ジャンバッティスタ・ヴィーコ
新しい学
中央公論社 1979
ISBN:4124006438
Giambattista Vico
Principj di Scienza Nuova 1731
[訳]清水純一・米山喜晟

 インヴェスティガンティ(investiganti)という言葉がある。探求者という意味だ。
 17世紀半ば、このインヴェスティガンティとして新しい科学や学問をめざす動きが各地に生まれた。デカルトやガッサンディやライプニッツがそういう一人だった。ナポリにもそういう動きが入りこみ、小さなインヴェスティガンティ学会のようなものができていた。
 ジャンバッティスタ・ヴィーコはこの動きの最後の舞台に登場してきた思索者もしくは構想者もしくは教育者である。それまでの動きを覆すような、インヴェスティガンティをめざしたヴィーコのその両手には、「クリティカ」と「トピカ」という二つの方法の剣が握られていた。

 そのころナポリ王国には40軒の本屋があったという。ヴィーコはその本屋の一軒に生まれた。すでに王立ナポリ大学は創立されていて、1699年、ヴィーコは31歳でやっと大学に職を得て、修辞学の教授になる。
 ここまで就職に時間がかかったのは、ヴィーコが早熟すぎて学校になじめず、長きにわたって自学自習に専念していたからである。そうでもあろう! そうでなくてはヴィーゴは生まれまい。18歳からはドメニカ・ロッカ侯爵にひどく気にいられ、子息の家庭教師としてチレント半島のヴァトッラの居城に過ごしていたせいもあった。これもよくわかる。こうでなくてはヴィーゴではなかったのである。こうして、その9年間こそがヴィーコにインヴェスティガンティとしてのさまざまな構想をもたらした。
 これらのことは、その後にヴィーコ自身が書いた風変わりな『自叙伝』にとくとくと語られている。花田圭介がいみじくも“オイディプス型の自伝”と名付けた自叙伝だ。いまは西本晃二の名訳で、みすず書房版に読める。

 ナポリは、以前はカルロス2世のスペインの支配下にあったのだが、カルロス2世没後の王位継承にからみ、前の年から新たに皇帝カールに率いられたハプスブルグ家に占められていた。
 これでは大学としても皇帝カールに捧げる何かをしなければならないという姿勢を示す必要がある。当時の新学年度の開講は10月18日。その講演がヴィーコに託された。やっとめぐってきたチャンスに、ヴィーコが選んだ講演テーマは「学問方法において、私たちのものと古代人のものは、どちらがより正しく、より良いものであるか」というものである。
 このテーマはヴィーコの独創ではなく、そのころ芽生えつつあった「古代人・近代人優劣論争」を踏襲している。すでにピエール・ベールやシャルル・ペローがこの論争に17世紀の後半から乗り出していた。しかしヴィーコは古代人と近代人(近代人とはここでは18世紀人をさす)のどちらかに軍配をあげようというのではなく、古代から近代を貫くべき精神の歴史を構想し、あることを二つ提示したいと決意していた。
 そのあることというのが、デカルトを批判することと、自分なりに学問の進歩の歴史を総編集し、そこから新たな「方法」を編み出したいということだった。

 こうしてヴィーコは前人未踏の「学の確立」に向かって踏み切った。踏み切り点はまさに1708年の開講日の講演である。この講演の内容はいまは『学問の方法』として岩波文庫で読める。原題は「芸文を学ぶ青年に向けて、われらの時代の学問方法について」となっている。
 このなかでヴィーコはすでにデカルトの方法との対決姿勢を切り出している。デカルトの『方法序説』は「理性を正しく導き、諸科学において真理を求めるための方法」を提起した。この方法はただちにポール・ロワイヤルに機関的に継承されたもので(ここにアントワーヌ・アルノーらのデカルト派がこぞって集っていた)、真理と虚偽を最初から分けて学問に望む方法だった。ヴィーコはこれに反抗し、むしろ真理は共通感覚(センスス・コンムーニス)から出所するべきものだと考えた。
 自然や世界には先験的に真理なるものなどはなく、「真理は作られたものに等しいはずだ」というのがヴィーコの考え方だったのである。ヴィーコはまた、デカルト的でライプニッツ的な代数解析的方法にも疑問をもち、あえて幾何学的な方法によって青年を教育すべきだとも考えた。
 これはありていにいえば、デカルトの方法は「普遍の学」(マテーシス・ウニヴェルサリス)に名を借りたフィクションにすぎないとみなしたということなのである。ヴィーコはフランシス・ベーコンのような“学問における森の森”のような構想を実現したかったのだ。学問における森の森、それはまさに「バロックの知」の総合起爆を暗示した。

 ヴィーコの『新しい学』には「諸国民に共通の自然本性」という副題がついている。これだけでもヴィーコが何を狙いたかったかは漠然とわかる。ぼくもこの副題があることをずいぶん前に知って、ドキドキしながら、なんとかこれが日本語で読めるようにならないものかと思っていた。
 日本で『新しい学』が読めるようになったのは中央公論社の「世界の名著」がこれを採り上げたからだった。清水幾太郎が解説をしていた。
 まわりくどい清水の解説をとばすようにして読んだぼくは、まずは巻頭に掲げられた口絵に目を奪われた。1744年版に印刷されたこの口絵は、ヴィーコ自身も「著作の理念」のなかで詳細に言及しているもので、こんな図柄になっている。
 中央に祭壇があって、卜杖と水壷と燃える火が飾られている。祭壇の上の右側の端にあぶなっかしく天球儀に乗った女神がいる。天球儀では獅子座と乙女座だけの絵柄が目立つ。獅子座はヘラクレスを暗示し、「新しい学」がヘラクレスのごとく古い学を焼き払うことを象徴する。

『新しい学』1744年版の口絵

『新しい学』1744年版の口絵

 女神は天空に輝く三角形の中の瞳からの視線の光を浴びている。ヴィーコはこの天球儀は自然を、女神は形而上学を、視線の光は摂理あらわすと言っている。視線の光は女神の胸に飾られている凸面宝石で反射し、地上の台座に立つホメロスの彫像に射しこむ。その台座はひび割れていて、ヴィーコによると、それがホメロスの再発見を意味するという。ホメロスは言葉以前の世界を初めて言葉にした術を知っていた者の名の象徴なのである。
 祭壇のもとには象形文字が並んでいて、これは文明世界のさまざまな素材をあらわしていた。背後には森があって、その前に骨壷がある。これは土地が分割所有されてきたという歴史のアレゴリーになっていて、そこに一本の鋤がのびているのは、氏族というものが家父長制に仕切られてきたことを意味するらしい。また祭壇の右側に船の舵がある。これは民衆の移動が航海術の恩恵をうけることを示す。
 では、この舵と鋤とが隔っているのはいったい何を意味するのかというと‥‥というふうに、この銅版画はおびただしい「知の情報」を提供しているわけなのだ。それゆえ「著作の理念」と銅版画を見比べながら読むと、そのいちいちがヴィーコの「新しい学」の複合的なアレゴリーの集大成だったのである。清水幾太郎はどうしてこんな重大な絵図に一言もふれなかったのだろう。

銘仙のきもの

『新しい学』1744年版の扉頁

 ぼくはそうとうに興奮してしまっていた。銅版画の解読に刺激され、最初のうちは、『新しい学』を読みながら次々に白紙の上にダイヤグラムのようなスケッチを描いていたのだが、これはしだいに混乱した。
 次に、大学ノートの表紙に“Scienza Nuova”と万年筆で書いて、メモをとりはじめた。これはたちまちノートの半分以上を占めたのだけれど、そのあたりで、これ以上のノートをとるにはデカルトやベーコンのノートも作らないかぎり、どうも役に立たないと思いはじめ、また途中放棄した。
 ところが、このあたりで突然にキケロの「トピカ」がここに再生されていることを知るようになって、愕然とした。
 ヴィーコは、知識というものは、事物が作られていく過程と様式についての認識そのもののことであって、それゆえそういう認識をもつためには当の事物を作った当事者と同様の作業をなんらかの方法で再生できないかぎり、とうてい獲得できないはずだと言っていたのだった。また、それを伝達していくことが知の歴史というものであって、それこそが教育だと言っているのだった。トピカとはその方法そのものだった。
 こうしてぼくはトピカという方法を、アリストテレス、キケロ、アグリコラ、ルルスというふうに時代を辿って追うことになり、しばらくヴィーコを離れてしまったのだった。

 それにしても、こうして見えてきた「トピカ」は驚くほどに、ぼくの“好み”に合うものだった。
 どんな事物や現象についての知識も、それをトポス(分母の場)から切り離さずに、しかもそれを「あとから発見しやすいように知を組み立てておくという方法」が、まさに編集思想の根幹にかかわるものと見えたからである。
 このトピカの方法論を携えて、さて、ふたたびヴィーコに戻ってみると、なるほどヴィーコがデカルトの「クリティカ先行主義」を批判した意味がやっとわかってきた。ヴィーコはデカルトの方法では、そもそもどのように文明が「知」を発見したかということが見えてこないことに気がついたのだ。

 ヴィーコの「新しい学」は、文明の知をその発生時のトポスとともに継承し、その継承のために駆使するトピカの方法を、そのまま新たな科学や学問とドッキングさせて、さらに新しい文明を用意しようというものだったのである。
 これはまことに壮大な試みである。なぜなら、ここには原則的には“永遠の発生の連打”とでもいうべき「知の再生装置」が用意されることになるからだ。しかし、そんなことがありうるのだろうか。これは大きすぎる構想ではあるまいか。もし、この試みに問題があるとしたら、ひとつはそのような「知の永久機関」のようなことを考えてもいいのかということ、もうひとつは、これだけの計画をトピカとクリティカの組み合わせだけで支えきれるのかということである。
 けれども、またしかし、こうした惧れをさておきさえすれば、ぼくはヴィーコの方法こそが、ぼくがこれから立ち向かう編集的世界観の模索のためには最も有効なものであると思えた。1978年あたりのぼくの判断である。すでに「存在と精神の系譜」を書きおえて(これがのちの『遊学』になる)、『遊』を第Ⅱ期にして、対角線の科学のような編集方針を展開しようとしていた時期だった。

 その後、実のところはヴィーコを詳しく検討していないままにある。ということは、ぼくが「知の永久機関」のような計画に結局は疑問をもったということになるのだが、けれども、その一方で、ヴィーコがどんな「知」も「変化」しつづけていて、その「変化」を感知するには詩的言語やアレゴリーやメタファーによってしか、その間隙を埋めえないと考えていたことについては、なるほどその通りだと思っていた。その点では、いまだぼくは徹底的なヴィーコ主義者でありつづけたのである。
 その後、日本におけるヴィーコ・ブームが渡来する。だいたいの議論は読んでみたが、読めば読むほど核心点が遠のいていくような感想をもった。
 このようなぼくを、それでもちょっとだけ安心させてくれる事実が、少なくとも二つあった。そのことを最後に示しておきたい。
 ひとつは、ヴィーコは正真正銘のバロックだったということだ。これについては、いつかまたぼくのバロック論として説明したい。ともかくバロックとしてのヴィーコを解くこと、このことを思うとまことに気持ちが落ち着いてきて、かつ胸騒ぎがするのである。そして、もうひとつは、かのジュール・ミシュレ(第78夜参照)が、生涯の終わりにこう言っていたことである。
 それはこういうものだった、「私の唯一の先生は、そうです、ジャンバッティスタ・ヴィーコただ一人であったのです」。

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