車谷長吉
鹽壷の匙
新潮社 1993
ISBN:4101385114

 車谷は『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞をとったあと、「文学界」で白洲正子と“おめでとう対談”をしている。白洲が「私、十何年も前に見っけたんだからね」と例の気っ風のよい口調で話しだすと、車谷が「白洲先生からいただいたその手紙をここに持ってまいりました」と、『吃りの父が歌った軍歌』に寄せた白洲の手紙を紹介しようとする。車谷が料理場の下働きをやめてセゾンに勤めていたころの作品である。
 この対談には車谷長吉の“らしさ”がよく引き出されている。たとえば、車谷が「20年間、文章を書いてきてファンレターなるものをいただいたのは一度だけです。それが白洲先生からだから、びっくり仰天です」と言うと、白洲はそれを制して、「冗談じゃないわよ。なにしろあなたの文章じゃ、誰も手紙なんか出せないわよ」と言う。そして車谷の文章は「こわい」と一言で批評する。これは絶賛に近い。
そのあと、車谷が永井龍男の『青梅雨』に感動した話をして、こういう名文を書きたいとおもう、文章がダメな人は文学者としてダメですねと言うと、白洲は「あたりまえじゃないの」。

 車谷はまた、「若いときから西行に憧れて出家したいと思ってたんです」とか、「人が人であることの悲しみみたいなものを書きたい」と言う。これだけで車谷が何を書きたいかはじゅうぶん伝わってくる。
 その一方で、白洲が「あなた、お辞儀ばっかりしているようなときがあるわね」と言うのも、よくわかる。『金輪際』という作品集に『変』という短編が入っているのだが、そこで芥川賞を車谷から奪った保坂和志に別の受賞式で出会い、深々と頭を下げる場面が出てくる。そこで車谷が書く、「併し私の中の保坂氏を忌む感情は少しも薄れなかった。そういう謂れのない人々を忌む感情が、絶えず血みどろに私を切り裂いていた」と。
 この対談でも「ぼくは執念深い」と言っている。車谷はぼくより一つ年下で、慶応のドイツ文学を出て広告代理店に入り(学生時代に嘉村磯多の『業苦』その他を耽読したようだ)、すでに小説を書き始めるのだが、いったん関西で下足番や料理番(京都「柿傳」)をして、ここに採り上げた『鹽壷の匙』で芸術選奨の新人賞と三島由紀夫賞をとって脚光を浴びた。広告代理店に勤めた作家で執念深くない作家なんて、いない。それが丁寧なお辞儀にあらわれるのであろう。
 ところでこの対談は、車谷が「白洲先生は鬼になって書いていらっしゃる」と言うと、白洲が「私は般若です」と言い切ってそこでぷつんと終わっているのだが、この「般若です」がたまらない。その般若を惚れさせたのだから、車谷も本望だったろう。

 車谷長吉の小説は私小説である。自分でもそう言っているし、批評家たちも口をそろえてそう言ってきた。たしかに白洲正子を驚かせた『吃りの父が歌った軍歌』など、車谷の育った日々のことを、そこに執着して書いている。愚かなことも、恥辱も、たいして自慢にならない自慢も、口を憚るような血縁のことも
 しかしそれだけなら、たいていの作家は私小説作家なのである。車谷が私小説を一変させたと言われるのは、車谷の私小説のための言葉をつくったからだった。それを白洲は「こわい」と一言で特色づけた。それですべてではあるが、ぼくはそれは言葉の「裂き方」ではないかと思ってきた。吉本隆明はそれを「おぞましさ」と言った。車谷自身は「むごさ」とも言っている。
 車谷は『鹽壷の匙』のあとがきで次のような強烈な言い分を書いている。ぼくが解説することなど何もなくなるような言い分、裂き方である。そしてこの言葉づかいが、車谷の私小説の糠味噌か骨髄のようなものなのだ。

 詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併しにも拘らず書きつづけて来たのは、書くことが私には一つの救いであったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。
 この二十数年の間に世の中に行われる言説は大いに変容を遂げ、その過程において私小説は毒虫のごとく忌まれ、さげすみを受けて来た。そのような言説をなす人にはそれなりの思い上がった理屈があるのであるが、私はそのような言説に触れるたびに、ざまァ見やがれ、と思って来た。

 吉本は車谷の作品解説で、吉本らしい場面を思い出していた。日本テレビの朝に「ルックルックこんにちは」という岸部シローの司会の番組があったのだが(ぼくも2、3度、見たことがある)、その水曜日に素人が歌を披露するコーナーがあることを思い出したというのだ(吉本はこれを欠かさず見ていたという)。
 彼女らが持ち歌を唄う前に、彼女らの閲歴が長々と読み上げられる。その閲歴たるや必ず「不幸な身の上話」になっているというのである。そしてそれが車谷の私小説の「おぞましさ」と一脈通じるものがあるという。なるほどうまい場面とつながったものだ。たしかに車谷の私小説はそういうところがある。が、それでいて、ぼくには一休の『狂雲集』や、一休が好んで書いた「諸悪莫作」も思い出される。「諸悪莫作」といいながら一休は「悪」をたのしんでいたのだが、そういう二重性だ。

 現代思想やインテリが大嫌いな車谷にわざわざぶつけるようであるけれど、ジュリア・クリステヴァに「アブジェクシオン」の提案がある。
 おぞましいのに魅惑も感じてしまうもの、それがアブジェクシオンで、かつてメアリー・ダグラスが、体制は「けがれ」の隔離でしか自分を維持していないと指摘したのに対して、その「けがれ」は実は民衆のほうは巧みにとりこんでいて、二重化されたアブジェクシオンにしているのではないかと捉え返したものだった。べつだん新しい見方でもなんでもなく、そんなことは古代ローマ帝国でも羅生門が荒れ、袴垂れが出没した平安中期にも、それこそ第844夜に書いた『第三の男』の廃墟のウィーンにもおこっていたことであるが、それを自分の生い立ちとその周辺で観察したすべてのことに連続的に発見できるというのが車谷長吉で、こうなると、やはりただならないアブジェクシオンの私小説への流れこみを感じる。

 ぼくは母からしばしば、「それは人のものでしょう」と諌められたことがある。学校でも「人を大事にしましょう」と言われた。この「人」は誰のことなのか、よくわからない。他人なのか、自分を含む他人なのか、他人を含む自分なのか、それとも人類なのか、人間というものか、あるいは特定の人なのか、何か人に属するものなのか。
 ぼくが最初に車谷を読んだのは、本書『鹽壷の匙』である。たちまち、この「人のもの」を感じた。この「もの」は霊であって物であり、モノ・カタリのモノである。車谷がぐいぐいとその「人のもの」や「人のこと」に入りこんでいく言葉づかいに快感をさえおぼえた。これが「裂き方」だ。
 読みながらふと、折口信夫がかつてはこの「人」こそがマレビトのことだと書いていたことを思い出していた。折口は古代においてはこの「人恋しさ」と「人恐さ」が中心に動いていたという。けれどもマレビトになる「人」は特別のものである。それは客神という神だった。
 ところが、そう言ってよいなら車谷のマレビトは誰もがマレビトで、どれもがマレモノである。どこにも「妣が国」がぽっかり口をあけている。『鹽壷の匙』の冒頭は、唐突に「今年の夏は、私は七年ぶりに狂人の父に逢いに行った。」と始まる。これでわれわれは車谷が仕掛けたマレビトの前にあからさまに立たされる。しかも語り手の「私」はそう言っておいて、そのまま「宏ちゃん」という叔父の話ばかりに熱中する。そのうち曾祖父の勇吉の話になって、われわれは一族の記憶につきあわされるのだが、そのあいだ「狂人の父」はわれわれの呪文から抜けはしない。むしろその一言で、すべての描写が狂おしく読めてくる。
 これがマレビト効果でなくて何なのかとおもう。

 ま、詮索はそのくらいにしておこう。『鹽壷の匙』から10年、車谷の文章はだんだん澄んできた。『白痴群』のとき、そう感じた。「おぞましさ」ではなく「つましさ」を感じた。「つつましさ」ではない。「つましさ」である。裂き方につきあわせていうと、これは結び方というものだろう。
 わが家では、いつもひそかな作家の流行がある。車谷長吉の流行は10年ほど前に始まって、まだ続いている。よけいなことかもしれないが、花村萬月の流行は短かった。笙野頼子の流行は小説からネコの随筆に変わってきた。高村薫や宮部みゆきは断続的だ。広告代理店派の京極夏彦は流行しなかった。車谷の流行は随筆にも続いている。読者がいちばん平凡で、いちばん残酷で、いちばん自由なのである。

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