ノーマン・コーン
千年王国の追求
紀伊国屋書店 1978
ISBN:4314002360
Norman Cohn
The Pursuit of The Millennium 1961・ 1970
[訳]江河徹

 ヨハネの黙示録。
 これほどキリスト教社会とその社会に疎い者をともに悩ませ、ともに驚かせ、ともに深刻にさせた文書は見当たらない。そこには、キリストが再臨ののちに地上にメシア王国をつくり、「最後の審判」以前の都合一千年を統治するだろうという予告が書かれているのだが、それだけなら単なる未来予告にすぎないはずなのに、これがまさに多様に解釈され、多くの人々の想像力の直径を引きちぎって、途方もない妄想をかきたてた。
 ミレニアム。千年王国。
 キリスト再臨後の一千年にわたるメシア王国は、中世にはもっぱら「千年王国」と総称された。このラテン語は“chiliasmus”で、英語が“millennium”になる。11世紀から16世紀にかけて、千年王国は幻想ではなくて“実際”に地上に“実現”されたフランチェスコ派、自由心霊派兄弟団、トマス・ミュンツァー、タルド派、ランターズなどがその“実現”をめざした
 本書はそのヨーロッパにおける千年王国の地上における歴史的痕跡を克明に追ったもので、観念史ではない。はやくから名著の評判をほしいままにしてきた。まさに「負の世界史」を抉ってあまりある大きな試みだった

1650年ごろ描かれたランターズ

1650年頃描かれたランターズ

 千年王国主義は「終末論」(eschatology)から生まれた。その歴史はめっぽう古い。
 古代バビロニア思想や古代ギリシア思想に対して、新たなヘブライ思想が対抗したとき、その萌芽が見えていた。神が歴史に介入してイスラエルを救うという思想である
 最初はアモス、ホセア、エレミアらの預言が終末を予告した。異教バール信仰がシナイ契約(旧約)によるユダヤ民族的団結を脅かしたとき、これらの預言者たちはいずれ終末がおとずれて、シナイ契約に代わる「新しい契約」(新約)が実現されると考えた。これをユダヤの民たちはダビデ的な民族王がメシアとなって、われわれを救うと解釈した。
 バビロンの捕囚後にこの預言はさらに過熱して、エゼキエルや第二イザヤがメシア王の登場を予告する。さらにダニエルやゼカリヤの時代となると、預言はしだいに黙示録的な色彩を強くしていった。つまり、歴史を超越する神の場面が神話的宇宙論的な様相をともなって、一種の幻視像として黙示されるようになった。こうして終末論は、歴史的な大帝国そのものの滅亡を予告することと同義となって、ユダヤの民以外の民衆に影響をもたらすようになった。

 この終末観をさらに先鋭化させたのが、クムラン宗団や原始キリスト教団や洗礼者ヨハネを代表とする洗礼派たちで、ここにイエスが出現して、これらを「福音としての終末像」に仕立て上げた。しかしそのイエスが十字架にかかったことは、パウロらによる次のような新約思想をつくらしめた。
 すなわち、イエスはその存在自身が終末的な出来事であって、それゆえイエスに従っていけばそこから「神の国」があたかも種を蒔くように成長していくだろう。そのときのメシアはユダヤ的ダビデ的民族王でもなくて、イザヤの「苦難の僕」に似た受難者なのである。つまりイエスなのである。しかし、神の国はまだ到来したわけではなく、いままさに悪魔(サターン)が追放されつつあるので、われわれは受難者イエスとともに、この聖霊の力を確信して教会的共同体を強化していかなければならない、と。
 これはあきらかに「復活のイエス」に終末的現在を託した思想であるが、この“終末の現在性”とでもいうべきをさらに決定的に強調したのが「ヨハネの黙示録」なのである。
 ただそこには、旧来の時(アイオーン)が終了する前に、メシアに対するサターン(あるいは終わりの日のアンチ・キリスト)の最後の闘いが挑まれ、それが闘いの果てに滅ぼされたときにやっと新アイオーンを意味する千年王国がくるのだという、まことに気を揉ませる黙示的図式が描かれていた。
 ようするに千年王国というもの、悪の絶頂が極まった直後の戦闘ののちにしかやってこないと黙示したのだった。これはディアスポラの宿命にいたユダヤの民にとっても、キリスト者にとっても、穏やかではなかった。

 ヨハネ黙示録の終末観は、第345夜に案内したオリゲネスによって新しい解釈をうける。
 オリゲネスは千年王国が時間や空間を伴うものではなくて、信仰する者の心の中にあらわれるのだと説いた。また、第733夜で三位一体論を繙いたアウグスティヌスも『神の国』において、メシア王国はすでにキリスト教とともに始まっているのであって、現在の教会の活動の裡に実現されている。ヨハネ黙示録は心的な寓話としてのみ読むべきだと説いた。
 しかるに、このような“楽観論”は必ずしも浸透しなかった。とくに貧しき者たちには、自分たちの苦難が日々のものであったので、教会が「神の国」であることなど、とうてい信じられなかった。こうして数々の終末論的千年王国をめぐる議論はますます燃えさかる。
 ノーマン・コーンはこれらの狼煙を一つずつ検証し、千年王国運動が11世紀には二つの切羽詰まった状況に達していたと書いている。
 ひとつはメシア王国の聖地の中心となるべきエルサレム奪還のために組織された十字軍の活動であり、これこそは「アンチ・キリストの軍勢」に立ち向かう第一弾ともくされた。長きにわたった十字軍運動が中世のメシア運動の温床か、もしくは刺激剤になった。
 もうひとつは、コーンが「貧民のメシア主義」と名付けたパウペレース(貧しき民衆)の動向だった。かれらは「民衆十字軍」としてもしばしば隊列を組んだが、その一方、各地で新たな結社をおこして、教会にはその萌芽さえ見えない「神の国」を、別途、建設していこうとした。当然に、ここには教会に満足しない修道士たちや、各種の異端の活動や、農民や貧民がかかわった。
 本書が主として検証しているのはこの後者のほうで、1251年、3人の男が自発した「羊飼いの十字軍」をもって、その最初が無政府主義的第一歩が踏み切られたと述べている。のちに「牧童連」とよばれた動向である。

 本書で扱っている中世千年王国運動は夥しい。モンタヌスやアッシジのフランチェスコもその嚆矢である。
 なかでも、フィオーレのヨアキムの終末論、ペスト流行とともに高まった鞭打ち苦行運動、パリ大学のベスのアモリの提唱で動きはじめたアモリ派、カタリ派やワルド派などの異端運動、ペギン派異端の自由心霊派兄弟団の活動、ハインリッヒ・ゾイゼの思想、ジョン・ポールの考え方、さらにはヨハネス・フスやトマス・ミュンツァーの農民革命を掲げた黙示録的な「神の国」の構想などは特筆すべきものだった。
 これらの「負の歴史」があったからこそ、ヨーロッパのキリスト教社会は宗教革命を迎えられたといってよいのだが、ここではかつてぼくが関心をよせた二つの動向だけについて、ふれておく。タボル派とランターズの動向だ。

 タボル派というのはフス処刑のあとに勃興した運動で、ボヘミアを中心にした。ルシュニカ河畔のタボル山を拠点にしたのでこの名がある。かつて歴史上になかったほどローマ教会に正面から批判を浴びせて、神聖ローマ帝国(ということはドイツ)に、反旗を翻した。
 いまならただちに異端アナキズムともよびたくなるようなタボル派は、最初はワルド派の思想行動に似ていたが、しだいに過激になっていき、ときにはプラハに集合してフス派のプラハ大学を占拠しようとしたり、学長に賛同を求めたり、ドイツ人とマジャール人の連合隊がボヘミア鎮圧に乗り出したときは剣をとり、またしばしばタボルの山々で「メシアの祝宴」を開いた。1420年にはタボル派全域の共同金庫を設立、経済支援も始めた。「我がもの」と「汝のもの」との区別をいっさいなくすための共同体づくりのためだった。
 このタボル派から分岐してきた運動に、ピーター・カニスの指導下の、いわゆる「ボヘミアン・アダム」たちがいた。とても変わった思想の持ち主で、キリストが十字架でしか死ねなかったことを批判超越して、それぞれが仲間の「あいだ」でこそ受難することを選択した。結局、かれらは火刑に処せられるのであるが、その多くが笑って十字架にかかっていったという。

 ランターズは、ずっとのちのクロムウェル時代の自由心霊派の動向である。ランターズとは「狂騒派」(rantering power)の意味をもつのだが、その構成員たちは「高い知恵」(high attainers)と呼ばれた。
 そもそもはジェラード・ウィンスタンリーが“超自然的なめざめ”を得て、1649年にサリー州コバムに共同生活体を創設し、これを「真正水平派」(デイガーズ)と名付けたのが最初の目立った活動になっている。イギリス全土に散っていたとも、ロンドンに集中していたともいわれるが、そのコンセプトは「イノセント」に徹していて、非私有をモットーとした。
 ぼくがランターズに関心をもったのは、ウィリアム・ブレイク(第742夜)がランターズの思想運動に示唆をうけているということを知ってからで、以来、どこかでランターズについて何かの研究を読みたいと思っていた。それがノーマン・コーンの本書の1970年版で大幅な付録がつき、それがランターズに関する文献紹介だったのである。本書の訳者の江河徹も、ブレイクとランターズの関係から本書に興味を寄せたのだという。
 実際にブレイクがランターズの何に接触したかはまだ明確にはなっていないのだが、ランターズの運動に触れたのがジョージ・フォックスやジェームズ・ネイラーであったこと、その動きが初代のクェーカー教徒となったこと、ジョン・ホーランドの『地獄の煙』がランターズの主義主張の紹介だったこと、メアリー・ミドルトン夫人らの女性たちによるきわめて涜神的な詩が神秘的反知主義の趣きに富んでいることなど、やはりブレイクとのつながりは隠せない。

 では、本書についての感想を一言でまとめておく。
 千年王国幻想は「ヨハネ黙示録」にとどまっているかぎりは、単なるハリウッド映画なのである。しかし、来たるべきアイオーンをこの「現在のどこか」に見いだそうとしたとたん、その思想と行動はキリスト教のいっさいの権威とぶつからざるをえず、また自身の思想の起源を問われることになるという、やはり恐ろしい幻想である。
 日本にはこのような強烈な終末論はない。浄土教における末法思想には悪との対決はなく、受難の思想もない。日蓮とその後継者には受難思想が顕著であるけれど、では日蓮宗が終末論をもっているかというと、そこは疑問である。また日本にもフスやミュンツアーの農民革命思想に近いものはあるが、それが過激な宗教運動やユートピア思想に結びついたのは、昭和の橘孝三郎らの農本革命主義にわずかに見られる程度で、やはり定着していない。
 ぼく自身は、黙示録的終末論と千年王国運動との深くて多岐にわたる捩れのような関係をまだ理解しているとはいいがたいのだが、最近は、このような動向を日本人が理解するための媒介項が少しだけ見えてきた。いつか、そのことについても述べてみたい。
 ところで、そもそも黙示文書とは、ユダヤの民に向けて書かれた国粋的民族主義の賜物だったといえる。それゆえ黙示録的文書の多くは下層民衆が貪り読むことになった。いったい今日の「ユダヤ人問題」は黙示録問題をどう扱おうとしているのだろうか。

参考¶バルマン『歴史と終末論』(諏訪並現代叢書)、大木英夫『終末論』(紀伊国屋書店)、上田閑照編『ドイツ神秘主義』(創文社)、倉塚平『異端と殉教』(筑摩書房)、木塚隆志『トマス・ミュンツァーと黙示録的終末観』(未来社)、倉塚平編『宗教改革急進派』(ヨルダン社)など。

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