イリヤ・プリゴジン
確実性の終焉
みすず書房 1997
ISBN:4622041081
Ilya Prigogine
The End of Certainty 1997
[訳]安孫子誠也・谷口佳津宏

 プリゴジンとブリュッセル学派が打ち立てた散逸構造論がもたらした衝撃は、いまなお科学と思想の中心部を揺るがせている。その震動はあいかわらず心地よい。
 その心地よさは、それまで夕焼けや波打ち際や滝を眺めているのは好きだが、科学には疎かったという者たちにも波及した。

 われわれは長いあいだにわたって、ひとつの大きな疑問をもってきた。地球は宇宙の熱力学的な進行にしたがっていつか滅びるだろうに、その地球上の生命というものはまるでその不可逆な過程に逆らうかのように個々のシステムを精緻にし、生命の謳歌を主張しているように見える。これはなぜなのかという疑問だ。しかもその生命も結局は個体生命としては次々に死んでいく。
 詩人たちはこのことをこそ歌い、哲学者たちはこのことをもって思索の源泉としてきた。
 生命だけではない。地球の高い空に乱れて散らばっていた雲は、いつのまにかウロコ雲やイワシ雲のような形を整えるということがあり、乱流がほとばしっている川の流れには、いつのまにか見事な渦ができていることもある。けれどもこれらはいずれは消える。そうであるのに、いっときの形を整えるかのようなドラマを見せている。夕焼けを見ていていつまでも飽きないのは、この生成と消滅がしばし大空の舞台の書き割りを覆ってくれるからである。
 いったい自然の流れは、大きな流れが見せるものと小さな流れが見せるものとでは、そこには異なる法則がはたらいているのかどうか。もしそうだとしたら、その二つの法則をつなげて理解することはできないのか、どうか。この疑問はさかのぼればヘラクレイトスにまでさかのぼっていた。

 そこにはもうひとつ、大きな謎が含まれていた。自然はどのように時間と戯れているのかということだ。科学や数学では時間はtか-tであらわす。力学や化学ではtと-tを入れ替えても事態に変わりがないときに、その過程は可逆的であるとみなしてきた。
 しかし、自然界にはtと-tを入れ替えられない現象がいくらでもおきている。熱力学ではとくに頻繁におこっている。熱い珈琲はそのままほうっておけば室温と同じになり、さらにほうっておけばがちがちの固体になっていく。これを熱いブルーマウンテンに戻すことは不可能なのである。
 熱いものはいずれは冷える。そこには時間の不可逆がおこっている。いったい時間経過を可逆にしていることと不可逆にしていることのあいだには何がおこっているのか。これをプリゴジンは、力学系のミクロな可逆性と熱力学系のマクロな不可逆とを、ボルツマンの統計学的解決の先っぽでつかまえた。

 散逸構造論は不可逆過程の熱力学システムの研究、とりわけ非平衡系のシステムを研究対象にして生まれた。これを非線形熱力学という。
 プリゴジンが注目した非平衡系は定常状態にあるシステムのことで、川の流れのように、内部的にはさまざまな変化があっても大局的には時間的に一定の流れをもつものをいう。散逸構造はこの定常状態の中で生まれる。
 熱力学的な非平衡系の単純な例は、高温部と低温部があって高温から低温に熱が流れつづけているような例に容易に見いだすことができる。この変化が止んでシステム内が一定の状態になれば、それは熱平衡系とよばれる。熱い珈琲が室温と同じ状態になったとき、それが熱平衡系である。だから熱平衡系にも構造はある。たとえばシステム内に水と氷や、水と油が分かれてあるときなどだ。
 が、その非平衡系の内部をよくよく見ると、実はそこにはもっと劇的な変化がおこっていて、そこにウロコ雲やイワシ雲のように、それが新たな秩序の生成に見えるような現象が生起する。熱いブルーマウンテンにミルクを入れてかきまわしたときのマーブルパターンなども、そのような現象のひとつだった。
 こうした現象はシステム内の温度差・圧力差・電位差のような非平衡性を解消するような流れをおこし、非平衡系をなんとか熱平衡系へと転化させようとして、いわば非平衡的なるものをしきりに散逸させている。熱い珈琲のマーブルパターンはそのような小さな散逸が生じた束の間のファンタスマゴリの幻想である。
 しかもこの過程は不可逆である。勝手に元の状態に戻るようなことはおこらない。ブルーマウンテンのマーブルパターンはスプーンでかきまぜていったん消えれば、もう恋人を前にしたテーブルの上に再生することはない。

 不可逆過程は熱力学の本質と密接にむすびついている。熱力学第二法則はエントロピー増大の法則として、不可逆的にエントロピーを増大させる現象のすべてにあてはまる。
 大戦前、プリゴジンは第二法則を研究しながら、熱力学的な平衡が安定であるための条件を求めていた。そして、システム内部のエントロピー生成量が最小になるときにシステムが安定し、その特別の場合が熱平衡状態であること、そこではエントロピー生成量がゼロになっていることをつきとめた。
 ところがやがて、この成果(エントロピー生成最小の原理とよばれる)を熱平衡から遠い非平衡系に移そうとすると、まったく別の現象がおこることに気がついた。「熱平衡から遠い非平衡系」というのは、システムをとりまく周囲の非平衡性が大きくなった場合のシステムのことをいう。その場合は、不可逆的な流れの大きさを非平衡の線形一次式ではあらわせない。ということは、ここではエントロピー生成最小の原理は成り立たないということなのだ。システムの内部に生じる構造の非対称性がシステムの周囲の非対称性より大きくなっているからだった。
 プリゴジンは、これは「自発的な対称性の破れ」がおこっているためと見て、このようにして生じる構造を「散逸構造」と名付けたのである。散逸構造では大局はそんなそぶりをまったく見せていないのに(対称性はちっとも破れていないのに)、その局所においては小さな秩序が生成されていた。

 散逸構造の発生は、ちょっと考えてみると奇妙なことである。熱力学第二法則やエントロピー増大則というのは、システムの構造がしだいに消滅していって、いわば平坦化していくようなことを、いいかえればシステムの対称性がどんどん増大していくことをあらわしていたはずである。
 実際にも、熱平衡系では周囲の非対称性が一定に保たれていて、システムの対称性が増大して、そのぶん非対称性が周囲の非対称性と一致したときにシステムは安定する。ところが散逸構造ではシステムの対称性は周囲の対称性より低下する。なぜなのか。
 そこでプリゴジンはここに「熱的なゆらぎ」による秩序が生成されて、この差異を解消しているのではないかと考えた。わかりやすくいえば、外見は連続して見える流体などの物質状態も、それを細かく見れば粒子的な構造が激しい熱運動をしていて、そのミクロなゆらぎは非平衡状態が一定の限度に達したときにマクロに発現するのではないかと考えたのである。自発的な対称性の破れもこのときに発生すると解釈した。
 プリゴジンはこうした散逸構造の出現でもシステムの大局的な定常状態は大きくは変わらないことを証明してみせた。そこでは、正のエントロピーの生成量と負のエントロピーの流入量が互いに打ち消しあって、システムのエントロピーが一定の値となっていた。これで散逸構造の安定は説明できた。
 では、一方、散逸構造が生み出したものは何なのかという問題が残った。ここからが非線形非平衡熱力学の独壇場になる。

 ベナールの対流は、液体の入った浅い鍋を下から熱すると、ある温度のところから急に対流のパターンが出てきて、上から見るとハチの巣のような形になる現象をいう。鍋が熱せられて非平衡が大きくなり、それがエネルギーの散逸をともなってグローバル・パターンを自己組織化させているという現象だ。
 ベルーソフ・ジャボチンスキー反応では、グローバル・パターンが生じてからも、そのパターンが化学時計とよばれる単位で時間的に振動する。ということは、そこでは時間的な対称性も破れてグローバルな時間のパターンも創発されているということになる。
 こうした現象は何かに似ている。そうなのである、生命体にこそ似ている。生命は宇宙的な熱平衡から遠く離れた地球という非平衡開放系の上で生じたシステムである。そうして生まれた情報高分子としての生命はやがて自己組織化をおこして、生物時計というような独自な時間を刻み、消化系や神経系を発達させてそこに秩序を生成させた。
 熱力学開放系は、システムの内部から外部に向かって内部化学反応によってこしらえられた反応物質をせっせと取り去ることができるシステムのことをいう。そうだとすれば、代謝機構や排泄機構をもっている生命体は、まさに熱力学開放系のモデルだということになる。しかもあいつぐ不安定性の発生と分岐の出現によって、生物的な化学散逸構造はどんどん複雑化することができる。
 このことを述べたのが圧倒的な熱狂をもって読まれたスタンジェールとの共著『混沌からの秩序』(Order out of Chaos)(みすず書房)である。そこには象徴的に次のように書かれていた。
 かつてジョセフ・ニーダムは「西洋の思想はオートマトンとしての世界像と、神が宇宙を支配するという神学的世界像とのあいだを行ったり来りしている」と書いたものだった。ニーダムはそれを西洋に特徴的な分裂病と命名した。それに対してプリゴジンはこう付け加える、「実はしかし、この二つはむすびついている。つまりオートマトンはその外部に神を必要とする」。

 こうしてプリゴジンは生命体の発生分化や成長にこそ、自分が研究してきたしくみがあてはまることに気がついた。とくに、生命体にひそむ「内部時間」はプリゴジンが研究してきた時間の演算子でも説明できるのではないかと考えた。神もオートマトンもその内部に時計をもっていたわけだ。
 いまでも読者が多い『存在から発展へ』(みすず書房)はまさにこのことを高らかに宣言するパイオニアの役割をはたした。この著書でプリゴジンは、それまでのハミルトニアンによる力学の定式化に代えて、リウビル演算子による定式化を試みて、外部からの規定をうけない「内部時間」にあたる時間演算子を提出している。
 というわけで、プリゴジンは散逸構造論の旗手から複雑性の科学の旗手へ、さらに時間論の旗手となって、本書『確実性の終焉』を著すまでにいたったのである。

 本書はいま述べた時間の問題をさらに突っこんだプリゴジンの最後のまとまった著書にあたるもので、話題は量子論や宇宙論における時間のパラドックスの解決までを照準に入れている。
 プリゴジンはここでは神とオートマトンに代えて、こう書いている。「いまや創発しつつあるのは、決定論的世界観と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界なのである」と。
 プリゴジンは最後の最後には、確率論的で相関的な時空開放系を想定したようである。

◆お知らせ◆都合によって次の第910夜まで一週間ほどお休みします。12月22日に、またお目にかかります。
松岡正剛

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