武原はん
武原はん一代
求龍堂 1996
ISBN:4763096370

 大佛次郎が京北の浄照光寺の桜を連れ立って見に行ったとき、みんなが引き上げてもまだ一人花の下に佇んでいる婦人がいる。
 その連れ立ちの亭主役である大佛が近づいてみると、武原はんが涙を流している。「あんまりきれいなもので‥」ときまりわるそうにして、さっと連れ立ちのほうへ戻っていったという。大佛ははんが「なだ万」の別荘を借りて鎌倉雪の下に両親を住まわせたときのお向かいさんだったし、挨拶文などを何度も代筆していた武原はんが一番大事にしていた後見人にあたる。
 昭和57年は、武原はんは数えの80歳。国立劇場で長唄の「傘寿」を西川鯉三郎の振付で初演した。鯉三郎の振付はその前の浄瑠璃舞踊「雪の角田川」に次いだ。「傘寿」の丸髷に黒紋付模様の舞は、典雅といったらこれほどの典雅はなかった。ぼうっと見ていた。そのあとに景色が変わって絶品「雪」を舞ったとき、ぼくはこの浄照光寺の桜の涙の話をふと思い出していた。
 これはのちに句集のなかで知ったのだが、はんさん自身に「雪を舞ふ傘にかくるるとき涙」という句もあった。花と雪とは日本舞踊では同じものなのだ。

 毎年、5月になると国立劇場で「武原はん舞の会」が開かれた。二番か三番だけ地唄舞を披露するのを全員が固唾をのんで見守るという催しで、かれこれ40回以上も続いた、初期は春秋2回のときもあったが、晩年はずっと年に一度の畢生の舞台に賭けた。会場では、しばしば武満徹・勝新太郎・藤村志保・芝木好子・閑崎ひで女・高橋睦郎・多田美波に会った。
 舞台が国立劇場になる前のホールはいろいろで、日生劇場で舞ったことがあった。昭和41年のこと、ぼくは父とこの日生劇場の舞台を見た。これが初めて武原はんを見たときだったのである。「武原はん一代おさらいの会」と銘打たれた。
 ぼくが行ったのは調べてみると1日目だったようで、清元「山姥」のあと、「巴」を松本幸四郎と颯爽と踊り、荻江節の「深川八景」で粋にしめくくった。いまおもえば溜息が出るほどの舞台で、地方が荻江露友・芳村伊十郎、都一中、富山清琴・清元延寿太夫・藤舎呂船と揃っていた。
 いま、武原はんの地唄舞はビデオでも見られる。米寿のときにNHKが『舞ひとすじ』全6巻で制作した。それでもむろん存分に堪能できるけれど、はんさんの舞で溜息が出るのはやはり実際の舞台を見ていないと、おこらない。こういう体験をできずに日本に育った諸君には申し訳ないが、武原はんは生きた舞台が奇蹟だったのである。

 さて、この本が出版されたとき、武原はんは93歳だった。この年齢ですぐに生まれた時代がピンとくる人はよほど歴史に詳しいか、クロニクル派だ。日露戦争の前なのである。はんは徳島の花街の裏のブリキ職人の家に育った。
 けれども、時代がわかったからといって、武原はんの一代記がおおざっぱに目に浮かぶ人はいまやそんなにはいないだろう。ぼくはそのへんの事情を父の言葉で扶けられてきた。父はクロニクルな話になると、それは花柳章太郎さんが明治座で初めて鶴八鶴次郎をやらはった頃やな、そやそや、あのとき市川寿海さんが瀬戸内海に飛びこまはったんや、あれは三浦布美子が最初に三越名人会に出たときやったなというぐあいに、時代を芸能の出来事で語ることが多かったのだ。その手の話にときどき武原はんが出てきた。
 あれははんさんが「はん弥」の名前で新橋の芸者をしてたときやったな、ヘップバーンの『ローマの休日』見たあとに、みんなで赤坂の「はん居」(赤坂新町に武原はんが出した料亭)に行ったんや、その夜はヒラリーがエベレストのてっぺんまで行った言うて、えらい大騒ぎやった、といったふうに。
 これを最近の四方山話でいうなら、あれは藤田が投げて長島が2本のホームランを打ったときだとか、ユーミンが「中央ハイウェイ」を歌っていたとか、まだビートたけしがツービートにいたとき、テレビドラマの『不揃いの林檎たち』で泣いたころというようなことになるのだが、どうもこの手の話が野球は野球の話、漫才は漫才だけの話、テレビはテレビの話になりがちになっている。
 それでも当座のお喋りは盛り上がるだろうが、むしろ重要なのは一人の芸人や一人の舞い手がどんな時代をかいくぐって舞台に立っていたのか、球場にいたのか、ピッチに立っていたのか、レコードを出したかということなのである。

 武原はんは徳島で生まれ、11歳のときに両親とともに大阪に引っ越した。大正3年である。それだけならなんでもないが、すぐに宗右衛門町の大和屋の芸妓学校に通わされた。
 そのころの大和屋や富田屋は大きかった。本書にも出てくるが、20歳までの芸妓がそれぞれざっと30人ほどいて、修行中の女の子なら40人、50人がいた。稽古場には三味線が何十挺もずらりとかけてあったという。その大和屋が芸妓学校をやっていて、生徒が5、6人ごとにお稽古をしていた。はんは長唄は安田フサに、清元は清元梅之助に、舞は山村千代に習った。山村千代はそのころは大和屋のご隠居さんの立場にあった。いまはなくなってしまった大阪ミナミの名物「芦辺踊り」の雪洞(ぼんぼり)が宗右衛門町や戎橋に華やぎを灯していたころのことである。
 それでどうなったかというと、14歳で芸者はんになり、20歳で大和屋から離れた。商家のぼんぼんに夢中になって自前の芸者になろうとしたからである。それが関東大震災の年で、大杉栄が虐殺され、朔太郎が『青猫』を問うた。

 昭和5年の27歳のときに、はんは東京の大地主の次男の後添えとして嫁入りした。前年にニューヨークの株が大暴落して、世界恐慌が始まった年、日本はここから軍靴の音が大きくなっていって、翌年には満州事変に突入する。そういうときにはんは東京で嫁になった。
 この大地主の次男というのが青山二郎である。ちょうど柳宗悦の民芸への関心が高まってきたころだ。たちまちはんの周囲は青山の広い交友たちに囲まれ、小林秀雄、永井龍男、中原中也宇野千代らとの談笑が賑やかになる。が、それは一刻一刻が美の真剣勝負のようなものでもあった。ともかくも、この青山二郎との出会いがなかったら、はんは武原はんにはならなかった。
 また、その青山二郎との「生活の日々」を結局は拒否したのが武原はんを作った。3年で離婚してしまったのだ。べつだん喧嘩して別れたのではない。みんながはんを応援してのことだ。
 31歳でふたたび独り身になると、はんは一方で写経を始め(これは死ぬまで続いた)、一方で「なだ万」の女将の妹分として働き、一方で踊りに打ちこもうとし、一方で俳句を始めた。
 写経は高野山の柴田全乗の指導、俳句は高浜虚子に師事した。俳号は「はん女」。

 けれども、独り身でなにもかもに挑もうというのはさすがに難しい。時代も風雲急を告げていた。はんは「はん弥」を名のって新橋芸者となった。
 そこではんは、片手間なんぞで芸者はできないとみて、かえって気合を入れた。そこがこの人の真骨頂だった。新橋芸者40人を率きつれて御嶽山に登り、滝行をやってのけている。キャーキャー騒ぐ芸者一行の先頭に立って、高らかに「六根清浄」を唱えつづけたのは、はんさんなのだ。
 それが昭和15年の日独伊三国同盟を結んだ紀元2600年の年で、日本が翌年にはアメリカに先制攻撃を仕掛けようとしていた時期であることを知ってみれば、はんの覚悟が知れる。そのころ学習院の大学学長だった安倍能成がその凜とした覚悟に舌を巻いて唸ったという話がのこっている。そういうはんだから、座敷では平気に飲み尽くしては、座が盛り上がるなら阿波踊りを1時間以上も踊ってみせた。これは吉井勇がシャッポを脱いだ。

 日本は敗けた。東京は焼けた。昭和21年、はんは木挽町に再建された「なだ万」を引き受けて女将となり、両親を徳島から呼ぶと築地会館の4階で糊口をしのぐ。
 弟子をとったらという勧めでそういうこともするのだが、これはあまりに稽古が厳しすぎて弟子が近寄れない。大和屋のころのオッショサン(お師匠さん)はえらかったと、そこは自分で謙虚に回顧している。が、このとき(昭和25年)に三越名人会で舞った「雪」がすでに評判になっていた。はんの「雪」はまさしく「もののあはれ」なのである。
 やがて鎌倉に「なだ万」別荘に両親を移し、そこで昵懇となった大佛次郎を頼り、両親があいついで亡くなると、はんはついに第1回のリサイタルに向かっていく。これがその後もずっと続いた「武原はん舞の会」のスタートである。昭和27年師走に新橋演舞場で開かれたもので、鯉三郎、藤間勘十郎、尾上菊之丞がお祝いに踊って、はんは大和楽「師宣」と長唄「巴」を舞った。扇を横山大観と小林古渓が描いた。たちまち文部省芸術祭奨励賞を受けた。それが49歳のとき、美空ひばりが「りんご追分」を唄い、白井義男がダド・マリノを殴打して日本人が初めてボクシング世界チャンピオンになった年になる。
 ここから先、はんさんが亡くなるまでのことは省略する。本書巻末の詳しい年表を見られるとよい。モノクロだが写真も多い。
 まさに地唄舞一筋であるけれど、生涯、写経や俳句や御嶽山参りはやめなかった。俳句は決して上手というものではないけれど、その五七五の舞台に、素面ですっと立つというような素直な風情を詠んでいる。「行く年の扇ひとつをたよりなる」。
 はんさんは大阪に育った上方舞を東京に移して、美の極北にまで仕上げた。いま、上方舞は見る影もない。そこをどうしていくか、である。

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