才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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国破レテ

村上兵衛

サイマル出版会 1983・1996

 なぜ本書を採り上げたのかというと、ひとつは58年前の今日が「エノラ・ゲイ」号が広島に原爆投下をした日であるからだが、もうひとつは、本書の著者とぼくとのあいだにごく僅かなかかわりがあったからだ。それについてはあとで書く。

 著者は広島陸軍幼年学校と陸軍士官学校を出て、近衛歩兵第6連隊の旗手をつとめ、陸士区隊長のときに長野県で敗戦を体験した。東大でドイツ文学を学んだのち、『戦中派はこう考える』で論壇に乗り入れた。長らくこの戦争に憤懣やるかたないものを抱えていたようで、その後も本書のほかに、『国家なき日本』『歴史を忘れた日本人』『日本への疑問』などを世に問うた。
 著者の疑問は、現代日本は「自立した国」なのか、「独立した国家」なのかということである。本書も「失われた昭和史」という副題で、ノンフィクション・ドキュメントという体裁をとっているものの、著者の強い意思によって、もし当時の日本人がおよその事情を知っていたら、どのように「日本の敗北の歴史」を語るだろうかという“史的感情”によって綴られている。
 昭和史としても太平洋戦争史としてもとくに目新しいものではないが、ときにはこうした感情や心情が染まっているものも読みたいと思って、15年ほど前に読んだ。
 そこでここでは、パリ講和会議と満州事変に始まる第1章から第8章までをとばして、第9章「東条内閣の崩壊――忍びよる敗戦の影」から第11章「敗北の日――嵐は止まず」までを、本書の順にしたがって超高速カメラでまわしてみることにする。国ガ破レルとはどういうことだったのかという報告だ。いくつかの別資料で多少のことは補充したが、いちいちそれを記さない。

 1943年(昭和18)2月、日本軍1万人がガダルカナル島から撤退を開始した。陸軍省は「撃ちてし止まん」の標語をポスターにしたが、ふりかえれば、これが太平洋戦争全体の「敗北へのターニングポイント」だった。
 5月、朝日新聞の「玉砕」の言葉とともに、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死のニュースが駆けめぐった。アッツ島の壊滅は大本営が初めて即日に伝えた最初のニュースとなった。山崎保代部隊長の「他に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さんことを惧(おそ)る。われらは英魂とともに突撃せん」という最後の言葉も、ラジオが伝えた。「玉砕」の現代史のスタートだった。
 日本兵が最後まで戦ったのは、日本の武人の伝統ではない。昔の武士は投降を必ずしも恥辱とは思わなかった。それが「生きて虜囚の辱めを受けず」というふうになったのは、おそらく昭和国家主義の時代になってからである。そこには捕虜は帰れないという間違った伝達も縛りになっていた。
 したがって、日本兵は必ずしも天皇のために戦ったのではなく、この「見えない掟」のために戦っていたことのほうが多かった。しかしアッツ島守備隊全滅の前後からは、日本はまさに国を挙げての玉砕戦法に突入していくことになる。

 すでに艦船と航空機が極端に足りなくなっていた。開戦時の日本の船舶量は630万トンで、そのうち陸海軍が390万トンを借り上げて、作戦に使用した。これではそもそも国内産業の維持のための船舶に300万トンが不足していた。
 もし戦況が小康状態に入れば、一部の船舶を解傭してこれらを平時利用にまわせたが、ミッドウェーとガダルカナルの海戦の予期せぬ敗退で、これもかなわず、やっと南方で確保した石油その他の資源を内地に輸送することも不可能になってきた。
 加えて、日本は空母を計画しなかった。空母なき海戦などありえなかったのだが、大型空母は7対26、小型空母は8対76の大差のまま戦った。日露戦争時の自信過剰とアメリカの海戦能力の過小評価が重なったためである。

 開戦時の船舶生産に決定的なマスタープランのミスがあったように、航空機の製造プランはもっとひどかった。この年の日本の航空機製造は2万機未満だが、アメリカは8万機を越えていた。
 ゼロ戦(零式艦上戦闘機)をはじめ日本の戦闘機は、軽量性・航続距離・旋回能力などで世界水準をはるかに突破していたにもかかわらず(だから米軍はゼロ戦とはドグファイト=1対1空中戦を避けていた)、その後を続行連打する技術革新体制をテコ入れできず、アメリカにこれらを凌駕するグラマンF6F(ヘルキャット)などを作らせるアヘッドを与えてしまった。
 それに日本軍はパイロットの操縦訓練を徹底しなかった。マニュアルもろくなものがなかった。とりわけ燃料タンクに防弾処理がなかったことは、“ワンショット・ライター”と揶揄されたように、いったん火が付けば一挙に炎上墜落する弱点をもっていた。
 日本の戦闘機は、ある意味では“特攻”を宿命づけられていたともいえる。

 この年、日本は8月にビルマを、11月にはフィリピンを“独立”させた。国際社会に対して日本がアジアの自立を促している姿勢を示す必要があったのと、南方作戦のためである。
 しかし、大東亜共栄圏の構想と理念はフィリピンにはまったく通用しなかった。これは太平洋上だけをアメリカとの戦場としたかった日本にとって、大きな誤算になる。誤算は転じて愚民政策にもなる。“パペット・マネー”とよばれた日本の軍票の乱発や農業軽視もフィリピン人を味方につけることを妨げただけでなく、かえって抗日意識を高揚させた。
 こんなことになった原因はいくつもあるが、「陸大閥」(陸軍大学校出身者の人脈)が日本の軍隊をずっと引きずっていて、新しい才能を現地に導入できず、一言でいうなら「歴史の連続性」を無視した管理能力の限界が露呈したということが、おそらくは主要な原因であろう。
 軍隊人事だけではない。政局人事もひっきりなしの交代・更迭・解任にあけくれた。その裏には陸軍と海軍の長きにわたる犬猿の対立が脈打っている。

 こうして杉山参謀総長と永野軍令部長が突如として解任されて、東条英機が首相・陸相・参謀総長を兼任、嶋田繁太郎海相が軍令部長を兼任するという異常な人事に至る。ここに、日本の命運は大政翼賛会に牛耳られた一握りの男たちによる意地と決断と迷妄で統括されることになったのである。憤然とした中野正剛は東条を痛烈に批判したが留置され、翌日、自決した。学徒動員がかかり、日光杉が拠出され、誰もが絶体絶命を感じはじめていた。
 11月、連合国側はルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロ会談を、続いてスターリンを加えたテヘラン会談をおこなって、日本の無条件降伏まで戦争を継続することを密約した。すでにイタリアのバドリオ政権は無条件降伏を申し入れていた。

 1944年(昭和19)はぼくが生まれた年であるが、日本は敗北の連続である。2月にクェゼリン島玉砕、3月にインド進攻、続いてインパール作戦に転じたものの、まったく戦局は改善しない。
 その後、ヨーロッパ戦線で6月6日にノルマンディ上陸作戦の火蓋が切られたことはよく知られていようが、その10日後の6月15日にはアメリカ軍がサイパンに上陸し、翌日にはB29が日本を初空襲(北九州)していたことは、今日の多くの日本人には知られていない。ノルマンディ上陸と九州攻撃は同時だったのである。
 そのころサイパン島には、2万の守備部隊と4千人の農民と2万人の日本人がいた。が、7月8日夜陰の総反撃をもって全滅した。これで本土防衛線が破られた。これを当時は「絶対国防線」と言っていた。ついに東条は辞職を余儀なくされ、小磯国昭・米内光政の連合内閣が後を引き受けるのだが、この人事は重臣たちのたらい回しのようなものだった。8月にはグァム島は玉砕し、その一方でパリは解放された。
 政府にはもはや日本を守ろうとする者がほとんどいなくなっていた。国家は戦火の只中で宙に浮いたのだ。全国の運動場や空き地では竹槍訓練が始まっていた。

 10月20日、マッカーサー率いるアメリカ軍は暴風雨を衝いてフィリピンのレイテ島に上陸した。
 これは日本軍の完全な読みちがいになった。フィリピン防衛の最高指揮官の“マレーの虎”こと山下奉文と、かつて満州事変に暗躍した山下補佐役の武藤章中将は、ルソン島で迎撃するつもりだったのだ。しかし暗号はすでに解読され、軍部に誤報も飛び交って、日本軍は絶望的な混乱に見舞われることになる。
 唯一の突破口は、連合艦隊のうちの小沢艦隊が囮となって敵艦隊を北に吊り上げ、そのさなかに栗田健男提督の主力艦隊がボルネオを発してレイテ北側の海峡を抜け切るという作戦だった。乾坤一擲の勝負手である。
 一方このとき、マニラ郊外のクラークフィールド基地で、新たに着任した海軍航空部隊の司令官大西滝治郎中将が、5人の士官に向かって、ある重大な決意を表明していた。
 栗田艦隊の抜け切りを成功させるには、敵の空母を撃沈できずとも、少なくとも1週間は敵の甲板を使用不能に陥れる必要があり、それにはゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して、体当たりで空母に突撃するしかないのではないかという極秘作戦だった。
 大西中将は東京を発つ前に、この作戦の概要を米内光政海相に相談し、「話はわかったが、そんな命令を出すわけにはいかない。それでも隊員の自発的な意思があるのならやむをえないが‥」という答えを得ていた。大西からこの作戦を打ち明けられた第201航空隊の玉井浅一副長は、幹部一同に諮ったうえで、この決断に乗る覚悟を決めた。
 玉井は手塩にかけた飛行練習生23人を集め、暗いランプの部屋で計画を明かした。全員が即座に納得したという。指揮官には迷ったすえに海軍兵学校出身の関行男大尉を選んだ。関は数カ月前に結婚したばかりだったが、しばらく考えこみ、断行を引き受けた。これが最初の「神風特攻隊」24人の出撃になる。

 栗田艦隊はひどい状態で太平洋に向かっていた。「武蔵」は一度も砲門を開くことなく撃沈し、囮の小沢艦隊はハルゼー麾下の大艦隊を北に引きつけてはいたものの、巨艦「大和」は絶妙な立ち回りを展開できないままにいた。
 そこへ神風機3機がアメリカの護衛空母二艦の甲板を破り、さらに5機が空母に体当たりして炎上沈没させた。たった数時間の特攻による攻撃ではあったけれど、日本の連合艦隊のすべての威力をはるかに上回る戦果であった。ところがこのとき、肝腎の栗田艦隊がレイテ沖で攻撃に入る前に進路を変えてしまったのである。レイテは見捨てられたのだ。いまなお謎とされている“栗田艦隊の謎の反転”である。大岡昇平の『レイテ戦記』は、その戦闘がなんとも苛酷で、なんともリアルで、なんとも寒々しいものであったかという日々を綴っている。
 サイパン島を発したB29が日本本土襲撃を始めたのは、それからまもなくのことである。11月24日には帝都東京が初の空襲に見舞われた。

 1945年(昭和20)1月にアメリカ軍はルソン島に上陸、2月にはルーズベルト、チャーチル、スターリンのヤルタ会談がもたれ、日本の占領政策が検討された。ソ連は北日本をほしがった。しかしアメリカはまず完膚なきまでに日本を叩きのめすことを主張した。
 かくて3月10日、B29爆撃機「サウザン・ペレ」以下の300機が圧倒的なパワーで東京を襲い、36万発の焼夷弾M69を雨霰のように降らせた。いわゆる東京大空襲である。
 標的が広域にわたったのは、日本の精密機械は家内工場型だから住宅の中でも兵器が製造されているという“判定”によっていた。隅田川にまたがる下町の工場は、住宅まるごと炎上していった。ぼくは過日、E・バートレット・カーの『戦略・東京大空爆』(光人社)を読んで、どんな戦記物よりも恐怖を味わったものである。
 13日には大阪が無差別絨毯爆撃にさらされ、17日には神戸が戦火で炎上した。その同じ17日、硫黄島では2万人が玉砕した。4月には沖縄総攻撃が始まって、ここでは空からナパーム弾が降ってきて住民を焼き払っていった。
 戦艦「大和」がここで再出動するのだが、「大和」はついに咆哮することなく、ミッチャー提督の放った400機の空襲と20発の魚雷を腹に受け、6万9000トンの巨体を沈没させた。有賀幸作艦長は羅針盤に体を縛り付け、ピストルを口に入れながら目をつぶり、波をかぶっていった。
 5月28日が首里陥落である。すでに沖縄で5万人の犠牲が出ていたが、最後の3週間だけでさらに6万人が死亡した。日本全体が引き際を忘れた瀕死の帝国になっていた。すでにドイツは無条件降伏し、ベルリンはソ連軍の戦車によって陥落し、ヒトラーは自殺していた。日本だけが全世界のなかで、孤立無援の悪鬼に見えていただろう。

 小磯内閣は国家の指導に自信を失い、わずか8カ月で解体、敗戦内閣は79歳の鈴木貫太郎にバトンタッチされた。内大臣木戸幸一の根回しによる推薦である。
 鈴木はこの時点で、戦争が2、3年は続くと思っていたらしい。陸軍が本土決戦をぶち上げていたからであるが、この状況判断には外相となった東郷茂徳がさすがに呆れて詰め寄った。東郷が「この内閣は戦争終局をめざすものだ」と言うと、鈴木は「あなたの方針でも結構です」と言ったという。
 東郷はアメリカとすぐに和平交渉に入ろうとしたが、これには軍部が強硬に反対をした。やむなく日ソ中立条約が翌年3月まで期限をもっていたソ連を仲介者に頼むことにするのだが、ソ連は回答を保留する。東郷は近衛文麿を特派大使に立ててスターリンとの直接交渉に入ろうとするものの、どうにも進まない。実はスターリンはヤルタ会談で参戦を確約する条件として、樺太千島の領有と満州における鉄道敷設権などを取引条件としていたのである。
 それでも和平の方策がないわけではなかった。スウェーデン国王がイギリス政府に和平をはたらきかけてもよいという動きをしていたし(小野寺工作)、スイス駐在海軍武官藤村義朗による対米工作の動きも秘密裏に動いていた。が、いずれも稔らない。そこへ6月8日の御前会議で本土決戦方針が通った。
 慌てた木戸は重鎮のあいだをまわり、戦争継続の火を鎮めようとし、22日の御前会議で異例の天皇の言葉を引き出した(御前会議では天皇は言葉を発しないのが原則になっている)。けれどもアメリカでは、スティムソン委員会が日本への原爆投下を大統領に勧告する決議を全会一致で可決していた。

 7月17日、ポツダムでチャーチル、スターリン、およびルーズベルトの死で大統領になったばかりのトルーマンが会談をした。
 トルーマンは3つのカードを掌中にもっていた。1枚はソ連を参戦させるカード、2枚目はニューメキシコ州で前日に原子爆弾の実験をするというカード、3枚目はグルー国務長官代理からの日本の無条件降伏に関する提案で、そのカードには「無条件降伏とは天皇制の終わりを意味しない」と書いてあった。
 5日後、原爆実験が完全に成功したというニュースがポツダムに届いた。トルーマンは色めき立って、これで万事がすむはずだと確信をする。チャーチルに打ち明けると、チャーチルも原爆使用の効果を認めた。これならソ連の参戦も必要がない。こうして7月26日にポツダム宣言が発表された。
 東郷はただちにこれを受諾すべきだと考えたが、軍部はまだ反対をした。困った鈴木首相は新聞にポツダム宣言全文をそのまま掲載して、それにコメントを付けないようにすれば、日本政府が宣言に留意したと受け取られるだろうと判断して、28日の新聞に公開させた。ところが各紙ともに一面に「三国の共同謀略」「笑止!対日降伏条件」といった勇ましい見出しを躍らせた。
 狼狽した鈴木は即刻記者会見を開き、政府はどんなコメントも出していないと弁明したのだが、「ノーコメント」(黙殺)とは受け取られずに、「イグノア」(無視)と受け取られ、これが7月30日のニューヨークタイムズに「日本、連合国の降服最後通告を拒否」というふうに報道された。それでも日本ではまだソ連が最後の仲介に出るという期待をもっていたのだが‥‥。

 事態は最悪の結果に突進していった。8月6日8時15分、「エノラ・ゲイ」がパラシュートで落とした原子爆弾が広島の地上600メートルで爆破した。20万人が即死、もしくは数日後に苦しみ悶えて黒焦げになって死んでいった。
 近代国家が生まれてのちの前代未聞の都市殲滅である。鈴木清順と杉浦康平は、いまなおこの一事をもって絶対にアメリカを許さない。アメリカに行こうともしない。
 陸軍の指令で広島上空にさしかかった仁科芳雄は、「これは原子爆弾にちがいない」と知った。この知らせをうけた鈴木は、戦争終結のための最高戦争指導会議を開くことをようやく迫水久常に命じ、モスクワの佐藤尚武大使はこのころやっとモロトフ外相との会談をとりつけた。しかしモロトフは「ソ連は明日にも参戦する」とにべなく答えただけだった。
 8日、ソ連は参戦を表明して、怒涛のように満州への進撃を開始した。政府はこれが最後になるはずの最高戦争指導会議を開くのだが、ここにきてまだ意見がまとまらない。そこへ長崎にも原爆が投下されたという打電が入ってきた。死者7万人である。
 驚くべきことにポツダム宣言の発表からその受諾までの20日間、日本人のすべてがまったく何の決断もできず、何の行動もおこせなかったのだ。
 太平洋戦争全過程1347日間に、軍民あわせて約303万人が死者となったのだが、この最後の20日でそのうち38万人が死んでしまったのである。では、その20日間に何がおこっていたのかといえば、「国体護持」(天皇制維持)の懸念だけが、政府重臣のあいだを駆けめぐっていた

 本書はこのあと第12章「米軍進駐」、第13章「回復のとき」と続いていくが、このへんにしておく。なんだか戦火を追うだけになってしまったが、このことをめぐる問題については、また別の「千夜千冊」で書いてみたい。
 ところで、本書の著者の村上兵衛であるが、ぼくはこの人に生まれてはじめてのインタビューを受けたのである。九段高校で「九段新聞」を編集していたときで、おそらくは学校側に新聞社からの依頼があってぼくが選ばれたのだろうとおもうのだが、高校生代表が何人かどこかの試写室へ連れられ、そこで緊張して映画を観たあとに、別室で村上さんのインタビューをうけたのだった。
 映画はなんと、ナチスの戦争ぶりとその結末を描いたドキュメンタリーフィルム『十三階段への道』だった。いまでもその映像は目に残っている。ぼくは村上さんに訊かれるままにその感想を喋っていた。「戦争は敵と味方がいるわけですが、どちらの側も死の理由を別々にもつゲームなんですね」というような生意気なことを言った。感想はたしかサンケイ新聞に掲載されのだとおもう。
 いまうっすら憶えていることは、優しい表情の村上さんが、高校生の言葉に耳を傾けているときに、ときに真剣な顔付きになっていたということである。村上さんと会ったのは、このときだけのことだった。