才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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アンビヴァレント・モダーンズ

ローレンス・オルソン

新宿書房 1997

Lawrence Olson
Ambivalent Moderns 1992
[訳]黒川創・北沢恒彦・中尾ハジメ

 この本のカバーは中川幸夫の花である。ローレンス・オルソンの指定ではない。オルソンはもう亡くなっている。翻訳者たちと版元側で選んだらしい。花はいかにも中川らしく「チューリップ星人」と名付けられているもので、この本の下部から立ちのぼってくる何かが凝結しつつあるものだということを暗示している。
 著者のオルソンはもともとは文学者だが、大戦中はラジオ部隊に勤務して、ハーバードで研究に戻ってからは言語学にとりくみ、AUFSの日本駐在員として1955年から10年ほどを日本観察に向け、その後は歴史学を講じていた。
 本書はそのオルソンが、江藤淳・竹内好・吉本隆明・鶴見俊輔という日本の4人の知識人をこの順番でとりあげて、その思想としてのナショナル・アイデンティティを問うた試みである。

 巻頭にロナルド・モースによる序文がある。端的にこう書かれている。
 「江藤は日本の歴史を書きなおそうと欧米に対抗する」「竹内はアジアの革命的伝統を日本の経験に結びつけようと試みた」「吉本は庶民の立場を論じることに没頭する刺激的なポピュリストの作家で詩人である」「鶴見はアメリカ仕込みのプラグマティズムの学者で、アメリカの思想と哲学に深い把握がある」。
 モースは、英語で書かれた日本の政治・社会・経済に関する書物はいくらもあるが、この本のように喫茶店で交わされているような現在の日本の思想風景を綴ったものはないと言って、本書を推薦しているのだが、さて、このようにESPカードのようにカードに一つの絵柄しか描かれていないカードを見せられた日本人はどう思うかというと、きっと戸惑うにちがいない。
 オルソンの方針も、がっかりするほど明瞭だ。4人には、①日本の過去のなかで有用なものを再評価している、②欧米の知識と理念を日本の状況にあてはめている、③中国革命の経験を日本に適用している、という3つの道筋を通ってきたパッセンジャーだという見方をとっている。そして、この4人に日本のナショナリティが如実にあらわれているのではないかというのだ。

 日本にしばらく住んだことのあるアメリカの歴史学者が、日本のナショナリティにひそむ問題に関心をもつことは、べつだんめずらしくない。そのために日本の知識人や文化人の言動をいくつか選んでとりあげることも、よくあることだ。
 ぼくですら、20年前にはフランス人のジャーナリストによって安部公房・大島渚・唐十郎・松岡正剛・村上龍というふうに並べられて「ヴォーグ」で“批評”され、10年前にはドイツ人の学者によってなぜか柄谷行人・松岡正剛・島田雅彦というふうに並べられて、ゲッティンゲン大学の紀要論文で“議論”された。
 そういう“被疑者”の目にあってみると、とたんに自分が好奇の目で見られているような気がして、落ち着かない。だいたい冠せられる形容詞やラベルが直接的すぎて、くすぐったいというより、ほんとかなと思ってしまう。
 しかし、日本人はもっとこのような“被疑者”として批評されたり議論されたりしたほうが、いい。そういう意味で、本書は貴重な見方を提供してくれる。このあとにのべるように、そこにはいまだに悩みつづける日本人のナショナリズムに関するヒントがいくつも詰まっている。
 以下、要約の要約をしておく。ただし、本書とは異なって、年齢の順に並べた。

 竹内好について。1910年生まれ。
 第36夜第93夜第205夜参照。
 1960年5月の安保条約強行採決の2日後、竹内好は都立大をきっぱりと辞職した。知人友人に通知された書面には、「このような憲法無視の状態の下で私が東京都立大学教授の職に留まることは、就職の際の誓約にそむきます。かつ、教育者としての良心にそむきます云々」とあった。この決断には、竹内のそれまでの言動がつねに境界線や屹水線を出入りしていたことが見えている。

 竹内の父は役人をやめて、池袋で花柳界に転じた。14歳のときに母を亡くして、三味線を弾く継母がきた。麹町小学校・府立一中という典型的なエリートコースを通った竹内は(高校は大阪)、しかしひどい読書偏向をもっていた。
 ドイツ文学は読んで嫌い、フランス文学ははなっから読まず、欧米の影響にある日本文学も好まない。カントはつまらなかったし、ニーチェにも感動がない。唯一、ツルゲーネフには埋没できた。
 たいした積極的な理由もなく東京帝大の支那文学科に入って、なぜか1920年代の作品と論文を片っ端から読みはじめた。が、ここまではまだ竹内の確信の何ひとつもない。それが1932年に外務省からの依頼で満州に行ったとき、竹内は変わった。
 それは一言でいえば、「日本人は、中国が根深くてナショナリスティックな社会であって、それが過去の歴史と切断されたことを、まったく理解していないのではないか」というものだった。この判断は親友の武田泰淳にもあった。
 それでもながらく、竹内は戦時中の日本の方針には疑問をもたなかった思想者だった。孫文の三民主義に感動する一方で、いささか右翼っぽい大川周明の「東亜会」に入り、どんどん中国通になっているなかで、日本軍の真珠湾攻撃を積極的に支持した。
 ずっとのちの1972年にも、竹内はこの支持が政治的判断としてはまちがっていたけれど、思想という点では自分はまちがっているとは思わない、とあえて言明した。大東亜戦争は世界史の書き換えであるという見方を疑ってはいなかったのだ。

 やがて魯迅・孫文を研究し、日本と中国の関係を中国の側から考えるにしたがって、竹内は日本には中国式の価値にもとづく抵抗社会が芽生えなければならないと思うようになっていく。とくに敗戦後は、魯迅・孫文・毛沢東型の革命的ナショナリズムを日本の戦後社会に強引にでも導入したいと考えた。
 こうした竹内にとっての「中国」は、のちに案内する吉本隆明の「大衆」の役割に似ている。そして、まさにこの価値観において、竹内は抵抗社会をつくるための新たな「国民文学」を提唱した。たぶんブレヒトの『肝っ玉母さん』のようなものを想定したのだろうと、オルソンは憶測する。
 他方、吉本は、日本の将来は日本と中国の関係に律せられるはずはなく、かえって世界と苦悩を共通の方向に引っ張られていくだろうと予測した。

 竹内が最後までこだわったのは「方法としてのアジア」ということである。
 オルソンは、それほど徹底した竹内がとくに大きな活動をとらずに、1960年の都立大辞表提出という決断にばかり光が当たった理由を掴まえきれないようだった。けれども、この「竹内の魯迅」は、次の鶴見俊輔においては、さらに劇的な三段論法の最後のジャンプとなって、あらわれる。

 鶴見俊輔について。1922年生まれ。
 第14夜第184夜第524夜参照。
 よく知られていることだが、鶴見の父の鶴見祐輔は、新移民法が通過したアメリカで反日感情を緩和するために設けられた「太平洋問題調査会」の日本代表で、著名なロビイストだった。その後に衆議院議員となり、いったん公職追放になるのだが、復帰したのちは鳩山一郎内閣の厚生大臣をつとめた。
 母親はある意味ではもっと“大物”で、満鉄総裁や東京市長となった“大風呂敷”こと後藤新平の娘である。武家の血をうけているせいか、この母は苛烈な人で、鶴見は「こういう恐ろしい子ができたのは、私の責任だから刺し違えて死ぬ」といった芝居がかった言葉を迫られ、母親の脅迫観念を逃れきれずに、育った。「恐ろしい子」というのは、お菓子を盗み食いしたり、寄り道をしたり、遊びすぎだといった程度のことだったのだが、それでも鶴見は精神病院に3度も入れられた。
 父はこの息子をアメリカの学校に入れることで、なんとか自立させようとした。ミドルセックスの男子寄宿学校で、外国からきた生徒は一人という身になった鶴見は、そこからハーバード大学の哲学科を出るまで、ありとあらゆるアメリカを見る。

 鶴見は自分を自立させたアメリカに恩義を感じつつも、日米戦争に突入した日本に帰る。日本が敗けることはうすうすわかっていたが、その敗北を日本の国土で感じたかったからだ。
 敗戦のとき、鶴見は23歳。当然、8・15は屈辱だった。やがてこの屈辱は、なぜ日本はあの直後に共和制を実現する可能性に向かえなかったのかという切歯扼腕に変じていった。ついで、鶴見に大きくのしかかってきたのは「占領という事実」と、多少は恩義を感じていたアメリカが反共に走り、あまつさえマッカーサーが原爆を携えて朝鮮戦争に乗り出したことだった。 
 ここにおいて、鶴見は自分がアメリカが嫌いになる特質を明確に列挙した。「民族的思いあがり、自己満足、物質主義と資本主義、精神の画一主義、他の民族文化への配慮のなさ」。
 アメリカは「焼き付けられた幻影」にすぎなくなり、鶴見は自己嫌悪とノイローゼに罹る。このとき鶴見に飛びこんできたのが、上にのべた「竹内好の魯迅」だったのである。
 鶴見は一種の「五・四運動の日本版」をつくろうというヴィジョンをもつ。

 ところで、鶴見がアメリカで身につけたものがあった。オルソンはそれをプラグマティズムだと見た。この思考癖はアメリカを嫌いになっても、体ごと脱げはしなかった。
 そこで鶴見はそれをいかしつつ、日本の思想の大整理にかかる。この計画のために生まれたのが「思想の科学」というグループである。姉の鶴見和子、経済学の都留重人、政治学の丸山真男、物理学の武谷三男と渡辺慧、思想史の武田清子が加わった。
 ドーアは、このグループには厳格な理論的な訓練をうけた社会科学者がいなかったことを批判的に指摘したが、鶴見らは日本における「転向」を最初の大きな共同研究にして、日本人には「深く保持された原理に照らした信念転換がきわめて少ない」という結論をえて、当時の日本思想界に少なからぬ影響を及ぼした。それまで埴谷雄高や大宅壮一や清水幾太郎の思想変化を、「転向」とよぶ者さえいなかったのだ。
 鶴見はついで久野収と『現代日本の思想』を書き、久野・藤田省三と『戦後日本の思想』を著して、自分にもまとわりついていた吸取り紙のようなアメリカを振り切るために、「綴り方教室」の運動などに関心を示して、アメリカ型の民主主義ではないムーブメントがおこる可能性に味方しようとしていった。

 60年安保では、鶴見は「声なき声の会」のリーダーの一人となって安保反対運動の先頭に立とうとし、強行採決ののちは、竹内好に背中を押されるようにして、東京工業大学を辞した(翌年に同志社大学に職を得た)。
 しかし、それは竹内が言うような日本の民主主義が踏みにじられたからではなかった。鶴見は、日本にはもともとそういうものが根付かない体質があると見ていた
 こうしてこのあとの鶴見は、いわば「先祖返り」(オルソン)を試みる。柳田国男に注目して日本の村落にひそむ祖霊感を重視し、谷川雁に注目して方言による書き言葉の再生を謳い、日本にひそむ「アンソロジー文化」を賞賛した。これはへたをすると加藤周一の“日本雑種文化説”と同じ見方になりかねなかったが、鶴見はむしろ、日本の社会や文化や精神には「転向」が本質的に備わっていると言いたかったのだった。
 このことは鶴見を「ベ平連」にも駆り立てた。高畠通敏と鶴見と小田実はベトナム戦争に反対する団体をつくり、いわばアメリカからの転向者を、すなわちベトナム戦争の兵士の脱走を、積極的に呼びかけた。
 オルソンは鶴見のこうした一連の動きには、戦争についての自分自身の罪とくりかえし闘おうとした結果があらわれていると言う。しかし鶴見自身は、罪との闘いというより、民衆による等身大の思想を日本に探し、日本に定着させたかったようだ。

 オルソンによれば、鶴見は、日本における「役割モデル」をいろいろのものに取っ替え引っ変えしながら、そこに多くの民衆文化を入れるようになっていったのである。しかし、鶴見が果たしたのはそれだけではない。
 マンガ、流行歌、映画、貸本などの民衆文化は「限界芸術」と呼び代えて、そこに出入りするような言葉によってこそ、これからの日本のデカルトや日本のライプニッツが語られるべきだというのが、鶴見の主張だったのである。そして、事態はおおむねそのようになっていったのだ。

 吉本隆明について。1924年生まれ。
 第89夜第374夜第448夜参照。
 この戦後を代表する無冠の思想家は、隅田川にへばりついた船大工の3男である。幼児を回想するかのようにして、吉本は「孤独は喜怒哀楽のやうな言葉は人間の一次感覚の喪失のうへに成立つわたし自らの生存そのものに外ならなかつた」と書く。『固有時との対話』だ。
 1944年に東京工業大学の電気化学科に入るものの、戦時徴用で富山の日本カーバイトの工場へ。だから日本の敗戦はここで聞いた。愛国少年だった吉本のショックは大きい。こういう吉本にとって、周囲の知識人たちがさかしらに「自分はひそかに天皇ナショナリズムに反対していた」などと言っているのが、嘘っぱちに聞こえていた。
 東洋インキに勤め、組合形成に失敗し、すぐに窓際に追いやられた吉本は、聖書マルクスに関心をもつ。『マチウ書試論』では、ユダヤの神話を採り入れようとしたマタイが、新しい党派の生みの親としてイエスをつくりあげたのだという考えにいたり、キリスト教は現実からの逃避であって、かつ、不可避の歴史的事実から理想的感情秩序への逃避でしかないのではないのかとみなして、キリスト教の信仰全体に対する不快感を示した。
 このとき、信仰にいっさいを頼る思想との決別を固めたようだ。一方、マルクスはどうだったのか。

 吉本を「マルクスを知ってしまった宮沢賢治」と評する批評家がいる(中村文昭)。しかしオルソンは、吉本の詩にも評論のどこにも賢治を発見できなかった。
 吉本はたんにマルクスにどっぷり浸かって、疎外のロジックを学んだにすぎなかったのではないか。その疎外のロジックを、吉本は自分を含む「大衆」の「自立の思想」に使えるようにすることを使命と感じただけなのではないか。そこには、たとえ左翼知識人の体たらくから「マルクスの救出」を積み重ねるという思想的課題があったとしても、大衆そのものの思想はなかったのではないか。
 こうしたオルソンの疑問を睥睨するかのように、吉本は徹底して「私人としての自分」という立場から、国家という共同幻想にまきこまれたままの思想をひとつずつ撃退していった。とりわけ権威にしがみつくいっさいの知識人に刃を向け、とくに多くの知識人が尻ごみしていた丸山真男に噛みついて、丸山が荻生徂徠に依拠したのを批判し、むしろ伊藤仁斎の「創出力」を評価した。

 吉本の「苦情の申し立て」は学生や若者の熱狂的な賛同を得た。60年安保では学生とともに国会前にいた吉本は、その後も学生運動を擁護し、学生や大衆にひそむ「私的利害主義」こそは、実は戦後の大衆の抗議の基盤だと考えるようになった。
 やがて吉本は自分の「自立の思想」の根拠を求めて、日本人にひそむナショナリズムの点検に入り、日本の「文化止揚」の可能性をさまざまな場面に検証しようとする。
 たとえば北一輝は吉本からすれば、せっかく明治維新でブルジョア革命にいたったナショナル・エネルギーが雲散し歪曲されていったとき、これを純正なものにすることを先取りした成果と見えた。北だけでなく、軍人や右翼もこの先取りをした。それに対して、知識人はまったく機能をはたさなかったのである。
 こうした検証は、鶴見俊輔が関心をもった歌謡曲にも向けられ、「捨てる」「切れる」「泣く」「忘れる」「絶えはてる」といった歌詞は、大衆による日本資本主義に対する正確な感受をあらわしているのであって、その心性は戦後にも、現在にも受け継がれていると見た。
 しかし吉本はその一方で、鶴見らにひそむプラグマティズムでは大衆の生活や思想は掬いあげられないとし、国際マルクス主義が掲げるインターナショナリズムでも、そうした生活思想は何も表現できないと断罪した。

 こうして吉本はしだいに土着の思想に加担していく。
 吉本は『言語にとって美とは何か』以来、長らく言語思想にも執拗な関心を示してきたのだが、それは縮めていえば、大衆の記憶の中にある言語を前衛的な理念や場面に結びつけるものとしての言語思想をつくろうとする試みだったといえる。
 しかし皮肉なことに、と、オルソンは書く。大衆との関係を探求すればするほど、それについて書く吉本は高度に複雑で隠喩にとんだ不明瞭な言葉ばかりを使うようになって、とうてい大衆が理解できるものから遠ざかっていった、というふうに。

 江藤淳について。1933年生まれ。
 第214夜第514夜第686夜参照。
 曾祖父はサムライの息子、祖母もサムライの娘だった。母は海軍少将の娘だが、モダーンな感覚をもっていた。江藤は幼少期から脆弱な子で、戦後に慶応に入るも結核を再発し、最初の研究の夏目漱石に関する著作を書きあげるまで、回復に手間取った。
 しかしサムライの威儀をどこかに残したかもしれなかった江藤の「家」は、1945年の大空襲で焼け落ち、財産を失った。そのせいか、この「家」の問題こそは江藤にのちのちまでの“宿題”としてあらわれる。

 戦後、江藤は日本人が「魯迅」を生まなかったことに竹内好同様に苛立ち、日本の社会的真実を体現する作中人物を一人として生まなかったことを嘆いた。
 そこで江藤は『作家は行動する』と宣言せざるをえなくなる。それは、作家は「文体において行動すべきだ」という意味だった。すでに小林秀雄が指摘していたように、近代日本文学は「非行動の文体」や「負の文体」に賭けていたのである。
 しかし江藤から見ればその小林は、一人で「内面」をわがものにしているのであって、その内面が「他者の抹殺」によって成立していることはあきらかだった。
 オルソンはこのあと、60年安保における江藤を描写し、ハガチー事件の現場で江藤がこみあげた「絶望」に焦点をあてて、江藤が理想主義的知識人に対する攻撃を開始する一方で、「降伏の苦痛」を隠さない実際的知識人の像を求めはじめたことを確認している。こういうとき、江藤の共感はたとえば吉本隆明に向かい、憎悪はたとえば「思想の科学」グループに向かった。

 ハガチー事件以降の江藤は陰鬱である。「私の主人は私以外にいない」「同時代人が集団的に同じ体験などするわけがない」という感想のもと、江藤はついに近代化のシステムとイデオロギーを全否定しようとしていった。
 そういう江藤が新たな体験を求めてアメリカに夫婦で渡る。プリンストンでの滞在だった。アメリカでの江藤は、どこかで鶴見俊輔同様に、「自己防衛的態度」を捨てて、願わくば「異質姓の自覚にたった解放の感覚」(『アメリカと私』)を得ようとするのだが、最終的にはなじめず、ついに不快に達して31歳で帰国した。
 日本に戻ってきてからの江藤はしきりに「日本の過去」に惹きつけられた。少なくとも当面は、この「過去」のほうにひそむ何かのほうが、日本においては、「永続的な芯の価値」をまだしももっているように思えたのだ。

 こうして『成熟と喪失』で、戦後の現代小説が家父長を衰退させていることを論じているうちに、江藤は何が現在の日本におこっているかを愕然として知っていく。
 そこには「過去の喪失」がはっきりとおこっていた。それは江藤の「家」が焼亡した記憶とも、どこかで結びつく。江藤は敢然と、この回収にとりくむことを決意する。
 当然なことに、やがて江藤は、進歩的知識人からは「右より」と非難される。しかし本人はそんなことなどまったく意に介さないかのように、次のように断言するにいたった。「人は、自分が属する文化の有機的な全体との、この適応と統合のプロセスを繰り返すことによってのみ、自身のアンデンティティへと到達する」。

 世評では、江藤は戦後のニューライト思想の代表とも、オールドライトの再来とも、保守反動思想家ともみなされた。しかし江藤はそういうつまらぬラベルにあいかわらず反論もせず、かなり本格的な研究にとりくんでいく。
 ひとつは明治維新の英傑を自分なりに検討することだった。江藤は西郷隆盛よりも大久保利通に、明日の日本に必要な人物像を見出した。また、1945年の憲法制定過程の検証にずいぶんの時間を投入し、日本の憲法の理想像を模索した。
 オルソンはこの江藤の努力についてはかなり冷たい扱いをして、江藤においては「主権と国家が同一視されている」という批評家の見解を紹介するにとどまっているのたが、さて、どうか。江藤にひそむナショナリティの問題は、それこそ江藤に貼りついた多くのラベルの中で、いまだ検討の日々を迎えていないようにも思われる。

 以上、ざっと要約の要約をしてみたが、むろんこの要約にはぼくの見方がどこかに反映している。気になる向きは、自分で検討してほしい。
 オルソンの目はできるかぎり公平を努めてはいるかに見えるだろうが、むろんそこにもアメリカの現代歴史学のメガネが動いている。また、翻訳者の解説にもあるように、どちらかといえば鶴見を評価していた。
 ところで、版元の新宿書房は発行人が村山恒夫で、ぼくは杉浦康平さんの仕事で一緒になったことがあるのだが、そのころから地味で味わいのある出版を心掛けていた。編集担当は室野井洋子で、やはりそのとき一緒に仕事をした。ダンサー兼エディターの才女である。
 翻訳者の3人には面識がないが、翻訳作業の音頭をとったらしい黒川創は、『リアリティ・カーブ』(岩波書店)、『水の温度』(講談社)、『先端・論』(筑摩書房)などで鮮明な思索の“測度”を見せている作家。本書は、目立たないけれど、好出版だった。