ダニエル・ゲラン編
神もなく主人もなく
河出書房新社 1973
Daniel Guerin
Ni Dieu Ni Maitre 1970
[訳]江口幹

 1921年2月8日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ノヴォジェヴィチの修道院にいたる5マイルの道に、チャイコフスキーの第1と第5が流れた。その葬列には黒旗が林立した。
 葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には200人の合唱団がふたたびチャイコフスキーの『永遠の追憶』を歌った。そして、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いたのだ。
 「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ!」。

 ルイ・ルーヴェの『世界アナキズム史』には15世紀ドイツの格言が扉に印刷されていた。それが「神もなく主人もなく」である。
 1870年、オーギュスト・ブランキの最も若い弟子のシュシュは、皇帝の人民投票にあたって「神はもうたくさんだ、主人はもうたくさんだ」というリーフレットを配った。それを受けてかどうか、晩年のブランキも新たな雑誌を創刊したとき、それに「神もなく主人もなく」というタイトルをつけた。これをクロポトキンが一人の反逆者のために使って広めた。
 1893年、オーギュスト・ヴァイヤンはフランス下院に爆弾を投じて逮捕された。逮捕されただけでなく、議会はこれをきっかけに暴力行為準備集会取締り法を強引に可決した。この審議のときにアレクサンドル・フランダンは下院の高い演壇から叫んだものだ、「アナキストたちは神もなく主人もないのです」。
 その後もこの壮絶で感動的な標語は、あたかも間歇泉のごとくにアナキストたちの唇を震わせた。第一次世界大戦終了後のパリでは、アナーキーな青年たちが自分たちのことを“Ni Dieu Ni Maitre”と自称した。
 そろそろ950冊に達する「千夜千冊」のなかで、この書名『神もなく主人もなく』はおそらく最も美しい。

 本書はダニエル・ゲランによる珠玉のアナキズム・アンソロジーである。こういう本はほかにない。
 第1巻ではシュティルナー、プルードン、バクーニン、ド・バーブ、ギョーム、クロポトキンのテキストについての解説を進め、第2巻ではマラテスタ、エミール・アンリ、デ・サンティリャン、ヴォーリン、ネストル・マフノからクロンシュタットやスパニッシュ・アナキズムまでを扱って、その貴重な文献をことごとく組み上げた。こういうことはゲランにしかできない。
 ゲランには『ファシズムと大資本』『植民地の人々のために』『模索するアルジェリア』(未訳)、『現代のアナキズム』『現代アナキズムの論理』(三一新書)、『人民戦線』(現代思潮社)、『エロスの革命』(太平出版社)などの旺盛な著作活動があって、どの本を開いても、数ケ国語におよぶ語学能力と卓抜なジャーナリスト精神と、そのリバータリアニズムやアナキズムに寄せる熱くて真摯な思いが特徴になっている。
 本書のほかにもゲランを訳してきた江口幹は、ダニエル・ゲランのような決定的な生き方の著作者と出会えたことに、感動に近い崇敬を抱いたと書いていた。これにはぼくも共感する。アナキズムを知ることは、ゲランの勇敢で旺盛な執筆意識を感じることでもあろうということを――。

 アナキズムの起源については、いくら溯ってもかまわない。ぼくの『遊学』(中公文庫)では、ジャイナ教のマハーヴィラ、アタラクシア哲学のエピクロス、鉱物仙人の葛洪にさえアナキズムを感じると書いた。
 フランソワ・ラブレーやトマス・モア、あるいはディドロやサドにアナキズムの萌芽を見る者もいる。ハーバート・リードや大沢正道などはその一人であろう。
 このような見方によれば、その時代ごとに絶対自由や相対自由を果敢に表明した者に先駆的アナキストの称号が与えられてきたということなのである。リードの『アナキズムの哲学』(法政大学出版局)では、ヴィーコ(第874夜)やフンボルトにもアナキズムの種が植えられていると書いていた。
 こういう見方に、むろんぼくは反対しない。それどころかスウィフト(第324夜)やブレイク(第742夜)にもアナキズムの光の条痕はついていると叫びたい。
 が、ふつうの見方では、近代アナキズムの創始者はせいぜい溯っても、ゴドウィン、シュティルナー、プルードン、ウォーレン、そしてバクーニンなのである。ここから何が始まったのか、本書をたどって少し案内してみたい。

 1848年の革命。この革命の前後でいっさいが起動した。フランス二月革命である。
 ルイ・ブランが工場労働者を産業軍の内側に逆編成する計画を発表し、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を刊行し、そしてアナキズムが狼煙を上げようとしていた。
 それまでにすでにアナーキーな「時の機」は熟しつつあった。シュティルナーの『唯一者とその所有』が既存社会の打破のための結社の自由を謳い、偶像の思想を破壊することを奨め、国家の生存を真っ向から否定した。またプルードンが『貧困の哲学』を書いて、「アナルシ」(an-archie 権力の不在)という言葉を“anarchie”と綴り字をつなげ、貴族主義にも君主主義にも、共和主義にも民主主義にも、連合主義にも組合主義にも属さない立場がありうることを暗示した。これがアナキズムという言葉の生誕だった。
 そこへロシアにいたバクーニンが、急ぎ足で燃えるパリに戻ってきた。これで準備が整った。

 バクーニンはそれまでは、汎スラブ主義的な民族主義活動の中にいた。社会主義の前哨戦からはまったく孤立した存在である。それが1848年をさかいに極度にラディカルになっていく。
 バクーニンはプルードンのような協同的アナキズムには満足していなかった。むしろ革命家の前衛組織による破壊活動が先行し、この破壊によって生まれた突破口から民衆の建設活動が溢れ出てくるようなプランをもっていた。協同アナキズムではなくて、一握りのアナーキーな革命家の出現こそが必要だと考えていた。
 だからこう言うのも憚らない、「革命家は前もって死を宣告された人間である」。この瞬間、「命を持っていきたまえ」という革命家を先頭に立てるアナキズムが発芽した。

 マルクスについてはここでは何も書かないが(第789夜)、ごくごく象徴的にいうなら、プルードンからマルクスとバクーニンという二人の反抗児が出てきたということなのだ。
 問題はしかし、そのマルクスとバクーニンが対立したことである。1848年に同じように革命を計画した二人が対立したことは、いままさに生まれつつあるコミュニズムを真っ二つに分断していった。
 ロシアの貴族に生まれたバクーニンは、すでにプラーグやドレスデンで革命のための叛乱を組織し、サクソニアで捕らわれて死刑の宣告をうけ、ロシア送還ののちは6年にわたって幽閉されていたという経歴がある。また、その後にシベリア流刑となってはここをドラマテイックに脱出して、日本・アメリカをへて12年目にヨーロッパに戻ってきたという世界遊民的な経歴がある。

 一方のマルクスはバクーニンのようには行動をおこしてはいない。あくまでイデオロギーを見極め、社会を分析して、そこに革命の計画がありうることを展望した。バクーニンが遊民なら、マルクスは常民だった。世界をぐるりと駆けめぐったスラブ派のバクーニンには、こういうマルクスのようなあり方には承服しがたいものがある。
 加えてとくにバクーニンが嫌ったのが、中心を手放さない「鞭のゲルマン帝国」である。
 マルクスはそのドイツに育ち、その厄災(つまりドイツ・イデオロギー)を切り払うために立ち上がったのであるけれど、そこには、バクーニンから見れば、いくらでもゲルマン的な権威主義が残響していたのであろう。

 それでも1864年、ロンドンで第1インターナショナルが結成されたときは、マルクスとバクーニンは「革命」の可能性と労働者の連帯組織の萌芽を前にして、まだ互いに相手の出方を窺っていた。
 ところが1869年、第1インターのバーゼル会議ではバクーニンは財産相続の廃止を訴えて、これを拒否された。ついにバクーニンは「私は共産主義が大嫌いだ。それは自由の否定だ。共産主義は社会のすべての勢力を国家に吸収させようとしている」と言い出した。
 こうしてバクーニンの組織する社会民主主義同盟は第1インター加盟を許可されず、マルクスの構想は一歩も踏み出せないままに、あの1871年のパリ・コミューンを迎えることになる。

 パリ・コミューンは、労働者と小役人と思想傾向のタチが悪いジャーナリストと阿呆なアーティストたちが、パリの崩壊を食い止めようとしてつくりあげた継ぎ接ぎだらけの都市戦場である。
 そこにジャコバン党、ブランキ主義者、プルードン派、第1インター加盟者たちがあっちこっちから乗りこんできた。ランボオも駆けつけた(第690夜)。しかし、パリは急激に燃え、パリは急速に沈んだ。
 労働者の自由な活動によってもパリを救えなかった事態に対して、さっそくマルクスは各国にプロレタリアートの党をつくって、これらが国家権力を掌握できるように全運動を組み替えることを計画した。それなら第1インターこそはその国際本部となるべきだった。
 しかしこんな提案はアナキストには承服しかねるもので、1872年のハーグ大会でマルクスは多数派をとれなくなった。アナキストたちはサン・ティミエに集まって、バクーニンの指導のもとにいわゆる“黒色インターナショナル”をおこす。この時点では、マルクスよりもバクーニンの追随者のほうが多かったのである。

 1876年にバクーニンが死に、アナキズムの活動を支えていたジャム・ギョームが引退すると、天秤はぐらりと逆に動いた。
 いや、マルクスのほうにすぐ動いたのではない。インターナショナルな活動から締め出されたアナーキーな粒子が、バクーニンの原郷ロシアに飛び火してナロードニキの動きとなり、さらにテロリズムの様相を呈していったのである。これは意外な転換だった。
 1881年のアレクサンドル2世の暗殺はこうしておこる。この先鋭化したテロは、フランスではティエールの像の爆破となり、炭鉱都市モンソーの教会焼打ちに、さらに各地の教会爆破に連鎖した。モンソーの焼打ち事件では65人のアナキストが逮捕されるのだが、そこには次の時代の指導者の一人クロポトキンが入っていた。
 2年後、マルクスが死ぬ。コミュニズムはアナーキーな混乱のなかで、なんらの稔りもないままに19世紀を終えた。
 アナキズムのほうは1897年の第2インターナショナルのロンドン大会に、クロポトキン、マラテスタ、ルイズ・ミッシェル、エリゼ・ルクリュ、グラーヴが揃って乗りこんでいったのたが、たちまち除名され、やはり前途を断たれたかのようである。
 こうしてコミュニズムもアナキズムも、20世紀を前にして頓挫してしまったのだ。

 ところで、ぼくがアナキズムに最初に関心をもったのはバクーニンの『神と国家』を古本屋で見つけたときからである。春秋社版の世界思想全集の一冊になっていた『神と国家』(昭和6年・麻生義訳)は、ぼくの生っちょろい体に闇夜の電撃を走らせた。
 すでに大学でマルクスの読者会に毎週出ていたにもかかわらず、どうみてもバクーニンのほうが決然としているように思えたのだ。
 とりわけ「私は、私の周囲のすべての人間が男女を問わず同じように自由なときだけ、自由である。他の人間の自由こそ私の自由にとっての必要な条件である」というような絶対自由の表明と、「社会主義のない自由は特権と不正義をあらわし、自由のない社会主義は奴隷と野蛮をあらわしている」というような激越なアジテーションには、心がぐらぐらとした。
 バクーニンについては『遊学』にも書いたように、「破壊なき創造はありえない」というスローガンに痺(しび)れたまま、ぼくの中の基本像を変更してこなかった。ぼくが長らく反議会主義のはしくれにいたことも、元をただせばバクーニンの影響である。
 またバクーニンの友人でもあったネチャーエフの言動にも、ずっと考えさせられてきた。ネチャーエフの異様な呻吟こそ、ドストエフスキーの『悪霊』と、そして埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』や『死霊』の核心につながっていたからだ(第932夜)。

 20世紀のアナキズムの最初の国際大会は、1907年にアムステルダムで開かれる。この報告は日本にも届いた。報告者は「平民新聞」の幸徳秋水である。
 しかし、この大会ですでにその後のアナキズムを分かつ方針が並び立っていた。第1にはピエール・モナットの組合型の労働者によるゼネスト敢行路線、第2にはエッリコ・マラテスタがその見解を代表したのだが、アナキズムの真情を高らかにもったままに自分の仕事を続けなさいという方針だ(これは倫理を重視したクロポトキン思想の表明でもあった)。そして第3にはマルクス主義との共同戦線をはるというものである。
 このあとアナキズムは、直接行動的なアナルコ・サンジカリズム、アナキズムを人類の倫理志向の高みに赴かせようという思想行動的インディヴィジアリズム、絶対自由をこそ探求すべきだという戦闘的リバータリアニズムという流れになっていく。
 本書は第Ⅱ巻において、インディヴィジアリズムとリバータリアニズムを中心に展開される。ここからが圧巻なのである。

 当初、20世紀のアナキズムは、フランスでは主としてアナルコ・サンジカリズムの様相を強くした。たとえば1904年の労働総同盟アミアン大会は賃金制度の廃絶を決議し、サボタージュ、ボイコット、ストライキの戦術の展開を打ち出した。ここにはブランキズムが混入されていた。
 革命的労働組合の運動はパリ・コミューンの記憶を打ち払うようにしてふたたびフランスで動き出すのだが、ここに予想もつかない新たな革命組織の形態が登場する。1905年の第一次ロシア革命が生み出した「ソヴィエト」(労働評議会)である。
 アナルコ・サンジカリズムからすれば、ゼネストがおこなわれることが革命のための最大の目標だった。それが、サンクト・ペテルブルクの工場ではゼネスト状態は自然発生的につくられたのだ。あれほど待ち望んでいたゼネストはおこなわれたのである。しかもそれはロシア革命では出発点のひとつにすぎず、それを動かしたソヴィエトという新たなエンジンこそが重要だった。
 ソヴィエトとは何なのか。数カ月後、複数にふえたソヴィエトの議長となったトロツキーはいみじくも書いている、「ソヴィエトの活動は無政府状態の組織を意味していた。その存在とその活動は無政府状態の強化を意味していた」。

 ロシア革命はソヴィエトというアナキズムの鬼っ子から始まったのである。少なくともトロツキーはそのように判断し、最初のソヴィエトの誕生にかかわったヴォーリンも、ここに新たなアナキズムの凱歌がおこったと確信した。
 しかしながら、第二次ロシア革命がおこった1917年に向かっては、ソヴィエトはアナキズムの特色をしだいに失って、ボルシェヴィキの党派活動の中に吸収されていく。
 「すべての権力をソヴィエトに」やそれを拡張した「すべての権力をボルシェヴィキに」というスローガンは、いっさいの権力を認めないアナキズムの理想からはあきらかに遠のくものだった。
 レーニンはトロツキー同様に、革命の初期を彩ったアナキズムを理解していた(と、思いたい)。しかしレーニンには、巨大なロシアを動かしていくという使命がのしかかっていた。ドイツ国家社会主義を分析し、クリークスヴィルトシャフト(戦争経済体制)を組み替え、近代工場制に学び、さらにはPTT(郵便・電信・電話)の集中管理などを計画する。レーニンはこれらを研究しつくして、これをプロレタリア独裁国家に移行するための最大の関心事とする作業に没入せざるをえなかった(第104夜)。
 しかし、ソヴィエトこそがアナキズムの拠点であるとするアナキストからすれば、これらのレーニンの計画はことごとく権力中枢を強化するものとしか映らない。

 このような事情のなか、革命は進行し、ソヴィエトの権力集中がはかられる一方で、アナキストたちは民衆の中に入りこみ、ついにボルシェヴィキ政府に対する過激な要望をつきつけるにいたっていた。
 これで、ボルシェヴィキがアナキストを粛正しなければならい理由がすっかり揃ってしまったのである。1918年にはモスクワで25軒のアナキストの家が赤軍に襲われ、以降もアナキストは害虫のごとく駆除されていく。が、赤軍の粛正もいつも順調とはかぎらない。そして、ここに、ロシア革命史上最も難解な事態が、そして20世紀アナキズムの歴史において最も重篤な抵抗が勃発したのである。
 ウクライナにおけるネストル・マフノによる“もうひとつの革命”の運動が動き出してのだ。

 ネストル・マフノがおこしたことは、ウクライナの農民を指揮して雄渾であって、壮絶であって、独得のものである。これをマフノ運動という。
 第一次ロシア革命(十月革命)では、マフノ運動は700万の住民を擁する地域に農民自治組織の拠点をつくりあげることだった。その後、この地域に第一次世界大戦時のドイツ・オーストリア軍が軍事的に及んだときは、マフノ運動はグリャーイ・ポーレを逆占拠して、独墺軍を撤退させた。マフノ運動は大量の武器と資材と貯蔵庫を得た。
 こうして第二次ロシア革命(二月革命)の時点では、史上初めての自由共産主義の原理が解放ウクライナに出現し、自治管理が進み、地主と争った土地はコミューンあるいは自由労働ソヴィエトとして、共同耕作されていった。
 このすべてを指揮したのがアナキズムのロビン・フッドともいうべきネストル・マフノだったのである。
 貧農の子であった。青年期にアナキズムに傾倒し、革命運動に参加したときはケレンスキー内閣から死刑を宣告されもした。しかし、つねに不屈の闘争心が彼をかきたててきた。とくに自治組織と自衛軍の組織化と軍事化には、天才的な才能を発揮した。いまなら、その戦術がゲリラ組織の本質を備えていたとも判定できる。しかし、それはモスクワには厄介なものになりつつあったのだ。
 案の定、マフノはウクライナに成立しつつあった自治管理機構が、モスクワのソヴィエト政府と拮抗するものであり、かつ各地のソヴィエト機構と連動的に結ばれるものだと認識し、その可能性をモスクワに打診した。ソヴィエト政府がそんなことを認めるわけはなかった。それどころかゲリラ的なウクライナ軍は中央の赤軍の管轄下におかれるべきだと申し渡した。
 マフノはこの要請を拒絶する。中央政府はマフノ運動の弾圧に踏み切った。赤軍の最高司令官は、そのときトロツキーになっていた。

[表紙]『南方録』

ウクライナ・アナキストの旗

 マフノ運動は、ぼくが大学時代に出会った最大の難関だった。当時はトロツキーに憧れていたぼくは、マフノ運動こそが真の革命運動であるとする親友の湯川洋と議論しつづけた。
 学生運動の活動家たちは、マフノ運動などとんでもないと言下に否定した。その言い切りがあまりに単純なので、これに逆らおうとすると、活動家たちは何の説明もなく、おまえのマルクス主義の理解が乏しいだけだよと、冷酷に切り捨てた。そのとたん、マフノ運動の本来がぼくにもキラリと見えてきた。大杉栄が伊藤野枝とのあいだに生んだ子にネストルと名付けた「希望」が、瞬時に放電した。
 それからである。ぼくがアナキズムの文献を片っ端から読みはじめたのは――。

 今夜はすでにバクーニンやリードやゲランの書物を紹介しておいたけれど、マフノ運動を知ってからの、ぼくのアナキズム渉猟は格段に果敢になった。
 まず、プルードンやブランキやクロポトキンが加わり、そこへマックス・ノーマッドの『反逆の思想史』(太平出版社)が、大沢正道の『アナキズム思想史』(現代思潮社)や『虚無思想研究』(蝸牛社)や『反国家と自由の思想』(川島書店)が加わった。そして日本のアナキズム運動の全貌を伝える秋山清の『日本の反逆思想』(現代思潮社)を突破口に、大杉栄その人の著作が、辻潤の著作が、石川三四郎や山鹿泰治の著作が広がっていった。
 これらの読書において実感したことは、もし政治や革命にダンディズムがあるのなら、アナキストこそがダンディズムの極みではなかったかということだった。『遊学』にも書いたことだが、こうしてぼくは、ウィリアム・ブレイクからジョン・ケージまでを、オスカー・ワイルドからナムジュン・パイクまでを、心のアナキストとよぶようになったのだ。
 ワイルドがこんなことを書いていたのも気にいった。「私の体験のなかで出会った二人の完璧な人物はヴェルレーヌとクロポトキン公爵だ。両人とも獄中生活を送ったことがある。ひとりはダンテ以来唯一のキリスト教的詩人であり、ひとりはロシア出身であの美しく清浄なキリストの魂をそなえた人である」。うーん、泣けてくる。

 さて、無政府将軍ネストル・マフノは、1年に及ぶ赤軍の攻撃に敗退して、そのパルチザン的なマフノ軍事運動に終止符を打つ。それとともに祖国ウクライナの自治組織は解体した。
 すでに多くの評者たちから指摘されていることであるが、実はマフノ運動にはひとつ大きく欠けていたものがあった。それは農民の中から知識人や文人を輩出させられなかったことである。それゆえマフノ運動は、内部の知が語る雄弁で大胆な文章を欠いてきた。
 ネストル・マフノが手を打たなかったわけではなかった。ヴォーリンをはじめとする外からの知識人の導入をはかり、その活動を「ナパート」と名付けて運動を知的にも補強しようとしたのだが、間に合わなかった。強烈な知の持ち主でもあったトロツキーとはそこが違っていた。もっとも、そのトロツキーも、結局は“裏切られた革命”の陰の主役にまわされたのだ(第130夜)。
 マフノは1921年ルーマニアに亡命、その後はパリに誰に知られることもなく住んで、1935年に赤貧に戻って死んだ。しかしその活動のモデルは、その後は毛沢東に、アルジェリアに、ゲバラに、ベトナムに蘇生した。

 二次にわたったロシア革命の血を駆け抜けたアナキズムは、クロンシュタットの叛乱などさらにいくつかの激越な事態をつくりながら、消えていく。あとはスターリンの圧政が待っているだけになる。
 その不幸な切り返し点こそ、1921年2月8日のクロポトキンの葬列にあった。
 ではアナキズムがその後どこへ行ったかといえば、イタリアに、スペインに、日本に飛び火した。またクロポトキン主義としてトルストイに、ガンジーに、オロビンド・ゴーシュに散華した。本書はそのすべてまでは追っていないけれど、その意伝子はおそらく多くの黒人運動のなかにも結晶をもたらした。第519夜の『マルコムX自伝』にもその共鳴は響いている。
 しかしその一方、ゲランがこのアンソロジーを編んだときすでに、アナキズムには謂れのない中傷と曲解が下されていたのでもあった。その謂れなき判定が下ったのは1960年代後半でのことだった。
 中傷者はアナキズムは死滅したという判定をくだした。その理由のひとつは、アナキズムはロシア革命とスペイン革命に耐えられなかったというものだ。少し同情気味のヴィクトル・セルジュすら「アナキズムは革命的マルクス主義と一緒くたになるだろう」と予想した。
 けれども、こんな中傷は当たらない。これは考えてみればごくごく当たり前のことで、そもそもバクーニンがマルクスと袂を分かったときにアナキズムは政治的な狼煙をあげたのだから、アナキズムの半分以上はつねにマルクス主義と交じってきたわけである。言うまでもない。
 だから、そのマルクス主義にスターリン主義やスペイン革命によって翳りが見えてきたからといって、それでたしかに半分くらいはアナキズムの思想と行動が変質したろうが、もう半分は“異生”して、新たなリゾームをつくっていったとみるべきなのである。
 とくに戦闘的リバータリアニズムはヨーロッパと日本のアナキズムを浄化させ、新たな絶対自由思想を説く一群をつくっていった。その一人がハーバート・リードであり、ダニエル・ゲランであり、そしておそらくはシモーヌ・ヴェイユであって(第258夜)、マルティン・ブーバーだったのである(第588夜)。
 日本にもこの意伝子は深々と突き刺さっている。大杉栄(第736夜)や辻潤や石川三四郎や萩原恭次郎や武林夢想庵はすぐに見当がつくだろうが、それとともにここには、野口雨情(第700夜)が、野川隆が、金子光晴(第165夜)が、稲垣足穂(第879夜)が、また埴谷雄高(第932夜)が、そしていままた町田康(第725夜)が、戸川純が、椎名林檎が連なっている。

 いやいや、もう一度、われわれは遡及もするべきであろう。アナキズムは魂の起源の歴史そのものに宿っているはずなのだ。
 そうなのである、アナキズムはマハーヴィラや葛洪にも芽生えていたが、実は一茶(第767夜)にも、一休(第927夜)にも、ずっと遠くの墨子(第817夜)にも、早々に突き刺さっていたはずなのだ。そうでなければ、われわれがこれほどにアナキズムの日々を懐かしくも熱く、激しくも清明に、思い出せるはずがない。

 以上、今宵のささやかな黒色振動を、宝生能楽堂の五番五流能の夜に初めて出会ってロビーの片隅でアナキズムの断片を交わし、その後はつねに断固たるメッセージをぼくにもたらしてくれているISIS編集学校「懐来さらさら教室」の相京範昭君に、贈りたい。

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