エルヴィン・パノフスキー
イコノロジー研究
ちくま学芸文庫 1971
ISBN:4568201233
Erwin Panofsky
Studies in Iconology 1939
[訳]浅野徹 他

 パノフスキーを読んでいると、ホッとする。何がホッとするかというと、学問というのはこんなもんだ、こんなふうに紆余曲折するものだということに、ホッとする。
 それはケネス・クラークの美術史学やカール・ケレーニイの神話学でも同じことで、とくにその方法が歴史上初めて提示されようとしているときは、その方法は個別の領域に向かっているのではなく、たいていは拡張を試みているということなのである。
 ところが、それがいつのまにか確立したかのように思われる数十年後になると、踏襲者たちやエピゴーネンがすっかり大学や民間のアカデミーの一角に巣くっていて、この創始された方法が適用できる範囲を、創設者の意図をまるで無視するかのように、すっかり狭めてしまうものなのだ。そればかりか、ほれ、方法が乱用されたとか、あれ、間違って適用されたということばかりを問題にして、その方法が世界の解釈や認識の解放につながるという可能性の大半を奪っていく。おバカなことである。
 したがって、こういうことがまだおこっていない時期の「方法の揺籃」を感じられるものに出会うと、ぼくはホッとするわけなのだ。パノフスキーを読むと、しばしばそういう感慨が去来するのは、パノフスキーが生涯にわたって、つねに方法を模索していたからだった。

 きのう、広尾のレストランを借りきって「感門之盟」があった。ISIS編集学校が1期をおえるたびに、半年に一度ずつ開いている卒就式である。
 編集学校では2段階があって、「守」のコースは「卒門」といい、「破」のコースは「突破」と呼んでいる。この卒門と突破を果たした生徒さんのうち、師範代をめざす候補者が教室ごとに推薦されてくる。そのうちの約8~9割が師範代に新しい教室名とともに就任する。それを祝う会でもあるので、卒就式なのである。同時に、それまで教室を指南した師範代や師範を労う会も兼ねている。「感門之盟」という命名はちょっと古代中国に肖(あやか)り、ちょっと王羲之の会盟を偲んでいる。
 その6時間におよぶ「感門之盟」が進むなか、ぼくは編集技法という方法が、このように1期ごとの担い手によって確実に拡張していくのを感じるとともに、この方法の拡張にはぼくが及びもつかない発見や工夫や深化が同時におこっている手応えに、言いようのない喜びを感じてもいた。

 編集学校の師範代になるには、ネット上の「錬成所」に入って編集指南の技法を短期集中的にエクササイズし、不定期に開かれるリアルな「伝習座」に参加して、校長・教務・師範との、および師範代相互のコミュニケーションを体験するようになっている。
 これらが編集学校の“パサージュ”なのである。
 その9期「守」の最初の伝習座が「感門之盟」の前日にあったのだが、そこでもぼくは、方法がしだいに研ぎすまされ、心地よい冗長度をもって膨らみ、師範代の個性と結び付いた一途な多様性を着々と発揚しているのを目撃した。いや体に感じた。

 こうしたことは大学でおこっていることではない。アカデミーでもない。職業も年齢も地域も異なった者たちが、(年齢幅は40歳を越えている)電子ネットワークを介して日夜おこしつつあることなのだ。
 しかもぼくはパノフスキー同様に、いまなお方法の模索をしつづけている一介の編集工学の試行者であって、自分でそのピリオドなど打とうとはしていない。情報の海に次々に句読点を打っていくのは、編集学校の総体の歩みがもたらすものであり、その方法はどこかに金科玉条として飾られるのではなく、それぞれ身体の知性と感覚のうちに脈々と流れ打つのである。

 こんなことを感じた土曜日と日曜日であったので、今夜はパノフスキーを採り上げることにしたのだった。
 パノフスキーのイコノロジーという方法が生まれたところ、そこは大学ではない。公的な機関でもない。企業でもない。そこには、1903年にはわずか516冊だった書籍の個人コレクションがあったにすぎない。それはヴァールブルグ研究所という比類ない民間の場であった。

 イコノロジーという方法的概念を提案したのはアビ・ヴァールブルクである。
 ルネサンス・バロック期の図像(eikon)を論理(logos)として読み解こうという最初の意図は、すでに17世紀に「イコノロギア」として芽生えていたのだが、いわゆる図像学(イコノグラフィ)としてはまだ方法的な萌芽にはなっていなかった。それをヴァールブルクが、様式心理学からイコノグラフィ(図像学)へ、イコノグラフィからイコノロジー(図像解釈学)へと、一挙に引き上げたのは驚くべき方法意識によるものだった。それだけではなかった。
 銀行家であって資産家でもあったヴァールブルクは、1925年にハンブルクに借財と私財を投じて「ヴァールブルク文化科学図書館」をつくる。ゲルハルト・ラングマークとフリッツ・シューマッハーの設計である。玄関には記憶の女神ムネモシュネの名が刻まれた。いわゆるヴァールブルク文庫の登場だ。
 1階が楕円のホールや閲覧室である。ヴァールブルクはずっと「楕円による円の克服」を、すなわち「バロックの知」を主張していたから、なんとしてでも円を超える楕円にこだわった。書架書棚の構成は2階が「イメージ」、3階が「コンフィギュレーション」、4階が「ワード」、5階が「アクティビティ」にあてられた。かつてフランシス・イエイツがぼくに教えてくれた構想だ(第417夜)。

 こうしたヴァールブルクの書物配列によるプログラムには、すでにそこから導かれうる「方法の予知」が告示されていた。
 そういう意味では、パノフスキーよりもヴァールブルクを読むのがもっと「方法の揺籃」を感じさせるのだけれど、最初の発想者にはよくあるように、彼はあまりその経緯のわかる文章を残さなかった。
 そのため、いま、ヴァールブルクの方法的思索のあとを辿るには、ちょっと無理がある。
 やむなくぼくも、老練ゴンブリッジによる『アビ・ヴァールブルク伝――ある知的生涯』(晶文社)や、精鋭田中純の『アビ・ヴァールブルク――記憶の迷宮』(青土社)の助けを借りて、この先駆者の構想の穴を埋めてきた。

 このイコノロジーを継承発展させたのがパノフスキーだったのである。
 だからパノフスキーを読むのは、イコノロジーという方法がいよいよ揺籃期から確立期に向かっていることを、今日の図像思想の側から覗き読むことなのだ。しかしパノフスキーもまたこの確立を完成させなかった。その方法はいまなお動いたままにある。
 ぼくは、このような方法の旅路が続くことをきわめて重要なことだと思っている。21世紀が「方法の世紀」だというのも、そういう意味である。どんな方法の醍醐味も、2代や3代はかかるもの、7期や9期はかかるものなのだ。

 パノフスキーのイコノロジーは、いうまでもなくルネサンスの研究から開花した。最初にあったのは”ルネサンスの春”だった。それはまず図像(イコン)における「型」の発見と、「型」の変移に対する注目から始まった。
 たとえば14世紀から15世紀に向かって、聖母マリアが寝台や寝椅子に横たわる降誕図の型は、1世紀もたたないうちに、マリアが幼児キリストの前に跪いて礼拝する型に移行する。これは構図から見れば、長方形的なるものから三角形的なるものへの移行であり、イコノグラフィックには、偽ボナヴェントゥーラや聖ブリギッダらの著作が明文化した新たな降誕をめぐる解釈が、しだいに視覚表現の変化を促していったのだろうという予想がつく。
 こうした移行のなか、表現者たちが何を学習していくかといえば、小刀をもった男性像は聖バルトロマイで、桃を手にした女性像は「誠実」の擬人化であり、一定の様式で戦っている二人はたいてい「美徳と悪徳の戦い」であるというような、つまりはモティーフとテーマによる解釈を進めてきた。しかし、これでは発展がない。
 そこで、このモティーフとテーマの組み合わせからどんなイメージを引き出すかに挑むようになっていく。

 こうしてパノフスキーは、視覚表現というものは、第1段階は自然的な主題が選ばれ、第2段階にそれが伝習的な主題としてさまざまに組み合わせや組み替えをおこしていくのだろうと考えた。
 これはルネサンスでは「インヴェンツィオーニ」と呼ばれた組み替えで、その後はそれこそが「イメージ」と名付けられたものである。そしてパノフスキーは、ここまでの段階をイコノグラフィックな段階だとみなしたのである。
 イコノグラフィックな伝習は、画家や彫刻家たちを寓意の表現力の持ち主として習熟させていくはずである。しかし、そのように組み替えを進めた伝習は、いずれのうちにか一人の画家や彫刻家の意図を超え、国家や時代や階級や文化の表現になっていく。エルンスト・カッシーラの言葉でいえば、それらはいつのまにか同時代全体の「象徴的価値」をもつようになる。
 かくしてパノフスキーは、そのような段階に達した表現を、第3段階の「内的意味の発露」の段階と捉え、ここからの解釈のために使える方法をヴァールブルクが期待したイコノロジーの発展だとみなしたのだった。

 パノフスキーがこれ以降に“発見”したことは数多い。理科系であれ文科系であれ、方法を研ぎすまそうとすることこそが“発見”を生むものなのだ。
 ぼくもいろいろパノフスキーに驚かされてきたが、本書では「時の翁」の図像をめぐる示唆と、「盲目のクピド」をめぐるイコノロジーに啓発された。

 「時の翁」は古代から時間「カイロス」をあらわすために選ばれてきた形象の行きつく先のひとつで、禿頭白髪の老人が大きな翼をはやして大鎌をもっているばあいが多い。松葉杖や砂時計を携えていることもある。この翁は機会と運命にかかわっている。そうずっと思われてきた。
 ところが、パノフスキーは古代中世のレリーフなどに、有翼の青年が砂時計や大鎌や松葉杖をもっている図像があることに注目して、こちらは時間「アイオーン」をあらわしているのだと見た。アイオーンならイラン系の時間観念で、そこにはミトラス信仰(第445夜)の波及がある。そうだとすると、禿頭白髪の「時の翁」は青年アイオーンに対する老化したカイロスだということになりそうなのであるが、ここからパノフスキーが対角線的で、ナナメな方法意識をもって、この当たり前な推理をくつがえしていく。
 ここでは詳しいことは述べないが、この「時の翁」の正体は実は「クロノス」であり、しかもそれはクロノス=サトゥルヌスともいうべき宇宙時間の流出者であったのである。

 もっとおもしろい例が「盲目のクピド」だった。だいたい古代において「布で自分の目を隠したキューピッド」の図像なんて、1例もない。ところがパノフスキーが指摘したように、まるである日突然に出現するかのように、ベビーギャングのような目隠しキューピッドがあらわれるのだ。
 そもそもクピドが裸で子供の姿をとるのが、ビザンチンあるいはカロリング朝からなのである。しかも、そのクピドには大きく二つの流れがあった。ひとつは愛の神としてのクピド、もうひとつは異教の矮小化されたクピドである。
 この愛の神のほうのクピドが担う愛にひそむもともとの観念は、カリタス(善意)とクピディタス(悪意)が競い合って勝ったものという意味をもっていた。その勝ったほうの観念が、時代によってアムール、アモーレ、ミンネなどと呼ばれた。ダンテがベアトリーチェに捧げたか捧げられた愛は、このカリタスとクピディタスの「方法的和解による至上性」をあらわしていた(第913夜)
 やがて至上性を獲得した愛の神の観念は、その内側にカリタスとクピディタスとの競争を孕んでいたがゆえに、その形象を異教的クピドから借りて、あえて幼児化された弓矢をもつ者にさせていく。いよいよ「方法がイメージになろう」としてきたわけである。
 ここで、数々の詩篇が愛の観念や形象を謳うようになる。ダンテもその一人、ペトラルカもその一人、プロペルティウスもその一人。これらの詩篇で強調されたのは、クピドは愛を見抜く力があるという説明だった。すなわち、いつのまにかクピドの眼と、クピドの射抜く力が重視されていったのだ。

 ここで、劇的な「反対の一致」が動くのである。大胆な対角線がナナメに走るのだ。
 クピドが慧眼であるのなら、その慧眼をなんらかの理由で失ったクピドは、盲目なのである。そのように、解釈する者があらわれた。たとえばアレグザンダー・ネッカムやトマス・フォン・ツェルクラエレである。こういう詩人が次々にあらわれた。かれらはしきりに「目がよく見えるクピド」と「目が見えないクピド」を比較した。そのような「言い換え」と「着替え」を主張した。
 こうしてボッカチオの時代、ついにクピドの中に「目隠しさせられたクピドがいる」というイメージが、出回りはじめたのだった。

 パノフスキーは「時の翁」や「盲目のクピド」のイメージを「本来からの逸脱」だとは捉えなかった。むしろ、どんな図像にも、このような時期があり、その時期のイメージが編集されるプロセスに注目することが、イコノロジーを充実させることだと考えた。
 そして、この移行期のイメージを継承する図像群を「擬形態」(プシュード・モルフォシス)とよび、それらが必ず人間のイメージの歴史の移行期のプロセスにあらわれることをあきらかにした。
 トレチェント(1300年代)とクワトロチェント(1400年代)のあいだ、こうした擬形態はとくに顕著にあらわれる。しかもいったん目隠しをしたクピドが絵画や彫刻になれば、そこからまたいくつもの「反対のほうに向かう物語」が描かれた。言い換えも着替えも、頻繁におこったのだ。ジォットーの盲目のクピドが鎌をもったり、骸骨に近くなったりするのは、そのせいだった。
 パノフスキーはこうしたことを指摘しつつ、最後にルーカス・クラーナハのすばらしい作品を掲示する。それは「自分で目隠しをとったクピド」の図像であった。

 いま、イコノロジーはさまざまな多様性のなかで遊弋している。視覚表現の領域で、イコノロジーのない領域がないほどだ。視覚表現だけではない。その方法はコンピュータ図像にも応用されつつある。
 方法の錬磨や拡張もおこっている。W・J・T・ミッチェルの『イコノロジー』 (勁草書房)などもそのひとつで、超図像(ハイパーイコン)といった概念も登場している。
 しかし、これらはすべてパノフスキーの揺籃から生まれたものだった。パノフスキーの『ルネサンスの春』(思索社)から咲き乱れたのだった。そして、その「春」はアビ・ヴァールブルクの516冊からこそ始まったのである。

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