「モーセの民」である。スペインを意味するヘブライ語「スファラッド」を語源とする。
 これがふつうは“本来のユダヤ人”だとみなされている。しかし、かれらは数度にわたるディアスポラ(離散)にあって、1492年までは主としてイベリア半島に定住していた。ここでかれらはスペイン語を改竄した「ラディノ語」をつくる。が、イスパニアでカトリックの力が強くなると(いわゆるレコンキスタ)、主要部族は北アフリカ、オランダ、フランス南部に移動した。
 この移動部隊の多くはキリスト教徒と融合しながら生き延びた。この部隊の“隠れユダヤ人”たちが「マラーノ」である。スピノザやレンブラントはポルトガル系のマラーノの直系だった(第842夜)。

 もうひとつは「アシュケナージ」のユダヤ人で、その多くは東ヨーロッパで多数のコミュニティをつくっていたのだが、ロシアのポグロムやドイツのホロコーストで迫害され、西ヨーロッパあるいはアメリカに移住した。
 アシュケナージとは、ドイツを意味するヘブライ語の「アシュケナズ」から派生した呼称である。
 このアシュケナージはもともとはカザール人と重なっていた。かれらはやがて東欧に動いてドイツ語を改竄して「イディッシュ語」をつくった。
 いま、世界中のユダヤ人は1500万人ほどいるというが、そのうちの約90パーセントはアシュケナージだといわれる。しかし、アシュケナージは本来のユダヤ人なのかという問題がある。
 さらに「ミズラヒ」と呼ばれるユダヤ人がいる。しばしばスファラディに含まれて語られることも多いのだが、その一部がアジアに流れていったことに特徴がある。もっとも今日のイスラエルにはスファラディとミズラヒがほぼ半分すづ居住する。

 ぼくは長らく、「さまよえるユダヤ人」の歴史や動向や思想に関心をもってきた。最初は高校時代に読んだ石上玄一郎の『彷徨えるユダヤ人』(いまはレグルス文庫に入っている)からだったろうか。
 その後、ユダヤの歴史と思想に惹かれてずいぶんいろいろな書物を渉猟してきたが、この「さまよえるユダヤ人」が今日の世界の大多数を占めるユダヤ人ではなかったということは、ケストラーを読むまでは知らなかった。

 モーセの出エジプト以来、ダビデも預言者エレミアもハスモン王朝も、「タルムード」もカバラ神秘主義も「ゾハール」も、マホメッドもマイモニデスらの地中界ユダヤ人も、これらはセム系の「モーセの民」としての動向だった。これらは総じてユダヤ思想とかユダヤ主義とよばれてきたものである。その黄金期はだいたい11世紀までのことだった。
 やがて「さまよえるユダヤ人」はいったん歴史の主舞台から姿を消し、やがてスファラディと呼ばれるようになった。なぜそうなったかといえば、度重なる十字軍の動きとキリスト教社会の矛盾に満ちた波及とともに、ロシアを含む全ヨーロッパでユダヤ人に対する追放や弾圧が始まった。多くのスファラディがスペインやポルトガルに逃げのびたことは上に述べたとおりだが(強制的に改宗させられた者も多く、そのため隠れユダヤとしてのマラーノが生まれた)、15世紀にはその逃げのびたユダヤ人がまたイベリア半島からも、フランスからも追放された。
 16世紀になると、イタリア、ドイツ、中央ヨーロッパの各地に次々にゲットーができ、それが許容できないユダヤ人は集団でイギリスやアメリカに渡った。なかで比較的寛容なオランダ移民派のスピノザが『エチカ』を書いたのは、まさにこの時期である。そのスピノザを、ヨーロッパは冷たい沈黙で迎えたものだ。
 こうしてスファラディは、むろんやむなくというべきだが、一方では改良主義に走り(モーゼス・メンデルスゾーンの改革派ユダヤ主義など)、他方ではゲットーを出て過激に走らざるをえなかった(ハシディズムの再燃など)。

 近代に向かった「モーセの民」を待っていたのは、さらに複雑な動向である。
 フランス革命がヨーロッパの精神を塗り替え、ついでナポレオンがヨーロッパの地図を塗り替えると、ユダヤ人を抱きこむ国があらわれて、いったんユダヤ人の“はかない春”がおとずれそうにもなったのだが、同時にユダヤ教など認めないという複雑骨折が次々におこっていった。
 つづくナポレオンのロシアでの決定的敗北以降は、ヨーロッパ各国は「国民国家」の形成にむけて動き出して、ユダヤ人という人種問題などまったく顧みられることがなくなっていく。そういうときに、ロマノフ朝が支配を確立したロシアで、ユダヤ人の大量虐殺(ポグロム)が断行された。
 かくして、もはやスファラディの純血はこれを守るすべがないほどに攫き乱され、アシュケナージとの交じり合いもおこりはじめた。実はマルクスやバクーニンが登場してきた時代は、こういう時期だった。ということは、これでおよその見当がつくと思うけれど、コミュニズムやアナキズムは、資本制社会や国民国家や人種差別に対する総合的なアンチテーゼだったのである。

 20世紀はユダヤ人がどのように現代社会にユダヤを定着させるかという政治行動と哲学思想の時代になる。
 たとえばシオニズムが吹き荒れ、マルティン・ブーバーのユダヤ実存主義が生まれ(第588夜)、フロイトアインシュタインによる意識革命のプランや科学革命のプランが噴き出してきた。
 ここにいたって、スファラディによって創意されてきたユダヤ主義は、大量のアシュケナージと混成していくことになった。
 1948年にイスラエルが建国されたとき、その原動力になったのはほとんどアシュケナージだった。建国後、スファラディがイスラエルに入ってきた。しかし、スファラディとアシュケナージは全く別の“人種”だったのである。

 では、今日のユダヤ人の90パーセントを占めるアシュケナージとは何なのか。
 ケストラーによると、アシュケナージとカザール(ハザール)人の歴史は重なっている。そして、この歴史こそがヨーロッパの裏側のシナリオの解読にとって最も重要なものだという。
 375年をさかいに、フン族をはじめとする民族大移動がユーラシアを動きまわった。このときビザンチン帝国の使節はフン王アッチラに親書を送り、戦士部族としてのカザール人の存在を報告した。歴史上、初のカザール人の登場である。
 フンの王国が崩壊すると、カザール人はコーカサス北部を中心にしだいに勢力を拡大していった。首長はカガンと呼ばれた。ついで広大な草原にトルコ民族の突厥(チュルク)が出現すると、カザールの民はいったん突厥の支配下に入り、アバール・ハーン王国を名のった。そのうちビザンチン帝国の版図の拡大にともなって、ビザンチンとカザールとのあいだに軍事同盟ができ、コンスタンティヌス5世がカザールの王女を娶り、その息子レオン4世が“カザールのレオン”としてビザンチン帝国の皇帝の座についた。
 その直後の740年ころ、カザールはユダヤ教に集団改宗した。理由ははっきりしない。ともかくカザールの民はいっせいにユダヤ化してみせたのだ。ノアの3番目の息子のヤペテを始祖とする“血の伝承”に関する見方もこのころにつくられた。
 しかし、その血統は実際にはセム系ではなく、白色トルコ系であり、その気質はあきらかに遊牧民族系だった。

カザール国

カザール国

 こうして、カール大帝が西ローマ帝国を治めたときは、ロシア・トルコ地域には、キエフ王国とユダヤっぽいカザール王国(首都イティル)の二つの勢力がが相並んでいたということになる。
 そのカザール王国の盛衰に終止符が打たれたのは、1236年にモンゴル軍が侵攻し(いわゆる「タタールのくびき」)、1243年にキプチャク・ハーン国が成立したときである。カザール人はバトゥ・ハーンの支配となって、ここに王国は滅亡した。
 しかしケストラーは、このあとにカザール人がロシアから東欧に移動して、のちにアシュケナージとよばれる親ユダヤ的な中核をつくったと推理して、そこにブルガール人、ブルタ人、マジャール(ハンガリー)人、ゴート人、それにスラブ人が交じっていったと判断した。ケストラー自身がハンガリー生まれだったのである。

 黒海とカスピ海に囲まれた地域を中心に広がった半径のなかにいたカザール人が、しだいにマジャールやブルガールと交じっていったことは、その後のユダヤの歴史をひどくややこしくさせている。
 まずカザール・ディアスポーラは、東欧にかなり高密度な集落をつくっていった。これはゲットーではない。自主的なコモンズで、もっぱら「シュテトゥル」と呼ばれた。この集落がロシアの地からの拡張にともなってしだいにポーランドのほうにも移行して、やがて「ユーデンドルフ」(ユダヤ村)と総称された。そのユーデンドルフに、それまで離散していたユダヤ人が少しずつ加わった。そこには”本来のユダヤ人”(セム系ユダヤ人)やスファラディも交じっていた。
 ここからはハウマンの記述が詳しいのだが、こうして、ポーランドが東方ユダヤ人の原郷とされていったのだ。これこそ、モーセ以来のセム系ユダヤの十二支族にもうひとつが加わることになった「第十三支族」なのである。
 けれども、そのポーランドこそは近現代史の悲劇の舞台であった。ポーランドはたえず分割された。そしてそのたびに「第十三支族」が影のシナリオを担わされていった。これはかつての「さまよえるユダヤ人」ではなく、新たな近現代の「さまよえる複合ユダヤ人」の物語なのである。

 これでおおざっぱなことは展望できたとおもう。ともかくも、こうして地球上をしだいに占めるようになったアシュケナージの動向は、「モーセの民」をも巻きこんだまま、今日の今日にいたるまで、イスラエルの中でも、イスラエルの内外でも、血統・勢力・宗旨・言語・風習をめぐる重大なキーをもったまま、国際政治の荒波での浮沈をくりかえす一団というふうになったのである。
 ふりかえってみると、スピノザもマルクスも、カフカもブーバーもサルトルも抱えた“ユダヤ人問題”には、いくつもの難解な特徴があった。
 3点だけ、ここではあげておく。

 第1に、「モーセの民」と「タルムードの民」は必ずしも一致していないということだ。本来のユダヤ教は「旧約聖書」と「ゾハール」と「タルムード」が聖典であるが、アシュケナージは「タルムード」しか読まない。
 第2に、言語の問題がある。「モーセの民」はヘブライ語の民である。ところがディアスポラのユダヤ人は各地でその地域の言語を編集して、新たな“ユダヤ風の言語”をつくった。それが10世紀ごろに確立されたイディッシュ語である。ドイツ語を基盤に、そこに「タルムード」の単語や句を交ぜた。これが大流行した。アシュケナージは主としてイディッシュ語をマメ・ロシュン(母語)とした。さきほどのユダヤ・コモンズ「シュテトゥル」もイディッシュ語である。
 いまではイディッシュ文学という独自の領域もある。日本でも森繁久弥がテヴィエに扮して当たったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作者ショーレム・アレイヘムはその一人だった。ウクライナ生まれのアシュケナージだった。
 ちなみに『屋根の上のヴァイオリン弾き』の舞台写真を最初に見たとき、ぼくはマルク・シャガールの絵をふいに思い出していた。のちに知って驚いたのだが、シャガールは20世紀で最も有名なアシュケナージの画家だったのだ。

 第3にハシディズムやシオニズムの問題がある。ハシディズムはポーランドのバアル・シェーム・トーヴ(略称ベシュト)によって提唱された。18世紀である。神との交流による恍惚を謳った。
 トーヴの活動はやがてハシディズム(敬虔主義)とよばれ、南ポーランド全体に広がっていく。が、ポーランド分割の悲劇がこの活動に終止符を打たせた。

 シオニズムは選民思想である。しかし、そこにはシオニズムが投入されざるをえなかった苛酷な前段がある。
 1855年にジョセフ・ゴビノーの『人種の不平等』がユダヤ人であること自体を悪とする人種差別思想をまきちらし、1881年にキリスト教社会党を組織したアドルフ・シュテッカーが「ドイツのユダヤ化」を激しく非難したパンフレットを連打、1903年にセルゲイ・ニールスが『シオンの議定書』を書いてユダヤ人が世界支配の計画と陰謀をもっているというデッチアゲをして、これらが流布された。
 こうした異常な反ユダヤ主義(アンチセミティズム)がヨーロッパを席巻した。
 この悪影響はわれわれの想像を絶するもので、心あるユダヤ人たちにいわゆる「ユダヤ人の自己嫌悪」をもたらし、このアンビバレンツな感情はハインリッヒ・ハイネを嚆矢に、オットー・ヴァイニンガー、フロイト、フッサールに及んだものだった。

 この反ユダヤ主義に対して、レオン・ビンスケルが『アウト・エマンツィパツィオーン』(自力回復)を提唱する。ユダヤ人は同化されえず、自らも民族的ホームを求めるべきだというものだ。
 モーゼス・ヘスも『ローマとエルサレム』でユダヤ倫理にもとづいたユダヤ人国家をつくるしかないと説き、ヒルシェ・カーリッシュが『シオンを求む』でイスラエルの地での再民族化の機会をもつべきではないかと説いた。
 そこへドレフェス事件やエミール・ゾラの勇気ある活躍があって、ユダヤ人を認めるべきだという西ヨーロッパにおける機運がわずかに盛り上がってきた。テオドール・ヘルツルがシオニスト会議を提案した背景には、以上のような流れが渦巻いていた。
 ヘルツルのシオニズム運動は挫折するけれど、その方針は受け継がれて結局はイエラエル建国に結びつく。それがどういうものであったか、どんな問題が積み残されたかについては、第398夜の『ユダヤ国家のパレスチナ人』や、立山良司がポスト・シオニズムの動向をまとめた『揺れるユダヤ人国家』(文春新書)などを読んでもらいたい。
 以上、わずか3点だけ取り上げてみたが、これらはいずれもアシュケナージの奥にスファラディの歴史的宿命を窺うというていの問題ばかりである。

 ユダヤ人問題というのは、とうていわれわれが観測しきれるものではない。しかし、ときどきはこの問題にひそんでいる壮絶な意味を覗いてみることは、日本や日本人を考えるときのヒントになることがある。
 たとえば数年前、WJC(世界ユダヤ人会議)の会長ナフム・ゴールドマンが「ユダヤ人にとって良い時は、ユダヤ教にとって悪い時になる」と発言していたことは、強烈な暗示力をもっていた。
 その後、イスラエルの良心とも呼ばれるヨッシ・ベイリン労働党議員がWJC60周年記念シンポジウムで、「ユダヤ人が個人として活動が自由になっているとき、ユダヤという民族は縮んでいるのだ」と発言していた。何かものすごいことをメッセージされていると思ったことである。
 ユダヤ人の個人と、ユダヤ人という民族と、ユダヤという国家とは別なのだ。そこにはホッブズのリヴァイアサンはあてはまらない。いや、別なのではなく、それを一緒にしようとすると、歴史が必ずそこで逆巻くのである。
 その理由がどこにあったのか、たとえばエドワード・サイードにも答えを出してほしかったことである(第902夜)。

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